第7章は、恋愛肯定論者のスタンダールと、恋愛悲観論者のプルースト、そしてフロイト、っていうあたりで、鈴木先生の専門にいちばん近いところで、これも勉強になりました。特にさすがにプルースト(名前は有名だけど実際には誰も読んでないと思う、っていうか私は読んでない、のでみんなこれ読んで勉強しよう!)のところはおもしろい。
でもこれもちょっとわかりにくいところがあって、まずスタンダール先生の有名な『恋愛論』。これは恋愛の分類と、「結晶作用」ってのですごく有名だけど構成とかまったくわけわからん奇書ですよね。それは先生も指摘している。先生はスタンダールの指摘する「結晶作用」、つまり惚れてしまえばあばたもえくぼ、恋は盲目、好きになったらもうなんでもよく見えちゃう、っていう話を、いかにもロマン主義的に恋愛を肯定しているって主張するんですが、私の印象ではスタンダール先生はもうちょっと冷静で、人間の恋愛の心理を冷たく分析しているようで、妄想幻想大好きのロマン主義っていうより、のちの写実主義とか自然主義とか、そういう流れにつながるもののように見えてたんですが、どうなんでしょうか。「好きな人がよく見えるのは、枯れ枝に塩粒がついてキラキラしてるようなもんですぜ」みたいなのってまあ悲観的に見えるけどどうなんだろう。結晶作用と、それがなくなったときの幻滅ってのがまあポイントですよこの本では登場しないみたいだけど、フロベール先生先生とかもなんかこういうタイプの冷静な分析してる印象。おフランス文学全体に、こうした人間の心理からちょっと距離をとった描写と批評みたいなのが得意な印象で、そこが魅力っすよね。
プルースト先生のはおもしろいところを引用していて、277頁のところ孫引きしちゃう。
一人の少女は、浜辺や教会の彫刻に現れた編み毛や一枚の版画など、様々なものと魅惑的に交じり合っているので、そうした少女がやってくるたびに、私たちは彼女を一枚の見事な絵のように愛することになるのだが、このような結びつきは必ずしも安定したものではない。もしも女と完全に生活をともにするようになったら、私たちはもう、彼女を愛させるようになったものを何一つ見出すことがないだろう。
これはかっこいい。女性を芸術作品みたいに見てるんですよね。映画だと(ホモセクシュアルだけど)ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』みたいんで、恋愛なんだか性欲なんだか芸術鑑賞なんだかわからない感じ。
鈴木先生のはプルースト先生のこういうのはスタンダールとは違って、「結晶作用などは個人の勝手な幻想であり、恋人の美点は、恋人その人がもってる属性などではない、と考えます。そうした結晶作用とは、個人が勝手に他のところからもってきた憧れを投影しているだけである」(p.277)、ってんだけど、まあそれはスタンダール先生やフロベール先生ももあんまりかわらんのではないだろうか。プルーストがアンチスタンダール、っていうの一般的な理解なんですかね。
まあでもここらへんのプルースト先生の「恋愛とか全部幻想」みたいな発想が鈴木先生のこの本の最大のテーマであり主張であるわけで、それはそれでわかるというか。でもむしろ私からすると、それって昭和や平成を生きてきた我々にはすごくふつうの考え方で、むしろそうじゃないって考えに魅力をもってる鈴木先生はものすごいロマン主義者なんだな、みたいに思ってしまう。
んで、さっきのプルーストの引用を見て気づいたんですが、プルーストのこの芸術作品を見るような恋愛ってのは、これ本当に我々が考えてる「恋愛」なんだろか。だって、サッポーやプラトンやアリストテレスの昔から、「愛する」ということは「愛されたい」という願望と切り離せないわけですわ。そういう相互性がないのは、アリストテレス先生に言わせればフィリア(友愛)でさえなく、単なる「好意」にすぎない。鈴木先生が引用しているプルーストの恋愛からは、例の「合一」への欲求さえ失なわれてる。プルースト先生がかなりかわった人だったろうっていうのはわかるんですが、そういうのを恋愛観の典型としてもってきて大丈夫なんかな。
そして、この「愛されたい」っていう欲求があんまり強調されてないことからもう一つ気づいたことがあり、この本で論じられている文学者たちはみな男性で、そしてみな「愛する」「口説く」ことばっかり話をしていて、(女性たちに特徴的だと言われるかもしれない)「愛されたい」「大事にされたい」みたいな切実な欲求が見えないんですよね。ここらへんどうなんだろうか。まあ男性と女性がどっちがどう、というのではなく、恋愛や性欲というもののが目指す相互性と合一みたいなのがプルーストの引用からは見えないけど、それでいいんですか、という話。
この章のプルースト論の最後の方で、「恋愛感情の裏にはキリスト教的な救済の世界があり、聖母マリアの愛にすがる甘えた態度があり、それは究極的には子どもの母に対する甘えた感情だ」っていう一節があるんですが(p.289)、まあそれが当ってるかどうかは別にして、これってなんかものすごくロマン主義的な男性的なもので、女性はまた別なこと考えるんじゃないだろうか、鈴木先生のゼミの女子学生様たちはこういうの見てどういうことを考えてるだろう、とか考えちゃう。私がこういうことしゃべってたら、私の学生様たちは「この人はおかしいのではないか」とか考えてそう。まあそれは私のしゃべりと人格がおかしいからなので、かっこいい先生がやれば別かもしれない。ははは。
フロイト先生は面倒だからパス。
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