性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)
カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。
他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。
まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題[1]実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。
前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。
これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。
https://youtu.be/nWtxK4yeeZE
んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。
ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。
前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。
この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。
カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。
まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。
どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)
まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。
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References
↑1 | 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。 |
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