まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。
でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない![1] … Continue reading
「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」
理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?
「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」
「こうしたメタファー」が「理解を生む」の?誰が生むの?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?
「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。」
「エロティックなものとして描くことは」「理解を生む」の?主語はいったいなんなの?
こんなのおかしいっしょ。誰のものでもない「理解」とかって抽象名詞つかってるからこういうわけわからん文章になる。「Aさんは〜と理解するようになる」ってふつうの文章で書けばこんなわけわからんこと言う必要がない。こんな文章を「明晰」「わかりやすい」とかって評価している人はいったい何を見てるのですか!
こんなふうになるのは、「理解する」っていうことがどういうことかよく考えないままに、抽象的な「理解」っていう言葉をひとりあるきさせ、それが誰の理解や思考であり、何が誰の思考にどういう影響を与えるかも考えたことがないからじゃないんですか。あるいは、もしこういうのが意識的で意図的なものであるならば、はっきりふつうの言葉で書くと、奇妙なことを主張しているのがはっきりしてしまうから、抽象的で曖昧な書き方しているんではないですか。これでいいんですか。これは小宮先生ではなく、あの文章読んで、なにがしかのコメントができると思ったひとびと全員に聞きたい。
好意的に、好意的に、最善の相で
泣きべそかきながら好意的に読むと、最初の一文は、「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えます。同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、こうした技法は、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いていると私たちに理解させるようになるでしょう」かな?でも技法が主語になってるの気になるから「技法を使う人々は」とか「技法を使うことは」ぐらいにしてほしい。
そして、こうしてはっきりしてみるとここで、そうした技法や、その意味に気づかない人は、「そうした技法が女性を単に装飾のために使っていると理解するようになる」ということはないはず。おかしいじゃないですか。おかしいっしょ?
ふたつめは、「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いています。そして、あからさまではないがゆえに、こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされていると私たちに理解させてくれるでしょう」かな。これでも正確ではなく、できれば、「メタファーを利用する作家は女性を性的な鑑賞のためにもちいています」あるいは「メタファーの利用は、〜」と表現してほしい。これもさっきと同じようにおかしい。メタファーに気づかないひとはそういうものだと理解できないはずだから。
だから「こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているといえるでしょう」ぐらいなわけだ(先のも同様)。んじゃ、キーワードの「理解」はどこいくのよ。
三つめは「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているといえるでしょう」か?
技法やメタファーが理解を生む、っていうのはほんとうにわかりにくい。「それらを使うことが〜という理解を生む」ぐらいだったらまだましかもしれないけど、けっきょく抽象名詞を主語にした無生物主語みたいなのをたくさんつかうと文章はどんどんわかりにくくなっていき、なにを主張しようとしているのかわからず、したがってなにを確かめたり反駁したりしたらいいのかもわからなくなる。
とにかく、ここのところの「理解を生む」はほんとうに混乱させられてものすごく不愉快でした。私がおかしいのでしょうか。
はあ、メタファーが、理解を、生みましたか、はあ、そらおめでたい、いや近所の猫もね、猫を生んで、まあその、それと似たものですか。
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追記(12/21)
しばらくして、小宮先生の「理解」が可算名詞のunderstandingに対応するということに思いあたりました。Cobuildだとこう。
この意味だと、同義語に出てる「信念」とかの方が日本語では適切ですね。誰の信念であるかという問題はまだ解決されないけど。
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References
↑1 | 「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。 |
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