宇崎ちゃん問題 (10) 小宮先生の論説についてはおしまい

というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。

「性的」

これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。

小宮論説全体について

小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。

先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと思うのです。私がその難解な文章表現にタックルして理解したいくつか(すべてではない)をあげてみます。

先生の主張の一つは、(1) 「フェミニストやポスター等を批判する人々にも一理あるのだから、ちゃんと言うことを聞きましょう」。賛成ですね。異議なし。

(2) 「表現物からはいろんなことが読みとれます」。賛成ですね。ただ、「表現物には(一つの)正しい読みがある」、とか、「みんな〜と読むべきだ」って言われたらノーです。でもそうは言ってませんね。あと「表象(表現)の意味」みたいな書き方には注意してほしい。それは作品というよりは、我々がなにを読みとるか、の問題だと思う。

(3) 「表現物が、差別その他の問題を含む場合がある」。これも強く同意します。そして、その読み方はさまざまありえるので、おおやけの評論や議論が必要だ。これも同意。

小宮先生の「現実の(たとえば統計的な)人々への影響とは別に、表現自体の道徳的評価ができるはずだ」という発想は私も同意するところです。街中で「XX人は殺せ!」とか叫んでいる人がいると仮定して、それに現実には誰も従うことがなくても(そして賛同する人が増えるということもないとしても)、やっぱりそうした発言は悪しきものであり邪悪なものである。そうしたものの道徳的悪さ、邪悪さ、思慮のなさ、というのは、現実的な影響がほとんどないとしても考慮されるべきだと思う。

ただし、前にも書いたけど小宮先生が「悪さ」という言葉を選択したのはやっぱりあんまりよくなかった。私だったら、そんなに差別などの不正さがはっきりしないものは「道徳的に悪い」ではなく、「(道徳的に)問題がある」「問題含み」problematicぐらいにしておくんじゃないかと思います。

(4) 「性的な関心をより満足させるためのさまざまな表現方法がある」。これはOKなんですが、ただ、そうした表現方法を使っているからといって、性的な関心をより満足させるためにその表現方法を使っているとはいえない。

小宮先生とふくろ先生は、どういうわけか例にあげた手法を「これは〜のための表現だ」って強く主張しているように見えますが、それは主にふくろ先生とかがそういうふうに「理解」している=考えてるっていうだけの話かもしれません。ポルノ作者もマンガ作者も、つねにさまざまな手法を学び、開発し、より満足のいく作品をつくろうとしているわけであって、クリエイターに共通のできあいの「記号」みたいなのがあり、それを組合せて作品をつくり、その記号そのものに鑑賞者が反応している、なんてことになっているとは思えない(そうしたことを主張しているのかどうかはむずかしいのでよくわからない)。

たしかにポロック先生たちやイートン先生は、絵画表現におけるさまざまな技法をもちいていますが、そうした技法を使うことはすなわち性的なモノ化であるとか、それ自体に問題があるとか、そうしたことは主張していないと思う。

(5) 「これからいろいろ議論しましょう」。そうですね、みんな好きなことを言って批評すればいいと思います。でも、簡単に電凸とか不買運動の呼び掛けとかするのはやめてほしい。みんなでよく考えて議論してからにしましょう。

(6) あ、目玉の「累積的経験」の話ももちろんOK。えらい。ただし、もっとわかりやすいふつうの表現にはできそうだと思う。個人的な経験のなかで、Aにいやな思いをさせられたら、Aに関連するいろんなものに対して嫌悪感や反発や問題意識を抱くことになりやすい、っていうことよね。累積的経験なるものによって一部の表現物に対する感受性が変化するのだとか、それはふつうは連想と呼ばれるものだ、ってところまではっきりさせてほしかった感じはある。

もうひとつ、こうした累積的経験というか個人的な経験からさまざまな問題意識をもつこと(そして嫌悪感や反発の傾向を身につけること)自体は悪いことではないかもしれないが、そうした経験から偏見を育てあげてしまったり、過剰に攻撃的になったりすることはよくないことかもしれない、っていうことにも触れてほしい。(累積的なネガティブな経験はフェミニストだけがもつものではない)

さらには、一部の表現に対するフェミニスト的反発が累積的経験なるものから説明できるからといって、そうしたフェミニスト的反発や問題意識が正当化されることにはならない(他の人々についても同様)。小宮先生が、累積的経験の話から、どのような規範的な判断を導こうとしているのかよくわからない。「だからフェミニストの言うことをそのまま聞け」ではないだろうと思う。それとも、単にどのようなメカニズムで論争が起こるのかを記述的に分析しているだけなのだろうか。

小宮先生の主張は弱すぎる

むしろ小宮先生の論説の問題は、おそらく、 その主張が弱すぎる ことなんですわ。上のような先生の主張は、私だけでなく、一連の論争みたいなのになにかコメントしている人々は皆同意すると思う。論争みたいなのはむしろ個別の作品(ポスターや雑誌表紙等)が、そうした問題含みのものになっているか、という点でおこなわれていて、それが長く続いているので、小宮先生の論説が出た時点では、「問題含みの「可能性がある」」というだけでは満足しない雰囲気が形成されていたと思う。そこに「問題がある可能性がある、道徳的に悪いものである可能性がある」っていう主張をもってきても、「んじゃ悪いっていうんだな!なんで悪いんだ!」っていうふうに読まれちゃったのだと思う。よく読むと先生はそうしたことはなにも言ってないんですよね。ふくろ先生の模範作品しか言及されないし。

せめていくつかの作品について、それが実際に小宮先生が指摘するような「悪さがある」って主張するようなものなのかどうか判断してみてもらえればよかったんではないかと思います。でもそれは先生のような立場(どういう立場かわからないけど)の人が書くことではないのかもしれない。でもそれでいいのかなあ。

でも、やっぱり我々が関心をもっていることに、学者として(あんまり人気がないかもいしれない立場から)コメントするっていうのはやっぱり偉いし、この件についてはずいぶん議論が深まったと思います。えらい!特に、マンガやアニメなどの非実在人物のあつかいみたいな話は、もっと若い世代の人々もいろいろ勉強しておもしろいことを言ってくれそうな気がします。そうした議論をすすめていくのはやっぱり対立とかないとならないので、矢面に立ったのはほんとうにえらい。私も書くべきだと思ったことを、ブログていどでもいろいろ書いていこうと思います。

てなわけでおしまい。

後記:この一連の記事、「誤謬推理と詭弁に気をつけよう」というタイトルのシリーズにしてたのですが、実際にはそういう話にはならなかったし、そもそも小宮先生のやつが詭弁だとか誤謬推理だとか言いたいわけでもなかったので(実は牟田先生のやつも)、タイトルあらためました。(1)だけはそのままにしておきます。いずれ誤謬推理についての(2)も書くと思う

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