シュラミス・ファイアストーン先生がお怒りのようです

ラッセル先生の革命的な著作以降、まあ避妊手段の開発とか映画の普及とか車の普及とか禁酒法の廃止とかロックとかいろいろあって、セックス革命は完成する。まあとにかくばんばんセックスセックス。

ビートルズのPlease Please Meの歌詞は知ってますね? 君はトライさえしようとしないじゃないか。君がやらせてくれないから僕の心には雨が降ってる。僕をよろこばせてくれよ。プリーズプリーズ。

そのなかで出てきたのが第二派フェミニズム、特に「ラジカル」=急進的、根本的フェミニズムね。これは、第一波が女性の社会参加(参政権や労働市場への参加、財産権etc)を求めるものだったのに対して、男女の関係、恋愛やセックスとかっていう人間生活の私的な領域と思われてたところまで批判の目を向けて、社会を根本から考えなおそうっていう思想の流れだと私は理解している。

FIRESTONE-obit-popup私は特に1970年に出版された 1)同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。 シュラミス・ファイアストーン先生の『性の弁証法』がすごいおもしろいと思ってんのよね。ファイアストーン先生25才。早熟すぎる。

「ラジフカルフェミニズムの本が恋愛の問題を扱わないならばそれは政治的に落第である。なぜなら、恋愛は、おそらく出産よりももっと女性を抑圧する中心点となっているからである。……私たちは恋愛を捨ててしまいたいのだろうか?」p.157

フェミニストとして、この視点っていうのは、まあ正直でいいと思うんよね。差別や男女格差とかいろんな問題があるけど、それに深くかかわっている恋愛の問題は避けられない、みたいな。まあネット上のアンチフェミな人々が延々してきているのはこれだもんね。アンチの人は特に女性の上昇婚指向や性的なより好みを問題にしているわけだけど。いわゆる「ただしイケメンに限る」問題。

ファイアストーン先生はラジフェミなので、パーソナルイズポリティカル。恋愛ってパーソナルなもんだしプライベートなものだとされてたけど、そりゃポリティカルでっせ、と。まあこの「ポリティカル」の意味私よくわかってないところがあるんだけど。

恋愛は、十分に体験され、その体験もよく知られているにもかかわらず、いまだかつて理解(understand)されたことがない。……恋愛がなぜ分析されないのかについては理由がある。女と恋愛は、社会を支えている土台なのである。この二つを吟味してみれば、文化の構造そのものをおびやかすことになるからだ。

ファイアストーン先生の結論は「現在の(男性的)文化は、寄生的であって、女性の感情的な強さを餌にしているのだ」ってな感じになる。愛は所有欲や独占欲を含む利己的なものではあるけど、他人に自分を開き他者に屈することでもあり、他者と合一し自我を交換するすばらしいものである、みたいな感じ。それ自体はとてもグッドなもの。恋愛における相手の理想化(スタンダールの「結晶作用」)みたいなのもそんな悪いもんでもない。悪いのは、「愛の政治的、言い換えれば不平等な力関係である」(p.165)。現代社会では、恋愛っていうのは女性にとってのホロコーストになってて、そこで女性は犠牲にされ搾取されちゃってる、みたいな感じ。言いたいのは、女性がたとえば一流の芸術作品作ることができないとかってのは男のために家事したり子供育てたりしているからで、それって「愛」とかの名のもとに搾取されてんのよね、自発的奴隷だわ、ってな感じ。

まあラジフェミらしいわね。っていうか一番ラジフェミらしい。ドゥオーキン先生なんかおそらく彼女自身が直接に性暴力の被害者になっちゃって、男性憎悪みたいなのにまみれているのに対して、ファイアストーン先生はいちおう「恋愛はいい!」みたいなところがある。まあルックス的にもファイアストーン先生はけっこうモテたんではないかという気がする。ていうか少なくともモテを意識したことはあるだろう。

精神分析のテオドール・ライク先生が患者の恋愛に関する悩みとかをつづってるのがあるらしく、それ参照してるんよね。
女性はいろいろ男性と自分の関係のことに悩んでいる。

「男は、女が男を愛するようには、女を愛することができない」「長い間セックスなしで済ませることができるが、愛情なしではやっていけない」「私は、体以外にこの男に与えるものをもたないのかしら?」
「私は服を脱ぎ、ブラジャーをはずして彼のベッドの上に体をのばしてまった。一瞬、私は、自分が祭壇の上のいけにえの動物のような気がした。」

まあラッセル先生とかの影響で、若者はばんばんセックスするようになって、そこらへんで問題がいろいろ出てきているわけです。

「私には、男の気持ちがわからない。彼には私がいる。だのに、なぜほかの女を必要とするの? ほかの女には、私にはないものがあるの?」

これはラッセル先生の奥さんかもしれない。

「私は、何人かに、男も泣きながら寝ることがあるのかたずねたことがある。私は男はそんなことしないと思う。」

ラッセル先生、苦しめてますよ。まあ女泣かしている男はけっこういるようだ。んで男性はどうかっていうとこう。

「女性の外面的な見掛けだけが重要だなんてことはないよ。下着も大事だ。」「女の子とやるのは難しくない。難しいのは縁を切ることだ」「その子は私に、彼女の心(mind)のことを気にしているかと聞いてきた。うっかり、ケツ(behind)の方を気にしていると答えそうになったね」

これは「キモチを大事にしているか/オチチの方が大事だ」ぐらいに訳していいかな。まあとにかくアメリカ人いやですねえ。

「たぶん女を騙して、女を愛しているふりをするのは必要なことなんだろう。しかしなんで自分まで騙さなきゃらんのだ?」「うちの嫁は、話すのをずっと聞いてるだけでは満足しない。何を話しているのか内容まで聞けというんだ。」

それにしてもファイアストーン先生なんでこんなのばっかり拾ってくるんすかね。ライク先生の原文でこういうの不平等で男優位なのばっかり掲載されているのかどうかは不明。まあ60年代とか男性は経済的に優位だったから、ほんとにどんなことでもやれたしできたんすかね。でも、男女関係・夫婦関係の悩みっていうと、こういう感じになりますか。すでに関係ができてるなかでの悩みだから、「モテない」男女の悩みは入ってこない。

しかしまあ私自身は、女性にはこういうモテ男性しか目に入らないんじゃないか、それは60年代も2010年代もかわらんのではないか、みたいな印象をもってますね。女性の悩みのタネになる男はみんなジャーク。でもジャークはモテる。むしろジャークだからもてる。当時のアメリカも非モテも、ナードも、自信ない男もいたろうに。ファイアストーン先生、そういう人あなたの目に入ってましたか?

「シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「愛という言葉は、男と女では、その意味するところが違う。このことが、男と女を隔てる深刻な誤解の一因となっている」と言っている」p.168

まあこれがファイアストーン先生の中心的なテーゼになる。この本自体ボーヴォワール先生に捧げられてんのよね。このボーヴォワール先生の指摘はほんとに大事ですね。実際、ラッセル先生やサルトル先生が語るloveなりamourなりって、女性から見たらただの性欲とセックス、あるいはせいぜいそれに女性からの親密サービスがくっついた程度のものじゃないんすかね。

男と女のあいだの愛に関する伝統的な違いのいくつかを説明した。この違いが、一般に認められている「ダブルスタンダード」であり、しばしば客間の話題になる。つまり、女は一夫一婦的で、独占的で、執着的(clinging)で、セックスそのものよりも、(非常に密な)「関係」に関心がある。そして性欲と愛情を混同している。他方、男は、やる(screw)以外には関心がない。そうでなければこっけいなほど女をロマンチックに祭り上げる。男はひとたび女を手にいれると、今度は、悪名高い女たらしとなり、けっして満足しない。男はセックスを感情ととりちがえている。(pp.168-169)

screwには「Wham, bam, thank you Ma’am!」ってのがついていて、「ドカン、パンパン、どもありがとう」、ぐらいか。訳書では「感情のないす早い性交」とかって訳してる。「出会ってやってんじゃバイバイ」ぐらいか。まあファイアストーン先生自身が60年代にどのていどwhamしてbamしてたのかはわからない。

ラッセル先生なんかは、親密になってセックスして、気が合わなくなったら別れちゃえばいい、とか言うわけだけど、そんな簡単に別れてくれないっしょ。

「セックスを感情ととりちがえてる」、はmistake sex for emotion。これは、女性が求めているのはやさしい感情・コミットメントなのに、女がなんか言ってきたらセックスしてやりゃいい、みたいに考えてるってことだと思う。まあモテる男は釣った魚に餌はやらない。まあというわけで、ファイアストーン先生の結論はこうだ。

「(1) 男は愛することができない。(男性ホルモン? 女性は伝統的に、相手が女性だったら許せないような感情的個人主義を男性に期待し受けいれている)。(2) 女が執着行動は、客観的社会状況によって余儀なくされているからである。(3) こうした状況は(セックス革命以前の)過去とたいして変わっていない。

(1)の「感情的個人主義」は、女どうしだったら「冷たい」とか「自分勝手」とかって言って嫌うような性格特性を、男性には期待するってことね。ジェームズボンドとか怖いわよね。でもすてきー。

まあこの「男は恋愛できない」っていうのを、フロイド的なエディプスコンプレックスや幼児期のしつけみたいなんで説明しちゃう。ここらへん、生物学というよりは文化的な問題と見るのがまあこっからしばらくのフェミニズムね。

「あらゆる正常な男性に残されている問題は、見返りとして彼女が愛しているのと同じように彼も彼女を愛してほしいなどという要求を出さないで彼を愛してくれる人をどうやって得るか、ということである。」p.171

まあ男は(いい女と)やりたいだけだ、というかそういう理解ね。それもなるべく紐付きじゃないのがいい。最高は毎日カジュアルセックスっすかね。ナンパ指南本とかまさにそれだしね。

「女性が「男性に執着する」のは、客観的な社会状況によって必要とされるのである。おたがいの愛情に関して、男性がヒステリーをおこすことに対する女性の反応は、男性から求められるのと同じ愛情を男性に求めるために、巧妙な操作技術の開発であった。この作戦は、何世紀にもわたって工夫され、実験され、内緒話とか茶飲み話のなかで母から娘へと受けつがれてきた。最近では、電話でこれがおこなわれている。これらのおしゃべりは、つまらない井戸端会議ではない。むしろ、女性がその生存をかけた必死の戦略とでもいうべきである。男女共学の四年制大学での勉強よりも、一時間ほど電話で男について語り合うほうが、もっと本当の知識が得られる。」

この「大学より電話の方が勉強になる」の箇所好きなんですよね。実際、女子は酒とか飲むと男とのつきあいかたの相談話ばっかりしてるわけだけど、それって彼女たちにとって非常に重要なのだなということがわかる。そしてそこでの洞察とか非常に鋭い。まあ男とのつきあいは、へたすると人生かかってるわけだしねえ。慎重になるのもわかるし、そもそも男とかなに考えてるのかわからない、みたいな話をしているっぽい。

さて、ここまで恋愛の話だったわけですが、先生セックスはどうなんすか。

「では、どうすれば、女性は、男性からこの反対給付を引き出すことができるのだろうか」p.174。

まあ、もし男を愛することに決めたら、どうやって男を尻にしいて感情的にも経済的にも安定した生活を営むか。その答はセックスだ。

女性のもつもっとも強力な武器はセックスである。女性はさまざまな策略を使って、男性を肉体的な苦痛状態にまで追いやることができる。彼の欲望を拒んだり、からかったり、与えるふりをしてやめたり、嫉妬させたりする。……「どうやって男をじらせようか?」とときおり考えたことない女性は、ほとんどいないだろう。」(pp.174-175)

ファイアストーン先生正直でいいすね。わたしはそういうのやめた方がいいと思うんですけどね。最悪トラブルになる。でもそういうことする女性はいるみたいですね。もう本能といっていいかもしれない。

ところがっすね、ラッセル先生の思想に影響されて生じたかもしれない60年代のセックス革命は、その点で女性に不利になったんですわ。これがこの本の核心部分の一つなんすよ。

「過去50年の間、女性に愛について二重に束縛されてきた。すなわち、すでに起こったとされる「セックス革命」を口実に、彼女たちは、男性に対する武装を解くようにと言われている(「ベイビー、やめてくれよ、いったい今までなにしてたんだい?セックス革命のこと聞いてないの?」)。現代の女性は、彼女たちのおばあさんの時代には、そうなるのが極めて当然のことと思われていた「いじわる女」(bitch) 2)日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。 になるのを非常におそれている。おばあさんの時代には、男性もまた、自尊心の強い女性は男を待たせるものだし、恥ずかしがらずに正々堂々と男とかけ引きするものだということが当然だと思われていた。この方法で、自分の利益を守らない女は尊敬に値しなかった。それは公然の事実だった。だが、セックス革命という言葉は、女性には何も良いものをもたらさなかったとしても、男性にはおおいに役立つことがわかった。男たちは、女性に、彼女たちが普通用いる策略や要求は、卑劣で、不公平で、とりすました、時代遅れで、ピューリタン的で自分自身を殺してしまうものだと言い聞かせ、女性が苦しんで獲得したきたわずかな武装さえも解かせてしまった。その結果、男性の言いなりになる女性集団を創り上げ、伝統的な性的搾取に利用できる商品の不足を補うのに成功した。今日の女性は、この目的のために創り出された新しい言葉を投げつけられるのを恐れて、昔からの要求を言い出せなくなっている。「お固い女」「じらし屋」「退屈な女」等々。要するに男たちにとっては「物わかりのいい娘」が理想なのだ。」pp.171-172

この本が出たのは1970年、50年前ってのは1920年。ラッセル先生は1929年ね。まさにラッセル先生のことを考えてると思う。

「伝統的な性的搾取に利用できる商品」はもちろん売春婦。買春するのはお金かかるけど、ガールフレンドならタダだしね。20世紀に男性たちはロマンチックな口説き文句なんかを開発して、女性にただでセックスさせてもらうことを覚えた、実はそれは12世紀の宮廷風恋愛、18・19世紀のロマンチックラブもそうだ、っていうのが私の仮説。さらにラッセル流の自由恋愛は、性的に堅い女性は古い禁欲的教育の被害者であり、自由でないかっこ悪い存在してしまうことによって、女性のセックスを「解放」し、搾取した(搾取という言い方が適切かどうかは別にして)。堅い女性を形容する単語を大量につくりだす。

けなし言葉は“fucked up”, “ballbreaker”、”cockteaser”、”a real drag”、”a bad trip”

fucked up“はだめ女、頭おかしい、ぐらい? “ballbreaker“は「男性の自信を打ち砕く、過酷な要求をする女性」。でも「玉つぶし」なんちゃうかな。いやちがうか。cockteaserは誘惑はするものの、男を性的に興奮させながら性的な解放を味あわせない人、まあ「ちんちんいじめ」。a real dragは「面倒な女」ぐらい? a bad tripも「ひでー女」ぐらいか。「物わかりのいい娘」はa groovy chick 「ノリのいいカワイコちゃん」ぐらいか。いまでも「あの子ノリよくて」っていうのは性的にゆるいことをほのめかしている場合があるんちゃうかな。

これほんとに難しくて、女性がとりあえず男の「愛情」なりなんなりを確認したらセックスさせる、ってことになってしまえば、他の女性も相手をつかまえておくためにはセックスさせざるをえない。でないと他の女にとられちゃうし。「男を待たせておく」っていうのが無理になったんよね。でも相手選びに失敗して、いろんな男性とつきあう/セックスしたことになってしまうと、市場での値段がものすごく下がってしまう。

今でも、多くの女性は、何が起こりつつあるか知っており、罠を避けようとしている。彼女たちが男性から期待できるわずかなもののためにだまされるよりも、むしろ侮辱されたほうがましだと思っている(もっとも前衛的な男性でさえ、今日、あまり問題にされなくなた「古典的レディー」を望んでいるのは真実なのだ)。しかし、彼女たちは、罠にはまればはまるほど、伝統的な女性の策略は間違っていなかったことに痛烈に気づくが、既に遅すぎる。彼女たちは「男は皆オオカミよ」とか「男はケダモノよ!」とかいう古い表現と酷似した言葉で、こぼしながら、自分がすでに30歳になっているのに気づいてショックを受ける。「彼女たちは、昔の妻が正しかったのだということを認めざるをえなくなる。公平で寛大な女は(せいぜい)尊敬されるが、ほとんど愛されることはないのだということである。p.178」

いいねえ。いい。すばらしいよシュラミス。「男はみんなやりたいだけなんだわ」ですわね。「公平で寛大な女」はすぐにやらせてあげる女ね。

まあこういうのが70年フェミニズムの問題意識。ラッセル先生的な「性の解放」とかってのの男性中心的な偽善みたいなのに対する反抗とか、男性に対する絶望感とか。こっからフェミニズムは女性分離主義みたいなんに行く人々もでてきたり。ファイアストーン先生自身も、けっきょく性と生殖が一番の問題なんであって、将来人工子宮とかできたらいいな、みたいな結論になってるっぽい。

翻訳は偉いけどいまいちよくない。上の引用は勝手に語句訂正させてもらった。

性の弁証法―女性解放革命の場合 (1972年)
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References[ + ]

1. 同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。
2. 日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。

男性も女性の不快さを理解していないだろう

前のエントリのピンカー先生の「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」(ピンカー 下巻p.58)っていうのは重要で、私の根拠のない推測によれば、こういう不快さがまわりまわってポルノやセクハラに敏感で批判的な女性の多くのバックにあるんじゃないかと思われます。

ピンカー先生や、その解釈のもとになってるバス先生やソーンヒル&パーマー先生組なんかの進化心理学者の解釈によれば、女性にとっての大きな課題の一つは望ましくない相手とセックスしてしまわわないことで、特に暴力とかそういうの使われてセックスされて妊娠させられてしまうのを避ける心理メカニズムが発達しているはずだ、と。

twitterとか見てるとけっこう頻繁にポルノや萌え系アニメ・ゲームとかの話題になるのですが、そういうときに男性の側はそういうのがわかってないんじゃないかと思うときはありますね。

「酒の席でちょっとぐらい下ネタの話してもかわまんだろう」「風俗行くのぐらい普通だから職場の雑談のなかでそういうのが出てもしょうがない」「エロマンガぐらい自由に見てもいいだろう」「なにカリカリしてんだお前らみたいな女のことはそういう対象にもなっとらんわ」とかっていうタイプの意見もあるかもしれませんが、そういう相手の見境のないimpersonalなセックスを求める男性的な性欲のあり方それ自体に女性は警戒するようになってる可能性がある。実際、職場関係者から強制的に性的にアクセスされたりレイプされることもあるわけだし、そこまでいかなくてもしつこくされたりストーカーその他面倒なことになるとかっていうのは非常によくあることなわけだから、女性にとってそういう性欲のあり方をおおぴらに公言したりする人々ってのは脅威であるだろうと思いますね。抽象的に「男性とはそういうものだ」みたいなことを理解しているつもりでも、実際に目の前の男が性欲まるだしだったらやっぱり警戒せざるをえない。「私は家でこれこれこういうポルノを好んで見ておりまして、あれはよいものですな」とかっていってるオヤジがいたらやっぱり警戒せざるをえない。そういうのって不快でしょうなあ。

まあそういうんで、ツイッタとかで大学関係者が「おっぱい、おっぱい」とかやってるのを見るとちょっと気になりますわね。ああいうの読む女子学生様とか不快になってるんちゃうかな、みたいな。

「女性だって家帰ったら薄い本とか読んでんだから」とか言う人もいるかもしれないけど、そりゃ女性向けにある理想化をされたポルノであって、職場や学校でうろうろしているダメな男たちの性欲について知りたいとも思わんだろう。気を許しているとヤラれてしまうし。女性たちが「なんで年柄年中まわりの男たちの性欲がどういう状態にあるか気にしてなきゃならんのか」と思うのはまあ当然のことだろうなあ、みたいな。腐女子と呼ばれている人々が「自重!」とかってやってんのも、彼女たちの性的なファンタジーと性欲の存在が男性に知られると集団として性的にアクセスしやすいと勘違いされる可能性があって、そこらに対する防衛なのかもしれんな、とか。まあそういう性的欲望(とその逆の性的嫌悪)に関してはいろいろ謎が多いですなあ。

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女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう

前エントリの続き

スティーブン・ピンカー先生の『暴力の人類史』は非常におもしろいので、あらゆる人が読むに値すると思います。暴力の歴史と心理学が延々書いてあってとても楽しい(暴力が楽しいのではなく、各分野の最新の知見が得られる)。最初の方の拷問の話は読むと冷や汗をかくので苦手な人は飛ばしてもいいと思う。そこ飛ばせばあとはそんなひどいのはない。

当然殺人だけじゃなく人種差別、児童虐待、ゲイバッシング、動物虐待とかって話にまじって、女性に対する暴力である性暴力の問題も扱われてます。

『人間の本性を考える』とかではフェミニズム(特にブラウンミラー先生のタイプのやつ)に対してなんか批判的・揶揄的な態度をとってるところもあったんですが、この本ではかなり高く評価してますね。フェミニストたちの運動のおかげで、20世紀後半に性暴力に対して社会は厳しい態度で臨むようになり、数も減ってる、ってのが基本的な立場。

レイプは決して男性性の正常な一部というわけではないが、男性の欲望が基本的に性的パートナーの選り好みに頓着せず、パートナーの内面にも無関心であるという事実によって可能となっているところはある。もっといえば、男性にとっては「パートナー」という言葉より「対象物」(object)という言葉の方が適切なくらいなのである。(下巻 p.58)

こういう男女の性的欲求のあり方の違いはけっこう重要で、性暴力の被害がちゃんと扱われないのには、「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」があるだろうとか。(objectは対象物でもいいけど「モノ」の方がピンとくるかもしれない。)

もっとも、「レイプはセックスではなく暴力」っていう有名なフェミニスト的主張は認めない。ブラウンミラー先生の「先史時代から現代にいたるまで、レイプにはある決定的な機能が担わされてきたと思う。レイプとは意識的な威嚇プロセスにほかならず、このプロセスによって全男性は全女性につねに恐怖をもたせつづけるのだ」っていう有名なフレーズは今回も強烈に否定されちゃう。

このあとが重要で、

もしここで「アド・フェミナム」な〔女性に対する偏見に訴えた〕提言を許されるなら、その気のない他人と人間的感情のないセックス(impersonal sex)をしたがる欲望というのが奇妙すぎて考えるにも及ばない性別にとっては、レイプはセックスとは何の関係もないという説のほうが、もっともらしく感じられるのかもしれない。(下巻 p.59)

てなことを書いてる。(ad feminamは偏見に訴えたというよりは「女性だから論法」の方がよいと思う。impersonal sexは「人間的感情のないセックス」でもOKだけど、「誰か特定できない、お互いを個別の人格とみてないセックス」の意味)

これはワシも昔からそうだと思ってたのじゃ。ワシもワシも。前のエントリで紹介した牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』で、先生はレイプ犯人の動機が性欲だってされることに非常に抵抗があるみたいで、もっと「加害性を追求」しろということを主張しているわけだけど、レイプ犯の動機を性欲だとすることに対する抵抗の一つは女性にはそんなものが性欲だとは思えないからだろう、みたいな。

牧野先生自身はレイプの動機にあるのは性欲というよりは、「自分には力があることを確認」「自信を回復」「「内なる父」を越える」(牧野 p.190)とかだっていうフェミニスト的解釈やフロイト的解釈に共感しているようだ。

研究対象の犯人はこういってるらしいです。

最近考えているのですが、「強姦」という手段に出たのは、私の中では意味を理解していない絶対悪なので、これをクリアすれば力が手に入る、強者になれる。そして、自分のカラを壊るのに性的興奮のいきおいが必要だったのではないか、そして女性を征服できる喜び、達成感があったのではないかと思っているのです。私が考えているこの三つはかなり私にはしっくりくるものであり、今書いている事自体苦しく、つらく、恐いものです。(牧野 p.190)

これはまあ事後的に「自分はあのときなぜそうしたのかな」っていう問いに対する犯罪者なりの答ですわね。どの程度正直なのかはよくわからない。これを牧野先生はこう解釈する。

Yの強姦行為には、異なる水準の力が関わっている。一つは、被害女性に対する強姦行為に見る力であり、女性を強姦することで、自分には力があることを確認し、職場や家庭で喪失している自信を回復させるものである。もう一つは、「内なる父」を超える力としての強姦である。強姦を行うことで、耐えることを強要する「内なる父」、目標だった父を超えて、強者になったと実感し、父の縛りから解放されるのである。(牧野 p.190)

「レイプはセックスには関係なく、関係するのは力(パワー)だけ」っていうピンカー先生が批判するフェミニスト的解釈にのっかってますね。

Yは、家庭や職場で感じていた自信のなさやままならなさを、「内なる父」の足枷をはずしたり、自分の弱さをさらけ出すなどして、現実の世界で自分を変えるのではなく、自分が自由に振る舞える世界を創り出し、そこで別の自分になることで、自分を解放した。その手段として強姦が選ばれた。Yは、性欲によって行われたということは、最初に発信した手紙で「この犯罪は性的欲求だけでは絶対起こりえない犯罪だと思います」と否定してた。捜査・裁判を通じて、Yの強姦はY生来の強い性欲によって起きたと結論づけられていたが、そのことは終始否定していたのである。(牧野 p.190)

犯人は「性欲だけでは起こりえない」と(おそらく)正しく書いているのに、牧野先生は「否定している」と解釈してしまっている。たしかに犯罪とかっていうのは、強い欲望だけでは実行されずに、他にもいろんな条件が必要で、環境や状況の条件もあれば、弱い自制力、弱い道徳心、低い共感力とかそういう個人の条件も必要だろう。私の好きなJ. S. ミル先生はこういうことを言っている。

人々が誤った行動をとるのは、欲望(desire)が強いからではない。良心が弱いからである。強い衝動と弱い良心とのあいだにはなんの自然的つながりもない。自然的つながりはその逆である。ある人の欲望と感情が他の人のそれらより強く変化に富んでいる、ということは、その人のほうが人間性の素材をより多くもっており、したがってより多くの悪もなしうるかもしれぬが、確実により多くの善をもなすことができる、ということにほかならない。強い衝動とは精力(エネルギー)の別名なのだ。(ミル『自由論』第3章、早坂忠先生の訳を一部変更。)

英雄色を好む、とかそういう感じすかね(ミル先生の性欲がどうだったのかというのは伝記的な謎)。こういうの読むと、たしかに「生来の強い欲望によって起きた」みたいな解釈がどの程度正しいかってのは再考してみる価値はある。けっきょくその人の弱い自制心や道徳心その他の心的能力に較べて性欲がそこそこ強い、道徳や自尊心や合理性より性欲を優先しちゃう奴ってだけで、それは他の人々と同じかそれ以下のものかもしれんしね。「性欲なら、あんな犯罪者よりオレ方がずっと強いぞ」みたいな人は少なくないのではないか。ははは。

まあ「自信の回復」とか「内なる父の超克」とかそういうのも部分的にはあるんかもしれないけど、私は原因として一番強いのはやっぱり性欲だろうな、と思いますね。(もちろんレイプ犯のすべてが同じ動機に同じようにもとづいているわけではない。)ふつうに考えてしまえば、「自分が自由に振る舞える世界」で凶器とかちらつかせて女性を脅していったいなんの自信がつくのかわからんし、どういう内なる父を超えてるのかもわからんし。そもそも犯罪犯して自信がつくってだけの話なら、若い女性を狙う必要もない。どうせ凶器使うなら、偉そうな男性大学教員にでもからんで財布カツアゲしたり土下座させたりした方ががずっと自信がつくのではないか。警察官なんだから体鍛えてるだろうし、大学教員を背負い投げするくらい簡単だろう。一般に「ストレスから」とか「自信をつけるため」とかっていう加害者自身の言い分ってのはどのていど信用していいのかよくわからんです。

→続き「男性も女性の不快さを理解していないだろう」

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牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』

昼間ちょっと某氏と性犯罪対策みたいなのについて話をする機会があり、牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』読みなおしたり。この本は非常に興味深い本で、元警察官で、警察学校の同期が連続強姦で逮捕されたという経験をもつ方が書いてる。警察内部の取調べマニュアルとか、その連続強姦魔の書簡や聞き取りなんかから構成されていて非常に読みごたえがある。性犯罪とか刑事司法とかそういうのに関心ある人は必読だと思いますね。

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読んだときに書評もどきというかamazonレビューみたいなものを書こうとしたんですが、そのままになってしまってた。ネタは非常におもしろいのに、全体に微妙に理解しにくいところがあるんよね。

性犯罪と性欲

一つ目。牧野先生によれば、性犯罪では操作から立件、裁判に至るまで、加害者の犯罪行為がとにかく「性欲」という動機にもとづいた犯行であったことを立証しようとしていて、その際に「性欲」や「情欲」が「本能」とされていて内実が問われないままになってる、ということらしい。「男の本能だからしょうがない」みたいな感じですかね。まあたしかに「本能」だから「しょうがない」なんて本気で言われちゃったら困っちゃいます。性欲はわれわれが動物と共通にもっている欲望の一つだろうけど、それをコントロールするから人間であってね。

でも「本能」はともかくとして、犯行の動機が性欲であることを立証しようとするのは、刑事司法としてはある程度やむをえないことな気がする。刑法とかぜんぜん知らんのであれなんですが、素人考えからすれば、もしある強姦に該当する行為が、性欲にもとづいたものでなければそれが性犯罪なのかどうかわからないってことにもなるかもしれない。たとえば、加害者はまったく性的な欲求をもっておらず、女性の性器に男性器を挿入することによって来世で蘇えることができるとかそういうことを信じていてそういう行為を行った場合、それって性犯罪なのかどうか。セックスっていうのがなんだか知らないわからないけど男性器を挿入してしまった、みたいなのもどういうタイプの犯罪なのかよくわからない。やっぱり性犯罪が性犯罪であるためには、犯行の主要な動機の一つが性欲である、セックスである、っていうのが必要なんちゃうかな。

まあもちろん、加害者がなにを考えていようが、被害者にとって性的な行為であれば性犯罪である強姦である、っていうのでもOKなのだろうとは思います。でも「なぜその犯罪を犯したのか」っていう問いに対して、いくつかの動機と、その動機にもとづいた犯罪行為を防がなかった理由がないと我々はそれが犯罪だと理解しにくい。それが犯罪だと思ってなかったとか(強姦の場合はありえないと思うけど)、他人の利益や尊厳なんか知ったことはないという邪悪な性格であったとか、捕まらないだろうと思ってたとか、そういうのも理解した上で、そいつの行為が犯罪と呼ばれるものだったのかとか、どの程度の罰を与えねばならないかとか考えるんだと思う。

牧野先生が懸念しているのは、「強姦が性欲にもとづくものだ」ということよりは、「性欲は本能であり自然なものだ」とか「本能だからしょうがない」とかって考え方の方なんだけど、これってそんなに司法の場で認められていることなんすかね。たしかに邪悪な犯罪者たちはそういう自己弁護をするだろうけど、われわれがそれを認める必要はまったくないように思える。「他人のものを取りあげて自分のものにしてしまいたい」「腹が立つ奴は殴りたい」みたいなのも我々の自然的な傾向であって、もし「本能」っていう言い方をすれば本能。でもそういう欲求を野放しにしたら困るから法や罰があるわけで、自然なもの、本能的なものだからって主張されたってつっぱねることはできるわね。

難しいのは「その時私は自分をまったくコントロールすることができなかった」と主張された場合で、これ心神喪失とか心神耗弱とかそういう面倒な問題になりますわね。もしこの手の話をするのであれば、性欲によってわれわれがそうした自分のコントロールをまったく失うことがありえるかっていうおもしろい話になる。牧野先生は本当はこれがしたかったのかしら。刑法学とかの分野でこの問題がどうなってるか私は知らないんですが、衝動的な行動についていくらか情状酌量の予知はあるのかもしれないけど、たいていの性犯罪はそういう衝動的なものではないだろうから関係なさそうな気もする。この点は後半の事例研究でもはっきり出ていると思う。痴漢やセクハラぐらいのことを考えても、たとえば道を歩いていて、白昼人目のあるところで突然衝動的に女性に襲いかかる奴なんてのはいないわけで、おそらく皆捕まらないだろう、セクハラで訴えられないだろうぐらいの計算をしてからやってる気がしますね。少なくとも頭のなかで何回も予行演習していると思う。

 加害性の追求

二つ目。この本の後半では研究対象となった警察学校動機の強姦魔の悪質さが強調されていて、これはなんともすばらしい研究だと思う。理解しにくいのは、第3章「加害性の追求」での議論でなにを目指しているかっていうことなんよね。牧野先生が考えているのは単なる厳罰化じゃないみたいで、んじゃいったいなにか。研究対象になっている強姦魔はまったく悪質凶悪なやつで、これほど悪質な犯罪者は厳罰に処すべきだと思わされるんだけど、逆に読者にはその悪質さがかえってそうした犯罪者の特異性みたいなのを感じさせてしまう。よくいわれるサイコパス的な感じ(よく知らんけど)。こんなに異常なやつを追求するってのはどういうことなのか。もちろん異常人物として研究対象としては興味深いだろうけど、刑事司法の場で他になにをしようというのかがわからない。

「追求」ってのがわからんのんよね。「加害者は取調べにおいてその加害性を十分に追及されることがない」(p.130)っていう文章なんかが典型なんだけど、警察や検察の取調べは建前としては道徳的・法的非難の場ではなく、事実確認の場だろうと思う。「どんな悪い奴かはっきりさせる」ってことかなあ。「あの事件はなぜ起こったのか」(p.198)という問いの答を追求するのかもしれないけど、加害者の性格や生い立ちや考え方をはっきりさせるのだろうか。あるいは性犯罪をとりまく社会的ななにかをはっきりさせるのだろうか。そこらが見えなくて最後まで不満のままだった感じ。

性欲による行動は不可避なの?

あと最後の方はけっっこうあやういことも書いていて、たとえばp.201では若年者の犯罪は更生可能性があるから量刑軽くなることが多いわけだけど、性犯罪だと再犯可能性が高いから若年であることは軽減ファクターではなく、「むしろ加重ファクターであり、裁判所の判断に誤りがある可能性を示している」とかっていうんだけど、こういうの大丈夫なんだろうか。もうちょっと慎重な議論してほしい感じがある。

まあでも一番気になるのは、やっぱり何度もくりかえされる「操作・裁判は、性犯罪は「性欲」によって行われる、男性の生理に基づく不可避の犯罪であるという前提で進められている」(p.202、下線は江口)っていう主張かな。これほんとうにそう考えられているんだろうか。ほんとうに不可避なんだろうか。牧野先生が勝手にそう読みこんでいるという可能性はないだろうか。なんらかの意味で本当に不可避なんだったら罪を問うことさえ不可能に思える。また逆に、本当に不可避なんだったらそんなもんはどっかに閉じ込めておかなきゃならんってことでもある。刑事罰ではなく保安処分の対象ではないのか。

また牧野先生自身は性犯罪の背景に性欲の他にどういう動機を見つけたいのか、どういう筋書なら納得のいく「加害性の追求」になると考えているのか。たとえば性犯罪は性欲ではなく支配欲に基づくものであるとか、女性を家にとじこめておくための男性集団の共謀によるものだとか、そういうやつなんかなあ。

→続き「女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう」

バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
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本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
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今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

いい人・ナンパ師・アリストテレス (4) アリストテレス先生の「高邁な人」はモテそうだ

まあそういうシステマチックな「ナンパ」というのはおそらくあれですわね。ふつうだったら人間の関係っていうのはもっと長い時間かけてゆっくりはじまるわけで、クラスで一番足が早いとか勉強ができるとか、みんなから信頼されているとか、そういうふうにしてどういうひとか知ってからおつきあいしたりセックスしたりするわけですが、高校とか出てしまうともうそういう関係を築くことが難しくなってしまう。自分の価値みたいなのを知ってもらう時間がないんですね。そこで自分に価値がある「かのような」偽装をおこなう。それはちょっとつきあえばすぐにバレてしまうものなので、長くはつきあうことができない。なのであえてその日かぎり、2、3回限りで次にのりかえるってのをくりかえすわけですな。

そういうの価値があるかどうかはよくわからないけど、宮台先生なんかに言わせれば、とりあえずそういうの繰り返していればそのうちだんだん自信がついてきて、ちゃんとステディな関係をもてるようになる、みたいな筋書。どの程度ほんとうなのかはよくわからん。まあなんらかの真理をとらえているかもしれません。

哲学者・倫理学者にとっての、問題はそういうナンパや偽装やカジュアルな関係とかってのが我々の生活や幸福や道徳にどういう関係があるか、みたいな。まあ私自身は実践的にはそういうのちょっと無理だし、かえってしんどそうだと思うのでどうでもいいのですが、まあそんなうまい(?)方法があるなら気にはなるし、われわれの生活についてのなんか洞察をもたらしてくれるのではないかみたいな気はするわけです。

前に名前をあげたRichard Paul Hamilton先生は、ナンパコミュニティの隆盛とかどう見るべきなのか、みたいな問題意識でエッセイ書いてるわけです。

ハミルトン先生によれば、ほとんどお互いについての情報がない状態で、クラブやバーやオフ会なんかで人びとが出会ってお互いを求めあう、なんてのは人類の進化の過程ではほとんどありえない状況だったろうから、我々がそういう状況でどうふるまったらいいかわからないってのも無理はない、と。盆踊りとかのお祭りとかはあったろうけど、だいたい村とかで「どこそこの誰それ、評判はこれこれ」とかってわかる状況だったでしょうからね。そういう状況で問題になるのは「社会的証明」だ。特に女性はセックスまわりではリスクが男性より大きいので、相手がどういう人間かをよく見ようとする。

いい人は女性のそういうのを配慮して、自分は危険のない人間だってのを示そうとして、お世辞そのたさまざま女性のご機嫌をとろうとする。でもそれなんか自信のなさを示すことになり、魅力がなくなってしまう。

岩明均先生の『ヒストリエ』でも
大活躍。落ちついてます。

一方、ジャークやナンパ師は他人の意見なんか気にしない。そしてその他人の意見なんか気にしないことが魅力になっているのだろう。

ハミルトン先生によれば、この人びとっていうのは、ある点で、アリストテレス先生のいう高邁(メガロプシュキアー)な人と似てるね、と。直訳すると「魂の大きな人」ですね。『ニコマコス倫理学』第4巻第3章に登場する。「自分自身のことを大きな事柄に値すると見なしており、また現に値する人」、偉大な人。自分の価値をよくわかっている。自分自身に満足していて、他人からの評価など必要としない。落ちついていてなにがあっても動揺しない。なにがあっても驚かない。いつも「ゆったりしとした動作、深みのある声、落ちついた語り方」をする。自信があるからだ。自信ないやつはセカセカしたり声がうらがえったりしてかっこわるい。とにかく「高邁」は男性のモテるタイプの一つの典型なんですね。このアリストテレス先生の「高邁な人」は19世紀的な「ダンディ」とも関係があっておもしろいです。007のジェームズボンドとか想像してもいいかもしれない。

こういう健全な自己評価をもっている高邁な人と比べると、ジャークってのはアリストテレスの言う「うぬぼれ」の方に近くて、自分の本当の価値よりも自分を大きなものと見ている。いずれは本当の価値がないことがバレちゃって馬鹿にされることになる。彼らは愚かだ。しかし自分を卑下して他人の顔色をうかがいご機嫌をとろうとする「いい人」は、ほんとうはそのままでもモテるかもしれないのに自分はだめだと思いこむことによって、自分から善きものを奪ってしまう。これは「うぬぼれ」よりずっと悪い。一方、ナンパ師は、実際には気の弱い価値のない人間にすぎないのに各種のテクノロジーによって「高邁の人」の見かけだけをまねているにすぎない。

ハミルトン先生は、ナンパ師たちはアリストテレスでも読んで、上辺だけじゃなくて実際に中身のある高邁の人をめざしたらどうだ、みたいなことを書いてます。ただしアリストテレス先生は、美徳を身につけるには、美徳をもっている人が行うようなことを実際に行いつづけることによって身につけるしかないって言ってます。高邁な人になりたけければ高邁なふるまいをとりつづけてそれを習慣にするしかない。だからナンパ師たちの教えにしたがってモテるようなふるいまいをするのにもなんか意味はあるかもしれない。上辺だけじゃなくて中身も同時に鍛えれば、なにか偽装することなくモテるようになるかもしれない。宮台先生のアドバイスにも(道徳的な邪悪さや実際の危険はさておいて)なんか真理が含まれているかもしれないっていうのはまあそういう感じで。

あれ、おもしろくならなかった。このエントリ失敗。まあナンパとかしたことないことについても考えてもやっぱりあれですね。まあまたそのうち「ダンディ」についてあれするときに戻ってきたいです。まあちょっと言いわけしておくと、ここらへんのネタというのは、私が昔から読んでるキェルケゴール先生の解釈といろいろ関係しているんですよね。あの人の初期の著作(『あれか/これか』)に出てくるダンディズムとか誘惑論とかとここらへんの話に関係しているはずなんですわ。

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いい人、ナンパ師、アリストテレス (3) ナンパ師の世界というのがあるらしい

まともな常識ある人は簡単にはジャークにはなれない。突出した長所のない「いい人」は長期的なおつきあいにはいいかもしれないけど、モテない。それにまあ現代の社会生活は断片化しているというか、誰かといっしょにいることが凄く少なくなってますよね。高校ぐらいまでなら(共学なら)同じクラスでずっといっしょにいたり文化祭とかしたりして同性・異性をとわず、お互いを時間をかけて知ることができたけど、大学になるとサークルにでも入らないかぎり週に何回も顔を会わせることはない。社会人になればなおさら。イケてる男子も女子もすでにステディな関係の人がいて手が出せない、みたいな。んで合コンとかするけど、その場の2時間や3時間では話もはずまずそのままさよなら、みたいな。どんな「中身」のある「いい人」も単なる飲み会2時間でいいところを見せるのは難しい。そんなこんなでふつうの常識的なひとはAFC (よくいる欲求不満のマヌケ)になる。でもある程度しょうがないっすね。

まあそれはしょうがないと思えない人、ちゃんとした長いつきあいをしたいのではなく、モテたい、セックスしたいっていうのが男性の本当の望みであるならば、もう「いい人」になって女性にモテるようになろうとするよりは、直接に女性を操作してひっかけて即座にセックスするまでもっていってしまえばよかろう、っていうのがピックアップ・アーティストたちの考えかたですね。中長期的な関係ではなく、もうその日だけのことを考えるならば、女性にはもっといろんなアプローチの仕方がある、ということらしい。

まあとにかくジャークであるフリをして、ナンパしてしまえ、と。女性に好かれる、とかそういうことを考えず、なんでもいいから自信をもっているフリをして、できるかぎり多くの女性に声をかけて、あらかじめ考えておいた(あるいは先生から教えてもらった)手順で事をすすめ、女性をおかしな状態にしてセックスしてしまえ、みたいな発想ですね。

フリをするためには準備が必要。声のかけかた、話へのひっぱりかた、話題、自分の魅力を示す方法、相手が興味をもったかを知る方法、店を出る方法、自分の家にひっぱりこむ方法、までぜんぶ手順とノウハウがあるわけです。それを覚えて練習して、街なりクラブなりにくりだす。そのノウハウの多くの心理学なんかをもとにした疑似科学や経験則。

たとえば、

  • 3秒ルール。目についた女性に3秒以内に声をかける。それ以上時間がかかると声をかけるタイミングを失う。
  • その場で一番ルックスの優れた女子に声をかける。他の男は手が出せないが、女子自身は自分が一番だと思っているので声かけられるのを待っている。
  • あらかじめ決められた話題。女性が興味をもちそうなネタをもちかける。たとえば「最近ガールフレンドができたんだけど、その子が僕の昔の彼女の写真を見つけて破って捨てちゃったんだけど、ひどいと思わない?」
  • ネグ。女性のプライドをなにげなく傷つけるようなお世辞を言う。他の人の前で女性を侮辱するようなことを言う。プライドを傷つけられた女子は、相手から肯定的な意見をひきだそうとして興味をもつ。
  • アルファメール。その場にいる男性のなかで、自分がなんらかの点で一番優れていることを示す。たとえば、遊びかたを提案してリーダーシップを見せる、手品などをして注目を集める、他の男を笑わす、からかって上位であることを他に示す。

他にも山ほど「テクノロジー」があって、各自先生に教わったり自分で試行錯誤して開発したりするわけだ。ポイントはとにかく自分は非常に価値のある希少な人間だ、君のような人間にはふつうは手が届かないのだ、ということを女性に見せること、自分は女性には飢えていない、女性にはむしろ興味がない、もし女性に興味があれば遊んでもいい、みたいな態度であることを示すことのようです。「いい人」のようにご機嫌をとりに行かない。むしろ価値のあるジャークであるフリをする。

「連れこんだはいいけどどたんばで抵抗されたらどうするか」みたいなのはほとんど(脱法的な?)デートレイプの方法みたいな感じで、読んでて不快なものも数多くありますわね。「とにかく酒飲ませ」みたいなのを書いているウェブとかもあります。本気でやばい。プレデター。

こういうのは別にそういう人びとの経験以外にはなにもエヴィデンスはないわけですが、読んでるとたしかに効果があるやつが入っている気がする。もしかするとちゃんと機能してしまうかもしれない。私がはじめてその種のものを読んだときに思ったは、それを試してみたいというよりは、これは学生様とかにとって実際やばいかもしれない、という危惧でした。そういう操作的なテクニックを駆使されて、いやな思いをした人や、これからいやな思いをする女子はけっこういるんじゃないかと思う(もちろん楽しい思いをする女子もいるだろうけど、どれくらいの割合なのか)。

実際、2ちゃんねるとかでもそういう板に行くとナンパ報告とかテクニック交換とかしている人びとがいて、ある程度の「成果」をあげてるみたいな感じ。amazonとかでも書籍やDVDけっこう出てますね。youtubeにもある。全部がホラとは思えない。

宮台真司先生という有名な社会学者の先生がいるんですが、彼は大学院生のころからナンパをくりかえしていたってのが自慢で、数年前に上に書いたようなナンパを実践している人びとと本を出してたみたいですね。この前気づいて読んでみましたが、だいたい上のような感じの(あるいはさらに強引な)ナンパテクニックが語られて、それがなんか現代の恋愛なるものと難しい話で結びつけられる。まあとにかくとにかく女は数だ、数をこなしてしまえば、いずれは深くつきあえるようになる、みたいな。『ザ・ゲーム』やそこらへんのアメリカのものは性暴力や酔わせてセックスするのはぜったいだめ、とにかく相手を誘惑して同意させるのだ、という方針がはっきりしていますが(まあ法的な問題もある)、宮台先生たちのはそういう縛りさえなく、とにかくやってしまえば勝ち、みたいなので非常に危険で不愉快なものになっている。

宮台先生というの人はよくわからない人で、そういうのが現代の若者が目指す道だみたいなことを言っていて、それってどういう根拠からそう言ってるんだろうとか、そういう操作的な対象になる方はどう感じるだろうか、とか、そういうのの道徳性や危害の危険性についてどう考えているのかさっぱりわからない。どうも学者としてどうなのか、社会学というのはそういう学問なのか、ずいぶんフリーダムな学問だな、とかいろいろ考えてしまいます。でもたしかにその自信はすごくモテそうで、自分の体験として話していることはホラではないだろうなと思います。そりゃあれくらいのルックスの東大社会学院生、いずれ本もバンバン出すしテレビにも出ます、みたいな人に誘われたらついていく女子は少なくないと思う。

しかしまあ女子はナンパ系男子がどういうことを考えているのか知る上で覗き見してみてもいいかもしれない。

いい人・ナンパ師・アリストテレス (4) アリストテレス先生の「高邁な人」はモテそうだ

下は読んでないけどおそらく上のに加筆したもの。

「絶望の時代」の希望の恋愛学
宮台 真司
KADOKAWA/中経出版
売り上げランキング: 11,089

いい人・ナンパ師・アリストテレス (2) なぜ「いい人」は魅力がないのか

まあ実は経済力のある「いい人」nice guy は結婚相手としては求められてるかもしれないですよね。そりゃ長期的な関係をもつとなればやっぱり性格のいい、自分のことを大事にしてくれる「いい人」に限る、っていう女性は多いように見える。

でも性革命を経た現在の恋愛市場では、女性は必ずしも一対一の長期的な関係ばかりを求めているわけではない。アラサー以上の「婚活」とか話題になる昨今ですが、それでも十代後半から二十代前半は女性はその性的な魅力をフルに使って長期的な関係をもてるような男性を(おそらく数人は)探したいだろうし、さらには人生を楽しむため、経験をつむため、あるいは、自分の(性的な)価値を知るため、あるいはその他の理由で短期的におつきあいをする男性を求める女性も少なくないように見える。

なんでいい人はそういう女性たちにモテないのか。ハミルトン先生は、いい人っていうのは特に特徴のない人のことでもある、って分析します。飛び抜けた力をもっている人は「いい人」なんかじゃない。ウィトゲンシュタイン先生やラッセル先生やハイデガ先生が「いい人」だなんて考えられないだろう、と。まあこの3人は「すごい哲学者」であって、どうしたって「いい人」と呼ばれることはありせんね(むしろ人間的には問題ある人びとな気もするけど)。つまり「いいひと」ってのは他にとりえのない人である。

さらにいいひとがいい人なのは、実は人工的で表面的なもので、欲しいものを直接欲しいと要求するガッツや男らしさが足りないように見える、と。「お前が欲しい」って言えないもんだから女性にやさしくしてなびいてくるのを待っている。女性の気持ちやニーズを研究して女性に好かれるようになろう、っていうのはけっきょく女性を性的な対象と見てるだけじゃなく、操作可能な対象と見てるわけですよね。さらには、いろいろ努力していい人になってもモテない男性の多くはルサンチマンみたいなものを抱えて女性を憎むことがある。はてな増田とか見てても、「俺はこんなにいい人なのに誰も気づいてくれない」みたいに考えてる人は多そう。

さらにはいつも女性のご機嫌をとりつづけている男性がDV加害者になる、みたいなことも十分にありえる。女性にプレゼントするんだってプレゼントしたくてするとうよりは、女性が欲しがっているからプレゼントする、そしてプレゼントすれば自分を好きになってくれるだろう、みたいなのから来る。ストーカーみたいなのの一部は「あいつのためにこんなに尽したのにあいつは!」みたいな心理があるんじゃないかと思いますが、それってけっきょく「やさしくすれば女性は自分を愛してくれるはずだ」という思いこみや、そういう操作可能な対象と相手を見ることから来てるわけですよね。

つまり、ひょっとすると人工的な「いいひと」の裏側には、女性に対する蔑視みたいなのがあるかもしれない。みかえりを期待して女性にやさしい男性というのは、けっきょく自分の幸福のための手段として相手を見ているわけですわ。アリストテレス先生だったら、そういうのは有用性、あるいは快楽にもとづく友愛関係でしかないって言いそうだ。カント先生だったらそういう動機からプレゼントしたりやさしくしたりするのに道徳的な価値はない、むしろ道徳的には非難されるって言いそう。

自分勝手、自己中心的な「ジャーク」は「いい人」とは対照的で、ジャークはまず常になにかしている。バンドでベース弾いてたり、バイク載ってたり、サーフィンしたり、ホストで祇園ナンバーワンになることを目指していたり。とにかく、まわりの「いいひと」たちとは違う。「いいひと」は女性が望む平凡なことしか提供しないけど、ジャークはライブで愛を叫んだあとに楽屋でへんなことしたり、バイクの後ろに乗せてぶっとばしたり、サーフィンに連れていったり、シャンパンタワー立てたり刺激を与えてくれる。彼らはなにかすることがある。そういうことするのは、相手の女性のためというよりは、単に自分がそうしたいからしているだけなんだろうけど、それは少なくとも常に女性になにかを求めてその言いなりになる「いい人」たちとは違う。たしかに彼らも女性を自分の快楽のための道具にしているんだろうけど、少なくとも彼らは自分に満足しているし欲しいものは欲しいと言うことができる。自発的だし、自己充足してるんですね。女性がいればいいけど、いなかったらいなかったでしょうがないし、すぐに次を探す。ご機嫌とりに汲々としない。

「いい人」は他人の評価を気にしておどおどし、誰かから厳しいことを言われると「すみませんすみません」とかすぐにあやまって反省して自分の悪いところを直そうとするけど、ジャークは他人がどう評価しようがかまわない。他人にどう評価されるかなんてことより自分の基準を優先する。そしてそういう人だけが成功することができる。もちろん失敗する奴も多いだろうけど、でもその自信と挑戦や活動はやっぱり魅力的だろう。女性からすれば、少なくとも短期的におつきあいするぐらいの価値はあるかもしれない。すくなくともその場では刺激的だろうし、なんらかの経験にもなるかもしれないし。そのあとで長期的につきあうかどうか決めたらいいわけだしね。この前「バンドマンは性格悪いからつきあうな」みたいなネット記事を見ましたが、でもとりあえず1回ぐらいつきあってみたい、と思う人も少なくないはず。いいひとなんかとつまらないデートしているよりずっといいだろう。バンドマン、美容師、バーテンダーとはつきあってはいけない、と言いつつ、そりゃみんな1回はつきあってみたいから「つきあってはいけない」になるわけですよね。「〜したい」っていう欲求がないなら「〜してはいけない」っていう禁止は必要ない。

(c)地獄のミサワ先生
使ってこめんなさい

「まえー、バンドマンとつきあってたんだけどー、そいつほんとにクズでー」とかって不幸話か自慢話かわからないこともできる。「いいひとだったんだけどつまんなくて」「どうつまんなかったの?」「特にめだった特徴のない人で、何も思い出せない」とかぜんぜん話が続かないっすよね。

でもやっぱりジャークにはなれない男性というのはいるわけです。やっぱり無根拠な自信みたいなのはふつうの人はもつことができないっすからね。ジャークであるにも才能が必要だ。ジャークに特有の各種の活動の才能も必要だし、それは選ばれた人びとのものだ。ベース練習すんのもたいへんですよ、ほんと。指痛いし。ハミルトン先生によれば、んじゃどうするか、というところで発見されたのが、各種のナンパテクニックだ、っていうわけです。

いい人、ナンパ師、アリストテレス (3) ナンパ師の世界というのがあるらしい