カント先生とセックス (4) 恋人関係でもセックスしてはいけません

前エントリで「利害関心にもとづいて」と訳されているのは主に金銭的利益とかを考えてって、ことです。まあ「売買春はいかんです」というカント先生のご意見に「我が意を得たり」みたいな人は少なくないかもしれませんが、カント先生が偉いのは、売買春だけじゃなくて、お互いに性的に求めあってる関係でさえセックスはいかん、と主張するところですね。前エントリでは「金銭とかの利益のために体をまかせる」のが問題だったように見えるけど、実は「性欲のためにお互いに身をまかせる」のも同じ。カント先生は結婚してないでセックスするのを「内縁関係」と呼ぶのですが、こんな感じ。

では、自分の傾向性を第二の仕方すなわち内縁関係によって満足させることは許されないのだろうか。──この場合、それぞれの人格は相互に自分の傾向性を満足させるのであり、意図として何ら利害関係をもたず、一方の人格が他方の人格の傾向性を満足させるために奉仕しているのだろうか。──この場合はなんら目的に反するものは存しないように見える。しかし、ひとつの条件がこの場合をも許されないものにする。内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねるが、自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく場合である。しかし、自分を他の人格に対してただたんに傾向性の満足のために差し出す人は、やはり依然として自分の人格を物件として使用させている。傾向性はやはり依然としてたんに性へと向かうのであり人間らしさには向かわない。とにもかくにも、人間は、自分の一部分を他人に任せるときに、自分の全体を任せているのだということは明らかである。人間の一部分を意のままに処理することはできない。なぜなら、人間の一部分はその人間全体に属しているから。

ここはおそらくかなり解釈が必要なところなんですね。「内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねる〜」ってのはどういうことか。まあ結婚してない短期的〜中期的な性的なおつきあいっていうのは、まあお互いにセックスしたいからセックスする関係なわけですが、それもやっぱりお互いをお互いの性欲の対象にすることだ、と。「自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく」。「人格」はあんまり深読みする必要はないです。単に自分。つまり、自分の幸せとか将来とかについては自分が決める。どこで就職するかとか、誰とつきあうかとかっていうのは自分で決めますよ、他の人の命令にはしたがいませんよ、っていうのを保持したままで(あたりまえですね)、相手とセックスする状態なわけです。まあふつうですよね。でもこうした態度はカント先生には問題があるらしい。

これは内縁関係と対になる結婚関係をどう考えているかを理解しないとわかりにくいですね。カント先生の考えでは、男女が結婚すると、自分の幸せとか将来について自分だけでは決められないようになるのです。キリスト教的な、結婚によって男女は「一体になる」みたいな考え方。もう身も心も性的能力もぜんぶあなたのものよ、あなたのものはぜんぶ私のもの、だからあなた自身のことでも私の許可がなければ勝手に処分できませんよ、みたいな関係が結婚関係なんですね。セックスはするけど自分のことは自分で決めます、みたいな関係は、自分と相手の性欲を満たすために下半身だけの関係をもつことで、それによって自分をモノにすることだからいかん、それは自分も相手も単なる性欲の満足のための手段とすることだ、と。セフレ禁止。

しかしカント先生、なんだって恋人・内縁・セフレ関係を「性に向かって人間性に向かうものではない」とかって考えちゃうんですかね。モテない雰囲気がただよってます。おたがい納得づくで、自分と相手を性欲を満すためのモノにし獣にする、みたいなのむしろよさそうですけどね。「んじゃ今夜も獣なっちゃう? エブリバディ獣なっちゃう?チェケラ!」「やだーもうエッチなんだから……なる……」みたいな。でもチェケラってはいかんです。

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