セックスの哲学」カテゴリーアーカイブ

性表現と表現規制(3) 猥褻猥褻

ええと、んで猥褻なんですが、どういうわけかエロい表現は国家が規制してもかまわん、とみんな思いこんでた時代があるみたいなんですね。いまもそうかもしれないですけど。とにかくある種の表現はわいせつでいやらしくてけしからんので流通させないようにしよう。ロック先生やミル先生がそういうについてどう考えていたかはしりません。とにかくちょっとエロいのは許しますが、猥褻なのはいかんです。いかんエロい表現、それが猥褻。

まあ文学の話でいけば、19世紀半ば以降の自然主義とかってのが人間の本当の姿を描こう、みたいにしていろいろやばいことを書いたりして。でもまあそんなエロいわけではなく、人間ってこうだよね、みたいな感じで表現を拡張したわけですわね。でもふつうの人間っていろいろエロいことばっかり考えてるから、ふつうの人間を描こうとするとどうしてもエロくなったり、エロいと喜ばれるので芸術家もどんどんエロ描いたり。20世紀ぐらいにはもう露骨にエロを目指すものも多かったし、D. H. ロレンス先生やヘンリー・ミラー先生みたいに「エロこそ人間性」みたいな描き方をする人も出てきたりしてもうたいへんです。なんていうか、20世紀前半は芸術家みたいなキレてる人ががいろんなタイプのエロに挑戦し、半ば以降は中流の人もみんな性の解放を目指した、みたいな感じですかね。もちろん階級がもっと下の人はいろいろしてたでしょうなあ。実際は19世紀末〜20世紀前半の人たちはみんないろんなことしてたんでしょうけどね。

えーと、んで猥褻猥褻。

誤解されやすいんですが、「猥褻」obsceneっていう概念は、たんに「エロい」という意味ではないです。単にエロじゃなくて、プラスアルファがある。それはだいたい不快なものです。

日本だと、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」が猥褻なもので、こういうものは頒布とか規制しても憲法第21条に反しないってことになってます。おもしろいですね。ふうつの人が見て恥ずかしくならないものは猥褻じゃないし、善良な性的同義観念に合ってればいい。普通の夫婦が「同衾した」ぐらいの文章だったら大丈夫なんでしょうが、善良な人は性器のアップ写真とか見たらなんか羞恥心を害されたり道義観念に反していると思うかもしれませんね。当然のことながら、医学写真とか「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ」ないので猥褻ではないです。

米国だと猥褻ってのは(1)平均的な人が、今日の地域社会の基準を用いて考えた場合、全体的に見て、好色な興味に訴えるものであり、(2)その作品は、当該の州法によって具体的に定義された性的行為を、明白に不快な仕方で、描写あるいは記述しており、(3) その作品は、全体的に見て、重要な文学的、芸術的、政治的、あるいは科学的な価値を欠くものである、みたいな感じです。猥褻は「不快」じゃないとならんのですが、まあなにが深いかってのは平均的な人が判断するってのでよい。

英国だと「当該物件が、それを入手する可能性のある者でその種の不道徳な影響に心を閉ざしてはいないものに対して、これを堕落、腐敗させる傾向を持つもの」とか。

まあ猥褻というのはこういうふうに、とりあえずは性的な関心を喚起するものであって、かつ、不快なものなのですね。そういうのは政府が規制してもかまわんのである、ってのが1970年ごろまでの話。

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性表現と表現規制(2) エロな表現

んでやっと猥褻の話なんですが。猥褻って字は難しいですね。私は書けません。猥褻猥褻。

言論の自由ってのはまあ政治的にはとても重要なので、民主的な先進国の市民ならほとんど誰でもその重要性を認めるわけですが、それでも言論の自由や表現の自由ってのは絶対的なものではないです。前にも書いたように、誰かについて嘘だとわかっていることを言いふらすとか、嘘の宣伝をするとか、誰かを面と向かって侮辱するとか、誰かの私的な生活を暴き立てるとか、暴動やリンチを扇動するとか、不快な話を聞きたくない人々の前で大声で話すとかなんでも自由です、ってなことになると具合が悪いです。そういうわけで日本の法律と判例でも表現の自由は公共の福祉に反しない限りで保護されるとかそういう限定がついているわけです。

ところでこれまで言論の自由と表現の自由を区別しないで使ってきましたが、まあ面倒なのであんまり区別しませんが、言論の自由ってfreedom of speechでやっぱり言語的な表現なわけで、なんからの思想の表現なわけですが、表現の自由でfreedom of expressionで図像とか動画とかはいってもっと複雑ですわね。

んで、18〜19世紀的な言論の自由ってのはやっぱり思想の自由なわけでありまして、あんまり画像のこととか考えられてなかったはずです。実際にあるアイディアを伝えるために絵を印刷するのが難しかったからでしょうね。いまなら本にイラストとかはいっているのはふつうというか、私はマンガ大好きなわけですが、図像を印刷するのはけっこう大変みたいですね。19世紀はじめの新聞とか線画みたいなのか銅版画見たいなのしかなくて、あんまりエロくない。絵画は一品物でカラー印刷とかできないですしね。エロが活躍するのは写真の技術ができてから……あ、まだエロの話じゃなかった。

いやまあエロの話にしますか。まあ表現の自由に関する議論のなかでも、エロ表現に関する規制は非常に面白いですね。人間のかなり多くはエロなことをしたりするだけでなく見たり読んだりするのもすごく好きなので、昔からいろんなエロが制作されているわけです。まあ芸術家も人間なのでエロが好きだし、人々がエロが好きなのでエロい作品を作ったりするのでまああれです。おもしろいことに、政府とかお堅い方々というのはあんまりエロが好きじゃないのですね。どうもエロには風紀を乱す力があるようで、文化が栄えるとエロが栄えて為政者がそれを作る人を処罰する、ってのが繰り返されるわけです。

特にエロい部分をあれしているのがエロいです

これたとえば古代ローマ時代のオウィディウスとかエロい詩を書いてたらアウグストゥス皇帝からローマ追放されたりしている。ギリシアやローマのエロチックな絵画や彫塑がどの程度エロいものとして見られていたかってのはよくわからんですが、少なくともルネッサンスとかのあの美術作品とか文学作品とかってのは当時の人にはとにかくエロくてすばらしかったでしょうなあ。中世のとは全然違いますしね。まあいま読むとボッカチオの『デカメロン』なんてそんなエロい感じはしないですが、それでもまあ当時はかなり赤裸々な感じだったろうし、ボッティチェリの絵とかもエロいですよね。とにかくエロはいい。まあそういうのは禁書になったり。18世紀イギリスでのクレランドの『ファニーヒル』とかいま読んでもエロいかもしれません。あと19世紀後半の匿名筆者による『わが秘密の生涯』とかすばらしい。むかしの富士見ロマン文庫はすばらしいです。

なかなか猥褻にならんですね。

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性表現と表現規制(1)

会田誠先生の森美術館というところでの展覧会に、ポルノ被害と性暴力を考える会(http://paps-jp.org/ 以下「考える会」)という団体が抗議をしたのをきっかけに、ネット界隈では芸術と表現の自由とかについての議論が盛んになっているようです。まあ性表現と表現の自由の問題は愛好者も多いし、もしかしたら深刻な問題を含んでいるかもしれないので興味深いですね。

私自身は「芸術」みたいなもの全般はとにかく、造形美術の方はまったくダメというかよくわかんなくて、造形美術とかについて語る資格はまったくないし、芸術一般というくくりを超えてはそんな興味があるわけでもない。造形とかで興味があるのはアートではなくむしろずばりエロ。でもまあ性表現と表現の自由の問題はセックス哲学の問題として興味深いし、本物の問題があるように思っていますので少しずつ書いてみたいと思います。

「考える会」の抗議に対しては森美術館と会田先生本人から声明が出ていて、そのなかで会田先生は

僕の作品群の中には、性的なテーマとは限りませんが、人によってショッキングと受け取られる表現があると思います。そういう場合、僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。また「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。発表する場所や方法は法律に則ります。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html

てなことを言ってる。

ちょっと前にツイッターで、この「発表する場所や方法は法律に則ります」について、芸術家がそうした宣言をすることは危険だという趣旨のつぶやきがリツイートされて流れていました。その一人にお話を聞いてみると、そうした宣言は刑法175条のわいせつ物頒布罪という悪法を承認することであり、国家権力が表現に介入することを是認することであって、また会田先生という有力な芸術家がそうした宣言を行うことによって他の芸術家や表現者たちが萎縮してしまう(萎縮効果)という危険がある、ということのようでした。(誤解があるかもしれません)

しかし私の理解では上の会田先生の宣言をそう読むのはあまりよい解釈じゃない気がしたんですね。それを説明するには、まずは考える会の主張をちゃんと理解してあげる必要があるように思います。

考える会や、おそらくこの団体と近い関係にあるポルノ・買春問題研究会 http://www.app-jp.org/ の背景になっている理論はそれなりにおもしろいんですよね。基本的には1980年代にキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンといったラジカルフェミニストたちが生み出した物の見方。これらの人々は、ある種の性的な表現「わいせつ」だから規制するべきだってんではなくて、ある種の性表現はそれ自体が性暴力や性差別や性虐待であり、またそうした暴力や差別を生み出す社会を生み出している原動力だから規制するべきだ、ってな議論をしているわけです。とりあえず古臭い「猥褻」は直接には関係ないんですわ。

まあ長くなるんですこしずついきます。

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Ratus先生たちのHuman Sexuality

というわけでまあおすすめのRathus, Nevid & Fichner-Rathus先生たちのHuman Sexualityの「ジェンダー役割」の項目も訳出してみました。他にも妊娠のメカニズムとか人々はどんなのに興奮するかとか、おすすめの体位とか各種テクニックとか、ポルノやら性暴力を避ける方法やら事後対策やら、なにからなにまで書いてて素敵なんですがね。2、30人人集めて翻訳して出版したいなあ。価値があると思うんだけどね。

これは第6版のやつなので、最新第9版では参照する文献とか含めてぜんぜん違う文章になっているのではないかと予想。第8版は図書館入れてもらったつもりだけどチェックしてない。まあ第9版をamazonで私費で注文したからどんなになってるか楽しみでもある。

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前に紹介したボストン女の健康の本集団のOur Bodies, Ourselvesは松香堂から1988年に出たやつを入手してみました。『からだ・私たち自身』ってやつ。出てるのは知ってたけど放っておいたんよね。

定価5000円。藤枝澪子先生が監修、校閲を河野美代子先生と荻野美穂先生がやってて、訳者は「翻訳グループ」が23人、「編集グループ」が25人。すごい大きな仕事だ。偉い。まあこれくらい人数集めないとできないわよね。当時のフェミニズムに勢いがあって、みんな真面目だったのがわかる。これから25年四半世紀も経過してるんだからフェミニストグループが同じようなことやるってのもありそうなんだけどね。あちこちから研究助成みたいなのもでてるだろうし組織もしっかりしてきたし。まあ私がやるべき仕事ではない気もしてきた。

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オペラを勉強してモテるようになろう!

「セックスの哲学」といえば、面倒なことせずにモテる方法とかってのを期待している人も多いんじゃないかと思うので、おそらくモテるために学んでおくべきことを示唆しておきたいですね。まああくまでおそらくなんですけど。あとに述べるように哲学者や哲学研究者自身はモテることはむずかしい。 続きを読む

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性科学を勉強しよう

セックスの話をするときは、当然人間としての事実がどうなってるのかを知る必要があるわけです。まあ他の人がどういうことをしたりどういうこと考えたりしているかってなかなか知れないもんですしね。ここらへんはやっぱり生物学者や医学者や心理学者や社会学者のやってることを勉強しないとどうしようもない。まあいろいろ知ってる人は別として、哲学者っていうのは自分の経験以外はなにももってないので人に聞くしかないし、自分のもってる経験も哲学者の場合は非常に貧弱なことが多いようですなあ。

国内のネットでセクマイの話とか一部ではもりあがってるけど、どれくらいの人々が同性愛的な活動をしているかの見積りぐらい出してほしいですよね。あと売買春にかかわってる人はどれくらいかとかさ。ポルノはどれくらいの人が見てるのか(あるいは見てない人がいるのか)とか。ふつうの人は週何回セックスするんだろう、とか。まあいろいろ知りたいことはあるわけです。いや、むしろ知りたくない気もする。まああれだ。

でも国内ではいい本あんまりないんですよね。

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『女医が教える本当に気持ちのいいセックス』とかすごい売れたらしいですが、まあこれはセックスハウツー本なので実際にはどうしているのかわかならない。ははは。

おそらく性教育のテキストとしては『セクソロジーノート』っていうのが最強でしょうが、まあふつうというかなんというか。

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NHKの調査はなんかヌルいし。

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しかし性科学はけっこうおもしろい分野なので、ちゃんとした大学の教科書もいっぱいあるのです。ずっと前から宣伝しているのがRathus先生たちのやつで、興味のある人が多い男性・女性セックスも、男性男性も女性女性もいろんなテクニックも結婚も離婚も妊娠も性暴力もポルノももうセックスに関することはなんでも書いてあるです。こういうので勉強した米国の大学生はどうなるんすかね。

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新しい版が出るみたい。これ教科書で、虎の巻(章末の問題の答やレポートの書き方とか書いてある)みたいなのもいっしょに出てるので注意してください。私ひどいめにあったことがある。

ちょっとだけ部分的に訳してみたところがありますのでどうぞ。ここともうひとつGender Identityのところの一部を訳出して紹介したいんですがね。

なんかこういうちゃんとした調査しないでセックスについて語ってもピントぼやけたり、自分のセックス語りになっちゃったりしてあれですからね。ははは。

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セックス哲学アンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出たよ

Alan Sobleが編集していたアンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出てました。

中身がずいぶん変わって、1.(セックス概念の)分析と倒錯、2.クィア問題、3.(性的)モノ化と同意の理論的問題、4.モノ化と同意の具体的問題、という構成になってます。ずいぶん大きな変更です。

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ソーブル先生はあんまりLGBTとか詳しくなくて第5版までの扱いは小さかったのですが、今度のは大々的。Raja Halwani先生がトップ編集者になってます。「今回は、比較的安全なセックスそのものの領域を離れて、ジェンダーの問題につっこんでみた。実は5年前(第5版で)はそうする気にはなれなかったのだが、それは編者のニコラス・パワーとアラン・ソーブルがあんまりクィアの問題扱う気になれなかったからだ。というのも、あんまりアカデミック哲学的にたいしたことないように思えたからだ。でもそれから学界も発展してより論文も出たから、今回はハルワニも加えて充実したよ」みたいなことを序文に書いてます。みんな買って読みましょう。

実はアンソロジーにどういう論文が収録されているかリスト作ろうとしたんだけど挫折。もうばらばらで「これは絶対」みたいなのはまだ存在してない感じ。

https://docs.google.com/spreadsheet/ccc?key=0Al25GTQ1cYTtdFlHNWRtTklaaDFYX3lINmJadm5BYWc

こうして見ると論文の栄枯盛衰みたいなんも感じる。ネーゲル先生強い。

生命倫理のアンソロジーなんかだともっとはっきり「これが大事」みたいなんが決まってる気がするけど、セックス哲学ではそういうのはまだまだ。それに生命倫理なんかだとハンドブックみたいな形でとりあえず定説と基本的批判みたいなんを提示することができるけど、セックス哲学はそういうのもあんまりない。どういう問題を中心的だとみなすか、どう編集するかってのも試行錯誤中。まだ未開拓の領域ですわね。

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恋愛の類型学 (2) スタンバーグの三角形理論

スタンバーグ先生は恋愛心理学の一発屋ではなく、認知心理学とかのほうでけっこう大事な仕事した人なんじゃないですかね。

リー先生の恋愛の色彩理論は、恋愛を六つなり八つなりのタイプに分けるって考え方(類型論)なわけですが、まあそんなすっきりタイプに分かれるもんでもないだろう、みたいに思った人も多いと思います。スタンバーグ先生の理論は、恋愛ってのには三つの要素があって、それの強弱でいろんなタイプの恋愛があると考えます(特性論)。 続きを読む

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恋愛の類型学(1) リーの色彩理論

セックスの哲学史とかいって哲学史におけるセックスの問題を扱おうとすると、どうしたって「セックス」というよりは「愛」とか「エロース」とかそういう問題としてとりあつかことになります。まあ私はそもそも西洋人は性欲と愛との区別あんまりついてないんじゃないかと疑ってるんですが。

とりあえず哲学史として見てみると、愛っていってもloveとかamourとかerosとかいろいろ出てきて混乱しちゃいます。 続きを読む

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セックス哲学史:サッポー先生に恋を学ぼう

古代ギリシアの恋愛詩というと女流詩人のサッポー先生が有名です。レスボス島に住んでて女性どうしてあれしていたのでレズビアンの言葉のもとになったとか。名前は聞くわりには作品を読むことめったにないですよね。断片しか残ってないからのようです。 続きを読む

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セックスの哲学史: エピクロス先生に我慢を学ぼう

エピクロス先生は古代ギリシアの哲学者で、ソクラテス先生より一、二世代下ですかね。

エピクロス先生
私のヒーローの一人

いっぱんにエピクロス派っていうと「快楽主義」ってことになってて、英語でエピキュリアン(エピクロス派)って言うとおいしいもの食べたりぜいたくな風呂に入ったりそういうのを連想することになってますが、快楽の追求よりは苦痛の回避をまず考えた、ってのが正しい理解ってことになってます。快楽を追求するのは難しいけど、苦痛を避けるのはちょっと工夫するだけで簡単だよ、ってな感じですね。なんか消極的であれなんですが、私は魅力を感じてます。

先生自身は本とか書かなかったわけですが、しゃべったことと手紙の断片みたいなものが残っていて、岩波文庫にはいってますから買いましょう。

飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。

なんて言葉が残ってます。われわれの関心としては、セックスへの欲望とかってのもなかなか強烈なんだけどそれどうすんのよ、って感じですよね。

いっさいの善の始めであり根であるのは、胃袋の快である。 知的な善も趣味的な善も、これに帰せられる。

これ「胃袋」ってなってるけど、英訳とか見るとbellyだったりして、訳によっては「腹」とか「下腹部」とか訳されることもあるみたい。下腹部といえばあっちの法の快楽も気になりますわねえ。

エピキュリアン、快楽主義てことになればセックス大好きであざといこともするのかと思いきや、エピクロス先生は基本的にはあんまりセックスをおすすめしない。それはセックスそのものが悪いことだからじゃなくて、セックスするために告白したりお金つかったりいろんな面倒なことをしなきゃならないからね。

(おそらく)「セックスしたくてしょうがないんですがどうしたらいいんでしょうか先生」とかたずねられて、上野千鶴子先生は「熟女にお願いしろ」って答えたようですが、エピクロス先生はこう答えています。

肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人のだれかを悩ましもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないのならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが君は、結局、これらの障害のうちすくなくともどれかひとつに行き当たらないわけにはゆかない。というのは、いまだかつて性愛が誰かの利益になったためしはないからであって、もしそれがだれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。

立派ですね。上野先生とは格が違います。まあ熟女にお願いしてとりあえずあれしてもらっても、あとでその熟女にしつこくされたり、関係者から「ゴルァ」ってされたり、友だちに笑われたりいろいろいやなことがあるでしょうからね。セックスなんかしないにこしたことはありません。でもんじゃ性欲の苦とかどうすんですかね。まあ一人であれしときゃいいんですかね。「隠れて生きよ」っても言っておられますし。セックスなんかしないでセックスについて哲学していれば穏かに苦痛なく生きることができるわけです。ははは。

犬に見守られながらはずかしいことをする準備をしているディオゲネス先生

そういやエピクロス先生たちの派閥と対立(?)してた派閥に「キュニコス派」(犬儒派)って人々がいたんですが、それの一番有名な「樽のディオゲネス」先生(樽で寝起きしてたから樽のディオゲネス。シノペのディオゲネス。犬みたいな生活したから「犬のディオゲネス」とも呼ばれる)は人前で自分のあれをあれして、「こんなふうにこすっただけでお腹がいっぱいになったらいいのになあ」って言ったとか言わなかったとか。まあこすれば幸福になるんだったらこすればいいですよね。

古代ギリシアの哲学変人たちの言行についてはディオゲネス・ラエルティオス先生の『哲学者列伝』が楽しいので必ず読みましょう。

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セックスの哲学史: 狂気としての恋・性欲(1)

西洋人はどういうわけか古代ギリシア文明を自分たちの文化の源流だと思ってるらしいです。なんかあるとソクラテスやプラトン、あるいはホメロスまでさかのぼっちゃったりして。なんかそれって日本人が孔子様や老子様たちを自分たちの先祖だって言ってるみたいでなんかあやしいんですけどね。
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Antioch大学の性暴力防止規程

レイプとかセクハラっていうのは「同意があったかどうか」みたいなのが面倒なので、きっちり口頭や文書で同意がないかぎり性暴力とみなそう、みたいな動きがあります。実際に学則に組み込んだ大学もある。

1990年、キャンパス内で2件のデートレイプが発生したことをきっかけに、大学でのレイプ防止のとりくみが開始され、1991年Sexual Offense Policyが制定されたようです。次第にアップデートされ、現在では2005年版が有効になっている。 これをめぐって90年代アメリカではけっこう激しいデートレイプ論争が起きました。日本ではあまり紹介されてないのでとりあえず学則だけ抄訳。

(あら、いま確認したら上のページはsuspended。 とりあえずこちら。
http://www.mit.edu/activities/safe/data/other/antioch-code)

訳や番号は正確じゃないです。そのうち正確にしたいけど、元資料がないとなあ。

「同意」のないセックスはぜんぶ学則違反とした上で、同意を次のように規定するわけです。

===================== ここから ====================

  • 同意とは、特定の性的行動に参加することを自発的に口頭によって合意することである。以下に要点をあげる。
  1. 性的活動を行なう前に、その時々常に同意が得られなければならない。
  2. 参加者はみな性的活動を明確かつ正確に理解していなければならない。
  3. 性的活動を開始しようとする者は、同意を求める責任を負う。
  4. 性的活動を要求されたものは、口頭での返答をなす責任を負う。
  5. 性的活動の新しいレベルごとに同意が必要である。
  6. ジェスチャーやセーフワードについての同意された利用は受けいれられるが、性的活動をはじめる前に参加者全員によって論議され口頭で合意されなければならない。
  7. 同意は参加者たちの人間関係や、それ以前の性的経歴、現在の活動にかかわりなく必要である。(たとえば、ダンスフロアでグラインドすることはそれ以上の性的活動に対する同意ではない)
  8. いかなる場合も、同意が撤回された場合、あるいは口頭によって合意されない場合、その性的活動はすぐさま停止されねばならない。
  9. 沈黙は同意ではない。
  10. 身体的動作やあえぎ声(moans)などの反応は同意ではない。
  11. 寝ている間は同意することができない。
  12. すべての参加者の判断力が損なわれていてはならない。(アルコール、ドラッグ、心理的健康状態、身体的健康状態などが判断力を損なう例であるが、これに限られるものではない)
  13. すべての参加者はセーファーセックスを実施しなければならない。
  14. すべての参加者は、個人敵なリスクファクターや性感染症を開示しなければならない。それぞれの個人が自分の性的健康についての意識を保つことに責任を負う。

===================== ここまで ====================
私だったら「ボーイフレンドと別れたばかりのときは同意できない」「犬が死んだときは同意できない」「クリスマスの日は同意できない」とかもっとつけたしたいですね。

こういう学則をちゃんとしておけば、まあセックスでもめることは少なくなるでしょうなあ。でも馬鹿げている、っていうひともいるわけですよね。むしろこっちが多数派。でも馬鹿げているのはなぜだろう?

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杉田聡先生の考えるあるべきセックスの姿

国内で売買春やポルノグラフィを猛烈に批判している人の一人に、杉田聡先生がいます。

杉田先生によれば、本来セックスは双方が「自発的な意思」によって「自主的に興奮」し、双方が「性的快楽」を味わうことができなければならない。売買春は一方だけが性的興奮や性的快楽を得るものなので不道徳だ、それはもはやセックスではなく性暴力と等しい、と言いたいようです。セックスに金銭をはさむな、そんなのはセックスではないと。
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活動の「目的」とかそんなにいっしょうけんめい考える必要はないかもしれない

前のエントリで「セックスの目的」みたいな話に触れてみたけど、こういうのってなんかやっぱりあやしいところがあるわよねえ。

ちょっと前にツイッタとかで「学会の目的ってなんだろう?」みたいな書き込みを見かけた。まあ人間関係とか組織的活動とかうまくいかないと「〜はなんのためにあるんだろう?」なんてこと考えちゃいますよね。「人生ってなんだろう、なんのために生きてるんだろう?」とか。ははは。「セックスの目的」みたいなのについて考えるのもだいたいそれがうまくいってないときとかそれができないときとか、まあとにかくうまくいってないときだわよね。まあ一般に反省したり哲学したりするのはなにかがうまくいかないときだ。セックスの哲学している人々はだいたい哲学はたのしくやってるだろうけどセックスを楽しくしているかどうかはわからない、ははは。

まあとにかくたとえば「学会の目的」みたいなのを考えたときに、「学会の本来の目的は学術的な意見を交換し、もって知識の拡大を図るのだ」みたいなご立派な目的が提示されるわけですが、実際の我々の活動をみるとそれだけが目的ではない。

知識を求めてくる人もいれば、酒を飲みに来る人もいる。研究仲間や子分を探しに来る人もいれば、自分が偉いことを示したい人もいるし、嫌いな教員の弟子をいじめに来る人もいるし、まあほんとにいろいろ。っていうかなにか組織や活動が一つの「目的」のためにあるのだと考える必要はない。上のすべての目的を同時に果たしている人もいるだろう。

セックスという活動もそういうことがありえる。子どもを作りながら快楽を味わいつつお金も稼ぐセックスもあるかもしれんし。まあそんな話。

ソーブル先生なんかはセックスってのは多義的 polysemic だ、みたいな話をするのがいつもの手段。まあわれわれはいろいろしているのです。

あと書きそびれたけど、なにかを定義しようとするときに、その活動の目的——何を目指しているのか——を問うのはソクラテスやアリストテレス以来の伝統だってのも書くべきだったかもしれないけどまあいいや。

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セックスの本来的(?)目的

「倒錯」っていう概念とからんでおもしろいのが、セックスには(本来的な)目的があるのかどうかとか、我々はなにを目指してセックスするのか、とかって話。「本来的な目的」みたいなのがあれば、それ以外は倒錯だとか言いやすくなるからね。

「セックスって結局なにを目指しているものなのか?」ってのに「射精」とか答える人がいるかもしれないけど、んじゃ女性はセックスできないことになっちゃうのかしら。女性の場合は「射精されること」なのだろうか。んじゃ早漏に悩んだり不満を感じたりする必要はないだろうし、なるべくさっさとすませるのがいいんじゃないかって話になってしまうかもしれん。

「生殖こそがセックスの本来の目的なのじゃ」みたいなのに魅力を感じる人は多い。このタイプの考え方をする人は生殖につながらないセックスは倒錯的だとか、神の意志に反しているとか自然に反しているとか言っちゃう。そこから生殖以外の目的によるセックスは道徳的にも不正だとか非難に値するとかって考える人もいる。まあとてつもなく多くの人が神の意志や自然に反してるんでしょうなあ。私は知らんですが。

「セックス(性的活動)ってのは性的快楽を求めるものだ」みたいなのがAlan Goldman先生が有名な論文”Plain Sex”で主張したことなんよね。で、ゴールドマン先生によると、性的快楽以外のものを求めるセックスはどっか不純なところがある。典型的には売春はお金のために自分の性的能力を売っているわけだけど、これはセックスをお金をかせぐ道具にしていてセックスがもっている価値を下げてしまっている。セックスは自分と相手の快楽を目的とするべきであり、快楽の代償は快楽じゃないとおかしい、みたいな。驚くべきことに、「愛のためのセックス」とかってのも、愛情の確認とかのためにセックスをつかっているのでセックスの価値を貶めている。あくまでセックスは性的快楽のみをめざしておこなわれるべきなんちゃうか、みたいな議論につながる。

ゴールドマン先生の議論がどの程度うまくいってるのかとか事実判断と価値判断の関係はどうなってるんだとかいろいろ問題はあるところだけど、この筋の議論はけっこうおもしろい。

他にセックスの(本来的)目的としては「親密さ」や「コミュニケーション」がある。親密さを強めるのがセックスです、お互いを深く知るのがセックスなのです、みたいなのとか、「セックスは感情を交換することなのです」みたいなの。これも人気があるわよね。有名なのはJanice Moulton先生の”Sexual Behavior”とか。このタイプの考え方をする人は、「だから売買春やカジュアルセックス(ナンパ即セックスとかワンナイトとか、まあよく知らない人とセックスする)は本当のセックスじゃないのです」みたいなことを言うかもしれない。

一番リベラルな立場(リバタリアン)は、セックスは他の人間の活動となんもかわるところがないし、特定の目的のためにしなきゃならんなんてことはない、みんな好きなようにセックスすればいい、とかって主張したりする。

まあこういう「セックスの目的」の話は、セックスが飯食ったりお茶飲んだり音楽聞いたりする(ふうつの?)活動とどう違うのか、というところにもかかわっている。セックスは人間にとって特別な活動だと思われていていろいろ保護されたり禁止されたりしているけど、本当に特別なんだろうか?特別だとすればどういうふうに特別なんだろうか?その理由をどれくらい挙げることができるだろうか?

「本当のセックスの目的」みたいなのはいろいろあやしいところがあるし、「セックスはこうあるべきだ」「こうじゃないセックスはだめなセックスだから禁止しろ」みたいなのとつながりやすい。ここらへんの議論は道徳的な価値判断とかかわってきて私にはけっこう楽しい。あとでもっと詳しくいろいろ議論してみたい。

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セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。 続きを読む

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セックスの概念分析 (4) からセックスの形而上学へ

まあ「セックス」とか「性的活動」とか「性的欲望」「性的快楽」みたいな言葉の分析は「我々はなにを言おうとしているのか」ってのははっきりさせる時には重要だけど、それだけではあんまりたいしておもしろい話は出てこないかもしれない。

「セックス」がなんであるかとかやっぱりすごく広範囲で、「これがセックスだ!、そしてこれ以外はセックスではないのだ!」みたいなクリアな線は引けないかもしれない。

たとえば前にも書いたように、性的活動が(当事者の)性欲(性的欲求)をともなっている活動だとしても、性欲ってのがどんなものかをはっきりさせるのはかなりむずかしい。「これが性欲だ」みたいに示せればいいけど、対象もわからん。異性の身体(や、その一部)に対して性欲を感じる人もいれば、同性に感じる人もいるだろうし、パンツとかハイヒールとかランドセルとかに感じる人もいるかもしれない。パンツは好きですがそれを履く人には興味がありません、みたいな人もいるかもしれない。そういう人がパンツを片手に性的興奮を感じたり性的欲求を満足させたりしているときに、それが性的活動なのかそうでないのかよくわかんなくなる。あるいは、自分の性的快楽に関心はあるけど他人のそれにはまったく関心はない、とか。

それに、たとえば「食欲と性欲はどう違うの?」って聞かれたら「ぜんぜん違う欲望でしょ、もし食欲と性欲が区別つかなかったら変態さんでしょう。厚切りの肉に対して性的欲望を感じたり、性的な興奮を感じながら肉を食べたりしたらやっぱりおかしいでしょ」って答えていいのかどうか。

ちなみに、食の快楽と性の快楽がわけわからん感じになっている名作小説が谷崎潤一郎先生の「美食倶楽部」。(あれ、まだ青空文庫に入ってないのかな。)歯茎を美人の指でなでまわされて気持ちよくなっているとその指がいつのまにかスープでゆでた白菜の軸になっていて噛み切れる!ははは。読みましょう。

でもこうなってくると、なんか「それってたしかに性的活動かもしれないけど、倒錯 perversion なんちゃうか」みたいな、ことを考えたくなる。

「倒錯」っていう概念は今時はかなり評判が悪いです。一時期は同性愛や性同一性障害とかが倒錯って言われてましたし、オーラルセックスとかも倒錯的って言われてましたしね。マスターベーションでさえ倒錯的って呼ばれたころがあったはずです。まあ「倒錯」っていう概念がなにを含んでいる(あるいは何も含んでないのか)のかもこの文脈ではかなりおもしろい話になります(っていうか、「セックスの概念分析」に含まれる問題のなかでも中心的な問題であります。)。

でもこれって、もう言葉や概念の分析を離れてしまってるかもしれない。つまり、人間の生活のなかでセックスとか性的欲望とか性的快楽はどのような地位をしめていて、どういうのが普通で、どういうのが(統計的に)異常かみたいな話になってくる。

そこでまあ「「セックス」って何なの?」という言葉についての疑問は、「セックスってのは人間にとってどういうものなの?」っていう問いにつながってくるわけです。そのためには存在論とか認識論とか神学とか心理学とか人類学とかを参照しなくてはならくなってくる、かもしれない。ソーブル先生はこういうのを「セックスの形而上学」って呼んでるけど、まあ私は「形而上学」って言葉はあんまりうまくないと思ってる。彼のこういう用語法はよくわからんです。まあとにかくそんな感じで話は進む。

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セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。 続きを読む

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セックスの概念分析 (2)

まあそういうわけで「セックス」っていう概念を分析するというか、とりあえずはっきりさせたいわけだけど、「セックス」が基本的な概念なのかどうかについては諸説がある。ふつうに我々が「セックス(すること)」と呼んでいるものはおそらく「性的な活動」なわけです。(「セックス」にはもちろん「性別」って意味もあるけど、ここではとりあえず関係ないように思える。)

手塚治虫『アポロの歌』。
手塚先生は性器がないと愛せないと
考えたのかもしれません。

もうちょっと反省すると、「セックス」と呼ばれる活動(性的活動)に含まれる「性的部位」や「性的快楽」や「性的欲望」に注目するべきかもしれないという話になる。そしてある部位を性的にしているのはなにかとか、ある感覚や快楽を性的快楽にしているものは何かとか、ある欲望を性的欲望にしているものはなにかとか、それらに共通な「性的」という性質があるのかどうかとかって話になるわけです。

「性的活動」を「なんらかの意味で性的部位にかかわる活動」みたいに考えるのは、一見すると魅力がある。人間の身体のなかで特に性的な部位ってのはある気がしますよね。典型的には股間がそうだし、おっぱいとか尻とかも特に性的な感じがする。そこらへん触ったりしはじめるとそれは性的活動なのだ、すでに性的活動をしている、みたいな。うっかりそういう場所を触っちゃうと「痴漢!」「セクハラ」って呼ばれてもしょうがない。

一方、赤ちゃんの手のひらを「やわらかいねー」って触ってもあんまり痴漢な気はしない。私がおじいさんの踵とかを触ったらセクハラではない気がする。でも私が女子大生のどの部分を触ってもなんかセクハラな気がする。うーん。どうも身体のある部分が性的になったり性的でなくなったりすることがあるみたい。けっきょく、「性的な部位」を性的活動から独立に規定するのはけっこう難しそうだってことになる。性的な部位って何だろう?

そこで、「性的な部位」を「性的な快楽に関係する部位」みたいに考えることも可能かもしれない。唇とか股間とか性的な快楽を与えてくれる傾向があるかもしれないし、腕の内側とか背中とか足の裏だって方法によっては性的な快楽を与えてくれるかもしれない。つまり、「性的な活動」や「性的な部位」より、「性的な快楽」の方が基本的な概念なのではないか、みたいな。性的な快楽を与えてくれる場合にそこは性的になるのです、誰かが性的な快楽を味わっている場合にそれは性的な活動になります、そしてそれは文脈に依存します、みたいになる。これはかなり魅力的な解決法になる。

問題は当然「んじゃ性的快楽ってのはどんなものよ」って話になる。まあ快楽は感覚だから、「これが/それが性的快楽だよ」って教えてもらうしかないかもしれない。ちょっと不満な感じもするけど、これくらいで我慢しておくべきなのか。

もっと問題なのは、「んじゃ誰も性的な快楽を味わってない場合にはそれは性的活動ではないのか」みたいなことを言われてしまいそうな気がする。ぜんぜんうまくいかないセックスとか、誰もぜんぜん快楽を感じてなかったらそれはセックスではなくなってしまうのはなんかへんな感じがする。失敗したセックスはセックスではありません、みたいな。ははは。

「性的快楽」を基本にする考え方と同じくらい(かそれ以上)に魅力的なのは、性的欲望を基本概念にする見方。性的欲望の対象となるのが性的部位であり、性的活動とは誰かの性的欲望にもとづいた活動です。私にはこれが一番有望に思えるっすね。性的欲望をかかえた活動はセックスだり、セクハラをセクハラにしているのはそれが性的欲望にもとづいているからだ。挨拶のキスは欲望にもとづいてないので性的じゃないけど、恋人どうしが夜中にするキスはセックスの一部。

私がこの性的欲望中心説みたいなのを気にいっているのは、セクハラとかってのについて被害者が感じる不快の説明にもなっている気がするからです。女子の多くが感じる不快感のバックには、加害者とされる人の性的欲望(性欲)を感じる不快さがあるんじゃないかって勝手に思っている。同じ「肩にタッチする」って行為でも、相手の性欲を感じると「セクハラ」って言いたくなることがあるんじゃないか、とか妄想。ははは。

まあそういう妄想はさておいて、性的欲望中心説みたいなのもやっぱり「んじゃ性的欲望って何よ」っていう問いを提出されることになるわけで、こっちも性的快楽と同じように「これが/それが性的欲望だ」って形で教えてもらたり、「これが性欲か!」って(自然に?)自覚するのを待つしかないかもしれない。

性的快楽にせよ性的欲望にせよ、独特の色彩というか質があるですよね。子供のころはあんまり感じない感覚を、性的に成熟するにつれて思春期ぐらいから強く独特のものとして感じるようになる。もちろん「私は小学1年生のころから快楽を感じてました」「パンツ見たくてしょうがなかった」って人も多いだろうけど、それが次第になんかやばい特別な種類の感覚や欲望であることを自覚するようになっていくんではないかという気がする。性的快楽や性的欲望として分化していくっていうかなんというか。まあここらへんの分析は、概念分析というよりは現象学とかの研究対象かもしれないですね。

あとここらへんいろいろおもしろいネタが多くて、性的欲望という欲望の対象は何か、みたいな話も興味深い。性欲ってのは快楽を目標としていると考えられることが多いけど、これって本当だろうか? 私のカンなんだけど、たとえば性的快楽がまったくないことがわかっているのにセックスを求める人っているかもしれないし、もしかしたら苦痛があることがわかっていてさえ、セックスを求める人がいるんじゃないかという気がしてます。ぶちゃけた話、人は気持ちよくなりたくてセックスするのではないのではないか。快楽より欲求の方が基本的な概念なんちゃうか、とか。おもしろいですね。機会があればここらへんもっとちゃんと議論してみたい。

性的快楽か、性的欲望かのどちらかを中心に考えていく他にも
、性的覚醒や性的興奮みたいなのを中心に考えいくのもありかもしれません。まあここらへんあんまり考えないので難しい。この手の概念についての論文は日本では魚住陽一先生が「性的欲望とは何か」ってのを書いています。日本のセックス哲学のはじまりとして記憶されることになるかもしれないですね。前半は性的欲望についてのいくつかの立場のうまい紹介になっています。 http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/view/23/12もっとも後半は私はあんまり理解してないです。

あとまあこういう言葉遊びみたいなのを椅子に座って延々やるよりは、人々が実際どうセックスという言葉を使っているかを調査してみるっていうのも興味深い研究方法ですわね。噂に聞くエスノメソドロジーとかって手法がすごい威力を発揮するかもしれない。たとえば人々がどこから「浮気」って考えているのかとかそういうこと調べてほしいものです。

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セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。 続きを読む

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セックスの概念分析 (1)

「セックスの概念分析」とかっていうとなんかいろいろ難しいことを考えしまいそうになるわけですが、基本的には「セックス」という言葉で何を指しているか、とか、どういうものをセックスと呼んでいるのか、とか、「セックス」と他の言葉とはどういう関係にあるか、とかそういう話ですわね。でもこれはけっこうおもしろい。

まあたとえば、「浮気」ってのを考えみましょう。モテる人は「お前、浮気したな!」とか言われることがあるでしょうが、どういうのが浮気なんでしょうか。辞書をひくと、そういう意味での浮気ってのだいたい「他の異性に心を移すこと」みたいな説明がされてることがある。でもこの定義でいいのかどうか。「心を移さずにあれしたら浮気じゃないのかとか、異性じゃなくて同性とあれしたら浮気じゃないのかとかそういう話になる。あれ、「浮気」ってなんだろう?それって「あれ」をすることなんだろうけど、もしその「あれ」がなにかってのを考えたりするのが「浮気」という「概念」を分析するってことです。

おそらく広い意味では「浮気」は「他の人を性的な対象と思うこと」ぐらい。パートナーがいる人が、そのパートナー以外の「あの人とあれしたいな」、とかそういうこと考えただけで浮気になっちゃう。でもこれはおそらく広すぎるから、「特定のパートナー以外のとセックスしたら浮気」とかにしたい(と多くの人は思うはず)。

でもんじゃどっからセックスなのか。セックスってのはなにか。

「そりゃチンコとマンコをハメることだ」みたいな下品なことを言う人がいるかもしれませんが、それだったらオーラルセックスだけの場合は浮気じゃないのか(クリントン元米国大統領が部下にフェラチオしてもらったのに「セックスはしてません」と言いはったのは有名)、同性とのオーラルセックスは浮気じゃないのか、みたいな話になる。もちろんそういう「定義」を採用してもいいんだけど、まあ我々の多くはそういうふうには「セックス」を使ってないんじゃないかと思います。

んじゃ、セックスという行為はどっからはじまっているのか。チンコやマンコに直接に接触したときからなのか、それともキスとか乳もみとかそういうのからはじまっているのか。セックスはどこではじまって、どこで終るのか。

極端な場合には、「「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ 5:27)とかっていうイエス先生の教えを本気でとらなきゃならない。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」だそうですよ。たいへんです。性欲にもとづいて異性(なり同性)なりを見た人は、みんなセックスしてしまっているので。セクハラしたいと思っただけでセクハラしたのと同じです。目をえぐってしまいなさいす、手を切り落してしまいなさい、なんちゃって。

セクハラとかも同じ問題があるのがわかりますよね。セクシャルハラスメントってんだからセクシャルじゃないとならん。ただのハラスメントはセクハラではない。ではセクハラとはどういうものか。性的ないやがらせがセクハラなわけだけど、では卒論書けなかった罰に男子学生の尻を鞭打ちするのはセクハラなのかたんなる拷問や暴力なのか。尻だったらセクハラだけど肩を鞭打ちしたらセクハラではなくてただの暴行か。んじゃ暴行とセクハラを分ける意味とかあるんかいな、とか。ぜんぶ暴行や強要ではだめなのか。

セクシャルな部分に接触するのがセクハラなら、単なる言葉によるいやがらせはセクシャルじゃなくなっちゃうからセクシャルってのは接触に限る必要はない。さて、セクハラっていったいなんでしょう。これを考えるためにセクシャル/性的ってことばがなにを意味するのかわかってないとならん。

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