しかしまあ猥褻だから規制してしまえ、って考え方は多くの批判にさらされていて、一般にうまくいかないと思われています。
まずはなにが猥褻なのかが常に曖昧なことですわね。
まず定義そのものが曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」の「いたずらに」ってのがどういう意味か。無駄に、ってことなのか。無駄に性欲を刺激するってんだったら、どういう場合に無駄じゃない性欲の刺激なのかとか。まあ他にも。
さらに判断の基準が曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」とか「性的羞恥心を害する」とか言われたってどういうものが性欲を刺激するのかは人によって違うだろうし、どの程度刺激したら猥褻なのかとか謎。まあ人間のやることはある程度「だいたい」でいかなきゃらんので裁判官がだいたいで判断するしかないわけですが、まあこういうのはちょっと困りますよね。
性欲を刺激する度合いとか性的羞恥心とかが時代によって変化するってのを気にする人もいます。1970年ごろの日本だったら性器が丸出しになっている写真とかすごく入手しにくかったからいたずらにひどく性欲を刺激されたり性的羞恥心をひどく害される人もいたでしょうが、いまとなってはネットとかでそういう画像は嫌ってほど見てるのでなかなかそんなに刺激されませんね。残念なことです。
まあ欧米では1960年代後半から1970年頃に「セックス革命」が起こって、(一部の)若者がばんばん見境なくセックスするようになって、セックスの話をオープンにするようにもなったんでそういうのの影響もあります。セックス革命については立花隆先生の『アメリカ性革命報告』なんかが時代を感じさせて楽しいです。
「善良な性道徳」みたいなのも問題ですよね。いったいどういうのが善良な性道徳なのかわからん。まあそりゃ強姦とか平気でしてしまう人は道徳的にだめなわけですが、性的に活動的だったりセックスを楽しんでたりエロが好きだったりするのが特に道徳に反しているとは思えないし。セックスとか性欲とかそういう個人的なことに政府権力みたいなのが絡んでくるってのも問題がある気がします。公の感知しないプライベートな領域があるべきだ、って考え方が1950年代ぐらいには一般的になってました。
芸術か猥褻か、みたいなのも問題です。日本の判例でどうなっているのか知りませんが、米国のミラー判決とかでは「芸術的価値がないもの」が猥褻ってことになってるわけですが、芸術的な価値とかってのがどうやって判断されるのかわからない。やっぱりエロは芸術の基本なので、優れた芸術にエロは入り込んでくる。っていうか画集とか見てると、もう優れた芸術家はみんなエロいんではないかと思わされますね。私も画家になればよかった。まあこれは優れた芸術作品だから猥褻じゃないけど、これは下手くそだから猥褻、とか困ります。猥褻だけど芸術なものがあってもいい。
一番大きな問題として、それにそもそもなんで猥褻なものだから規制していいということになるかがさっぱりわからない。たしかに街中にそういう猥褻なものがあったら羞恥心を害されたり不快になったりする人もいるでしょうから困りますが、閉鎖された店からこっそり買ってきて家でこっそり見る分には誰もこまらない、っていうか制作者と本屋さんは本が売れて嬉しいし読者もエッチな楽しみを得ることができる。
だからまあ「猥褻だから規制しよう」ってのはよくわからない考え方ですし、憲法第21条で「表現の自由は保障する」っていってんだから刑法175条みたいなのは違憲なんちゃうか、すくなくともあんまり必要ないもんではないのか、みたいなのが憲法学者たちの主流の意見なんじゃないですかね。つまり、「猥褻」の議論は古いし、ほとんど終わった議論かもしれない。
文藝春秋
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