- それにしても5章はおもしろいなあ。
- 全体にもうちょっと書き方工夫してくれてもよかったような気がする。独自の概念や議論が多いから、「すでに述べたように」がどこ指しているのかわからなかったりするとけっこうきつい。相互参照つけてほしかった。安藤先生と同じ頭の広さと記憶力をもっている人はそんないないんじゃないかな。
- パーフィット読むのと同じタイプの困難を感じる。70年代以降、有力な哲学者たちの本はどんどん大きくなって、読者が全体を見渡すのが難しくなってるよなあ。『正義論』にしても『アナーキー・~』にしても、ふつうに生きてたらぜんぶ読むのは難しい。みんなどうしてるんだろうな。あ、シジウィックあたりからもうはじまってるのかな。あれ違うな。「古典」になってるものは数が少ないからそう見えるだけか。
- 快楽pleasureはシジウィックだとどうなってるか。これか。
First, I will concede that pleasure is a kind of feeling which stimulates the will to actions tending to sustain or produce it,—to sustain it, if actually present, and to produce it, if it be only represented in idea—; and similarly pain is a kind of feeling which stimulates to actions tending to remove or avert it. (bk.1 ch.4)
- うーん。 “stimulate the will to actions” が微妙。これ「欲求 desire」なのかな。
- p.146にあるブラントの幸福happinessの定義なんかもこれの直系だよな。「ある経験Eがある人Pにとって幸福であるとは、EがPにそれ自体のゆえに(即ち内在的に)Eが持続する(或いは繰り返す)ことを欲求させるとき、かつそのときに限る。」か。
- あ、奥野本(シジウィックと現代功利主義)に解説が。「この意志への刺激は欲求や嫌悪と呼ばれる。」(奥野p.144)この文章への注は「ふつうは欲求とは快がまだ現実にないときに感じられる衝動に限られるのだが、ここでは、いま述べられている意志への刺激を言い表すのに最も便利な言葉として欲求が用いられている」 ふむ、 いまになって奥野先生の偉さがわかってくる。もらったときにせめていま安藤本を読んでいるのと同じくらいまじめに読んでおくべきだった。奥野先生ごめんなさい。まああのころはいろいろドツボだったので。
- シジウィックのも、ブラントのも、安藤先生は快の定義(特徴づけ)としてはうまくないってわけだ。なぜなら、われわれはその時点でその(快と呼ばれるべき)経験を持つことを喜びながら、次の時点にはそれを持たないことを喜ばないこともあるように思えるから、ってことかな。例は香水があとでいやになる例。まあ他にもちょっとだったら楽しいけどあんまり続くといやな経験ってのはあるかもね。なにごとも終りがあるからよろしい、とかそういうことか?たしかに最強度で永遠に持続する法悦的状態なんてのはやだね。うはーいいーあれーとかずーっとやってるのは勘弁。あれ、なんか安藤的な考えかたするようになってきてるぞ。
- だから安藤先生は欲求や嫌悪とは独立に快や苦痛を定義したいわけだ。
- しかし肯定的態度ってのが「原始的概念である」とされちゃうのはどうしたわけだ。それはそれ以上分析もなにもできないわけなのかな。なんだろうな。「いい感じ」っていうまさにそれを指す、のかな。
- うー、めんどくさい。哲学って特殊な才能が必要だ。
- 態度的快楽。「態度的快楽は、信念がそうであるように、明示的に意識されていなくとも抱かれうる」~「そもそも「快楽」が意識されずに抱かれうるなどということがあり得るのか。だた、信念の他にも、四六時中子供の幸福のことを思い浮かべていなくとも父が子の幸福を欲求していると考えることを妨げられないのと同様に、態度的快楽もまたそれを妨げられないものと考えるべきであろう。反実仮想的に「あなたは今~に態度的快楽を抱いていますか」と問うたときに肯定的返答があればよい、と考えればよい。」p.147
- うーん、これあやしいと思うけど説明できない。欲求と感覚経験とのあいだには違いがあるんじゃないの? あれ? 快楽は感覚経験でさえないのかな?いやいや。あと「反実仮想的に」は意味わからん。不要だろう。
- 安藤用語一覧が必要だ。さすがにここらへんはまだ書き慣れてないんだろうな。っていうか、読者の頭の程度を過大評価しているんだと思う。私が頭悪いのが悪いのかもしれないけど、いちおう平凡な倫理学系大学教員だろうから、私が困難を感じてたら「かなり読み難い」と主張してもいいんじゃないかなと思い はじめてる。まあ読者には親切であってほしい。奥野本はもっと親切ですよ*1。
- げげ、FeldmanのPleasure and the Good Lifeは一時研究室に存在していた形跡が。読まずに図書館にまわしてしまったようだ。そんな重要な本だとは気づかなかったですよ。図書館は7日まで休館。痛い。
- みんなを悩ませる「偽りの快楽」問題。
ある女性は自分が家族に愛されていると思い、自らを幸福であると感じている。しかし、彼女の夫は彼女を愛しておらず、子供達は内心では彼女を軽蔑している。(p.148)
- 安藤先生の答は、「合理的な範囲で態度的快楽に伴う信念が正当化されていればよい」。この女性が自分が家族に愛されていると信じることが適当に正当化されればその態度的快楽には問題がないので「偽りの快楽」をあんまり心配する必要ない、ってわけだ。まあこれでいいんだろうなあ。
- 安藤先生は、さらに信念の内容が世界で実際に成立している態度的快楽を特に「歓楽enjoyment」と呼ぶことにするわけだ。これが重要だと考えるなら歓楽的快楽説。enjoyment / sufferingは pleasure / pain の特殊な一部っていう理解でいいのかな。態度的快楽説と歓楽的快楽説のどっちを採るべきかは未決。っていうか、「おまえらが歓楽的快楽説にこだわってもワシは別にかまわんよ、ワシはたんにフォールバックしておるだけじゃからして」。ここの注も重要。快楽/苦痛、歓楽/艱苦(suffering)の非対称性(?)に注意。
安藤先生がどう考えているのかはもうちょっと知りたいところ。 - ノージックの「経験機械」。「例えば「快楽機械」ならぬ「苦痛機械」に据え付けられるときに、快楽説への反対者は「それらは現実の経験と結びついておらず我々の厚生に影響を与えない」と主張するだろうか。」p.154おもしろい反論の仕方。ここも注意。この反論で安藤先生は快楽と苦痛を対象的に見てるようだ。
- 5.2.3は山場なんだよな。p.157でやってるのはなんというかとんでもない豊かでオリジナルなアイディアなんだが(本当に言いたいことはもっと後の方に出てくる)。
- 第6章はあんまりつかえず読める。よく書けてるなー。
- 第7章も第5章よりは抽象度が低いのでまし。
- でもまあ、適応的選好形成の話について「快楽説にとってその快楽がどのような事態の変遷によってもたらされたのかはどうでもよいからである」p.192とかやっぱりショッキングすぎるよな。どうしても、そういうのは人間ではないだろう、人間ってのはそういうもんではないだろう、とか言いたくなるわけだ。人間ってのは時間的に一本筋の通った広がりをもって、ちゃんとそれぞれのライフプランをもって、常に自己解釈とか自己変革とかもしていくようなそういう存在でね、とか。安藤先生がとっては、そういうのが批判になってるとは思えないのはわかってるつもりなんだけどね。困り。We are not what we believe to be.ってのを本気で実感として主張する連中が国内でも出てくる時代になったんだよなあ。安藤先生に対してyou are not what you believe to beと言うことができるか?
- 一方で、教育とか啓蒙とかの問題とか本気で考えるときには安藤先生の主張には猛烈に力がある。たとえば識字。「(識字能力を獲得したいという欲求をいだいていない主体に)識字能力を何らかの手段で付与したとき、そしてまさにそのときに、この(識字能力を有している)主体が「私が識字能力を有している」という命題に対して肯定的態度を取るかどうかが快楽説にとっては重要である。」(p.193) まあたしかに教育とかってのはそういう側面があるし、人生の偶発事(「出会い」)とかに価値があるのもそういうことなんだよなあ。いやはや。
- 適応選好の問題を避けるためにinformed desire理論とかが”fully
informed and fully rational”とか「最大限の認知的心理療法にさらして生き残る」とかって装置をもってこなきゃならんのに、安藤先生の快楽説ではそんな余計なものが必要ないわけだ。はあ。 - ちょっと飛ぶけど、この本で一番かっこいいセンテンスは「快楽は「理由」などを蹂躙する根本的に非合理な何かとして我々に現われる」(p.267注)だね。しびれる。そういう快楽に我々は暴力的に変容させられちゃう。この本全体の根本思想はこの洞察。まったく天才を感じるね。少なくともふつうの人でないのは確実。
- やっぱり「態度的快楽」があやしいなあ。あれ、こういう快楽について強度とか個人内比較とか個人間比較とかどうなってるんだろう。それは8章か。
- それにしてもこの人の日本語の感覚はどうなってるんだ。「径庭」とか初めて見た。いったいなに読んで育ったんだ。
- なんで態度的快楽とかあやしいんだろうなあ。それが命題的態度だってところかなあ。欲求説の問題は、それがほとんど無数の潜在的な「事態」に対する欲求を考慮に入れなきゃならんってところにあるような気がする。だから経験要件とか必要になるわけで。態度的快楽も(なんらかの事態に対する)命題的態度だとして、さらにさっきの安藤先生みたいに「明示的に意識されていなくとも抱かれうる」って認めちゃうなら同じ問題にぶつかりそうな気がするんだが、そこはどうやって逃げるんだろう?わからん。
- センの『リア王』問題。安藤先生は、われわれは「リアの「人生」が悲劇的だったというとき「人生」がそれ自体としては意識主体の集合という以上の意味を持たないにもかかわらず、意識主体間の「時間の流れ」を付与してしまうことで自分自身の「時間選好」を投影してしまう」p.231っていう誤りを犯していると鋭く指摘。「人生」にかっこがついているのがたまらずクール。かっこよすぎる。no “life”, no “self”. いやはや。いやそれが人間だから、人生ってそれだから、わたし安藤先生に笑われてもハッピーエンド選好もちつづけたいし、では反論になっとらんなあ。「いやそれはそれでいいですよ」と言われちゃうし。このタイプのにブラントはどう答えるんだっけかな。基本的に安藤先生といっしょかな?
- それにしてもこの8.3の議論はおもしろいなあ。より多くの人がこの議論を楽しめるといいなあ。「愛着」(実はこの本の重要語句)が出てくるのはここが最初かな?あれ全然ちがった。
- つかれた。私にはてごわすぎ。この人指導した井上先生はほんとに偉い。
- ハイドンの弦楽四重奏とか聞いてみるか・・・持ってないよ。いや、発見。あった。かろうじてスメタナ四重奏団の39番(HMVのGreat Chamber Music 10枚組)があるぞ。・・・うーん、思ってたよりずっとよかった。形式美。でもそこまでよいものなのか。
そのあとのシューベルトの10番とかの方がヨイような気がする。 - 復習。
- どうもやっぱりこういうタイプの快楽主義者に対してはいろいろ疑念がわくよな。生きるとか快苦ってのはそんな単純なもんじゃないだろうよ、とかって言いたくなるわけで、功利主義とそういう快楽主義との腐れ縁が功利主義に対して人々あれになるあれなんだよなあ。しかしいったいお前は人生や快苦についてなにを知っているのかと言われるとアレなのだがね。
- たとえば『刑務所の前』の登場人物はみな(保吉っさんやうめさんも)なにか重要なものをつかんでいると思うんだけどね。「おとっつぁん、私だけ幸せでごめんなさい」とかってのは態度的快楽説ではどうなる。単なる肯定的態度をともなう感覚なんてものなのかな。あ、感覚経験かどうかまだ確認してなかった。
- 快や苦なんてのは(それが態度的快苦であれ)、多面的・多層的で、それをなんらかの選択の局面に出すか、それをまとめあげる一個上のオーダーの欲求なりプロエクトなりにまとめあげないかぎりあんまりたいした意味はないのだ、とか言いたくなる。でもよくわからん。
- もちろん統治功利主義とかってずーっと上の方で考える分には、そういう人々の複雑な快苦についての意識や自己反省なんてのは捨象されちゃうっていうか捨象しないと立法や政治なんかできん。だから功利主義を統治の原理として使うのはぜんぜん問題ない。賛成。でもね。それと民主主義みたいなもんがからんでくるとどうなるかな。まあ民主主義は統治功利主義を達成するためのアーキテクチュアの一部でしかないのだが。
- あるいは安藤先生の快楽が広すぎるのかね。ほとんどなんでも含んじゃう。狭すぎてもうまくいかず、広すぎてもうまくいかず。それじゃそもそもそれがだめだって結論にいってしまいそうだ。 そういうanything goesになってるのは、あらかじめリベラリズム*2とかってものに対する信奉なりコミットメントがはいってんじゃねーの、とかそういう感じか。言いがかりか。
- んで、けっきょくなぜ統治の原理として功利主義を採用するかっていう正当化の問題は、安藤先生の本では実質的な形では議論されてないような気がする。わからんけど。制度的リベラリズムを正当化するには他の理論よりよさげと安藤先生が思っていることはわかるし、それはありそうなことだけどね。戦略はベンサムと同じ。もちろんそれは安藤先生は自覚的にやってるはず。
- とにかくあと二日読むべし。読んでわかったのだが、まだ私はこういう1冊の大きい本を読むだけの力がないね。
- Feldman入手。そんなに重要なのか。
- パーフィトから20年。長い年月を私は寝てすごしてたな。世界中ではたいへんな革命がおこっている。安藤先生の統治功利主義はパーフィットのTheory X (非同一性問題を解決し、いとわしい結論を回避できる善行の理論)を目指しているのかな。そういうわけではないよな。でもうまくいけばそれへの部分的解答になるのかもなあ。パーフィットの新刊はどうなってるんだろうな。プリントアウトしたまま書類にうもれた。しくしく。安藤先生あたりにとっては、パーフィットは論敵の一人でしかない。未来は安藤先生のものだ。私はせいぜいあらゆる手段を使って足をひっぱたい。
安藤本 (2)
*1:まわりの人々に合わせて書いてくれたから?
*2:リベラリズムってのは国内の法哲学者のあいだでは倫理学者が考えるのとはずいぶん違う内容を含んでいるので注意。リベララズムの核心には「正の善に対する優位」が含まれてるとかって分析はOKだけど、正の善に対する優位を認める立場がリベラリズムではないだろう。ここらへんは国内の議論の歴史的経緯があるから、部外者にわかりにくくなってるかもしれん。下調べすること。
Views: 91
コメント