2013年の『図書新聞』に載せたもの発掘したので転載。
功利主義はかつて国内では浅薄・邪悪と誤解され評判の悪い学説であったが、近年は若手研究者を中心に再評価の動きが著しい。しかしその創始者ベンサムの著作の邦訳や紹介はいまだ数えるほどであり、彼がどのような思想家であったかは十分には知られていない。こうした事情は、実は英米の学界においてもさほど変わらない。一般に読まれていた弟子バウリング編集による著作集は、宗教や同性愛などに関する重要な文献が意図的に省かれている他、様々な編集上の問題が指摘されていた。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの「ベンサム・プロジェクト」は、刊行された著作群に加え、大量の未刊行の草稿や手紙から新しい典拠となるテキストを作り上げ、ベンサムの「真の」姿を描き出そうとする野心的な企画であり、その成果はインターネットでも公開され研究者を刺激している。本書はこのプロジェクトの現在のディレクターが最新の成果を踏まえて新しいベンサム像を打ち出そうとするものである。
ベンサムの伝記的情報を扱った第1章と、テキストの問題を扱った第2章に続き、第3章では功利主義の核である「最大幸福原理」が扱われる。一般的な批判に対して著者は慎重に各種テキストから模範回答を引き出している。この部分は功利主義に対するよくある誤解を払拭するに適切なものとなっており、訳者たちが副題とした「功利主義入門」の名にふさわしい内容になっている。
しかし本書の読みどころは実はこうしたよくある功利主義入門ではない。急進的な哲学的・政治改革者としてベンサムの巨大さが垣間見見える後半こそが注目に値する。
第4章ではベンサムの代名詞ともいえる監獄パノプティコンがテーマとなる。人道的で経済的な手段によって犯罪者を矯正し社会の幸福を増大させようとする彼の計画は、結局政府から拒絶されることになる。著者の解釈によれば、この拒絶の経験によってベンサムは、政治家たちが人民の幸福の増大ではなく、自分たち自身の私的な利益を追求する傾向をもっていることを強く意識するようになった。ここからベンサムは、監視のシステムをむしろ政府に対して差し向ける必要性を発見するのである。それはすなわち政治的民主主義に基づいた投票や共和制統治によって実現される。こうしてベンサムは父権的な統治者を擁護する立場を捨て、民主化を求める政治的急進主義者たちの中心人物となり、国際的な影響力をもつに至るのである。
第5章で詭弁的・欺瞞的な言説である「誤謬」の問題が扱われる。民主的な政治のためには言論による討論と説得が必要になる。しかし討論と説得は往々にして不効率であり、人を混乱させ、欺き誤った考えを抱かせ悪しき道へ導くことがある。そうした問題の対策としてこうした政治的誤謬の種類の列挙と分類を行うことが重要でありであり、そうして作成した「誤謬の一覧」に照らして議事録をチェックしたり、会議場に掲げられた一覧を議長が長い棒で指し示す、といったアイディアが提示される。こうしたアイディアは一面ではユーモラスでもあるが、曖昧さを嫌い、実践的な局面での言葉の問題を徹底的に考えた哲学者としてのベンサムがはっきりとした形で現れてくる。
第6章では宗教とセックスの問題が扱われる。無神論者ベンサムは神の存在や魂の不滅性の問題を論証によって反駁することが可能であると考えていた。またイエスの「明日を思い煩うな」「下着を取ろうとするものには上着をも取らせよ」といった道徳的な教えも、それをもし文字通りに取れば、財産の破壊と浪費によって社会を破壊するようなものであるし、文字通りに取らないのであれば、神が人々に理解されにくい不適切な表現を使ったことになるとして批判する。さらにはイエスは自分の現世的野心を達成するためにあのような訓示を下したのだとまで糾弾する。さらには、快楽主義者ベンサム自身が重視する「テーブルの快楽」(食事)と「ベッドの快楽」(同性愛を含むセックス)をイエス自身が禁じたことはないとしてキリスト教的禁欲を攻撃する。
第7章では拷問の問題が扱われる。国内ではさほど注目されていないが、9・11テロ以降世界的に拷問の正当化可能性が熱心に議論されている。ベンサムは刑罰としての生命刑や体罰刑に強く反対しており、また自白をひきだすための拷問やも禁じるべきだと考えていたのだが、人民に対する差し迫った危険を取り除くためであれば拷問も厳しい条件つきではあれ許容される場合がありうるとしていたのである。
このように本書はベンサムの思想の鋭さと人柄の奇妙さを示すと同時に、現代の政治的諸課題を考える上でも重要なものである。ベンサムの議論を不快なものと感じる読者も少なくないだろうが、彼の思考を再検討するのは確かに興味深い課題であることを認識させられるものである。翻訳は正確で読みやすい。
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