ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。


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コメント

  1.   より:

    さんざん悪口書いたあげくに、最後に良く考えたら悪くないと、逃げる。これってどうなのか。

  2. 江口 より:

    それぞれの思想家の思想っていうか結論のようなものに文句をつける気はない、ということです。

    私が指摘している問題は、上のような専門書や啓蒙書を書く先生たちが、ちゃんと文献を調べたり概念を明確にしてくれてないことだ、バトラー様のような人を言語行為論などに十分な知識をもっていると根拠なく想定してしまっている、ということです。

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