研究生活」カテゴリーアーカイブ

進捗どうですか (17) 自発性がすべてだ

安彦先生の書評研究会終ってから、ちょっと間があいてしまいました。進捗だめです。

その後なにをしてたのかというと、9月から10月はじめにかけては、書けと言われていた某雑誌の原稿をやっていたのですが、途中で放り出してしまいました。いろいろ悩んだのですが、まあ今は書けない感じ。そういうのはだめなのはわかっているのですが、できないものはできない。

なんかやっぱり自発的じゃないとだめなんすよね。私はなんというかあるていど調査とかしてそこらへんの地理がわかってからじゃないと書けない。書けるときってのはなんか「こういうのを書くべきだ」っていう内発的な動機があり、「だいたいこの分野の議論はこうなっている」とかそういうある程度の自信があるときだけなんですわ。

付け焼刃で勉強したことは、こう浅くて、浅いものを書いてもかまわんとわかっていても浅くて書いてていやになる。浅くても書けるときはあるんですが、そのときはなんかある種の感動みたいなのがあってこれまた自発的に書ける。とにかく締切あるのはだめ。

まあしかしその落としたやつのために勉強したことは非常にためになったので、いずれ出します。でもいまは出せない。熟してくるのを待つ。

んで10月に入ってからは当初計画通りに研究を進めています。なんかいきなり楽になり、充実感を味わってます。これやるために研修させてもらってんだよな、みたいな。やっぱり成果出すために勉強したいと思ってたことは楽しいし、いろいろ発見がある。ノート作ったり、試作品書いたりしています。どういうこと勉強しているのかはそのうちブログ記事にしたい。

まあとにかく自発性とか内発的動機とかっていうのはほんとうに大事だ、ということを確認するための半年でした。自発的なことをやっているときは楽しいし、なんというか自分がやってることがright trackにある、みたいな感じがします。やりたいこととやるべきことが一致しているのが人間のあるべき姿ですわね。

進捗どうですか (16) 含スウェーデン訪問記

スウェーデン行ってきました。

京大とスウェーデンの4大学の研究協力関係を築く、みたいな企画で、研修でお世話になっている先の研究室も参加するというのでついていく、という企画です。なんか京大から12分野60人ぐらいスウェーデンに行くとかって大掛かりな企画で、一流大学はやることがちがうなあとか、グローバル化とかで大学本部がこういうことをしなければならない時代なのだな、とかいろいろ考えちゃいました。

国際線の飛行機とか乗るのは10年ぶり。っていうか実は私私費で外国行ったことないのです。飛行機はつらいですなあ。あの食事がなければまだましな気がするんですけどね。

朝8時ぐらいにホテルからバスで出発。どうも事務系の人が企画すると、学者も9時から5時までみっちり勉強してもらわないとならん、みたいな日程になってつらい。

初日午前大学交流のための儀式、みたいな感じで各大学の紹介というか自慢話、午後はキーノート講演。質問時間とかなくていかにも儀礼的な感じ。スウェーデンの人口問題とか聞いてて、たしかにこの超福祉国家は日本のインテリから見て理想国家の一つなんだろうけど、なぜうまくいっているのかとか、なぜ日本がこういうふうにできないのかとか興味をもちました。いずれ勉強したい。

どういうわけかストックホルム市庁舎(ノーベル賞授賞式がおこなわれるところ)見学ツアーなんか組まれていて、これも観光というよりは業務ですね。楽しそうにしている人びともいたけど私はこういうの苦手。ふと、いまここにいる理系の人たちのなかにはノーベル賞もらうかもしれない人もいるし、若い人は「♪ノーベル賞でももらうつもりでがんばってるんじゃないのか」みたいな。

夜はスウェーデン大使公邸でパーティー。まさか人生においてそんなとこに行くことがあるとは思いませんでしたね。すごく場違いだし、やられてる偉い人びとの挨拶とかもなじめない。つらい。向こうの大学で教えている日本人の先生たちも来ていて、この人たちは優秀そうでした。なんか同世代かちょっと下だと思うけど、がんばってるなー。偉い。好感もてる人びとでした。

2日目は分野別にスウェーデンのカウンタパートの学者さまたちのアカデミックミーティングみたいなもの。我々はウプスラ大学へ移動。この大学はもう伝統の大学で、15世紀に設立されています。行ったことのあるコペンハーゲン大学より2年ぐらい早くできてる。もう伝統を感じますねえ。

しかし本当にカウンターパートだったのかは謎。ウプスラの人びとはすごく伝統的なスタイルで伝統的な哲学していて、こちら組はなんかわりとコンテンポラリーな感じ。彼らはやっぱり人文学・哲学の伝統みたいなのをすごく意識していて、トークのスタイルもそういう感じ。ソクラテスとかエウリピデスとか。かっこいい。1人だけアメリカのプラグマティズムの人がいて、この人のやってることはまあわかるというか、コンテンポラリーなのは世界中どこいっても同じようなものでレベルもそんな違わない。ネットが発達して読んでるものがまったくいっしょだからですね。もう日本の哲学系の若い人びとの力は世界レベルでも十分いけると思います。英語でどんどん書いてほしいです。

自分はISUSの原稿そのままもっていってもう1回反省しました。すみませんすみません。

この日も9時から5時までみっちり勉強させられました。でも昼に食べたブイヤベースうまかった。

会合はこれで終り。ストックホルムは美しい街なので、1日ぐらい自費で滞在して楽しむべきだったな、とか終ってから思いましたが、もう出発しなきゃならん。やっぱり外国行ったら博物館ぐらい見ないとならんですよね。でも出発前は旅行がいやだしそんなこと考えてる余裕がなくなるのがわたし。

次の日さっさと出発。ヨーロッパに行くのはわりと楽なんですが、帰りの飛行機はいつも苦しみます。人生は苦。

—————————-

これ終って、次は研究会で安彦一恵先生の『道徳的であるとはどのようなことか』の合評会のため、できるかぎり精読。20回ぐらいは読んだんじゃないかなあ。でも難しい。っていうか文章が悪いと思う。かなり苦しむ。まあ読書百遍、みたいなところはあってだんだんなにをしたいかわかってきて、勉強しているしオリジナルなことも考えているし偉いと思います。安彦先生は私の学者(もどき)生活のモデルの一人でもあるんですよね。不器用でもとにかく地味に勉強を続けているのはほんとうに偉い。

しかしレジュメにするのはなかなかたいへん。木曜にやっとメモ書きみたいなの作ってメールして。金曜は書類書いたりしてつぶれてしまい、土曜本番。

今回の研究会はけっこうおもしろかった。中絶と「われわれ」の形而上学、自由と責任2本。若い人びとは優秀だ。いろいろ勉強になりました。特に責任の話は私も昔ちょっとだけ手をつけて放っているので、もうちょっとやりたい。若い人びとにくらべると自分の発表はだめすぎて恥ずかしい。まああれじゃ失礼すぎるので、ちゃんとしたレビューにして某所に載せてもらいたい。それにしても、もう私はまともな発表はできないのではないかといろいろあれですが、それでも人生も勉強も続きます。無理はしないけどがんばります。

進捗どうですか (15)


進捗だめです。

ISUSが終って、ちょっとだけお休みをいただこう、みたいな。ネットから離れましょう。

とにかく毎日自分をマネジメントしないと。現在、というより30年ぐらいずっとブラック経営者というかなんかそういう感じで自分を酷使していてだめですね。自分のご利用は計画的にとか。そういうのをこころがけるつもりで進めております。

しかし学会事務局の仕事とかもあるんですよね。それであれして某学会は不義理したりして。すみません。他にも事務的な仕事がいくつか。某書評のために難しい本読んだり。

学部が新入生用のテキストを作る年なのでそれの原稿適当に書いたり。ブログに書いてる勉強についてのお説教みたいなのをっていうリクエストで。でもそういうのでさえもああだこうだ考えて時間かかってしまう。そもそも私にそういうのを書く資格があるのかどうか。

ロジャー・クリスプ、ジュリアン・サバレスキュ、ロバート・スパローっていう豪華講演会にはさすがに聞きに行きました。サバレスキュ先生を見たのははじめてだったけど、まあ話うまいですわね。

んで明日から海外。

とにかくマネジメント1年生。しかし実際にマネージしようとすると、どうも私は自分がやるべきことの優先順位をちゃんとできない感じですわね。余計なことをいろいろしていて、本当に大事なことを見てない感じ。とりあえず今月下旬まで我慢です。


進捗どうですか (14)

進捗だめです。

しばらくつらくて死にそうでした。国際功利主義学会というところで発表しなければならなかったわけです。ずっと気になってたんですが手をつけられない状態になっていてぜんぜんだめ。プログラムやアブストラクトを見ると海外の大物や、国内の大家か俊英で、私みたいな研究者モドキはいないじゃないの。うわー、怖いー。

最悪の場合は5月にやった発表のスライドをそのまま使おうと思っていたのですが、今開いてみると使いものにならない。そもそも私英語喋れないじゃん。前は少人数の研究会だったからブロークンな英語でも気合でなんとかなるだろう、みたいな感じで発表したのですが、さすがに国際功利主義学会ともなればそれじゃ危険すぎる。原稿書いて読みあげなきゃならん。でも気ばかりあせってなにも進まず。最悪。

発表1週間前のお盆前には完全に煮詰っていて、家から出られない状態に。エクササイズとかもできない。本気でキャンセル考えました。でもキャンセルしたら笑いものになるだろうしねえ。自己評価は最低レベル。っていうか絶望ってやつですなあ。これくらいひどい状態になったのは10年ぶりぐらい。その前となるとやっぱりその10年前。10年に1回のやばさ。

4日ぐらい前に大雨明けの深夜に散歩したらやっと正気に戻る。いや鴨川に飛び込むつもりではなかったですが、それまですごいやばい精神状態だったことに気づきました。やっぱりどんな煮え煮えになっても散歩とかしないとだめですよね。私はそういうのも忘れて部屋や台所は散らかりぱなし、飯はパンやコンビニ弁当、とかになっちゃう。それじゃだめなんですわ。皆さんも困ったら散歩やストレッチしましょう。

資料や昔の勉強メモみたいなのを見直して正気に戻ってくる。

まあ泣きながら書きつづけて、20分ぐらいのトークのため A4 8枚ぐらい書けたのが2日前。
こんなの
先に現地入りしている某偉い先生に送りつけて見てもらって、Google Handoutとかで電話。偉い先生は酔っぱらっていて「だめですね、でももうしょうがないからこれでやったら?」みたいな。泣きながら修正。明け方まで。そのまま移動するつもりだったけど寝てしまって起きたら昼前。やばい。とにかく移動。いくつか発表を聞いて心を落ちつける。みんな賢いなあ。某後輩の立派なキーノートスピーチを聞いて、偉くなったなあ、みたいな。宴会はパスして、チェアやってもらう別の某偉い先生に原稿送りつけてとりあえず仮眠。起きだしてさらに修正しているとその某偉い先生からの駄目出しが届いてうれしい。助かります。ってわけで朝まで。また寝てしまう。

本番。まあ内容はあれとして、発表時間はほぼぴったりだったけど質疑応答の英語ができない。もういい歳して恥ずかしいなあ。やっぱり英会話はいつも練習しておかないとね。若い人びとは本当に語学がんばってください。

夜は晴れて飲み会に軽く参加。若い人びとは勢いがあっていいですね。時代は変わった。


まあ今回は本気で反省しました。余計な学会発表とかするもんじゃないです。半年前の自分が何考えてたのかさっぱりわからない。どうもこの学会は覗いてみたかったんだけど、なにも発表しないのに行くのはいやだなあ、みたいなことを考えてたみたい。しかし自分の実力とかそういうのを把握しておくべきですよね。研修期間で時間があるからなんとかなるだろう、みたいなこと考えてたけど、時間あったって私のようなものはたいしたことはできない。新しいことをするのは無理なんだから、予定どおりこれまで勉強したことをなんとかまとめることを最優先で考えなきゃならない。英語で論文書いたり発表したり、みたいなのもこれまで頻繁にやってきたわけじゃないわけだし。この歳になって新しい技能を身につけるなんて無理。「汝自身を知れ」っていうのはやっぱり「身のほどを知れ」「分相応に生きろ」っていう意味だと思いますね。

まあ研修期間はまだ7ヶ月あります。いろいろやりなおし。人生は続くのです。









進捗どうですか (12)

進捗だめです。

某あれをするためにサムナー先生読みなおしたりそのまわりの文献ちょっと漁ったり。

督促された某翻訳にすごい時間とられてしまって、これはもううまく訳せなくて自己評価下がるしなんとかんとも。もはや常時パニック起こしている状態。けっこう真面目にやっても進まない。時間はかってみると1ページ2〜3時間かかって、それでもまともな日本語にならない。言いたいことはわかる気はするけど、わかりやすく訳そうとるすると原文にない言葉をたくさん入れなきゃなんなくなって翻訳ではなくなってしまう。すごく苦しみました。なんか時間の無駄感がある。

あんまり自己評価下がってあれだからブログ書いて息抜きしたり。

とにかく先送りしていることを片づけて心の落ちつきをとりもどそうとしたり。

こういう自己評価下がってパニック的な状況というのは何度かあったなあ、とかって昔の秘密日記読みなおしたり。1994年、OD 1年目ぐらいが1回目のそういう時期だったようです。そこらへんで、きちんと自分のプロジェクト管理みたいなのするっていうことをおぼえるか、あるいはそういうのができないのであれば別の道を考えるべきだったな、みたいなことを考えたり。いつも後ろ向きでよくないですね。

進捗どうですか (11)

進捗だめでした。

いろいろ反省しつつ、東京にいったついでに帰省したりして。ずいぶん長い間帰ってない親不孝を反省したり、街を歩いてあまりにも滅んだ昭和のままで暗い気分になったりいろいろ苦しみました。郷里は人口統計とか見ても超高齢社会になっていて、町内も更地や売り家ばっかり。新築の家なんてのもない。少子化とか過疎化とかってのの問題はやっぱり田舎でこそわかりますね。本当にやばい。

帰ってからは読まねばならないと思っている本を開いてもあんまり進まず。だめだめ。まあ土用の一番暑いときなのであんまり無理するのもいかんかな、みたいな。しょうがないので簡単なブログ書いたりamazonレビュー書いたり。そういうのしているとわりと楽しい。っていうか私余暇にそういうふうなことをして楽しむような人生設計するべきだったんですよね。ガチに研究するっていうのは向いてなかったかもしれない。今となっては遅いですけど。

やらねばならない翻訳の仕事の督促もあって、これがまたやっかいで時間かかるしなんかストレスたまります。うまく日本語にならずに自己評価も下る。ざっと訳すのでさえ、1ページ2時間以上かかる感じ。

っていうわけで、せっかく時間をもらっているのにひどく低調な1週間でしたが許してください。おそらく一番暑いところは抜けたんじゃないかと思うので、中盤戦です。これから9月なかばまで、夏は好きな季節ではあります。

とにかく作業にかかる時間を計測してだいたいの能力がわかった感じなので、ちゃんと生産計画立てていきたいと思います。同じ過ちをくりかえすのは避けたい。自信ないけど。まあ真面目に活動したことがなかったから自分の能力をちゃんと知ることができなかったわけです。そういうこと考えてるとだんだん暗くなってだめですね。それでも人生は進みます。ぴーす。

進捗どうですか (10)

進捗すごくだめです。

若手フォーラムで発表だったんですが、いろんな意味でだめで深く反省しています。どう反省しているかというのはまあここにはあんまり書きたくないので秘密です。まあ当然のことがらできないことはやっちゃだめだし、やるにしてももっとちゃんとやらねばならない。今回は作業時間とかいろいろ気をつけようとしていたにもかかわらずだめだったのでけっこうショックですね。とにかく勝手に理想を高くするのもだめだし、かといって甘い気持ちでやるのもだめ。自分が嫌いなタイプの人間に自分がなろうとしているのに気づかされました。まあそれがおやじってことだけど。

若い人々は元気があっていいな、とか。オヤジ抜きで自由そうな感じ。世話人の人々もなんか献身的で、ああいうのを世話人とか代替りしながら長く続けているのというのはすばらしいことだと思いました。彼らには未来がある。そういう人々のできるかぎりジャマにならないように気をつけたいです。

まあいろいろ整理して出直し。いろんな意味で自分の限界を見るよい機会になりました、とポジティブに考えたいです。

進捗どうですか (9)

進捗だめです。

びゅんびゅん時間が過ぎてました。

某発表のためにフェルドマンの議論をちゃんとおさえる、という短期的目標をたててWhat is this thing called happiness読んで、2週間以上かかってしまいました。やっぱりこの本おもしろいなあ。時間測ってたんですが、40〜50時間ぐらいかかってる感じですね。14章と付録があって、まあ1章2時間弱みたいな感じ。ちょっとかかりすぎな気もします。もっとさくっと読める人は多いと思います。論述とかは難しくないけど、いろいろ考えさせられて私はそんな速く読むことはできませんでした。

それにしても本を読むのにどれくらいかかるか計測してみるというのはおもしろい経験でした。ぼんやり思ってるより時間がかかるし、1日にそんなに集中できる時間もそんなにはない。それにどんながんばったって飯食ったり寝たりしなきゃならんわけで、人間ができる活動というのは本当に限られていると思います。エクササイズとかもしないと調子悪くなるし。酒飲む時間やネットする時間だって大事だ。本とか、そんなたくさん読めないですよね。なんか時々膨大な「必読書リスト」みたいなのを提出してくる人がいますが、そういうのってどうなんかな。

もう一つ思ったのは、今回はずっと一人で読んでたけど、本当は読書会とかするべきですよね。読みまちがいとかにも気づくし、おかしいと思ったことを相談したり議論したりもできる。大学院とか進学を考えてる人は、そういう読書会や研究会が盛んなところを目指すのがよいと思います。私も大学院生のころはいろいろ読書会に参加して勉強になりました。オヤジになると、研究者志望の大学院生かかえているような大学の教員にでもならなければそういうのに参加しにくくなってどんどん知識も読解力も劣化してしまう。まあこれはしょうがないです。勉強は一人ではできないな、と思いましたし、そういう意味で私の勉強人生は終りに近づいている気がします。まだ終らんけど。ははは。

あとは国内の文献見直したりして。実はこの分野はあんまり文献ないんですよね。このフェルドマン先生とか、ヘイブロン先生とか、大学院生レベルではけっこう読んでいる人がいると思うんですが、みんなここらへんに言及して論文書けるようになるまでにはもうちょっとかかりますかね。パーフィットの名前を見かけるようになったのも90年代後半ぐらいだったし。サムナー先生の名前を見かけるようになった、ぐらいですか。

倫理学の根本問題の一つなんだけど、倫理学者が直接あつかっている文献は少ない。法哲学の人とかの方が盛んで、これは法哲の人はいきなりコンテンポラリーな文献見るけど倫理学専攻だと古典読まなきゃなんないっていうジレンマがあるからだと思いますね。大学院生からODの間に古典と格闘して、運よく大学教員とかになれたら今度は授業や業務が忙しくて勉強できないままに時間が過ぎて、たちまち白髪のおじいさん、みたいな感じ。私みたいに五十近くになるともう理解力が落ちてて新しいことは学ぶのに苦労する。多くの倫理学研究者がそういう経験をしてきたんだと思います。若い人びとは好きなことやってほしいですね。たいていの人は、いきなりカントやキェルケゴール勉強したい、って思って倫理学はじめたんじゃなくて、道徳なり幸福なりについて考えたいと思ってはじめて、カントやキェルケゴールはそのなかで出会った哲学者の一人に過ぎないだろうから。

それにしてもフェルドマン先生、一つの問題について本当によく考えているな、とか思います。スペシャリストは違うわ。途中でいろいろ幸福な人や不幸な人びとの仮想事例みたいなの出てくるんですが、私「論文書けない大学院生」みたいなのの典型例だなあとか思って読んだり。フェルドマン先生のまわりにもそういう人はたくさんいると思うんですが、どういう目で見てるんだろうなあとか。ははは。

What Is This Thing Called Happiness?
OUP Oxford (2010-03-18)
The Pursuit of Unhappiness: The Elusive Psychology of Well-Being
Oxford University Press, USA (2008-11-15)

Welfare, Happiness, and Ethics
Welfare, Happiness, and Ethics

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Oxford University Press, USA (1996-08-31)

進捗どうですか (8)

進捗だめです。

短期的には19日のあれの準備をしなければならず、そのための文献調べている段階です。遅すぎる。ネタは「幸福」なわけだけど、どの程度の話にするべきなのかよくわからないので過去の『哲学の探求』読んだり。まあなんにしても私はエレメンタリーな話しかできないわけですが。お客さんがどういう人びとか予想するっていうのは私は一番大事な作業だと思ってます。関東の哲学関係の院生とかの雰囲気というのはもうひとつ知らないし、研究の雰囲気なんかも違う気がする。あそこらの倫理学に対する関心もどれくらいあるのか、とか。私はどうも他のちゃんとした院生や研究者の人がいろんなことを知っていると勝手に想定して勝手に圧迫感じたりする悪い癖がある。

Huppert & Linley eds. Happiness and Well-beingっていう心理学系の有名論文のアンソロジーめくったり。4巻本だけど1巻目のコンセプト中心のだけ。概念的な話はまあ哲学者がやってるよりはやっぱり甘いところがあるみたいだけど私には十分啓発的なところがある。

ネットで青山拓央先生の「幸福の規範化と、私的な逸脱」とか見て、ずいぶん考えてることがちがうのがうーんとなってそれのターゲット論文になってる柏端達也先生の「幸福の形式」読んだり。ほんとぜんぜん考えてることが違う。どちらも日本の分析系の哲学を代表する先生ですが、倫理学の方はあんまり文献見たりする気はないのかな、とか。なにもないところからオリジナルに考えるというのもそれはそれで意味があるとは思います。

一番の大物はFred FeldmanのWhat is this thing called happinessを1冊読むことで、これは3日ぐらい集中的に読んでもうすこしかかる感じ。議論は非常に明晰でわかりやすいです。英語もやさしい。学部3回生ぐらいでも読めるのではないだろうか。哲学ってこういうものだよな、みたいな独特の感じがあって楽しめます。でもこの本読んでなにを議論しているか理解するためには、一回自分で幸福とかハピネスとかそういうものについて考えてみないとならんのよね。とりあえずおすすめなので哲学・倫理学系の院生の方とかはぜひ読みましょう。フェルドマン先生は「心理学者たちはコンセプトの話ちゃんとしてないのにいきなり計量とかしはじめやがって許せん」みたいな立場。私はもうちょっと学ぶところがある気はしてます。

日曜はキェルケゴール協会の年1回の大会。キェルケゴール研究している人は今ではすごく少なくなってしまいましたが、8人ぐらい個人発表で盛況。がんばってほしいです。まあ正直なところ私自身はもうキェルケゴール研究を真正面からする余裕がないのですが、重要な哲学者であることはまちがいがないので、若い人びとにはチャレンジしてほしい。

この協会はいったん(諸般の私の知らない事情で)活動停止したところをなんとかもう一回動かして細々とつなげているので、うまく若い人びとにバトンタッチしたい。

まあしかしキェルケゴールをキリスト教抜きに語ることはできないし、それだけでなくデンマーク語やったりヘーゲルっぽい思考の方法みたいなのにもなじまなきゃならなくて、正面からやるのはすごくたいへんですね。他の主流の哲学者、デカルトだのロックだのヒュームだのカントだのっていうのを研究するのに比べてすごく不利だとは思います。特に最初からキェルケゴール一本だと「哲学的な思考」みたいなのの訓練ができないところがあってやばい。

もし私自身けっきょくペーペーのまま倫理学研究者としては「モドキ」以上のものにはなれなかったわけですが、キェルケゴール研究したいという学生院生様がいたらアドバイスしたいことは、

  • デンマーク語は勉強しなければならないけど、そればっかりやるわけにはいかないので翻訳や英語とか使ってもかまわんだろう。
  • 二次文献はちゃんと見るべきだ。っていうか、ざっとキェルケゴール本人の読んだらすぐに二次文献集めてどういう解釈がありえるか考えてみて、そっから研究はじめる方がよいのではないかと思うです。キェルケゴールを素手で解釈に行くのはちょっとおすすめできない、というかそれの謎考えてるだけで一生が終ってしまう。
  • 二次文献を読めば、キェルケゴールの著作のどこがポイントなのかとか、どこに研究者の解釈の違いがあるのかとか、どこ引用すればいいのか、どこ読めばいいのか、みたいなのがわかる。もちろんそれらとあえて違う解釈、みんなが引用しないところ、読まないところ、とかを強調する手もある。でもそれはやっぱり二次文献ある程度読んだからこそできる話ではないのかな。国内では「虚心坦懐に原典を読む」みたいなのが推奨され、へたすると「二次文献に頼るな」みたいな雰囲気させあった時代がありましたが、わたしはおすすめできない。
  • 二次文献はネットでもたくさん手に入るし、有名書籍もあるし。日本の大学でふつうの教育受けてたらドイツ語までいくのは無理だろうからとりあえず英語論文見たらいいだろう。Kierkegaard Studies Yearbookとかで世界の研究動向がわかる。これはデンマークのキェルケゴール協会中心で、各年ターゲットの本を決めてけっこうな人数でつついている。英語圏のモノグラフみたいなのはもっとよい。Google Scholarとか使えばPDFでもいろいろ手に入る。
  • キェルケゴール内在的にやるのはおもしろくなりにくい。キェルケゴールがある本でなにを言ったか、ってのをだらだら書いておわり、ってことになってしまう。これは他の哲学研究者から見ると、「それのどこがおもしろいの?」みたいなことになっちゃう。やはり他の言語哲学なり倫理学なりキリスト教神学なり、自分のバックボーンになるものを作りつつキェルケゴールにあたらないとならんと思う。
  • 時間論でも存在論でもなんでも、伝記的事実としてキェルケゴールは哲学をまともに勉強したわけではない(っていうかなにもまじめに勉強しなかった)わけなので、彼の哲学が伝統的な哲学の文脈にそのまんまのっかるわけでなあいことは意識しておく必要がある。だからもしアカデミックな世界で生き残れるような形でキェルケゴールを研究したいのなら、キェルケゴール以外の正統派も勉強するべきだ。その上でキェルケゴールがどの程度魅力あるのかを考えたい。
  • 二十世紀のビッグな思想家がキェルケゴールを読んでどう言ったか、というのはやっぱり大事だしおもしろいけど、これもそのビッグな哲学者や神学者の解釈がキェルケゴール解釈として正しいとかそういうんではない。ビッグな思想家ほど他人の思想は自分に関心あるかぎりでつまみぐいして好きなことを言うわけだからして。そういうタイプの研究もけっこう負担が大きい。
  • なんにしても、哲学史上の人を扱う場合には、他の研究者の解釈と自分の解釈のどこが同じでどこが違うかを論じる必要があると思う。昭和の先生たちはまあキェルケゴールを自分なりに紹介すればそれだけで飯の種になったけど平成の諸君はそういうのは無理だと思うです。「おける論文」批判みたいなのもずいぶん強くなってるしねえ。

とかそういう感じかなあ。ほんと偉そうというかなまいきというかごめんなさい。これからも陰ながら応援してます。がんばってください。

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進捗どうですか (6)

進捗だめです。

いや、この1週間はぜんぜんだめでした。なにも進みません。どうも発表とかそういうの終るとなにも手につかなくなって無駄なことをして1週間ぐらいあっというまに過ぎちゃう。深酒とかも2回ぐらいしてしまった。ひどく反省してます。こう、ある状態になると、心落ち着かなくなって難しい本が読めなくなってしまうんですわ。延々ネットサーフィンしたり。いったんこの状態になると抜けだせない。つらい。もう子供じゃないんだからそういうのちゃんとしないとならんのに。

そういうわけで尊敬する小谷野敦先生の昔の本や新刊読みなおしたり、そっから村上春樹の新刊読んだりチェーホフの『ワーニャおじさん』読んだり。なぜか宮本輝とかも読んだり。すげー久しぶりに文学読んだ感じ。二十代なかばまではわりと文学好きだったんですが、そっからぜんぜん読まなくなってたんでそれなりに新鮮。しかしそういう世界とはずいぶん遠いところに来てしまった。

あとはThe Oxford Handbook of Sexual Conflict in Humans (おもしろい)とか読んだり。行動分析学みたいなのとか認知行動療法とか。もう支離滅裂な読書でこれではいかんです。

この前発表した内容を紀要に載せるべく手を加えようとしたりしてなんかおかしくしたり。

心落ちつかずに失なった1週間を思うとギギギという感じになります。うーん、まあなんか2ヶ月半ぐらい息をつめていろいろ勉強してたつもりなので、ここでいったんちょっと息抜きしたくなるのはしょうがないのか。

来週はちゃんと計画的にやります。コツコツやるしかないですよね。とりあえず紀要のやつ早くあれして、すぐに若手フォーラムのに手をつけないと。

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進捗どうですか (4)

進捗だめです。

食中毒になった話は前回書きましたが、そのあともしばらく苦しんでました。私はとにかくちょっとでも体に気になるところがあると元気がなくなってなにもできなくなっちゃうんですよね。ヒポコンデリー体質というかなんというか。やっと全快という気分になったのが18日日曜日。発症したのが6日だからまあ10日以上苦しみました。

そのあとはまあなんとか本も読めるようになったのでマクマハン先生とドゥグラツィア先生の本を読む。前回のブログに書いた時間相対的利益説をいろいろ考えたい。

それにしてもマクマハン先生のThe Ethics of Killingとか500ページもあって読むのたいへんっすね。文章も英語も難しくはないけど、議論が細かい。おもしろいけど、ちょっと粘着な感じがあってつらいときもある。

500ページの本がんばって読むとしても、やっぱり2、3ヶ月かかりますわね。こういうのは本当は一人で読むのは無理だから半年ぐらいかけて読書会でもした方がいいんだけど、お友達がいないからしょうがない。ドゥグラツィア先生の方はすっきりしていて読み易いです。

こういう本を読むときは、大学院生様とかはまあ友達誘って読書会がよい。ただこんなでかい本を読書会で読むっていうのは一大プロジェクトですわよね。そうして努力して読むに値する本だっていう確信がもてないととりくめない。

そういうときに役立つのは、やっぱり書評ですね。最近はネットにたくさん書評がころがっているので、気になる本についてはタイトルとかでどういう書評が出てるか調べてみるといいと思います。数が多ければそれは重要な本だ、と。The Ethics of Killingはぱっと調べただけど7、8本手に入りました。注目の1冊なわけです。実際、中絶とか脳死とかにかかわる哲学的な議論としては2000年代で一番重要な本だったんじゃないかしら。

そういう書評を見ると、どこが重要かがわかる。引用されているページとかいちいち付箋貼っておくと、どこが引用されやすいかがわかるしそこらへん中心的に読んでいく感じ。でかい本は頭から読む必要はないです。っていうか時間的に無理。

あと、まあ6月中ぐらいでEric T. Olson先生の動物説と、Schechtman先生の物語的同一性の2冊の本も読む必要がある。少なくとも動物説の魅力や、批判に対する答かたぐらいは手に入れとかないと。しかしOlson先生の文章とはなんかすごい相性悪い感じでつらい。どうも私形而上学が苦手なんよね。つい「だからどうしたの?」とか言いたくなってしまう。どうも倫理的な含意がないと理解できないというか。まあがんばります。

ここらへんの議論知りたいならドゥグラツィア先生からの方がわかりやすいと思う。まあこういう分野は無理して書籍読むよりは、論文あつめた方がいいかもしれないし、最初はハンドブックとかその手のからはいるべき。

先週の後半は「ペルソナ論」とかちょっと読んでみたり。まあ森岡正博先生ねえ。森岡先生はほんとにオリジナルでいろいろ気になる先生なんですよね。全体としてはよくわからないんだけど、ときどき鋭いことを言っているような気がする。でもあのペルソナ論はちょっとなあ。どうあんまり納得できないのか書いてみようかと思ったけど、なんか突然トカトントンという音が聞こえてきてむなしくなってやめてしまいました。でもまあ森岡先生についてはいずれ真剣に考えてみたいとは思っている。「Taking Morioka Seriously」っていう論文タイトルは昔から考えてます。他に福田誠二先生や一ノ瀬正樹先生のも読んだけど、どれもよくわからん。

稲垣良典先生の『人格「ペルソナ」の哲学』は正直私はあんまり評価してないです。偉い先生なわけですが。一方、小倉貞秀先生の『ペルソナ概念の歴史的形成』はしっかりした良書だと思いますね。もし読むんなら小倉先生の方から読んだ方がわかりやすいと思います。

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進捗どうですか (3)

進捗だめです。

5月1〜2日に京大と英ブリストル大のエンハンスメントに関する合同ワークショップみたいなのがあって、出席させてもらいました。いちおう”Does mood enhancement threaten our authenticity?”ってタイトルで発表もする。英語で発表したり話したりするのはほんとうに久しぶりでだめすぎ。練習しないと。内容もなんかうまくいかず。まあこの話は8月まで継続的に考えます。ワークショップは他の人の発表が勉強になりました。まあ日本の若手の研究レベルは世界レベルだよな、みたいな。

それが終ったらちょっとした査読みたいなののために本ひっくりかえしたりして。これも勉強になりました。もう1個なんか論文に勝手なコメントつけたり。そんなしているうちに連休はおしまい。

と、連休中最終日からどうも食中毒。発熱したり嘔吐したりでもうたいへん。おそらく「ノロ」ではなく「ロタ」ウィルスか。これで5日ぐらい寝込みました。応用哲学会とかもあったのですが、家から出られずパス。くやしい。心あたりはないわけではないのですが、証拠があるわけではないのであれです。しかし悔しい。

まあというわけで5月前半はひどいものでした。心機一転やりなおします。

進捗どうですか (2)

シンチョク? ああ、シンチョクね。ええ、まあシンチョクしてますよ。ええ。あれでしょう。あの、そこで。このあいだあれした。ええ。まあ今回のはそこそこのシンチョクだったけど、あれだね。昔と比べると、その、シンチョクのシンチョクらしさが。うん。まあシンチョクじゃないのかって言われれば、そりゃシンチョクだけど、まあすごくシンチョクかって言われるとねえ。やっぱり最近のシンチョクはあれだ。昔の方がシンチョクだよね。

研修第3週は大事な翻訳の仕事があることを思いだして掘り出してて進めたり。なかなか進まなくて苦しい。そしてまだできてない。やばい。本当にすみません。早急にやります。こつこつやればできるはずなのになぜちゃんとできないのか。なんとかDeGrazia先生が2000年代にどういう仕事したのか見当がついた、みたいな感じかなあ。Boonin、McMahan、DeGraziaの3人は大事ですね。あといまごろOlson先生とかSchechtman先生とかそこらへんが非常に重要だったことにも気づいた。ここらへん紹介できるといいですね。

第4週は5月のはじめに研究会で発表しなければならないことに気づいてあわてて資料読みなおしたり。エハンスメント関係。これ、研修の公式目標「性と生殖」とどう関係しているか実は微妙なんですが、広い意味では関係あるだろう、基礎作業として必要だ、ということでやります。研修ったって勝手に好きなことを勉強していればよいわけじゃなくて、ちゃんと書類に書いたことをしないとならんわけです。そういうの気を使うなあ。

なんか研究会のタイトルに「日本とイギリスの議論を比べる」みたいなのがついていることに気づいて、国内の人々がどういう議論しているか確認。これはいくつか発見があってわりとおもしろい作業でした。

哲学とか倫理学とかやっている研究者はたくさんいるわけですが、「エンハンスメント」みたいに狭く絞れば実は数人しかいないんですね。

東大のUTCPとかいろいろ生産物出してて偉いな、とか。ここ10年ぐらいで人文系でも大学にけっこうんが額のお金がまわるようになったわけですが、その結果、一部の若手の人はわりと時間的余裕をもって研究できるようになったのかもしれない。それにお金もらってるわけなので成果を出さねばならないわけですが、その研究成果っていうのは単に当人の業績稼ぎ以上の意味がありますわね。他の人もそれを見て勉強できるわけで、才能なり資源なりを一応広く学界で共有するという形にはなっている。大学院重点化とかGCOEとかそういうお金のばらまきはいろいろ問題があって批判も多いわけですが、ポジティブな面もあるよな、みたいなことを考えまてました。

同僚の霜田求先生が阪大医学部いたころにやってた『医療・生命と倫理・社会』とかも偉いな、とか。こういう雑誌とか資料集とかちまちまつみかさねている人々は本当に偉い。どうもこの『医療・生命と倫理・社会』は終了してしまったようなので、霜田先生にはうちで続けてくださいとお願いしておきました。

あと、偉い人、偉くなりそうな人は同じネタで何度も書く、というかちょっとづつつみかさねていく。これはいいことですね。生命倫理関係だと一つのネタについて1回書いてそれでおしまい、という人が多いように思えますが、やはり継続して研究を続けるっていうのは大事だ。

現在エンハンスメントまわりやってる人はほぼ同じ文献とか見てる。みんな同じようにネットつかって論文漁ってるので当然そうなるわけだけど、実際に国内の人がみんな同じような文献みて仕事するようになったのはここ10年以内、へたするとここ5年のことなんじゃないか、みたいなのも感じました。海外と国内の議論のタイムラグはほとんどないし、優秀な人達だと議論のレベルもそんな変わらんのではないかという気もします。みんな大手振って海外出ていく時代ですね。

しかしまあ1月研修してみてわかったのは、私はやっぱり研究者ではないな、みたいな。勉強しているのは楽しいけど、もうなにもかにも習得するには遅い感じがする。だいたい40代後半には大学の先生の半分以上が実質的には研究やめちゃうんですが、それもわかるなあ。私はそれでもまあもう少しジタバタしますけどね。

百万遍図書館もカード作ってもらって一回りして。どうもあの大学は男臭くて長居したくない感じはあります。3階に個室があるので使ってみたい気がします。メディア室みたいなところには誰かのCDライブラリがあっていいですね。そのうちチェックしていちぶはこっそりiTunesに吸い上げたい。

あとはまあ健康のため毎日6キロほど走ってます。4月はけっきょく1日も欠かさず走ってますね。すげー健康。ははは。

それにしてもどうも私は時間をうまく使えない、っていうか、いろいろあせってしまってだめですね。もっと余裕もっていきたい。無理せず。

そういや、キーボードにイライラしたんでバカ高いの買ってしまいました。でもこれは気持ちいい。

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国内研修はじめました

私が雇ってもらっている大学には「国内研究員」制度っていうのがあって、半年か1年の間、国内の大学とかの研究機関で勉強させてもらえます。「海外研究員」ってのもあります。いわゆる「サバティカル」とかってのに近いのかな。でも「サバティカル」っていうのは基本的に休暇だと思うんですが、この「国内研究員」はちゃんと研究しないとならんです。

就職して13年間働いたし、よく考えると大学院に出てからずっと予備校教師だの大学非常勤講師だのリサーチアソシエートだので忙しくしていて、まともに勉強する時間がなかったんですよね。せっかくのチャンスだから1年間勉強したい。研修研修、研修するぞ研修するぞ研修するぞ。

まあふつうは海外とか留学して勉強してくるもんだろうし、国内でも関東とかどっかちょっと離れたところで環境を変えていつもは会えない人々と会って新しいことを勉強してくるものでしょうが、出不精なものですから京都ですませてしまいます。出身大学の先生たちにお世話になることに。すみませんすみませんよろしくお願いします。

本務校に提出した研究テーマみたいなのは(いちおうテーマがあって審査される)、「性と生殖にかかわる応用倫理学的研究」とかってのにしました。「妊娠中絶や各種生殖技術にかかわる倫理的問題の分析をおこない、法的・社会的な規制の是非を検討するとともに、 性と生殖にかかわる人間の価値観の分析解明をめざす」とかって感じ。「でたらめだろう」って? いやいやそんなことはないはずです。

本務校の研究室には基本的に出入り禁止なので、自宅に同じような作業環境をつくるのにけっこう時間がかかってしまいました。まあここしばらく自分の家は寝るために帰ってくる程度だったので新鮮です。

本当は研究室使わせてもらえるといいのですが、まあ形式的に他のところで勉強していることになってるわけだし、自分のところの授業とかもたないのに大学うろうろされてたら「あの人なに?」みたいな感じでよくないんでしょうな。しょうがないです。それでなくても研究室でいろいろ悪いことをしている不良教員だし。一部では「停職になったのではないか」とか言われているのではないかと心配です。ご近所でも「最近あそこの人は昼間からジャージでうろうろしている」とか言われはじめてるような気がするし。ジョギングは楽しいですね。

翻訳出ました。

もう何回も宣伝見せられてうんざりしている人もいると思うけど、ごめんなさい。モロに宣伝なのはここが最後だと思います*1

みんなで翻訳した本出させてもらいました。

妊娠中絶の生命倫理
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amazon等でも入手可能になったようなので宣伝。買ってくれたらしばらく感謝します。

サポートページはこちら。 https://yonosuke.net/eguchi/abortion/

買ってメールくれたりtwitterでメッセージくれたらおまけつけようかな。

なんでこんな20年~40年も前の古い論文訳すことになったかってのは、kalliklesってペンネームの人のブログのここらへんみるとわかるかもしれません。

日本の生命倫理学の発展に少しでも貢献できるといいなあ。

*1:まあこの宣伝するために露出を増やしたりいろいろ姑息なことをしていたわけですが。

wikipediaはバカな教員より正確なこともあります

前日、うっかり下のようなことを書いてしまった。

Wikipedia (ja)の「自然主義的誤謬」の項。これもぜんぜんだめ。
っていうかなんでこんな奇妙な間違いかたをしたエントリになってしまうのか理解できない。
どうしたらいいんだろう。せめて英語版を超訳すりゃいいのに。うーん。まあ放置、でいいのか。よくないような気がしてきた。

しかしこのエントリは正しいのではないかという
つっこみがあり、私の勉強不足の可能性がある。よい機会なので今日勉強しよう。

問題は§24のあたりだわね。あ、自分で読んで線引いた形跡がある。’

なるほど、

・・・あまりにも多くの哲学者たちが、あらゆるよいものに属している(「よさ」とは)なにか別の
特性を名指すことによって、「善い」を定義していると思いこんでしまっている。そして、また、こ
れらの特性が、事実として、「別の」ものではなく、よさと絶対的にまた完全に同じものだと思いこ
んできた。こうした見解を私は「自然主義的誤謬」と呼びたい。そして、これから、この誤謬を
排除するよう努力してみたい。(§10末尾)

この章と次の章で、私は善が自然的対象に言及することによって定義できるという
仮定にもとづくことによって流行している諸理論を扱う。これらの理論が、この章のタイトルにして
いる「自然主義的倫理学」と私が呼ぶものである。私が「形而上学的倫理学」を規定するために用い
る誤謬は、種類において同一ものであることが理解されるべきである。したがって私はその誤謬に、
「自然主義的誤謬」というたったひとつの名前を与えることにする。(It should be observed that
the fallacy, by reference to which I define “Metaphysical Ethics,” is the same in kind;
and I give it but one name, the naturalistic fallacy.) (§25、原書p. 39、邦訳p.50)

なるほど。
そして§67あたりでも実際にスピノザやカントみたいな人びとも「自然主義的誤謬」を
犯していると非難してるわね。ここもなんと赤線引いてある。なにかの折りに確認してんだわ。ぐは。

うーむ、ムアの用語の選択はムア独特の筋の悪さを示しているが、これは歴史的にはしょうがないねえ。
だからwikipediaの記述は一応正しい。私の勉強不足、理解不足。
でも記述の方法にはやっぱり文句があるような気がするなあ。
あとでどういう記述なら文句ないのか考えてみよう。

・・・うーん、まあ最初に一般的な用法を提示してくれないからか。
いわゆる「独自研究」に近くなってるからかもしれない。日本のwikipediaで
気になる「一般に認められている~はまちがい」とかっていう否定的な記述が気になったのかもしれない。
小谷野敦先生なんかが編集した奴に多いんだけど、そういうのってなんか百科事典にしては
「我」が立ってていやなのかもなあ。

Blackburnの The Oxford Dictionary of Philosophy だと

ムアの『倫理学原理』で指摘された誤謬。倫理的観念を、「自然的」観念や、事物をよい/悪いもの
にする特性の記述と同一視すること。したがって、もしあるひとの基準が功利主義的であれば、ある
行為をよいと述べることは、それが他の行為よりもより多くの幸福を生み出すと述べることと同じで
ある。このようにして語の意味を同一とみなすことが誤りであることはほとんど確実であるが、
ムア以降の研究においても、ムアの論敵(特にミル)がこのようなものにもとづいた推論の
エラーを犯しているかどうかは確かめられていない。「未決の議論」も見よ。

あ、これは辞書だった。まあStanfordのあれでもいいけど、最初はふつうに「よさ、悪さなどの倫
理的観念を、自然的性質によって定義しようとすること。ムアによって誤謬であるとされたが、その
後誤謬であるかをはじめとしてさまざまな議論がある。」ぐらいに書いておいてほしい。んで微妙に
詳しくなってほしい。英語版でも最初はいちおう「「よい」を自然的性質によって定義しようとする
こと」って書いてるわけで。まあここらへんお前が書けってことか。

wikipedia触ってみるよい機会なので、ちょっとドラフト作ってみる。

品川先生:時間ぎれ

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

コメントのレジュメ。

追記(7/30)

もっと共感的に読むべきだったのははっきりしてます。っていうかそういうの私はunderstandingじゃなくてダメダメ。でもあんまりunderstandingなのも哲学としてはどうなんかなという感じがあってね。でもそりゃだめだ。徳が足らんです。

個人的にはおかげでヒューム先生の偉大さを思いしったのが最大の収穫でした。Annette Baierも読もう。あとノディングスはちょっと詳しく検討して批判する必要があるかもしれない(訳文を含めて)。

なんか品川先生が風評被害を受けているんじゃないかという声もあり。いや、よい本なんでみなさんぜひ買ってください。哲学者が自分を掘り下げ、自分でなんか新しいことをやろうとしている雰囲気がよいです。この手の話はこの本読んでからじゃないとダメよ、ぐらいに売れてほしいなあ。

追記(8/2)

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm です。

ノディングス先生

原書届いた。第2版。

  • やっぱり翻訳は問題が多い感じ。たとえば一番最初からまちがえてる。

    辞書によれば、「ケア」とは、心的な受動的作用(mental suffering)、ないしは専心没頭(engrossment)の一状態である。ケアするというのは、負荷された心的状態、つまり、なにやかや、だれかについての、心配や、恐れや、気づかいの状態の中にあることである。言いかえると、ひとが、なにかやだれかに関心や、好みがある場合に、そのなにかやだれかに対してケアすることである。もし、わたしが、数学に対して好みがあれば、喜んでそれに時間を割くだろうし、もし、あなたに関心があれば、あなたがなにを考え、感じ、望んでいるかは、わたしにとって、大きな関心事になろう。そしてまた、ケアすることは、なにかやだれかの保護や、福祉や、扶助を託されているという意味でもあろう。(邦訳p. 13-14、下線江口)

    Our dictionaries tell us that “care” is a state of mental suffering or of engrossment: to care is to be in a burdened mental state, one of anxiety, fear, or solicitude about sometning or someone. Alternatively, one cares for something or someone if one has a regard for or inclination toward that something or someone. If I have an inclination toward mathematics, I may willingly spend some time with it, and if I have a regard for you, what you think, feel, and desire will matter to me. And, again, to care may mean to be charged with the protection, welfare, or maintenance of something or someone. (強調江口)

  • ランダムハウス
    ■n.
    【1】心配,気苦労;不安,懸念;気がかり;_しばしば cares_心配ごと,苦労の種:
    worldly cares 俗世[浮世]の苦労
    borrow care 取り越し苦労をする
    drown (one's) care(s) in drink 心配を酒で紛らす
    Care aged him. 気苦労のため彼はふけ込んだ
    He was never free from care. 彼の心配が絶えたことはなかった
    Their son has always been a great care on their minds. 息子は彼らにとっていつも
    悩みの種であった.
    【2】注意,用心,留意;気配り,心遣い:
    meticulous [or the nicest] care 細心の注意
    exercise due [or proper] care しかるべく用心[注意]する
    With care. _荷物の張り紙_取扱い注意
    She devotes great care to her work. 彼女は仕事に大変な注意を払う.
    【3】世話,保護,看護;ケア,介護,介抱,介助,養護,監督,管理;_英_(公的機関による)保育
    (child care):
    skin care 肌の手入れ
    be taken into care by him 彼の世話になる
    be busy with the care of children 子供の世話で忙しい
    be under the care of a doctor 医者にかかっている
    I will leave this to [or in] your care. これは君に任せよう.
    
  • 第2版には新しい序文がついてる。

    おそらくこの本で展開されたケア理論の最大の貢献は、ケア関係を強調したことである。個人ではなく関係が存在論的な基礎であり、わたしは「ケアリング」という語をある種の関係や出会いを記述するために用いた。また一方、「ケアリング」は、道徳的行為者によって行使される特性あるいは性向としても解釈できる。私は『ケアリング』でこのことばを両方の意味で使っており、この区別を常に注意ぶかく行なっていたとはいえない。しかし、私の意図は第2章の終り付近で明らかだろう。「しかし、ケアリングは他者、ケアされる者を含む関係であり、またすでに指摘したようにケアする者とケアされる者は相互に依存している。」(p.58)。両者がケア関係で重要な役割を果たすのである。 (p. xiii)

ノディングス先生名言集

ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から
ネル ノディングズ
晃洋書房
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なんか翻訳大丈夫なんだろうか。わたしが持ってるのは第4刷。3刷で訳直したみたい。

翻訳の問題だけじゃなくて、論述上の問題をかかかえた本に見える。アマゾンで「原典そのものが難解」と評しているひとがいるけど、難解というよりは思考が混乱しているし、かなりふつうのひとが反発を感じそうなことを婉曲的な表現で述べていると思う。これはちょっとのれない。(私はギリガンは非常にまともだと思っているが、ノディングスは有害かもしれないと思いはじめている。)

合州国では、正義の名の下に、学校が人権的(ママ)に隔離されるべきではないことを決めています。人種差別廃止のために、法的な命令によって、人種的な居住区別の学校が廃校にされる場合もあります。転校させられた生徒の両親は、以前の学校では活発であったのに、新しい環境の下では自分がよそ者のように感じられ、その結果、少数民族は、白人の子どもたちを見習うために、いっしょにいる必要があるのだという、誤った考え方にとらわれ続けています。たしかに、かなりの数の人びとが貧困にあえぎ、物資や人間としての尊厳を奪われているというのは、不公正です。しかし、不正義のおもてに表れた兆候を取り除くために作られた、一つの尺度を推奨する前に、ケアリングならば、こう問うでしょう。もしわたしたちがこれをすれば、コミュニティーはどうなるのかしら、家族は、子どもたちはどうなるのかしら、と。(序文p. iii)

微妙な書き方だな。人種分離政策とっといた方がいいってことだろうか?なんかヤバい匂いがする。

ケアするひとであり続けるためには、わたしは殺さねばならないこともありうる。眠っている夫を殺す女性の事例について考察しよう。たいていの状況のともでは、ケアするひとは、そのような行為は誤りだと判断するであろう。それは、夫をケアするというまさしくその可能性を犯している。しかし、夫がどのように妻と子どもを虐待したのかを聞き、その女性が体験してきた恐怖と、その問題を適法的に解決しようとした過去の努力について聞くとき、ケアするひとは自分の判断を修正する。陪審は、酌量されるべき自己防衛という理由でその女性が無罪だと評決する。ケアするひとはその女性を倫理的だと理解するが、それはひどく縮小された倫理的理想に導かれてのことである。その女性は、自分自身と子どもたちを守るためには仕方がないと考えた唯一の方法で行動したのである。したがって、その女性は、自分自身をケアするひととみなすという理想像のなりゆきに則って行動したのである。しかし、なんとひどい理想像であろうか。その女性は、一度殺人を犯したが、再び殺人を侵さないはずのひとなのであって、もはや、たんに殺人を侵さないはずのひとではない。究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある。行為者は、貪欲さや、残忍さや、個人的な関心から、落としめられた理想像を選んだのか、あるいは、ケアを維持するのを不可能にするような、良心の欠けた他人によってその理想像へと駆られたのか。(p.160)

なに言いたいのかわからん。うしろpp.178-179あたりを見ると、「子どもと自分を守るために旦那殺したんだったらやむをえない」と言いたいように見えるけど、これが正義の原理じゃなくてなんなんだろう?

クラスでただひとりの黒人学生が、人権侵害や非人道的行為が黒人に対して平然と行なわれている様を、また、かれの絶望感が次第に大きくなっていく様を雄弁に語った。そして、かれは「バリケードに行くつもりだ」と語った。その学生には、あきらかに、人びとの彼に対する扱いを非難し、事態の改善を要求する権利があった。それなのに、バリケードや銃や暴力にいきつかねばならないのか。おそらく、そうなのだろう。・・・ああ、(人種差別主義者の)伯母も父も間違っている。でも、わたしには親切にしてくれた。・・・あなたにもお判りのように、わたしは、バリケードまで行くなら、こちら側にいるに違いないし、また、父やフィービー伯母さんのそばに立っているだろう。わたしは、ジムたちを罵るだろう。バリケードを撤去しようとするだろう。平和をもたらそうとするだろう。・・・では、そのとき、ジムに、まったく「正しい」黒人の青年に何をするだろうか。ジムが視界に入ったなら、とAさんは言う。それがジムだと気づけば、何か別の目標に眼を移すであろうと。(pp. 171-172)

なんかすごいな。バリストするような黒人は物理的暴力を使う悪い人!排除しなきゃ!なんじゃないの?おそろしいよ。ジムから眼をそらして罵りつづけるのね。

暴力が突然、予期せず行使されたとしよう。いま愛されていてケアされているひとが、暴力というこのひどい行いに関与する、あるいは関与しようとするのである。わかりました。Aさんは言うだろう。あなたは、わたしをそこまで追いつめるのですね。わたしは、たとえなにが起ころうと、悪いことには協力するつもりはありません。わたしは、こうしたケアリングに対する侵犯行為に対してならば、ジム(抗議活動をしている正しい黒人青年)を守ったでしょう。しかし、もう一度言いますが、わたしのケアされるひとならばそんなことをするはずがありません。

パパがジムを殺したなんてあるはずがないわ。なにかのまちがいよ。どうしてもしょうがなかったのよ、きっとジムが最初に銃をもちだしたんだわ。暴力じゃないわ、事故よ。ただ威嚇するつもりだったにの弾が出ちゃったのよ。なのかなあ。いや、意地悪く読みはじめるとここらへんキリないよ?こわすぎる。

自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」と彼女が断言するとき、その断言は信頼の表明である。そしてここにある信頼感は関係性にもとづいている。・・・それは、関係性のうちで過ごされた年数という証拠により跡づけられ基礎づけられた主張である。一定の証拠に基づいて唱えられたこのような主張は、主張者が話題になっている人びとを知っているという状態を要求する。さらに、その主張は、他者のうちでケアが維持され続け、また完全に出来上がっているという状態を要求する。(p.175)

どういうことだろうな。誰か解説してほしい。ノディングの名前を論文にあげる人びとはノディングスほんとに読んでるんだろうか?

わたしたちはどんなひとでも愛せるわけではない。どんなひとでも十分にケアできるわけではない。またケアするためにどんなひとでも愛する必要はない。わたしは「心をかけないケア(care-about)を無視してきたし、またそれでもよいと信じている。それは行おうと思えば、非常にたやすく行える。わたしは、飢えたカンボジアの子供たちを「心をかけないでケア」できるし、5ドルを飢餓救援基金に送れるし、いくぶんかの同情も感じられる。しかし、わたしの送金が、食料費に使われるのか、あるいは、銃の購入に使われるのか、それとも、政治家がキャデラックの新車を購入するために使われるのか、十分にはわからない。上のようなわたしの行為は、ケアにとってのできの悪い又従兄弟である。「心をかけないケア」はつねにある一定の思いやりおある無視を含んでいる。わたしたちは、まさにそこまでは思いやり深くいられる。ちょうどそれくらいの熱中に同意する。承認し、肯定する。5ドルの貢献を行い、それに続けて他の事柄を行う。(p.175)

どういうことなんかね。これも解釈が必要に見えるな。カンボジアの子供たちのために5ドル使うのはあんまり意味がないってことかな。せめてどこの募金団体がそのお金をどう使っているか調べてもよさそうだけどな。

もはやケアれないひとが、後退したそのひとに暴力を働き、脅威を増し、悪意ある取り組みを続けるなら、そのひとは、さらにひどい虐待を阻止するために行動しても正当化される。もちろん、さらにひどい虐待を阻止する行動も、ケアリングの倫理に導かれなくてはならない。がまんできないほどしつこいセールスマンであっても、かれを撃ち殺してしまったなら、あきらかにわたしたちは正当化されない。(p.180)

わたしもそう思います。さっき梅田に超高層駅ビルができるので、とか
電話してきた人がいるんですが、撃ち殺すのはやめておきます。ケアリング。

多くの女性は勝ち負けを争うゲームを避ける。・・・創意に富み、予知できず、空想をかきたてて始まる事柄が、 とにとして、規則に縛られ、技量にこだわり、ひどく深刻なもの*1になる。Aさんを不安にさせるのは、ほとんどすべてこの深刻さである。というのは、深刻さがあるから、彼女は、これは試行ではあるが、自分の夫もこんな仕方で人生を理解しているかもしれないという不安を抱くからである。Aさんは試してみる。彼女は自分の家族とフットボールをするが、そのとき反則をする。対戦相手にしがみついたり、くすぐったりする。こぼれたボールを拾ってタッチダウンする。ときには、フィールドから走り出て、自分のチームが勝って、それでおしまいと主張する。彼女は、ともかくプレイするなら、楽しさが残らなければならないと強く主張する。(p.186)。

 

女はルールにしたがってスポーツすることができないどころか、ゲームを壊し、真剣さや楽しみそのものを壊してしまう。っていうかこういうのは他の女性たちに対する侮辱なんじゃないのか?大丈夫なの?次のページp.186のスポーツ参加の話にも注意。わけわからん。

わたしは、ネズミとの関係を確立しなかったし、いつまでも確立しそうもない。ネズミは、わたしに呼びかけない。ネズミは、期待通りには、わたしの家の戸口には現れない。ネズミは、わたしの方に首を伸ばしもしなければ、自らの欲求を鳴いて知らせもしない。ネズミは、ひとを避けることを覚えていて、すばやく走り過ぎていくだけである。さらに、わたしには、ネズミをケアする覚悟ができていない。ネズミに対しては、どのような関係があろうとも感じない。ネズミを苦しめようとは思わないし、そうしたわけで、ネズミに毒をもるのをためらうけれども、機会が生じたら、ネズミを、きれいに駆除してしまおうと思う。(p. 242)

アザラシの赤ん坊の虐殺は、嫌悪感を催すが、ウツボの虐殺は、単なる安堵をもたらす。倫理性に関して心情の果たす役割を認識する際に、感傷的だと非難されるべきではない。(p.245)

これが人間に適用されるとどうなるかと考えただけで恐い。このひとが思ったときに戸口にあらわれないホームレスの人とかどうなるんだろうなあ。

野放しの「ケアの倫理」は「正義の倫理」によって矯正されなければ超保守思想に結びつくかもしれない。実際にノディングスはそう見える。

教育の第一目標として、ケアリングの維持、向上を指し示す際に、わたしは、優先事項に注意を喚起している。もちろん、知的な目標や美的な目標を捨て去るつもりはないけどれど、次の点を提案したいのである。すなわち、知的な課題や美的な評価は、その遂行が倫理的な理想を危うくするとしたら—永続的にではなく、一時的にではあるが—意図的に度外視されるべきである、と。(pp. 268-269)

もちろん倫理的な理想ってのはケアリング関係の維持だろう。これがどれくらい恐しい主張であるか、読者は注意するべきだと思う。

わたしが提案しているところを述べれば、こうである。すなわち、生徒が主題に対して、つらさや無関心を示すときはいつでも、教育者は、引き下がらねばならない。(p. 269)

これは一理あるかもしれんが「いつでも」は絶対にだめ。「関心をひきだす工夫をしましょう」だろうよ。

たえず、学校にかかわる人びとは、「批判的思考」「批判的読解」「批判的推論」といった目標について語っている。わたしたちの批判的技能や、それを発達させるための練習が「P」とか「Q」とか、「PはQを含意する」とかという表現に縛りつけられている限り、学校は、自らの姿を把握していない。巨大な裸の王様の外観を呈すであろう。曇りのない眼で、行いを見る必要がある。対話の目的は、観念と触れ合い、他のひとを理解し、他のひとに出会い、ケアを行う点にある。

クリシン教育には懐疑的なのね。まあ発達段階によるけどね。でもまともな批判的思考を身につけたら、ノディグス先生の言うこと聞いてくれなくなる可能性があるからじゃないの?

いいですか、本気ですが、わたしはこの本、ジョークじゃなくて本当に恐いです。無批判に(読まずに?)称賛している国内の人も恐いです。枝葉にこだわりすぎかなあ。でも単なる枝葉じゃないような気がする。

雑感

ヨナスは品川先生が話題にしていること以外にもいろんなことを言ってるわけだが、もう調べる時間がない。

昨日の合評会のレジュメほしいなあ。

盛永審一郎先生はヨナスの受容でも大きな働きをしている。少なくとも1993年にはその重要性を指摘しているわけだ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001524258/ すでに品川先生の問題意識を先取りしている。

人間は種として存続可能なのだろうか。人間には動物が持っている「本能的社会」というものがないらしい(注)。それならば、いかにして人間は、種のことを、他人のことを考慮にいれた行為をすることが可能だろうか。(p.25)

注についてるのは日高敏隆先生『動物にとって社会とは何か』1977。まだ日高先生が社会生物学に屈服する前(ローレンツとかの紹介いっしょうけんめいやってたころ?)だね。

CiNiiだと1988年の角田幸彦先生が一番古いのかな。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003633151/

おそらくアネット・ベイヤーなんかはヒュームを正しく理解し援用しているんだな。

もう新しい文献読むのやめなきゃ。

あら?オーキンもってるぞ!まあ読む時間はない。

*1:まだ原書届かないけどseriousかなあ。