北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。

前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。

たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。

こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルーズだけどかっこいい言葉づかいする人々は、おそらく、「直接やっているように見える行為と別の行為が同時におこなわれている場合に、その行為はパフォーマティブだ」とかそういう感じになるんだと思う。

浪速大学教授の性的活発さを記述するのは、それによって浪速大学教授たちを貶めたいという江口のパフォーマティブな行為だ、とかそういうふうになるんちゃうかな。

でもこれってほんとにつまらない。だって、われわれの行為って、別に二つ三つの意味とか意義とかがあるのってふつうのことじゃん?誰かとセックスするとき、コミュニケーションしたり射精したり愛を確かめたり、性器を接触させたり、オルガズムスを経験したり不快を経験したり、労働したり、男性優位社会を確認しつつ女性の優位を推定したり、まあいろんなことしてるじゃん。「一つの動作に一つの行為の意味」みたいなふうにはなってないし。行為においても発話においても。だから「パフォーマティブ」っていうのが指摘するのがおもしろい概念や特徴であるとしたら、たんに二つ以上の行為をどうじにやってるってことじゃないと思う。

んじゃなんなよ、って話になるとこれまた面倒ですわなあ。もうちょっとつめられるとは思うけど、もう面倒だからやめ。ヒントだけ書いておくと、字義どおりの発言や行為と、それによって目指されてる全体的な(他者への)影響の違い、とかになるんだろうけど、そういうことになったときに、北田先生とかがなんかやってる「意図にかかわらず」みたいなの可能なのかどうかよくわからん。でもそういうのも、まじめに考えたきゃバトラー様の難解すぎるか、さもなくば無内容であるか、あるいは難解で無内容かもしれない文章いっしょうけんめい読むより、ふつうの行為の哲学とかそういうのやった方がいいんちゃうかな。とにかくバトラー様はうんざりしたし、北田先生のおかげでほとんど理論的なことも具体的なことも考えてないのがはっきりしたと思う。まあでも好きな人はがんばってほしい。


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