学術論文における言及とクレジット (2) 河野有理先生のエントリーへの疑問

んで、このクレジットの問題を考える上でのとっかかりになった笹倉秀夫先生の書評と、それに対するネット民(ネット人士?)、そして専門家の河野有理先生の「初期消火」論説についてやっぱりどうしても触れないとならない。このシリーズの予定では、この問題に直接関係はない、って書いたんですが、やっぱりどうしても触れないわけにはいかないですよね。正直、私は河野先生の文章がよくわからない。

(本エントリーのみ公開仕様にします。拡散していただけますと幸いです)下記のような論文が一部で話題のようです。業界の評判に関わることですので簡単に一言します。結論から言うと、この論文での著者の主張(苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』と…

河野 有理さんの投稿2018年12月4日火曜日

この件につき公開エントリーはこれで最後にします。(※12月15日に二つの追記をしました)前エントリーでは、早急な初期消火の必要を感じていたため、笹倉氏の書評を真に受ける必要がない旨のみお伝えしました。また、手元には笹倉氏の『丸山眞男論ノ…

河野 有理さんの投稿2018年12月7日金曜日

疑問やコメントを順不動の箇条書きで残しておきます。

  • まず、二つ目のエントリーの方、「笹倉書評の主張は、「苅部本(2006年)の記述は、笹倉本(1988年)と「通常考えられないほど重なっている」というものです」は、正しくは「笹倉本 (2003)」だと思います。書評で笹倉本と呼ばれているのは1988年の『丸山眞男論ノート』ではなく、それを増補改訂した2003年の『丸山眞男の思想世界』です。苅部先生のが2006年ですので、執筆直前に出たような感じでしょうか。これずいぶん印象違いますよね。実はこれ、もとの笹倉先生の文章も全体に読みにくいといころがあって、私のようにそそっかしい読者は把握してない可能性がある。私1988年の方は見てないのでわからないのですが、2003の『思想世界』は『丸山眞男論ノート』を第二部にしていて、さらに『方法としての丸山眞男』(1998)を第一部に、「複合的な思考」(1996)を第三部に加えてるようで、まあぜんぜん違う本と見てもいいんではないでしょうか。
  • 苅部先生が独創性を主張していると笹部先生は執拗に指摘してる、って話。当然の確認だと思います。これはふつうの著作は独創性を主張しているわけですが、教科書、事典などはそうではない。新書は判断がむずかしいときがあるが、岩波新書はあきらかに著者を前面に出したオリジナルな研究のはずで、苅部先生だって自分の独創性がないなんてまったく主張しないように思います。笹倉先生はそれ(「単なる教科書的な概説じゃないんだな?」)を確認しているんだと思う。
  • 笹倉先生の主張する「重なり」が「字面レベルではほとんどまったく似ていない」、ということですが、字面が似ていればこれは笹倉先生の主張するアイディアの無断借用などではなく、まったくの著作権侵害で話は別。「アイディアの無断借用」や「剽窃」plagiarismと、著作権侵害 copyright infringement とはまったく別の概念だと思います。ちなみに私は剽窃はわれわれが非常に犯しやすい行為で、かつ、必ずしもとても重大な悪と呼ばれるべき行為とも言えない場合がある、と主張したいのですが、それはまたあとで。
  • 学術的なクレジットは必ずしも「第一発見者」につけるものではない。また「専売特許」のようなものではない。基本的には情報の流通の依存関係をあらわすものだと思います。「アイディア使われたかもしれない」というような訴えを「専売特許を主張するのか!」みたいなのはあまりよくない反応だと思います。(ちなみに著作権と特許、そして専売制度もまたぜんぜんちがったものです)
  • 「「たった一行なぜ俺の名前を書けないのか」的なことなのではないかとも邪推」ということですが、これはどうでしょうか。わたしはたった一行でいいから笹倉先生の書いてあげるべきだという考え方は十分なりたつと思います(このケースで実際にどうかという判断はしませんが、そうした要求をすることは悪いことではないし、正当な場合も多いと思う)。苅部本では文献リストは8ページもあるし、丸山の文献については本当に必要なのかか門外漢には判断できない情報も載せているのだから、1行笹倉2003を載せるのは何の苦もないはずだと思います。一般読者にも、丸山研究のまとまった書籍の代表的なものの存在をいくつか示すことは有益だろうと思いますし。
  • 「松澤、石田、飯田諸氏による丸山論の方が使いやすい」ということですが、使いやすさの問題ではないように思います。実際にそれらを使ったかどうかが問題のはずです。その文献を参考にしたかどうかは執筆者本人しかわからないように思います。
  • 笹倉先生が主張する「重なり」の1の「あい矛盾する二つの要求」はたしかに陳腐かもしれません(だいたい思想家は葛藤する要求やアイディアをもっているものです)。しかし2の「型」の強調はわりと印象的で(これは笹倉1988ではなく2003のものです)、3、4、5、7などでの使用文献の重なりが偶然的なものなのか私には判断できません。そうした論の進めかた、文献使用の選択などそれ自体が「アイディア」であるように思います。
  • 河野先生のエントリーについてもっとも大きな違和感は、「優れた先行研究だけが参照され、言及され、文献リストに載せられるべきだ」というような考え方をもっておられるのではないかという点にあります。研究史において重視されている文献だろうがそうでなかろうが、参照しアイディアを借りたり批判したりするときには言及する、というのがふつう要求されている態度であって、もちろん参照しなかったのなら言及する必要はない、というそれだけのことに私には思えます。
  • また、優れた書籍、優れた論文はもちろん大事ですが、昔の文献に仮に誤りが含まれていたり情報不足の面があるとしても、部分的に、情報として有益なもの、オリジナリティを認めるべきものは存在するはずです。そうしたものを参照したのならそうはっきり書くべきだと思います。
  • 「先行研究は誘惑するものである」といった文学的な表現は魅力的ではありますが、そうした考え方は必要なく、見たものは見たと書き、参照しなかったのなら「参照しなかった」あるいは「見たけどぜんぜん参考にならなかったので省いた」でOKであるように思います。ただしこれは本人が答えねばならない。もっとも、そうした「アイディアを無断借用したのではないか」という(特に本人からの)疑義にさらされないためには、前のエントリに書いたように「迷ったら言及しておく」ぐらいしか手段がないように思います。
  • 「この12年間、笹倉氏以外の専門研究者コミュニティから疑義の声(「苅部本が笹倉本を参考文献表に加えないのはおかしい!」)が出ていないのはそういうことです、としか言いようがないのでは」ということですが、これはだからこそ問題で笹倉先生自身がああした書評を書かざるをえなかった理由なのだと思います。文献表やアイディアの流通のようもののチェックは、一般読者・門外漢には不可能です。文献リストを眺めて「欠けている」ものを見つけるができる非専門家はいません。したがってそうしたことは専門的な研究者に期待される役目なわけですが、そうした専門家が皆、河野先生のような考え方をしているのであれば、12年間疑義の声が出ないのは当然ではないかと思います。
  • またそうしたことを指摘するのは非常に難しく、さらには笹倉先生本人が指摘したのをネット人士が「あれ?」と思い話題にする程度のことさえ専門家によって非難にされるのであれば、そうした指摘が出ないのはまずます当然ではないのかと思います。「無断借用」、剽窃だの盗用だのという指摘は非常に重大なものだと考えられているので(私はそうでもないケースもあると思うのですが)、よほどはっきりしたケースでなければふつうの人間にはできませんし、そもそも専門家であっても気づかないものです。また気づいたとしても、そういうことをはっきり指摘できる人はめったにいない。だから通常はそういしたものは本人以外が指摘するしかない。
  • 河野先生のこのエントリの最初の「1988」がまちがっていることさえ、他の人々によって指摘されず「プロの仕事」として大量にリツイートされているのだから、アイディアの借用などのようなもっと微妙で危険な問題について誰もなにも言えないのは当然ではないかと思うわけです。だから門外漢の「あれ?」ぐらいのは許してほしいし、そういうの簡単に非難するのはやめてほしい。私は、弟子とかいないし関係者も少ないしいちおうテニュアもってることになってるからこういしたことが書けるわけですが、それでもものすごく怖い。それでも私みたいな人間が書かないとならない、っていってがんばってるわけです。勘弁してください。
  • 現状では笹倉先生がうったえるようなことは「研究不正」とはされておらず、その点は笹倉先生自身もよく理解していると思います。そしてどれくらいそうした参照や言及が必要なのかということは、国・個人・読書界・学術業界や出版形態に依存して相対的なものであり、また我々がいま現在つくり作りあげている規範であって、だからこそ私は笹倉書評に注目しました。

↑これの最後の法に「著作者とあれる人々の保護」というおもしろい論文がはいっています。以降はこれと、前回エントリに書いた↓のをちょっとずつ紹介したいです。


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