んでシジウィック先生はまあこんな感じで、日常的な道徳観みたいなのいちいち説明していくわけです。正義とか勇気とか節制とか正直とか、昔から大事だよっていわれてる美徳、性格、行動パターンみたいなのはだいたい功利主義から見てもよいもので、社会の役に立ったり、その人自身の幸福に役立ったりする。日常道徳と功利主義はぜんぜん対立しませんよ、と。
でここで例外があるとしてシジウィック先生が注目するのがセックス、っていうかさっきの夫婦間の貞節とか純潔とかそういう美徳なわけです。シジウィック先生が生きていたヴィクトリア朝ってのはセックス道徳的には偽善的な時代で、中上流の家庭では特に女性はセックスに興味をもつな、みたいなこと言われたり、足を他人に見せるな、みたいなものすごい厳しい性道徳があり、一方では紳士様たちは夜の街で貧乏な女性たちを相手にエッチなことをしまくってた、みたいな時代なわけです。まあ誇張されてるのかもしれないけど、いろいろ資料がある。私の好きな『我が秘密の生涯』とかそういうジェントルマンの性生活日記ですね。ヴィクトリア朝とこの奇書に関してはよい本がある。
まあ「お酒飲みすぎない」っていう節制とかそういうのが本人の幸福に役立つのは明白ですからね。飲みすぎると次の日どころか当日も気分悪くなったりするし、お金かかるし、働いたり勉強したりする気がなくなるし、口が悪くなって他人様を起らせたりするしでいいことがない。お酒はやめましょう。お酒飲み過ぎがもたらす快楽は、そのあとの苦痛や不利益に見合いません。ところがセックスは例外だ。
セックスがなんで例外的なのかっていうと、セックスは(おそらく、そして運がよければ)すごく楽しくて気持ちがいいらしいんですが、うまくやればのちのちそれほど苦痛をもたらすことはそんなにないかもしれない。こっそりやれば、配偶者や恋人にばれずに楽しみだけが増える。それなのに、ヤリチンとかヤリマンとか往々にして非難されるし、既婚者が配偶者以外の人とセックスしたりするとツイッタで炎上したりしてしまう。
ちなみにエピクロス先生はセックス消極派ですが、次のようなアドバイスの手紙を誰かに書いてる。
肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人のだれかを悩ましもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないのならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが君は、結局、これがの障害のうちすくなくともどれかひとつに行き当らいわけにはゆかない。というのは、いまだかつで性愛が誰かの利益になったためしはないからであって、もしそれがだれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。
まあ「うまくやれるんならやっていいよ、でもむずかしいよ」ぐらいですかね。 エピクロス先生はいろいろ苦労したんでしょうな。
まあエピクロス先生の時代はともかく、シジウィック先生の時代はセックスに厳しい。なんでそんなに強い道徳的感情がセックス、特にいわゆる不倫にはまとわりついてるんですか。最大多数の最大快楽をめざす功利主義者は、みんなもっとばんばんセックスしよう、ってならないんですか、と。
答はまずはやっぱり子育て。子育てするための親の関係の維持は社会にとってものすごく重要なので、固定した婚姻関係からはずれたセックスはものすごく強く非難される。もし皆から非難されることがなければ、男性は結婚関係が求める拘束や負担を引き受けようとしないだろうし、男女ともに結婚関係を維持するのにふさわしくない感覚や習慣をもつようになるだろう、とのことです。まあここらへんは現代日本の人も共有してもってる思考ですわね。実は今年「倫理学」の授業で、導入としてジュリアン・バッジーニ先生の本に出てたスカーレットさんがあこがれのブラピだかと浮気する話使ったんですが [1]私はトロリー問題使わない。、そのとき「スカーレットに子供はいますか、子供いるなら浮気はだめ」みたいな意見がありましたね。
私がシジウィック先生に感心したのは、こっからあとです。引用しますかね。実は訳が一部で流通しているでそれ使いたいのですが、許諾とってないので簡単に自分でやります。
しかし……常識道徳が単純な不貞(unchastity)という不品行に関して両性の間に常においている異例な違いを説明するのは、功利主義原理のみである。というのは、こうした不品行は女性より男性の側においてより意図的なものであって、男性には女性を言い寄り口説き落したという罪が追加されることになるわけだが、女性の側では、そうした不品行は、我々が単なる情欲よりも上等だとみなす動機によってうながされているのがしばしばだからである。したがって、直観的道徳の通常基準では、男性の方がより厳しく責められるべきだ、ということになる。
男性がそういうのする場合はエッチな思いだけですることが多いけど、女性の場合はエッチなことをしたいってだけではなく、それより上等な動機、つまり(基本的には)ロマンチック愛とかからとか、精神的に愛する相手から求められてとか、そういうんだから、男の方が悪いってことになるはずだ、と。ここはいろいろ微妙だけど、まあ悪い男が誘惑したのだ、男が悪い、みたいな感じっすか。通常の道徳の基準では、動機ってのを重視するわけで、「たんにエッチしたいから、とにかく女体が好きだから」っていって不倫する男の方が、「愛しているからやむなくエッチさせる」みたいな女性より非難に値するはずなわけですよね。この男女の間の不品行の動機の違いを見ているのは、シジウィック先生とてもえらいと思いました。まあ、フェミニストねえ。
この結果が実際には反転しているということは、社会が女性の貞潔に課している高い基準を維持することで得ている、もっと大きな利益を考慮にいれることによってのみ正当化される。この基準を下げてしまうことは、親としての愛情をそそぐための男性の安心を損ってしまうことによって家族生活の根本に打撃を与えてしまう。しかし男性の不貞に関しては対応する帰結は存在しない。だから男性の不貞は、家族の幸福を損うことはあっても、家族の成立そのものを損なうことなく、かなりの程度おこなわれているのである。
まあ前に書いたヒューム先生 [2]あれ、書いてなかったっけ? と同じように、女性にのみ貞操を求める傾向があるのは、父性の保証のためっていうラインですね。現在の進化心理学とかでも主流のライン。
もうちょっと続きます。
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