近代西欧的な一夫一婦制の婚姻制度っていうのはいろいろ問題があることは19世紀にはみんなわかっているわけです。たとえばマルクス先生たちの『共産党宣言』にはこんなところがある。
家族の廃止!もっとも急進的な人々さえ、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられている。ブルジョアの家族は、この補足物がなくなるとともに当然なくなる。そして両者は資本の消滅とともに消滅する。
共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位だ、ということにはブルジョアは思いもおよばない。
何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。
ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。
マルクスとか共産主義とかまったく勉強してないけど、ちょっとだけ素人解説してみる。18世紀から19世紀にかけてブルジョワ的家族、一夫一婦で永続的な関係をむすんで、子供つくって二人でちゃんと育てて教育を与えて財産つがせる、っていうのが完成するわけです。ある見方によれば、これが資本主義に見られるエゴイズムの源そのものである。けっきょくのところ、我々がお金ほしいのは結婚して子供を育てるためだ、と。「すべてはモテるためである」みたいですね。
封建制の農村社会では、別に教育なんかなくたって畑仕事はできるし、逆に言うとどんな勉強したってたいしてお金にならない。教育いりません。でも商業や工業が発展して、技術や知識、商売上の才覚なんかによって大金を稼ぐことができるようになると、ちゃんと教育受けてる人はものすごく有利になる。子供が幸せになるために、ぜひいろんな投資をしたい。それによい食事を与えて健康な体を作り、よい服を着せたい。教育みたいなのは実は部分的には地位財、つまり他の子供との差によって意味をなす価値でもある。みんなが公立学校に通って同じ教育を受けているときに、自分の子供だけ学習塾に通わせることができれば、よりよい大学に進学しやすい、とかそういうことですわね。
そういうわけで人間は子供を持つと特にお金が欲しくなる。前に紹介したラッセル先生の文章でも、「思うに、大半の人は、自分は子供ができてからは前よりはるかに欲深くなった、と証言できるのではないか」(『結婚論』pp.178-179)という観察が出てくる。子供のために他の人より多く欲しい。
んで、資本主義の近代市民社会で競争すると、もちろん勝ち組と負け組ができちゃう。稼ぐにはリスクとって競争しないとならんし、悪い目が出たら失敗。その結果、財産もってて人を雇って使うブルジョワ vs なにも持ってなくて人に雇われてこきつかわれるプロレタリアート、っていう形になる。もちろんプロレタリアートは不幸。そっちは財産ないからちゃんと結婚もできない。そもそも金のない男はもてないわよね。金のないのは首のないのと同じ。相手を見つけても子供育てられない。
プラトン先生の『国家』以来、みんながいっしょに働いて財産を共有するのが理想の社会です、みたいな共産主義的な考え方があるわけですが、これうまくいかないのは人間が利己的で自分の子供のための財産を作りたいからですわね。平等で平和な社会のためには格差をなくさなきゃならないけど、妻や子供がいると競争になるし、負けた方はさぼっちゃう。なんで他人の子供を育てるためにあくせく働かなきゃなんないんだ。どうせ金もってかれるんなら、俺は適当にサボるよ。
そこでプラトン以来、そういう社会では一夫一婦、一人の男に一人の女、なんて婚姻制度は破棄されないとならんことになる。妻と子供を共有しましょう。みんなが平等にセックスできる社会を作ればいいのです!子供は誰の子かわからない状態で生んで、みんなで育てればいいのです!
実際、19世紀にはアメリカあたりでこういう共産主義コミュニティーを作ろうっていう実験がおこなわれたんですね。
オナイダ・コミュニティー実験とかが有名。倉塚平先生の『ユートピアと性』っていうのがものすごくおもしろいので読んでほしい。これは主にキリスト教を背景にした共同体の実験なんだけど。
とりあえず共産主義社会を実現するためには従来の家族制度を破壊する必要がある、っていうのは19世紀の人々の共通理解だったぽいわね。だから、マルクス先生たちみたいに「共産主義社会を実現するぞ!」みたいなのに対しては、「おまえら大事な大事な家族制度を壊すつもりだな」みたいな罵詈雑言が飛んでくる。アカめ。
さっきのはこういうのに対する反論の部分ね。
「現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられる。」
マルクス先生に言わせれば、実は「尊敬しあう一夫一婦の夫婦が結婚して貞操を守りちゃんと子供を育てて」みたいなブルジョワ家族っていうのは、ほんの中上流階層にしか存在しない。貧乏人は安定した家計を営めないから、ちゃんと結婚しないままにセックスしたり、でも生活できないから別れたり、子供できたりしても育てられなくて里子に出したり孤児院に預けたりしなきゃならない。こういうのがまあ「家族喪失」だと思う。さらに貧乏だから女性は売春とかしなきゃならない。前のエリス先生やラッセル先生が指摘してたように、買春するのは、金がなくてまだ結婚できない若者男性だけじゃなく、夫婦生活に性的に満足してない夫でもある。一夫一婦の結婚が永続するためには、余剰な性のはけ口としての売買春が可能である必要がある。貧乏人女性がそのはけ口となっている。
「共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。」
財産のあるブルジョワ男性にとって、妻はとにかく子供を生む(再生産 reproduction)ためのもの。工場とかの生産手段をもってる人はそれによってモノを生産してお金をかせいでさらに生産手段を手にいれてどんどん豊かになる。妻を手に入れた男は自分自身を再生産して子供を作り、子供を育ててお金を稼げるようにしてさらに豊かになる。貧乏人は子供作れないし家庭も持てないから貧乏なまま。一夫一婦制は財産ある人間に有利。女を共有されてたまるものか、不道徳だ、いやらしい、と考える。
マルクス先生の答は、
「何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。」
いやだって、あんたら実は女性を共有してるっしょ。まずあんたら、妻がいても足しげく買春してんじゃん、と。さらに、あんたら、社交とかしておたがいの奥さんを誘惑してうまくいけばエッチなことして楽しんでんじゃん、と。これは強烈ですね。まあ中上流階級で女性が他の男性と関係をもったら「姦通」でスキャンダルです。でも実際の社交界でのパーティーみたいなのがそれが起こるかもしれないような危険をわざわざ作ってる、っていうのもその通りっすよね。パーティーといえば女性はドレスとか着て他の男性と仲良くお話したり、ダンスではパートナーを交換したりして。あれ儀礼的スワッピングですよね。まあいやらしい。不潔。
授業でこれ読んでるとき、マルクス先生が怒ってるのは特にJ.S.ミル先生かな、みたいなことをふと思いました。マルクス先生たちの一番の論敵は、実はイギリスの功利主義者だった。ミル先生は知ってのとおり人妻ハリエット・テイラー先生と旦那公認の仲を続けてましたからね。これはスキャンダルでしたが、まあ子供生んだあとの女性は少しぐらいそういうことしてもかまわん、という雰囲気もあったんだろうみたいな。
「共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。」
「おれらを非難しようってのなら、おまえらが偽善的に裏でこそこそやってることを、おれらは正直に認める、ってことだけだぜ!」
怒ってます怒ってます。
「いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。」
共産主義社会ではみんな自由にばんばんセックスできるから売買春なんてのはなくなるよ。みんな共産主義者になりましょう、と。私はやばいと思うけど魅力を感じる人もいるかもしれんですね。好きな『自殺島』ってマンガ [1]現在最強の倫理学マンガ。 でも悪役がそういうフリーセックスなコミュニティー作って成功している。
セックスと結婚に関するこうした議論が、素人にもわかりやすい形で読めるようになってないのは残念なことな気がする。まあでもふつう書きにくいわよね。高校倫理の教科書あたりに「マルクスは女性の共有を提案した」とか書いたらおもしろいだろうに。まあ誰か、マルクスやエンゲルスのセックス論、わかりやすい解説書いてくれるといいなあ。いや、けっこうありそうだから調査するべきか。
追記 (2021/8/3) 上のはまあ冗談まじりに書いたもので、もちろんマルクスの読みとしてはおかしなのかもしれません(というかおかしいでしょう)。田上孝一先生という方が『99%のためのマルクス入門』という本を2021年に出版されて、それのなか(第4章)でマルクスの結婚制度論みたいなのを書いてくれていますので、興味あるひとはそちらを見てください。 → 記事書きました。
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References
↑1 | 現在最強の倫理学マンガ。 |
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コメント
私も長年、マルクスやエンゲルスが本当にそんなトンデモな事を言っているのか疑問だったので、共産党宣言を読んでみました。
そうしたら所有の廃棄とか私有財産の廃止とかは所有一般、私有財産一般ではなく、あくまでもブルジョア的所有の
廃棄、ブルジョア的私有財産の廃止のことだと書いてあり、別に変なことは書いてはいない、と思いました。
あと、ブルジョア的家族(一夫一婦)を目の仇にしていましたので、そんなに一夫一婦制度はおかしなことなのかと、
エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を読んでみました。そうしたら、エンゲルスの念頭に置いてある
一夫一婦とは、夫は一人、妻も一人だが、妻(正妻)の他に、妾にもする女奴隷たちがたくさんおり、正妻とは
その女奴隷たちを監督者でしかない、要は当時の一夫一婦とは、「そもそもの初めから、女にとってだけ一夫一婦
婚であって男にとってはそうでないというその特殊な性格を押印しているのである。そして一夫一婦婚は、この性格を今日でももっている。」と書いてありました。
これを読んだら私の中ではスッキリすべてが解決しました。
だから、現在の共産主義に対する、フリーセックスだのなんだのという批判は全部的外れだと思います。
遅くなりましたがすみませんすみません、このエントリはかなり茶化したものなので、ご指摘はその通りです。
エンゲルスが、将来的にどういう婚姻形態を理想的とみなしてたのか、っていうのはいまはまだちょっとわかりません。
少なくとも永続的な一夫一婦ではないと思います。
横から失礼します。
共産党宣言当時の時代背景からすると
鉄下駄さんの仰るとおり、フリーセックスうんぬんは
共産主義の効果に含んでなかったと思います。
しかし共産党宣言が持つ抽象性が、フリーセックスも取り込めるような
深さの源泉になるのではないでしょうか。
共産主義は、制度としての婚姻を廃止し、人間関係の在り方を
良くも悪くも人間に委ねた、そうは読み込めませんかね。