シジウィック先生が我々の性道徳を分析しているのは、『倫理学の諸方法』第4巻第3章「常識道徳に対する功利主義の関係」と題されたところです。この『倫理学の諸方法』ってのはものすごい名著で、まあ倫理学の重要な問題のかなりが議論され、答え出されちゃってるような本です。なんかあったらシジウィック先生に相談しましょう。
シジウィック先生は道徳理論としては功利主義押しなのですが、功利主義って例の「最大幸福」を目指す立場でありまして、我々の日常的な道徳感覚とずれてるんちゃうか、っていう批判がある。シジウィック先生は、いや我々のふつうの道徳感覚のほとんどは功利主義でも説明できるし、むしろ功利主義的に説明した方がよく理解できるよ、ぐらいの感じ。ちょっと書きすぎだけど。
確認しますが、功利主義ってのは、基本的には誰の幸福や不幸をも平等に考えて、全体として幸福や利益が最大になるようにしましょう、って考え方です。ものすごく博愛的。すると、「誰でも平等に考えるって、自分も家族もそこらへんの赤の他人の幸福や利益をまったく同じに考えるんかいな、なんでそこらへんの汚いおっさんとかわいいうちの娘の幸せを同じに考えなきゃならんのだ。自分と家族が一番に決まってるではないか!」みたいな反論があります。ひどい人なんかは「自分や家族に対する愛情は偏った愛(偏愛)だから、功利主義しゃは家族愛とか弱めなきゃならんことになるだろう」みたいなことを言ったりする。シジウィック先生から100年以上経過しても同じようなこと言う倫理学の専門家とかいます(特に「ケア」とか好きな人々)。まったく困ったものです。
シジウィク先生は上のようなのは馬鹿げていると考えている。まず第一に、我々個々人がもってる資源やエネルギーってのは限られているので、人々を幸福にするためにはそれを効率よく使わないとならん。たくさんいる他人を幸福にするより、自分を幸福にする方が簡単なので、自分のエネルギーはまずは自分を幸福にするのに使うのがよい。他人がなにすると幸福になるかっていうのはわかりにくいけど、自分ならわかりやすいはずですからね。もちろん、自分がちょっと犠牲になると他のひとが幸福になる、てんならそうするべきだし、賞賛されるべきではある。
んで問題の家族愛とか友人愛とかですが、家族や友人などの特別な親しい関係っていうのは我々の生活のなかでとても大事で、我々はそうした愛情は自然なものだ。まあ個人の幸福のかなりの部分(あるいはほとんど)はそういう関係から得られるものなので、そうした関係は大事にしないとならない。我々は家族や友人に対して特別親切にする義務を感じるし、そうした愛情や親切その他は関係を強化する傾向がある。残念なことに我々は数限られた人にしか情愛を感じられないようで、もしそうした限られた人々への愛情を弱められてしまえば、残る関係の薄い人々への親切心なんてのは、自分の利益に対する利己的な欲望に勝てるほど強いものじゃない。だから誰にも親切にしません、みたいになってしまう。結果として幸福の量が減っちゃう。だから功利主義者も「家族友人は大事にしましょう」って言うし、大事にするような傾向をもつような養育や教育もするべきだ、って言うに決まってる。
ところが、上では「愛情」ってのが重要なわけだけど、我々の日常道徳では、仮にすでにあんまり愛情をもってない家族の間でも助けあう義務があるとされている。これどうなってんの、という話もある。シジウィック先生の答は、家族制度っていうのは子供を養育するためのものだ、ってものになる。人々が幸福に生きられる社会が成立するには子供が一定数いなければならず、養育に手間がかかるので、家族をしばりつけとくのは全体としては幸福を増進すると考えられる。シジウィック先生はヴィクトリア朝の人なので非常に保守的な家族観にもとづいて話をするわけですが、まあ法によって両親を生涯に渡ってしばりつけて双方の貞節と子供の養育を義務づけるのは理にかなってる、と。ただしその一部、つまり男女が生涯にわたって結びついて貞節を守る、つまり浮気や不倫しないことが本当に必要なのか、みたいな疑問が出てくるってのはシジウィック先生は理解していて、そこも議論するわけです。
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