パーソン論」タグアーカイブ

パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

妊娠中絶の生命倫理
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まだまだ「パーソン論」

もちろんトゥーリー先生からすぐにお手紙が返ってくるはずがないが、
昨日寝ながら考えたこと。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that
is killed by abortion has not developed to the point in which one has a
person. (p.73)

この”one”は、the humanを指すのではなく、
we や they や peopleなどの一般の人びとを指すoneなのだろう。っていうか
この引用の一番最初のoneと同一か。あるいは母親か。

the human を指すのであれば、to the point in
which it has a personとかhe / she has a personとかにな
りそうなものだ。

中絶によって殺されるヒューマンは、まだ人びとがパーソンであるとみなす時点に
まで発達していないのから、中絶は不正ではないと主張することができる。

という感じ。苦しいかなあ。まだパーソンではない the humanを he
や sheで受けるのはいやかもしれないからなあ。かといってitもあれだし。
でもthe humanを受ける意味でoneを使う
くらいなら、

you can argue that abortion is not wrong because the one that
is killed by abortion has not developed to the point in which the one has a
person.

と書いてくれればわかりよいのになあ。これだったら完全にお手あげだけど、
まだがんばる余地はありそうだな。

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トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

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パーソン論その後

たいへんなことを見逃していた。

そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。

これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?

ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。

追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。

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「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典』*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

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小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(2)

続き。

いわゆる「パーソン論」

前からいわゆる「パーソン論」の解釈は非常に気になっているのだが、よい入門・解説書がないんだよな(あとで調査する)。

とりあえず小松美彦先生の文章を読みながら落ちいりやすい読み間違いを確認しよう。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。一八世紀に活躍したイギリスの思想家ジョン・ロックなどの伝統的な人格論に基づいていると考えられている。 一九七〇年代にアメリカの生命倫理学者マイケル・トゥーリー*1が 提唱し、八〇年代以降のアメリカやオーストラリア*2で第一線の生命倫理学者たちによって磨き上げられてきた。(p.149)

最初の「一言でいうなら」の一文はちょっと乱暴かな。まあしょうがないのかしょうがなくないのかは最後に結論出すことにしよう。

まず、人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる、とパーソン論は捉える。人間を一生物種のヒトたらしめる生命と自己意識や理性を備えた人格者(パーソン)らしめる生命である。この理念的な区別を現実に当てはめてみると、人間世界には生物的生命と人格的生命の両者を兼ね備えている者もいれば、生物的生命しか有していない者もいることになる。他方、パーソン論は、ある人間が生物学的なヒトであること、その者が「生きる権利」をもった人間であることは必ずしも一致しないとする。つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

まず注意しなきゃならんのは、「パーソン論」なんてものは存在しないってことだよな。世の中に存在しているのは、あくまでマイケル・トゥーリーの議論やエンゲルハートの議論。

この「パーソン論」って言葉はおそらく森岡正博先生が 発明して、加藤尚武先生が広めたんじゃないかと思うけど*3、非常にミスリーディングだったんじゃないかと思う。まあしょうがなかったのかもしれん。これもあとで考えよう。

とりあえず「~と捉える」のはトゥーリー先生やH.T.エンゲルハート先生で、彼らが実際になにを主張しているのかしっかりとらえないとならん。ふつうは「トゥーリーは」と書いてほしいところ。トゥーリーの”Abortion and Infanticide”という悪名高い論文は、 『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』に(抄訳だが*4)森岡先生の訳で収録されている。ここからは、いちおう、小松先生はトゥーリーの議論を考えていると想定することにする。(別の論者ならそれを考えなきゃならん)

で、トゥーリーが「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」と捉えているかというとこれはミスリーディングなだけではなく、誤解だろう。

日本語で「ひとを殺すことは不正だ」「ひとを殺してはいけない」というようなときの「ひと」にあたる英語は”person” とか “humann being”が使われる。”It is wrong to kill a person.”とか”It is wrong to kill human beings.”とか使われる(んだと思う)。

おそらく”person”の方が日本語の上の「ひと」に近いだろう。でもまあ、日本語では、「無実のひとを殺すのは不正だ」「無実の人間を殺すのは不正だ」の間に違いがあると思う人はほとんどいないだろう。英語でも、personとhuman beingはふつうに交換可能に使われているはず。

でもまあ、トゥーリーの論文が書かれた1972年のころに激しく議論されていが妊娠中絶とかを考えると、personとhuman beingを同じ意味に使うのはまずいかもしれないってことにトゥーリー先生は気づいた。

ってのは、「胎児はいつから人間human beingですか?」という問いに対して答えようとするのは、難しいというより(もっと分析しないと)ほとんど意味がないからだ。生物学的に見れば、胚から胎児を経て新生児になるまでは

連続していて、どれもホモ・サピエンスの一匹(の子供)という意味では線なんか引けない。「受精卵」と「初期胚」と「後期胚」と「胎児」は連続している。だから上の「胎児はいつから人間ですか」が「胎児はいつからホモサピエンスの個体ですか」という意味の問いであれば、「おそらく胚の時点から」とか答えることになる。(ここ、実は「個体」の定義が難しいんだけど面倒なので書けない)

しかし、「胎児はいつから人間なんだろう?」という問いにはもうひとつの(おそらくもっと重要な)意味があって、それは「ひとはみんな生きる権利を持っている。だからひとは殺しちゃいけない。そして胎児はいつから(その殺してはいけない)ひとになるのだろう?」という意味での「ひと」の意味がある。この問いで使われている「ひと」はたんに「ホモ・サピエンスの一員」という意味ではない。

なぜかといえば、先の「胎児はいつから人間ですか?」という問いは、「(ホモサピエンスの個体はみんな生きる権利を持っている。だからホモサピエンスの個体は殺しちゃいけない。そして)胎児はいつからホモサピエンスの個体になるのだろう。」という問いではないように見えるから。ホモサピエンスの個体という意味でなら、さっき書いたようにずっとホモサピエンスの個体で、あんまり疑問の余地はない。

だから、「胎児はいつから人間なのか」っていう我々が日常的に考える(実 は曖昧な)問いは*5、実は、「胎児は(いつから)生きる権利を持つのか」というもっと正確な問いで問いなおすべきだ、ってのがトゥーリー先生の第一のポイント。すばらしい。ここらへんの分析の鋭さがトゥーリー先生の論文が皆に読まれ影響力をもったゆえん。答えなきゃならない難しい問いは、哲学的に反省してより明晰な問いに直さなきゃならん。そうすれば答えに少しは近づく。(もちろん、そこでいろんなものが削り落されることになってしまうのは意識しておかなきゃならん。)

さて、いったんこうして切り分ければ、曖昧な言葉づかいをしているのはテツガク的にあんまりうまくない。曖昧な言葉は曖昧な思考をまねくし、論理的な混同を犯しやすい。そこでトゥーリー先生は、生物学的な意味での人間を a member of homo sapiens とか呼んで、「生きる権利をもっている存在」を personと呼ぶことにしよう、と提案するわけだ。

「人格」personということばはどのように解釈されるべきであろうか。私は人格の概念を、すべての記述的内容を離れた純粋に道徳的な概念として扱うことにする。特に、私の用語法では、「Xは人格である」X is a personという文は、「Xは生存する(重大な)道徳的権利を持っている」 X has a (serious) moral right to lifeという文と同じ意味を持つsynonymousことになるであろう。(トゥーリー、p.97)

これは単なる用語法についての(勝手な)取り決めにすぎない。論文を読んでいてこういう宣言があったら、読者はいつも「person 人格」をそういう意味で理解しなければならん。もちろん、学術論文で勝手にそういう定義を採用するのはぜんぜん問題がない。

国内の議論の問題は、このpersonに「人格」という訳語を当てた(これはしょうがない)ので、「人格」に勝手にいろなものを読みこんでしまう傾向があることに思える。(だから森岡先生あたりが「人格論」ではなく「パーソン論」と呼ぶのは、まあ意味があったとは思う。術語なのだ。)

ぜいぜい。面倒。

上の小松先生の文章に戻る。「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」はまったく誤解。別にそんな奇妙な二つの「生命」を持っているわけではない。

もう一回確認すると、トゥーリーは第一歩として、「胎児はいつから人間ですか」という問いは、「胎児はいつから生存する権利を持つ存在になりますか」「胎児はいつから生存する権利をもちますか」という問いで問いなおすべきなのだというポイントを指摘しているにすぎない。

さて、トゥーリーの議論はこっからが難しい(それに問題も多い)。「胎児はいつから生存する権利をもちますか」に答えるためには、「権利をもつ」ってことがどういうことかわからなきゃならん。

こういう言葉の分析が、当時はやっていた言語分析とかそういう流れで重要だったんよね。まあ「問いをはっきりしなければ答は出ない」ってのはいまだに正しい方針だと思う。だいたいの「難問」は問い自体がなにを問うているのかよくわからんわけだし。正しい問いを問うことができるようになる、ってのが哲学の最大の目標なんだと思う。

まあ実際日本語では「~する/に対する権利がある/を持つ」と表現するわけだが、権利って概念もよくわからず使ってしまうのがふつうだと思う。テツガクやっている人間もたいていよくわかってない。私はまったくわからない。

トゥーリー先生は「権利」をかなり独特の意味で使う。(どう独特なのか書いてるとロンブンになってしまうので極端に簡略化するけど、それでも面倒。)

トゥーリーによれば、そもそも「なにかについて権利をもつ」ってことは、 本人が望まなければ(欲求しなければ)それを放棄できるってことでもある*6。こういう形で「~について権利をもつ」ことと「~について欲求をもつ」ことのあいだには密接な関係がある。

たとえば、子猫は暖かい場所で寝たいとか、踏まれたくなないという欲求をもつ(踏まれたらやだ)ことができるので、「猫はこたつで寝る権利がある」とか「かんぶくろにいれて踏まれない権利がある」ということは有意味だけど、まったくなにも欲求をもたない存在(新聞紙とかチョークとか)は、「権利を持つ」ということが言いにくい。

ここで理解しにくいので注意しておく必要があるのは、「権利が決めるかどうか」をどうやって決めるのかっていう問題と、たとえば「猫は~の権利を持つ」という発言が意味を持つかどうかってのは別の問題だってことなんだが、もう眠いのでまた明日。

一寝してもうちょっと。

「誰がどんな(道徳的)権利を持つのか」ってことをどうやって決めるかって問題はもちろん非常に難しい。ある種の人々はそれは単なる社会の取り決めだと考えるし、ある種の人はそれを神によって定められていると考えるかもしれないし、他にも理性によって要求されるとか、もっと基本的な功利の原理から派生する二次原理だとか、いろんな考えかたがある。しかしトゥーリーのポイントは、こういう「どうやって決めるか」には関係がない。むしろ、「権利をもつ」という言葉の意味に何が含まれているのかという分析。

トゥーリーの提案は、

「AはXに対する権利を持っている」という文は、「もしAがXを欲求しているならば、他人はAがXをするのを妨げるような行動を慎むという当面の義務を負っている」という文とほぼ同じ意味をもつ。 (トゥーリー、p.102)

て感じになる。慣れてないひとは「当面の義務 prima facie duty」がわかりにくいと思うが、「当面の」は「他になんか重大な理由がなかったら」ぐらいの意味のとってよいと思う。

「私は幸福を追求する(道徳上の)権利をもっている」という文は、だいたい「もし私が幸せを追求しようとしているなら、(特に理由がなければ)他のひとは私が幸せを追求するのを邪魔するべきではない」ということを意味すると分析できるってわけだ。

(なんども書くけど、この分析が正しいのかどうかはかなり微妙なライン。たとえば、「子供は教育を受ける権利がある」という文や発言が、本当に「もし子供が教育を受けたいと願うなら、他のひとはその子供が教育を受けるのを邪魔するべきではない」程度のことしか意味していないのかというのはもっと議論が必要。私の理解では、この文は「(子供が教育を受けたいと願うかどうかとは別にして、)他の人々はその子供が教育が受けられるようにちゃんと手配する義務がある」というはるかに強い内容をもっているように思われる。「生存する権利」もふつうはこっちの意味のはず。まあでも、トゥーリーの「権利」の分析は「権利」の一つの意味では有力かもしれない。)

トゥーリーの議論の最後のステップは、このたんなる「権利をもつ」の分析から、「生存権(生きる権利)」を持つに進むところ。

「~について権利をもつ」ためには、少なくとも「~に対して欲求をもつことができる」が必要。それでは、「生存する権利をもつ」ためには、「生存することについて欲求をもつことができる」が必要だということになりそうだ。

ところが、「生存することを欲求する」ってのはかなり多くの条件を必要とする。

子猫も「痛めつけられないことを欲求する」「暖かいところで寝ることを欲求する」ことがおそらくできる。だからなんらかの権利の決定の手順によって、「子猫は痛めつけられない権利を持つ」ということが言えるかもしれない。

しかし、自分が「生存する」ことを欲求するためには、「自分」が時間を通じて生きていること、そもそも「自分」が存在していることを意識していなければならんとトゥーリーは考える。

ある存在者が、諸経験とその他の心的状態の主体という概念を持っていなければ、その存在者はそのような主体が存在してほしいと欲求することなどできない。さらに、ある存在者は、現在自分自身が諸経験とその他の心的状態の主体であると信じていなければ、自分自身がそのような主体として存在し続けることを欲求することはできない。(トゥーリー、p. 104)

ここもわかりにくいと思う。ショーペンハウエルやシュバイツァーのような人々はどんな生物でも「生きようとする意志」とかを持ってるとかそういうふうに考えてたわけだし。

でもまあ、われわれが「自分が自分であること」「他人と違うこと」「5年前、1年前、1年後、10年後もおなじ私であること」を意識するってのは、ずいぶん成長してからのことはふつうのひとでもぼんやりとわかるんではないだろうか。そういう「自己意識」持っているのが人間(や他の大型類人猿とか)の特徴で、他の動物や植物と質的に違うポイントだと主張されることがある。この自己意識がないと、少なくとも「自分が生き続けたい」と望むことは難しそうだ。

というわけで、トゥーリーのとりあえずの分析のたどりつく先は、「もし「ある存在者が生存する権利をもつ」ということが言えるならば、「その存在者は生存しつづけたいという欲求を持つことができる」が言えなきゃならん。そしてそのためには自己意識をもっているはずだ。」

もう一回注意しておくと、これは「自己意識をもっていれば生存権をもつ」という主張ではない。「もしあなたが(私が)「~は生存権をもつ」と言おうとするなら、「~は自己意識をもっている」ことを認めなければならない」ぐらい。

はあはあ。

でも、自己意識もってない動物やひとはいる。「自己意識をもつ」は「生存権をもつ」の必要条件なので、そういう存在者は生存権をもつとは言えない。

A ⊃ B。 でも ¬B。 しかるに、¬B ⊃ ¬A。よって¬A、という議論。

あーあ。だめだめ。時間の無駄。やっぱりふつうの人にはわかりにくいよな。これどうやって説明すりゃいいのかってのはほんとうに難しい。

もう一回あらっぽくまとめると、

(1) ある存在者が「権利をもつ」ならば、「それに対応する欲求をもつ」ことが言えるはず。

したがって、(2) ある存在者が「生存しつづける権利をもつ」ためには「生存しつづける欲求をもつ」が言えるはず。

しかし、(3)「生存しつづける欲求」をもつためには、(少なくとも)自己意識をもつことが必要。

したがって、(4) 自己意識をもたない存在者は、生存しつづける欲求をもつということはできない。

(5) したがって、自己意識をもたない存在者は、(この意味では)生存権(生存しつづける権利)をもつとは言えない。

だから、胎児とかは生存権をもっているとはいえず、妊娠中絶は正当化されるかもしれない。すくなくとも「生存権」があるから妊娠中絶は正当化できないと考える必要はない。ついでに新生児の安楽死とかも正当化されてしまう(!)。いっぽうで、子猫が(なんらかの「権利」の決定方法によれば)「無駄に苦しめられない権利」を持っていると主張することはできるかもしれないし、もちろん新生児が「無駄に苦しまない権利」をもっているとは言えそうだ、ということになる。まあこういう結論が邪悪なテツガクに見えてもしょうがない。

まあ、この議論の(1)と(3)はかなり問題を含んでいるし、この手の問題を考える場合に「生存権」がそれほど重要かどうか、あるいは実践的な議論にとって枠組として有用なのかどうかは問題だと思うが、とりあえずこれが「パーソン論」だってのをちゃんと理解したいところ。重要なので何回も書くけど、これは「権利をもつ」についての言葉の分析の結果の分析にすぎず(あやしげかもしれないけど)、「権利」の範囲をどうやって決めるのかという実質的な問題を扱っているわけではない


小松先生の解釈

で、小松美彦先生の文章に戻る。

つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

最初の方でも書いたが、「人格的生命を有している」は不正確な表現。

そしていつも気になるのは、この「認められる」なんだよな。こういう文章を書くひとは、トゥーリーが「人格だけに生存権を認めることにしようぜ」と主張していると誤解してしまっているのではないかと推測される。

一方、「生存権は人格にのみ認められる」のならば正確な表現だが、これはトゥーリーの恣意的な定義なので、別に批判の対象になることがらではない。

その証拠がすぐに出てくる。

したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死者や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格をもつ者ではない。 そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はない。(p. 150、強調kallikles)

この「人格をもつ」という表現(そして最初の引用であげた「人格者」という用語)が、小松先生の「パーソン論」理解をうたがわせる。 「人格」は持ったり持たなかったりするものではない*7。「人格かそうでないか」つまり「生存権をもつ存在者かそうでないか」なのよ。

まあこれは「人格」って言葉が専門の論文用の術語なのにもかかわらず、われわれがよく慣れしたしんでいる言葉でもある(とくに「性格」や「アイデンティティ」に近しい意味で)ことに原因があるわけだが。むずかしい。

もうちょっとだけ補足。

たしかにパーソン論は、それなりの論理を備え、概念用語を駆使してはいるものの、私たちにありがちな例の考え方”まともに感じ考えられなくなったら人間はオシマイだ”と、本質的に変わらないのではないか。パーソン論とは、”ありがちな考え方”を学問的に根拠づけたものに他ならないだろう。(pp.150-1)

トゥーリーの議論がどの程度「それなりの論理を備え」ているかは微妙(私はうまくいってないと思う)だが、この小松先生の指摘は(書き方は悪いが)大事なところで、小松先生もあとで議論するピーター・シンガーなんかも指摘するところ。たしかに、私自身は「まったくなにも感じ考えられられなくなった私はオシマイだ」と思う(ただし「まともに」感じられなくてもオシマイだとは思わないと思う)。

もちろん、そうでないと考える人びとがいることも理解できるのだが、そういうひとが、まったく自分が何もまったく感じない場合に、自分の(他人のではなく)生命が、自分にとって価値があるとするときに何を判断の基準にしているか非常に理解しにくいとは思う。これを主張できるのは、私生命の価値が私にとって価値があるのは、私が感じるなにかのためではない、私が感じるなにかとは独立の価値があると主張できるときだけになる。

もちろん、他の(感覚のない)人の生命が私にとって価値があることは多いだろうし、私の感覚のない生命が他の感覚のある人にとって、価値があることはあるかもしれない。でも感覚のない私にとって感覚のない私の生命が価値があるかどうかはわからん。

誰かの主観的経験(つまりなんらかの「感じ」)にまったく依存しない客観的な価値ってのがあるのかどうか。これが言えるかどうか。哲学・倫理学の大問題だが、これにイエスと答えるのはかなり難しいと思う(必ずしも不可能ではないと主張する人びともいる)。

(続く)


(ところで、もしこのエントリ読んで大学の期末レポート書こうとするひとがいたら、(1)自分でもちゃんと調べてください。(2)出典にこのブログのURLを書いてください。「kallkles, 「kalliklesの日記」、2006年12月15日、ttp://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061215 」、とかでいいんじゃないかな。”kallikles”とか変な名前を書くのがいやなひとは
メールくれれば教えます。)

*1:トゥーリー先生を「生命倫理学者」と呼ぶのはあんまりよくない。生命倫理では他にたいした業績はない。むしろ因果関係とかが専門のはず。「哲学者」「分析哲学者」ぐらいがよさそう。

*2:イギリスも

*3:間違い。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061218 のコメントによれば、飯田亘之先生の論文が初出ではないかという情報。

*4:たいていのセイメイリンリガクシャはこれが抄訳であることさえ気づいていないのではないかと思わされることがある。原文はたいていの生命倫理学のアンソロジーで手にはいる。いま私の手にあるのはP. Singer (ed.) Applied Ethics, Oxford University Press, 1986. 原論文はPhilosophy & Public Affairs, Vol. 2, 1972. 印税もらってたらとんでもない額になってるよなあ。

*5:どうでもよいことだが、私は高校生のころに生物が好きで特に発生のあたりが好きだったのだが、ある日「んじゃいつから人間なのかな」とか考えて泥沼にはまったことがある。結論は「こりゃ生物学じゃなくて哲学だよな」ってことでテツガク勉強したいと思った。その選択はまちがってたんだけど。

*6:この点は強い異論がありえる

*7:この主張は怪しいかもしれません。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061217 参照。わたしがまちがっていたらごめんなさい。

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