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進捗どうですか (4)

進捗だめです。

食中毒になった話は前回書きましたが、そのあともしばらく苦しんでました。私はとにかくちょっとでも体に気になるところがあると元気がなくなってなにもできなくなっちゃうんですよね。ヒポコンデリー体質というかなんというか。やっと全快という気分になったのが18日日曜日。発症したのが6日だからまあ10日以上苦しみました。

そのあとはまあなんとか本も読めるようになったのでマクマハン先生とドゥグラツィア先生の本を読む。前回のブログに書いた時間相対的利益説をいろいろ考えたい。

それにしてもマクマハン先生のThe Ethics of Killingとか500ページもあって読むのたいへんっすね。文章も英語も難しくはないけど、議論が細かい。おもしろいけど、ちょっと粘着な感じがあってつらいときもある。

500ページの本がんばって読むとしても、やっぱり2、3ヶ月かかりますわね。こういうのは本当は一人で読むのは無理だから半年ぐらいかけて読書会でもした方がいいんだけど、お友達がいないからしょうがない。ドゥグラツィア先生の方はすっきりしていて読み易いです。

こういう本を読むときは、大学院生様とかはまあ友達誘って読書会がよい。ただこんなでかい本を読書会で読むっていうのは一大プロジェクトですわよね。そうして努力して読むに値する本だっていう確信がもてないととりくめない。

そういうときに役立つのは、やっぱり書評ですね。最近はネットにたくさん書評がころがっているので、気になる本についてはタイトルとかでどういう書評が出てるか調べてみるといいと思います。数が多ければそれは重要な本だ、と。The Ethics of Killingはぱっと調べただけど7、8本手に入りました。注目の1冊なわけです。実際、中絶とか脳死とかにかかわる哲学的な議論としては2000年代で一番重要な本だったんじゃないかしら。

そういう書評を見ると、どこが重要かがわかる。引用されているページとかいちいち付箋貼っておくと、どこが引用されやすいかがわかるしそこらへん中心的に読んでいく感じ。でかい本は頭から読む必要はないです。っていうか時間的に無理。

あと、まあ6月中ぐらいでEric T. Olson先生の動物説と、Schechtman先生の物語的同一性の2冊の本も読む必要がある。少なくとも動物説の魅力や、批判に対する答かたぐらいは手に入れとかないと。しかしOlson先生の文章とはなんかすごい相性悪い感じでつらい。どうも私形而上学が苦手なんよね。つい「だからどうしたの?」とか言いたくなってしまう。どうも倫理的な含意がないと理解できないというか。まあがんばります。

ここらへんの議論知りたいならドゥグラツィア先生からの方がわかりやすいと思う。まあこういう分野は無理して書籍読むよりは、論文あつめた方がいいかもしれないし、最初はハンドブックとかその手のからはいるべき。

先週の後半は「ペルソナ論」とかちょっと読んでみたり。まあ森岡正博先生ねえ。森岡先生はほんとにオリジナルでいろいろ気になる先生なんですよね。全体としてはよくわからないんだけど、ときどき鋭いことを言っているような気がする。でもあのペルソナ論はちょっとなあ。どうあんまり納得できないのか書いてみようかと思ったけど、なんか突然トカトントンという音が聞こえてきてむなしくなってやめてしまいました。でもまあ森岡先生についてはいずれ真剣に考えてみたいとは思っている。「Taking Morioka Seriously」っていう論文タイトルは昔から考えてます。他に福田誠二先生や一ノ瀬正樹先生のも読んだけど、どれもよくわからん。

稲垣良典先生の『人格「ペルソナ」の哲学』は正直私はあんまり評価してないです。偉い先生なわけですが。一方、小倉貞秀先生の『ペルソナ概念の歴史的形成』はしっかりした良書だと思いますね。もし読むんなら小倉先生の方から読んだ方がわかりやすいと思います。

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パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ

「パーソン論」はさまざまあるとはいっても、やはり多くの論者が自己意識だとかそこらへんの心理的特徴に訴えかけているのは否定できないです。これに対してはやっぱり70年代前半からさっそくいろんな代替案が提出されています。 続きを読む

パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。 続きを読む

パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。 続きを読む

パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。 続きを読む

パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)
「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。

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セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。

大学院生の頃にマックス・シェーラーの授業があって、愛と秘奥人格とかなんとかそういう話があって、なんかわからんなーとか。あれはそういう話だとわかったのはアンソロジーやRoger Scruton先生のSexual Desireって本読んでから。まあ基本的には文学の世界の話だわよね。

直接になにかそういうのに近いことをしていると意識していたのは森岡正博先生と小谷野敦先生の二人かな。ここらへんは私の他のネット活動を知っている人はやけにカラんでいるなと思ってると思う。ははは。

まあ小谷野先生は本でしか知らないけど、森岡先生はいろいろあるのでちょっと書いておくかね。

私が大学院生(D)のころは、いろいろ粛清とかあって研究室の人数が少ないせいであんまりうまく研究会活動なんかがうまくいかなくて、あっちこっちの研究会を覗かせてもらっていた。学部生向けの授業に出たり他学部のに出たり、読書会とかも他の研究室の人や他学部の人と(短期間だけど)やったりして。とにかくなんか教えてくれたり議論してくれる人が欲しかったんよね。

当時森岡先生は日文研にいって、単著もあって生命倫理学の有名人というか中心人物だったわけだ。そんでまあ彼が研究会をやっているというので覗かせてもらった。なんの話をしているのか忘れた。おそらくフェミニズムまわりだったんじゃないかな。阪急に乗って桂でバスに乗っていくとなんかきれいな建物があってね。

人数は20人ぐらいだったんじゃないかと思うけど、哲学の人だけじゃなくて社会学やら人類学やら理系やら、単著もあるような華やかな人々が集って、なんか華やかな感じで議論していてなんかもう別世界。宮地尚子先生とか上田紀行先生とか、これから伸びようとしている25〜35才ぐらいの優秀な人々。女性が多かったのもあれだよな。もうなんかいたたまれない感じだったねえ。もうなんていうか自信がぜんぜん違う感じでねえ。ネチネチ暗い百万遍文学部の雰囲気とはまったく違ってた。まあなんというか異邦人な感じ。

そこでやってるフェミニズムとかの議論ってのはもう私にはさっぱりわからなかったけど(まだ勉強する前だった)、なんか話はかみあってる感じだったので、そういうのが流行なのだなあ、みたいな。まあとにかく自信がうらやましかった。こっちは生きてるだけでせいいっぱいだったし、みんな就職してたり研究費もらったりしていて人種が違う感じ。

その後も森岡先生は『脳死の人』とか『生命学の〜』とか出版して、生命倫理でもかなりの影響力をもった、と思う。私はなんかおかしいとは思ったけど、とにかく説得力があるし、影響力もある。オリジナルな人だ。注目せざるをえない。

2005年ぐらいになると森岡先生はなんかセックスというか恋愛ネタで『感じない男』とか『草食系男子』とかいろいろ書いてて、まあぜんぜん共感はもてないもののやっぱりうらやましい。

そういうなかで学会でめずらしく森岡先生がシンポジウムとか出てきて話をして、タイトルはリプロダクティブ・ライツとかだったけど膣外射精がどうのこうの、という話。2007年か。これはひどい話だった、というかもうシンポジウム自体がだめ。その後もいろいろあって現在に至る。

実際に話するのをゆっくり聞いてみたりすると、かなり変わった人で私の若いころの羨望みたいなのは必ずしも適切ではないんだと思うが、書いたものに感じる独特の感じはなんとも言えない。とにかくオリジナルで彼の言ってることは一回考えみる価値がありそうだ。まあそういうんで「森岡先生はフリーダムでいいなあ」みたいななんともいえない感じはもっている。まあ正直うらやましい。相手にされてないけどこれからもからみます。

もう一人注目している小谷野先生は『もてない男』の前からネットでの評判とかで見ていて、変わった人だなあ、みたいな。ほぼ同世代なんで、上の世代の森岡先生とは見方が違う。『男の恋』と『男であることの困難』のどっちを先に読んだか忘れた。あれ、この人は同じような読書をして同じような経験をしているなあ(私生活は違うけど、見方は同じようなもの)、みたいな感じで注目している。なんというかあまりにも正直ですごいんよね。私はああいう生活はできないし、ああいうふうには書けない。まあ小谷野先生だったら、上に書いたような私の森岡先生にたいする妬みみたいなものを理解してくれるだろう、そんな感じ。実証とか、へんなポストモダンやフェミニズム的定説みたいなのに反抗的なのも好き。正直や誠実は美徳だ。あと小谷野先生は恋愛だの愛だのって言ってるけど考えていることはセックスな感じで、そこらへんもおもしろい。こっちは遠まきにウォッチして勉強させてもらう予定。

あとは2000年ぐらいから売買春とかポルノとかでいろんな人がいろんなことを言ってるわね。もちろん杉田聡先生と中里見博は注目している。杉田先生はちゃんとした哲学者な感じがする。社会学系統だと加藤秀一先生とかもかっこいい感じであれだわね。でも議論はわからない。あれ、まだまだ言及すべき人々がいるな。フェミニストもでてきてないし。ここらへんはまた別稿で。

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パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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森岡先生の膣内射精暴力論を読んでみる

(このブログ記事から発展した研究会レジュメは https://yonosuke.net/eguchi/papers/morioka200806.pdf )

http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm森岡正博先生の文章はいろいろおもしろくて、いつかまじめに考えてみたいと思ってた。今回機会があるのでじっくり読んでみたい。でもまともなことが書けるわけじゃないから、とりあえずだらだらと印象を書きつらねてみよう。なんかおもしろいことを思いつくかもしれんし。非常にひっかかりのある文章なんで、気になるところをあげてみて、それから考えよう。

この論文が発表されたシンポジウムはしょうじき私はいろいろ不満があったんだけど、まあそれは書いているうちに思いだすだろう。

まずタイトル。「膣内射精」という耳ざわりにしなきゃならんのかな。AV用語だよな。私はかなり抵抗があるけど、まあそういう抵抗感をねらってるんだろう。「膣」とか書きたいからそういうタイトルにしてるんじゃないかとか言いたくなるんだが。膣内に射精することが問題なんじゃなくて避妊しないのが問題なんじゃないのか。「避妊しないセクロス」「妊娠の強制」じゃだめなのか。まあもとになっている沼崎一郎先生以来の問題意識が「膣内射精は性暴力」だからしょうがないのか。このタイトルや問題意識そのものがかなり男性的ななにかを感じてうーん、っていう感じなんだけど。まあいいや。

第1節の議論のまとめはとくに文句ない。

沼崎のポイントは、(1)避妊責任は女性にあるのではなく、男性にあるということ、(2)膣内射精は性暴力であること、(3)受精・受胎を起点とする中絶論は欺瞞であること、の三点である。

宮地先生の「法的になんとかしよう」ってのはいろいろ問題があると思うんだけど、まああとまわしにしよう。

第2節。まあ「女性の意に反した性行為はすべてレイプ」ってんで(とりあえず*1)よいと思うし、これは70年代からのフェミニズムの大きな成果の一つだわな。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。

「膣」と書くなら「ペニス」じゃなくて「陰茎」の方がいいんじゃないかな。書きにくいのかな。

「強制膣内挿入」の暴力性とは、膣内に挿入してほしくないという女性の願いが踏みにじられることであり、「強制膣内射精」の暴力性とは、膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないという女性の願いが踏みにじられることである。であるから、女性が膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないと思っているときに、強制的に膣内で射精することは、女性のその願いを踏みにじる性暴力であると明瞭に言えるのである。

なんらかの行為の「暴力性」はその被害者の欲求の対象によって算定されるってことだろうな。

「強制膣内射精」の暴力性と、「強制妊娠を導いた膣内射精」の暴力性には、きわめて重要な違いがある。「強制膣内射精」の場合には、その膣内射精が生じたその瞬間に、その行為が、射精してほしくないという女性の願いを踏みにじっているわけだから、その時点でその暴力性は確定する。ところが「強制妊娠を導いた膣内射精」の場合には、膣内射精を行なった瞬間には、その暴力性は確定しない。その暴力性は、沼崎が言うように「潜在的」なものにとどまるのである。そして、実際に妊娠が判明して、それが女性の意に反していることが明らかになったときに、その原因となった膣内射精の暴力性が〈事後遡及的に〉確定するのである。

事後的にしか判断できないタイプの暴力があると言いたいわけだ。これが微妙。

まあなんかの後遺症とかを法的にいろいろやる場合は難しいかもしれんが、この手のケースに使えるかな?

第3節。ここらへんで森岡ワールドにひきこまれてしまってあれな感じになってくるのだが。

まず、男女が長く続く恋人や夫婦の関係であり、避妊について意思疎通が取れており、女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容している場合を考えてみよう。この場合、避妊をしたうえでの膣内射精は、「強制膣内挿入」でもないし、「強制膣内射精」でもないと考えられる。しかしながら、コンドームの破れなどによって避妊が失敗し、女性が妊娠したときには、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されている。問題は、このような場合に、その直接の原因となった膣内射精を、女性が性暴力と感じるかどうかという点である。それは、膣内射精の後に起きた受胎について、男性と女性のどちらの過失分が大きいと女性が感じるかによると思われる。

ポイントは「強制」という言葉だろう。このカップルの両方がそういうセクロスに同意していたとき、なにが「強制」なのか?「強制」している主体は誰なんよ。自然の摂理なるものによって強制されているわけではないだろう。むしろ「過失」だろう。あれ、この文章の「膣内射精を自発的に許容」ってのはコンドームなどによって避妊しつつ「膣内射精」することなのかな。周期法とか使ってのセクロスのこと考えてるのかな。なんかよくわからん。まあどういう手段を使っていようとも、「女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容」しているのならとても「強制」とは言えないと思う。

たとえば、コンドームを付けて性交したのであるが、コンドームが脱落して精液が漏れたのであれば、それは男性の過失であって、性暴力である、と女性が感じることはあるだろう。

わからん。「失敗」「悪い結果」ならわかる。「過失」であるには、「配慮義務」のようなもの、つまり、「ふつうの人ならば、あそれが起こらないように気を付けておくべきである」基準のようなものを守っていないことが要求されると思う。だからたとえば日本製のコンドームのように品質が優秀であることが知られているものを「正しく」使用したけど実はピンホールが空いてた、のような場合には過失とは呼べないかもしれない。コンドームはずれちゃった、とかってのは(その両者の使用の技術や経験にもよるのだろうけど)過失と呼べるかもしれん。女性がピル飲みわすれていたのも、厳しくすれば「過失」かもしれんし、周期法使って失敗したのも「過失」かもしれん。

ちなみに各避妊法による失敗の確率は
http://en.wikipedia.org/wiki/Pearl_index

日本語だとえーと、私が作ったいいかげんなレジュメ(あんまり信用してはだめ)は「一般的な使用法」と「理想的な使用法」にわかれてるところがいろいろ怪しい。

でもなぜ「暴力」なの?森岡先生は「暴力」って言葉をどういう意味で使ってるんだろう。こういうところが森岡ワールドなんだよな。情動的・評価的な言葉をわりとルーズに使ってしまう。私の語感では、「暴力」であるにはなんらかの「意図」が含まれていることが必要に思えるんだが。あるいは、「過失」に要求されるよりはるかに程度の高い無知や無配慮が必要だ。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「性暴力」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。

この文章のなかの「暴力」を「失敗」にすれば、なんの問題もない文章になる。やってみよう。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「失敗」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。 (性暴力→失敗に変更したもの)

となってくると、やっぱり森岡先生がセクロスを暴力であると考えたり理由が知りたくなる。まあわからんでもないのだが。

さて、次が一番問題の多い部分。

では次に、男女ともに子どもを作ってもかまわないと思っているときのことを考えてみよう。妊娠を生じさせてもかまわないと二人とも思っているわけだから、コンドームもピルも使わない性交を試みることになる。この場合もまた、「強制膣内挿入」も「強制膣内射精」も起こらない。ところが、やはり、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されているのである。妊娠が生じたあとで、男女のあいだの関係性に、大きな亀裂が入ったときである。

それはたとえば、妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。

これはいくらなんでも無理だろうなあ。この手の議論をするなら、そもそも妊娠をポイントにする必要がない。「同意のセクロスしたあとに、セクロスしたことを後悔したり憤慨する」なんてことはよくあることだろう。多くの離婚カップルや破局したカップルの一方は(おそらく特に女性は)そういう感覚を抱くんじゃないだろうか。「あんな男とやっちゃったことなんか忘れたい」ってやつ。わざわざ「妊娠」を特別扱いする理由はどこにあるんだろう?それは妊娠が特別な出来事だから、なんだろうなあ。でもどう特別なんだろうか。

ここでふと思いついたただの思いつきだが、「あのときにセックスして妊娠しておけばよかった」とあとで思えば、それは「消極的性暴力」とかにカウントされたりしないかな。

セックスできそうなのにセックスさせないでおあづけ食らわすのは性暴力じゃないのかな。どれも違うだろう。でもなぜ違うんだろうか。なんか基準があるはずなんだよな。あとで考えよう。

それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

まあこのセクロスに対する罪悪感こそが森岡先生のこの文章を魅力的にしているんだよな。むしろとりえずこういうセクロスは罪である、生殖は罪悪である、っていう発想があって、膣内射精だのなんだのって話が出てきているように私には見える。男性的(?)性欲に対する嫌悪感。パウロやアウグスチヌスやカントやキルケゴールなんかが共有していた意識。私も共感するところがあるねえ。そういう罪悪感が正当化されるものかどうかはなかなか難しい。ほとんど人間であることを否定しているようにさえ見えたりもする。まあセクロスが他人をモノ化する「暴力的」な側面をもってるってのは否定できんしね。昔書いた駄文は 。だめだめ。

でも「性暴力」をこういうタイプ(「膣内射精」)の問題として扱うこと(過剰なものにしているのか、矮小化しているのかわからん)はどうなんだろうな。もっと検討すべき点は別にあるような気がする(あとで書く)。

まあぱっと見えるのが、このタイプの「暴力」(女性が妊娠する危険を負ってセックスする)は女性がピルのように簡単で確度の高い避妊方法を採用するだけでimmuneになることができるわけだが、それどうなのよ、ってなことだわな。だからこそピルは女性の性の解放の一番の道具になったわけで、国内のフェミニストたちのピルに対する冷たい視線はなんかおかしいように見える(あとで特に宮地先生のを読みなおしたい)。

ピルはなぜ歓迎されないのか

ピルはなぜ歓迎されないのか

とかそういう研究で関心あるひとにはおすすめ。文献情報もしっかりしているので役に立つ。あとリブ運動史とか参考になる。そういや新宿リブセンターの資料が出版されるとか見たけど、もう出てるのかな。

避妊しないセックスが潜在的には常に性暴力であり、悪いものであるとしたら、避妊すればいい。でもそれじゃ森岡先生の罪悪感はなくならないだろう。もしかしたら、女性にピル飲まれると罪悪感やドキドキ感がなくなって余計にセクロスが たのしくなくなるんではないかとか茶々入れたくなるほどだ。(半分は冗談*2。)

宮地先生の避妊責任

森岡先生のはちょっと置いといて、とりあえず宮地尚子先生の。まあもう10年も前の論文なので、宮地先生の現在の考え方とは違うところもあるかもしれない。

http://www.kinokopress.com/civil/0102.htm

沼崎先生のと宮地先生のについては、まず「責任」という言葉が気になるんだよな。「避妊責任」とかってときの責任。これは「避妊の義務」じゃないところがちょっとしたミソになっていると思う。(私だったら「男性が積極的に避妊する責任」として論じそう)

「責任」にはたんに「義務」の意味と「非難可能性」の意味があって~、他にも「賠償責任」とか「因果責任」とか「ハートなんかの有名な分析だと、「責任 responsibility」には四つぐらい意味があって、

  1. 因果責任 causal responsibility。単に因果的に寄与しているっていう意味。”Termites were responsible for the damage.”とかって文章で使われるやつ。これは日本語の「責任」にはない意味。この意味で「男性は女性の妊娠にresponsible」とはもちろん言える。けどあんまり重要じゃない英語特有のカテゴリ。
  2. 役割責任 role-responsibility。まあぶっちゃけ(役割に応じた)「義務」
  3. 賠償責任 liablity-responsibility。これハートでもけっこう広い概念で、刑事責任(刑事罰を負う)とか民事責任(賠償しなきゃならん)とか、さらに道徳的責任(非難に値する)がある。どういうときに非難可能(有責)かってのはけっこういろいろ条件がある。
  4. 能力責任 capacity-respoinsibility 。それをすることができる、って意味で責任があるといわれることがある。”He is a very grave and responsible man”とかの文章にあるやつだわな。これも日本語では「責任ある」じゃなくて「責任感がある」とか「ちゃんとした」とかって訳語になるからあんまり関係ない。

んで、沼崎先生や宮地先生が「責任」という言葉を使うとき(特に沼崎先生)、上の2と3の意味が混同されている可能性があると思う。宮地先生は鋭い方なのでこれには当然気づいていて、

とりあえず男女とも半々の責任がある。そう割り切った上で、それでは半々の責任とはどういうことなのかを考え、決めていく必要があるのではないか。沼崎も「女性にも男性にも同等の避妊責任が問われるべきだ」と書いている(5)。この「同等の避妊責任」の内容をはっきりしておかないと、後で述べる責任の実体化、とくに新たな法的規制なり解釈の変更が困難になる。

半々の責任とは、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負うということと、妊娠という事態が起こってしまった場合の不利益を半々が負うということだと、とりあえず考えることができるだろう。

どっちも負担責任として考えてるみたいだけど、まあ「避妊の義務」と「妊娠した場合の非難可能性・可罰性」に分けりゃよかったんじゃないだろうか。

あとおそらくこの宮地先生の「半々」の議論は、事実として「因果的には妊娠には男女が半々の寄与」しているということから「男女が負担を半々にするべきだ」と推論しているように見えるんだけど、これは自然だけどあんまりうまい推論ではないように見える。功利主義者ならば、どっちかが一方的に負担することが全体としてずばぬけてよい結果をもたらし、それを補うだけの補償を行なうことができるならそうすりゃよいと言うんじゃないだろうか。負担の「半々」にこだわることによって非常に悪い結果が出るのが予測されるならば、そういう平等はあまりよいものではない。 (私は具体的には避妊ピルのことを考えている。)まあここはいろいろ議論ありそうなところ。

避妊手段が女性のコントロールばっかり考えているっていう批判はもっとも。もっといろいろ方法があればいいのにね。(でもまずは女性が自分でコントロールしやすい方法を手に入れるのは私はよいことだと思う。)

避妊が失敗したときの負担は、圧倒的に女性に偏っている。そして、男性が肩代わりできる負担はほとんどない。この当たり前のことが、男性が避妊を怠る最大の要因であることは十分認識しておく必要がある。

ここらへんまでその通り。異議なし。問題は「避妊責任の実体化」の節。こっから話がヨレているように見えるんだよな。

とりあえずこの手の複雑な問題について、なんでも「法で規制しろ」ってのはいろいろ問題がある。立法措置とはなじまないタイプの問題ってのはけっこうあると思うんだよな。この手の問題が立法になじむかどうか。

さて、避妊責任の実体化についてこの辺で考えていこう。男性が孕ませない責任を実行するようにするためには、どうすればいいか。ここでは法制化の方向で考えていきたい。実体化が必ずしも法制化を必要とするわけではないが、社会規範に頼れない場合、もしくは規範自体が問題を含んでいる場合は、法的強制力に頼るしかないように思うからである。セクシュアル・ハラスメントについての大学や企業の対応が、訴訟など法的措置ぬきでは変わらなかったように。

でもまあ「セクハラ禁止法」などは作る必要はなかったろう。既存の法にもとづいた訴訟ですませることができればそれで十分。

女性は孕む性である。しかしそれは、所与である。自分の身体はできるだけ自分で守りなさい。これは、自由主義の基本とも言えるかもしれない。国家や共同体の介入を最小限にとどめておくことは、確かに重要かもしれない(19)。しかし、それなら「半々の責任」の実現は不可能だ。男女が半々に責任を負う社会にするのであれば、この自由主義的主張は一部修正せざるを得ない。「自然の不均等」をなくすのであれば、「社会的アファーマティブアクション」を求めるしかない。

まあこれなんだよなあ。私はあんまり賛成できない。「女性の性の解放」がよいものかどうかあんまり自信がないけど、女性の性的自己決定はすごく重要な気がするし、それをそういう法制度でなんとかしようとか、なにがなんでも「半々に責任を負う」とかってのを実現しようってのは実践的にどうなのかなあ。

しかしまあ宮地先生の問題意識はわかる。

沼崎が避妊責任を、女性には実際には問わない理由は二つに整理できる。一つは、現在の男女関係のあり方の中で、女性に交渉責任を課すべきでないということ(「男女間の不均等な権力関係という文脈においては、女性から男性にコンドームの着用を頼みにくいという構造がある」(21) )、もう一つは女性は妊娠による負担を重くせおうから、そのかわりに男性は避妊の負担をおうべきであるということである。

あとで見るつもりだけど、沼崎先生の「避妊責任」は事後的な非難可能性の話なんよね。つまり妊娠してしまって中絶とかってことになったときに、女性を非難するのはおかしい、むしろ非難されるべきは男だ、ってこと。まあ悪くない立場だと思うけど、ここらへんはいろんなケースがあるだろうとは思う。私自身はどういう場合でも(特に妊娠初期の中絶については)たいした非難は必要ないという立場に立ちたいと思うのだが、まあそうもいかんだろう。でもとりあえず沼崎先生がそういう文脈で「避妊責任」ってものを考えていることは重要だと思う。

んで、宮地先生は沼崎先生の議論を次のようにみる。

第一の理由は、現状では配慮に値するが、女性の主体性を軽視する事にもなりかねないので、私には賛成できない。「避妊してよ、しないならエッチしないよ」くらいは言える女性でなくてはならないのではないかと思うし、それはノースリーブを着て強姦されたときの被害者非難(22) とは違うと思うからだ。

私も宮地先生と同じように賛成できない。春先に某先生が新入生に対して「そういう男とはつきあっちゃいけません」と説教していたが、ある程度の判断力を求められる年齢になれば、それでいいんじゃないだろうか。

しかし、第二の理由はかなり説得力がある。すでに見てきたように、避妊負担は分担できても、避妊が失敗したときの負担を男性に負わせるのは困難だ。それならば、失敗したときの負担は女性が負うのだから、避妊の負担くらいは男性が責任をもつことが、全体の負担のバランスをとることになる。この論理は、妊娠期間中は女性が負担したのだから、出産後の育児は男性が中心にすべきという主張と似ている。現実には、妊娠する女性が育児責任も負わされ、妊娠して困る方が避妊しろという論理がまかりとおっているのだが。

こっちは沼崎先生の見解にも宮地先生の見解にも異論がある。妊娠に関して女性の方がより多くの負担を負うことになるのはその通りなんだと思う。男は逃げるかもしれないけど女は逃げられない。しかしここから、「避妊に失敗した負担は女性が負うのだから、避妊の負担は男性が「責任を持つ」ことが全体の負担のバランスをとることになる」といえるだろうか。

キーポイントになりそうなのは、宮地先生がこだわる「半々」であるように思える。問題がたんに「負担」であるならば、負担の負い方はもっと他にもありそうだ。たとえば、ホテル代は男が持つ、男は女にいろいろプレゼントする、デート代全部男が持つ、結婚したら男がいっしょうけんめい稼ぐなど。実際に多くの人びとの性的関係はそうなっているように見える。もしこういう対案がばかげてみえるのであれば、その理由はなんなんだろう。

それは、セックスという限定された局面で負担を平等にもつべきだ、ってことなんだろうけど、避妊は男の仕事、産んだり中絶したりするのは女の仕事、とかってのはなんだかぜんぜん半々でも平等でもないように見える。上のようなデート代の「負担」も同じ程度に平等かもしれんし不平等かもしれん。

いやいや、これは単なる経済的・精神的負担の話じゃなくて、けっきょくは「誰が非難されるべきか」の話なのだ、と考えればまだ少しわかりやすくなる。けっきょく、「女はそういうことを(文化・経済・その他の理由によって言いにくいのだから、まともな男はちゃんと避妊すべきなのだ、そういうことしない男こそ責められるべきだ」ならまあわかる。

で、まあ宮地先生のユートピアの法律。まさか本気で考えているのではないと思うのだが。

これを法制化するとどうなるだろう。

まず、女性が妊娠すると、合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる。

とりあえず妊娠は(prima facie 他に特段の理由がなければ)悪しき結果なのである。

強姦と和姦の境界をめぐる争いは一切しなくてすむようになる。男性は「女性が妊娠を望んだ」「女性が避妊つきの性交を嫌がった」と言い逃れするかもしれない。けれど、男性は自分が子どもを望まないのであれば、女性の依頼に屈することなく避妊をすればよい。

あるいはこっそりパイプカットでもしておけばよい。

また、双方が妊娠を望むなら、女性にその旨の契約書を書いてもらい、男性が保存しておけばよい。要は、双方が明確に妊娠を望むときを特殊な場合とみなし、通常では男性が避妊とその失敗の責任を負うというふうにするわけである。

子どもを作ったりすることは計画的な契約関係であるべきであって、われわれに降りかかる偶然事であってはならないのかもしれん。そうなのかな。そうであるならばわれわれの生活はより豊かになるんだろうか。わからん。

「生殖のための性」の現実の割合の低さを考えれば、また妊娠を望むカップルの相互信頼度の相対的な高さを考えれば、妊娠を望まないときではなく、望むときに契約するというのは理にかなっているのではないだろうか。性と生殖を分離しようとする欲望をすでに今の社会は認めているのだから、それを明確化するだけの話である。

宮地先生が注で認めているように、現状の世界でも、実質的に婚姻関係がそういうもんなんだろう。

そして、望まない妊娠をした女性は中絶しても出産してもよいことにする。中絶や出産による女性の労力や心身の負担、費用については男性が一切責任を負う。また、出産しても女性が特に養育を望まなければ、養育責任は男性が全面的に負う。

ここらへんの養育費の問題はいまよりもっとしっかりした方がいいんでしょうね。これは認めます。

強制妊娠罪には、強制中絶罪か強制出産罪のどちらかが必ず加わると考えることもできるだろう。女性は妊娠したから中絶をしたいのであって、中絶を元々望んでいたわけではないし、中絶は妊娠と別に女性に負担をかけるのだから。また、出産を女性が選ぶとしても、それは代理母になるのを強いられたようなものであり、女性の養育責任とは切り離すべきである。したがって、男性の認知や結婚が責任をとったことにはならない。つまり、強制妊娠罪を侵した男性は、どちらかの罪を重ねるしかない。一方、女性は身体変化を経験するという「自然的義務」がある分、その経験を経た上での最大限の選択が許されるべきである。

こういうふうになんでも「強制」と見る見方はわたしにはあまりにも主体性がないように見えるんだが、どうなんだろうか。「強制」についてはのちほど。

男性に酷すぎるという声が聞こえそうだ。しかし、いやなら避妊をすればいいだけの話である。簡単に自衛手段は手に入るのだから

避妊の失敗の可能性を考えれば、いやならセクロスしなければいいだけの話である、の方がよさそう。なぜそう書かないのだろうか。

うーん、宮地先生の議論はなんでこんなに奇妙な感じがするんだろう。おそらく、実質的な結果より「半々」とか「責任」とかそういう大義の方を優先しているからか。 この時点(1998年)ではまだ避妊用低用量ピルが認可されていなかった*3。私は宮地先生は女性の安全のためにまさにこんな奇妙で実現不可能に見える法制度を夢想するんではなく、ピルの認可こそを求めるべきだったように思えるのだが、どうなんだろう。性病の問題はピルでは解決しないけど。

まあでも、こういう宮地先生の夢想的なのは、次のようなことを言いたいがためのレトリックと読むのがよいのだろう。

男性が毎日、排精子抑制剤をのむ日を想像するとSFのように感じてしまう今の私たち。逆は既に現実になっているにもかかわらず。それほど私たちは性差別的な社会に生き、それを当然と思わされているのだ。また、以前はSFとしか思えなかったことが現実に今、医療などの分野でどんどん起こっている。セクハラやデートレイプなど、一昔前なら女性の落ち度とされ、法律で扱うことなど考えられなかったことが、徐々に法的処罰の対象になってもきている。

そもそも強姦された女性が訴えるなんて考えられなかった時代だってある。いまだにそういう社会もある。したがって、強制妊娠罪の概念もその境界線も、今は突飛なように見えても、そのうち人々の意識になじんでくる可能性は十分ある。「できちゃったのよ。責任とってよ」という程度には、望まない妊娠が「男性の非」であるという認識を、すでに多くの女性はもっている。

ここらへんは宮地先生の正統派フェミニストとしての面目躍起。ここらへんはまあわかる。でも「僕パイプカットしてるからね」は一部の人は口説き文句だと思ってるかもなあ。そのうち「僕、薬飲んでるから」とかってのが現実に使われるときが来るかな。それをSF的だってだけじゃなくて、なにか邪悪なところがあると思う人もいるかもしれない。どういうことなんかな。あんまり完全に生殖と切りはなされたセクロスはなんか邪悪なところがあるのかもしれない。想像だが、森岡先生はそう感じるんじゃないだろうか。女性が「私はピル飲んでる」と言いにくいかもしれないのと関係があるだろうか。ここは興味あるところだなあ

んで、一番大事なところ。

孕む性を負担としてのみ議論してきたが、この前提は問題ではあり得る。孕むことを喜びとする女性もいる。孕む性を武器にすることもある。孕むことのできる性をうらやましく思う男性もいる。孕みたいときと、孕みたくないときで別に考える必要があるのだろう。ここではあくまでも女性が孕みたくないときに孕まされることの害を言おうとしているだけである。

OK。ではなぜ副作用がなく確度の高いピルを求める論文にならなかったのだろうか。私はそっちの方が気になる。そりゃやっぱり男性にも「責任」なり負担なりを負わせたいからだ。でもそれってほんとに必要なんだろうか。(もちろんそうでもいいんだけど、そうしようとすることで悪い結果が出るとしてもそうなんだろうか。)

男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望と、はっきりさせずにおきたい欲望を持ち、それぞれの場合で場所を使い分けている。永田は、性の市場化をめぐる分析の中で、結婚と売買春との根本的な違いを、男性の再生産責任の有無におく。結婚(恋愛は準結婚である)とは男性の再生産責任を負わせる制度であり、売買春市場は男性の再生産責任が免除される場であるという指摘である(30)。これは、前者の場では、男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望を、後者でははっきりさせずにおきたい欲望を満たすと言い換えることもできるだろう。・・・一方、女性はどちらかの場に割り当てられ、両方の欲望を満たすことは許されない。・・・父子関係が母子関係ほどはっきりできないことは、現時点では男性による女性のセクシュアリティの管理の要因でもあり、手段でもあるのだといえよう。

この指摘は鋭い。ここらへんが正統派フェミ。まったくその通り。ヒューム以来、ファイアストーンも進化心理学も指摘している。まさにセクース論の核心の一部。おそらく問題は、たとえば父子関係が遺伝子検査によってはっきりするとしても(もう8万円ぐらい払えばはっきり時代)、われわれの心理はそういう技術革新についていってないってことかもしれん。我々の欲望は石器時代のまんまだ。人間の本性(あるいは自然的傾向性)があるとすれば、それほど簡単には変わらん。道徳教育によって変えるか、法制度によって強制するか、技術によって回避するか。教育は一部の人びとにしか効果がないかもしれん。法律ぶんまわすのはいろいろ注意が必要、となれば、わたしだったら教育(一部の人にしか効果がないかもしれない)とあんまり侵襲的でない技術でなんとかしたいと思う。もちろん法制度が有効なら使いたいけど、実践的にはむずかしそうだ。

そして最後の箇所。

そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。

女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

宮地先生はよくわかってるなあ。妊娠だけに関していえば、やっぱり私はピルで解決したらいいんじゃないのと言いたくなるのだが、けっきょく宮地先生が言いたいのはもっと広いセクシュアリティの不平等なりなんなりなわけだ。

そういう男性的セクシュアリティの闇の部分に思いをはせていらっしゃるな。でもそういう男性的なものの闇だけでなく、おそらく同じように女性的セクシュアリティの闇の部分にも気づいているだろうから、そっちの論評も読みたくなってきた。そういや手元に新刊があるのに読んでないや。

宮地先生が気づいている(森岡先生も)のに十分論じていないと私に見えるのは、そういう宮地先生や野崎先生や森岡先生が嫌うタイプのマッチョな男に魅力を感じる女性がかなりの数いるように見えるところなんよね。宮地先生にはそこを論じてほしいんだが。そういう男が女性とのセックスへのアクセスをまったく失なってしまうのであれば、問題は起こらないのだが、マチズモは実は女性へのアクセスを増加させる一要因でさえあるかもしれない。(少なくとも一部の男性はそう思いこんでいる。)肉体的・物理的・経済的・社会的な力によって「強制」しているだけではないかもしれん。ここらへんが恐いところ。

あ、宮地論文の注15「沼崎前掲p92では、正確には「膣内射精」を性暴力としている。細かいことだが、いわゆる膣外射精でも妊娠可能性は十分あるので本稿ではこの言葉を用いない」私もその方がよいと思います。賛成。

注29も宮地先生はよく見えてると思わされる。父子関係がはっきりしちゃうと不利益を受ける女性もかなりいると思う。もうその不利益は現実のもの。でもそういう技術に反対するわけにはいかんだろうなあ。

注33「避妊に対して「自然に反している」「女性性が損なわれている」と感じる女性もいるようだ(森,飯塚,谷澤ら前掲p367)。避妊なしで性交をしてしまう女性の心理も分析が必要であろう。 」ふむ、そうです。

あ、卒論とか書いている学生のための注。宮地先生はまもってないけど、ページを示すときのpのうしろにはピリオドつけてください。p95じゃなくてp. 95ね。複数ページはpp. 91-95のように。

うーん、宮地先生の論文は昔ざっと読んだときよりずっとよく見えるな。すばらしい。他にもいくつか疑問があるけど、沼崎先生のに行くか。

沼崎一郎「〈孕ませる性〉の自己責任:中絶・避妊から問う男の性倫理」

『インパクション』105号、1997。

タイトルの「自己責任」よくわからんよね。「〈孕ませる性〉の責任」でいいのに。なんで「自己」なんだろう?

この論文はまあ中絶の責任は誰にあるかっていう論文で、中絶は不正であり、その不正の責任の多くは男性が負う、ってことだわね。まあいいんじゃないでしょうか。具体的には、中絶は男性から負わされた妊娠という損害を回復するための、あるいは権利回復のための手段とみなすべきであるということらしい。(p.94あたり)かなり微妙な主張。妊娠を従来のような「女対胎児」の問題ではなく、男女関係の問題と見るんだなあ。斬新な主張だけど、男に注意が行きすぎているような気もする。

ピルに関してはこんなかんじ。

たとえ夢のピルが発明されたとしても、それは女性にとって避妊手段の有効な選択肢が増えるということを意味するだけであって、女性にとってピル服用の義務が生じるわけではない。女性には、ピルを選ぶ自由とともに、ピルを選ばない自由もある。この二つの自由を両方ともに承認する義務が男性にはあると、私は思う。そうしなければ対等なパートナーシップは築けないからだ。

ピルの有無にかかわらず、女性だけでなく男性にも〈避妊責任〉はある。どのような避妊手段を選ぶかは、女性と男性とが対等な関係のなかで話し合い、決定すべき問題だ。まして、副作用のないピルはまだ発明されていない。ピル任せにはできないし、ピル任せにはしてはならない。現状では、膣内射精は〈性暴力〉なのであって、男たちは、主体的に〈避妊責任〉を引き受けなければならないのだ。(p. 95)

お説教としてはもちろんOK。でも、女性には避妊しない男とはセクースしない自由もあるし、そもそも男なんかパートナーにしない自由もあると思う。それに、男が「主体的に」責任を引きうけるってのはよいことだが、こういう書き方をするからたんなるお説教になってしまい、もしかするとこういう発想がより多くの不幸を生みだすかもしれんと思う。社会政策とかを考えるのであれば、「主体性」とか信用ならん。「主体的に引き受けろ」とかいって主体的に引き受けたりするのは一部の良心的な人だけだもんね。そもそもわれわれはそんないつもいつも主体的だったり良心的だったり理性的だったりするもんじゃないような気がする。こういう論文が先にあったと思えば、「そんなもん信頼できないから法によって実体化せよ」という宮地先生の論文の意味がわかるね。まあとにかく道徳なんて当てにならんので、なんか「実体化」したいわけだ。宮地先生はまともだ。なんか読みなおして宮地先生の評価が高くなってしまってちょっと意外。さて、そうなると、この沼崎先生と宮地先生の論文を掘りおこした森岡先生の意図はどうなんだろうなあ。

と、とってきたままで放っておいてた沼崎先生の「男性にとってのリプロダクティ・ヘルス/ライツ」も軽く目を通したり。ふむ、父親としての自分を自覚していろいろ考えていらっしゃるわけだ。男にはパートナーとか子どもに対する「義務を果たす権利」がある、ってことらしい。沼崎先生の善良なところがわかってけっこうよい。「男性も生殖にかかわらせろ!」って感じ。こういうのがフェミニズムに対抗する意味での「男性学」(男権主義?)なのかな。この論文が載ってる『国立婦人教育会館研究紀要』第4号、2000は他にも重要な論文載ってそうだ。あと

男性論―共同研究

男性論―共同研究

が重要そうね。手に入れにくい。

森岡先生ふたたび:(a)妊娠可能な女性

さて、森岡先生のに戻るか。

以上を振り返ってみれば、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力には、次の三つの特徴があることが分かる。(1)この性暴力は妊娠の可能性をもった女性に対して特異的に行使される暴力である。男性や、妊娠の可能性が生物学的に生じない女性に行使されることはない。(2)膣内射精によっていったん受胎が起きたら、あとは女性の意志とは無関係に妊娠が自動的に進行していくという、生物学的な不可逆性が存在する。女性が自分の意志によってそれを食い止めるには、中絶しか残されていない。(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力は、事後遡及的に構築される。この意味でそれは無期限の潜在性を持っている。

(1)はなんかすごい。どうすごいのかはよくわからん。なんで森岡先生にとって妊娠がそんなすごいことなんだろうか。

(2)はまあそうなんじゃないのかな。

(3)はぜんぜんだめだろう。このタイプの議論をとれば、どんな暴力も無限にインフレしそう。

この、「特異性」「不可逆性」「潜在性」の三点が、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力を特徴づけていると言えるだろう。「潜在性」については、強制猥褻やセクシュアルハラスメントなどの性暴力においても見られる特徴であるが、「特異性」「不可逆性」については、膣内射精という性暴力に限って見られる特徴である。

うーん、ここでよく考えると、「特異性」のポイントはよくわからんけど妊娠という現象の特異性なんだよな。でも胎児が妊娠されて不利益を受けることはめったにないと思うので(どんな人生もたいていはそれなりによいものである)、それは胎児なり新生児なりの不利益ではなく、女性の不利益なんだろう。私自身はそれを(だいたいのところ)不利益と呼んじゃうことに抵抗を感じるけど、まあそうなんかな。でもこれの意味するところをよく考えると森岡先生が考えているのは、まだ妊娠の能力のない女児や、同じく妊娠の能力のない年配の女性とセクロスして射精することは、妊娠期の女性とセクロスして射精することより(他の条件が同じであれば)よっぽど悪い、ということのように思える。そしてこれがまさにおそらく森岡先生の考えていることなんではないかと思う。

このことに気づくと、なんか気持ち悪いんだけど、ここでデイヴィッド・バスやクレイグ・ソーンヒルのような進化心理学者がレイプについて語ってることを参照するのはけっこう重要だろうと思う。

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

  • 作者: ランディ・ソーンヒル,クレイグ・パーマー,望月弘子
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女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

ここらへん。進化心理学の推測によれば、女性は妊娠の可能性があるときの方がそうでないときよりも性的な攻撃(まあレイプでいいけど)に対する苦しみが大きく、またそれは実証によっても支持されている、とかそういうこと。早い話、女性は痴漢にあってチンチン見せられたり、フェラチオさせられたりするより、膣内射精されたときの方が被害を大きく感じる。(だから刑法も強制わいせつと強姦を区別しているわけでもあるのだろう)これは年齢的なのもあるらしい。レイプのトラウマは妊娠可能な年齢のときの方が大きい、とか。(いまちょっと参照する時間がないのでこのまんまだけど、たしかどっちの本にもあったと思う。)

森岡先生のカンは、おそらくここらへんをとらえているんだろうな。さらにやばいことに、そういう射精をともなうレイプをした犯人は、めったに被害者を殺さない。っていうかレイプ犯が被害者を殺すことは予想に反してあまりない。ここらへんから推測すると、レイプとかってのは男性の生殖戦略の一部であるかもしれない。(ソーンヒルたちはもうひとつ生殖戦略の副作用であるって仮説も出してるけど)またわれわれは、そういう繁殖の成功が(至近因ではなく究極因として、つまり自分でははっきり意識はしてないけど)さまざまな行動の原因かもしれない。宮地先生や森岡先生が勘づいている「男性的セクシュアリティの闇」は、けっこう生物学的な基盤をもってる可能性がありそう。「人間の本性」の一部かもしれん。これは難敵ですよ。どっちも邦題からするとヨタ本かと思われそうだけど、そんなことはない。堅いのが好きな方は英語でもよければ

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind

でももちちろん、「メスに子どもを生ませたい」ってのが人間のオスの行動の究極因であるとしても、それが道徳的にしょうがないとかそうそう思うべきだってことにはならない(おそらく可能ならば暴力によって他のオスを排除しようとするのも人間のオスの本性かもしれないけど、暴力がしょうがないとか正しいとかってことにはならん)。むしろだからこそ、そういうものをコントロールするのが道徳や法であり、また技術なわけで、そこらへんあれなんだけど。宮地先生のアイディアでうまくいくかな。そもままじゃうまくいかなそうだ。どうしたらいんだろうな。

(b)事後遡及

これはまあ法律とかそういうきっちりしたことを考えるときは問題にさえならないだろう。これは私には(1)法的な可罰性、(2)道徳的な非難可能性、(3)道徳的な罪悪感/良心の三つの問題を混同しているように思える。

おそらく、本気で法について考えるなら偶然的に事後的に結果が出るなんてのは採用できない。でも道徳的な罪悪感についてはそうは言えないかもしれない。森岡先生が議論しているのは、実は法の話じゃなくて、少なくともそう感じるべきだ、という罪悪感の話なんだろう。むしろ、罪悪感を法によってそれを感じない人びとに押しつけようとしているのかもしれない。

うーん、でも一眠りした方がよさそうだな。

書きかけ。まだまだ続く。

*1:あとで「とりあえず」がそんな簡単じゃないことは議論したい。

*2:半分は本気かも。あとで書く。

*3:バイアグラとの抱き合せという馬鹿げた事情によったのは関係者は爆発すればいいのにとか思う。

一年の反省

この日記の1年分を読みなおしてみる。
まあごちゃごちゃ書いてきたが、勉強になったところもあれば
ならなかったところもあり。全体にネガティブで傲慢でoffensiveだけど、
そんなに大きくまちがったことは書いてないしまちがっているところは恥をかいていると思うので、
もうちょっと続けてみるかな。

書き方が悪くて一部の人に不快を与えているかもしれないのは
いろいろ反省。また意図的に傲慢な書き方をしてみているわけだけど、
よっぽどのことがなければもうちょっと考えた表記にするべきかもしれない。

伊藤公雄先生の「卓越性のゲーム」については
もうちょっと考えるべきかもしれん。
あんまり勝ち目もないし。でもまあ、この「卓越性のゲーム」が意義を持つ分野もあるとは思う。「ゲーム」呼ばわりして知的に不誠実なことをするのはいかん。
J.S.ミル先生は「功名心」は非常に重要だと言ってる。

種々の芸術や知的な職業においては、それによって生計を経てようとすればある程度まで上達しなければならず、さらにその名を不朽にするような傑作を残そうとすればいっそう高い程度にまで上達しなければならない。たんに前者の程度まで上達することにたいしても、職業としてその仕事に従事するものの立場からすればそれ相当の動因があるが、後者の程度にまで上達することは、はげしい功名心をもつものか、あるいは一生のうちある時期にその心を起したものでなければ到達できないことである。たとい偉大な天分に恵まれていても、すでに最高の天才による見事な傑作が数多く残されている仕事において、自分もまたぬきんでようとするためには、長い期間耐えがたい苦行を重ねてゆかねばならないのであるが、その場合の刺激剤としては、ふつうこの功名心にまさるものはないのである。
(J.S.ミル『女性の解放』大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、pp.151-2)

まあミルが考えているような不朽のなんやらなんか私たちには関係がないが。
金銭的な報酬と別になんか「知的」(はずかしいなこれ)なことをするには、
功名心のようなものが必要だってことだと思う。この手のメディアでは「卓越性のゲーム」は必須で もあるし、学術界ではなおら必要なんじゃないだろうか*1
でもなんかもっとなんか実質的なことをやりたいものだ。

「あなたは自分の読者を馬鹿だと思ってもよいのですが*2
あなたが議論している哲学者やその見解を馬鹿げていると思ってはいけません。もし
彼らが馬鹿なら、わたしたちは見向きもしないからです。もし
あなたがその見解によいとこがなにもないと思うのなら、おそらくそれはあなたがその見解について考えたり議論した経験が十分になくて、その見解の提唱者たちがなぜそれに魅力を感じているかを十分に理解していないからかもしれません。彼らを動かしている動機をもっと考えてみましょう。」

You can assume that your reader is stupid (see above). But don’t treat the philosopher or the views you’re discussing as stupid. If they were stupid, we wouldn’t be looking at them. If you can’t see anything the view has going for it, maybe that’s because you don’t have much experience thinking and arguing about the view, and so you haven’t yet fully understood why the view’s proponents are attracted to it. Try harder to figure out what’s motivating them.

じっさいのところ、これまで取りあげてきた人々の著作や研究は やっぱり説得力と魅力があって、stupidだとはぜんぜん思ってない*3。stupidなのはむしろ私自身で、まあslow lernerの恥さらし。でも
それもなんか意味があるだろうという気はする。特に今年後半に
小松先生や森岡先生の見解をゆっくり読んでみたのはよい機会だった。
たしかになんかいいところがあるのだが、それが私はまだピンと来ないんだよな。

まあ読んでくれた人はありがとうございました。特にコメントしてくれた人には感謝。
来年もよろしく。

*1:でも政治の世界ではそういうのとは違うインセンティブがあるかもしれない。

*2:馬鹿だからわからんだろうと思えってことじゃなくて、読者にはとにかくわかりやすく書け、ということ

*3:いや、いくつかはまったくstupidなのもあったか・・・でもそういうのをとりあげたいのは、stupidを非難したいんじゃなくて裏の政治的な意味を非難したいんだよな。

森岡先生のパーソン論批判の残りふたつ。

  1. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  2. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。

うしろの方から。

・・・そもそも人間にとって、具体的に何が「自己意識」であるか、何が「理性」であるかというのは、それを判断される人間と、判断する人間のあいだの関係性によって決定されるからである。たとえば、痴呆性老人と言われる人間であっても、親しく看護しているボランティアから見れば、しっかりとした自己意識が残っていると判断されるのに、第三者の医師から見ればすでに自己意識を失った存在でしかないと判断される場合がある。・・・ある人が、どのような内的状況にあるのか、あるいはどのような能力をもっているかを、観察者との関わり抜きに客観的に決定することは理論上不可能である。(p.115)

わたしにはさっぱり理解できない。

「自己意識」や「理性」がパーソン論者にとってどういう意味なのかはかなり微妙なのは認めるが、こりゃ単にどの程度詳しく知っているかの実践的な違いでしかないだろう。この場合は看護している人の方がよく知っているからより正しい判断が下せるだろう。(だいたい痴呆老人に生きる価値がないなんて主張している人は見たことがない。なんかヘンな例なのではないか。)

また「自己意識」や「理性」が関係性によって判断されるというのはどういうことなんだろう。看護しているひとが、あやまって「この人は自己意識がある」と思いこむってことは原理的にありえないのだろうか?たとえば私が大事にしている盆栽の調子が悪いときに、「この盆栽は機嫌が悪い」とか「盆栽は苦しんでいる」と考えてもまちがいとは言えないのだろうか。水に悪口を言ったらきれいな氷の結晶を作らなかったときに、「この水は自己意識をもっていて、私の悪口を理解している」と考えたときにこれはまちがいではないのだろうか。

もちろん完全に内的な意識状態がどうなっているかは「理論上」(というか定義上)他者には見分けがつかないかもしれないが、それはどんなに近しい人間だろうが遠い人間だろうがわからないだろう。

なんか悪意のある読みをしてしまっているようだ。森岡先生が本当に言いたいのは、「意識があるとかないとかってのはよく調べないとわからない」なのだろう。これはまったく正しい。しかし、「「関係性」によって決定される」とか、「〈ひと〉の本質であるとされる自己意識と理性は、実は、人と人との関係性によってのみ裏づけられ、把握される」は正しくない。現実世界でなんか検査するときははそうしかありえない(それは当然)ってだけだろう。

最後は「パーソン論の人間理解は貧弱だ」、なのだが、

目の前に親しい人間の昏睡状態の「あたたかい身体」があるとき、それを看取る私の「あたたかい身体」とのあいだに「間身体性」が成立し、そこに人が生き生きと生きているようなリアリティがうまれるかもしれない。その「あたたかい身体」のうえに、その人と私が培ってきた「関係性の歴史」が覆い被さり、ありありとした「記憶」が身体の上に生成し、その記憶はその人の一部となって、私に何かを語りかけてくるであろう。(pp.113-4)

うむ、そのとおり。また、本当に冷たくなった近親者の死体にさえ私はそういう感じを抱くんじゃないかと思う。それがわれわれの感覚だ。たしかにわれわれの身体は特別。

でもこれって「パーソン論」にはなにも批判になってない。パーソン論者もシンガーも、こういう感じ方がなにか論理的におかしいとか不正だとかまちがっていると言うとは想像できない。近しい人びとの身体は近しい人びとにとって特別だ、ってことをなぜ「パーソン論」な人びとが否定しようと思っていると森岡先生が思っているのかの方が私には気になる。なぜだろう?

うーん、なんか意地悪く読みすぎだな。でもとりあえず書いちゃったことは回収しておかないと。たいへん。

「パーソン論」は保守的か

んで森岡正博先生粘着のつづき。

isbn:4326652616

・・・パーソン論は見かけ上のラディカルさに反して、その内実は保守主義であるという点に注意を払うべきである。・・・よく考えてみれば、パーソン論の主張とは、生命の平等というお題目にもかかわらず、われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない。 (p.110)

パーソン論とは、われわれの多くがこの社会で実行しているところの、生命に価値の高低をつける差別的な取り扱いを、あからさまに肯定する理論なのである。それは社会の現実というものを見据えた上で、さらにそれを乗り越えていこうとする思想ではない。それは、現実社会で行なわれている差別的な行為に、理論のお墨付きを与える、保守主義的な思想なのだ。(シンガーは、人間の生命の平等を振りかざすキリスト教倫理という保守主義に対抗するために、パーソン論を主張するのだが、人間の生命に関しては、シンガー自身がキリスト教以上に保守主義となっているという皮肉がある。・・・シンガーの主張なかで真にラディカルなのは、動物の解放の主張だけだ。・・・) (pp.110-1)

パーソン論というのは、われわれに課せられる規範なのではなく、われわれの多くが日々行なっている権力行使の事実描写をしたものにすぎないのである。そこにある中心的なメッセージは、「われわれがすでに行なっている差別的な生命の取り扱いを恥じる必要はない」「われわれはみずからの規範を変える必要はない」というものだ。(p.111)

保守主義ってのがなんであるかってのは難しいよな。保守・革新とか左翼・右翼とかっての区別が私(の世代?)にはよくわからんようになっている。私の頭のなかでは、なんとなく「左翼で弱者に優しい平等主義」のは保守で、自由と機会の平等なのは中道でかつ革新で、家族とか性役割とか重視してそれの復活を期待するのが右翼革新な感じがするのだが、これはぜんぜんまちがっているだろう。なんでこんなにねじれているかね。

まあとにかく森岡先生にもどると、先生の主張はかなりいろんなことを含んでいて非常に難しい。森岡先生にとっておそらく現状維持につながるのはぜんぶ「保守」なんだろう。

もうかなり面倒になってきているのでシンガーがパーソン論者かという議論はしないが(わたしはパーソン論者ではないと思う)、とりあえずシンガーが保守的な思想家といえるかってことだけ。

森岡先生は動物の解放だけをとりあげているが、『実践の倫理』は他にも、中絶の容認、人種や男女の差別是正のためのアファーマティブアクションの擁護、第三世界への積極的援助(10分の1税のようなものまで提唱している)、市民的不服従の積極的擁護(読み方によっては財産の破壊の許容まで含むかもしれない)まで行なっているし、『生と死の倫理』では新生児の安楽死や脳死以 前の患者からの臓器移植の可能性を含むような*1、伝統的な倫理的世界観の書き換えまで提唱しているわけだから、とてもふつうの意味では保守ではない。すくなくとも「ラディカルなのは動物の解放だけだ」は言えないと思う。超革新。森岡先生の「ラディカル」の意味は微妙だな。私にはシンガーほど(保守か革新か、左翼か右翼かは別にして)ラディカルな人はめったにみかけたことがない。むしろ極左。

でもまあ森岡先生の議論のポイントはそういうところにはないのはわかる。(夜の部につづく)

(続く、がアルコールがはいっている)私の読みでは、森岡先生にとっての本当の問題は、「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」の一文にある。

しかしこれも何重かの問題を含んでいる。

まず第一に、道徳とか倫理とか(区別があるのかどうかよくわからん)はともかくとして、哲学の議論では、相手(読者)がまったく受け入れてない

前提から出発しても意味がないっていうことに注意しておく必要がある。読者がまったく受けいれていない前提から出発するのは宗教なり思想なり好きな名前をつけてよいと思うが、それは伝統的な哲学ではないと思う。

たとえばキリスト教の三位一体の教義(父なる神と、子であるイエスと、私には理解できないぼんやりした特徴を持つ精霊は、同じ存在者の三つのペルソナである)を信じることは、哲学とはまったく関係がない。これを信じることがどういう含意をもつかってのは哲学の課題だけど、この三位一体の教義そのものはどういう哲学の結論でもない。哲学っていうのはとにかくわれわれの信じているなんらかの信念から出発しなければならないと思う。こういう「われわれが信じている信念から出発する」という意味で保守的でない哲学は、あんまり価値がないと思う。哲学っていうのは読者の手持ちの直観をつきつめた行方を教えてびっくりさせてくれるものだ。(ソクラテスが哲学者ナンバー1である理由はやっぱりあの「産婆術」にあるわけだからして)

で、シンガーの議論はどうか。あれ、面倒になってきた。

うーん、まあ、とりあえず、どんな哲学的主張もそれが漸進的であろうとするならば、とりあえずなにか我々が現にもっている信念の一部から出発する必要がある。もちろんわれわれがまったく信じていない数々の事柄から出発することも可能ではあるかもしれないが、哲学としての価値はなかろう。空飛ぶスパゲティ・モンスターとか。

まあなんだかおかしな話になってきたけど、「我々が現に信じている信念から出発する」というだけでは、保守だの革新だのということはできない。

それでは、シンガーたちの議論は「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」のか。

これも多くの問題がある。シンガーたちの議論が、われわれの信念を単に「記述」したものかといえば、まったくそんなことはない。われわれの多くは脳死の人も新生児も胎児も胚も「人間」だと思っているし、その生命にはなんらかの価値があると思っていて、それは豚さんや牛さんとはぜんぜん違うと思っている。でもそういう信念は整合的ではないかもしれないとシンガーは主張しているわけだから、単なるわれわれの信念の記述ではないし、「ありのままに描写」しているわけではない。

でもこれでも森岡先生が本当に言いたいことをつかんでいるわけではないんだろう。

シンガーたちの議論はわれわれの道徳意識のようなものを「ありのままに描写」しているのではなく、「われわれの道徳意識の核心を整合的な形にして構成しなおし、それを受け入れることをせまっている」んだと思う。森岡先生はこれを「保守的」と呼んでいるんだろうか。

もしこう解釈することを許されるのなら、森岡先生の主張は実は妥当なものになる。シンガーはわれわれのふつうの道徳的意識から出発して、その論理的帰結を提示しているにすぎないのだから。でもこの場合「保守派」かどうかはまったく本論と関係がない。森岡先生が本当に問いたいのは、 「我々の(奥底の)徳意識の核にあるものは健全*2かどうか」で、保守か革新かラディカルかなんてどうでもいい話だ。もちろん、それが健全であれば保守だろうが革新だろうが左翼だろうが健全で、それが健全でなければ保守であろうが左翼であろうがダメだ。こういう観点からすると、「保守」かどうかをもちだす文章はプロパガンダのように見えてしまう。(もちろん森岡先生はそのつもりではないはずだが、少なくとも私のように「保守」っていうのがなんであるかがわからなくなっている人間には「~は保守だ」はなんのインパクトもない[1]ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。
。)

というところで、冒頭の森岡先生の引用に戻れば、最初の引用の「ありのままに描写した」は言いすぎに見える。三番目の引用もだめだし、シンガーはわれわれのふつうの道徳的直観や倫理観を変える必要があると考えているのははっきりしているのだから、「恥じる必要はない」「規範を変える必要はない」はまったく誤りだと思う。(「恥じる」必要は微妙。私自身は場合によっては我々は恥じるに値する道徳観をもっていると思う。)二番目の引用はもちょっと分析が必要。

二番目の引用を分析するには、(森岡先生の意味での)「思想」と(私が考える)「哲学」の区別が必要に見える。森岡先生の意味での「思想」が、一般によく使われる「イデオロギー」とどう違うのかがポイントになりそうだ。(このまま寝てしまった。上の文章ねじれていてよくないが、もう手のつけようがない。)

二番目の引用の文章はかなり微妙でどう扱えばよいのかわからん。「生命に価値の高低をつける差別的な取り扱い」ってので森岡先生がどういうことを考えているのがはっきりさせるために、一番最初の引用と二番目の間の文章を引用しておく。

われわれは痴呆性老人を身内に抱えたときに、本人の意見を聞かずに彼らを施設に追いやって、十分なケアを与えず、価値の低い生命として扱うことがあるではないか。あるいは、妊娠した女性が出産を望まないとき、われわれは、胎児のことよりも、〈ひと〉である女性のほうを優先して考えがちではないか。胎児に重篤な障害があるとわかったとき、われわれは自分たちの生活のほうを優先して、選択的な中絶をするではないか。(p.110)

これが「差別的」なのかどうか、「生命に価値の高低」つける扱いなのかどうか。最初にあげられている例がこの文脈でとりあげられるのは特に違和感がある。あたかも「擁護施設に痴呆老人を預ける人びとは、老人に生きる価値がないと考え、施設に老人を無理矢理閉じこめているのだ」と思わされてしまう(もちろんそういうつもりではないと思うが)。十分なケアを与えられない擁護施設は非常に困りものだ。二番目の例はその通りだし、私自身はそうあるべきだと思う。三番目の例は、選択的中絶を選択する人びとがかならずしも「自分たちの生活のほうを優先して」いるかどうか。これらのひとたちが一般に「生命の価値が低い」からそうしているのかどうかはよくわからん。まあもちろん、「そういう人たちもいる」ということなのだろう。でもまあ「生命の質」を考慮することは私にはどうしても必要に思える。

うーん、やっぱりこれ難しいな。まあひとつ言えるのは、もし仮に、そういう現実の実践(中絶や選択的中絶)を、いわゆる「パーソン論」が「追認」する形になっているとしても(なってないと思うけど)、だからといって「パーソン論」が追認するためのイデオロギーだとは言えないってことだろう。

もっともわたし自身は「イデオロギー」って言葉がどういう意味なのか実はよくわからんのだが(大庭先生や小松先生も生命倫理学の主流派の考え方はイデオロギーだ、のような形で使っている)。なんらかの主張が歴史的・社会的に制約されているってだけでは、それがダメだってことにはならんからして。その意味では、「人権」や「(人間の)生命の平等」「民主主義」のような考え方も歴史的・社会的に制約されているのだから。もちろんどんな主義主張も、常に批判されてしかるべきなのは当然。

あ、だめだこりゃ。だめだめ。どんどんねじれてきた。まあとにかく「シンガーは保守」ってのはふつうの意味では言えないし、もし別の意味で「保守主義」って言えるとしても、それじゃ批判になってない、ってことぐらいであとで考えることにしょう。

*1:ちょっと不正確

*2:「健全」という言葉が正確かどうかはまだわからん。

References

References
1 ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。

森岡正博先生にまだ粘着

森岡先生に粘着してみるメモ。

森岡正博先生の「パーソン論」批判は

  1. パーソン論は保守主義だ。
  2. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  3. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。
  4. 〈ひと〉でない存在者に対して冷淡だ。

の四つらしい。私は1と3の主張は偽であるか、すくなくとも多義的で曖昧であると思うし、2と4は偽ではないが文脈を無視していていいがかりに近いと思う。ちょっとずつ考えてみる。(パーソン論というくくりで、シンガーのような一流の哲学者とエンゲルハートのように哲学的に洗練されていない折衷主義者をいっしょにするのはどうも気になる。)

森岡先生でよくわからんのが、彼が、社会的・法的な(最低限の)ルール作りの話をしているのか、道徳的義務や責務の話をしているのか、もっと個人的な理想の話をしているのか、われわれの実感の話をしているのか。もっと別のことなのか。

4番目のやつから。キーになるのは次の文章。

潜在性を持ち出す議論のポイントは、……潜在的な〈ひと〉を殺すことは、将来生まれ出てくるかもしれない何らかの尊い「可能性」を奪ってしまったことになるのであり、その可能性を奪ってしまったことに対して、われわれは何かの「責め」を負わなければならない、ということを主張したいのではなかろうか。

すなわち、胎児には〈ひと〉になる潜在性があるということは、中絶を禁止する根拠にはならないけれども、中絶してしまったわれわれが何かの「責め」を負わなければならないということに理由にはなる、ということである。ここで真に問われているのは、それが道徳的に許容されるかどうかという次元の問題ではなく、われわれが「責め」を負うことになるのかどうかという次元の問題なのである。(『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』p.117)

いつもながら非常に魅力と迫力のある文章だが、この「責め」がどういう「次元」の話なのかが私にはぴんと来ないんだよな。「法的には許される(べきだ)が道徳的には非難される(べきだ)」はよくわかる。おそらく女性の中絶の権利を擁護する人びとにもそういう人びとは多い。

しかし、「道徳的には許されるが「責め」はある」となるとわかりにくい。森岡先生にとって「道徳」ってのはどういうものなのか。森岡先生と私の「道徳」の範囲が違うのかもしれん。やっぱりある種の宗教的立場で主張される罪(「私にはどうしようもなかったが、それでも私は非難されるべきだ」を認める立場)とかヤスパースの「形而上学的罪責」のレベルなのか。guiltとか remorseとかregretとかの議論だよな*1。難しい。

森岡先生の議論の裏には、おそらく、「中絶や治療停止を選択する人びとは、それが法的には許されても罪の意識を感じるべきだ」がある。そして、「その罪の意識を軽減する「パーソン論」は有害だ」と言いたいのだと思える。これどうしたらいいんかなあ。「罪の意識を感じる人びとの方が一般には善良だ」ならその通りなのかもしれんがなあ。少なくとも、たとえば、犬猫金魚ハムスターだって、何の罪悪感なく殺したりする人びとと私はつきあいたくないもんな。牛肉豚肉を平気で食うひとよりは、「命をいただいてありがとう」な人びとの方が善良だ。中絶ならなおさらだ。しかしこれ「パーソン論」の問題なんだろうか?森岡先生は、我々から「責め」の感覚(あるりは「罪悪感」)をなくそうとするあらゆる議論に反対なのかもしれん。

だから次のような文章が出てくる。

パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいのかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪の行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」をみずからに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。(p.118)

でもこれって私だったら個人の理想の話(もちろんそれは非常に重要だが)であって、「パーソン論」のように、「権利」とか線引き問題とかもともと最低限の基準の話をしている議論にそれを求めるのはおかどちがいだ、と言いたくなる。(「権利」はほんとうに最後の「切り札tramp」でしかない。これは、国内で読書してり議論している分には、「権利」って概念の切り札的性格が理解しにくいってのがあるんだと思う。)

そしてこの批判(批判だとすれば)は、森岡先生が考える「悪」がそもそもどのような基準によって判断されるのかがはっきりしなければ、「パーソン論」だけでなく、なんらかの利害の対立がかかわるほとんどあらゆる法的・道徳的思考に対する批判になってしまう。早い話、「これ、たしかに損する人いるかもしれないけど、事情が事情だから許されるべきだよな」というような思考すべてに適用できるように思われる。パーソン論だけ でなくたいていの法や道徳の理論は「不正」「受けいれられない悪*2」とみなされる行為や制度の基準をめぐるものなので、この問題は重大。もし「受け入れられない悪」の判断基準がわからないのであれば、このタイプの議論は限りなく拡大してしまう。(これに森岡先生がどう答えるかわからないが、ひょっとすると「それでもいい、そうであるべきだ」と言うかもしれない。これはもっとよく考えてみる必要がある。)

こうして読んでくると、冒頭のまとめの四番目は、「冷淡だ」というよりは、「パーソン論はわれわれが本来感じるべき罪責感を軽減してしまう」と書きなおすべきかもしれん。しかしもしこう書きなおすことが許されるとすると、「本来感じるべき」という森岡先生の判断はどっから出てくるのか問いたくなる。あるいは「本来感じているはずの」か。難しい。

でもまあ、なるほど、この本でこの議論のあとに田中美津のリブ論や青い芝の会の議論が来るのは内的な必然性があるなあ。やはりよく書けている。(この本が奇書『無痛文明』と双子だという意味がやっとわかってきた。)森岡先生の議論を考えるためには、とりあえずわれわれの道徳的生活での「責め」や罪悪感ってのがどんなものであるかってことを理解する必要がある。これはとんでもなく難しいな。

*1:Bernard WilliamsのMoral Luckとかが有名。

*2:単なる「悪」ではなく「受けいれられない」悪だと思う。