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ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

 

References   [ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

「関係性」の議論にも苦しんでいます

「進捗だめです」のかわりに。あれは飽きてしまった。

ドゥルシラ・コーネル先生の議論にも困ってるんですが、国内にたくさんいる「関係性」の人々にも困ってるですよね。「女性と胎児の関係性が大事なのだから、女性の決定を尊重しなければならない」ってまあそういう感じの議論。もちろんこれでかまわないんだけど、これを言うためには胎児の権利や利益とかそういうのは女性の権利や利益ほどじゃないことを立証しておかなきゃならないと思うんです。私は。でも「線引きはだめだ」みたいな議論をする人がいる。ほとんど誰も、新生児を親の意志によって処分してよいとは考えないわけだから、胎児が新生児とは違うことを言わなきゃならんはずなのに、なぜかそうした議論が避けられているように思える。

伊佐智子先生の一連の論考「人工妊娠中絶における女性と胎児」「生命倫理と権利概念」「生む権利としてのリプロダクティブ・ライツ」「わが国のリプロダクティブ・ライツをめぐる問題状況と議論状況について」や、森脇健介先生の「いわゆる「中絶の権利」に関する一考察」とか読みなおしてもよくわからない。森脇先生のはよく書けているように見えて、もう一つ納得できない。

もちろん、ドゥオーキンやコーネルのように「法的に人じゃないんだから人じゃないよ」ってやるんだったらまあそれはそれでいいんですけどね。でも国内でその強硬ラインをとる人はそれほどいないみたいですね。

けっきょく私は、なぜ多くの論者たちが(かなり保守的な態度の人を除いて)「人とはなにか」というパーソン論問題を回避できると考えているかわからないのです。そしてこれが、大学院生のころから25年くらいずっと謎で、今年研究させてもらっていることの核の一つなわけです。

もちろん胎児は権利もってないとか、権利もってるとしても非常に限られているとか、母親の権利によってオーバーライドされるとか、そもそも利益ももってないとか、いろんな議論をすることは可能で、それがまさに英米でやってるパーソン論なわけです。なぜこんなほとんど自明なことが理解されていないのか、私にはほんとうにわからない。まああまりにも自明だからみんな書いてないだけかと思うんですが、これほどまでみんな同じような書き方をしていると不安になります。私の読み方がおかしいのかもしれない。っていうか、みんな当たり前と思ってることを私が理解してないだけかもしれない。すげー不安。私は自分に自信がないので、「おかしいだろ」ってすぐには言えないんです。実際読めてないことも多いし。

昔、某先生と飲み屋で議論したとき(立岩先生ではない)はけっきょく胎児の道徳的地位は女性より低いのだと考えていると認めてもらいましたが、それをはっきり認めてくれる人はあんまりいないです。

ついでに書いておくと、もう一ついやなのが、妊娠中絶の権利を認めながら、選択的妊娠中絶は認めない、っていう立場をとる人がけっこういるんですが、これの根拠がよくわからない。特に「関係性」の人びとがどうやってそうした判断を正当化するのかわからない。もちろんそこそこうまくやる議論はある。たとえばExpressivist Argumentと呼ばれてるやつは、選択的妊娠中絶が障害者に対するメッセージになるから不正なのだ、と議論するわけですが、そこらへん明示的に利用しているものはあんまり見ない。

なんで「人」や「権利」の議論が嫌われるのか、ってのの仮説はいくつかあるんですが。

  1. 森岡先生あたりからはじまる「パーソン論」に対する各種の誤解。これはずっと前にいくつか書きましたね。とくに「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなの。それにしても最近の文献見ても森岡先生の影響力の強さには驚かされます。たとえば小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』でも先生の1988の本の議論がそのまま踏襲されている。
  2. 「権利」てのがなんであるかよく理解されてない。権利ってのはギリギリの切り札なんすよ。っていうか、道徳的に許容できる/できない morally permissible / impermissibleってのが理解されてない気がする。
  3. 強硬なプロライフがあまりいない。昔は澤田愛子先生、今だと秋葉悦子先生とかがんばってらっしゃるのですが、あんまり読まれてない。そもそもプロライフの議論が十分に紹介されていない。はっきりした敵がいないからギリギリにつめた議論でなくとも通用するのかもしれない。
  4. キリスト教や英米(特にアメリカ)に対する偏見。上と関係するんですが、キリスト教、特にバチカン系の人がプロライフでがんばってるんですが、それが、独特の宗教的信念に基づいているとして偏見に近いものとして片づけられている。彼ら彼女らはそういう宗教的な議論はあんまりしてないです。少なくとも「バチカンの言うことを聞けー」みたいな議論はしない。

まあもっとありますね。ここらへんはまあ歴史的特殊事情ですわね。もっと心理的ななにかがあるんではないかという気もしてます。

進捗どうですか (4)

進捗だめです。

食中毒になった話は前回書きましたが、そのあともしばらく苦しんでました。私はとにかくちょっとでも体に気になるところがあると元気がなくなってなにもできなくなっちゃうんですよね。ヒポコンデリー体質というかなんというか。やっと全快という気分になったのが18日日曜日。発症したのが6日だからまあ10日以上苦しみました。

そのあとはまあなんとか本も読めるようになったのでマクマハン先生とドゥグラツィア先生の本を読む。前回のブログに書いた時間相対的利益説をいろいろ考えたい。

それにしてもマクマハン先生のThe Ethics of Killingとか500ページもあって読むのたいへんっすね。文章も英語も難しくはないけど、議論が細かい。おもしろいけど、ちょっと粘着な感じがあってつらいときもある。

500ページの本がんばって読むとしても、やっぱり2、3ヶ月かかりますわね。こういうのは本当は一人で読むのは無理だから半年ぐらいかけて読書会でもした方がいいんだけど、お友達がいないからしょうがない。ドゥグラツィア先生の方はすっきりしていて読み易いです。

こういう本を読むときは、大学院生様とかはまあ友達誘って読書会がよい。ただこんなでかい本を読書会で読むっていうのは一大プロジェクトですわよね。そうして努力して読むに値する本だっていう確信がもてないととりくめない。

そういうときに役立つのは、やっぱり書評ですね。最近はネットにたくさん書評がころがっているので、気になる本についてはタイトルとかでどういう書評が出てるか調べてみるといいと思います。数が多ければそれは重要な本だ、と。The Ethics of Killingはぱっと調べただけど7、8本手に入りました。注目の1冊なわけです。実際、中絶とか脳死とかにかかわる哲学的な議論としては2000年代で一番重要な本だったんじゃないかしら。

そういう書評を見ると、どこが重要かがわかる。引用されているページとかいちいち付箋貼っておくと、どこが引用されやすいかがわかるしそこらへん中心的に読んでいく感じ。でかい本は頭から読む必要はないです。っていうか時間的に無理。

あと、まあ6月中ぐらいでEric T. Olson先生の動物説と、Schechtman先生の物語的同一性の2冊の本も読む必要がある。少なくとも動物説の魅力や、批判に対する答かたぐらいは手に入れとかないと。しかしOlson先生の文章とはなんかすごい相性悪い感じでつらい。どうも私形而上学が苦手なんよね。つい「だからどうしたの?」とか言いたくなってしまう。どうも倫理的な含意がないと理解できないというか。まあがんばります。

ここらへんの議論知りたいならドゥグラツィア先生からの方がわかりやすいと思う。まあこういう分野は無理して書籍読むよりは、論文あつめた方がいいかもしれないし、最初はハンドブックとかその手のからはいるべき。

先週の後半は「ペルソナ論」とかちょっと読んでみたり。まあ森岡正博先生ねえ。森岡先生はほんとにオリジナルでいろいろ気になる先生なんですよね。全体としてはよくわからないんだけど、ときどき鋭いことを言っているような気がする。でもあのペルソナ論はちょっとなあ。どうあんまり納得できないのか書いてみようかと思ったけど、なんか突然トカトントンという音が聞こえてきてむなしくなってやめてしまいました。でもまあ森岡先生についてはいずれ真剣に考えてみたいとは思っている。「Taking Morioka Seriously」っていう論文タイトルは昔から考えてます。他に福田誠二先生や一ノ瀬正樹先生のも読んだけど、どれもよくわからん。

稲垣良典先生の『人格「ペルソナ」の哲学』は正直私はあんまり評価してないです。偉い先生なわけですが。一方、小倉貞秀先生の『ペルソナ概念の歴史的形成』はしっかりした良書だと思いますね。もし読むんなら小倉先生の方から読んだ方がわかりやすいと思います。

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パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ

「パーソン論」はさまざまあるとはいっても、やはり多くの論者が自己意識だとかそこらへんの心理的特徴に訴えかけているのは否定できないです。これに対してはやっぱり70年代前半からさっそくいろんな代替案が提出されています。

有名で典型的なのは中絶翻訳本に収録したジェーン・イングリッシュ「妊娠中絶と「ひと」の概念」(1975)とかですかね。解説転載しておきます。

ジェーン・イングリッシュはカナダの哲学者であり、登山事故で早逝したので日本ではほとんど知られていないが、ここに訳出した「妊娠中絶と「ひと」の概念」はトゥーリーやウォレンらの「ひと(パーソン)」の概念の有用性を疑問視し、中絶に対してより穏健で受けいれやすい立場を主張をしたもので、頻繁にアンソロジーに収録され続けている。
イングリッシュによれば、「ひと」であることの核になるような特徴は存在せず、「ひとであること」はさまざまな特徴の束でしかない。どんな存在者が「ひと」であるかを明確に定義することはできず、私たちに可能なのは、典型的な「ひと」の事例をあげ、それに類似したものを指摘するのみである。
さて仮に、胎児が生きる権利をもっている「ひと」であるとしても、中絶は自己防衛のためであれば正当化される。自己防衛は必ずしも生命の危険を避けるときだけ正当化されるわけではない。妊娠が命にかかわる場合はもちろんのこと、女性の身体的・精神的健康や幸福やライフプランを著しくおびやかす場合には、自己防衛から中絶を行なうことも許容される場合がありうる。また、仮に胎児が生きる権利をもった「ひと」ではないとしても、つまり、胎児が生きる権利に代表される「権利」全般をもっていないとしても、そこからただちになんの配慮も必要がないということにはならない。権利をもたないものも配慮の対象にはなりうる。動物は「ひと」ではないが、無駄に殺したり苦しめることは明らかに不正である。したがって「ひと」の概念は中絶の許容可能性を考える上ではたいした役には立たない。胎児は新生児に似ているため、「態度の一貫性」のためには、新生児と似た胎児にも一定の道徳的配慮を与えなければならない。胎児の成長は漸進的であるので、出産に近づくにつれて胎児に対する配慮の必要性も高まる。したがって、新生児にほとんど似ていない妊娠初期には女性や家族の利益のための中絶は許容されるだろうが、妊娠後期の中絶が正当化されるのは身体的・心理的・経済的・社会的な危害をもたらすときのみということになるだろうとイングリッシュは主張する。

まあこれはこれで一つの立場なわけで、ふつうにパーソン論やってる人はこういう批判が大昔に出ていることを承知の上で議論しているわけです。国内ではこれと同じような発想のが論文としていまだに生産されてますよね。車輪の再発明みたいな。こんな有名な論文に言及しないで勝手なことを言う生命倫理学者は滅びてほしい。本当。

こういう人々の感情とかを重視する立場の一番の問題は、(1) 権利っていう大事な話を、感情みたいなあやふやなものにまかせていいんですか、そして(2)どういう対象にどういう感情をいだくべきかってのはどうやって決めるんですか、ってことなんかがよくわからんところですわね。

実際、そもそもの議論の初期の段階で、強硬な反中絶論者であるヌーナン先生(これも中絶翻訳本に収録しました)なんかは「感情とかにまかせたら、「黒人には共感しないから奴隷にしてもいい」みたいなのを許すことになるぞ」って主張している。これは正しい。

同じ本に収録したシャーウィン先生なんかも「胎児に二人称で語りかけるかどうかが大事だ」みたいな話をするけど、んじゃ二人称で語りかける気のない母親は胎児を好きに中絶していいって話になるかどうか。

森岡先生の「ペルソナ」論とかでも、「ペルソナだなあ」って感じられなかったらなにしてもかまわんと言うつもりなのか。まあもちろんそうではないでしょう。

けっきょく、当の存在者の特徴以外にも、まわりの人々の感情その他が重要なのはその通りなわけですが、どういう存在者にたいしてどういう感情や態度をもつべきかという話をまたべつにしなきゃならんようになるわけです。そうでなければ理屈の上でも不備のあるものだし、実践的には本当に勝手なふるまいが許容されちゃうことになる。

だからまあ感情とかそういうのを中心にした考え方はありはありかもしれないけど、それが含意するところをちゃんとつめて考える必要がある。

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パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。

パーソン論の基本は、「もしあなたたちがある存在者をパーソンとして特別扱いにするのならばその基準とその根拠を出せ」なわけです(くりかえすのがあんまり苦にならなくなってきました)。これだけでは序列化とか優越とかそういうのは入ってきてない。むしろ優越なり序列とかがあるとすれば、それはパーソンを特別扱いにしている 私たち が導入しているものであって、パーソン論者が導入しているものではない。問題はパーソン論ではなく私たちの道徳的信念にあるのです。

だいたい序列化ってのもわからんではないですか。頭がいい人が悪い人より序列が上だとか、そんなことを森岡先生は信じているんでしょうか。

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。

くりかえしますが(もう何度でもくりかえします)、パーソン論というのは基本的に

(1) 同じものは同じにあつかえ、同じにあつかわないのならばその根拠を明確にしろ、というのが道徳的思考の基本だ。
(2) われわれは生物のなかでもパーソンを特別扱いにしている。
(3) パーソンを特別扱いにするならその特徴を出せ。
(4) どうもパーソンを特別あつかいにするのは心理的特徴しかないようだ。

のような順番で進む議論です。パーソンを特別扱いにする心理的特徴が実際になんであるかは論者によって異なります。自己意識だの理性だの、いろんな提案がおこなわれている。(このなにを候補にあげるかは論者によるというのも何度もくりかえす価値があります。)

パーソンはふつうは「特別な権利」(たとえば生命に対する権利、生命の維持を求める権利、財産権など)をもっている存在者ということになっているので、ここから、パーソンでなければそういう特別な権利をもっているとは必ずしもいえないだろう、ということになります。しかし「パーソン論」は、パーソンでない存在者がそういう権利をもたないと積極的に主張するわけではない。単に、「かくかくしかじかの特徴をもつ存在者をパーソンとするならば、その特徴をもたない存在者は それだけでは その特別な権利をもつと簡単に主張できるわけではない」と言っているにすぎません。他のさまざまな理由からさまざまな権利をもつことは十分考えられます。けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。

「パーソンである特徴をもたない存在者は生命に対する権利をもつとは言えない」のような表現を見てしまうと、どうも「そういう存在者は生きる資格がない」「だから殺してもかまわないのだ」「むしろ死ぬべきだ」「抹殺してしまえ」と言っているのだ、みたいな考え方をしてしまう人がいる。これはもう森岡先生あたりがパーソン論を紹介したときからのひどい誤解ですね。こういうのはやっぱり生命倫理学者はどうにかしてほしいところです。

これまた何回も書きますが、上の(2)は実際にわれわれはそうしているわけですが、必ずそうしなければならないわけではないです。パーソン論をやっつけたいと思うならまさにこの(2)を攻撃すればよい。つまり、「パーソンかどうかなんか実は道徳的にはたいして重要ではないのだ」と主張すればよい。そしてこれが(私の理解では)どういうわけか「パーソン論者」として国内で忌み嫌われているピーター・シンガーの基本的な考え方です。なんでシンガーがパーソン論者にされてしまうのかよくわからん。

パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。

よく見かける誤解の一つが、「パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない」みたいなやつですね。もう面倒なので文献ひっくりかえすのはあとにします。

でもまあ一応森岡ターゲット論文ぐらいは見る。http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm

森岡先生は「パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」と表現してます。これまちがいではないんですが、誤解を招く表現になってると思うんですわ。

まずまあ前にも書いたように、全部のパーソン論者が「自己意識と理性」をパーソンの条件にしているわけじゃない。でもこれはいいです。問題は次の「ある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」。

私が書くなら、「ある特別な道徳的配慮をはらうことが〜」になるかなあ。

パーソン論のそもそもの前提は「われわれはパーソンと呼んでいる一部の存在者を特別あつかいしている」って事実なんですよね。まあ特殊な権利を認めたり、特殊な保護をおこなっている。でも、それ以外の存在者に対しては道徳的配慮をしなくてもいいってことにはらんわけです。それは誰も考えてない。猫はおそらくパーソンじゃないけど、楽しみの気紛れに殺してはならん。できるかぎり保護しなければならない。だからパーソンでないとされた存在者は道徳的配慮の対象にならないと考えてはいかん。まあ森岡先生はそうは考えてないと思います。

パーソンである存在者とパーソンでない存在者のあいだにどれくらいの配慮の違いを設けていいのか、ってことはパーソン論そのものからは出てこないはずです。我々がパーソンとそうでない存在者の間にたいしたちがいを設けたくないと思えばそうすればよい。私はそっちの方に賛成ですね。っていうかわれわれはパーソンばっかり特別あつかいにしすぎていると思われます。

何度も書いているようにトゥーリー(1972)の議論はかなり特殊だってことを意識しておいてもらうことを前提にしてトゥーリーの議論を考えてみると、彼によれば自己意識をもってない存在者は自己が存続することを望むことができないので自己の生命が持続することを欲求できず、それゆえ自分の生命に対する権利をもつことができない(くりかえしますが、この議論はうまくいってないです)。でもそれでも猫が苦しめられない権利をもつことは可能なわけです。だって猫は苦しめられないことへの欲求、苦しめられることへの嫌悪をもつことができるでしょうからね。

あとウォレン先生(1973)は、感覚、自発性、コミュニケーション能力、推論、自己意識などの特徴のどれもがないとパーソンとはいえないだろうって言ってますが、んじゃ新生児にはなにも配慮しなくていいのかっていう問いに対しては、新生児とかはすでにさまざまな人間関係や愛情や愛着の対象になってるんだから殺してもかまわないってことにはらならん、としつこくくりかえしてます。

まあパーソンに与えられている「特別な資格や権利」がどんなものであるべきか、ってのは「誰がパーソンであるか」ってこととは別に考えなきゃならんことなのです。これ混同するとおかしなことになる。

パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)
「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。
前にも書いたように一口に「パーソン論」と言っても、けっきょく各種の重要な権利の主体となるのはどのような存在か、ということが問われていることが共通しているだけで、全員がしかじかのことを主張しているということは言えないのですが、国内で広まっている解釈にしたがうと次のようになります。
パーソン論者によれば、権利をもった人(person)であるためには知性や自己意識が必要であるとされる。しかしこうしたことを主張するのは知性や自己意識をもった人自身が考えるからそうなるのだ、自分の仲間に権利を認め、知性が低かったり自己意識をもっていない人を切り捨てるためにそういうことを勝手に想定しているだけなのだ。したがってパーソン論は自分たちを勝手に贔屓している思想である、のように。
まあ表現はさまざまあるわけですが、森岡先生とかの流派のはこういう感じかなあ。あるいは、パーソン論は知的能力によって人々のあいだに差をつける能力主義だ、みたいな感じか。
この種の解釈のどこがおかしいのかを説明するのはかなり難しいですが、がんばってみます。
まず、いわゆる「パーソン論」で使われる議論は、私の理解では次のようになります。
(1) われわれは「人」(person)と呼ばれる存在を特別あつかいにしている。あるいは特別扱いにせざるをえない。(事実)
(2) 特別扱いにするならば、その特別扱いの理由をはっきりさせる必要がある。(合理性・道徳的思考における要求)
(3) 人間(ホモサピエンス)を特別扱いにするならば、人間が他の動物と違う特質に訴える必要がある。
(4) 人間が人間(ホモサピエンス)であることはその理由にならない。なぜホモサピエンスが特別なのかの理由を示す必要がある。
(5) 候補としてあげられるのは言語の使用や自己意識の有無である。他にもありえる。
(6) なんにしても、その基準が特別扱いにしている「人」とそれ以外の存在者との扱いを変える理由になるなら、その基準は人間以外の存在者にも適用されるべきだ。
パーソン論というのはけっきょく特別扱いする対象とそうでない対象の違いはいったいなんなのか、ということを問題にしているわけなので、いずれにしてもなんらかの「線引き」や「排除」の理屈ということになります。これは正しい。
しかしそれが自分勝手だとかっていうことにはかならずしもならない。誰もがある基準で特別扱いする基準を提唱することができます。たとえば「白人」だとか「日本人」だとか「男性」だとかそういうのを挙げてよろしい。しかし「白人」「日本人」「男性」なんてのがちゃんとした区別の理由になるかどうかかはあやしい。同じように「人間ホモサピエンスであること」もちゃんとした理由になるのかはあやしい。多くのパーソン論者は「自己意識」や「高度な知性」を特別扱いにする理由にしますが、もちろんそれを疑問視してもかまわない。彼らはたんに「自己意識や高度な知性がおそらく基準として妥当だろう、それはなにか人の特別さを示すことになるから」程度のことを考えているわけです。むしろ他によい基準があれば、パーソン論とかやっている人々はよろこんでそれを受け入れるでしょう。つまり「自己意識」や「高度な知性」は単なる提案にすぎません。
もうちょっと詳しく見ると話は変ってきます。「パーソン論」と一括りにされますが、提案されている基準はさまざまなんですね。マイケル・トゥーリー先生の1972年の論文「妊娠中絶と新生児殺し」では、人パーソンを「生命に対する重要な権利を持つ存在」と定義した上で、「生命に対する権利」をもつためには、「自己の生命を維持することに対する欲求」がなければならないはずだ、そしてそのためには「自己の生命を維持すること」やつきつめれば「持続する自己」の概念をもっていなければならないはずだ、というふうに議論がなされます。この議論は多くの倫理学者によって検討された結果、あんまりうまくいってないと考えられてます。
もっと一般的なのはメアリ・アン・ウォレン先生の議論です。これは一般にわれわれが特別扱いにしている「人」はどんな特徴をもっているだろう、として、感覚や欲求、自発性、推論能力、コミュニケーション能力などを列挙して、このうちどれが人であるための重要な条件であるかはわからないが、どれももっていないのであれば我々が考える「人」とはいえないだろう、ぐらいの議論をしています。こっちの方が「パーソン論」としては一般的なやりかたですね。
まあどんなやりかたをしてどんな基準を提案するにしても、もしわれわれが一定の存在者を人として特別扱いしようとするならば、なんらかの基準は必要になります。ウォレン先生みたいなやりかただと、別に自己意識や知性を特別な基準にしなくてもいい。なんでもいいけどとりあえず基準をとってしまえば、それにしたがわねばならない。われわれが日常的にすでにおこなっている特別扱いをする基準はなんであるのかをはっきりさせるのがポイントです。
こうして見ると、それが「切り捨ての思想だ」と非難される必要はなにもないように思えますね。われわれのたいていは人間以外の動物を動物として切り捨てて食べたりしているし、植物や昆虫、細菌や無生物はさらに軽く扱っているわけで、その「切り捨て」の根拠はなんであるのかを考えてみる必要があります。「もしわれわれがある一群の存在者を特別扱いにしようとするのであれば」、なんにしてもそのグループがどういう存在者であるのか、そしてその存在者を特別あつかいをする理由はなにか、っていうのに答える必要があるように思えます。仮にパーソン論が「切り捨ての思想」であるとしても、それが自分の仲間を優先する思想だとか自分勝手な思想だとか言う理由はないように思えます。
森岡先生やその他多くの先生は、「パーソン論を考える人は自分をパーソンだと思っていて、自分たちに有利なように基準を提案している」と主張するわけですが、特にそう考える必要はないように思います。それなら白人哲学者は「白人」、男性哲学者は「男性」とか勝手に他に基準を出すこともできるわけですからね。なぜ「自己意識」や「知性」程度になるのか、それを考えてみることが必要です。それは結局のところ、自己意識や知性をもっていることがその当人の幸福にとって重要だと考えられるから、ということになります。もちろんこれも論証が必要。
まあとにかく「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなことを言いたい人は、それでは私たちは今現在どういう切り捨てかたをしていて、その根拠はなんであるのかを考えてみる必要があると思います。パーソン論にあるていどコミットしている人は少なくともそれは考えているはずです。
でもこれじゃおそらく上のような誤解というか疑問をもつ人に対して根本的な答にはなってないですね。そういう解釈のいちばん深い疑問に答えてない。もう少し考えます。今回は失敗。すみませんすみません。

セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。

大学院生の頃にマックス・シェーラーの授業があって、愛と秘奥人格とかなんとかそういう話があって、なんかわからんなーとか。あれはそういう話だとわかったのはアンソロジーやRoger Scruton先生のSexual Desireって本読んでから。まあ基本的には文学の世界の話だわよね。

直接になにかそういうのに近いことをしていると意識していたのは森岡正博先生と小谷野敦先生の二人かな。ここらへんは私の他のネット活動を知っている人はやけにカラんでいるなと思ってると思う。ははは。

まあ小谷野先生は本でしか知らないけど、森岡先生はいろいろあるのでちょっと書いておくかね。

私が大学院生(D)のころは、いろいろ粛清とかあって研究室の人数が少ないせいであんまりうまく研究会活動なんかがうまくいかなくて、あっちこっちの研究会を覗かせてもらっていた。学部生向けの授業に出たり他学部のに出たり、読書会とかも他の研究室の人や他学部の人と(短期間だけど)やったりして。とにかくなんか教えてくれたり議論してくれる人が欲しかったんよね。

当時森岡先生は日文研にいって、単著もあって生命倫理学の有名人というか中心人物だったわけだ。そんでまあ彼が研究会をやっているというので覗かせてもらった。なんの話をしているのか忘れた。おそらくフェミニズムまわりだったんじゃないかな。阪急に乗って桂でバスに乗っていくとなんかきれいな建物があってね。

人数は20人ぐらいだったんじゃないかと思うけど、哲学の人だけじゃなくて社会学やら人類学やら理系やら、単著もあるような華やかな人々が集って、なんか華やかな感じで議論していてなんかもう別世界。宮地尚子先生とか上田紀行先生とか、これから伸びようとしている25〜35才ぐらいの優秀な人々。女性が多かったのもあれだよな。もうなんかいたたまれない感じだったねえ。もうなんていうか自信がぜんぜん違う感じでねえ。ネチネチ暗い百万遍文学部の雰囲気とはまったく違ってた。まあなんというか異邦人な感じ。

そこでやってるフェミニズムとかの議論ってのはもう私にはさっぱりわからなかったけど(まだ勉強する前だった)、なんか話はかみあってる感じだったので、そういうのが流行なのだなあ、みたいな。まあとにかく自信がうらやましかった。こっちは生きてるだけでせいいっぱいだったし、みんな就職してたり研究費もらったりしていて人種が違う感じ。

その後も森岡先生は『脳死の人』とか『生命学の〜』とか出版して、生命倫理でもかなりの影響力をもった、と思う。私はなんかおかしいとは思ったけど、とにかく説得力があるし、影響力もある。オリジナルな人だ。注目せざるをえない。

2005年ぐらいになると森岡先生はなんかセックスというか恋愛ネタで『感じない男』とか『草食系男子』とかいろいろ書いてて、まあぜんぜん共感はもてないもののやっぱりうらやましい。

そういうなかで学会でめずらしく森岡先生がシンポジウムとか出てきて話をして、タイトルはリプロダクティブ・ライツとかだったけど膣外射精がどうのこうの、という話。2007年か。これはひどい話だった、というかもうシンポジウム自体がだめ。その後もいろいろあって現在に至る。

実際に話するのをゆっくり聞いてみたりすると、かなり変わった人で私の若いころの羨望みたいなのは必ずしも適切ではないんだと思うが、書いたものに感じる独特の感じはなんとも言えない。とにかくオリジナルで彼の言ってることは一回考えみる価値がありそうだ。まあそういうんで「森岡先生はフリーダムでいいなあ」みたいななんともいえない感じはもっている。まあ正直うらやましい。相手にされてないけどこれからもからみます。

もう一人注目している小谷野先生は『もてない男』の前からネットでの評判とかで見ていて、変わった人だなあ、みたいな。ほぼ同世代なんで、上の世代の森岡先生とは見方が違う。『男の恋』と『男であることの困難』のどっちを先に読んだか忘れた。あれ、この人は同じような読書をして同じような経験をしているなあ(私生活は違うけど、見方は同じようなもの)、みたいな感じで注目している。なんというかあまりにも正直ですごいんよね。私はああいう生活はできないし、ああいうふうには書けない。まあ小谷野先生だったら、上に書いたような私の森岡先生にたいする妬みみたいなものを理解してくれるだろう、そんな感じ。実証とか、へんなポストモダンやフェミニズム的定説みたいなのに反抗的なのも好き。正直や誠実は美徳だ。あと小谷野先生は恋愛だの愛だのって言ってるけど考えていることはセックスな感じで、そこらへんもおもしろい。こっちは遠まきにウォッチして勉強させてもらう予定。

あとは2000年ぐらいから売買春とかポルノとかでいろんな人がいろんなことを言ってるわね。もちろん杉田聡先生と中里見博は注目している。杉田先生はちゃんとした哲学者な感じがする。社会学系統だと加藤秀一先生とかもかっこいい感じであれだわね。でも議論はわからない。あれ、まだまだ言及すべき人々がいるな。フェミニストもでてきてないし。ここらへんはまた別稿で。

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パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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生命倫理学とわたし

なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。

前史

  • 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
  • でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
  • うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
  • 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
  • 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
  • まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
  • まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。

大学院生~OD

  • しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
  • 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
  • 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
  • あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
  • 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
  • 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。

情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。

  • あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
  • 1991年1月16日にはこんな感じ。

また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。

  • 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
  • あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
  • まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
  • でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。

動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)

  • ほんとうに人生とは分からないものであるね。
  • でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2
  • 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
  • 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
  • 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
  • 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
  • 1994年にその加藤先生が教授として就任。
  • 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
  • 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
  • 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
  • 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
  • 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
  • 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
  • でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
  • ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
  • まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
  • でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
  • 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5
  • 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
  • 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
  • いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。

 

RA/常勤職時代

  • 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
  • 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6
  • 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
  • でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
  • 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
  • いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
  • このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
  • まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
  • でも気にはなっていた。
  • 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
  • わーい。
  • 好きなことしたいなー。
  • やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
  • フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
  • 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
  • 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
  • なんか少し勉強するかねえ。
  • 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
  • と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
  • 異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
  • なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
  • 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
  • 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
  • まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
  • 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
  • よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
  • というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
  • 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
  • でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
  • でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
  • とかで今に至る。

*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。

*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。

*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。

*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。

*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。

*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)

  • 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
  • ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
  • 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
  • ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
  • 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
  • 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
  • どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。脱英米倫理学中心主義!
  • 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。

注とか。

  • 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
  • p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
  • p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
  • p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
  • 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。

他雑多な疑問。

  • 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
  • よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。
  • ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
  • アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
  • 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。
  • ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
  • あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
  • 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
  • オーキンも読まないとならんということか。
  • 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。
  • 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひともいるわな。

よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に影響することを許さないということであれば、これは功利主義への不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものがあるという事実を、功利説は少しも否定しない。

とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。

この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していないということだけなら、認めてもよい。道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても同じ過ちを犯すはずである。

  • とか使えそうなのが山ほどある。
  • どうも70~80年代の米国の「正義」に関する議論があまりにも貧弱だっただけじゃないの?
  • キルケゴールが「女性の徳は献身である」とかって馬鹿なこと言ってたのも参照したい。

    第11章

    • あ、11章ちゃんと読んでなかった。
    • 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。

    ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかしナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを指摘していた。(p.246)

    • どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
    • デリダ大先生。

    私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)

    • すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。

    法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。

    • うーん。理解不能。デリダの正義ってのはまったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。これは役に立つ。中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。
    • コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば

    テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)

    • ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんようになるのはなぜだろう。こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1

    • 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと思ってる。クリプキとかパトナムとかだって勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。
    • あ!そうか、こういうのが気になるのは、文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとするとふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。
    • だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とかってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とかわかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなりこんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。
    • p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。

    立山善康先生の「正義とケア」はよい

    (リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使するために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。(p.347)

    • どっちやねん、とか。ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。

    正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、(1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)

    • 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。しかしここで言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?
    • まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。
    • あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。
    • アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、

    こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)

    • よい。立山先生はひじょうによくわかっている。

    ~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんどなにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断があって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に十分答えうるものではない。(p.360)

    • よい。最初の方ではおどろいたけど、全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。

    川本隆史先生は偉かった

    もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので図書館から。

    あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか思った記憶があるのだが、功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところなんかがすばらしい。これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。

  • *1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。