これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。
くりかえしますが(もう何度でもくりかえします)、パーソン論というのは基本的に
(1) 同じものは同じにあつかえ、同じにあつかわないのならばその根拠を明確にしろ、というのが道徳的思考の基本だ。
(2) われわれは生物のなかでもパーソンを特別扱いにしている。
(3) パーソンを特別扱いにするならその特徴を出せ。
(4) どうもパーソンを特別あつかいにするのは心理的特徴しかないようだ。
のような順番で進む議論です。パーソンを特別扱いにする心理的特徴が実際になんであるかは論者によって異なります。自己意識だの理性だの、いろんな提案がおこなわれている。(このなにを候補にあげるかは論者によるというのも何度もくりかえす価値があります。)
パーソンはふつうは「特別な権利」(たとえば生命に対する権利、生命の維持を求める権利、財産権など)をもっている存在者ということになっているので、ここから、パーソンでなければそういう特別な権利をもっているとは必ずしもいえないだろう、ということになります。しかし「パーソン論」は、パーソンでない存在者がそういう権利をもたないと積極的に主張するわけではない。単に、「かくかくしかじかの特徴をもつ存在者をパーソンとするならば、その特徴をもたない存在者は それだけでは その特別な権利をもつと簡単に主張できるわけではない」と言っているにすぎません。他のさまざまな理由からさまざまな権利をもつことは十分考えられます。けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。
「パーソンである特徴をもたない存在者は生命に対する権利をもつとは言えない」のような表現を見てしまうと、どうも「そういう存在者は生きる資格がない」「だから殺してもかまわないのだ」「むしろ死ぬべきだ」「抹殺してしまえ」と言っているのだ、みたいな考え方をしてしまう人がいる。これはもう森岡先生あたりがパーソン論を紹介したときからのひどい誤解ですね。こういうのはやっぱり生命倫理学者はどうにかしてほしいところです。
これまた何回も書きますが、上の(2)は実際にわれわれはそうしているわけですが、必ずそうしなければならないわけではないです。パーソン論をやっつけたいと思うならまさにこの(2)を攻撃すればよい。つまり、「パーソンかどうかなんか実は道徳的にはたいして重要ではないのだ」と主張すればよい。そしてこれが(私の理解では)どういうわけか「パーソン論者」として国内で忌み嫌われているピーター・シンガーの基本的な考え方です。なんでシンガーがパーソン論者にされてしまうのかよくわからん。
- 「パーソン論」よくある誤解(1) パーソン論は功利主義的だ
- パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である
- パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない
- パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である
- パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である
- パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ
- パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ
- パーソン論よくある誤解(8) パーソン論は人間の尊厳についての議論である
- パーソン論その後/道徳的地位
- 高橋昌一郎先生の「胎児はいつから人間か」の議論
- パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ
- パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である
- 「パーソン論」を何度でも:竹内章郎先生の『いのちと平等をめぐる14章』
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コメント
<br />ありがとうございます。<br /><br />私自身はパーソン論まわりでは権利の話こそが重要なのであり権利は非常に重要なのだと思っているのですが、たしかにご指摘の通り私の書き方では「権利なんか恣意的でどうでもいい」と読めてしまうことに気づきました。「恣意的ではないにしても決めの問題だ」「決めの問題ではあるにしても恣意的であってはならず整合的でなければならない」のように書くべきでした。<br /><br />権利が客観的に存在しているかどうかはともかく、権利が客観的な基準にしたがっていなければならないことはほとんどの論者が認めていることだと考えています。まさにそれが書きたいことなのですが、なかなかうまくいきません。<br /><br /><br />権利の問題は本当にむずかしくて、このシリーズでもある程度のことを書かなければならないと思っているのですが、むずかしいです。<br
啓蒙活動はたいへんだと思いますが、とても助かることでもあります。御礼申します。<br /><br />さて、江口先生と(たぶん仮想敵の)森岡先生に共通しているのは、権利というものを非常に軽く見る感じかたなのではないかという感想を抱いています。例えば、<br /><br />江口「けっきょく権利なんてのは人間の決め事だからどういうふうにもその主体の範囲を決めることができる。いまだにパーソンにこだわってるのは自然権とかそういうものでなんとか議論しようとしている人だけでしょう。」(4)<br /><br />江口「けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。」(5)<br /><br />こういう言い方が議論の出発点になるのだとしたら、たしかに権利というのは決め事なのですから、悪意ある倫理学者が政治的に取り決めてしまいかねないものであり、認識論
お返事をありがとうございます。少し的外れで恐縮です。でも「パーソン論まわりでは権利の話こそが重要なのであり」という発言を引きだせたので、その点は発展的になってよかったと思いました。この点は、江口先生が[江口(2007)]で言及されておられます「権利を『付与する』の意味」の問題とも関係しているのではないでしょうか。つまり、権利は「優越した」集団が外側から付与したりしなかったりしうるもの、その「殺戮の吟味の視線」次第では恣意的に付与しないこともありうるもの、と理解する人たちがいるというご指摘です。これは、権利というものを「優越クラブの会員権」みたいなものだと考える立場ではないかと思います。しかし、江口先生が強調されたいのは、仮にそうであったとしてもそのこと自体に問題はなく、同等な性質をもつ二人の候補者の一方に会員権を与え、他方にそうしないことの不当さが問題なのだ、ということであるということの
すみません。「つまり」から「というご指摘です」までは、江口先生の言葉ではなく、私の独断と偏見による要約です。その点だけ書き方が不適切でした。「殺(さ)戮の吟味の視(し)線が執(し)拗に注(そ)がれ、そ(そ)れを殺すことが正(せ)当化される条(じ)件が緻密に探求されていく」て頭韻が利いていてカッコいいなあと思っていたら変な文章になってしまいました。