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牟田先生たちの科研費報告書を読もう(3)

牟田先生のセックス平等の話をするまえに、もうすこしだけ他の論文に簡単なコメント。

元橋利恵先生の「新自由主義セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」は、二つの話題があって、「女性は自分の性器の呼び名がない」みたいな話と、「最近は女性が競争(新自由主義)のために男向けにいろいろ努力してる」みたいな話をくっつけようとしてるみたい。

まあ性器の呼び名みたいなのは古い話で、ろくでなし子先生みたいな方もいらっしゃるのだから好きにすりゃいいのにと思いますが、まあいいです。そもそも英語圏女性も自分のそれを「ヴァギナ」とは思ってないと思うし、そもそもその部分をヴァギナとか穴とかと見てるのかどうか、はたしてそれが女性の実感なのかどうか私はちょっとわからないところですが、まあいいです。あんまりやるとバレ噺になっちゃうし。

本論の新自由主義的セクシュアリティなるものはけっこうおもしろくて、わたしが今注目しているキャサリン・ハキム先生のエロチックキャピタルをネガティブに見た話ですわね。紹介しているウェンディ・ブラウン先生ってのはずいぶんと左翼ですが、別の見方もありそうなのでがんばってほしいです。

荒木菜穂先生の「日本の草の根フェミニズムにおける「平場の組織論」と女性間の差異の調整」も勉強になりました。まあ組織ってどこでもむずかしくて、とくに女性だけのグループっていろいろ難しいってのは、荒木先生も文献にあげてる西村光子先生の『女たちの共同体』他でいろいろやられているので、ここらへんも研究すすむといいっすなあ。まあ男子としては、「きみら女性はそんな組織化得意じゃないっしょ」みたいなの言いたくなるけど、私も組織とかグループとか苦手だから。ははは。

伊田久美子先生の「イタリアにおけるフェミニズム運動の新たな動向」はすみませんがまだ読んでません。

北村文先生の「国籍/エスニシティ/階層を超える・つなぐフェミニズム」はかなりおもしろくて、個人的にはこの論文集で一番勉強になりました。まあ女っていったっていろいろ対立があるってのを、アジアで女中さんをやとってるマダムvsメイドって形で見てる。でもマダムが一方的な支配者ってことはないよね、みたいな話。男女関係だって男性が一方的に支配者とかってのはなさそうなので、ここらへんの研究もすすんでほしいです。

熱田敬子先生の「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方」もまだ読んでないです。

岡野八代先生の「道徳的責任はなにか」はやはり倫理学にかかわりをもつ人間として読まざるをえなくて読んだのですが、従来の「男性的」な倫理学がよくない、っていうのを言うのにウォーカー先生は〜と言ってる、ぐらいしか根拠がなくて、私は不当ないいがかりではないかと思います。ケア倫理と従来の倫理学の関係については、むかし品川哲彦先生の『正義と境を接するもの』の書評もどきをやったときに考えました(ブログも残ってるはず)。まだ岡野先生みたいなやりかたをする人がいるなら、もっとちゃんとした文章書いておかないとならないなと思いました。

まあでも(まだ読んでないのを含めて)どれもまじめで、科研費研究報告としては十分というか立派ですよね。えらいと思います。

品川哲彦『倫理学の話』書評

(『週刊読書人』第3124号 2016年1月22日掲載の草稿)

倫理学の話

倫理学の話

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品川 哲彦
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 209,026

 

本書は、読みやすい倫理学概論および学説史である。叙述は歴史的順序には従わず、著者独自の観点からの配列となっているが、しっかりした索引、注および相互参照が付記されているため、事典的に読むことも可能である。

全体の四分の三は、近年の英語圏の標準的なテキストで頻繁に扱われている諸倫理学説の紹介と検討である。第一部でまず、倫理学は、他人を教導しようとする「倫理」ではなく、むしろ自分自身の倫理観を反省する哲学であるとする筆者の立場が明確にされる。第二部では倫理の基礎づけとして、倫理を自己利益にもとづいて説明しようとするプラトンとホッブズ、人々との共感を重視するヒューム、理性にもとづいた義務と尊厳を説くカント、社会全体の幸福の促進を目指す功利主義者たちの理論が説明される。第三部は、特に「正義」をめぐって、ロックの社会契約説、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルらの共同体主義およびその源流としてのアリストテレスとヘーゲルがとりあげられる。

紹介と解説は総じて平明であり、どの章でも初学者が疑問を感じやすい箇所、誤解しやすい箇所に対して相当の配慮がなされていることは特筆に値する。たとえば、功利主義の考え方を論じる上で、「功利主義は多数の人々の幸福のためならば、少数の罪のない人を殺すことを認めてしまう」といった安直な批判に対しては、ヘアの「道徳的思考のレベル」の区別を紹介し、そうした批判は安直な思考実験と道徳的な直観にもとづいたものであって、現代のエレガントな形の功利主義に対しては十分な批判にはならないという考え方を紹介している。こうした細心な叙述は随所に見られ、基本的学説の正確な理解を必要としている読者に有用なはずである。

「正義」に関する議論の後半部分では、ケアの倫理、ヨナスの責任論、レオポルドの土地倫理、レヴィナスの他者論やデリダの正義の脱構築といった、伝統的な正義論の枠組み自体を疑い問いなおそうとする思想の概略とその魅力が紹介されており、これが本書の特徴的な部分となっている。もちろん、こうした思想群にはわかりにくい部分がある。たとえば、ギリガンらによる「ケアの倫理」は、男女の心理学的な発達に関する事実的主張にすぎないのか、あるいはそれを越えて規範的主張としての説得力を持つのか、ヨナスらが主張する「将来世代に対する責任」の根拠は何か、レヴィナスの言う「他者の無条件な歓待」はどのような内容をもつのか、デリダによって脱構築された「正義」観念は我々の道徳的生活にどのような関係をもつのか等々、読者は多くの疑問を抱くことになるだろう。

しかし、こうした思想を紹介することで「正義」を問いなおそうとする著者の試みは理解できないものではない。我々は往々にして、自分のふるまいや考え方は正しく、自分たちは正義にかなっていると思いこみがちである。歴史的に見てこうした思いこみは、「我々」と見なされる人々以外の存在者に対する政治的抑圧や暴力につなってしまう。アカデミックな倫理学研究でさえ、独善的な取組みをすればそうした側面をもちえる。筆者が「正義」についての標準的とされる倫理学説の検討にとどまらず、上述のような思想家たちの紹介によって「正義とは異なる基礎」や「正義概念の脱構築」の可能性を探るのは、そうした政治的意識の反映でもある。

「あと書き」では、ユダヤ人芸術家メナシェ・カディシュマンのインスタレーションが発する「ノイズ」を聞き「自分は苦しんでいる人々の呼び声もあたかもたんなるノイズのように聞き流してしまっているのではないか?」と自問する筆者の姿が描かれる。多彩な倫理学的な立場それぞれの見解に耳を傾けつつ「じっくり考えなくてはならない問題」について誠実に「ゆっくり話す」という手法は、倫理学という営みへ誘いとして適切な方法であることはまちがいがない。

品川先生その後

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm 。
(もとのレジュメは )

いつもながらとても誠実なリプライ。
私のへんな文章なんか読んでないで、ぜひ先生の本を買ってください。 アマゾンから買っても私には一銭も入らないので安心。皆様の支出がそのまんま哲学出版と研究*1を支えます。

ちなみにその数日前に行なわれた別の研究会での
野崎泰伸さんのコメントは http://www.arsvi.com/2000/0807ny.htm
品川先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentYN.htm 。

品川先生のリプライの最後のところにちょっとだけコメントすると、

私自身はこの手の議論をWeb上で展開するのは、あやうさも感じています。どうも、Web上でひろったジョーホーや、研究会や学会で聞いた耳学問だけで、あれやこれやと判断するひとが増えているように思えるからです。この手のやりとりが、問題となっているテクスト(この場合は拙著ですが)を読まないひと、読んでもわからないひとに利用されることがあるだろうことは、こういうかたちで公開する以上はやむをえないとはいえ、おそろしい気がいたします。

私自身はやっぱりそういう情報はwebでもどんどん流すべきだと思います。国内では
学者や教員が何に興味をもってどんなことをやっているのかもっと公開するべきだし、
もっと人文系の学者もお互いの本を読みあうべきだし、 もっと書評文化が発展するべきだと思っています。そうやってこそ、耳学問であれやこれやな連中を排除することができるんだし、人文系のガクモンのおもしろさや難しさを味わってもらえるんだと思います*2

*1:はてなとアマゾンも支えてしまうけど。

*2:ついでにそういう読んでないのに偉そうなこと言う人間も適切に抽出できるっしょ。そういうのが恥ずかしいとわかってるひとは先生の本買うから大丈夫。読んでもわかんない奴はもとからほっとくしかない。

品川先生:時間ぎれ

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

コメントのレジュメ。

追記(7/30)

もっと共感的に読むべきだったのははっきりしてます。っていうかそういうの私はunderstandingじゃなくてダメダメ。でもあんまりunderstandingなのも哲学としてはどうなんかなという感じがあってね。でもそりゃだめだ。徳が足らんです。

個人的にはおかげでヒューム先生の偉大さを思いしったのが最大の収穫でした。Annette Baierも読もう。あとノディングスはちょっと詳しく検討して批判する必要があるかもしれない(訳文を含めて)。

なんか品川先生が風評被害を受けているんじゃないかという声もあり。いや、よい本なんでみなさんぜひ買ってください。哲学者が自分を掘り下げ、自分でなんか新しいことをやろうとしている雰囲気がよいです。この手の話はこの本読んでからじゃないとダメよ、ぐらいに売れてほしいなあ。

追記(8/2)

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm です。

ノディングス先生名言集

ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から
ネル ノディングズ
晃洋書房
売り上げランキング: 91,176

なんか翻訳大丈夫なんだろうか。わたしが持ってるのは第4刷。3刷で訳直したみたい。

翻訳の問題だけじゃなくて、論述上の問題をかかかえた本に見える。アマゾンで「原典そのものが難解」と評しているひとがいるけど、難解というよりは思考が混乱しているし、かなりふつうのひとが反発を感じそうなことを婉曲的な表現で述べていると思う。これはちょっとのれない。(私はギリガンは非常にまともだと思っているが、ノディングスは有害かもしれないと思いはじめている。)

合州国では、正義の名の下に、学校が人権的(ママ)に隔離されるべきではないことを決めています。人種差別廃止のために、法的な命令によって、人種的な居住区別の学校が廃校にされる場合もあります。転校させられた生徒の両親は、以前の学校では活発であったのに、新しい環境の下では自分がよそ者のように感じられ、その結果、少数民族は、白人の子どもたちを見習うために、いっしょにいる必要があるのだという、誤った考え方にとらわれ続けています。たしかに、かなりの数の人びとが貧困にあえぎ、物資や人間としての尊厳を奪われているというのは、不公正です。しかし、不正義のおもてに表れた兆候を取り除くために作られた、一つの尺度を推奨する前に、ケアリングならば、こう問うでしょう。もしわたしたちがこれをすれば、コミュニティーはどうなるのかしら、家族は、子どもたちはどうなるのかしら、と。(序文p. iii)

微妙な書き方だな。人種分離政策とっといた方がいいってことだろうか?なんかヤバい匂いがする。

ケアするひとであり続けるためには、わたしは殺さねばならないこともありうる。眠っている夫を殺す女性の事例について考察しよう。たいていの状況のともでは、ケアするひとは、そのような行為は誤りだと判断するであろう。それは、夫をケアするというまさしくその可能性を犯している。しかし、夫がどのように妻と子どもを虐待したのかを聞き、その女性が体験してきた恐怖と、その問題を適法的に解決しようとした過去の努力について聞くとき、ケアするひとは自分の判断を修正する。陪審は、酌量されるべき自己防衛という理由でその女性が無罪だと評決する。ケアするひとはその女性を倫理的だと理解するが、それはひどく縮小された倫理的理想に導かれてのことである。その女性は、自分自身と子どもたちを守るためには仕方がないと考えた唯一の方法で行動したのである。したがって、その女性は、自分自身をケアするひととみなすという理想像のなりゆきに則って行動したのである。しかし、なんとひどい理想像であろうか。その女性は、一度殺人を犯したが、再び殺人を侵さないはずのひとなのであって、もはや、たんに殺人を侵さないはずのひとではない。究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある。行為者は、貪欲さや、残忍さや、個人的な関心から、落としめられた理想像を選んだのか、あるいは、ケアを維持するのを不可能にするような、良心の欠けた他人によってその理想像へと駆られたのか。(p.160)

なに言いたいのかわからん。うしろpp.178-179あたりを見ると、「子どもと自分を守るために旦那殺したんだったらやむをえない」と言いたいように見えるけど、これが正義の原理じゃなくてなんなんだろう?

クラスでただひとりの黒人学生が、人権侵害や非人道的行為が黒人に対して平然と行なわれている様を、また、かれの絶望感が次第に大きくなっていく様を雄弁に語った。そして、かれは「バリケードに行くつもりだ」と語った。その学生には、あきらかに、人びとの彼に対する扱いを非難し、事態の改善を要求する権利があった。それなのに、バリケードや銃や暴力にいきつかねばならないのか。おそらく、そうなのだろう。・・・ああ、(人種差別主義者の)伯母も父も間違っている。でも、わたしには親切にしてくれた。・・・あなたにもお判りのように、わたしは、バリケードまで行くなら、こちら側にいるに違いないし、また、父やフィービー伯母さんのそばに立っているだろう。わたしは、ジムたちを罵るだろう。バリケードを撤去しようとするだろう。平和をもたらそうとするだろう。・・・では、そのとき、ジムに、まったく「正しい」黒人の青年に何をするだろうか。ジムが視界に入ったなら、とAさんは言う。それがジムだと気づけば、何か別の目標に眼を移すであろうと。(pp. 171-172)

なんかすごいな。バリストするような黒人は物理的暴力を使う悪い人!排除しなきゃ!なんじゃないの?おそろしいよ。ジムから眼をそらして罵りつづけるのね。

暴力が突然、予期せず行使されたとしよう。いま愛されていてケアされているひとが、暴力というこのひどい行いに関与する、あるいは関与しようとするのである。わかりました。Aさんは言うだろう。あなたは、わたしをそこまで追いつめるのですね。わたしは、たとえなにが起ころうと、悪いことには協力するつもりはありません。わたしは、こうしたケアリングに対する侵犯行為に対してならば、ジム(抗議活動をしている正しい黒人青年)を守ったでしょう。しかし、もう一度言いますが、わたしのケアされるひとならばそんなことをするはずがありません。

パパがジムを殺したなんてあるはずがないわ。なにかのまちがいよ。どうしてもしょうがなかったのよ、きっとジムが最初に銃をもちだしたんだわ。暴力じゃないわ、事故よ。ただ威嚇するつもりだったにの弾が出ちゃったのよ。なのかなあ。いや、意地悪く読みはじめるとここらへんキリないよ?こわすぎる。

自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」と彼女が断言するとき、その断言は信頼の表明である。そしてここにある信頼感は関係性にもとづいている。・・・それは、関係性のうちで過ごされた年数という証拠により跡づけられ基礎づけられた主張である。一定の証拠に基づいて唱えられたこのような主張は、主張者が話題になっている人びとを知っているという状態を要求する。さらに、その主張は、他者のうちでケアが維持され続け、また完全に出来上がっているという状態を要求する。(p.175)

どういうことだろうな。誰か解説してほしい。ノディングの名前を論文にあげる人びとはノディングスほんとに読んでるんだろうか?

わたしたちはどんなひとでも愛せるわけではない。どんなひとでも十分にケアできるわけではない。またケアするためにどんなひとでも愛する必要はない。わたしは「心をかけないケア(care-about)を無視してきたし、またそれでもよいと信じている。それは行おうと思えば、非常にたやすく行える。わたしは、飢えたカンボジアの子供たちを「心をかけないでケア」できるし、5ドルを飢餓救援基金に送れるし、いくぶんかの同情も感じられる。しかし、わたしの送金が、食料費に使われるのか、あるいは、銃の購入に使われるのか、それとも、政治家がキャデラックの新車を購入するために使われるのか、十分にはわからない。上のようなわたしの行為は、ケアにとってのできの悪い又従兄弟である。「心をかけないケア」はつねにある一定の思いやりおある無視を含んでいる。わたしたちは、まさにそこまでは思いやり深くいられる。ちょうどそれくらいの熱中に同意する。承認し、肯定する。5ドルの貢献を行い、それに続けて他の事柄を行う。(p.175)

どういうことなんかね。これも解釈が必要に見えるな。カンボジアの子供たちのために5ドル使うのはあんまり意味がないってことかな。せめてどこの募金団体がそのお金をどう使っているか調べてもよさそうだけどな。

もはやケアれないひとが、後退したそのひとに暴力を働き、脅威を増し、悪意ある取り組みを続けるなら、そのひとは、さらにひどい虐待を阻止するために行動しても正当化される。もちろん、さらにひどい虐待を阻止する行動も、ケアリングの倫理に導かれなくてはならない。がまんできないほどしつこいセールスマンであっても、かれを撃ち殺してしまったなら、あきらかにわたしたちは正当化されない。(p.180)

わたしもそう思います。さっき梅田に超高層駅ビルができるので、とか
電話してきた人がいるんですが、撃ち殺すのはやめておきます。ケアリング。

多くの女性は勝ち負けを争うゲームを避ける。・・・創意に富み、予知できず、空想をかきたてて始まる事柄が、 とにとして、規則に縛られ、技量にこだわり、ひどく深刻なもの*1になる。Aさんを不安にさせるのは、ほとんどすべてこの深刻さである。というのは、深刻さがあるから、彼女は、これは試行ではあるが、自分の夫もこんな仕方で人生を理解しているかもしれないという不安を抱くからである。Aさんは試してみる。彼女は自分の家族とフットボールをするが、そのとき反則をする。対戦相手にしがみついたり、くすぐったりする。こぼれたボールを拾ってタッチダウンする。ときには、フィールドから走り出て、自分のチームが勝って、それでおしまいと主張する。彼女は、ともかくプレイするなら、楽しさが残らなければならないと強く主張する。(p.186)。

 

女はルールにしたがってスポーツすることができないどころか、ゲームを壊し、真剣さや楽しみそのものを壊してしまう。っていうかこういうのは他の女性たちに対する侮辱なんじゃないのか?大丈夫なの?次のページp.186のスポーツ参加の話にも注意。わけわからん。

わたしは、ネズミとの関係を確立しなかったし、いつまでも確立しそうもない。ネズミは、わたしに呼びかけない。ネズミは、期待通りには、わたしの家の戸口には現れない。ネズミは、わたしの方に首を伸ばしもしなければ、自らの欲求を鳴いて知らせもしない。ネズミは、ひとを避けることを覚えていて、すばやく走り過ぎていくだけである。さらに、わたしには、ネズミをケアする覚悟ができていない。ネズミに対しては、どのような関係があろうとも感じない。ネズミを苦しめようとは思わないし、そうしたわけで、ネズミに毒をもるのをためらうけれども、機会が生じたら、ネズミを、きれいに駆除してしまおうと思う。(p. 242)

アザラシの赤ん坊の虐殺は、嫌悪感を催すが、ウツボの虐殺は、単なる安堵をもたらす。倫理性に関して心情の果たす役割を認識する際に、感傷的だと非難されるべきではない。(p.245)

これが人間に適用されるとどうなるかと考えただけで恐い。このひとが思ったときに戸口にあらわれないホームレスの人とかどうなるんだろうなあ。

野放しの「ケアの倫理」は「正義の倫理」によって矯正されなければ超保守思想に結びつくかもしれない。実際にノディングスはそう見える。

教育の第一目標として、ケアリングの維持、向上を指し示す際に、わたしは、優先事項に注意を喚起している。もちろん、知的な目標や美的な目標を捨て去るつもりはないけどれど、次の点を提案したいのである。すなわち、知的な課題や美的な評価は、その遂行が倫理的な理想を危うくするとしたら—永続的にではなく、一時的にではあるが—意図的に度外視されるべきである、と。(pp. 268-269)

もちろん倫理的な理想ってのはケアリング関係の維持だろう。これがどれくらい恐しい主張であるか、読者は注意するべきだと思う。

わたしが提案しているところを述べれば、こうである。すなわち、生徒が主題に対して、つらさや無関心を示すときはいつでも、教育者は、引き下がらねばならない。(p. 269)

これは一理あるかもしれんが「いつでも」は絶対にだめ。「関心をひきだす工夫をしましょう」だろうよ。

たえず、学校にかかわる人びとは、「批判的思考」「批判的読解」「批判的推論」といった目標について語っている。わたしたちの批判的技能や、それを発達させるための練習が「P」とか「Q」とか、「PはQを含意する」とかという表現に縛りつけられている限り、学校は、自らの姿を把握していない。巨大な裸の王様の外観を呈すであろう。曇りのない眼で、行いを見る必要がある。対話の目的は、観念と触れ合い、他のひとを理解し、他のひとに出会い、ケアを行う点にある。

クリシン教育には懐疑的なのね。まあ発達段階によるけどね。でもまともな批判的思考を身につけたら、ノディグス先生の言うこと聞いてくれなくなる可能性があるからじゃないの?

いいですか、本気ですが、わたしはこの本、ジョークじゃなくて本当に恐いです。無批判に(読まずに?)称賛している国内の人も恐いです。枝葉にこだわりすぎかなあ。でも単なる枝葉じゃないような気がする。

雑感

ヨナスは品川先生が話題にしていること以外にもいろんなことを言ってるわけだが、もう調べる時間がない。

昨日の合評会のレジュメほしいなあ。

盛永審一郎先生はヨナスの受容でも大きな働きをしている。少なくとも1993年にはその重要性を指摘しているわけだ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001524258/ すでに品川先生の問題意識を先取りしている。

人間は種として存続可能なのだろうか。人間には動物が持っている「本能的社会」というものがないらしい(注)。それならば、いかにして人間は、種のことを、他人のことを考慮にいれた行為をすることが可能だろうか。(p.25)

注についてるのは日高敏隆先生『動物にとって社会とは何か』1977。まだ日高先生が社会生物学に屈服する前(ローレンツとかの紹介いっしょうけんめいやってたころ?)だね。

CiNiiだと1988年の角田幸彦先生が一番古いのかな。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003633151/

おそらくアネット・ベイヤーなんかはヒュームを正しく理解し援用しているんだな。

もう新しい文献読むのやめなきゃ。

あら?オーキンもってるぞ!まあ読む時間はない。

*1:まだ原書届かないけどseriousかなあ。

まだ文献あつめ

ヨナスには興味はないが。

尾形敬次先生

  • 尾形敬次「存在から当為へ:ハンス・ヨナスの未来倫理」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006273675/ 。ほう、これは役に立つ。

    ヨナスの思想は一般の人びとや政治家たちには高く評価されている。連邦政府の現政権党である社会民主党は積極的にヨナスの思想を自分たちの政策に導入してきた。一方、大学の哲学研究者の間での評価は必ずしも高いとはいえないらしい。

  • なるほど、そうだろうな。

    「我々の議論は証明ではない。なぜならそれは証明不可能な公理的前提に結びついているからである。すなわち、第一には責任能力そのものが「善」であること、したがってその存在は非存在よりも優っていること、そして第二には、そもそも存在に根ざす「価値」があること、つまり存在が「客観的」価値を有すること、これらの前提である」(PUMV, S.139)

  • あら、こんなこと言ってるのか。まあそりゃそういうことになるわな。しかしこんなもの前提していいんだった、もはや形而上学いらんだろう。最初っから「人間の生には価値がある」だけで十分。なんだかなあ。
  • 太田明先生の「責任とその原型」(1)~(4)。「予防原則」とか。なるほど。上の尾形先生の社会民主党との関係の指摘とあわせて、やっとヨナスがなんで重要とされているのかわかってきたような気がする。やっぱりここらへんは政治的状況みたいなんとあわせて理解しないとだめだったわけだ。反省。
  • 盛永審一郎先生の「状況的責任から配慮責任へ」。ふむ、だんだんヨナスに魅力を感じている人びとのことがわかってきたような気がする。
  • それにしても、環境保護とか「世代間倫理」とかってのがそんな問題だったとは。私にはほとんど自明に見えててから、本気で悩んでいるひとがいるのがよくわからなかった。
  • っていうか、私の関心のありかたがなんかおかしいのかね。なんでかな?
  • 坪井雅史先生の「ケアの倫理と環境倫理」も重要そうな気がするけど、すぐに入手できん。そうか、坪井先生も品川先生と同じような傾向が好きなんだよな。

 

ヒューム先生は偉大すぎる

  • 超名著『道徳原理の研究』。http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/Hume-Enquiry%20Concerning%20Morals.htm#sec3
  • 公共の有用性が正義の唯一の起源ですよ。正義の唯一の価値はその帰結にありますよ。
  • もし資源がふんだんにあったら正義なんて必要ないのです。 “the cautious, jealous virtue of justice” のjealousってどういう意味なんかな。まあ訳本通り「猜疑心の強い」でいいのか。
  • それから、もし人びとが無制限な仁愛もってたらやっぱり正義なんて必要ないですよ。「この場合には、正義の使用は、かくのごとき広大な仁愛によって停止され、所有権および責務の
    分割と協会とは決して案出されなかったであろうことは明白と思われる。」
  • 家族愛も仁愛の一種です。「人間の心の気質が現在の状態にあっては、かかる広大な愛情の完璧な実例を見出すことは、おそらく困難であろう。しかしそれでもなお、家族の場合がそれに近いこと、そして家族の一人一人の間の相互の仁愛が強ければ強いほど、益々それに近づき、
    遂には彼らの間で所有権のあらゆる区分が、大部分失なわれ混同されるに到ることが観察されるであろう。」
  • とか。偉大すぎる。っていうかなんでみんなヒューム読まないんだろう。
  • でも資源があんまり希少な場合も正義なんて関係ないです。「社会があらゆる日常の必需品の非常な不足状態に落ち入り、極度の節約と勤勉を
    もってしても、大多数を死滅から、また全体を極端な悲惨から守ることができないと想定しよう。このような差し迫った非常事態の際には、正義の厳格な法律は停止され、必要と自己保存という一層強力な動機に席を譲ることは容易に承認されると思う。」恐い。そういう状況を経験せずに知ぬまで生きられるといいなあ。
  • 上で使わせてもらってる渡辺峻明先生訳の『道徳原理の研究』が出たのは1993年かあ。あれ、入手困難?っていうか3万円も値段ついてるじゃん!こりゃいかんわ。そりゃ誰も読めないわな。いったい国内の倫理学はどうなってんだ。まあヒューム読む人は英語で読むからいいのか。でもそれでいいのかなあ。英米の哲学科だったら哲学だろうが政治学だろうが、2回生ぐらいで誰でもヒュームざくっと読まされるだろう。国内の学生がそんなやつらと戦うのはたいへんだ。なんか国内の翻訳力リソースを有効につかう方法とか考えるべきなのかも。
  • なんか秘教的な智恵とされてるのは実はヒュームかもしれんな。(国内の一部ではシジウィックがまさに倫理学の奥義あつかいされているわけだが)
  • 『人間知性研究』もなあ。もしかしたら、国内では誰もヒューム読まずに「ケア対正義」の議論やってるかもしれないわけだな。
    やっぱりこの状態はまずいですよ。玄白プロジェクト参加するか。一番やらなきゃならないのはここかもなあ。でも古典の翻訳ってのは恐いからやなんだよな。
  • 「しかしながら、迷信と正義との間には、前者がつまらなく、無益で、
    わずらわしいのに対して、後者は人類の福祉と社会の存続のために絶対的に必要であるという、重大な相違が存するのである」の一文にしびれた。

クーゼ先生はすばらしい

 

ケアリング―看護婦・女性・倫理

ケアリング―看護婦・女性・倫理

  • クーゼの邦訳届いたので読む(英語はもってるけどパラパラ見ただけだった)。すばらしすぎる。こんなみっちり哲学している看護系の本はじめて読んだ。
  • いちいち確認してないけど、翻訳もしっかりしてると思う(読んだ5~6章は村上弥生先生)。各節に訳者(監訳者?)の要約がついているのもいいなあ。がんばってる。おそらくこのチームっていうかグループっていうか:-)がやった一番よい仕事の一つだと思う。偉い。
  • これ倫理学の入門書としても、哲学的批判の入門としてもずば抜けてるな。使おうかな。
  • とにかくこれ読んでもらえば「ケア対正義論争」とかについてさらに言うべきことはほとんどないような気がする。
  • クーゼには出てくる「献身」などの言葉が品川先生のにはほとんど(一度も?)出てこないのには注意しておく必要がある。
  • それにしてもたしかに看護(や介護)ってのはかなり特殊な職業だよなあ。まあ教師もそうかもしれんのだけど。dispositional care 身につけてないとよい職業人じゃない。あ、もちろん医師もカウンセラーもね。人間を直接に扱う職業に共通か。他になにがあるかな。弁護士や宗教者もか。どんな職業もdispositional care必要だと言いたくなるけど、やっぱりちょっと違う感じがあるなあ。

今日の雑感

  • ヨナスが注目されるのも、ケアが注目されるのも、やっぱり功利主義が正しく理解されてないからではないかという疑念はさらに強まるなあ。
  • 将来世代に配慮する義務、なんて功利主義を採用するなら自明すぎる。
  • でもドイツとかでは功利主義は蛇蝎のごとく嫌われてるわけなんだろう。
  • そうなると社会民主主義や福祉重視とかをバックアップする理論があんまりないってことなんだろうか?中道左派にはどういう理論が必要か、とか?
  • でもこの文脈でヨナスなんか持ちだすのはけっこう危険かもしれん。民主主義あんまり好きそうじゃないもんね。やっぱりアメリカ人が嫌いなんだろうなあ。もちろんナチスも嫌いだったろうけど。
  • どうでもいいけど国内で社会民主主義崩壊したってのはほんとに困るよな。日本共産党の方がその立場に近いんだろうな。いまの自民党と民主党じゃ区別がつかんよ。ひどすぎ。不可識別者同一の原理によって、実は一つの政党なんじゃないか。実質一党独裁なのか。
  • まああの2回の「牛歩」とか見てる世代はおそらくあの人びとを応援することなんかできんわな 1)あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。*1
  • ケアの方はやっぱり保守主義に近いような気がするなあ。アメリカでいえば共和党の方を応援しそうだ。ファミリーバリューはアメリカンバリュー。
  • なんか政治(国内も外国のも国際も)ぜんぜん知らんのは恥ずかしすぐる。
  • やっぱり私がだめだめなのかな。功利主義もヒュームもみんなわかった上でやってんだろうな。ここらへん勘違いするととても恥ずかしいからなあ。

References   [ + ]

1. あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)

  • 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
  • ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
  • 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
  • ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
  • 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
  • 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
  • どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。脱英米倫理学中心主義!
  • 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。

注とか。

  • 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
  • p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
  • p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
  • p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
  • 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。

他雑多な疑問。

  • 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
  • よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。
  • ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
  • アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
  • 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。
  • ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
  • あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
  • 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
  • オーキンも読まないとならんということか。
  • 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。
  • 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひともいるわな。

よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に影響することを許さないということであれば、これは功利主義への不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものがあるという事実を、功利説は少しも否定しない。

とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。

この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していないということだけなら、認めてもよい。道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても同じ過ちを犯すはずである。

  • とか使えそうなのが山ほどある。
  • どうも70~80年代の米国の「正義」に関する議論があまりにも貧弱だっただけじゃないの?
  • キルケゴールが「女性の徳は献身である」とかって馬鹿なこと言ってたのも参照したい。

    第11章

    • あ、11章ちゃんと読んでなかった。
    • 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。

    ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかしナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを指摘していた。(p.246)

    • どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
    • デリダ大先生。

    私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)

    • すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。

    法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。

    • うーん。理解不能。デリダの正義ってのはまったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。これは役に立つ。中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。
    • コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば

    テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)

    • ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんようになるのはなぜだろう。こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1

    • 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと思ってる。クリプキとかパトナムとかだって勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。
    • あ!そうか、こういうのが気になるのは、文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとするとふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。
    • だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とかってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とかわかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなりこんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。
    • p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。

    立山善康先生の「正義とケア」はよい

    (リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使するために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。(p.347)

    • どっちやねん、とか。ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。

    正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、(1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)

    • 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。しかしここで言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?
    • まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。
    • あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。
    • アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、

    こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)

    • よい。立山先生はひじょうによくわかっている。

    ~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんどなにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断があって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に十分答えうるものではない。(p.360)

    • よい。最初の方ではおどろいたけど、全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。

    川本隆史先生は偉かった

    もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので図書館から。

    あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか思った記憶があるのだが、功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところなんかがすばらしい。これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。

  • *1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。