小松美彦」タグアーカイブ

パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

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パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

妊娠中絶の生命倫理
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生命倫理学とわたし

なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。

前史

  • 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
  • でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
  • うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
  • 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
  • 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
  • まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
  • まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。

大学院生~OD

  • しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
  • 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
  • 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
  • あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
  • 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
  • 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。

情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。

  • あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
  • 1991年1月16日にはこんな感じ。

また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。

  • 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
  • あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
  • まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
  • でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。

動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)

  • ほんとうに人生とは分からないものであるね。
  • でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2
  • 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
  • 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
  • 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
  • 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
  • 1994年にその加藤先生が教授として就任。
  • 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
  • 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
  • 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
  • 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
  • 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
  • 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
  • でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
  • ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
  • まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
  • でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
  • 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5
  • 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
  • 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
  • いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。

 

RA/常勤職時代

  • 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
  • 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6
  • 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
  • でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
  • 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
  • いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
  • このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
  • まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
  • でも気にはなっていた。
  • 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
  • わーい。
  • 好きなことしたいなー。
  • やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
  • フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
  • 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
  • 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
  • なんか少し勉強するかねえ。
  • 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
  • と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
  • 異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
  • なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
  • 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
  • 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
  • まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
  • 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
  • よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
  • というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
  • 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
  • でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
  • でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
  • とかで今に至る。

*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。

*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。

*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。

*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。

*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。

*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。

『ザ・リバティ』

『ザ・リバティ』1999年10月号が届いた。スティーブという仮名になってるけど、これはやっぱり”T.K.”の事例だよな。

一体なぜ彼女たちはスティーブが意識を持ち、自分の母親を識別できると感じているのだろうか? 結論を言えば、それは近代科学と現代医療が見落としてきた霊的真実、つまり脳死状態になっても人間の肉体には、「魂」が宿っているからである。(p.38)

人間の思考力や判断力は、単なる脳の神経作用ではなく、魂、なかでもその中核的な心の機能に他ならない。脳はその思考内容を言葉や行動に表すための仲介機能を果す、いわばコンピュータにすぎず、このコンピュータを操作するオペレーター、即ち考える主体こそ「魂」なのである。だからこそ、スティーブは脳に重大な損傷を受けながらも、母親の呼びかけを理解できるのだ。(p.38)

なるほど、勉強になる。最初は「彼女たちは~感じているのか」という慎重な問いなのに、うしろで「呼びかけを理解できる」になっちゃってるのは愛嬌。

p. 36で医師の丸岡功先生の談話がある。「編集部の取材に医学的アドバイザーとして同行」したらしい。それほどへんなことは言ってない。視床下部と下垂体は生きていると。無呼吸テストはパスしてないが、「臨床的診断」は「疑うべくもなく脳死」っことらしい。

ところで、小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』だと、次のような記述がある。

私たちは母親のこういた物言いを、母親に特有の感情移入だと思うかもしれない。母親の目にはそう映るだけだと。だが、そうした判断は彼女に限ったことではない。スティーブのもとには、重度障害児専門の教師が週に三度来訪し、母親とともに機能回復の訓練を行って彼から感情や反応を引き出すことに努めている。そして、教師もまた母親と同じ認識に達しているのである。(p. 396)

でももと記事にはそういう記述はないみたい。っていうか母親のジーンさんが「私たちは~試しました」「私たちは~を察するのです」と語っているけど、この教師のウラはとってないみたいね。すべてジーンさんに対するインタビューから得られた情報。

あ、無呼吸テストしてないことは小松先生も認めているな(p.400)。まあいやなテストなんだよね。

 

高橋昌一郎『哲学ディベート』続き

 

パラパラ読んでる。まあおもしろいような気がする。でも、全体にせっかくのディベートなのに、両論並記で「いろんな見方があるね」で終ってしまい、おたがい批判やあげあしとったりしてないんで、あんまり「論理」的な分析とは関係ないような気がするけど、だいじょうぶかな。

p. 101で「猿脳」の話が出てくる。

理学部D (略)僕がこれまで聞いた中で最も残酷だと思ったのは、略「猿脳」という料理です。これはアカゲザルの頭をハンマーで殴って(残虐なので略)

この料理は、アカゲザル乱獲につながり、「動物愛護の精神」からしても、あまりに残酷という理由で、中国政府は1977年から禁止しています。(p.101)

ソースはなし。これ、ソースさえついてないwikipedia (ja)の記事うのみにしてるんじゃないのか。英語版はもっと典拠がしっかりしているから、こっちを参照すりゃいいのに。食うやつはいるけど生きたまま食うやつは少ないだろうよ。中国政府の禁止の理由も憶測じゃないの?

学生の発言ってことになってるからこれでいいのかな。でもこんな発言があったら、「ソースは?」ってつっこむのが論理的思考とか批判的思考のポイントなんじゃないのか。 倫理的問題については、論理よりなにより、先にまずは事実を抑えるクセつけさせたいところだと思うんだが*1。もちろん、論理的な欠陥を指摘するのはアームチェアーでできるからいったん覚えてしまえば楽だけど、そればっかりやってると嫌われるし。教育上は、とりあえずソースを疑うようになれば、いずれ論理にも敏感になるような気がする。

野矢茂樹先生は『新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)』で他人の議論を批判するために

  1. 意味の問
    1. あいまいさはないか。
    2. 具体性に欠けるところはないか。
  2. 論証の問い
    1. 独断的なところはないか
    2. 飛躍はないか

って四点のチェックリストを提出している(p.149、記号は面倒なので変ってます。)。私はとにかく「独断的なところはないか」が一番ポイントだと思うんだが、どうなんだろうか。これさえ疑えればあとはなんでも疑える。高橋先生のディベート本は、登場する学生が互いの議論につっこみ入れないから本当のディベートの形(たとえばソクラテスがやってたような)になってないんだよな。特に「教授」には誰も反論さえしないし。

でもまあ、こういう広範な話題を一人の人間が扱おうとするとこの程度の問題が生じてしまうのはしょうがないのかもなあ。業界では「応用倫理学」とかってのがはやってるらしいけど、そりゃ普通の人間には無理なんじゃないかなと思ったり。でも、それでもやる意義や意味はあるのかもしれんし。こうやって論点をまとめてくださる方がいいと、見取り図をえがくことさえ難しいわけだから。やっぱりこの本は価値がある。
その上で、学際的研究が必要だとかってことになるのかな。そのときにテツガクを専攻している人間はなにをする必要があるのか。なにをする資格があるのかってのはどうしても考えてしまう。

おそらく、「教授」がいて、複数の学生がディベートする、って形がだめなんだろう。
(1)学生を「教授」が殺しに行く(ふつう)、
(2)若者男子学生ふたりがクラスの女子学生をかけて殺し合いをする(書き方によってはおもしろそうだ)、
(2)テツガク教授がネットすれした学生につっこまれまくって汗をかく(よい)、
(4)分野の違う中年男性「教授」どうしがクラスの女子学生をかけて殺しあいをする(おもしろそうだ。古典哲学対理論社会学あたりがよい。)、
(5)中年女性教授(理系。生物学ぐらい?)が男性教授(テツガク)をハイヒールでふみにじる、
(6)女子中学生(男子中学生の方がよい?いや、大学1年生男子がいいかな)が中年男性教員(テツガク)を色つきストッキングパンプス足でふみにじる、っていうどれかが正しい。いや、もっとありそうだぞ。

『ザ・リバティ』

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』で引用されてる『ザ・リバティ』、国会図書館にも収納されてないそうな。うう。バックナンバー注文することになりそうだ。

*1:もちろんなにが重要な事実かってことは論理によって決定されることも多いわけだが。

久しぶりに小松美彦先生

粘着しはじめてはや1年になろうとしている。まだ心の目は得られないまま。

・・・ある二人の患者の紛う方なき現実を見ておきたい。一人は医師から全臓器提供を勧められる程の状態から社会復帰を遂げた日本人女性であり、(略)前者の女性については、脳外科医の山口研一郎らが、「『全臓器提供』より奇跡的に 生還した女性」(山口他[2002] 1)kallikles注。山口研一郎、西口嘉和、中出幸子、和田志乃「『全臓器提供』より奇跡的に生還した女性」、『月刊総合ケア』、Vol.12 No. 8, 2002、pp. 84-7 )という論文で詳細にレポートしている。

取りよせてみた。これ、「詳細にレポート」ということなので、小松先生の2ページにわたる記述は要約だと思ってたんだけど、どうも違うね。詳細なのはハワイから帰ってきてからの社会復帰への道のり。4ページある原論文のうちハワイでの出来事を記述したのは2列分ほど、小松先生の文章の分量とさほど変わらない。重要な情報はすべて小松先生の方で記述されている。もうちょっと詳しい情報があるかと思ったのだが。また、原論文で家族が「臓器提供を勧められた」のかどうかははっきりしてない。

それに遺書 2)山口先生によれば「ドナーカードのことと思われる」。 持ってるか確認するとか、費用が1日30万かかる、とかってことを伝え説明するのは米国の医師の義務のような気がするなあ。その時点でいろいろ説明しないとあとで訴えられるだろう。娘が脳挫傷で意識不明なんてことになってショック受けてる家族に臓器移植の話するのはたしかにアレだと感じるひとは多いだろうなあ。アレだろう。医者が説明したという記述のあとで、「第三章第二節で見たように、アメリカの病院では脳死に至る以前にモルヒネを投与して臓器を摘出できるという規定をもっているところが少なからずあるのだ」と小松先生が挿入しているのだが、これは小松先生の文章。このハワイの病院がそうかどうかは原論文ではわからん。またこのモルヒネ投与の話はありそうな話だけど、ソースがTBS(米CBS?)のテレビ番組で、検証しにくくて困る。でもまあ小松先生はそういう情報源にこそ、隠されている重要な情報があるのだと考えているんだろうからある程度しょうがない。

論文の残りはこのケースのリハビリ実践の報告で、山口先生たちにはがんばってほしい。

げ。

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(略)を繙いてみたい。この”童話”は、主人公の少年と王子さまとの出会いから別離までを描いた物語である。二人が地球を出発して宇宙の星々を旅する過程でさまざまな人間や動植物にめぐりあい、再び地球に帰ってくるといった構成をとっている、と読みうる。(p. 34)

ぎゃー  3)こういう装飾は嫌いでいままで使ったことなかったけど、驚きを示すため一生に一回使ってみよう  、こんな話だった?

と、Amazonの書評を見るとさすがに指摘している人がいる。よかった。誰も指摘してなかったらどうしようかと思った。しかし、さすがにこれはどうなのよ・・・心の目をもってると、そういうふうに「読みうる」のか・・・まあ「物語全体に対する筆者の解釈は別稿にゆずる」ということなので、そういう読みを可能にしたり必然にしたりするなにかがあるのだろう。でも本当に驚いたですよ。心臓がドクっていうのを感じた。本読んでそんなのは久しぶりだ。

あ、もしかしたらそういう情報をちゃんと選別できるのかが重要だってことをすでにこのページで逆説的に指摘しているのだろうか。「この本は信用できませんよ」「心の目で読まないとこの本は読めませんよ」ってことを最初の方で宣言しているのかもしれない。それだったらイジワルな仕掛けだなあ。わけわからんようになってきたぞ。

References   [ + ]

1. kallikles注。山口研一郎、西口嘉和、中出幸子、和田志乃「『全臓器提供』より奇跡的に生還した女性」、『月刊総合ケア』、Vol.12 No. 8, 2002、pp. 84-7
2. 山口先生によれば「ドナーカードのことと思われる」。
3. こういう装飾は嫌いでいままで使ったことなかったけど、驚きを示すため一生に一回使ってみよう

シューモン先生の「水頭無能児」論文

アラン・シューモン先生の「水頭無能児」の論文はPDFで手に入るということを教えてもらった。

“Consciousness in congenitally decorticate children: developmental vegetative state as self-fulfilling prophecy”. Dev Med Child Neurol. 1999 Jun;41(6):364-74. http://journals.cambridge.org/article_S0012162299000821

インフォーマントによれば、水頭無脳症とは

水無脳症というようです(hydranencephaly)。原因・病態の点では医学的に水頭症とも無脳症とも異なり、大脳の部分に穴があいていて水がつまっているようです。大脳の「ほとんど」がないようですが、薄い層やわずかな皮質組織ぐらいは残っていることもあるようです。

ということらしい。とりあえず脳死状態でも無脳症でもない。

If these children had been kept in institutions or treated at home as ‘vegetables’, there can be little doubt that they would have turned out exactly as predicted. What surely made all the difference was that their parents ignored the prognoses and advice, and instead followed their instinct to shower the children with loving stimulation and affection. Such children and their families have much to teach about
not only the neurophysiology of consciousness.

心温まる。

シューモンの原論文l(“Chronic Brain Death”)も高く評価されているとのこと。ちなみにNeurology誌のインパクトファクターは4.947、超一流の6には届かないがかなり信頼のおける雑誌ということだ。インパクトファクター3以下は信頼できないとか言われてしまうらしい。へえ、理系の雑誌ってたいへんだ。まあ日本の哲学の雑誌や出版社の信頼性とか考えはじめるとよくわからんようになってしまうから考えないようにしよう。

いろいろ感謝感謝。

インパクトファクターって本当はなんだろう、とか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Impact_factor

http://scientific.thomson.com/free/essays/journalcitationreports/impactfactor/
へえ、なるほど。勉強になりました。

 

まだまだ小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(4)

 

ISBN:4569626157

Alan Shewmon先生のもとの論文とかNeurologyに掲載された批判とか入手してみた。シューモン先生の論文は、新聞記事とかまでメタ分析のソースにしていてあやうい。

前節のようなシューモンの衝撃的な論文を掲載したNeurology誌は、翌99年の10月号で小特集を組み、4組の第一線の医学者による反批判と、シューモンによる再批判を掲載した。(p.116)

正確にはこれらのシューモン批判は”To the editor:”ではじまるcorrespondence。統計的手法についてかなり厳しく批判されている。特に、4組のなかでもEelco Wijdicks/ James L. Bernat先生たちによるものはかなり調査に力を入れていて説得的な批判になってる。

特に小松先生の本を読んで強い印象を受けるであろう脳死のまま14年以上心臓が動きつづけている男子(症例”T.K.”)について、Wijdicks先生たちは

Even the macabre case of child “T.K.” seems suspect, with no full BD assessment (no apnea test) and the presence of septations on MRI. Septations suggest tissue organization, and tissue organization requires intracranial blood flow. MR angiography may not be as sensitive or specific as conventional cerebral angiography.

とおっしゃっている。後の方がわかりにくいと思うが、これはMRIで見たらこの子の脳はばらばらっていうか分裂(septations)しているように見えたとシューモンは原論文で言うわけだが、MRIで組織が組織として見えるためには組織としてなりたってなきゃだめで、組織の形を維持しているためには血流の存在が前提で、だからまだ脳に血流あるんじゃないの、というわけだ(ここらへん私詳しくないのでまちがってるかもしれん)。つまりこのケースはいんちきかもしれない「脳死判定」を受けただけで、ふつうの意味での脳死かどうかわからんようだ。

シューモン先生はanswer (小松先生のいうところの「再批判」)で

I share Wijdicks’ and Bernat’s concern for diagnostic accuracy. Where we seem to differ is in the evidentiary standard that should obtain for such a study. They seem unwilling to consider a case unless every detail be handed to them, including final pCO2 of the apnea test. Either we take what information we can get and try to learn from it what we can, or we continue to actively ignore a very interesting and conceptually important phenomenon.

(意訳)私も、WijdickとBernatたちと同様に診断の正確さについては懸念している。彼らと私の意見が違っているのは、このような研究においてどの程度の証拠が入手されるべきかという基準である。彼らは、無呼吸検査での炭酸ガス分圧まで含めて、あらゆる詳細なデータまで入手できなければ、そのケースを考察したくないと考えているようだ。とにかく手に入れられる情報を集めてそこから学べるだけのものを学ぼうとするか、あるいは、非常に興味深く概念的に重要な現象をあえて無視しつづけるのか。

とそこらへんを認めてなんか情けないことを書いてるように見える。苦しい。興味深い題材だからこそ、ちゃんとした証拠が欲しいやんねえ。

小松先生は、シューモンがそのあとで書いた”The Brain and Somatic Integration”論文で「それは論敵を完膚なきまでに打ちのめした決定的な批判といえよう」と言ってるが、そりゃどうかな。それに小松先生の記述からは誤解しやすいと思うけど、ここでのシューモン先生の「論敵」っていうのは「有機的統合説」論者で、「脳死」論者全体じゃないからね。まして、Neurology誌で編集者に批判の手紙を出した4人のことではない。ここ小松先生の記述はミスリーディングだと思う。(意図的ではないことを望む)

まあ脳死についての「有機的統合」説がだめなのはその通りだしその点ではShewmon先生にも小松先生にも文句はないんだけどね。

かくして、シューモンはこう結論する。

脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。身体の統合性はどこか単一の中枢器官に局在するものではなく、すべての部分の相互作用による全体的な現象である。通常の条件下ではこの相互作用への脳の緊密な関与は重要ではあるが、それは有機的統合体の必須条件ではない。たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。[・・・]要は、脳死を死とする生理学的根拠は、生理学的見地からすればまったく薄弱だということだ。(pp. 473-474)

ISBN:4569626157 (pp.124-5)

これはShewmon先生の”The Brain an Somatic Integration”という論文の結論conclusionのほぼ全訳になっているのだが、小松先生が中略したところに何が書いてあるのかというと、私の訳だとこうなる。

それゆえ、もし脳死が死と同一視されるべきであるとしたら、それは本質的に非・身体的non-somatic、非・生物学的non-biologicalな死の概念にもとづかなければならない(たとえば意識をもつ能力の不可逆的な喪失にもとづく人格性の喪失)ということである。これについて議論するのはこの論文の範囲を超えている。

If BD is to be equated with death, therefore, it must be on the basis of an essentially non-somatic, non-biological concept of death (e.g., loss of personhood on the basis of irreversible loss of capacity for consciousness), discussion of which is beyond the present scope.

なんでこんな重要なところを略すかなあ。シューモン先生は有機的統合体説がだめだといっているのであって、脳死の概念がだめだと言っているわけではない。これも意図的ではないといいな。

あとちょっと細かいけど「脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。」 “The integrative functions of the brain, important as they are for health and mental activity, are not strictly necessary for, much less constitute, the life of the organism as a whole.” は「全体としての有機体の厳密には必須ではなく、いわんやそれを構成constituteするものではない。」

もうひとつ「たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。」の部分は正確には「・・・は衰えるが、死んではいない」って感じ。”the body without brain function is surely very sick and disabled, but not dead.”

最後のところは、”The point is simply that the orthodox, physiological rationale for BD is precisely physiologically untenable.” 「要は、オーソドックスな生理学にもとづく脳死の根拠は、まさに 生理学的に支持できないということだ。」*1

シューモン先生の論文が専門家集団でどの程度認められているかも知りたいのだが、ちょっと私の能力では無理。引用された数とかインパクトファクターとかは、やっぱり専門の人じゃないとわからん。Neurologyは権威ある専門医学誌の一つなんじゃないかと思うが、Journal of Medicine and Philosophyがどの程度のランクなのかは私にはちょっとわからん。無念。

まあ「本当の話」とかタイトルについているような本は、特にそのまま「本当の話」と思ってはいかんような気がする。日常生活だって、「これは本当の話なんだけど」と最初についたら疑うもんな。

気になっている音楽聞いたり笑ったりする「水頭無脳児」のケースについては調査中。数日後に結果が出ることになりそう。

*1:あとで気づいたけど、この小松先生の訳文はかなり問題がある。あたかもシューモンが生理学者として脳死の概念すべてを否定しているかのように読めてしまう。シューモンが否定しているのは、脳死の「オーソドックスな生理学的な根拠」。「オーソドックスな」を訳出しないことで、別の印象が生まれてしまう。これも意図的でないと言えるのかどうか怪しくなってきた。

 

Tooley先生からお返事が来たよ

と粘着している「人格を持つって言えるか」問題。

トゥーリー先生から非常に親切な長文のお返事が来た。恐縮。
とりあえず一番重要な箇所だけ。

Finally, with regard to the “one has a person” statement, one should interpret “one has” as equivalent to “there is”. I don’t want to say, in this context, “one is a person”, for it suggests that there is something, referred to by the term “one”, that initially is not a person, and then becomes a person. Of course, there is an organism that, initially, is not a person, and then becomes a person, but I want to use the term “one” as a personal pronoun, and so I do not want to use it to refer to organisms that are not persons. But I could have said, instead, “the point at which it is a person”.

 

やっぱりぼんやりとした一般の人を指すoneでした。よかったよかった。ほんとに一時期は冷や汗かいた。おそらく児玉聡先生もこれ読んでると思うので、いずれweb直してくれるだろう。

トゥーリー先生にも御礼書かなきゃな。ちなみに先生はスキーが好きらしい。

でもよくメールを読みなおすと色々難しい。上の件(「パーソンを持つ」とは言わない)はそれでいいんだけど、1983年から”person”の定義を変えたんだな。

なんでこだわんなきゃならんのだろうか

「胎児は人格でないといっても、胎児は人格を持たないといっても、誤解される程度はたいして変わらないのではないか」という意味のコメントをもらった。

どうなんだろう。なんで私はこだわってるのかな。難しいな。たしかにトゥーリーなりシンガーなり読んだ人はわかるから、一度そこらへん読んだひとは「人格をもつ」だろうが「人格である」だろうが

言いたいことはわかるよな。マイケルの(なんちゃって。トゥーリー先生の)論文が「嬰児は人格をもつか」っていうタイトルで流通して生命倫理学者が皆平気で誰も文句つけなかった(?)のはそういうことなんだろう。

おそらく私が恐れているのは(何度もここで攻撃している)悪しき伝言ゲームが広がることなんだろう。決定的に問題だと思うのは、「である」と「もつ」をだいたい同じように使うような習慣がついてしまうと、「ひと」と「人格」が同じ意味なのがわかりにくくなってしまうことなんだと思う。

personは法的・道徳的な文脈で「ひと」っていう意味だ。「ひとに親切にしましょう」「ひとを殺してはいけません」「ひとを殺したものは~の刑に処す」という時に使われる意味での「ひと」。一方、「人格」はふつうの日本語では「あの人の人格は複雑だ」とかっていう使われかたをする。personalityやcharacter traits。このpersonとpersonalityのふたつは同じ日本語になってしまっているから、どうしても混同されやすいと思う。でもこれは歴史的な経緯があるからしょうがないが、無駄な誤解や混同はできるだけ避けたい。

「子供の人格を尊重する」とか「レイプは女性の人格に対する攻撃だ」「性=人格」とかってときに使われているときの「人格」はもはやどっちの意味かわからんほどぐしゃぐしゃになってる。これについては前に書いたな。読みにくい文章だ。反省。

まあとにかく「person」と「人格」と「ひと」は同じ意味のはずなのに、パーソン論の話をするときに「人格」という言葉を使うから、「胎児はまだ人格ではない」「胎児はまだ人格を持たない」はほとんど同じように見えている。でも「ひと」を使えば、「胎児はひとではない」「胎児はまだひとを持たない」になって、ぜんぜん違ってしまう。その結果、「人格」と「ひと」がもともと同じ言葉だってのがわかりにくくなってしまうだろう。

恐れているのは、伝言ゲームの結果、この混乱が広がってしまうことなんだろうと思う。「性=人格」のときのように無駄な議論をしなきゃならないようになる。実際に伝言ゲームの2列目にいると思われる小松先生ににはすでにその気があるし、その次の伝言ゲームではもっとひどいことになるだろう。やっぱりまちがった伝言ゲームは根元で抑えないと。権威とかそういうのは批判にさらされて生き残っているからこそ信用できる。去年私がここで学んだのはそういうことだったんだと思う。

は。でもこんな細かいことまあどうでもよいといえばどうでもよいような気もしてきた。別に日本の生命倫理学業界とかフェミズム業界とかブログ論壇とかほんとの論壇とか養老業界とかそういうのをアレしたいとかってわけでもないわけだし(いや、あるかな)。なんでどうでもよくないとか思うんだろう。これが卓越性のゲームってやつか。でもまあ微力でもなんかの(なんの?)力になりたいような感覚はあるよなあ。

Clarity and consistency in our moral thinking is likely, in the long run, to lead us to hold better views on ethical issues. (Peter Singer) から孫引き

これ好きだし信じてんだよな。and it will make the world betterとか。これはなんちゃってな話。

一年の反省

この日記の1年分を読みなおしてみる。
まあごちゃごちゃ書いてきたが、勉強になったところもあれば
ならなかったところもあり。全体にネガティブで傲慢でoffensiveだけど、
そんなに大きくまちがったことは書いてないしまちがっているところは恥をかいていると思うので、
もうちょっと続けてみるかな。

書き方が悪くて一部の人に不快を与えているかもしれないのは
いろいろ反省。また意図的に傲慢な書き方をしてみているわけだけど、
よっぽどのことがなければもうちょっと考えた表記にするべきかもしれない。

伊藤公雄先生の「卓越性のゲーム」については
もうちょっと考えるべきかもしれん。
あんまり勝ち目もないし。でもまあ、この「卓越性のゲーム」が意義を持つ分野もあるとは思う。「ゲーム」呼ばわりして知的に不誠実なことをするのはいかん。
J.S.ミル先生は「功名心」は非常に重要だと言ってる。

種々の芸術や知的な職業においては、それによって生計を経てようとすればある程度まで上達しなければならず、さらにその名を不朽にするような傑作を残そうとすればいっそう高い程度にまで上達しなければならない。たんに前者の程度まで上達することにたいしても、職業としてその仕事に従事するものの立場からすればそれ相当の動因があるが、後者の程度にまで上達することは、はげしい功名心をもつものか、あるいは一生のうちある時期にその心を起したものでなければ到達できないことである。たとい偉大な天分に恵まれていても、すでに最高の天才による見事な傑作が数多く残されている仕事において、自分もまたぬきんでようとするためには、長い期間耐えがたい苦行を重ねてゆかねばならないのであるが、その場合の刺激剤としては、ふつうこの功名心にまさるものはないのである。
(J.S.ミル『女性の解放』大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、pp.151-2)

まあミルが考えているような不朽のなんやらなんか私たちには関係がないが。
金銭的な報酬と別になんか「知的」(はずかしいなこれ)なことをするには、
功名心のようなものが必要だってことだと思う。この手のメディアでは「卓越性のゲーム」は必須で もあるし、学術界ではなおら必要なんじゃないだろうか*1
でもなんかもっとなんか実質的なことをやりたいものだ。

「あなたは自分の読者を馬鹿だと思ってもよいのですが*2
あなたが議論している哲学者やその見解を馬鹿げていると思ってはいけません。もし
彼らが馬鹿なら、わたしたちは見向きもしないからです。もし
あなたがその見解によいとこがなにもないと思うのなら、おそらくそれはあなたがその見解について考えたり議論した経験が十分になくて、その見解の提唱者たちがなぜそれに魅力を感じているかを十分に理解していないからかもしれません。彼らを動かしている動機をもっと考えてみましょう。」

You can assume that your reader is stupid (see above). But don’t treat the philosopher or the views you’re discussing as stupid. If they were stupid, we wouldn’t be looking at them. If you can’t see anything the view has going for it, maybe that’s because you don’t have much experience thinking and arguing about the view, and so you haven’t yet fully understood why the view’s proponents are attracted to it. Try harder to figure out what’s motivating them.

じっさいのところ、これまで取りあげてきた人々の著作や研究は やっぱり説得力と魅力があって、stupidだとはぜんぜん思ってない*3。stupidなのはむしろ私自身で、まあslow lernerの恥さらし。でも
それもなんか意味があるだろうという気はする。特に今年後半に
小松先生や森岡先生の見解をゆっくり読んでみたのはよい機会だった。
たしかになんかいいところがあるのだが、それが私はまだピンと来ないんだよな。

まあ読んでくれた人はありがとうございました。特にコメントしてくれた人には感謝。
来年もよろしく。

*1:でも政治の世界ではそういうのとは違うインセンティブがあるかもしれない。

*2:馬鹿だからわからんだろうと思えってことじゃなくて、読者にはとにかくわかりやすく書け、ということ

*3:いや、いくつかはまったくstupidなのもあったか・・・でもそういうのをとりあげたいのは、stupidを非難したいんじゃなくて裏の政治的な意味を非難したいんだよな。

「パーソン論」は保守的か

んで森岡正博先生粘着のつづき。

isbn:4326652616

・・・パーソン論は見かけ上のラディカルさに反して、その内実は保守主義であるという点に注意を払うべきである。・・・よく考えてみれば、パーソン論の主張とは、生命の平等というお題目にもかかわらず、われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない。 (p.110)

パーソン論とは、われわれの多くがこの社会で実行しているところの、生命に価値の高低をつける差別的な取り扱いを、あからさまに肯定する理論なのである。それは社会の現実というものを見据えた上で、さらにそれを乗り越えていこうとする思想ではない。それは、現実社会で行なわれている差別的な行為に、理論のお墨付きを与える、保守主義的な思想なのだ。(シンガーは、人間の生命の平等を振りかざすキリスト教倫理という保守主義に対抗するために、パーソン論を主張するのだが、人間の生命に関しては、シンガー自身がキリスト教以上に保守主義となっているという皮肉がある。・・・シンガーの主張なかで真にラディカルなのは、動物の解放の主張だけだ。・・・) (pp.110-1)

パーソン論というのは、われわれに課せられる規範なのではなく、われわれの多くが日々行なっている権力行使の事実描写をしたものにすぎないのである。そこにある中心的なメッセージは、「われわれがすでに行なっている差別的な生命の取り扱いを恥じる必要はない」「われわれはみずからの規範を変える必要はない」というものだ。(p.111)

保守主義ってのがなんであるかってのは難しいよな。保守・革新とか左翼・右翼とかっての区別が私(の世代?)にはよくわからんようになっている。私の頭のなかでは、なんとなく「左翼で弱者に優しい平等主義」のは保守で、自由と機会の平等なのは中道でかつ革新で、家族とか性役割とか重視してそれの復活を期待するのが右翼革新な感じがするのだが、これはぜんぜんまちがっているだろう。なんでこんなにねじれているかね。

まあとにかく森岡先生にもどると、先生の主張はかなりいろんなことを含んでいて非常に難しい。森岡先生にとっておそらく現状維持につながるのはぜんぶ「保守」なんだろう。

もうかなり面倒になってきているのでシンガーがパーソン論者かという議論はしないが(わたしはパーソン論者ではないと思う)、とりあえずシンガーが保守的な思想家といえるかってことだけ。

森岡先生は動物の解放だけをとりあげているが、『実践の倫理』は他にも、中絶の容認、人種や男女の差別是正のためのアファーマティブアクションの擁護、第三世界への積極的援助(10分の1税のようなものまで提唱している)、市民的不服従の積極的擁護(読み方によっては財産の破壊の許容まで含むかもしれない)まで行なっているし、『生と死の倫理』では新生児の安楽死や脳死以 前の患者からの臓器移植の可能性を含むような*1、伝統的な倫理的世界観の書き換えまで提唱しているわけだから、とてもふつうの意味では保守ではない。すくなくとも「ラディカルなのは動物の解放だけだ」は言えないと思う。超革新。森岡先生の「ラディカル」の意味は微妙だな。私にはシンガーほど(保守か革新か、左翼か右翼かは別にして)ラディカルな人はめったにみかけたことがない。むしろ極左。

でもまあ森岡先生の議論のポイントはそういうところにはないのはわかる。(夜の部につづく)

(続く、がアルコールがはいっている)私の読みでは、森岡先生にとっての本当の問題は、「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」の一文にある。

しかしこれも何重かの問題を含んでいる。

まず第一に、道徳とか倫理とか(区別があるのかどうかよくわからん)はともかくとして、哲学の議論では、相手(読者)がまったく受け入れてない

前提から出発しても意味がないっていうことに注意しておく必要がある。読者がまったく受けいれていない前提から出発するのは宗教なり思想なり好きな名前をつけてよいと思うが、それは伝統的な哲学ではないと思う。

たとえばキリスト教の三位一体の教義(父なる神と、子であるイエスと、私には理解できないぼんやりした特徴を持つ精霊は、同じ存在者の三つのペルソナである)を信じることは、哲学とはまったく関係がない。これを信じることがどういう含意をもつかってのは哲学の課題だけど、この三位一体の教義そのものはどういう哲学の結論でもない。哲学っていうのはとにかくわれわれの信じているなんらかの信念から出発しなければならないと思う。こういう「われわれが信じている信念から出発する」という意味で保守的でない哲学は、あんまり価値がないと思う。哲学っていうのは読者の手持ちの直観をつきつめた行方を教えてびっくりさせてくれるものだ。(ソクラテスが哲学者ナンバー1である理由はやっぱりあの「産婆術」にあるわけだからして)

で、シンガーの議論はどうか。あれ、面倒になってきた。

うーん、まあ、とりあえず、どんな哲学的主張もそれが漸進的であろうとするならば、とりあえずなにか我々が現にもっている信念の一部から出発する必要がある。もちろんわれわれがまったく信じていない数々の事柄から出発することも可能ではあるかもしれないが、哲学としての価値はなかろう。空飛ぶスパゲティ・モンスターとか。

まあなんだかおかしな話になってきたけど、「我々が現に信じている信念から出発する」というだけでは、保守だの革新だのということはできない。

それでは、シンガーたちの議論は「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」のか。

これも多くの問題がある。シンガーたちの議論が、われわれの信念を単に「記述」したものかといえば、まったくそんなことはない。われわれの多くは脳死の人も新生児も胎児も胚も「人間」だと思っているし、その生命にはなんらかの価値があると思っていて、それは豚さんや牛さんとはぜんぜん違うと思っている。でもそういう信念は整合的ではないかもしれないとシンガーは主張しているわけだから、単なるわれわれの信念の記述ではないし、「ありのままに描写」しているわけではない。

でもこれでも森岡先生が本当に言いたいことをつかんでいるわけではないんだろう。

シンガーたちの議論はわれわれの道徳意識のようなものを「ありのままに描写」しているのではなく、「われわれの道徳意識の核心を整合的な形にして構成しなおし、それを受け入れることをせまっている」んだと思う。森岡先生はこれを「保守的」と呼んでいるんだろうか。

もしこう解釈することを許されるのなら、森岡先生の主張は実は妥当なものになる。シンガーはわれわれのふつうの道徳的意識から出発して、その論理的帰結を提示しているにすぎないのだから。でもこの場合「保守派」かどうかはまったく本論と関係がない。森岡先生が本当に問いたいのは、 「我々の(奥底の)徳意識の核にあるものは健全*2かどうか」で、保守か革新かラディカルかなんてどうでもいい話だ。もちろん、それが健全であれば保守だろうが革新だろうが左翼だろうが健全で、それが健全でなければ保守であろうが左翼であろうがダメだ。こういう観点からすると、「保守」かどうかをもちだす文章はプロパガンダのように見えてしまう。(もちろん森岡先生はそのつもりではないはずだが、少なくとも私のように「保守」っていうのがなんであるかがわからなくなっている人間には「~は保守だ」はなんのインパクトもない1)ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。
。)

というところで、冒頭の森岡先生の引用に戻れば、最初の引用の「ありのままに描写した」は言いすぎに見える。三番目の引用もだめだし、シンガーはわれわれのふつうの道徳的直観や倫理観を変える必要があると考えているのははっきりしているのだから、「恥じる必要はない」「規範を変える必要はない」はまったく誤りだと思う。(「恥じる」必要は微妙。私自身は場合によっては我々は恥じるに値する道徳観をもっていると思う。)二番目の引用はもちょっと分析が必要。

二番目の引用を分析するには、(森岡先生の意味での)「思想」と(私が考える)「哲学」の区別が必要に見える。森岡先生の意味での「思想」が、一般によく使われる「イデオロギー」とどう違うのかがポイントになりそうだ。(このまま寝てしまった。上の文章ねじれていてよくないが、もう手のつけようがない。)

二番目の引用の文章はかなり微妙でどう扱えばよいのかわからん。「生命に価値の高低をつける差別的な取り扱い」ってので森岡先生がどういうことを考えているのがはっきりさせるために、一番最初の引用と二番目の間の文章を引用しておく。

われわれは痴呆性老人を身内に抱えたときに、本人の意見を聞かずに彼らを施設に追いやって、十分なケアを与えず、価値の低い生命として扱うことがあるではないか。あるいは、妊娠した女性が出産を望まないとき、われわれは、胎児のことよりも、〈ひと〉である女性のほうを優先して考えがちではないか。胎児に重篤な障害があるとわかったとき、われわれは自分たちの生活のほうを優先して、選択的な中絶をするではないか。(p.110)

これが「差別的」なのかどうか、「生命に価値の高低」つける扱いなのかどうか。最初にあげられている例がこの文脈でとりあげられるのは特に違和感がある。あたかも「擁護施設に痴呆老人を預ける人びとは、老人に生きる価値がないと考え、施設に老人を無理矢理閉じこめているのだ」と思わされてしまう(もちろんそういうつもりではないと思うが)。十分なケアを与えられない擁護施設は非常に困りものだ。二番目の例はその通りだし、私自身はそうあるべきだと思う。三番目の例は、選択的中絶を選択する人びとがかならずしも「自分たちの生活のほうを優先して」いるかどうか。これらのひとたちが一般に「生命の価値が低い」からそうしているのかどうかはよくわからん。まあもちろん、「そういう人たちもいる」ということなのだろう。でもまあ「生命の質」を考慮することは私にはどうしても必要に思える。

うーん、やっぱりこれ難しいな。まあひとつ言えるのは、もし仮に、そういう現実の実践(中絶や選択的中絶)を、いわゆる「パーソン論」が「追認」する形になっているとしても(なってないと思うけど)、だからといって「パーソン論」が追認するためのイデオロギーだとは言えないってことだろう。

もっともわたし自身は「イデオロギー」って言葉がどういう意味なのか実はよくわからんのだが(大庭先生や小松先生も生命倫理学の主流派の考え方はイデオロギーだ、のような形で使っている)。なんらかの主張が歴史的・社会的に制約されているってだけでは、それがダメだってことにはならんからして。その意味では、「人権」や「(人間の)生命の平等」「民主主義」のような考え方も歴史的・社会的に制約されているのだから。もちろんどんな主義主張も、常に批判されてしかるべきなのは当然。

あ、だめだこりゃ。だめだめ。どんどんねじれてきた。まあとにかく「シンガーは保守」ってのはふつうの意味では言えないし、もし別の意味で「保守主義」って言えるとしても、それじゃ批判になってない、ってことぐらいであとで考えることにしょう。

*1:ちょっと不正確

*2:「健全」という言葉が正確かどうかはまだわからん。

 

References   [ + ]

1. ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。

森岡先生のパーソン論理解

だらだら。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)

この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。

パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)

20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。

もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。

(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)

昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。

うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。

でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。

うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。

「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。

もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、

(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。

ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。

ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。

 

ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。

このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)

うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)

でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う 1)ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)

References   [ + ]

1. ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。

トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

 

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

 

「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典』*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(3)

ISBN:4569626157

あとシンガーの議論やろうかと思ってたけど、根気がつづかん。一箇所だけ。

脳の機能が不可逆に停止した人間に関して倫理的に関連のある最も重要な特徴は、その人間が人間という種の一員であるということではなく、その人間には意識を回復する見込みがまったくないということだ・・・意識がなければ、生存しつづけたとしても、それが本人の利益になることはない。・・・これとまったく同じことが 遷延性植物状態の患者にもあてはまる(シンガー[一九九八]、255-25頁*1

人間の生死の決定を利益なるものの有無ではかるとは、なんとも世知辛くやるせないことではないか。なんたる傲慢で想像力を放棄した行為だろうか。(p. 217)

「利益」を金銭的な利益のようなものとしてとらえてはならん。原文は “Without consciousness, continued life cannot benefit them.” でも書いたが、 当人がまったくなにも感じない場合に、なにかそのひとにとって「よいこと」があるのか、という問いだし、傲慢でも想像力*2を放棄したものでもないと思う。

ちなみに、この引用文のすぐあとでシンガーは次のように言っている。

だからといって、不可逆に意識を失った患者の生命を終わらせる決定が簡単であるとか、機械的におこなわれるということにはならない。考慮すべき患者の感情は微妙であり、また大切でもある。患者が新生児や幼児であったり、意識の喪失が突然であったりした場合にはとくにそうである。 (シンガー、p.256)

シンガーを読んだことのあるひとはわかると思うが、シンガーは特に傲慢でも想像力が欠けるひとでもない。むしろふつうの人よりはるかに左翼的・平等主義的な実践的関心にあふれていて圧倒される。

 

根気が続かないのであとメモだけ。

  • 全体を通して大きく依拠しているシューモン(Alan Shewmon)の研究、シューモン自身はどうも(脳死)臓器移植反対派ではないようだ。どういう立場なのか紹介してもらえたらよかったのではないか。
  • 「有機的統合の不可逆的喪失」説の批判はポイントをついておりたいへんよいと思う。ただし、この概念がだめだってことは当時からいろんな人によって指摘されていたと思う。
  • 和田移植以来の日本の移植医療の問題点はよく調べてあって勉強になる。
  • 最後の方で脳死患者が19年生きつづけているという話が紹介されているが (高間智生*3、「『脳死』で16年間生き続ける少年」、『ザ・リバティ』(幸福の科学出版)、1999年10月号)、ほんとうに脳死なんだろうか。これはたしかなニュースソースなのだろうか*4。 まえに書いた遷延性植物状態の患者が看護師に返事をしたとかってのと同じように、あんまり信用ならないデータを大事なところで使われるのは非常に困るのではないか。小松先生が出してくるいくつかの珍しい事例について、医学界はどういう反応をしているのか知りたい。もし医学界や報道が意図的に無視しているのだとすればそれは大問題だよなあ。
  • 小松先生がはっきりさせてくれないのは、シンガーやのような人びとも、自分自身の道徳心のようなものと理論的な整合性の要求の間で悩んでいることだろう。彼らは生と死についてとにかく首尾一貫した考え方をしたいってことで、いろいろとまじめに考えている。もし「ホモサピエンスはとにかくどんな状態でも生き続ける権利がある」を本気で主張すれば、もし首尾一貫しようとすればいろいろ理論的に不都合なことが起きるし、あるいは首尾一貫しない不整合な感情論・直観的判断におちいってしまうのだが、そこらへんどの程度本気で考えているのかわからん。
  • たとえば中絶や避妊とかに対してどういう考え方をとるのだろう?
  • あるいは末期患者の治療停止について。どうにも治療効果がなく、意識もない患者も、何度も蘇生させるべきだろうか?(現在の医療では、無理矢理生かしつづけることはほとんど無制限にできるのではないか。)

というわけで、http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061214 で書いた大庭先生の「(生命倫理学が)どのように作られたものかをもう一度考えなおせ」については、あんまり得るところがなかった。もちろんそれは 私に心の目や想像力が欠けているからだろう*5。反省しよう。


*1:ピーター・シンガー『生と死の倫理』、昭和堂、1998。この手の話に興味があるひとは、小松先生の紹介を読むだけでなく自分で一回読んでみて考えてみるべきだと思う。それをしないで小松先生の議論は説得力があるからシンガーは読む必要がないと思いこむひとは、小松先生が批判するマインドコントロールにはまっているのと変わりがないと思う。

*2:だいたい、自分と違う意見の人は想像力がないとか本当のことを見る目がないと主張するのはどうなんだ。時々そういうひとっているのだがよくわからん。他の分野でも見かける。

*3:このお名前ではgoogleでは1件もひっかからない。

*4:いや別に幸福の科学の雑誌だからどうってわけじゃなくて・・・

*5:もし万が一そうでなければ、ある哲学者がある応用倫理学批判の本の書評(http://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/igiari.html)で触れているように、この著者も「読者に思わず反論したい気をおこさせ、いわば読者を論争のまっただ中に導く」ことによって、心の目をひらき想像力を羽ばたかせ、批判的精神を発揮させようとしているのだろう

 

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(2)

 

続き。

いわゆる「パーソン論」

前からいわゆる「パーソン論」の解釈は非常に気になっているのだが、よい入門・解説書がないんだよな(あとで調査する)。

とりあえず小松美彦先生の文章を読みながら落ちいりやすい読み間違いを確認しよう。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。一八世紀に活躍したイギリスの思想家ジョン・ロックなどの伝統的な人格論に基づいていると考えられている。 一九七〇年代にアメリカの生命倫理学者マイケル・トゥーリー*1が 提唱し、八〇年代以降のアメリカやオーストラリア*2で第一線の生命倫理学者たちによって磨き上げられてきた。(p.149)

最初の「一言でいうなら」の一文はちょっと乱暴かな。まあしょうがないのかしょうがなくないのかは最後に結論出すことにしよう。

まず、人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる、とパーソン論は捉える。人間を一生物種のヒトたらしめる生命と自己意識や理性を備えた人格者(パーソン)らしめる生命である。この理念的な区別を現実に当てはめてみると、人間世界には生物的生命と人格的生命の両者を兼ね備えている者もいれば、生物的生命しか有していない者もいることになる。他方、パーソン論は、ある人間が生物学的なヒトであること、その者が「生きる権利」をもった人間であることは必ずしも一致しないとする。つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

 

まず注意しなきゃならんのは、「パーソン論」なんてものは存在しないってことだよな。世の中に存在しているのは、あくまでマイケル・トゥーリーの議論やエンゲルハートの議論。

この「パーソン論」って言葉はおそらく森岡正博先生が 発明して、加藤尚武先生が広めたんじゃないかと思うけど*3、非常にミスリーディングだったんじゃないかと思う。まあしょうがなかったのかもしれん。これもあとで考えよう。

とりあえず「~と捉える」のはトゥーリー先生やH.T.エンゲルハート先生で、彼らが実際になにを主張しているのかしっかりとらえないとならん。ふつうは「トゥーリーは」と書いてほしいところ。トゥーリーの”Abortion and Infanticide”という悪名高い論文は、 『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』に(抄訳だが*4)森岡先生の訳で収録されている。ここからは、いちおう、小松先生はトゥーリーの議論を考えていると想定することにする。(別の論者ならそれを考えなきゃならん)

で、トゥーリーが「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」と捉えているかというとこれはミスリーディングなだけではなく、誤解だろう。

日本語で「ひとを殺すことは不正だ」「ひとを殺してはいけない」というようなときの「ひと」にあたる英語は”person” とか “humann being”が使われる。”It is wrong to kill a person.”とか”It is wrong to kill human beings.”とか使われる(んだと思う)。

おそらく”person”の方が日本語の上の「ひと」に近いだろう。でもまあ、日本語では、「無実のひとを殺すのは不正だ」「無実の人間を殺すのは不正だ」の間に違いがあると思う人はほとんどいないだろう。英語でも、personとhuman beingはふつうに交換可能に使われているはず。

でもまあ、トゥーリーの論文が書かれた1972年のころに激しく議論されていが妊娠中絶とかを考えると、personとhuman beingを同じ意味に使うのはまずいかもしれないってことにトゥーリー先生は気づいた。

ってのは、「胎児はいつから人間human beingですか?」という問いに対して答えようとするのは、難しいというより(もっと分析しないと)ほとんど意味がないからだ。生物学的に見れば、胚から胎児を経て新生児になるまでは

連続していて、どれもホモ・サピエンスの一匹(の子供)という意味では線なんか引けない。「受精卵」と「初期胚」と「後期胚」と「胎児」は連続している。だから上の「胎児はいつから人間ですか」が「胎児はいつからホモサピエンスの個体ですか」という意味の問いであれば、「おそらく胚の時点から」とか答えることになる。(ここ、実は「個体」の定義が難しいんだけど面倒なので書けない)

しかし、「胎児はいつから人間なんだろう?」という問いにはもうひとつの(おそらくもっと重要な)意味があって、それは「ひとはみんな生きる権利を持っている。だからひとは殺しちゃいけない。そして胎児はいつから(その殺してはいけない)ひとになるのだろう?」という意味での「ひと」の意味がある。この問いで使われている「ひと」はたんに「ホモ・サピエンスの一員」という意味ではない。

なぜかといえば、先の「胎児はいつから人間ですか?」という問いは、「(ホモサピエンスの個体はみんな生きる権利を持っている。だからホモサピエンスの個体は殺しちゃいけない。そして)胎児はいつからホモサピエンスの個体になるのだろう。」という問いではないように見えるから。ホモサピエンスの個体という意味でなら、さっき書いたようにずっとホモサピエンスの個体で、あんまり疑問の余地はない。

だから、「胎児はいつから人間なのか」っていう我々が日常的に考える(実 は曖昧な)問いは*5、実は、「胎児は(いつから)生きる権利を持つのか」というもっと正確な問いで問いなおすべきだ、ってのがトゥーリー先生の第一のポイント。すばらしい。ここらへんの分析の鋭さがトゥーリー先生の論文が皆に読まれ影響力をもったゆえん。答えなきゃならない難しい問いは、哲学的に反省してより明晰な問いに直さなきゃならん。そうすれば答えに少しは近づく。(もちろん、そこでいろんなものが削り落されることになってしまうのは意識しておかなきゃならん。)

さて、いったんこうして切り分ければ、曖昧な言葉づかいをしているのはテツガク的にあんまりうまくない。曖昧な言葉は曖昧な思考をまねくし、論理的な混同を犯しやすい。そこでトゥーリー先生は、生物学的な意味での人間を a member of homo sapiens とか呼んで、「生きる権利をもっている存在」を personと呼ぶことにしよう、と提案するわけだ。

「人格」personということばはどのように解釈されるべきであろうか。私は人格の概念を、すべての記述的内容を離れた純粋に道徳的な概念として扱うことにする。特に、私の用語法では、「Xは人格である」X is a personという文は、「Xは生存する(重大な)道徳的権利を持っている」 X has a (serious) moral right to lifeという文と同じ意味を持つsynonymousことになるであろう。(トゥーリー、p.97)

これは単なる用語法についての(勝手な)取り決めにすぎない。論文を読んでいてこういう宣言があったら、読者はいつも「person 人格」をそういう意味で理解しなければならん。もちろん、学術論文で勝手にそういう定義を採用するのはぜんぜん問題がない。

国内の議論の問題は、このpersonに「人格」という訳語を当てた(これはしょうがない)ので、「人格」に勝手にいろなものを読みこんでしまう傾向があることに思える。(だから森岡先生あたりが「人格論」ではなく「パーソン論」と呼ぶのは、まあ意味があったとは思う。術語なのだ。)

ぜいぜい。面倒。

上の小松先生の文章に戻る。「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」はまったく誤解。別にそんな奇妙な二つの「生命」を持っているわけではない。

もう一回確認すると、トゥーリーは第一歩として、「胎児はいつから人間ですか」という問いは、「胎児はいつから生存する権利を持つ存在になりますか」「胎児はいつから生存する権利をもちますか」という問いで問いなおすべきなのだというポイントを指摘しているにすぎない。

さて、トゥーリーの議論はこっからが難しい(それに問題も多い)。「胎児はいつから生存する権利をもちますか」に答えるためには、「権利をもつ」ってことがどういうことかわからなきゃならん。

こういう言葉の分析が、当時はやっていた言語分析とかそういう流れで重要だったんよね。まあ「問いをはっきりしなければ答は出ない」ってのはいまだに正しい方針だと思う。だいたいの「難問」は問い自体がなにを問うているのかよくわからんわけだし。正しい問いを問うことができるようになる、ってのが哲学の最大の目標なんだと思う。

まあ実際日本語では「~する/に対する権利がある/を持つ」と表現するわけだが、権利って概念もよくわからず使ってしまうのがふつうだと思う。テツガクやっている人間もたいていよくわかってない。私はまったくわからない。

トゥーリー先生は「権利」をかなり独特の意味で使う。(どう独特なのか書いてるとロンブンになってしまうので極端に簡略化するけど、それでも面倒。)

トゥーリーによれば、そもそも「なにかについて権利をもつ」ってことは、 本人が望まなければ(欲求しなければ)それを放棄できるってことでもある*6。こういう形で「~について権利をもつ」ことと「~について欲求をもつ」ことのあいだには密接な関係がある。

たとえば、子猫は暖かい場所で寝たいとか、踏まれたくなないという欲求をもつ(踏まれたらやだ)ことができるので、「猫はこたつで寝る権利がある」とか「かんぶくろにいれて踏まれない権利がある」ということは有意味だけど、まったくなにも欲求をもたない存在(新聞紙とかチョークとか)は、「権利を持つ」ということが言いにくい。

ここで理解しにくいので注意しておく必要があるのは、「権利が決めるかどうか」をどうやって決めるのかっていう問題と、たとえば「猫は~の権利を持つ」という発言が意味を持つかどうかってのは別の問題だってことなんだが、もう眠いのでまた明日。

一寝してもうちょっと。

「誰がどんな(道徳的)権利を持つのか」ってことをどうやって決めるかって問題はもちろん非常に難しい。ある種の人々はそれは単なる社会の取り決めだと考えるし、ある種の人はそれを神によって定められていると考えるかもしれないし、他にも理性によって要求されるとか、もっと基本的な功利の原理から派生する二次原理だとか、いろんな考えかたがある。しかしトゥーリーのポイントは、こういう「どうやって決めるか」には関係がない。むしろ、「権利をもつ」という言葉の意味に何が含まれているのかという分析。

トゥーリーの提案は、

「AはXに対する権利を持っている」という文は、「もしAがXを欲求しているならば、他人はAがXをするのを妨げるような行動を慎むという当面の義務を負っている」という文とほぼ同じ意味をもつ。 (トゥーリー、p.102)

て感じになる。慣れてないひとは「当面の義務 prima facie duty」がわかりにくいと思うが、「当面の」は「他になんか重大な理由がなかったら」ぐらいの意味のとってよいと思う。

「私は幸福を追求する(道徳上の)権利をもっている」という文は、だいたい「もし私が幸せを追求しようとしているなら、(特に理由がなければ)他のひとは私が幸せを追求するのを邪魔するべきではない」ということを意味すると分析できるってわけだ。

(なんども書くけど、この分析が正しいのかどうかはかなり微妙なライン。たとえば、「子供は教育を受ける権利がある」という文や発言が、本当に「もし子供が教育を受けたいと願うなら、他のひとはその子供が教育を受けるのを邪魔するべきではない」程度のことしか意味していないのかというのはもっと議論が必要。私の理解では、この文は「(子供が教育を受けたいと願うかどうかとは別にして、)他の人々はその子供が教育が受けられるようにちゃんと手配する義務がある」というはるかに強い内容をもっているように思われる。「生存する権利」もふつうはこっちの意味のはず。まあでも、トゥーリーの「権利」の分析は「権利」の一つの意味では有力かもしれない。)

トゥーリーの議論の最後のステップは、このたんなる「権利をもつ」の分析から、「生存権(生きる権利)」を持つに進むところ。

「~について権利をもつ」ためには、少なくとも「~に対して欲求をもつことができる」が必要。それでは、「生存する権利をもつ」ためには、「生存することについて欲求をもつことができる」が必要だということになりそうだ。

ところが、「生存することを欲求する」ってのはかなり多くの条件を必要とする。

子猫も「痛めつけられないことを欲求する」「暖かいところで寝ることを欲求する」ことがおそらくできる。だからなんらかの権利の決定の手順によって、「子猫は痛めつけられない権利を持つ」ということが言えるかもしれない。

しかし、自分が「生存する」ことを欲求するためには、「自分」が時間を通じて生きていること、そもそも「自分」が存在していることを意識していなければならんとトゥーリーは考える。

ある存在者が、諸経験とその他の心的状態の主体という概念を持っていなければ、その存在者はそのような主体が存在してほしいと欲求することなどできない。さらに、ある存在者は、現在自分自身が諸経験とその他の心的状態の主体であると信じていなければ、自分自身がそのような主体として存在し続けることを欲求することはできない。(トゥーリー、p. 104)

ここもわかりにくいと思う。ショーペンハウエルやシュバイツァーのような人々はどんな生物でも「生きようとする意志」とかを持ってるとかそういうふうに考えてたわけだし。

でもまあ、われわれが「自分が自分であること」「他人と違うこと」「5年前、1年前、1年後、10年後もおなじ私であること」を意識するってのは、ずいぶん成長してからのことはふつうのひとでもぼんやりとわかるんではないだろうか。そういう「自己意識」持っているのが人間(や他の大型類人猿とか)の特徴で、他の動物や植物と質的に違うポイントだと主張されることがある。この自己意識がないと、少なくとも「自分が生き続けたい」と望むことは難しそうだ。

というわけで、トゥーリーのとりあえずの分析のたどりつく先は、「もし「ある存在者が生存する権利をもつ」ということが言えるならば、「その存在者は生存しつづけたいという欲求を持つことができる」が言えなきゃならん。そしてそのためには自己意識をもっているはずだ。」

もう一回注意しておくと、これは「自己意識をもっていれば生存権をもつ」という主張ではない。「もしあなたが(私が)「~は生存権をもつ」と言おうとするなら、「~は自己意識をもっている」ことを認めなければならない」ぐらい。

はあはあ。

でも、自己意識もってない動物やひとはいる。「自己意識をもつ」は「生存権をもつ」の必要条件なので、そういう存在者は生存権をもつとは言えない。

A ⊃ B。 でも ¬B。 しかるに、¬B ⊃ ¬A。よって¬A、という議論。

あーあ。だめだめ。時間の無駄。やっぱりふつうの人にはわかりにくいよな。これどうやって説明すりゃいいのかってのはほんとうに難しい。

もう一回あらっぽくまとめると、

(1) ある存在者が「権利をもつ」ならば、「それに対応する欲求をもつ」ことが言えるはず。

したがって、(2) ある存在者が「生存しつづける権利をもつ」ためには「生存しつづける欲求をもつ」が言えるはず。

しかし、(3)「生存しつづける欲求」をもつためには、(少なくとも)自己意識をもつことが必要。

したがって、(4) 自己意識をもたない存在者は、生存しつづける欲求をもつということはできない。

(5) したがって、自己意識をもたない存在者は、(この意味では)生存権(生存しつづける権利)をもつとは言えない。

だから、胎児とかは生存権をもっているとはいえず、妊娠中絶は正当化されるかもしれない。すくなくとも「生存権」があるから妊娠中絶は正当化できないと考える必要はない。ついでに新生児の安楽死とかも正当化されてしまう(!)。いっぽうで、子猫が(なんらかの「権利」の決定方法によれば)「無駄に苦しめられない権利」を持っていると主張することはできるかもしれないし、もちろん新生児が「無駄に苦しまない権利」をもっているとは言えそうだ、ということになる。まあこういう結論が邪悪なテツガクに見えてもしょうがない。

まあ、この議論の(1)と(3)はかなり問題を含んでいるし、この手の問題を考える場合に「生存権」がそれほど重要かどうか、あるいは実践的な議論にとって枠組として有用なのかどうかは問題だと思うが、とりあえずこれが「パーソン論」だってのをちゃんと理解したいところ。重要なので何回も書くけど、これは「権利をもつ」についての言葉の分析の結果の分析にすぎず(あやしげかもしれないけど)、「権利」の範囲をどうやって決めるのかという実質的な問題を扱っているわけではない


小松先生の解釈

で、小松美彦先生の文章に戻る。

つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

最初の方でも書いたが、「人格的生命を有している」は不正確な表現。

そしていつも気になるのは、この「認められる」なんだよな。こういう文章を書くひとは、トゥーリーが「人格だけに生存権を認めることにしようぜ」と主張していると誤解してしまっているのではないかと推測される。

一方、「生存権は人格にのみ認められる」のならば正確な表現だが、これはトゥーリーの恣意的な定義なので、別に批判の対象になることがらではない。

その証拠がすぐに出てくる。

したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死者や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格をもつ者ではない。 そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はない。(p. 150、強調kallikles)

この「人格をもつ」という表現(そして最初の引用であげた「人格者」という用語)が、小松先生の「パーソン論」理解をうたがわせる。 「人格」は持ったり持たなかったりするものではない*7。「人格かそうでないか」つまり「生存権をもつ存在者かそうでないか」なのよ。

まあこれは「人格」って言葉が専門の論文用の術語なのにもかかわらず、われわれがよく慣れしたしんでいる言葉でもある(とくに「性格」や「アイデンティティ」に近しい意味で)ことに原因があるわけだが。むずかしい。

もうちょっとだけ補足。

たしかにパーソン論は、それなりの論理を備え、概念用語を駆使してはいるものの、私たちにありがちな例の考え方”まともに感じ考えられなくなったら人間はオシマイだ”と、本質的に変わらないのではないか。パーソン論とは、”ありがちな考え方”を学問的に根拠づけたものに他ならないだろう。(pp.150-1)

トゥーリーの議論がどの程度「それなりの論理を備え」ているかは微妙(私はうまくいってないと思う)だが、この小松先生の指摘は(書き方は悪いが)大事なところで、小松先生もあとで議論するピーター・シンガーなんかも指摘するところ。たしかに、私自身は「まったくなにも感じ考えられられなくなった私はオシマイだ」と思う(ただし「まともに」感じられなくてもオシマイだとは思わないと思う)。

もちろん、そうでないと考える人びとがいることも理解できるのだが、そういうひとが、まったく自分が何もまったく感じない場合に、自分の(他人のではなく)生命が、自分にとって価値があるとするときに何を判断の基準にしているか非常に理解しにくいとは思う。これを主張できるのは、私生命の価値が私にとって価値があるのは、私が感じるなにかのためではない、私が感じるなにかとは独立の価値があると主張できるときだけになる。

もちろん、他の(感覚のない)人の生命が私にとって価値があることは多いだろうし、私の感覚のない生命が他の感覚のある人にとって、価値があることはあるかもしれない。でも感覚のない私にとって感覚のない私の生命が価値があるかどうかはわからん。

誰かの主観的経験(つまりなんらかの「感じ」)にまったく依存しない客観的な価値ってのがあるのかどうか。これが言えるかどうか。哲学・倫理学の大問題だが、これにイエスと答えるのはかなり難しいと思う(必ずしも不可能ではないと主張する人びともいる)。

(続く)


 

(ところで、もしこのエントリ読んで大学の期末レポート書こうとするひとがいたら、(1)自分でもちゃんと調べてください。(2)出典にこのブログのURLを書いてください。「kallkles, 「kalliklesの日記」、2006年12月15日、ttp://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061215 」、とかでいいんじゃないかな。”kallikles”とか変な名前を書くのがいやなひとは
メールくれれば教えます。)

*1:トゥーリー先生を「生命倫理学者」と呼ぶのはあんまりよくない。生命倫理では他にたいした業績はない。むしろ因果関係とかが専門のはず。「哲学者」「分析哲学者」ぐらいがよさそう。

*2:イギリスも

*3:間違い。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061218 のコメントによれば、飯田亘之先生の論文が初出ではないかという情報。

*4:たいていのセイメイリンリガクシャはこれが抄訳であることさえ気づいていないのではないかと思わされることがある。原文はたいていの生命倫理学のアンソロジーで手にはいる。いま私の手にあるのはP. Singer (ed.) Applied Ethics, Oxford University Press, 1986. 原論文はPhilosophy & Public Affairs, Vol. 2, 1972. 印税もらってたらとんでもない額になってるよなあ。

*5:どうでもよいことだが、私は高校生のころに生物が好きで特に発生のあたりが好きだったのだが、ある日「んじゃいつから人間なのかな」とか考えて泥沼にはまったことがある。結論は「こりゃ生物学じゃなくて哲学だよな」ってことでテツガク勉強したいと思った。その選択はまちがってたんだけど。

*6:この点は強い異論がありえる

*7:この主張は怪しいかもしれません。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061217 参照。わたしがまちがっていたらごめんなさい。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(1)

ISBN:4569626157

前回書いた『情況』の大庭健先生は、次のようにおっしゃっている。

だからすでに生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人は、せめて(小松美彦先生の)『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)程度だけでいいから、小松さんの仕事をきちんと読んで、自分の乗っている土俵がどのように作られたものなのかをもう一回考えなおしてくれないかということは少し言っておこうという気になっています。

私は生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人ではないのだが、せっかく大庭先生のおっしゃることなのでちょっとずつ読んでみよう。

いろいろ気になるところだらけなんだけど、ちょっとづつ。

植物状態を扱っている第5章。

医師の堀江武先生の見解として

「植物状態患者には記憶機構も感覚系も作動状態にあり「意識」はあるが、表現手段のための運動系に障害がありコミュニケーションが不可能である」(小松 p.194)

ってのを紹介している。んで、「正真正銘の遷延性植物状態の患者」が看護婦の問い掛けにまばたきの回数で応答しているという報告が紹介されている(p.194)。

これどうなんだろ。植物状態というのは、厳密じゃないけど、「生きてはいるけど意識がない状態」ぐらいだと思っていた、もちろんもっと厳密にする必要がある。小松先生も神野哲夫先生の論文からこの定義を紹介している。「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」(p.185)。OK。妥当な定義に見える。

しかし小松先生は、遷延性植物状態の「定義」を『南山堂医学大辞典』からひっぱってくる。それによれば、(1)自力で移動できない、(2)自力で食物を摂取できない(3)糞尿失禁をみる(後略)とかってのになってる。しかしこれは判断(診断)基準であって「定義」じゃないだろう。

こういう「定義」と「判断基準」の区別の話はハーバードの脳死基準のときから口をすっぱくして語られているのに、なんで小松先生はその区別を無視してしまうのだろうか。わからん。

まあとにかく、植物状態はふつうは定義からしてawarenessがないのだから、問い掛けに応えるならそれは植物状態ではない。これは定義の問題。

んで、問題の堀江武先生の研究だが、この研究はちゃんとしたものなのかどうか確かめる必要がある。巻末の文献リストによれば、これは堀江武、1997、「外傷性植物患者との12年–シグナルからサインへ」、『第6回意識障害の治療研究会要項集』、19頁。あら、学術誌じゃない。この研究会はあんまりgoogleにもひっかからん。どうやって入手するんだろう。まあ国会図書館行けばありそうだが。CiNiiでも堀江先生はあんまりひっからん。どうも最近は日本語では書いて
いらっしゃらないようだ。

googleでひっかかった千葉療護センターのページは重要だな。 。http://chiba-ryougo.jp/ronbun.html 。病院全体として植物状態(意識障害)の患者さんの看護を研究しているようだ。

しかしこのレベルの研究会要綱や雑誌論文は、医学系では学術論文とは認めにくいのではないだろうか。確認してないけど査読とかもはいっていないんじゃないかと思うし。もし事実ならたしかに大発見だが、その後どうなってるんだろうか。それを小松先生のように医学的な新しい知見として紹介してしまうのはどうなんだろうか。やっぱりわれわれが医学とかの論文をとりあえず事実についての知識として信用するのは査読や検証や追試、引用などのシステムがしっかりしているからであるからして。哲学のロンブンとは格が違う(っていうか違っていてほしい)。とくに専門外の人間が医学についてなんか語るときはやっぱりちゃんとした研究を参照したいところだ。

意識、覚醒、認知機能

順番がひっくりかえるが、第5章(1)「植物状態の患者に意識はないのか」のところも気になる。

まあ植物状態で失なわれている「意識」ってのが哲学的にも医学的にも面倒なのはその通り。「意識とは、自己と周囲の状況とを認識している状態」(p.181)ぐらいでしょうがないかもしれない。でもこれこんどは「認識」を定義しないとならんからたいへん。

でも小松先生は次のように話をすすめる。

臨床医学には意識に関する最低限の規定がある。意識は「覚醒」arousalと「認知機能」cognitive function(「意識内容」contentとも呼ぶ) との二つの要素からなる、という規定である。したがって、臨床的に意識がないとされるのは、あくまでも覚醒と認知機能(意識内容)との双方が消失した状態を指す。ここで覚醒とは、外界に対して注意が向けられて刺激を受容し、反応が可能な状態にあることをいう。他方、認知機能(意識内容)とは、外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力である。(p.183、強調kallikles)

まずこの理解の出典がわからん。まあ一般的なのかな。

次に気になるのは、覚醒の方の「外界に対して注意が向けられて」の一節。「注意を向ける」(志向性)ってのは、ふつうのなかなか高度な心的機能なんじゃないかと思う。たとえばゾウリムシも刺激に反応するわけだが、ゾウリムシが外界に注意を向けているかはなかなかむずかしい。まあ定義しだいかもしれんが。

んで、このあとに、

そして、これらの機能を仮に脳の各部位に還元させるなら、覚醒は主として脳幹に、認知機能(意識内容)は大脳皮質に対応しているといわれる。(同上)

と小松先生はいう。これどうなんだろう。誰の見解かわからんので調べようがない。少なくとも大脳皮質も「注意を向けて刺激に反応」する機能を果たしているんじゃないだろうか。

そして、小松先生の意味での「覚醒」がどの程度重要かってのが問題だよな。

んで本論。ピーター・シンガーのような論者は、「(大脳)皮質への血流がなければ、意識内容が不可逆に失われている、と確信できるのである」と言うわけだが、小松先生は上のような議論から、

そもそもシンガーのこの認識は、右で確認した意識障害をめぐる世界的な知見を踏まえていない。なぜなら、皮質死状態の者は、皮質の血流が途絶えていても脳幹が機能している以上、たとえ認知機能が失われているとしても、意識のもう一方の要素の覚醒があるからだ。(p.183)

とするわけだ。この議論はどうなんだろう。

そもそもシンガーのようなひとが問題にしている「意識」は、上の区別でいえば認知機能(意識内容)に対応するものなんじゃいのか。たんに外界からの刺激に反射するという意味での「覚醒」はそもそも問題ではないはずだ。ここらへんなんかおかしいぞ。

だいたいそもそも、(わざわざ順番を逆にしたのだが)さっきの「植物状態」の定義では「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」とされている。これはawarenessで単なるarousalではない。ふつうのawarenessは「外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力」の方に近いのではないのか。arousalとawarenessをおなじ「覚醒」の語を使われては混乱してしまう。(もっとも、おそらく意図的ではなく引用の都合だろううし、ここが哲学的に難しいのはわかる。)

あと、p.184のシューモンの水頭無能児(脳幹は機能しているけど大脳が発達してない)が「音楽に楽しそうに反応し、鏡に映る自分の顔を見て嬉しそうに笑うのである。さらには、背臥位の状態でも足をぴょこぴょこさせながら、家具にぶつかることもなくベランダに出ることができた」という報告は、孫引きではなく、できればシューモンの原著論文を参照してほしかった。有名なひとなんだから論文も入手しやすいだろうし、同じ報告あちこち書いていそうなものだ。(私が調べるのは・・・うーん。その手の論文をネットで読める環境にはない。)

ここらへんの議論はたしかに難しいな。しばらく時間がかかりそうだ。私が書いていることもまちがいだらけだち思うので読んでいるひとは間に受けないように。