山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

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