翻訳を学術的業績として認めよう

たいていの大学教員の業績の評価では、翻訳はまったく業績にカウントされない。しかしこれっておかしいんじゃないのかな。わたしがこのごろよく見る社会学関係の本では、引用はたとえば

Parsons [1964=1973:120]

とかって形で行なわれる(上野千鶴子(編)の『脱アイデンティティ』p.13)。そして文献リストでは、

Parsons, Taldcot, 1964. Social Structure and Personality. Glencoe: The Free Press. = 1973 武田良三監訳『社会構造とパーソナリティ』新泉社「第1章 超自我と社会システム論」「第4章 社会構造とパーソナリティの発達—心理学と社会学の統合に対するフロイトの貢献」

とされている。どうもこういう社会学系の注のつけかたを見ると、パーソンズちゃんと読んだんだ勉強していて偉いなあ、と読者は思ってしまうわけだが、実は翻訳見てるだけ。文献表は邦訳のあるものだ、なんてことがけっこうある。

邦訳だけ参照にしているなら、

パーソンズ [1973:120]

と書いて、文献リストでも別に記載すりゃいいのにと思う。

もちろんべつに翻訳が悪いわけじゃないのだが、こういう原典と翻訳をいっしょに指示しようとする傾向には、山形がFrankfurtの論文を注につけたのと同じある権威主義的な欺瞞が感じられるんよな。なにを翻訳するかってのはやっぱりある見識にもとづいているわけだし、そこまで翻訳を信頼するのならば、翻訳する人々に対してもっと敬意を示し、業績として認めるべきだと思う。(ちゃんとした大学ではすでに翻訳も業績にカウントされるのかな?)

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