ウンコな議論: 解説のまずいところ(1)

山形浩生訳『ウンコな議論

「大学のレポートだったら落とされるだろう」とか書いてほっておくのはアレなので、一応解説を。

山形の解説のまずいところは、

・・・嘘がつけないこと、嘘をつくという選択肢を持たないことこそが道徳的責任の存在を示す。この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。したがって複数の選択肢がなければ道徳的責任がないという考え方はまちがいであり、選択肢がないことこそその人物の自律性なのである。(pp.69-70)

山形がこの文章に注をつけている “Altenate Possibilities andResponsibility”という論文では、まったくこういうことは言ってない。”Alternate”論文で言ってるのは、私なりにラフに解説するとこうなる。

ふつう、「ほかにどうすることもできなかった」という発言は道徳的責任をまぬがれる言い訳になると思われている。たとえば太郎が「お前も参加しないと殺すぞ」と脅迫されて集団レイプに加わった場合、われわれはその人に道徳的責任がないと思う傾向がある。しかし、太郎自身がもともと参加しようと思っていた場合を想定してみる。つまり太郎は脅迫されようがされまいが、レイプに参加したのである。こういうケースでは、たしかに太郎は脅迫されて「他にどうすることもできなかった」、つまり太郎がレイプに参加しないという別の可能性はなかったわけだが、だからといって太郎に責任がないということにはならない。だから、「ほかにどうすることもできない場合には道徳的責任はない」という原則はまちがい。道徳的責任が免除されるかもしれないのは、太郎
が「他にどうしようもなかった」という理由「だけ」からそうした場合、そして太郎がそれをするのを望んでいなかった場合なのである。

これだけ。「自律性」とかって概念はこの論文では出てこない。まあまともな英米系の哲学の論文一本なんてのは非常に単純で、肩すかしをくわせるようなやつが多いが、これもその一例。こういう細かい議論のつみかさねがちゃんとした哲学が哲学であるところだと思う。

山形があげている解釈は、むしろ”Freedom of the will and the concept of
a person”というもっと有名な論文についてのものかもしれんが、それについても誤解がありそうだ。レポートでまったく別の論文の要約を提出したら、ふつう教師は「パクリだな」と判断して単位を与えないものだ。とにかく読んでない論文を注にあげて、一般読者を圧倒しようとするのはどうもブルシットの雰囲気がある。

フランクファート先生も分析しておられる。

ウンコ議論や屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである。したがってそれらの生産は、何かの話題について語る義務や機会が、その話題に関連した事実についての知識を上回る時に喚起されるのである。(p.51)

続く。

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