馬鹿げた記述を見るとつっこみたくなるのだが、こういうクセはどうなんだろう。たとえば『シリーズ〈性を問う〉 (2)』の「性差」の赤川学「ジェンダー・セクシュアリティ・主体性」
ではその「主体性」とはどのように定義されるのか。『広辞苑第三版』にあたってみる。
しゅたい‐てき【主体的】
(1)ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。「〜な判断」「〜に行動する」
(2)(→)主観的に同じ。しゅたい‐せい【主体性】
主体的であること。また、そういう態度や性格であること。「〜に欠ける」いずれの定義の中にも「主体」という概念が中心的な要素として織り込まれ、ほとんど同語反復となっている。
p.143 (表記は変更している)
とかって平気で書く。そりゃそうだろう。しかしそれにしても、なぜついでに「主体」も辞書ひかないんだっ!
しゅ‐たい【主体】
(1)[漢書東方朔伝「上以安主体、下以便万民」]天子のからだ。転じて、天子。
(2)(hypokeimenonギリシア・subjectイギリス) 元来は、根底に在るもの、基体の意。
(ア)性質・状態・作用の主。赤色をもつ椿の花、語る働きをなす人間など。
(イ)主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。⇔客体。→主観。
(3)集合体の主要な構成部分。「無党派の人々を?とする団体」
ふつうの理解では、「主体的」っていうのは(2)の(イ)の意味で「主体」であるのに必要な特徴をそなえているってことで、主体性ってのは主体であるのに特徴的な性質だろう。ぜんぜん循環してない。まあ辞書的な定義についてどうのこうのいってもしょうがないわけだが、そもそもこんなこと考えるのに広辞苑とか論文の最初に持ちだすのは勘弁してほしい。
こういう細かいことが気になって読めない。やっぱりこういう分野の文章読むのは向いてないなあ。
ていうか、なんというか、自分のケツの穴の小ささを感じてしまうね。向いてない向いてない。
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