いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。
もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、
嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)
とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。
むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる
「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」
っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。
昨日引用した山形の
この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。
という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。
だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)
あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。
なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。
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