『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (7) 宮廷風恋愛

  • んで、第4章は「宮廷風恋愛」。騎士道恋愛、レイディーとナイトのあれですね。ここらへんから先生の専門に近づいている(はず)だし、内容的にもおもしろいと思う。ぜひ読んであげてほしい。
  • 「恋愛は12〜13世紀西洋の発明だ」っていう20世紀に一部でかなり流行した発想のコアの部分ですわ。鈴木先生の立場は「大体において正しい説のように思われます」(p.140)ということで、これは私はいろいろ文句あるんだけど、でもまあ一部で標準的な説なので読んであげてほしい。
  • 私の解釈では「女性をあがめたてるようなタイプの恋愛観、というかお話は中世末ぐらいに発明されれてバカウケした」ぐらいなんですが、まあねえ。
  • 「宮廷風恋愛」についてはこの本読んであげてください。私もだいたい同じ感じで理解してるし、だいたい同じ感じで講義している。
  • ただ鈴木先生に私がもっている違和感の一番大きいやつは、「でもそれってお話ですよね」ってことですわ。宮廷風恋愛なるものが実際に実行されてたかどうかはよくわからない。わかっているのは、そういうお話がウケてた、ってことだけで。この、思想やお話を、現実にあった事実であるかのように解釈してしまうっていうのは私にはよくわからないです。またこれが、明治日本の「恋愛輸入説」とかにまつわる問題でもある。
  • 「命を賭けて、身分の高い女性に対する忠誠を誓う」(p.146)、その恋愛は肉体的なものではなくあくまで精神的なものである、とかそういう恋愛はかっこいいのですが、まあかっこよすぎていったいそんなのどういう人が実行していたのかわからない。まあそういうのいたとして、数人でしょうか。だって騎士とかふつうの人はなれないわけだしね。セックスどころか、会って話をするだけでもたいへんかもしれないし、そもそも騎士とかってのは平安〜鎌倉時代の武士と同じもので、けっきょく乗馬と武器の扱いがうまくて人殺せる人ってことなので、私みたいなのが会うと無礼な!とか殺されちゃうかもしれないから会いたくない。くわばらくわばら、失礼お許しくだせえ。
  • 領主や騎士様なんてのは平民にとっては雲の上の人、勝手に税金とかとってく悪い人なわけだけど、それがウケたのは吟遊詩人がそういう人々の恋物語を歌ったから。トリスタンとイゾルデの世界っすね。(吟遊詩人使ったのはリュートだけではないのではないか)
  • まあ流しの音楽芸人が、高貴な方々の気高い恋愛を歌ったわけですよね。同時代の琵琶法師の世界。
「学生に、「理想の恋愛とはどのようなものですか」というアンケートをとると、「心からわかり合える人と愛し合う」「一緒にいて楽しくて、落ち着く」など、精神的なファクターを挙げる人が大半を占めます。カラダよりも心が大事、ということですね」(p.150)
  • いやそれはいいですが、先生、そういうアンケートとったらやっぱりそういうことになりますよ。それセックスが楽しい上での話じゃないっすか。セックス楽しくないのにいっしょにいて楽しい、とかあんまりないのかもしれんし。セックスできれば気は合わなくていいです、とかあんまりないっしょ。気のあわない人といるのはしんどいものだし。っていうか、そもそもセックスだけして(何時間かかるかわからんけど、想像で2時間としますか)、はいさよなら、みたいなのは学生様たちには恋愛ではないんではないか。
  • 155頁で、奥様のお婆様にナイトとしてのレディーファーストの振る舞い教えてもらった話はかっこいい!ここはみんな読んでほしいですね。ぜひ買ってあげてください。
  • そしてここらへんで、おそらく鈴木先生の一番最初の発想が出てきます。日本の恋愛は「女性は男性の後ろにいて男性を立てる」ということになっているが、西洋の恋愛は「女性が立てられる側にまわる」ものだ、「忠誠の精神的な恋愛は、日本的な色恋沙汰と構造的に違う」(p.159)これです。
  • まあそういう発想はわかるんですが、西洋人が実際にどうしているかっていうのはほんとにさまざまだろうし(DVとかレイプとか欧米の方がはるかに多いと思う)、『源氏物語』や『平家物語』にだってそういうのあるんじゃないかって言いたくなります。どうでしょうか。
  • ル・シャプラン司祭(カペラーヌス)の『宮廷風恋愛の技法』はおもしろいので、鈴木先生の紹介読んだらぜひ現物読んでみてほしいですね。鈴木先生の解釈もおもしろいと思う。ここらへんがこの本の一番おもしろいところなんじゃないかと思います。
  • 鈴木先生によれば、この本でついに男性は女性を理知的に口説く、ということを発見したのだ、ということだと思います。私もこの解釈にはのりたい、っていうか知的に優れていると自信をもってる女子を男子ががんばって論破しにいく、というフランス映画的恋愛がここで描かれているわけですわね。まあそれってどうなのかという気がしますが、インテリの男女どちらも好きそう。どっちかというと男子の方が好きそうな妄想。ははは。
  • こういうルシャプラン先生の読んでると、いまツイッタでフェミニストをアンチフェミ男子が折伏しに行ってるのもこういう伝統のなかでの話ではないか、っていう気さえしてきます。カペラーヌス先生も鈴木先生もほんとにおもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
  • 最後のところ。
日本の女子学生に中世宮廷恋愛由来のレディーファーストを説明すると、「やはり恋愛相手はこうではなくちゃ」という反応が時々帰ってきます。この場合、「真実の愛=レディーファーストの愛」と、やや短絡的ではありますが、中世宮廷恋愛が現代の日本人女性にも強い影響力を及ぼし、その感情生活を縛っている様が見てとれます。(p.176)
  • っていうんですが、これ、宮廷風恋愛だのナイトだのと関係なく、とにかく女子はもちあげられてやさしくされるのが好きだ、ということじゃないですかね。
  • そして、宮廷風恋愛というのは、女性の地位が次第にあがってきて、殿様や貴族の奥様としてあるていどテッペンまで登った女性は、そうした男性からのサービスを期待することができるようになった。愛情やセックスをエサにすれば、女性は男性を支配できることを知った。我々をちゃんとよろこばせないならば、セックスなんかさせないし、そもそも見向きもしない。ちゃんと努力して我々を喜ばせろ!
  • そして、そうした「お話」を吟遊詩人やその他のお話が得意な人々から聞いた人々は、「私もうちの男にそうさせよう!」と決意した。そういう歴史上のなにかを表現してるんじゃないでしょうか。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (6) キリスト教はこわくてあんまりコメントできないけど

  • 第3章はキリスト教
  • これねえ、ギリシアもローマも難しいんですが、ユダヤ〜キリスト教も難しいんですわ。まあ鈴木先生ジェネラリストとしておおざっぱな話を書いて、スペシャリストからつっこんでもらうつもりみたいだから勇気がある。正しい態度だと思います。私もあれやこれや浅くても広い知識もって好きなこと言いたいんですが、むずかしいですよね。
  • 鈴木先生はキリスト教が性的に禁欲的だって言いたいみたい。私もまあそうだろうと思うんですが、旧約聖書にはそういう感じはないですわね。新約聖書のイエスさんの言行にもそういうのはあんまり見あたらない。パウロさんはかなり禁欲的で、そのあとのヒエロニムス先生とかやばい、ってのは私自身もまえに書いてる気がする。そういうんで、あんまり文句つける気はないです。でもあんまりキリスト教の禁欲的な側面を強調すると信者の人々はおこるんちゃうかな。
  • 111頁の「種の保存のため、人間という動物に基本的にインストールされているはずの性欲と快楽のシステム」とかっていうのはこれは絶対だめ!種の保存なんて考えかたは捨てましょう。誰も信じてません。種の保存じゃなくて、「生殖のために進化のなかで〜」ぐらいにしといたらいいと思う。
  • キリスト教の細かいところへのつっこみは専門家にまかせることにして(知識足りなくてこわいから)、この章で問題にしたいのは、姦淫/不倫/浮気が強く非難されるのは、キリスト教の影響だ、って鈴木先生が言いたがってるみたいなところなんですわ。これは本書の最初っからの目標のようで、けっきょく鈴木先生の頭のなかでは「不倫や浮気を非難するのはわれわれの恣意的な「恋愛制度」のためである、単なる文化的なものである、それはたいして根拠がない、それは歴史的に恋愛の歴史を見ればわかる」って言いたそうなんですよね。しかしこの発想は私はあんまりよくないと思う。
  • 他人の嫁に手をつけてはいかん、というのはこれはかなり文化普遍的だと思う。というか、女性に対する性的アクセスの限定というのは「結婚」という制度の核心部分であって、女性のセックスの管理こそが結婚制度の最大の目的である、っていうのはもうものすごく深いところにあると思う(男性の資産管理も大きいけど)。これを理解しないと恋愛や結婚の制度の話はうまく理解できないくらい重要だと思う。
  • たとえばキリスト教以前にも、姦淫は重大な犯罪・非行であったっていうのははっきりしていると思う。たとえば鈴木先生自身が言及しているオウィディウスが皇帝アウグストゥスからローマ追放された話だって、基本的にはアウグストゥスがローマのセックス問題を解決しようとしたためで、アウグストゥスは姦淫を法的に罰するようにしたみたいですね。とにかく女性の浮気は血なまぐさい揉め事のタネになりやすい。古代ギリシア叙事詩の『イリアス』でトロイが滅亡することになるのはそもそもアフロディテさんも認める超美人ヘレネちゃんが浮気したからだし、『オディッセイア』のオディッセウスの奥さんのペネロペさんは、オディッセウスさんが行方不明になってもいい寄る男を拒絶して独身を守り通し、帰ってきたオディッセウスさんが言いよった男を皆殺しにした、みたいな話も有名ですわね。こえー(オディッセウスさん本人は魔女みたいなのとエッチ三昧してたのに)。まあ、ほぼどういう伝統的文化でも妻の不倫・浮気はひどく非難されると思うし、そういうのしない人々はとても誉められる。えらい!
  • ユダヤ民族が「姦淫するな」とか「隣人の妻をほしがるな」って強調したんだって、隣の奥さんに手を出したりする奴があとをたたないからそういう戒めがあるわけでして。
  • 「バレようがバレまいが、浮気それ自体がいかん、という考え方は、江戸以前にはおそらく存在しかったでしょう」っていうのは、たとえば細川忠興の殿様が、ガラシャに見とれた庭師をその場で手打ちにした、みたいな話は誰でも知ってるわけで。こえー。いつぞや学生様の前で、「そういや殿様が植木屋さんを殺したとかそういう話があって」とかって話してたら、「それで刀の血をガラシャの着物でぬぐうんですよねっ!」ってうれしそうに教えてくれる学生様がいて、すごい1)あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。
  • というわけで、キリスト教的な伝統が、「放埒な」性的な欲求を強く非難する傾向があった、っていうのは私も賛同したいんですが、不倫や浮気を非難するのはキリスト教のせいだ、みたいな話はあんまりよくないんじゃないかと思う。それにキリスト教のもとでもみんなあんまり真面目に生きてなかった、っていう話はほとんど自明だと思う。ここらへんの西洋セックス・恋愛文化の話になると、かなりたくさんの本がありますね。どれもおもしろいです。
  • あんまり議論できないけど、ルージュモン先生やC.S. ルイス先生とかの「エロスとアガペー」みたいな話は、我々の世代はうたがって読まないとならんと思う。あれはおそらくよくない。
  • でもこの章はOK。こういうふうにざっくり話してもらえば、興味もつひとはそっから本読むだろうし。
  • ひとつだけわりと重大な文句書いておくと、結婚という社会の制度と、恋愛という我々の一部がやってる営みとの切り分けが難しくて、そこははっきりさせてほしいと思う。もちろん先生はその二つがちがうものであることはわかって書いてると思うんだけど、「恋愛「制度」」っていう発想と表現するもんだから、そこらへんがわかりにくくなってるわけです
  • そういや、ここらへんで不倫や浮気の話が出てきているのでもう一つコメントすると、タイトル「束縛の歴史」を見て、たいていの人々は恋愛観による束縛というよりは、男女間(あるいは同性間)の恋愛でのパートナーの行動の「束縛」行為を思いうかべると思うんですよね。鈴木先生はそういうのはあんまり好きじゃないのかもしれないけど、まさに結婚や恋愛関係(それが制度的なものであれば)っていうのの核にはそうした束縛や排他性があって、それ議論してくれないとどうも恋愛論っていう気がしないんですわ。おそらく鈴木先生は、そういう「恋愛もセックスも一対一じゃなきゃ」とか「二股は許さん」みたいなのも文化的なもんだから見直してあんまり重要なものではないし見直してもいいだろう、って言いたいんじゃないかと勝手に推測してるんだけど、それはっきりやってくれた方がわかりやすかったかもしれない。

あ、昔エントリ書いたかな? → これか

References[ + ]

1. あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (5) ローマ人だってそれなりにロマンチックだったんちゃうかなあ

  • 第2章の古代ローマ編もざっくり軽快でいいと思う。まあ恋愛の歴史とかっていう巨大な話はどっかでざっくりやらないとしょうがないですね。
  • ただ、バッカス/デュオニソスを「愛の神」(p.72)と呼ぶのはちょっと問題があるんじゃないかと思う。もっとはっきりセックス・性欲の神様、って呼んだらいいのではないか。どうも日本の大学の先生たちはセックスと性欲の話をするのを避けてるところがあって、まあ大学でセックスセックスと口に出してるとたしかに差し支えがあるんですが、恋愛の話するときにセックスの話しないってのいうのも難しいし。
  • ローマ時代の恋愛観が「女は強い男がゲットするもの」というやつだっていうのは、まあ言いたいことはわかるけどちょっと乱暴すぎるかなあ。むしろ「強い男/権力者はモテる!金と権力があればなんでもウハウハ!」ではないんかな。
  • まあ実際にどうだったかはわからないんだけど、一番の問題は、ローマ時代の代表格として鈴木先生がもってくるオウィディウス先生の『恋愛指南』は、「強い男が女をゲット!」とかそういうものではないってことですわ。
  • 「強引にチューしてしまえ」「チューしたらもっとすごいこともしてよい!」っていう部分をとってきてローマ時代の恋愛観は乱暴で女性をモノとして見ている(「モノ化」)って議論してるんだけど、私は『恋愛指南』をそう読むのは無理だと思う。ごくざっくりやるっていうのは賛成なんだけど、題材はえらばないとならんというか。
  • あれを読んだ人は誰でもわかるように、『恋愛指南』は非常にこっけいなマニュアル本で、まあ鈴木先生が指摘しているように乱暴そうに見えるところもあるけど、実際には情けない中年男とかがいっしょうけんめい女性にモテようと苦労する話だし、男性向けだけでなく女性向けの部分もあるわけで。

「愛する女性の誕生日こそは、君が大いに恐れおののくべき日だ。何か贈り物をしなければならない日、それこそは君にとって災厄の日というべきだ。君がどんなにうまくかわしたとしても、やはり彼女は巻き上げるに決まっている。女というものは、燃え上がって愛を求める男から財貨をかすめ取る術を編み出すものなのだ」(p. 31)

とかっていうのは、もうかわいそうとしか言いようがないですよね。かわいそす。プレゼントとは、女性が男性からまきあげるものなのです。

  • 「ローマ人の場合は「男は支配してなんぼ」だったのです。」「ポール・ヴェーヌなどは、ローマ人の「強姦力」なんて言い方をしています。経済力で男の価値を測る、という基準が現代のジェンダーにはありますが、経済力のかわりに「強姦力」だったわけです。すごい話ですね。」(p.99)とかありますが、まあたしかに最強の神にして強姦マニアのユピテル(ジュピター)様他、乱暴なのが好きな神様はたくさんいるし、歴史や物語でもそういうのは好まれてるっぽいですが、ローマ人たちがそうした生活を実際に生きていた、強姦はごく普通のことであった、とか考えるのはちょっとどうだろうかとは思います。あとこのヴェーヌ先生の本、どこにその「強姦力」があるのか、ページまでつけてもらいたいです。私ざっと見たけど簡単には見つけられないです。
  • これは性暴力とかに関する重要なポイントになってしまうんですが、そうした性暴力が当然のものとして賞賛されるような社会っていうのはめったにないわけです。へんなジェンダー論みたいなのだと、男性中心的社会では女性に対する性暴力が当然のものとされている、といった説明がされたりするんですが、あんまりよくない。なぜかというと、どういう男性も、その親の半分は女性であり、子どもの半分も女性だからですね。自分の家族を強姦されて喜ぶ男性なんてのはほとんどいないはずです。『ゴッドファーザー』で、主人公の姉を殴る夫が殺されたりしてるじゃないですか。ああいうもんだと思う。
  • 古代ギリシアとかでは女性の結婚は親や男兄弟がとりきめるものだったと思うのですが、彼らも自分の経済的・政治的利益の他に、自分の子どもや姉妹の幸福を当然祈って相手を選んだでしょう。古代ローマ人も当然そうだったはずです。もちろん、そうした親兄弟の後ろ盾がない女性は非常に厳しい生活をしていたとは思います。でも、強姦だのなんだのがほめられる社会なんてのはちょっと考えられない。
  • ローマ時代は抒情詩とか盛んだったはずで、実際ヴェーヌ先生の『古代ローマの恋愛詩』では、『恋愛指南』のような滑稽なやつだけでなく、いろんなロマンチックな詩が紹介されていると思う。どうしてロマンチックな詩が書かれたかというと、私の根拠のないカンでは、それは女性を口説くためですね。現代日本でミュージシャンがラブソング作るのと同じ理由によるんじゃないかな。そして、前のエントリでも述べたように、女性を口説く必要があるのは、女性になにがしかの決定権があるからで、決定権がなくても女性は男性にいじわるしたりすることは簡単なわけです。美人奴隷とか買ってきたって、毎日めそめそ泣いてたり、むすっとしてたりしたらいやじゃないっすか。そんなのどんな美人だてたえられない。どうしても女性は喜ばせて笑顔で対応してもらわないとならん、っていうのがどの時代の男性にとって大きな課題だったんじゃないっすかね。
  • んで最後にやられる現代日本との対比ですが、ローマと日本は「女性のモノ化」という点で共通しているって鈴木先生は考えてるんかな。まあオウィディウスとナンパ指南本の類似性とかは私もおもしろいと思いますね。でも必ずしも恋愛の相手をモノ化しているとも、代替可能な何かと見ている(p.103)とは思えない。だって、実際に『古代ローマの恋愛詩』やその他の古代の抒情詩で歌われている感情は、そういうものとはまったく違う、おそらく我々の多くが経験しているロマンチックなやつじゃないですか。われわれが好むポップソングの恋愛とそんなに違いますか?異文化の一部とってきてなんか押しつけるのはひかえめにした方がいいんじゃないかという気がします。

おまけ。私が授業で使ってるオウィディウスまわりのレジュメ。



『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (4) こういうのは許しませんyo!

  • んでプラトン先生の恋愛論と現代日本の恋愛との比較(!)。っていうか、そもそも「論」と現実を比較していいのかどうか。

「現代の日本の恋愛と比べると、明らかに違うのは、この知的な探求と色恋沙汰が微妙に接合している点です。」

「日本では、知的探求に価値を置くやり方、頭がいいのがカッコイイとする「萌え」方は、ヨーロッパほど一般的ではありません。そもそもが知的なものに対する憧れよりも、つまりイデア的な憧れよりも、実生活の中でいかに周囲とうまくやっていくのか、という同調圧力の方が強く働きます。だからこそ、知的な探求、イデアの世界への憧れが「エロい」という発想は、おそらく皆無でしょう。(p.63)

  • いや、先生それどっから来たんすか。鈴木先生が考えてる日本人の「恋愛」というのはどこで誰がやってる恋愛のことなのかさっぱりわからない。新書なのでアカデミックな話を適当にはしょるのはしょうがないと思うんですが、こういうなにも根拠を示さない放言みたいなのあると、学生様にはかなり読ませづらいです。
  • まず一つには、「頭いい」とか「教養がある」そういうのをセクシーだと思う人々は、男女ともにけっこういるんちゃうかな。男性同性愛でもインテリ階層ではそういうのありそうだし、女子異性愛者でも、男性ものすごい難しい話をぽーっとなって聞いてるっぽい人々はいるように思う。(どういうわけか私の授業ではみんな寝てしまうんだけどなぜだろうか)
  • また、それがヨーロッパとどう違うかっていうのの根拠もなにも示してくれてない。まあおフランス映画とかで、女子を口説くときに中年〜高齢男性がものすごい難しいことをベラベラまくしたてる、っていうのはたしかによく見ますが、それってフランス人なりイタリア人なりドイツ人なりハンガリー人なりの特徴的な人々なんすか。
  • こういうの、なにも証拠も根拠も出さないってのは、単に「日本は遅れてる」とかそういうの言いたいだけなんじゃないかと思ってしまって、非常に印象よくないっす。
  • ていうか、知性がエロいのはあたりまえではないか。指原先生がNo.1なのもあれは知性だ! 林檎先生のエロさを聞け!
  • 学生様や一般読者が読んで「ほー、なるほど日本では知的なのは価値がないのだな」とか信じられちゃったらどうしてくれるんですか。ますますモテなくなるじゃないっすか! 許しません。
  • これはまあまじめな話、せめて鈴木先生がヨーロッパで見てきた恋愛模様と、日本で見ている恋愛模様を比較すればまだましだと思う。どちら経験した見聞きできるのは広大な人間社会のほんの一部でしかないと思うけど、なにかあれば「まあ鈴木先生が見てきた世界はそうなのだな」ぐらいで納得しないまでも我慢はしようと思うのです。でもなにも根拠がないとなると、学生様には「こういうなにも根拠しめしてないのにひっかかってしまうようでは真理へのエロスが足りません」とかお説教しなきゃならんようになってしまう。その結果、「あんたががエロス過剰なんちゃうか!?」とか怒られることになって非常に困ります。
  • まあこういう簡単に「ヨーロッパではああなのに、日本ではこうだ」みたいなのは、20年ぐらい前まではけっこう許されてたと思うんですが、21世紀になってクリシン教育とか重視されたり、にツイッタとか一般的になってからはちょっと難しいですよね。いやな時代になった、という感じもしますが、われわれは対応していかないとならんと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。
  • 第1章、55頁からのイデア論の話なんですが、これねえ、どう解釈していいのかよくわからない。
  • 「イデア論は、欧米の文化の中に深く入りこんでいて、西洋の考え方の一つの基礎になっています」(p.55)ぐらいだとまあ微妙なんだけど、「日本語というシステムの中では、このイデア論は非常にわかりにくい」(同)とか言われちゃうと、「いや、西洋人にもわかりにくいだろう」と言いたくなりますわよね。さらに(イデア論とは)「神の見ている世界のことです」という説明されちゃうと、「論が世界なの?それってカテゴリーちゃうんちゃう?」とか言いたくなる。「イデアというのは具体的に、正しい考え、善い行い、美しいオブジェや人のことではなく、正しさそのもの、善さそのもの、美しさそのものだ」っていう説明も、まあわかったようなわからないような。これ、おそらくとりあえず猫のタマと猫のイデアの話して、タマは猫のイデアが具体的になった一例です、みたいな話しないとならんと思う。しかし新書、それも哲学じゃなくて恋愛論の新書では無理か。
  • 鈴木先生はイデア論説明するのに『パイドロス』もってくるんですが、読者にはなぜ突然『パイドロス』もってこられるのかわからないと思う。私だったらむしろ『饗宴』のソクラテスの演説のなかのディオティマ先生のあたり使うと思う、っていうかまあそこ使ってますわ。これは好みかな。
  • 「ちなみに概念という言葉は、英語ではidea、フランス語ではidéeと、イデアと同じ単語を使います。……こんな言葉の使い方を見ているだけで、ヨーロッパにいかにイデア論が心頭しているのかわかる」(pp. 57-58)とかっていうのも苦しい。そういう問題ではないと思う。
  • 「少年の美しさに対する肉体的愛はレベルが低い」(p.59)って言われてて、まあ『饗宴』でも『パイドロス』でもそうなんだと思うけど、『饗宴』のディオティマさんのお説教で次のようになっている。

……恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちかに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。

しかしそれに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。

しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みださなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるいという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。

……つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つぎになにかの美を目標としつつ、上昇してくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るに至るのです。(鈴木照夫訳)

  • 解釈はものすごくむずかしいですが、とりあえずふつうに読めば、エロの道を極めようとする男(哲学者)は、まず目の前の美少年の体を賞味して、次に美少年ならなんでもOKになり、次に肉体から精神の美へ向かい、最後に美そのもの(美のイデア)に向かうのです、ってことなので、最初は美少年と肉体的にイチャイチャすることからはじめないとならないっぽい。ソクラテス先生はその道を通りぬけて達人になったからもうあんまりイチャイチャしないかもしれないけど、最初はやはりイチャイチャで。私そういう才能なかったから哲学者なれなかったんですよね。でもとりあえず哲学者めざす若者は恋もがんばってください。
  • まあイデア論にそれほど深入りする必要ないなら、このディオティマ先生の理屈を使って、A君の美しい身体と、B君の美しい身体と、C君の〜は、どれも、「美しい」という性質を共有しているのだ、ふつうのわれわれは美しい身体を見ることしかできないが、達人は複数の美しい身体に共通の「美しさそのもの」、すなわち「美のイデア」を見ることができるようなるはずだ、みたいな話はできないでもないと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (2) プラトン『饗宴』まわり

全体的にゆっくり考えたいところはいくつかあるんだけど、しばらく目についたとこだけ順にコメントしていきます。

  • 最初、古代ギリシアからはじまっているのはよいと思うんだけど、その前に国内標準的なジェンダー論・クィア論のお説教ついているのがなんだかイヤん。鈴木先生がこの本でやりたいことの一つは、「我々が標準的な恋愛のあるべき姿と思っているのは、単なる歴史的に構築されたものであって、なにもその根拠はない」みたいな形の主張なんじゃないかと思う。ただし、鈴木先生は直接にはこういう表現はしてない。まあいろいろ言いたいことはあるけど飛ばす。
  • 古代ギリシアの恋愛観として大々的に紹介されるのがプラトン先生なんだけど、これ大丈夫なんかと思います。そりゃ我々にとってプラトン先生はとても大事な先生なんだけど、当時の人々にとってのプラトン先生っていうのはやっぱりかなり特殊な人で、彼が言ってることをみんなまにうけたわけではないと思う。プラトン先生の恋愛論を古代ギリシアの恋愛論、みたいに書かれるとリンダ困ってしまう。
  • でもとりあえずアリストファネス先生の人間球体論は基本。こういうの載ってるやつで学生様が読みやすいやつが欲しかったのでとてもえらい。しかし、その前にやっぱり『饗宴』がどういう枠組みの話か、っていう話はいちおうしてほしいものだと思います。アリストファネス先生の話はおもしろいし、『饗宴』といえばこの話、ってくらい重要なわけだけど、いちおう『饗宴』は6人だか7人だかの話が対話を含めて有機的に発展していくところがおもしろいわけだし。まあそこまで求めるのは求めすぎか。
  • 「古代ギリシアでは一時期、もっとも価値があり「正常」であったのは男性同士の愛でした」(p.45)とかそういうのはおそらく書きすぎだと思う。ドーヴァー先生あたりもそういうことは言ってないと思う。単にアテネを中心とした古代ギリシア社会では、一時期そういう慣行があった、ぐらいじゃないんかね。まあプラトン先生なんかはガチで同性愛好きだったと思うけど。
  • プラトンと同時期の快楽主義者アリスティッポス先生なんかは女性っていうか美人ヘタイラの方が好きだったみたいな感じだし。一般に同性愛の方が偉いとかそっちの方が楽しいとかっていうのは、やっぱり一部の人々の話ちゃうかな。ドーヴァー先生もう一回読んでみないとならんですね。でもとにかく、男同士の愛の方が正常で高級だ、っていうのはプラトン先生のまわりではそうだったかもしれないけど、一般にそうだったろうとはそんな簡単には言えないと思う。
  • むしろ指摘しておくべきなのは、当時の(男女の)結婚というのはふつうは親が経済的・政治的な配慮の上でとりきめるものであって、当人たちの恋愛感情なんてのはあんまり重視されていなかった、ってことだろうと思う。ふつうの家の女性に惚れても、それと結婚できるとは限らない、というかまあだいたい男性は、嫁入り前の中上流階級の女性とは会うことができなかったから我々が考える恋愛とかはできなかった、ということだと思う。ヘタイラ(高級娼婦)のお姉さんたちとの恋愛というのはあったかもしれないけど、まあヘタイラさんはいろいろあれで、そうした恋愛が私たちの思う恋愛(どんな?)とはちょっとちがったものであったかもしれない。奴隷もってる男性市民は女性家内奴隷とかともセックスしてたかもしれません(っていうかしてたと思う)が、それもなんか恋愛っていうのとはちょっとちがうかもしれませんね。
  • まあこういうのは専門家にまかせないとならんですが、なんにしても当時の男性にとっては(今考えるような意味で)「女性を口説く」ということはあんまりなかったわけです。「女性を口説く」ということの前提には「女性に決定権がある」ということが必要で、そうでなければお金で買ってきたり、戦争で捕まえてきてしまえばよいわけです。つまり、恋愛というのは苦労せずセックスできるのならさほど問題にならない、のかもしれない。
  • 一方、プラトン『饗宴』などで問題になっている「パイデラステア」(この語は出してほしかった)での男性カップルは、お金で買ってきたり戦争でつかまえてきたりする関係ではない。おつきあいするにはイケメンの方がいいだろうし、頭もいい方がいいだろうから、特定の若者はおじさんからモテるし、若者の方もなるべく自分の成長と出世の役に立つおじさんとつきあいたいだろう。その関係は支配従属関係ではなく、お互いの自発的な好意にもとづいたものである必要があるので、互いにいろいろ誘惑したり口説いたりする余地があるわけです。
  • 長くなったので途中で切ります。
  • 私が書いたプラトン先生まわりのは下。

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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (1) まえおき

福岡大学の鈴木隆美先生が『恋愛制度、束縛の2500年史』っていう新書を出して注目してます。ある程度アカデミックな恋愛の歴史、恋愛観の歴史みたいなのはみんな興味あるのに読みやすいやつがないから、新書レベルの本が出るのはとてもいいですね。少しずつ読んでいきたいと思います。っていうか、実はゼミで3回ぐらいで部分ごとに読んでいこうとしている。

一読してみて、一番疑問なのは、「ヨーロッパの愛と日本の愛では、何がどう違うのでしょうか」(p.14)っていう問いがそもそもまともな問いなのかってことですわね。そもそもヨーロッパの愛と日本の愛は違うのですか。その根拠はなんですか。鈴木先生はヨーロッパと日本の恋愛についてどのていどのことを知っているのだろう。私どっちもぜんぜん知らないので、とても気になります。

鈴木先生は、この本をフランスのおばあちゃんが孫に対して言う「ジュテーム」ってのから話をはじめてるんだけど、それ恋愛における「ジュテーム」と同じなのかどうかもよくわからない。まあヨーロッパと日本の愛はちがうよ、って言ってるときは性的な恋愛のことを言ってるんだと思うんだけど、おフランスの恋愛と日本の恋愛はそんなに違うもんでしょうか。そらおフランスの文学で描かれる恋愛と、日本の文学で描かれる恋愛はちがうでしょうけど。でも作品なんで星の数ほどあるし、生身の人間もそれよりずっと多いし、ヨーロッパと日本の恋愛は違う、っていうとき、何が言われてるんだろう。

この、文学や思想作品で扱われている恋愛と、生身の人々の生活での恋愛ってのごっちゃにする人がいて私とても気になるんですが、鈴木先生はそうした罠にはまってないといいなと思います。

ツイッタやこのブログでも何回か指摘しているように、日本の文学研究〜社会学のあたりでは「恋愛輸入説」ってのがあって、我々が考えてる恋愛というものは、明治期に文学者たちによって西洋から輸入されたっことになってるみたいです。私これよくわからないんですが。そんなはずはないと思う。私が尊敬する文学研究者の小谷野敦先生なんかははっきりそういうのはおかしな理屈だって指摘してますね。『日本恋愛思想史』とか読んでみてください。私も基本的には小谷野先生に賛成。恋愛輸入説賛成派で、さらに、その輸入は不完全で奇妙なものであって、そのまんま日本では恋愛が「ガラパゴス化」しているとかそういう議論をしたいらしい。私こういう文化論みたいなのはほんとによくわからないんだけど、まあそういう議論ができるのかどうか、考えながら読んでいきたいです。

あ、タイトルにある「恋愛制度」と「束縛」は、恋愛というのは文化的な制度であって、歴史をもつということと、それは人間が勝手に作りだした制度であるので、そういうのに捕われているのは束縛である、ってなことだと思います。「制度」っていうのがどういうことかとか、その制度に捕われるというのはどういうことか、っていうのも、読んでいけばいずれ説明してくれるんじゃないかと思います。

あらかじめ、下の本読んでおくとよいです。小谷野先生のセレクションは悪くない。

ポップ音楽の何を聞く (3) マドンナのサウンドボックス

先のエントリのサウンドボックスというか音場・音像の話、ついうっかりツェッペリンしてしまってあまりにも古い。もうすこし新しくして、マドンナ先生のファーストアルバム(古い!)でもちょっとだけ確認してみたい。

「サウンドボックスに注意しろ」っていうのは、音楽的な意味がどのていどあるかは別にして、楽曲に集中してじっくり聞く(集中聴取)にはよい訓練だと思うのです。通勤通学にヘッドホンして音楽聞いてる人は多いだろうし、そういうときにじっくりどこにどんな楽器が鳴ってるか意識してみるのはたのしいと思う。

サウンドボックスを書くとこうなります。

  • ドラムは生ではなくドラムマシンですね。時代だ。
  • 中央からちょっと右にずらしたところにエレピ(おそらくフェンダーローズ)がいて、これが G–A–A–Bm っていうハーモニーを鳴らして曲の音楽的構造を決めている。
  • 右と左に1本ずつ、コンプかました薄い音のギターがいる。この音色もこの時代。左のギターはときどきいなくなる。
  • 上にストリングス系のシンセがいる。あとちょっと左にピヨピヨしたシンセが間の手(オブリガート)入れる。
  • ベースも当時流行のシンセベース(おそらく手弾き)が中心なんだけど、実はこれおそらくエレキベースも同じことを弾いていて(!)、ちょっとずれたり、ときどきエレキベースだけのフレーズがフィルイン入れてるのがわかる。これかっこいいのよねえ。ソソラッ、ララッシ!とかソソッラ、#ファ#ファソ!ってやってるだけなんだけど、最高。
  • 最後の方、ピアノが入ってくる。

こういうの注意して聞くとたのしいです。んで、ここでぜひ注目してほしいのは、左に聞こえる(私は左「上」に聞こえる)カウベルで、これは打ち込みではなく手で叩いていて、この曲の微妙なノリを決定している。「カッカ、カカツッカ、カカッ、カ」昨日この曲の情報探してたら、これはマドンナ先生自身のカウベルだとか! このカウベルは重要だと思うんだけど、サウンドボックスに注意して聞かないと気づかないのです。

あとベースをわざわざダブルにするのは、この時期のシンセベースがちょっと弱かったのもあるのかもしれないけど、ウェザーリポートのジョーザヴィヌル先生がティーンタウンっていうベース大活躍の曲でやっぱり裏でキーボードでダブルしていて、「こういうのが音楽ってものだ」とか言ってて、サウンド的・音楽的な事情があるんだろう。

このアルバムからはもう1、2曲サウンドボックスを紹介したい。

このマドンナのファーストアルバムはほんとうに名盤だと思っているのですが、それに収録されているBorderlineという曲についてはちょっと疑問があるんね。

アルバムに収録されているのはこのバージョン。


これ、右上のハイハット的なリズムマシンがものすごくうるさいんですわ。それに全体のノリともちょっとずれてると思う。まあこの時期、こうした機械的なリズムがウケてたってのはあるんだけど。

他はすばらしいですね。ベースラインがものすごく印象的で、これもHoliday同様にシンセベース中心だけど陰で従来のエレベも鳴ってると思う。私にはベースコンチェルトの上でマドンナ先生が歌ってるように聞こえます。まあそのベースだけで聞かせる曲。

ところがこのBorderlineはもう一つバージョンがあって、それがこれ。

イントロのエレピに、グロッケンシュピール(鉄琴)が重ねてあったり、シンセが前に出てたりするのも違うんですが、実はドラムがそっくり入れかえられてると思う。断言はできないけど、これすごく自然なノリだし生ドラムじゃないのかなあ。生ドラム使って録音したものをリズムマシンに入れかえるということはないと思うので、もとのリズムマシンを生ドラムに入れかえたのか、それともそもそも録音テープがぜんぜん違う2本があってすべて違うのか。マドンナの歌の違いがあるとしたらわかればいいんですが、私の耳ではちょっとむり。

途中でシンセが右から左、左から右に動いたりして、全体の音数が多い。

どうもこの曲に関しては、作詞・歌のマドンナと、作曲とプロデュースを担当したレジー・ルーカス先生(70年代のマイルスバンドのギターを弾いていた偉い人)のあいだでいさかいがあったらしく、マドンナはルーカス先生のプロデュースが音多すぎるからってんでボーイフレンド呼んできてミックスさせなおした、みたいな経緯があったらしい。でもどっちがどっちのバージョンかはよくわかりません。でもこういうのおもしろいですね。みなさんもサウンドボックスの図を書いてみて、じっくり聞いてみてください。同じマドンナのアルバムのLucky Starあたりがおもしろいでしょう。


追記。ちなみに、「ボーダーライン」の歌詞もいろいろおもしろくて、これはふつうは(1)男性優位主義(male chauvinism)なボーイフレンドに対する非難という解釈がふつうですが、(2) オーガスムを与えてくれないボーインフレンドに対するイヤミなのではないか、みたいな解釈が英語圏ではあるようです。

さらにどうでもいいけど、Lucky Starの歌詞も微妙で、これは男性に向けた曲ではないと思う。 shine your heavenly body tonight、とか男子に向けたものではない。

ここらへん、80年代にはマドンナ先生まだネコかぶってたと私はおもいます。

ポップ音楽の何を聞く (2) ツェッペリンのサウンドボックス

前のエントリの、リズム、ベース、ハーモニー、メロディーの四つの層、みたいな話はまあよくある話。音楽の基本ですね。クラシック音楽の聞き方でもそういう話は最初にしますね。実際にはそんな簡単な層にはなってないんだけど、とりあえずまあいいや。不慣れなリスナーはメロディー以外には注意を向けにくいところがあるのでそういうふうになってるんだと思う。

リズム、ベース、ハーモニー、メロディーっていうのは音楽の基本的要素とは言えるわけです。ベースが特に重要とされるのはなぜか、という話もあるんだけど、それはおいおい。

さて、録音芸術の場合は、それを魅力的にしているものにはさらに別の要素があるというか観点があるというか。それが「どういうふうに録音され提示されているか」です。クラシック音楽で注目されるような楽音の楽理的機能とは別にまさに「サウンド」の「感じ」と呼ばれる側面がある。これはクラシックの録音芸術でも興味深い側面だけど、ポップ音楽ではそれが本質の一部をなしているほど重要になっている。

基本的にクラシック音楽の場合は、(1) 作曲者が作曲し、(2) 演奏者がそれを演奏し、それを会場で(3) リスナーが聞く、という形が想定されているけど、ポップ音楽の場合は、(1) 作曲者が作曲し、(2) 演奏者がそれを演奏し、(3) 録音者たちがそれを音源にし、(4) リスナーがそれを聞く、って形になっている。まあ実はレコード芸術とかも(3)の要素はあるわけですが、オーディオファン以外にはあまり注意されない。ポップ音楽の場合は、作曲者と演奏者が同一の場合が多いし、最近は録音しミックスし音源にするまで一人でやったりしている。楽器やボーカルでもアドリブ等その場で生成される音の要素も多いし、音源には楽音(楽器や声)以外のものも入れられることが多いので、そもそも「曲」というのがどういう単位なのかもよくわからない

そういうわけで、ポップ音楽とかを「聞く」ときには、例のリズム、ベース、ハーモニー、メロディーという四つの層(レイヤー)ってだけでは不足なのす。さらにそうしてできている「機能的な音楽的要素」の他に、それがどのようにしてリスナーに届く音源の形(shape)になっているのかも意識しないとならない。これが今回紹介しているムア先生の本の最初の章が「shape」っていうタイトルになっている理由なわけです。

んじゃ、四つのレイヤーの他に何があるか。これは「サウンドの感じ」以上にはなかなか説明しにくいですが、ムア先生の分類によれば、音源の位置(location)と音色(timbre)だということです。まあもっと分節化できそうな気がしますが、けっきょくはどこでどんな音色の楽器や楽器もどきが鳴っているのか、ということですわね。

楽音の位置について、ムア先生の提案は、録音音楽を聞くときに、「サウンドボックス」に注意してみようってなことも言ってるっぽい。これは先生独自の用語で、日本だと「音像」とか「音場」とか言われるやつですね。ステレオ音源だと音がスピーカーやヘッドホンの左と右に分かれているわけですが、楽器や声はその音のフィールドのどこかに位置していて、それがけっこう重要なこともある。

まあヘッドホンとかで音楽を聞くのは生音やスピーカーで聞くのとはまたちがった快感があるんですが、あの快感の源泉の一つは、頭のなかに一つの「サウンドボックス」と呼べるような空間がひろがって、そこのあちこちでいろんな音が鳴るからですわね。

まあステレオ初期は音を動かすのがはやってて、まあ典型は

このトラックは何回も言及してますが、最初から聞いてもらうとこうしたサウンドボックスってのを考えるときにはシンプルでいいと思う。

まんかにボーカルがいて「あふっ」ってセクシーな声あげると、左のスピーカーから歪んだギターが飛び出す! この左のギターは、ギターアンプのスピーカーのごく近くにマイク置いてる感じで、スピーカーの紙が動くのが聞こえるようだ。ところが、このごく近いスピーカーの音が、部屋(?)のどっかに反響して、中央〜右でそのエコーが鳴っている。すばらしい録音アイディア。そして重いベースギターが真ん中に入ってきて、さらにドカスカタカスタと重いドラムが入ってきて、これがヘビーメタルだ!それぞれの楽器が微妙に反響して「空間」って感じになっている。

一瞬で聴覚的に一個のボックスができあがって、そこで各楽器が振動している感じ。これはすごい。スネアドラムのスネア(シャラシャラいう響き線)やシンバルとかも、残響うまくとらえていて音源の上の方に広がる感じで、これ以上の名録音っていうのはないくらいですね。

曲のまんなかのごちゃごちゃカオスな部分で効果音が右〜左と動いて気持ち悪いとか、そういうのも、ステレオ録音最初期によくやられたけど(ビートルズの時代からいろいろあります)、この録音は非常に効果的。ぶっとぶぜ! とにかくこれが録音芸術でのサウンドボックスの効果ですわね。

んで、中間のブリッジ、ベースとドラムと左のギターが派手に「デンデンっ」ってやって、右でリードギターがクワァーってソロ弾くとろろ、このギターの位置と音色も最高ですね。

それまでのカオスなパートは、なんかドラッグでもキメてる感じをねらっていて、音は左右に動くわ、残響は多いわで幻想的な感じなんですが、デンデン!のあとの右ギターは、ものすごく近い! もう目の前でギター(とアンプ)弾かれてる感じ。これは残響切ってるからでもあります。いきなり顔の前っていうか目の前にジミーペイジ先生の下半身についているアレ(ギター)をつきつけられた感じですね。どうだ、おれのアレ(ギター)はこんなにあれだ!すごいだろう。すごいです。すごいー。

もうアレ(ギター)をこんなふうに目の前につきつけられたら観念するしかしょうがないですね。暴力だ!あとはもう興奮の絶頂。ロバートプラント先生のリバーブかかった声にやられるしかない。

そして、ぎゃーん、ってなったあとの「Way down inside、Woman, you need it」「ジャッジャーン」。おまえはいやだいやだと言ってるが、ちゃんと反省してみれば、おれのこれ(サウンド)が欲しいんだろう、正直にいえ、へへへ、おれにはわかっているぜ、ということです。そういうことなので、ああ、そうなの、必要なのです、と答えざるをえない。屈服。

そしてここの、エコーの方が先に来るというへんなヤマビコもどうやってとってるかわからない有名なところで、本体よりヤマビコの方が早い。一説によると、一回録音したテープを消しそこねてこういうふうなへんなことになったということらしいですが、そんなうまくいくかなあ。私は計画的にこのヤマビコ→声本体をつくってると思いますね。

とにかくこれ名曲名録音名プロダクションで、曲や演奏でよい曲というのはあるわけだけど、録音まで含めて総合的にこれ以上の曲というのはロック史上でもめったにないと思う。トップだろう。

というわけで、みなさん「サウンドボックス」という意識で音源聞きなおしてみてください。


ちなみにツェッペリンわからないという人が多いのですが、それは残念なので鑑賞方法を習熟しましょう。コツは、(1) できるかぎり大きな音で聞く、(2) 座ったまま聞かずに、体を動かす。この「体を動かす」のが、だいたいどんくさい例の白人中流階級ティーネイジャーのあれな踊りになってしまうのは我慢することです。

もっとおしゃれにツェッペリンを理解したい人は、まずQuestlove先生のライブ音源を死ぬほど聞いて黒人的なかっこいい体の動かし方を学んでからツェッペリンに戻る。クエストラブ先生を聞けば、ジョンボーナムが何者であったのかがわかるようになる。

ポップ音楽の何を聞く (1) 音の層(レイヤー)を意識してみよう

新時代令和ってことなので、新シリーズもはじめたい。令和といえばやはり音楽っすね。歌詞については前から継続しているシリーズがあるから、歌詞以外のポイントをいろいろいじってみたい。

種本は前のエントリで紹介したムア先生のSong Means。あれやこれや参考にしながら、録音芸術としてのポップ音楽を楽しむ方法を考えたいです。もう趣味は音楽鑑賞しかないから、わたしと気のあう人々音楽をもっと楽しめるようになるヒントみたいなの書けたらいいんじゃないかと思います。

この本の最初の章は「方法論」でまあ面倒な話しているから飛ばして、本論最初の第2章は「Shape」。この本の用語は訳しにくいんだけど、とりあえず「形」ってことだけど、まあポップ音楽がどんな形のものかってことだと思う。

ムア先生は「ポップ音楽は4つの層(レイヤー)があって、それ注意するのが第一歩だ」というようなことを言ってるような言ってないような1)この先生、ちょっと気取ってるところがあって読みにくいんですわ

四つの層というのは

  1. ビート explicit beat layer
  2. ベース functional bass layer
  3. メロディー melodic layer
  4. ハーモニー harmonic filler layer

なんだけど、この「explicit」「functional」「filler」とかいやらしいっしょ。なんでそういう語つかうかというのはそれなりに理由があるんですが、まあ私なりに説明します。

ポップ音楽はだいたい (1) 打楽器つまりドラム類、(2)ベース、(3) ボーカルやその他の単音管楽器、ソロギター、(4)音楽的空間を埋めるキーボードやギターのコード楽器、の音によって構成されてるってことですわ。まあ当然といえば当然。

音楽をぼーっと聞いてると、(1) ドラムや(2)ベースや(4)コード楽器がなにをしてるのか意識してないことがあるんで、そういうのよく聞いてみよう、ってことなんだと思う。その方がたのしい。

実際、不慣れな学生様と音楽について話をしても、ボーカルのメロディーと歌詞以外のことはあんまり話になならなかったり、バックでどういう音がなってるのが分析できないような感じありますよね。楽器の名前を知らないとかもあるかもしれないけど。

一曲聞いてみましょう。八神純子先生の「みずいろの雨」。この演奏はすごいっすよ。

この曲の(1) explicit beat layerとしてのせわしないドラムと(2) explicit bass layerとしてのベースを味わってみてください。ドラムは林立夫先生、ベースは後藤次利先生じゃないかと思うんだけどブラジルのサンバに由来するリズムでものすごいテクニック。

ドラムは16thフィールでチキチキやって、ときどきタムタムを叩くパターン。難しい。っていうか私楽譜にはできない。他の打楽器入ってるかと思ったらたいして入ってなくて、一人でこのサンバ〜フュージョンのノリをつくりだしてますね。すごい。

サンバの感じをドラムセットで表現するのはたいへんなんすよ。1970年代後半、下のスティーブガッド先生に刺激されていろんなドラマーがチャレンジして、国内ドラマーがやっとそれができるようになった時代じゃないですかね。まあここまでテクニカルじゃないけど、ノリをだすだけでたいへん。

これは、サンバのバッテリと呼ばれる打楽器隊のを表現しようとしているわけです。

ベースは頭のサビの|デーデーデ|デーデーデ|っていう比較的ゆっくりしてると聞こえるパターンと、Aメロの|デーンデデデ|っていうせわしないサンバのパターンの二つを使いわけてます。このドラムとベースのユニットでこの曲の3/4ぐらいができてる印象ですね。この演奏できるミュージシャンは、当時このコンビ以外にはほとんどいなかったんちゃうかな。

ちなみに、上のスティーブガッド先生がこういうリズムを一般的にしたのはこのトラック。すごい。

これが1978年で、これ聞いて世界中のドラマーがみんな練習したわけっすわ。これ、サックス、ピアノ、ベース、ドラムしかいないんすよ。わかりますか。

References[ + ]

1. この先生、ちょっと気取ってるところがあって読みにくいんですわ