不如意ブログ

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(8) 牟田論文誤読のおわび

去年の今ごろ牟田科研費についてシリーズ書いてしまって、なぜか最近になってはてなブログなどで有名な法華狼先生からお叱りを受けているのですが、実際わたし牟田先生の論文をまったく誤読してました。ほんとにお恥かしいのでどう誤読してたのか書いて反省します。

牟田先生の論文の第3節「性暴力として買春をとらえる」の部分で台湾台北の元公娼館の文萌楼の話が出てきて、そこでなくなった元公娼の白蘭さんの話があって、もとのエントリーでそこの部分を読んだときに気分悪くなってしまっておかしなことを書いてしまった。そもそも私この部分読みまちがえてました。

法華狼先生がこのブログを紹介してくれました。 → xiaoTANYAのブログ「文萌樓 かつて公娼のいた場所」
中国語で読めませんが、オンライン新聞記事もある → 自由時報「公娼白蘭頭七追思會 恐是文萌樓最後一場活動」

牟田先生が慰安婦とか公娼とかの話をしているので、わたしてっきり白蘭さん(「バイラン」だと思う)が働いていたのは、台湾が帝国下の植民地であった戦中か戦後はやい時期だと勝手に思いこんでいたのですが、白蘭さんは亡くなった2017年にまだ55才だということなので、1962年ぐらいのうまれで、公娼館にいたのは22才だか23才ぐらいかららしいので1984〜5年ぐらいからの話です1)13才で売られて商売をはじめさせられたのは1975年ぐらいから。そこから10年。これはつらい。。そこから90年代後半ぐらいまで働いていたというわけですね。私とほぼ同世代の人の話なのか!

ていうか、そもそも「白蘭さんの通夜」っていう表現のを見てるはずなのに白蘭さんに直接話聞けなかったのかな、とかへんなこと考えてるし。まだ生きていたと思ってるわけよね。瀕死で帰ってきた、とかって表現印象に残ってるのに。ものすごく混乱してました。

おそらくその私の混乱と馬鹿な誤読の遠い原因として、牟田先生が白蘭さんについても、現在元公娼館を事務所として使っていたCOSWASについてもほとんど情報をくれないので誤解していたと思うのですが、COSWASは売春の非処罰化や合法化を主張している団体2)日本のセックスワーカー支援団体SWASHとかと連係して運動しているようですね。、白蘭さんもまたワーカーの立場から、90年代の台北の廃娼・浄化政策に対して強く反対し非難していた人だったわけですね。

先の『自由時報』の中国語記事をGoogle翻訳(中→英がいいです)とかにかけてみると、1997年に33才だった白蘭さんが浄化政策に激怒した、のような文面があるようです。「うちの店はみんな親切だ、わたしたちは悪い人間じゃない」とか「廃娼政策は人を殺す」みたいな意味の文章も見えるような気がするので、中国語できる人が訳してくれたらうれしい。

白蘭さんはその界隈では有名人だった形跡があって、この本に収録されているChen Mei-hua先生の論文 “Sex and Work in Sex Work: Negotiating Sex and Work among Taiwanese Sex Workers“に、41才のころのインタビューの一部が掲載されています。Google Booksでも中身が読める。

Chen先生の論文は実はacademia.eduからダウンロードできます。

この論文はおもしろくて、売春やセックスワークの問題は、売春はセックスかワーク(レイバー)か、という二分法で考えられるけど、インタビューにもとづいて、実際のワーカーの視点からするとそういう二分法にはなってない、労働でもあるしセックスでもある、客と恋人の間の境界もぼやけている、というような議論をしています。まあそうだろうなと思う 3)インタビューされているワーカーには10代も多くてちょっと気になりますが。

そのなかで白蘭さんが紹介されていますが、彼女はかなりさばけた感じの話をしていますね。他のワーカーも男性の欲望とかをコントロールするためにいろいろしていて、言うなりになったり組みしかれたりしているわけではない。

白蘭さんはたしかに13才のときに売られて十代を非合法の売春施設で働かされて悲惨といってよいと思います。でも公娼(ライセンスもちセックスワーカー)としては、自分がどんなサービスを提供するかコントロールすることができた、ということのようです。お客とのセックスとボーイフレンドのセックスにもたいしたかわりはないし、愛してるからといってセックスしなければならないわけでもない、という形で、Chen先生の解釈では、セックスと恋愛とを切りわけてる感じ。

白蘭にとって、セックスは、「チープな獣」〔男〕がみなもっている自然的な衝動であり、愛の表現などといったものではない。こう考えることで、白蘭はセックスの呪縛から逃れており、恋人の性的活動を監視する手間をかける必要もない。一方、相互の尊敬とケアは、愛として、あるいは親密さの土台として理解されている。それゆえ愛は脱セックス化されているのだ。

のような形ですね。

こういうの、私は説得力があるなあ、と思って読むわけです。日本でもこうしたインタビューや手記その他は、書籍でもオンラインでも大量に読むことができると思います。ネットでは風俗嬢の人とか大量にいますが、そうした人々もふつうに彼氏その他の親密な人間関係もってるし、仕事がセックス関係だという以外にそれ以外の人々と違いはないように見える。

でも牟田先生は、台北の旧公娼館を調査に行ったのに、白蘭さんがどういう人であったかを教えてくれず、またその元公娼館を運営していて、白蘭さんについての情報をくれたCOSWASという組織がどういう主義主張でどういう運動をしているか教えてくれないまま、そしてそのさまざま主張を黙殺したまま、その部屋が狭いことをもってしてそんなところで短時間でやるのはセックスではなく性暴力である、セックスワーカーの同意は心からの同意ではなく擬制である、という話をしているわけで、ここでやっと私が一年前に感じた違和感がなんであったのかがはっきりわかったわけです。そういう情報がはっきり述べられていないために、私混乱していました。違和感にとどめて、ちゃんと質問したり調査したり考えたりしなかった自分がはずかしい。それに情報を教えてくれた法華狼先生に感謝します。

 

References   [ + ]

1. 13才で売られて商売をはじめさせられたのは1975年ぐらいから。そこから10年。これはつらい。
2. 日本のセックスワーカー支援団体SWASHとかと連係して運動しているようですね。
3. インタビューされているワーカーには10代も多くてちょっと気になりますが。

名曲「人生は夢だらけ」にコメント

気づいたことを簡単にコメント。

大人になってまで胸を焦がして
時めいたり傷付いたり慌ててばっかり

ここ、ジャズの曲でいう「バース」(verse)になってて、うしろの歌詞の流れとは一応独立で、それ以降の歌の内容を前置き・要約しているんですね。ふつうはうしろの歌本体の「リフレイン」あるいは「コーラス」と呼ばれる部分とは別のメロディー・コード進行使うんだけど、この曲ではそれではくどいのでおなじものを使ってるんだと思う。

バースがいいのは、これが一番有名かな。楽器だけでやるときもバースのメロディーを前奏っぽくやるのがふつう。

 

 

 

この世にあって欲しい物を作るよ
小さくて慎ましくて無くなる瞬間

こっから本論。この主人公は無くなる瞬間を作るお仕事です。もちろん音楽。ドルフィー先生のこの一言が有名ですね。

“When you hear music, after it’s overit’s gone in the air. You can never capture it again.” 「音楽は終ったら宙に消えてなくなってしまう。二度ととりもどせない」ものすごく有名。ちなみに、このYou don’t know what love isは聞いておきなさい。

こんな時代じゃあ手間暇掛けようが
掛けなかろうが終いには一緒くた
きっと違いの分かる人は居ます
そう信じて丁寧に拵えて居ましょう

音楽とか簡単につくれる時代になって、上質なものも粗悪なものも流通していて、聞く方も大量に聞いてるもんだから違いがわからなくなってるけど、音楽好きはいるからがんばりましょう。どっかの映画監督みたいなのはだめですよ、と。

あの人に愛して貰えない今日を
正面切って進もうにも難しいがしかし

さっきは説明しませんでしたが、ここのキーはEbメジャー(変ホ長調)、ふつうにI-IV-II-Vl-Iという進行なんですが、ちょっとだけ工夫されていて、IIのところが部分的にIIm7-5っていうマイナーキー(変ホ単調)の進行が入ってるんですね。モーダルインターチェンジって技。まあふつうだけど、IIm7-5-Vと聞くとマイナーコードに決着するのな、って予想されるけどEbメジャーに落ちつくところがちょっとした工夫。あとまあ最初のところとかピアノいろいろやっててコピーしようと思うと面倒ですね。たとえばふつうはEbで4小節同じように鳴らすだけでOKのところを、Eb△7 → Eb+5 (aug) → Eb6 → Eb7 → Abって細かく装飾してます。こういう細かい工夫があちこちにあってなんかコテコテ。

実感したいです
喉元過ぎればほら酸いも甘いもどっちもおいしいと
これが人生 私の人生 鱈腹味わいたい
誰かを愛したい 私の自由
この人生は夢だらけ

このサビのところは前でちょっと予告されていた単調Ebマイナーに部分的に転調しているというか、実はこの部分はジャズでよくやられる「枯葉」(枯葉よ〜枯葉よ〜)の前半部と同じ進行なんですよね。

まあジャズミュージシャンが好きなスムーズな進行で、キーがEbmなら(フラット多すぎ!)

Abm7 – Db7 – Gb – Cb – Fm7-5 – B7(b9) – Ebm (- Eb7) みたいな進行。女芸人の人生歌うのにサビが「枯葉」っていうのはなんか諧謔も入ってるんですかね。

ベースとかもジャズらしくウォーキングしていてかっこいい。そして「人生は夢だらけ!」で一発爆発!ゴージャズなモダンジャズビッグバンドサウンド。これかっこよくて、はじめて聞いたときシビれました。編曲は村田陽一先生。ベイシーというよりはサド・メルとかその後継以降のモダンなサウンドよねえ。後半でキーがEbマイナーからAbマイナー(というかG#マイナー)に転調してます。なんでこんな複雑なキーつかうんだ!ヘタクソには弾けないではないか!(おそらくわざとやってる)

この世にあって欲しい物があるよ
大きくて勇ましくて動かない永遠
こんな時代じゃあそりゃあ新しかろう
良かろうだろうが古い物は尊い
ずっと自然に年を取りたいです
そう貴方のように居たいです富士山

歌詞は「大きい」「勇ましい」「古いのが尊い」とかでなんか伝統主義者か右翼みたいなの連想して、最後の「富士山」でずっこけるのがいいですよね。私何回聞いてもずっこけます。そう、政治がどうのこうのなんてこまかいこと考えないで、富士山みたいにゆったりしたいですわ。

3拍子ではあるけどそれと2拍子が複合されてる「ジャズワルツ」っていうリズムに変更されている。このテンポのやつ、紹介するべき適当なのがすぐにはおもいうかばないけど、とりあえずコルトレーンとかがやったやつですね。(あんまりよい例じゃないのであとでいれかえます。)

これ、マーヴィンゲイ先生のWhat’s goin’ onを3拍子にしてるんだけど、この3拍子と2拍子が複合した感じがジャズでかっこいい。

 

二度と会えない人の幸せなんて
遠くから願おうにも洒落臭いがしかし
痛感したいです
近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくるでしょう
それは人生 私の人生 誰の物でもない
奪われるものか 私は自由
この人生は夢だらけ

最後のところはE△7 on Bb→Ebm7 on Bb → F/Eb とかかっこいいモダンな響き。

他にも歌唱法、アクセントのつけかた、吐息の入れ方とか、スキャット、伴奏に音えらびや対旋律まで、細部まで工夫された名曲です。ものすごく手間暇かけられたものは何回聞いても新鮮な驚きがある。みんなも気にいった曲は何回も聞いてください。

 

 

 

北田先生から怒られてしまった (7) 少し好意的に解釈すると

まあそういうしだいで、北田先生の論文は細部も全体もよくわからないんですが、一箇所補足しておくところがある。

北田先生のやつを最大限好意的に解釈しようとしたときにがんばりたいのは、北田先生の見るバトラー様の「準拠問題」なわけですが、その(2)の方、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」をもうすこし好意的に考えてみたい。

これ、よくわからないと思うんですが、ものすごく好意的に解釈すると、だいたい次のようになります。

「浪速大学教授は助平だ」のような発言は、浪速大学教授に対する中傷的・侮蔑的発言であり中傷・侮蔑行為であるとします。言語行為です。よろしいですね。「助平である」という記述によって、侮蔑しているわけです。

オースティン先生は言語行為を発語行為(locution)、発語内行為(illocution)、発語媒介行為(perlocution)に分類しました。発語行為はそのまんま発語するという行為、発語媒介行為は発語によってなにか結果をひきおこす行為、発語内行為は発語においてなにか発語とともに別のこともしているっていう感じ。

言葉をつかって(たとえば自分とセックスするよう)「説得する」っていう言語行為がありますが、説得する(persuade)っていうのは、そうするように相手を納得させ同意させないと「説得する」とはいえない。「説得する」っていう言語行為は、発語内行為というよりは発語媒介行為と考えられます。

んじゃ、「侮辱する」はどうだろうか。「お前は助平だ」と発言すると、それですぐさま侮辱していることになるのか(発語内行為)、それとも、聞き手が侮辱されていやな気分にならないと侮辱したことになならないのか(発語媒介行為)、これが(一部の人々にとって)問題なわけですわ。

バトラー様とそのフォロワーは、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」と考えるらしい。これがわかりづらい。っていうか私は発想がまちがってると思いますが、これまた解説します。

もし「おまえは助平だ」を侮辱という発語内行為として理解するとします。侮辱であるためには、発言者が相手を侮辱しようという意図が必要かもしれず、また助平であると指摘されることはその人の価値を下げることになるというような慣習的理解が必要であり、助平であるのは悪いことだとかそういう通念も必要になるわけです。まあ助平であることを指摘されるだけで、自分は劣った存在にされちゃうわけね。

これ認めたくない人がいるわけですわ。「助平」と呼ばれても「おう、おれは助平だ。そしてそれにプライドを感じている!(I’m proud of it!)」とか言いたい人がいるわけですわ。助平優位主義者。助平イズビューティフフル。

この助平を誇る人々は、「助平という発言によって侮辱する」ということは必ずしも成立しない、それは発語内行為ではない、助平と呼ばれることによっていやな気分になることによってのみ侮辱は成立するのだ、それは発語媒介行為なのだ、って言いたくなるわけです。

まあこれがバトラ〜北田先生の発想や問題意識だと思う。

でもこれって、私よくわからんのです。だって、ある言語行為が発語媒介行為ですか、それとも発語内行為ですか、みたいな問いが、「これこれの発言が侮辱になると困るから発語媒介行為にしておこう」とかそういう判断によって決まるっておかしな話だし。つまり、上のような発想はわからんではないけど、それって言語行為論における発語内行為/発語媒介行為とかにかかわる理論的な話ではないはずだと思う。そんな自分たちの都合によって言語使用の分類が決まるなんておかしいと思う。バトラーの文章も、よく読むと、「こうすると困るからこう解釈することにしよう」のようにはなってないと思う。

「言葉によって侮辱する」という言語行為が、発語内行為か、発語媒介行為かという問題はたしかにおもしろいけど、その解決は「発語内行為だと「転覆」できなくてこまるから」のような形であってはならない。なんらかのもっと理論的な区別にもとづくものであるべきだと思う。それに発語内行為/発語媒介行為の区別がそんなはっきりしたものであるべきかどうかも議論したらいいとおもう。まあむずかしいっすね。わたしはよくわからない。「侮辱する」とかっていう行為で我々がなにを指ししめそうとしているのかよく考えてみるべきだと思う。その意味に応じて、発語内行為とみるべき側面と、発語媒介行為とみるべき側面があるかもしれない。あるいはもっと具体的に考えて、「助平である」が侮蔑になるような慣習もあれば、そうでない慣習もあるだろうし、助平よばわりが即侮蔑になるような社会もあれば、そうでない社会もあるだろう、みたいな形になるのかもしれない 1)鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

この件はオースティンの『言語と行為』を訳しなおした飯野勝己先生なんかも、バトラー使って北田先生と同じような議論していて、これまたよくわからん(飯野勝己 (2016) 「侮辱と傷つけること」、『国際関係・比較文化研究』第14巻第2号)。北田先生もこの文献は目を通してるんではないかと思う。

しかしこいう面倒だけどそれなりにおもしろいかもしれない話と、定義も説明もできない「パフォーマティヴ」の話はちがう問題よ。中傷や侮辱にまつわる話はおもしろいけど、かならずしもバトラー様の曖昧な文章によっかからなくてもできるはずだから、興味ある人はがんばってほしい。

(いや、この件まだ続けないとならんですな……)

 

 

References   [ + ]

1. 鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

北田先生から怒られてしまった (6) 言語使用の適切さと道徳的な適切さは別よ

あともう蛇足っていうか、文章読みなおしたりするのも面倒なんでこれ以上書きたくないのですが、発話行為の言語学的というか、会話の上での適切さの基準と、その発話行為の道徳的な善悪の基準はまったく別です。会話の上、あるいは言語の使用においてはまったく問題ないけど、道徳的に悪徳的であるような発言はたくさんある。一方、言語使用において問題だったらそれそもそも(発語)行為として適切じゃないのでその道徳的な善悪とかあんまり言う意味がない。

たとえば、ヨットの命名式があるとします。私がその船を発注したオーナーで(超富豪!)、私が名前をつける権威をもっている。よくしらないけど、船オーナーの儀礼上、ワインだかシャンパンだかを船に命名するのがそうした筋での慣習らしい。(いまでもそうなのか知りませんよ。)

んでその命名式の当日、私は朝からよっぱらっており、命名式の2時にはかんぜんに酩酊状態。「では、命名式です」「某さんがシャンパンぶつけながら命名します」「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃっじゃ〜〜ー〜ー〜じゃーん」「わたすはこの船をちんぽろすぴょーん号と命名するぅ!」ってやったら、この船ちんぽろすぴょーん号になっちゃう。言語行為としてはまったく適切でも、道徳的にちょっと問題があるかもしれない。

これ、しゃれにならないのは結婚式とかで、特にカトリックで神父さんが「〜と〜はここにおいて結婚した」とか宣言しちゃうと結婚しちゃって原則的に離婚というのはできないので、あとで離婚するときに「あの結婚はなんか不備があってじつは以前から成立してない」みたいな議論しなきゃならないとかそういう話は聞いたことあります。

さっきの船も、私の個人の所有船だったらちんぽろすぴょーん号でもいいかもしれないけど、みんなで乗るものだったら具合わるいから、「あのとき江口は心身喪失状態だったので命名行為は成立していない」とかそういう議論しなきゃならないかもしれない。そこでは権威とか意図とか正常な心理状態とかそういうのが問題にされるでしょうな。

まあ話ずれちゃったけど、こういう言語行為の適切さと、その言語行為が道徳的に問題ないものかどうかは別ですわ。

サイレンシングやトーンポリシングを記述的にどう定義しようと、つまりどういう条件のときにそれがサイレンシングだとか、あれはトーンポリシングだとかって規程しようが、その定義のたびに、それがなぜ悪い行為なのかの説明はしなおさないとならない。当然でしょ。サイレンシングにおいて意図が重要であるならば意図はサイレンシングの悪さに関係しているだろうし、意図と関係なくサイレンシングと言えるのであれば、サイレンシングの悪さと意図はあんまり関係ない、とかそういうふうになるかもいれない。なんにしてもこういうのは言葉をはっきりさせ、それの道徳的価値についてしっかり議論するしかない。「パフォーマティヴィティー」とかって概念について誰かの文献を研究したり、あるいはバトラー様の真意とか意図とか準拠問題とかが理解できたらかといって、サイレンシングやトーンポリシングの倫理的問題が解決するわけではないのです。

 

 

北田先生から怒られてしまった (5) 瀬地山先生を非難するには

あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。

どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。

先に示したように、まずはサイレンシングなりトーンポリシングなり、そうした行為(その一部は発話行為かもしれない)がどのようなものであるかを明示してほしい。つまり、その記述の条件を明示する。どサイレンシングもトーンポリシングも、日常語ではなく、はっきりとした人工的な術語のはずなので、明晰化するのはさほど難しくないだろうと思う。もっとも、まあ日常的なレベルで使う語としてぼんやり定義するのでもとりあえずかまわん。さらに、それがなぜ不正だったり悪だったりするのかも可能なら説明してほしい。これもさほど難しくないと思う。

手段もそれほどむずかしくない。まず、その言葉で言いあらわしたい事例を二つ三つ考えてみて、それに共通する特徴を考えて記述してみる。さらに、その言葉にはあてはまらないことにしたい例も考えてみて、それがさっきの「共通の特徴」にはまらないことを確認する。共通の特徴がみつかったら、それがなぜ悪だったり不正だったりするのかを、一般的な原則(たとえば功利主義だとか権利論だとか)から説明してみる。

たとえば、「サイレンシング」という非難したいと思ってる行為をまとめあげる言葉を思いついたとする。それに含めたいのは、「私たちはいつもセクハラされている」という学生様の意見を封じこめる大学教員や組織のふるまい、「おれたちも苦しいんだよ」っていう男性の言い分を「男は特権階級!」とかって一言で片づけてしまうような人々のふるまい、などなど考えていく。

その結果、サイレンシングとは、弱い立場の人々の発言や訴えや非難を、(1)文字通り物理的に他の人々に聞こえなくしたり、あるいは(2)その人々の信用や名誉を損うことにって発言の信頼性を落したり、あるいは(3)その人々の倫理的・道徳的な欠点をあげつらうことによって、その人々の訴えや非難はさほど社会が配慮したりする必要はないように誤認させる、みたいなタイプの特徴づけで十分だってことになるかもしれない。

安倍首相が沖縄基地について好き勝手言うのを黙らせるのはサイレンシングにしたくないかもしないけど、そこらへんも上の(1)〜(3)の特徴づけにはまってないことを確認すればよい(今回は面倒なので確認しない)。

適当に特徴づけたら、それを非難したい理由をじっくり考える。こうした他人の発言の効力を下げるさまざまな策謀は、それ事態不快で不正なものであるのはわかりやすいし、また、自由な言論による自由な討議による社会の改善をめざす立場からも非難したい。ね。簡単っしょ。

そこまでやってもらったところで、さて瀬地山先生がやったことはそうした(非難されるべき)サイレンシングなりトーンポリシングなりであるか、という議論になる。これもがんばってやってください。ここで重要になるのは、実際に瀬地山先生がなにを発言したかとか、小説家の人が何を発言したかとかなんだけど、北田先生はそれがはっきりしてないうちに瀬地山先生を非難するこの論文を書いてるように思えます。まあ証拠がそろわなくてもなんか発言しなきゃならないときがあるのはわかるんだけど、瀬地山先生を非難するほどの材料が揃ってるとも思えなかったですね。(現在はいちおう全文書き起しが公開されている)

ある小説家が、現実の事件と現実の人々の集団を背景にして小説書いた場合、あるていどの取材とか迫真性(リアリティ)とかほしくなるものだと思う。とくに誰かを非難するような作品であれば、それが十分に考えぬかれているかは気にななる。単に「東大生はプライドがたかくて、挫折をしらず、女性をモノのように扱うことが平気な連中である」という想像だけから作品が描かれていれば、そら問題があると思う。今回はそういうした話がなされたわけでもなく、三鷹寮の広さがどうのこうのっていうのは誰にとってもどうでもいいけど、主人公たちの心理はもっとつっこんでみてほしい、みたいな話が中心だったんじゃないかと思う。これってサイレンシングやトーンポリシングなの?

この立証は北田先生がやるべき作業であって、そのときにバトラー様の議論がどれだけ役に立つのかわたしにはさっぱりわからない。「パフォーマティブ」だの発語内行為/発語媒介行為とかの区別したって、特に役には立たないのではないか。たしかに、サイレンシングやトーンポリシングっていう行為があるとしたら、それは発語内行為か発語媒介行為か、っていう話は哲学や言語学に興味ある人にはおもしろいかもしれないけど、北田先生がやりたい瀬地山先生に対する非難にはあんまり関係ないんじゃないのかな。関係ありますか?

まあそれより前にやっとかないとならない作業が大量にありそうに思う。たとえば、瀬地山先生の発言は小説家の先生や被害者の人々に対する中傷になっているか、なっているとすればそれはどのようにしてか、とか。こたえられます?

 

 

北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。

前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。

たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。

こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルーズだけどかっこいい言葉づかいする人々は、おそらく、「直接やっているように見える行為と別の行為が同時におこなわれている場合に、その行為はパフォーマティブだ」とかそういう感じになるんだと思う。

浪速大学教授の性的活発さを記述するのは、それによって浪速大学教授たちを貶めたいという江口のパフォーマティブな行為だ、とかそういうふうになるんちゃうかな。

でもこれってほんとにつまらない。だって、われわれの行為って、別に二つ三つの意味とか意義とかがあるのってふつうのことじゃん?誰かとセックスするとき、コミュニケーションしたり射精したり愛を確かめたり、性器を接触させたり、オルガズムスを経験したり不快を経験したり、労働したり、男性優位社会を確認しつつ女性の優位を推定したり、まあいろんなことしてるじゃん。「一つの動作に一つの行為の意味」みたいなふうにはなってないし。行為においても発話においても。だから「パフォーマティブ」っていうのが指摘するのがおもしろい概念や特徴であるとしたら、たんに二つ以上の行為をどうじにやってるってことじゃないと思う。

んじゃなんなよ、って話になるとこれまた面倒ですわなあ。もうちょっとつめられるとは思うけど、もう面倒だからやめ。ヒントだけ書いておくと、字義どおりの発言や行為と、それによって目指されてる全体的な(他者への)影響の違い、とかになるんだろうけど、そういうことになったときに、北田先生とかがなんかやってる「意図にかかわらず」みたいなの可能なのかどうかよくわからん。でもそういうのも、まじめに考えたきゃバトラー様の難解すぎるか、さもなくば無内容であるか、あるいは難解で無内容かもしれない文章いっしょうけんめい読むより、ふつうの行為の哲学とかそういうのやった方がいいんちゃうかな。とにかくバトラー様はうんざりしたし、北田先生のおかげでほとんど理論的なことも具体的なことも考えてないのがはっきりしたと思う。まあでも好きな人はがんばってほしい。

 

 

北田先生から怒られてしまった (3) 具体例がないとわからない

そもそも、北田先生の、バトラー様(や北田先生や小宮先生の)「準拠問題」(=問題設定?)を認めるとか精査するとか、そういうのっていうの抽象的にはよいことだと思うけど、具体的にどういうことなのか考えてみるとよいと思う。

北田先生はバトラー様が二つの「準拠問題」を立ててるといっている(と思う)。一つめは、(1) 「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」とからしい。

しかし、ふつうの読者はここまでで、ポルノグラフィは中傷的表現である、っていう立場があることを十分説明してもらってないから、話がわからないはず。そもそも「ポルノグラフィ」の定義ももらってないし、「中傷的発言」もどういうのが中傷的なのかはっきりとはわかってないと思う。たとえば「お前は馬鹿だ」みたいなのが一般に中傷的発言かどうか……罵倒ではあるだろうけど、これ中傷(「根拠のないことを言って他人の名誉を傷つける」)なの?なんか具体例考えてくれないとわからん。

さらに、北田先生の「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」という定式化は曖昧すぎて使い物にならない。(a) 「理解する」の主語が誰かわからない。私?北田先生?我々?、(b)「意図によらずに」がわからない。「発言者の意図を考慮せずに」ってこと? (c) 「いかにして可能か」はよくつかわれるみたいだけど、「実際やってるけどその理論的背景はどうなってるの」っていう意味と、「どうしたら可能になりますか?」っていう意味が曖昧。このままでは使いものにならない。こんな曖昧で自分たちが書いてる意味さえわからないようなのが「準拠問題」であるとは思えない。

「中傷的発言の発言者の意図によらずにその行為を理解する」は実際わからんでしょ。「中傷的発言の発言者が、どのような意図にもとづいたものかにたよらずに、我々がその発言の内容や発言全体の意味を理解する」、だったら少しまし。

具体的に考えましょうか。たとえば、たとえばですよ、学会懇親会で「浪速大の男性教授たちは性的に活発で偉いですなあ、繁華街でとんでもないお金をつかったりとお聞きしましたし、複数の学生様とも交際したりしているらしいですなあ、いやあすばらしいことです」とか私が発言したとするじゃないですか。そういうとき、私はいったい何を言おうとしているのか、って問題になるときがあるかもしれない。

でもまあおそらく私が浪速大学の男性教授個人、あるいは集団に対して、皮肉とか侮蔑とかの意図がなければ皮肉や侮蔑ではないといえるのかどうか、微妙ですな。また、この発言に根拠がないなら中傷かもしれないけど、十分な根拠があったらどうだろう。つまり、根拠がしっかりしていて侮蔑中傷の意図がある、根拠がなくて侮蔑中傷の意図がない、根拠があるけど侮蔑中傷の意図はない、根拠がなくて中傷の意図がある、みたいなの考えたいわけかね。

北田解釈でのバトラー準拠問題はいったい、こういう具体例にしたときにどういう問題なのですか。別の問題でいいから具体的に説明してください。まあ具体例は、東大の社会学教授が、現実の性暴力を題材にとった小説家に対して、小説が事実とちがっていることを指摘することとなにか関係があるとわかりよい。

なんかわからなくなってきた。私がいいたいのは、北田先生が「江口はわれわれの準拠問題に興味をもたない」とか非難しているように見えるんだけど、その準拠問題だかなんだかがそもそもわけわけわからんし、そんなものにつきあってる時間はない、みたいな。もっと具体的な問題を考えるのと、主語とか目的語とかはっきり書くっていうのを大事にしたらどうだろうか。しかしこれ、私が北田先生におねがいするようなことなのだろうか。あいまいでわけわからん文章で質問されたり非難されたりしても、困ってしまうだけです。

バトラー様の準拠問題(2)は「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる」なんだけど、これももう最初からわからんし、やっぱりこういうの文章で書くの無理ですわ。北田先生の頭のなか想像するのも苦しいし。いっておきたいのは、まず具体例を出してほしい。「浪速大学の先生は助平だ」という発言があったとして、それを発語内行為として認めるとは?私が浪速大学の先生は助平だとして侮辱した、でいいですか?助平であることを指摘するのが侮辱することならそれでいいのではないか。私が浪速大学の先生が助平であることを指摘して、その発言において浪速大の先生を侮辱していることを認めたら、私の意図やその文脈の適切さを認めることになるのですか?なにを言ってるのかわからない。こんな準拠問題だか問題設定だか認められるわけがないではないですか。具体的に考えましょ。

 

というわけでおしまい。話になりませんでした。

 

 

 

北田先生から怒られてしまった (2) 「準拠問題」ってなんですか

これ、たずねられたり怒られたりしていることじゃないから書く必要ないのかもしれないけど、そもそもこの北田先生の論文で何回も使われてる「サイレンシング」とか「トーンポリシング」とか、いったいどういう概念で、ある人の発言や行動がサイレンシングだったりトーンポリシングだったりする基準はなんですか。それにそれは常に不正なことや悪いことなんですか。そういう説明なしに瀬地山先生は小説家や性暴力の訴え(?)をサイレンシングしている!それはバトラー様の準拠問題のもとでわかる!とかっての、ほんきですか。

そもそも、バトラー様の準拠問題ってなんですか。たとえば論文だか著書だからしらないけど、「アセンブリ」まわりの話で、「そこに人間が集るだけでたむろするだけで行為になる」みたいな話があるみたいだけど、そらそうでしょう。別に難しい言語行為論もパフォーマティブもいらんのんちゃうかと思う。必要ですか?

もともとのジェンダーのパフォーマティヴィティとかだって、われわれは社会で男らしいとされている服装したり、そうしたふるまいをすると、男らしいと思われる、ってなぐらいの話でしょ?そこで使われる慣習みたいなのを尊重することもできるし、ちょっとひねりくわえたりするとおもしろかったりする。こんなわかりやすい話のどこに、ラカンだのアルチュセールだの必要なんですか。関係ないじゃないっすか。

私が思うに、傷つきやすさは大事だとか、人権が大事だとか、連帯がだいじだとか、そういうバトラー様が言ってるかもしれないことはそらみんな最初からわかってるわけですわ。問題は、卵が壁に次々にぶつかって割れていくようなとき(そして、壁の向こうがわではその衝撃でやっぱり卵が割れてしまってるとき)に、私らどうしたらいいかってことでしょ? 卵が壁にぶつかって無駄に割れるの気の毒だから、壁に少しヒビでも入れといた方がいい?卵が動けないようにもっと監視した方がいい?それに対してバトラー様やそのフォロワーの先生たちはどうしたらいいか具体的な方策や考え方本当にしめしてくれてますか?

ていうか、そんなシビアな話までいかなくても、北田先生はバトラー様が『触発する言葉』でポルノグラフィーと中傷的発言や差別発言を社会的にどうしたらいいと主張していると考えてますか? 暴力的なポルノもそのまんま制作・流通させてOKなの?中傷的発言そのまま流通させてていいの?それともなんか法的規制をしてもかまわないって言ってると思いますか?どういう規範的判断しているの?そしてその規範的正当化どうしるの?それ紹介できますか? 私あの本何回読んでできませんよ。ふつうできないと思う。

 

 

北田先生から怒られてしまったが、どうしたらいいのかわからない (1) パフォーマティヴってなんですか

『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。

どうも北田先生がやりたいのは下のような議論らしい。

  1. 東大の瀬地山角先生は東大でおこなわれたトークショーで小説家の先生に対してトーンポリシングだかサイレンシングだかをおこない、そしてそれは悪いおこないである。
  2. 瀬地山先生の行為がそうした悪いものであるという北田先生自身の問題意識は、バトラー様の問題意識と重なる。
  3. ところでバトラー様の「パフォーマティヴィティ」について、江口とかいう倫理学チンピラがなにかいっているので叩きつぶすしておく。
  4. ちゃんとしたバトラー様の「パフォーマティヴィティ」やそれに関連する問題意識を理解すれば、瀬地山先生が悪人なのが理解できます。

とかそういう感じの話なんだと思うけど、全体も細部もよくわからない。あちこちわからなくすぎてどうしようもない。

しょうがないので、とりあえず怒られてるあたりだけコメント返しておきますが、そもそも日本語がわからないところが多い。たとえば「意弁」とか『日本国語大辞典』にも出てきませんよ。「準拠問題」もどういう問題なのかわかりません。主語や目的語などを省略されるとわかりにくくなります。こういうの困るので今後は推敲おねがいします。

  • 一番問題のバトラー様「パフォーマティビティー」なんですが、これ、北田先生自身が「パフォーマティヴィティ」をどういう意味で使っているのか説明してくれないから何を言ってるのかわからないです。私が「パフォーマティヴィティ」について説明しているまともな論文は国内に1本もない、っていってるのを北田先生はどうも非難しているみたいだけど、だって実際まともに思えるものは存在しないんだからしょうがないじゃないっすか。小宮先生の『実践のなかのジェンダー』にだって「パフォーマティビティ」がなんであるかはっきり書いてある個所ないでしょ? あるならいったいどこにあるんですか。どっかに書いてあるならはっきりページだしてくださいよ。なんでページぐらいつけてくれないんですか。1冊ぜんぶまた確認しろって話ですか?
  • んな言葉の説明も出典の表記もできないのに、他の問題設定だか準拠問題だかに興味もてないのあたりまえじゃないっすか。「パフォーマティヴィティーをちゃんと説明してくれてる論文がない」っていってるのに、先生自身が簡単な説明さえしてくれないっていうのはもういじわるなのかなんなのかわからない。
  • そもそも北田先生、「言葉がなくても達成されるパフォーマティブな行為」とかって書くじゃないっすか。パフォーマティヴな「発話」とか「発話行為」とかならまだ理解できますが、パフォーマティヴな行為ってなんですか。それにパフォーマティブじゃ*ない*行為っていうのもなんですか。それは、(言語行為論での意味で)「行為遂行的な行為」じゃないですよね? だって行為が行為遂行してるのはあたりまえだから馬から落馬したりしてしまう。つまり先生の「パフォーマティブな行為」は、そもそも、言語行為論とかとはまったく無関係ですね?しかしこういうのひどくないっすか?説明してください。無関係なら無関係でいいんですわ。そしてそれが私が10年まえからずっと言ってることだし。無関係なのに関係あるかのようなほのめかしはやめてほしい。
  • 江口が「間接発話行為についてどのように解釈」しているか聞いてみたいってんですがなにを聞いてみたいのかわからないです。「塩とれる?」っていう疑問文で、塩を渡してくれるようお願いしているって話でしょ。「マヨネーズありますか?」っていってマヨネーズもってきてもらうんでしょ。なにが問題なのかしら。サール先生はそれなりにうまく説明してくれてると思う。なにが「苦闘」なのかわからんし、サール先生の枠組みのなかで間接発話行為を説明するのにそれなりに手間がかかるからといって、サール先生の枠組みがだめなわけじゃない。複雑で精妙なことを説明するのに複雑になってしまうのはあたりまえっしょ。それとバトラー様のフォロワーの先生たちのよくわからない説明はぜんぜんちがうはなし。
  • ていうか、「マヨネーズある?」ってのを、サール先生的な言語行為論ではなく、お得意のエスノメソドロジーだかなんだかで説明するとなにがちがうのよ。同じようなことしてるっしょ。
  • ツイッタにもごちゃごちゃ書いたけどもういいや。とにかく「パフォーマティブな行為」っていったいどんな行為かぐらい説明してくれたらどうですか。

(続くかどうかわからない)