ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

んで、ろくでなし哲学者列伝のメインはショーペンハウアー先生に決めてたのですが(キェルケゴールも列伝にいれたかった)、ショーペンハウアーとキェルケゴールで終わってしまうと味が悪すぎるので、あんまりろくでなしじゃないミル先生にお説教してもらうことにしました。

アルトゥール君、いいですか、後輩の言うことを聞きなさい。

両性の天性が、現在の職務および地位に、彼らを適応させている、あるいは天性がその職務と地位とを彼らにふさわしいものとしている、という議論も、何の役に立つものでもない。常識からいっても人間の精神の構造からいっても、両性の天性を知っている人、あるいは知ることのできる人はいないと私は考えている。というのは、彼らは誰にしても、自分の現在の地位から他の性をながめるしかないからである。

われわれは男はこうだとか女はこうだとか言うための知識をほとんどもってないのです。せいぜい、私から見たら女性はこうだ、ぐらいなわけですが、それは私から見てる女性一般の単なる勝手な印象にすぎない。

たとえば、地主にたいして小作料をひどく滞納している小作人が、あまり勤勉でないという事実から、それを理由に、アイルランド人は生来怠け者であるという人がいる。……これと同じ論法をもって、女性は自分たちの身の回りのことばかり気にして、政治などには関心をもたないから、女性は公益の問題には天性男性ほどに興味をもたないのだ、という人もすくなくない。

同じ条件のもとで、税金払わない人がいたら、その人は払う人に比べて勤勉じゃないからかもしれない。それを認めても、税金を払わないひとがアイルランド人に多くてがイングランド人に少なかったからといって、アイルランド人の方が怠慢だとかは言えない。税金の割合とか国家との関係とか、その他の条件が等しくないからだ。そういう条件をそろえてはじめて「〜は〜だ」と言える。こういうのは『論理学体系』の正しい帰納の方法とかで延々議論したことなわけです。

同様に、当時の女性が政治に関心を持たなかったとしても、たとえば参政権の有無なんかが影響しているだろうから女性が公益に関心がないのだとか言えませんよ、とそういう話です。環境要因を見ないで勝手に天性の話にしてはいかん!

それゆえ、両性のあいだの生来の相違はなんであるのかというもっとも難しい問題にかんして、現在の社会状態においては、それについて完全正確な知識をえることは不可能である。一方においてはほとんどすべての人がそれについて独断的な意見を持っているのであるが、他方、それを部分的ながらも洞察することのできる唯一の手段をおろそかにしたり軽んじたりしない人はいないのである。

性差やジェンダー差みたいなのについて、はっきりしたことはなかなかいえない。でも、ショーペン君のように独断的な意見をもっている人たちはたくさんいる。まあ独断的だからおもしろいんだけどそれは科学・学問とは別の世界。そして、もうすこしマシな洞察する手段はたくさんあるのに、それを無視しちゃう。我々は独断的な奴らだからだ!

男性と女性との知的および道徳的差異がいかに大きくいかに根絶しがたいものであるとしても、それが生まれつきの相違であるとする証拠はみな消極的なものである。ただどうしても人為的でありえないもの、すなわち、教育あるいは外部の環境によって説明することのできる両性の特徴をすべて除いてそのあとに残るもの、それのみが、生来のものと考えうるであろう。それゆえ、……両性のあいだになんらかの差異があるということでだけでも、それを主張するのには、人間の性格を形づくる法則についての深遠な知識がなくてはならない。しかし、いまだかつてこのような知識を有するものはいない……(70)

「道徳的差異」はわかりにくいかもしれませんが、まあ心理的な差異ぐらいに広くとってOKのはずです。男女の生まれつき・本性的な差とか考えるときは、教育や環境の違いをとっぱらってしまわないとならないけど、実際にはそれはものすごく難しい。実験室で同じ環境で育ててみようなんてのは虐待だし、さらにはそういうことしても環境要因をまったく消去できるかどうかはわからない。そもそも我々は人々の性格やらパーソナリティやらがどうやって形成されるかよくわからっておらんのです。まあ最近では一卵性双生児とかの研究で少し改善してますが、それでも性差についてはわからない。一卵性双生児は少なくとも生物学的には同性ですからね。

こっからがおもしろい。

この問題〔女性の性格や能力〕にかんしては、それを真に知っている唯一の人々、すなわち女性自身がほとんど証拠を提供しないし、またたといいたとしても、それは大抵にせものであるために、決定的なことはなにも言えないのである。むろん愚かな女性を知ることは簡単である。その愚鈍さは世界中どこへいっておたいてい同じようなものであって、愚かな人間の意見や感情は、その周囲の人々がもっているものから十分推断することができる。

「女性自身がほとんど証拠を提供しない」がいいですね。一つには、女性にたいする教育その他が男性とは大きく異なっているので、どんな能力をもっているかとか男性と比較することができない、ってのがあるわけですが、その他に、女性自身が、どんなことを考えているか、どんなことができるかをはっきりしたことを言わない、というのもある、ということだと思うです。まあ教育ちゃんと受けてない人が多いので、文章とかスピーチとかで表現するのが苦手だっていうのもあったのかもしれませんが、それだけではないかもしれない。ニセモノ、つまり嘘を言うこともけっこうあるというわけです。でもこれは男性についてもそうよね。

「愚かな」人々、つまり子供やあんまり気のきかない人々は観察してれば、その人々が何を求めてなにができるか、だいたいわかるわけですが、人間、賢くなってくるとお互いにだましあいするのでそんな簡単ではない。

ところが、自分自身の意見と感情とかみずからの性質みずからの能力から発露する人々の場合には、そうはいかない。だから、自分の家庭内の女性についてすら、その性格をかなりの程度にしっている男性はめったにいない。

おもしろいのはこれです。自分のママや姉妹がなにを考えているのか、どういう生活をしているのか、たとえばムダ毛はどのように処理しているか、知っている男性はめったにいないということだと思います。特にミルの生きていたヴィクトリア朝時代は女性にいろんな抑圧が加えられていた時代なので、なにをしているのか男子にはさっぱりわからない、そういう感じだったんじゃないですかね。ご家庭も今理想とされているような和気あいあい、みたいなのではなく、自分の旦那に「ロード、今日は召使いのメアリが粗相をしたので私がきつくお仕置きしました」「なるほどレイディー、それは正しいことだ」みたいなそういう会話だったかもしれんし(『高慢と偏見』の映画とか見ると、実際旦那をミスターで呼んでますわね)。

多くの男性は、自分こそは女性を完全に理解している、なぜならば、自分は二、三の女性と、いやもっと多くの女性と恋愛関係にあった経験があるから、という。もし、彼が立派な観察者であり、その経験が量と同様質にまでおよんでいるならば、彼は女性の性質の狭い一面についてはあるていど知りうるかもしれない。

アルトゥール(そしてセーレン・キェルケゴール君!)、聞きましたか?頭よい人が女遊びしたら、たしかにそれなりのことはわかるかもしれません。

しかしそれ以外のあらゆる部面については、彼は他の人と同様無知である。というのは、女性は、恋愛関係にある男性にたいしてはそれらの性質をきわめて用心深く隠すものであるから。

でもミル先生はなんでそんな事知ってるんでしょうか。

そこで女性の性格を研究する場合、男性にとってもっとも都合のいい場合は、自分自身の妻を研究することである。というのは、こういうことは機会も多く、女性にたして十分な同情をもってする場合もそれほど稀であるとは言えないからである。

ほう。研究するわけですか。まあ自分の奥さんとなればシンパシーもあるから研究しやすいというわけですな。

そして事実これこそは、この問題にかんして立派な知識をえることのできる唯一の源泉であると考えられる。しかし多くの男性がこのようにして女性を研究する機会はただの一回であった。

わはは。女性についての知識を得たときはもう遅い、そういうことですね。

ソクラテスとそれを引用したキェルケゴールが、「結婚するがいい、君は後悔するだろう、結婚しないがいい、やっぱり君は後悔するだろう」みたいなことを言っているのですが、まあ結婚が1回だとだいたいわかったときは手遅れなので、離婚や再婚できたほうがいい、そういうことですね。でもそれってその女性についての知識だから次は違うだろうし、やっぱり後悔するんじゃないんかなあ。

っていうかそもそもミル先生結婚したのはハリエットさんと20年以上おつきあいしてからじゃないっすか。いったいそんな晩年に結婚して何を経験したのですか、みたいな心配が浮かんできますけど大丈夫ですか。ははは。

まあそういう意味じゃなくて、結婚したりっていうのは当時だったら1回、離婚できたとして2,3回なので、女性一般にについて知るのは無理でしょ、一般化の誤謬推理避けられないから「女性とは」みたいなのするのはやめましょ、って話ですわね。

ミルの(初版は若い時の)『論理学体系』は、主にドイツ観念論とかの頭でっかち、独断的な哲学の方法はよくない、ちゃんと実験や観察して証拠を集めていきましょ、じゃないとまちがいますし、特に社会科学(道徳科学)では独断的方法はやばいです、ということを主張するために書かれたそうな。ショーペンハウアー先生みたいに、自分の身の回りの女性を見て「女は」ってやるのは典型的にだめな方法。つつしみましょう。(でもつつしめない)

 

上の本読むときは下の本の解説もいっしょに読みなさい。名著。

上の水田先生の本、『論理学体系』の誤謬推理/詭弁推理の話にもがっつり言及していて感心しました。

ショーペンハウアー先生に本当のミソジニーを学ぼう

大学の公開講座で、「生涯学習」としていろんな年代層の人にお前らが勉強していることをわかりやすくしゃべって、教養や楽しみにしてもらえ、という業務があり、私も参加しています。んじゃまあ哲学・思想や人生なんかについて考えてもらいたいなあ、みたいなので学生様相手にやってる「愛と性」の年長者バージョンみたいな感じで。去年はやはりオリジナル哲学者たちへの敬意から、プラトンとアリストテレス。エロースやらフィリアやら。今年は近代がいいだろうってんで、18〜19世紀でルソー、ヒューム、ウルストンクラフト、カント、ショーペンハウアー、J. S. ミルみたいな感じ。キェルケゴールも予告してたんだけど時間の都合で結局できなかった。無念です。

予告には、「本年度は、18世紀から19世紀の有名哲学者を中心にとりあげる予定です。彼らの以外な一面を知ることができるでしょう」とか書いたけど、実際の受講生の方々には、「男性中心の哲学者たちがどんだけろくでもない話をしていたのかを紹介します、哲学者のろくでもなさを味わってください」みたいな感じで始めました。

私が考えているろくでもない哲学者ナンバーワンはやはりショーペンハウアー先生で、先生はこのブログでももとりあげる価値がありますね。ろくでもなさがすばらしすぎる。

ショーペンハウアーがろくでなし哲学者ナンバーワンなのは、もちろん有名な「女について」の著者だから。主著はもちろん30歳すぎぐらいで書いた『意志と表象としての世界』ですが、よく読まれているのは60すぎで出版した『余録と補遺』に収められているエッセイみたいなやつらですわね。文庫本なんかでは編集されて切り出されている。「女について」もそういう形で有名ですね。

とにかくこの「女について」は女性にたいする無根拠の悪口を書きまくっていてろくでなさ最高なので、ちょっと紹介します。私が書いてるんじゃないですからね。全部ショーペンハウアー先生です。それでもたくさん紹介するとやばいので、ほんの一部だけ。

「女がいなければ、われわれの生涯は、その始めには助けを欠き、その中期にはよろこびを、その終わりには慰めを欠くことになろう」(362節)

これはルソー先生が「男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ」って言ったのとまったく同じ発想ですね。バブバブー。グヘヘ。そして最後は「わかってくれるのはお前だけだ」。ほんとにそんなひとたちがいれば男子としては言うことないですなあ。ははは。

しかし、ショーペン先生は若い女が好きです。

娘ざかりの女にたいして自然がたくらむことは、芝居用語で言う、きわめつきの見せ場である。つまりその少女の残りの一生涯がどうなろうとかまわず、自然はそのほんのわずかな年月のあいだに限って、彼女らに美と魅力と豊満をふんだんに与えるのだ。それというのも、この数年間に、男の空想力を完全にとらえようという算段だからだ。男はそのため夢中になって、なんらかの形で、その女の面倒を一生まともに引き受けようとする。

若い女は美しい!なぜならそれは生物としてその美によってオスを引き寄せて出産と養育の面倒をみさせるためだ!現代の進化心理学までつながる発想です。ショーペン先生はカント的な「自然」と「目的」を使ってますが、現代の進化的な発想なら「目的じゃなくて、そういう形質(美とか豊満とかでオスを引き寄せ世話させる)をもった個体が子孫を残したので、結果としてそういうのが遺伝的に生き残ってる、とかになるのだと思います。でも生物学者とかでも面倒だから、「オスを引き寄せ世話させるために美しくなってるのです」みたいな省略形の説明したりしますね。バラシュ先生たちの本を参照

……こうして自然は、他の被造物のすべてにたいするのとまったく同様に、女にも、その生存を確保するために必要な武器と道具を付与するわけだが、その与えられる期間は、自然がいつも使う節約のやりくちに従って、必要な期間に限られるのだ。

ダーウィン以前の考え方では、こういう「自然の節約の原理」みたいなのを想定しなければならなかったわけですね。そしてそれは「自然というのは倹約家だから」とか勝手にそういう想定を置いていた。進化的な発想からすると、「美によって生殖と子育てがうまくいけば、生殖と子育て移行はそれは関係ないので」みたいになる。ほんとうにそうなのかというのはもっと研究しないとわかりませんね。でもたとえばバラシュ先生たちは、女性のおっぱいが若い時は上の方にパツンパツンで、齢をとると下がってくるのは、上むいたおっぱいが若さの印になるのだ、みたいな話はする。おっぱいの位置を上げるのは相当コストかかるんでしょうな。

そういうわけで若い娘たちは、家事や事務的な仕事などは、内心どうでもいい片手間のこと、それどころかただの戯れと考えている。彼女たちがただひとつ真剣な仕事とみなしているのは、恋愛や男心を征服すること、およびそれに関連すること、たとえば化粧やダンスといったことどもだ。

なんてことを言うんですか!許しません!弊社の学生様はそうではありません!

それにしても男性哲学者のダンス好きっていうのはおもしろくて、ヒエロニムス先生が苦行して死にそうになってもダンスするアイドルグループを夢に見て怒ったり、ルソーが女子にはピアノとダンスを習わせてほしいとか、ホントに好きなんですね。現代社会でアイドルがあんなに人気がある理由がわかる。男子はみんな哲学者だからですね!

女が腹の中で考えていることはこうだ。金を稼ぐのは男の仕事、それを使い果たすのは自分たちのつとめで、できれば夫の生きている間に使い切るのがよく、少なくともその死後にはこれを浪費するのが自分たちの役目だ。

ショーペン先生はアイドルみたいに歌うまくてダンスがうまくて明るい女子が好きなのですが、金づかいが荒いのがいやなんですね。ケチ!なんでそうなったんですか、っていうとまあ個人史的な理由があるんかもしれないですね。

ショーペンハウアー先生のパパはお金持ちの商人名家だったんですが、先生がティーンエイジャーの頃に逝去なさり、その遺産を派手な才女のママと妹が食いつぶして破産したとかそういう話。明るくて派手なママは、いつも陰気でうじうじしているアルトゥール君が嫌いで会いたくもない、みたいに言われてたとか。かわいそすぎる。

そんな悪くないけど根暗そう

悪い人じゃないかもしれないけど、三つ子の魂百まで

 

左がママのヨハンナ、右がやっぱり才女の妹のアデーレ

妹さんはおとなになるとこういう感じ。才女な感じですな。

かっこいいと思う

若い時はさまざまな商売をされている女性とけっこうおつきあいして(おそらくお金の関係)、10歳以上上の女優・歌手のKaroline Jagemann (1777生)さんに片思いするけどふられる。

30すぎてから、やっぱり歌手のCaroline Medon (1802生、14歳下)さんと(なんとか?)おつきあいしたけど、カロリーネさんのおつきあいした動機に疑いをもって結婚しなかったとか。お金目当てだと思ったんでしょうか。老年になってからやっぱりお金むしられたようです。

40すぎてから15歳ぐらいのFlora Weißさんに惚れ上げた?このひとは肖像画とかみつからないなあ。まあ先生が派手なタイプの女性好きなのははっきりしてますよね。老年になってから隣近所のやっぱりカロリーネっていうお姉さんと暴力沙汰になって賠償金を年金で払ったりもしてますな。まさに女難の男。『うる星やつら』の錯乱坊(チェリー)やさくらさんに人相見てもらえばよかったのに。定めじゃ。まあ女性が好きなんだか嫌いなんだかわからない、頭のなかが女性しかない、あるいはせいぜい、哲学、女、唄、それが女嫌いである、ってことがわかります(ファイヤアーベント先生がそうだと言っているわけではないです)。

諸星はこの美人霊能者のさくらさんと関係をもったために、彼女にとりついていた物の怪すべてを引き受けるさらなる女難を味わう……

そういう個人的な経験から「女とは」とかやってはいかんですな。次のエントリも読んでください。 → ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

まだお金払いたくないけどもう少し読んでみたいって人は、ここらへんに誰かが写経した痕跡がのこってましたので買うかどうか考えてください(私ではないですが、読むと写経してみたくなる感じはわかる)。ショーペンハウアー先生は名文家だし、ものすごく明快な哲学者で、誰でも読めばすぐに言ってることがわかる。わかりすぎるぐらい。こういうの読むと、ごちゃごちゃ難しげな書き方したほうがよいときもあるのかもしれんな、みたいな。ははは。

 

 

これは(とりあえず)関係ないです。

ドラマ感想3本:『ラ・ラ・ランド』『プラダを着た悪魔』『東京ラブストーリー』

卒論でテレビドラマや映画やマンガなどを卒論にとりあげる学生様がいて、私はそういうのは専門じゃないけど学部の教員メンバー構成の関係でそういうのも相手にしないとならんことがあるわけです。私がそういうの指導していいんだろうかとか、私が評価していいんだろうかとかいつも気になるんだけど、そういう先生は全国でけっこう多いはずだし、まあしょうがない。そういう場合はしょうがないので私もそれを何度も見る、ぐらいの努力はするわけです。

まあ学生様と卒論の草稿みながらディスカッションしていると気づくこともけっこうあって、それはそれでおもしろい。

『ラ・ラ・ランド』

今年は『ラ・ラ・ランド』で困りました。私この映画、前作『セッション』ほどではないけどひどすぎると思ってたし。でもまあ何度も見ながら学生様と解釈考えてたら、おもしろいアイディアを教えてもらいました。

この映画がひどいのは、「本物のジャズ」がテーマだって言いながら、ぜんぜんジャズじゃないところですわね。あるいは、音楽が好きだと言いつつ音楽を尊重していない。音楽が(冒頭とレジェンド先生の以外)ぜんぜん本物じゃない。主人公セブの弾くものがほとんど(1場面以外)、狭い意味での(セブ自身が尊重する)ジャズじゃない。トラ(エキストラ)で呼ばれた(ジャズ以外の)バンドでもわざわざつまらなそうな顔で弾く。真面目に音楽やってたら、そんな顔作ってる余裕なんかないだろうよ。主人公がソロで弾いてるのは本当に最悪で、そもそも音楽になってないように思う。これは『セッション』でもそうだった。この監督はジャズというものをさっぱりわかっていない、ってミュージシャンの菊地成孔先生なんか怒っていて、私もまったく同意見です。

しかし、学生様と話をしていたら、「それって、セブたちが徹底的にだめな人間だというのを描いているのではないですか」ってなアイディアを聞かせてもらった。たしかにセブはなにもかにもだめな男で、まずとにかくジャズがわかってないし、「ジャズは目で見るものだ!」とかお説教しているシーンではミアに夢中で肝心の演奏見るどころかなにも聞いてないでしゃべりまくってるし(バンドはあきれたのか演奏やめちゃう)、恋人(?)のミアも映画俳優になりたいとかいいながら映画館で上映の邪魔するし(ありえない)、本気でだめな連中なわけです。そもそも彼らがふつうの意味で恋人なのかどうかもわからない。

ミアがレストランで音楽を聞いてセブを思い出して抜け出して会いに行くシーンがあるのですが、これも、高級レストランにふさわしくない古ぼけた、壁につくりつけの安っぽいスピーカーから、有線みたいなので流れてくる「エレベーターミュージック」で、あれで「ジャズピアノ弾き」を思い出すというのはすごい。ミアは、セブ自身がエレベーターミュージックをディスっているのを知りつつ、そして実はそういったものしか弾けないことを知っているから、エレベーターミュージックを聞いてセブを連想するのです。

そして最後に弾く音楽もまったくジャズじゃない。ここまで来ると、「なるほどこの映画は、観客をおちょくるための映画なのかもしれない」と思わされてしまいました。ぜんぶ正真正銘のニセモノ なんですわ。そしてそれはたしかに 意図的なもの だ。ほんとにすごい。あれ見て感動したり感心したりした人々は鑑賞者として馬鹿にされている可能性さえある。なんかそういう解釈の可能性を教えてもらい気づいたときにはぞっとしました。


おまけに、あとでブログにしようと思いながら日記にメモ書いた『東京ラブストーリー』と『プラダを着た悪魔』も追記して再掲しておきます。

東京ラブストーリー

母親が好きだった『東京ラブストーリー』を再放送で親といっしょに見て、おもしろかったのでそれで書きたい、とか。DVDもらって私も見た。あれは一般にヒロイン赤名リカの「セックスしよう」発言で女性の性的自律とかそういうのの話ってことになっていると思うわけですが(そういう論説や論文がある)、ぜんぜんそういうものではない、という印象。

そもそもあの物語の主人公は実は医学生の三上であり、そしてその同級生の女子医学生長崎尚子の活躍の物語だと思う。

またリカも三上も性的な関係がありそうなことがドラマでは明示はされていないが示唆されていたように見ました(夜中に頻繁にナンパ男の三上の部屋にいて、かなり親しそう)。

リカの不倫相手の上司や、カンチとの関係のきっかけなども隠蔽されていて、気づく視聴者は気づく、ってかたちになっている。

さらにリカは、性的に活発ではあるけど、自律した女性とは言えないと思う。この女性は元気でチャーミグだけど衝動的で、その場その場の自分の感情に正直に生きるといえば聞こえはいいが、計算したり自分を律したりすることできない。「セックスしよ!」もまさに衝動的で、性的に解放されているというよりは、その場の感覚に正直である、っていう方が正しいように思う。それはそれでいいわけですが、やっぱりそういうのは心配になりますよね。当時の女性もそう見てたと思う。

児玉聡先生の『功利と直観』のなかに、非常に印象的な引用があるんですわ。

食欲にせよ性欲にせよ、欲求がある程度満たされることは幸福になるために不可欠であるが、次々と生じる欲求をすべて満たすことが必ずしも幸福につながるとは限らない。たとえば次の例は、睡眠障害に悩むアメリカの一九歳の少女が、精神科医と交わした対話である。

少女: なかなか眠れない。どうしてか?
医師: 何か心当たりのあることは?
少女: いろいろ過剰だからだろうか。まず、煙草を吸い過ぎる。アルコールを飲み過ぎる。それに、私は男友達が多いせいか、セックスをし過ぎる。だから疲れ過ぎる。眠れないことと関係があるのか?
医師: その過ぎるというのは、よくないのでは。少しセーブするといい。
少女: 本当ですか。自分がしたいと思うことを、しなくてもいいのですか。(千石2001:153)

「自分がしたいと思うことを、しなくてもいいのですか」という少女の言葉は印象的である。彼女は、次々に生じる欲求を満たす以外に選択肢はない、あるいは欲求を満たす義務があると感じているようである。(p.16)

赤名リカはこの少女と同じタイプの人間で、実際バーで「こうなんだからしょうがないじゃない!」とか叫んでいる印象的なシーンがありました。

おそらく「自律する女」の称号に値するのは、つまり、意識的に自分の行動とその結果をちゃんと考えているのは、保母のサトミであり、医学生の尚子である、というなかなか意外なことを(勝手に)発見したわけです。どちらもなかなか計算高く、サトミは二股をかけたあげくに最終的に好きな三上をあきらめ真面目なカンチをゲットし、尚子も三上をきちんと落とす。どうもこのドラマが実際に視聴率が上がったのは後半尚子が登場して活躍しはじめてかららしく、やはり衝動的な人間はかっこいいけど女性の心をつかむのはうまくたちまわるタイプの女性なのではないかという気がするわけです。

おそらく当時のテレビドラマ批評みたいなのではそれなりに語られているのではないかと思うんですが(今は亡きナンシー関先生とか)、時間が経過してイデオロギーみたいなので理解されると「赤名リカは性的に自律した女性像」みたいになってしまう。ちゃんと仕事して経済的に自立はしているかもしれないけど、精神的には自律的とは言えない、そういう女性像だったんすかね。まあ魅力的ではあるけど破滅への道。

『プラダを着た悪魔』

『プラダを着た悪魔』も全体を2回ぐらい、部分的には何度も観なければならず、トランスクリプションも確認することになってしまったわけです。主人公アンドレアはボスのミランダからセーターの件で勉強不足、認識不足をディスられ(名場面)、ナイジェルにグチったらお前はなにもしてない、早くやめろとディスられ、そこから例の女性なら誰でも夢見る変身シーンにつながるわけです。高級ブランド服選び放題!。

でも、まずなんでそんな破格の優遇を受ける資格があるのだろう?ナイジェル(ドレッサー)は、アンドレアに協力することになったのか、ということが語られていない。借り物ショーの直前には、アンドレアは「ねえナイジェル?」ってなにかを提案しようとしている。その提案はなにか。答えは(ナイジェルがストレートだとすれば)決まってますよね。

また例のハリーポッターの原稿を入手するところでもそうしたことが起こる。ハリポタ入手しろと言われて、アンドレアはパーティーで出会っただけの作家トンプソンに電話だったかなにかして、無事入手するけど、なんでトンプソンはそんな危ない橋を渡る必要があるのか。答えはまあパリのベッドでわかる。もちろんあとでもとに戻る彼氏(出世しそうな雰囲気になってる)に秘密ですしねえ。

だいたいそもそも、ファッションに興味のない単なる女子大生が、超一流ファッション雑誌社に入社できたのはなぜか。教授から強力な推薦状を書いてもらったから。しかしそんな推薦状、ふつうファッションに興味のない女性に対して書くだろうか。

実際のところは主人公はいわゆる「女の武器」やエロチックキャピタルをナマの形で多用する女性である、っていうのが隠れた筋書だと思うわけです。これあんまり語られてないような気がします。女版島耕作。これがかっこいい女性の生き方なのだろうか(アンハサウェイだからそういう気もする)。


こだま先生の引用部分はこれ。

カント先生から未婚化・非婚化の原因を学ぼう

性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)

カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。

他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。

まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題1)実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。

前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。

これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。

 

んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。

ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。

前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。

この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。

カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。

まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。

どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)

まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。

 

 

References   [ + ]

1. 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。

カント先生に女性のルックスの鑑賞法を教えてもらおう

前のエントリの続き。

紹介したいと思ったのは、第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」の後半にある、女性のルックスの美についてカント先生が語っているところです。こんな感じにはじまる。

美しい性〔女性〕の姿と顔立ちが男性に与える多様な印象を、できるかぎり概念化して捉えることは快適でなくもないかもしれない。この魔力の全体は、根本的には性的衝動の上にひろがっている。(p.358)

カント先生らしい面倒な言い回しですが、男性の女性のルックスの好みは様々なので、それがどうなってるか把握してみましょう、ってわけですね。そして女性のルックスは(男性に対して)魔力的な力をもつことがあり、それは(男性の)性的衝動に根拠がある、というわけです1。なんか現代の進化心理学みたいですが、カント先生の時代だと「種の保存」みたいなのはいってくるのでまだ特に進化的な話ははいってない。おもしろいのは次です。

つねにこの衝動のごく知覚に身をおいている健全で粗野(derb)な趣味は、婦人における外見や顔立ちや眼の魅力等々にはほとんど悩まされることはなく、本来ただ性だけをめざすことによって、たいていの場合、他人の繊細さを空虚なおふざけとみなすのである。

これは、性的衝動を感じたらすぐセックスするような男性は、女性のルックスとかあんまり頓着しない、女性の顔についてああだこうだいって悩んでるのは馬鹿にする、ってな話ですね。カント先生は女性の美について関心がある方だったんでしょうなあ。まあこの、そうした粗野な人々について一連のおもしろい皮肉がある。さて。

高雅な趣味のためには、婦人の外面的な魅力の間に差異を設けることが必要となるが、それに関して言えば、この趣味は姿と形における 道徳的なもの か、あるいは* 道徳的でないもの* にかかわっている。(p.358)

「もっと繊細な趣味をもつためには、女性のルックスのよしあしをみわけられなければなりません」というわけです。先生、ポリティカルに正しくありません!

「道徳的なもの」「道徳的でないもの」っていわれているのは moralisch / unmoralisch なんですが、このモラルってまあ「道徳的」って訳しちゃうとうまくつたわらないかもしれない。精神的なってな意味の英語のmoralと同じやつだと思います。カント先生がいいたいのは、「女性の(外面的な)ルックスについてよい趣味をもつには、外面だけじゃなくて、そこに精神的なもの、内面的なものを見分けることができる必要があるんだよ、ってことです。顔がかわいいだけじゃなくて、なにかそこに優れた性格みたいなものがみえてないとならん、ということなわけですね。

後者の種類の快適さにかんして、婦人は可愛い(hübsch)と呼ばれる。均整のとれた体つき、規則正しい顔つき、眼の色、優雅に際立つ顔は、花束においても気にいるような、冷ややかな賛同しか得られない単なる美にすぎない。

「均整のとれた体つき」は ein proportionierlicher Bau, プロポーションいい体。「規則正しい顔つき」はregelmäßige Züge、まあ左右対象だとかそういう感じですか。「きれいな顔はたしかに美schönなんだけど、それって花みたいな物体としての美とあんまり変わりないのである、そんなものは男性の熱狂的な愛を受けたりするものではないのだ」というわけです。hübschはやっぱり「可愛い」てしか訳せないと思うんですが、可愛いというより顔が整ってる、って感じですね。

顔は可愛くても、それ自体はなにも語らず、心に語りかけない。

まあただきれいなだけじゃやっぱり恋愛の対象とかにはならんわけですよね。忌野清志郎先生のこの歌みたいな感じっすか。

顔立ち、眼差し、顔つきの道徳的である表情にかんして言えば、それは崇高の感情か美の感情かのどちらかにかかわる。彼女の性にふさわしい快適さが、主に崇高の道徳的表現を際立たせている婦人は、本来の意味で美しい(schön)と呼ばれ、また顔つきや、顔の特徴認められる限りでの道徳的な印が、美の諸性質を告げている女性は快適(annehmlich)であり、その度合が高い場合は彼女は魅力的(reizend)である。

訳語の選択は難しいですね。私が訳すならどうするかなあ。いいたいことはわかりますよね。おじさんになってきたりして女性をたくさん見てくると、単に顔が整ってる、ってだけでは魅力を感じないことがある。魅力を感じるのは、なにか内面的なものが表情にあらわれているような女性だ、とそういいたいわけです。んで、その表情に表れる内面的なものが、カント先生がこの本で注目している「崇高」と呼びたくなるようなものをもっているひともいれば、同じく「美」と呼ばれるべきものをもっている人もいる、とそういいたいわけです。

前者〔崇高型〕は、落ち着きを示す顔つきと高貴な外見のもとで、慎み深い眼差しから美しい悟性のきらめきを輝かせ、彼女の顔にやさしい感情と善意の心が描き出されることによって、男性の心の傾向性も尊敬の念を我がものとするのである。

こっちは知性や教養をもっていて、おちついた感じの内面を見せてくれるような人。レディー。マリアテレジア女帝とかですかね。

後者〔魅力型〕は笑った眼のうちに陽気と機知を、またいくらかの繊細な茶目っ気、あだな諧謔、おどけたつれなさを示す。

こっちは明るくて楽しいおちゃめさん、マリーアントワネット様?

前者が感動させるとすれば、後者は魅惑し、みずからのよくするものであり他人に吹き込む愛の感情は、うわついているが美しい。(p.359)

こう、威厳のある美人と陽気でコケティッシュな美人、みたいな区分けをしているわけです。

さて、性欲との関係ですが、

この衝動がまだ新しく、発達しかけた時期に、最初の印象を与えた姿が原像として残り、そして将来、空想的なあこがれを刺激することができ、またこのあこがれによって、かなり粗雑な傾向性が、性のさまざまな諸対象から選ぶようにしいられるあらゆる女性の形態は、多かれ少なかれその原像に適合しなければならない……。(p.360)

性の目覚めの対象になった人のタイプが、その後の人生の性欲生活でも重要な役割を果たす、みたいな感じですね。もうカント先生の時代からそういうこと言ってたんだ。

いくぶん高雅な趣味にかんしていえば、われわれが可愛いと呼んだ種類の美は、あらゆる男によって、かなり一様な仕方で判定され、これについては通常考えられているほど意見の違いないと、私は主張する。(p.360)

単純に顔立ちがととのっているという意味での美人っていうのは、判断はだいたい皆同じ、世界各国共通だ、とかってことですね。

しかし、繊細な姿の判断に顔つきにおける道徳的なものが混合するときには、さまざまな男子において、趣味はつねに非常に異なってくる。彼らの人倫的感情自体に従っても、また顔の表情が、各人の妄想におおいてもつかもしれない様々な意味に従っても異なってくる。

おもしろいっすね。単なる「ととのった顔」については男性あんまり意見の相違はないが、内面的なものを含めると性の目覚めとかその後の妄想の積み重ねとかで好みがいろいろ分かれるようになりますよ、ってな話です。これ、ラブライブとかアイドルマスターとかガルパンとか、最近のアニメは大量の女子が登場しますが、あれは男子の多様な好みに対応するものなのですねえ。それぞれ違う性の目覚めをしたから。ははは。

決定的に可愛くないがゆえに、初め見たときには、とりわけて作用を及ぼさない形態が、よりよく知るにつれて気に入りはじめるや、通例、はるかに多くの心をひきつけ、たえず美しくなっていくように思われるということが見られる。可愛いが外見は一挙に知られるが、ときの経過に従ってますます大きな冷淡さでもって知覚される。道徳的な魅力は、それが目に見えるようになったときには、より強く心を捉える。これに対して、可愛い外見は一挙にさいられるが、時の経過に従ってますますおおきな冷淡さでもって知覚される。

「決定的に可愛くない」っていのはひどい言い方だとおもいましたが、weil sie nicht auf eine entschiedene Art hübsch sind」なので、まあ「すごく可愛いってわけではないので、最初はたいして印象をいだかなかったクラスの女子が、隣の席になってだんだん中身がわかってくるとだんだん可愛くみえてくる」ってそういう話ですね。カントくんも可愛いじゃないっすか。一方、美人なのはすぐにわかるけど、だんだん興味なくなるってやつですね(ルソーが妻について言ってる例のやつのうけうりっすかね)。まあ女性が美人なのはいいことだし、鏡やお化粧その他に気をつかうのもわかるけど、やっぱり内面が大事ですよ、知性と教養をはぐくみ、またポジティブな性格を身に着けましょうね、みたいなそういう話。男性のがわも、女だからなんでもいいってのは粗野だし、美人がいいとかってのも外見だけの話だったら馬鹿らしい、やっぱりその内面の崇高と美を見抜けるようにならないとなりません。まあごく普通の常識的でお説教っぽいものだけど、それはそれで楽しい。

まあこんな感じでおもしろい。見ての通り、「美と崇高」で趣味を二つに切っていくっていうのはけっきょくたいしてうまく行かず、矛盾しているっぽいところもあるんですが、まあそうういうの気にしないで軽く楽しい文章を書く、っていうのも、実はカント先生好きだったんでしょうな。カント先生軽さの美に挑戦する、ぐらいっすか。

女性のルックスの話となると、桂枝雀師匠の「仔猫」って話のおなべさんのことを思い浮かべるんですわ。まあルックスに恵まれない女性にたいする評価みたいなの、昭和な感じで、いまとなってはちょっとつらいところもありますが、枝雀先生すごいですよね。

この枝雀先生の芸は、すごく機知に飛んでて楽しくて美であると同時に、それを実現するための苦しい修行や、彼の(おそらく)鬱っぽい気質なんかも見せてくれて、見るたびに圧倒される「崇高」なものでもある。まあ「美と崇高」はどっちかだ、両立しない、みたいな考え方しちゃだめなんだとは思います。男女の特性や美徳悪徳についても同様。そういう単純な話っておもしろいけど、けっきょくはだめなんですよね。これはカント先生も認めてる。

 

 


  1. これ、中島義道先生と解釈ちがうかもしれない。 

カント先生の『美と崇高』はおもしろいなあ

去年と今年、過去の大哲学者たちが、男と女、そしてその関係について、いかにろくでもないことを言っていたかというのを紹介する一般向け講座みたいなのをやっているのですが、読み直してやっぱり軽い哲学っていうのはおもしろいなと思いますね。昨日は大哲学者のヒューム先生とカント先生を取り上げたのですが(先週はルソーとウルストンクラフト)、その一部を紹介してみたいです。

カント先生は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』『啓蒙とかなにか』『永遠平和のために』とかギザギザした難しいタイトルのとても難しい本を書いていて有名なのですが、若いときはわりと軽い文章も書いてるんですよね。ドイツの大学の「私講師」というポジションで、一般受けしそうなネタを扱って受講生集めないとお金もらえなかったり、サロンや食事会とかでうまいこと言ってウケたいとかそういうそこそこ人間らしい事情があったのだとはおもいます。カント先生はふつう思われてるほどガチガチの融通きかない人ではなく、そこそこ助平心もあったのかもしれない。

『美と崇高の感情に関する観察』っていう1763〜4年ごろの作品(カント先生40歳ぐらい)のは徳に軽くて陽気で冗談とか入りまくって楽しい。これはカントっていう名前から想像される、ガチガチ体系哲学じゃなくて、「観察」というタイトルに表れているように、先生が自分や他の人々の社交などを観察しておもしろおかしく書いたエッセイですわね。

中心的なテーマは、我々がそれを見聞きしたり体験したり交際したりすると快や満足を感じる人や対象があるわけですが、特に「趣味」にかかわる話です。趣味は、プラモ作成とかキャンプとかのホビーじゃなくて、あの人は趣味がいいとか悪いとかっていうときの好みの方です。特に、「美」と、「崇高」のふたつに注目して、この二つで我々が好むものを分けていっておもしろい話をしましょう、というわけです。

「美」はもちろんふつうの「美しい、きれい、優美だ〜」っていうやつ、崇高の方は難しくて面倒なんですが、基本的には「すごい!えらい!」「ごつい!」「強えー!」とかそういうのにかかわるやつですね。カント先生の文章引用するとこうなる。

雪をいただく頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かに花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群におおわれた谷間の眺望、エーリシュウム〔ギリシア神話での死者たちの至福の世界、桃源郷ですか〕の叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。

この文章はまあ面倒ですが、「崇高は感動させ、美は魅惑する」ということらしいです。すごいのでこっちを圧倒してきて感動させるけど、ちょっと遠くから眺めていたいのが崇高で、きれいだったりかわいかったりしてうっとりさせてくれるのが美、と。まあわかりやすいですね。カントはいろんな優れたものをこの二つに分けていくわけです。

自然物とかだと上のよう感じですが、人間の性質でいうと、こんな感じ。

悟性は崇高で、機知は美しい。大胆は崇高であり、手管は卑小だが、美しい。……真実と誠実は単純で高貴であり、諧謔と快い媚〔こび〕は繊細で美しい。……崇高な諸性質は尊敬の念を、しかし美しい諸性質は愛をつぎ込む〔呼びよせる〕。 (p.328)

崇高なものは努力や堅さや重さや力と関係があり、美しいものは才気ややわらかさや軽さなんかと関係がある、まあそう言われると、我々が好きないろんなものが、この二つによって特徴づけられるような気がしますね。まあだからどうだってことはなくて、単なるおもしろい「お話」ではあるけど、こういう二分法とかやると、酒の席とかだといくらでも話が続けられる。太宰治の『人間失格』のなかで、主人公が友達といろんなものを喜劇(コメ)と悲劇(トラ)に分けて遊ぶ印象的なシーンがありますが、あれと似てる。ふたつに分類する、っておもしろいんですよね。まあカント先生にいわせればトラは崇高でありコメは美である、とかになると思う。

んでまあ美と崇高の話、どうしたって人間の話になるわけです、っていうかそれが目的で、自然物とか建築物とかそういうのは導入。私が興味あるのは当然男女の話。せっくすせっくす、せっくすの話しろー。ていうか私もここまで前置きが長すぎるわ。

第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」で、この章をいろいろ紹介したいのですが、今日は女性の顔の話だけ。あれ、前置きだけでかなり長くなってしまったから次のエントリに。


テキストは久保光志訳『美と崇高の感情にかんする観察』

実はカント先生とはずいぶん前に同じネタでお話させてもらっている。→ カント先生とおはなししてみよう

 

 

 

伊藤公雄先生のマーガレット・ミード

性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました

まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。

まあミードの『サモアの思春期』デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』でかなり厳しく批判されて、それがフェミニズム/ジェンダー論に対するバックラッシュに利用されたよ、でもミードのサモアの話と、(前のエントリで紹介した)伊藤公雄先生たちが使ってるSex and Temperamentのニューギニアの話は違うよ、ってな話ですね……。そうか……。……。

お前は何をいっているんだ

 

デレク・フリーマン先生の『マーガレット・ミードのサモア』は有名なのですが、パプアニューギニアの方の研究についてもデボラ・ゲワーツ先生が再調査してます。それらをもとにして、ドナルド・ブラウン先生が『ヒューマン・ユニバーサル』(1991、翻訳は2002)でミードの研究の問題についてかなり詳しく論じています。

サモア

  • デレク・フリーマンが再調査。
  • ミードはサモアの思春期にはストレスが少ないといってるが、彼女のデータでも25人の女性中4人が非行行動をとっている。最近(80年代?)のデータでも他の文化とかわらない
  • サモアにはかなり極端な性的行動のダブルスタンダードがある。
  • レイプも頻繁にある。暴力も頻繁。

パプア・ニューギニアのチャンブリ族

  • ゲワーツが70年代に再調査。
  • チャンブリの伝統的概念では男性は攻撃で女性は服従的。
  • 生産は女性がおこなうが、その産物をコントロールするのは男性。
  • 男性から女性に対する暴力も頻繁。
  • ミードが調査したとき、チャンブリ族は他の部族との戦争に負けた直後で危機的状況だった。つまり、一時的に男性の活動や男性どうしの競争がよわまった時期だったにすぎない。
  • 民族誌において、女性が公的な場で男性よりも優位にたつ社会はいまだに発見されていない。

ここらへんはものすごく有名な話なのに、2011年で伊藤先生みたいなことを書いていて平気っていうのは、いったいどういうことなのですか。もちろん、アカデミックにはまだまだ論争は続くと思う。我々素人には、偉い学者先生たちがちゃんとした研究をすすめるのを応援するしかない。がんばれー。お金まわしてあげてほしい。

でも、いかにも「バックラッシュ」勢力が、ジェンダー論を攻撃するためにフリーマン先生の適当な研究を使ってバッシングしている、みたいな表現をして、恥ずかしくないのですか。そしてそれを見ていた社会学者の先生たちはいったいなにをしていたのですか。

 

 

なぜ私はフェミニストを信頼しなくなったのか:「ミードの表」昔話

あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。

まあ加藤の論文をきっかけに、2000年代のことを思い出してたんですが、やはり印象強いのは、フェミニズムとかジェンダー論とかってものが、学問的におかしいんじゃないかと思いはじめたころのきっかけですね。2000年代にはいって今働いている会社に就職して、事情から「ジェンダー論」みたいなものを担当しなければならなくなり、それなりに勉強したんですよ。そしたら、どれ読んでもなんかへんな感じがするわけです。何読んでも出典がはっきりしなかったり、怪しげなことが書いてあったり、今では(2000年当時としても)おかしげなことが大手振るって説明されているわけです。そのなかで出会ったのが「ミードの表」問題。これは文献を調査しながらはてなブログで連載したんですが、今読んでも読者にはよくわからなくなっているので、簡単に昔話したいと思います。ジェンダー論読んでたら、マーガレット・ミードのSex and Temperament あたりの話について、同じような表が掲載されていることに気づいたんですよ。

みんな同じような表を貼ってるんだけど、どれもこれも同じようでなんかおかしい。そしてそれを読むと、なんか孫引きを繰り返しているように見えるし、途中でいろいろ変わってるし、この人々は学者としてやばいな、って思いました。

簡単に問題を整理すると、Mead (1935) Sex and Temperamentから、村田 (1987)で作成された表を、井上(1989)が引用し、それを伊藤(1996)が縦横変換して誤植を入れ、それを伊田(2004)がさらに伊藤の名を出さずにパクリ、別の本の出典を加えてる、感じですか。村田1987(初版は1979)はごく初歩的な発達心理学の教科書であり、ジェンダー論の基礎文献につかえるようなものではありません。

私がこの一連の表を調査して発見したのは、ここらへんの人はマーガレット・ミードの本(Sex and Temperament)をほとんど読まないままに、仲間内かなにかで表だけ真似しあっているのかもしれない(推測)、ということでした。

こういう人々の言うことは信頼できない、とそのとき確信したのです。伊田先生は男性フェミニストということで一時期脚光を浴びて話題になってましたが、影が薄くなりましたね。伊藤先生はその後も第一人者として活躍していますが、色々変なことを言っていて私はまったく信頼していません。


伊藤公雄『男性学入門』(2005)

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』2004

 

『ジェンダーというメガネ』(2003)

出典は「マーガレット・ミード「男性と女性」 1935」

「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」

 

 

 井上知子他『生き方としての女性論』(1989)

 

 

村田孝次 『教養の心理学』4訂版、培風館、1987

「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。

……人間に特有の現象として措定されたジェンダーという対象について,生物学は何も言うべきことがなくなるのではないか,という疑念をもつ読者がいるかもしれない.それは半分は正しく,半分は間違っている.

うしろ読むとわかるけど、実際には生物学はなにも言うべきでない、と言っているっぽいのよね。でもとにかくお話を聞きましょう。

正しい面とはこういうことだ.人間における女と男の分類について考えてみよう。男とは, あるいは女とは誰のことだろうか.それはわれわれが女として,男として名指す対象者のことである.この循環的な規定がすべての,そして唯一の出発点である.

はい、出発点なのはよいです。しかし、それがなぜ 循環的 だといわれるのかよくわからない。机、イス、ペンギンとはなにかといえば、我々が机と呼ぶもの、イスと呼ぶもの、ペンギンと呼ぶものだ。イスや机は我々が座るために、あるいは物置にするために作られたものであり、ペンギンは南極とかにいる飛べない鳥だ。なにも循環していない。なぜ「男」と「女」が循環的な規定と言われる必要があるのだろうか。

これまでのところ,それは「卵を作る個体が雌,精子を作る個体が雄」といった生物学における定義と概ね整合的である.生物学の方が自然言語における「性別」概念に依存しながら実践されてきたのだから,これは当然のことではある.だが現在においてすら,両者は完全に一致しているわけではない.われわれの自然言語は,無精子症の男性も「男」と呼ぶし,卵巣をもたない女性も「女」に分類するからである.(pp.161-162)

これは例が悪い。この意味でのオスやメスは、生物学においては、典型的には大きな配偶子をつくったり小さな配偶子をつくったりする性というにすぎない。環境や発達の過程によって配偶子をつくらない個体もいるが、それは生物学者にはなんの問題もない。そして、それぞれの個体がどういう配偶子を作るように成長するかは、大部分遺伝子が定めていることもわかっている。無精子症の男性や卵巣を持たない女性がいてもなんの問題もない。したがって、加藤先生が言いたいのはそういうことではないのだろう。

さらに近年では,諸々の社会制度における性別の取り扱いを,生殖機能にもとづいて各個に割り当てられた性別ではなく,当人の性自認(ジェンダー・アイデンテイティ)にもとづかせるべきだという主張が影響力を増している.今後,この趨勢が続くかどうかは分からない.(p.162)

生物学的な性ではなく、社会的な性の話をしているわけよね。無精子症の男性がいる話はまったく関係がない。

だが,性別の基準がどのように変化しようと,その基準にもとづく「女」「男」という人間の分類が社会的に有効であるかぎりにおいて,それがわれわれにとっての「女」「男」の,すなわち性別という概念の意味である.(p.162)

この「分類が社会的に有効であるかぎりにおいて」と「性別という概念の意味」がわかりにくい。でも我々が社会生活において「男/女」と呼んでいるものと、生物学的な「オス/メス」が同一でないというのは認めたい。

このとき,どのような基準が採用されているか,そこに生物学の知見がどのように関わっているかといった事態を明らかにすることは社会科学の固有の課題であって,生物学の関わりは二次的なものでしかない.(p.162)

これはOKではあるんだけど、我々が性別をどう判別するかとかっていうことには、心理学や認知科学や脳科学や生物学がからんでくることもあるだろう。「社会科学固有の課題」といわれてるときのポイントが私にはわかりにくい。我々の日常生活における男女の区分けがもっぱら社会や文化による恣意的な区分けである、と言いたいのだろうか。

他方,生物学の方にも,もちろん固有の課題がある.生物学の体系内で定義されたヒトの性的二型にかんする研究の意義は,ヒトが有性生殖によって繁殖する生物種である限り,なくなるはずはない.また,たとえば「性自認」といった現象が遺伝子や生育環境とどのような因果関係をもつのかといったことも興味深い問題である.あるいはさらに,「自由」という概念をヒトがもつに至る自然史的プロセス/メカニズムさえも,将来の進化生物学は解明するかもしれない.だが同時に忘れてはならないのは,これらの課題はすべて,「性別」「性自認」「自由」といった民間概念の理解に立脚し,それを媒介として,初めて可能になるということである.そして,われわれがこれら諸概念を運用するやり方を解明することは社会学の,また,それらの規範的な正当性を問うことは倫理学,法哲学,政治理論といったディシプリンに固有の課題であって,そこに生物学の権限は及ばないという,ただそれだけのことだ.(p.162)

日常的な男女の問題を考えるときには、日常的な男女の概念をよく考えねばなりません、自由の問題を考えるときは、まずは日常的な意味での自由というものを考えねばなりません、というのはもちろんまっとうな主張だと思う。文句はない。でも「生物学の権限が及ぶ」という表現の意味がわからない。「生物学的にオスである」とか「SRY遺伝子を含む染色体を含んだ細胞によって構成され身体をもっている」ということが、社会的に男性として扱われることを正当化するわけではないということかな?それなら当然認める。しかし、そんなことを考えている生物学者がいるとは思えない。

進化生物学者や進化心理学者がやろうとしているのは、進化という発想を背景にして、我々がどのような傾向性をもっているのか、環境にたいしてどのように反応する傾向があるのか、我々の生活や社会がどのようにして成立しているのか、などを解明しようとすることだと思う。まともな科学者は、簡単には社会的な規範の正当化などはおこなわないものだ。ハエやタコやカッコウや犬やネコの生態や繁殖や性生活がどのようなものであれ、そこから人間の生活についてすぐに規範的な判断や価値判断を行おうとする人々はただのインチキ科学者である。そんなの誰でも認めることではないか。それでは「権限が及ぶ」というのはどういうことなのだろうか。

一方で、生物学者が提供してくれる、進化や性淘汰といった発想や、他の動物と人間の社会や生態の比較は、我々人間とその社会についていろんなことを教えてくれる可能性がある。社会的な性差と呼ばれているものは、我々人類が、長年にわたってかわりゆく環境におうじて試行錯誤してきた結果かもしれない。それは直接には我々の社会の規範を指示するものではないけど、規範的な判断をするときの参考にはなる。我々は、生物学や進化心理学の知見を取り入れることで、性犯罪やポルノグラフィー、結婚制度、家庭内の男女分業などの問題を、もっとうまく処理できるようになるかもしれない。

つまるところ、私は加藤先生が「生物学」としてなんか批判したい見解がどのようなものかよくわかららないのよね。まともな生物学者で、加藤先生が危惧しているようなことを考えている人がいるのだろうか?私はよくわからない。そして、2019年から2020年にこういう論文を読んでよくわからないと思って苦しんでいる自分にうんざりしているのです。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました1)実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

 

 

References   [ + ]

1. 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

「ジェンダー論と生物学」 (6) 理由と原因は切り離せないとはどういう意味だろう?

さて、次の文章がおそらく重要なんだけど、読みにくいんですよね。

……ここで注意すべきは,性的二型という自然史的事実が性役割・性差別という規範的制度と関係する回路は二重であるということだ.一つは性的二型の現象それ自体が性差別をもたらす原因(cause) となる一一逆に性役割・性差別は性的二型を生じさせることもある―という〈因果関係の回路〉であり,もう一つは,性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉である.人間においても前者の水準と無縁であるわけではない.人間は自らを記述し規範性によって自らの行動を律するという性能を有する特殊な生物ではあるが,それでも生物の一種なのだ.しかし,〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである.(p.156)

前で指摘したように、「性的二型」だの「性差別」だのが具体的に何を指すのかが明確になってないのに加えて、「回路」だの「水準」だの見慣れない言葉が出てきて、社会学者以外の人々にはかなり困難な文章だと思う。がんばって読む。

一つ言われているのは、(1) 「性的二型(男女の身体的・行動的な違い)が、性差別の因果的な原因となる」ということだと思う。具体例一つぐらい出してくれればいいのにね。それに、「性差別」というのが、個別の人物がやってしまう性差別なのか、社会規範としての性差別なのかわからない。まあおそらく社会規範なんだろうけど、性差別、というのでどういうものを指しているかもわからない。たとえば、性的二型(たとえば女性におっぱいがあること)が、過去に女性が参政権をもっていなかったことの因果的な原因となっているだろうか?なってませんわね。だから、「性的二型が性差別の原因になる」とか抽象的なことを言うときには、少なくともいくつか例を示してほしいものだと思う。たとえば、「女性は男性より体力がないことが多いので、力仕事は男性にまかせて体力の必要ない作業をする傾向を持つ」とかですわね。社会学者には性的二型が性差別の原因になっている例はあまりにも多すぎて自明なのかもしれないけど、いちおう確認してほしい。でもまあがんばってそういうことがあると認めることにする。

もうひとつ言われているのは、(2) 「性役割・性差別が性的二型を生じさせることもある」。ここで混乱するのは、まえに指摘したように「性的二型」が何をさしているのかはっきりしてないからよね。おそらく体の大きさや生殖器の構造・機能とかではなく、行動の違いまで指しているはずだ。おそらく、「人々の社会的な通念や思い込みが、人々の性に応じた振る舞いや他人の扱いに影響を与える」ぐらいなんだと思う。「男は仕事、女は家事」っていう思い込みがあるので、人々はそういうふうに振る舞うようになる、ぐらいの話だと思う。まあOK。

「性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉」はものすごく理解しにくい。この文章、「性差」じゃなくて「性的二型」じゃだめなんかな。それに「意味づけ」が社会学者以外にはわかりにくい。ふつうの人々の言葉づかいなら「解釈」ぐらいのはず。つまり、言われているのは、(3) 「性的二型をどう解釈するかということが、社会や個人の性差別を正当化する(当人たちにとっての)理由になる」ぐらいだと思う。

ここまで読むのでぜいぜいっていう感じですね。そしてやっと問題の「〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである」が来る。

あれほどがんばっても、私はこの文章を理解することができない。加藤先生の言いたいことをふつうの書き方でいけば次のようになるはずだ。

人間の男女の 性差(性的二型)が存在することから、因果的に、社会での性役割分業や性差別が生じることがある。また、社会にすでに存在している性役割分業や性差別から、因果的に、男女の行動の差が生じることもある。さらには、そうした性差/性的二型が、性役割分業や性差別の正当化の理由とされることもある。

ここまではOK。しかし、続きがわからない。因果関係の話と、正当化の話が切り離せないのはなぜだろう?どういう意味で切り離せないのだろう?なぜ切り離せないのだろう? それはなにか概念的に必然的な話なのか、人間の心理的で偶然的な話なのか、どちらなのだろう?因果関係の話は正当化の話に「包摂される」とはどういうことだろう?因果関係の話が正当化の話を構成する一つの水準としてしか把握することができない、というのはどういいうことだろう?「把握する」のはいったいだれだろう?学者?

こういうの私わからんのですよね。私だけが読めないわけではないと思う。社会学者の先生どうしもよくわからず読み書きしてるんじゃないかと疑ってるんですが、どうですか。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。

ごく初期の論文(Thornhill 1980)を批判するなかでゴワティやハーディングは、「この論文中では進化的機能を含めて“レイプ”を定義しているが、そうした定義は、この用語が人間についての出来事に関して一般的に用いられるのとは、異なるものである」といったことを述べている。しかしながら、定義に進化的要素を含めているからといって、その著者が、レイプは進化によってもたらされた自然なものであることを根拠にそれを正当化しようとする隠れた意図を持っていると考えるべき合理的な理由は、どこにもない。(p.224)

なにを指しているのかはっきりしていて、またそれを単純に人間の行動の道徳的な価値判断とかに利用しないならば問題はない。

自然主義の誤謬があくまでも誤謬であることを理解している人にとっては不合理きわまりなく思えることだが、レイプを“正当化”することへの恐れから、進化的説明に反対する多くの批判者が、レイプは人間だけのものだと考えようとする。これまで数多くのひはんしゃたちが、レイプは人間だけにしかないという意味をこめて、「どのような状況下においても、人間以外の生き物については“レイプ”という言葉を使うべきではない」と強硬に主張してきた。しかし現実には、この言葉を聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのが人間についての例であるせよ、それを人間以外に当てはめていけない理由はない。たとえば“セックス”という言葉にしても、それを聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは人間のことだろうが、それとともに他の生き物についても、この言葉はごく日常的に用いられている。(p. 226)

これおもしろいですね。ハエのセックスとかタコのセックスとか、人間のとはずいぶんちがうかもしれませんが、まあそれなりにどういうことかわかるし混乱もしない。タコやイカが触手つかってセックスするからといって、そうしない人間が道徳的に不正だということにはなりませんしね。

 

……レイプは人間独自のものだと定義してしまうと、人間のレイプの要因について参考になるかもしれない、それ以外の生き物たちの行動を、最初から除外して考えることになってしまう。実際、要因を理解する上で生物学の基本的な手段となっている比較分析の重要性を、そうした限定的な定義は否定することになってしまうのだ。(pp. 226-227)

レイプを、かならずしも物理的に暴力的であるとはかぎらないなんらかの意味で強制的な(あるいは強制的に見える)交尾と定義してみると、いろんな生物でそういうのは見られて、そういう行動がどういう条件下で起こるかそれぞれの動物の特性や環境や条件など考え合わせるとおもしろいことがわかってくる。人間もそういう研究の対象になりうるわけです。「浮気」も同じですね。

 

     

    「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

    なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。

    これは加藤先生の文章を読んでも私にはピンとこない。というわけでズック先生のを見なければならないのだけど、ズック先生が言いたいことも実はよくわからんのですわ。

    鳥たちは、「浮気している」のではなく、ただするべきことをしているにすぎない。(ズック p.120)

    これ読むと、「鳥は浮気をするべきなのか!」と読んでしまう人がいるかもしれないけど、原文は ‘The birds aren’t “cheating”, they are just what they do’ なので、鳥というのはそういうことをするものだということですわね。べつにしなきゃならんとか、しないと道徳的に非難されるとかそういうことではない。

    まあよく読むと、ズック先生が言いたいのは、加藤先生が引用していない次の箇所。

    もし鳥たちの行動を、私たち自身の行動のためのモデルや正当化の手段として使用しようとするなら、私たちは自分たちのモラルについてきわめて不確実な根拠に基づいて決定を下す危険を冒すことになる……(p.120)

    これはまったく正しい主張ですね。つまり、鳥が「浮気」と呼べる行動をする、そしてそれは我々人間の行動とよく似ているとしても、だからといって我々人間が鳥と同じように「浮気」することが道徳的に正当化されるとか、当然のことだとか、許容されるべきだということにはならない。当たり前のことです。しかし、「浮気」という言葉を鳥の行動に適用してしまうと、鳥では許されるのだから人間でもゆるされるべきだ、と考えるやつが出てくるということだろうか。まあそういうことを考える人はいるかもしれないけど、それは生物学の専門用語や比喩としての「浮気」を批判するよりは、鳥と人間の区別がつかないような人々の考え方を非難した方がいいのではないか。

    まあでも、言葉づかいによるバイアスが、生物学研究や、人間社会研究に影響を及ぼすということは十分ありえるので、どんなに注意しても注意しすぎることはない、ぐらいは認めてもよい。

    しかし加藤先生の続く箇所はまた別の意味でわかりにくい。

    同じ理由から,ズックは『ネイチャー』誌に掲載された論文の一つが鳴禽類のヒナたちを「婚外子」(“illegitimate”)と呼んだことについて,「鳥の親たちが鳥用の小さな結婚証明証でも持っていて,誓いの言葉でもさえずったかのよう」だと批判している(Zuk 2002: 71=2008: 121) .言うまでもないことだが,鳥ーーだけでなく人間以外のすべての生物—は「結婚」などしない.かれらは自らの行動を「結婚」という規範的制度に結びつけて意味づけたりはしないからである.鳥類の一部が「一夫一妻」風のつがいを形成するのは,進化の結果としてそのような行動上の傾向性を獲得した結果であり,そしてそれがすべてであって,人間のように,それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているからではない.

    たしかに、結婚証明書を作る、という意味では鳥は「結婚」なんかしない。しかし、同じように結婚証明書を作らないでカップルになったりセックスしたり子供をつくったりした人々は世界中にたくさんいたし、いまもたくさんいる。というか結婚証明書を作るという意味で結婚した人々など、人類の歴史のなかではほんのわずかにすぎないだろう。では、結婚証明書を作らなかった人々は結婚しなかったのか?

    そうではない。加藤先生が言いたいのは、自分たちの行動を「結婚」という規範的制度なるものに結びつけて意味づけている人々だけが結婚したといえる、ということだろう。これは社会学者らしいものの見方だと思う。社会学者にとっての関心事は、こうした再帰性というか自己意識的というか、そうした性質をもつ社会制度が現在の社会でどのように機能しているかとか、歴史的にどのようにして成立してきたかとか、今度どうなっていくかとか、そういうことであるというのはよくわかる。

    しかし、人間社会の結婚制度を考えるときに、生物として、哺乳類としての人間がもっているさまざまな生活や繁殖の上での条件制約を考慮に入れることは当然必要であるように思われる。人間の生殖に関しても、他の動物、他の哺乳類や、特に鳥のようにつがいになって繁殖する傾向のある動物との類似や対比から学ぶことことは多いはずであり、鳥のつがい行動を、それは結婚証明書を作ってないので、あるいは自分たちが結婚しているとは理解していないので、「結婚」ではないのだ、と一蹴してしまう必要があるだろうか。また、人間が性的なペアや集団になる傾向をもっているのは、単に「それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているから」と考えて十分だろうか。もちろん、人間は現在どの文化においても「結婚」という排他的制度をもっているわけだけど、そうした制度をもっているのは単なる偶然ではないはずだ。そして、結婚関係をむすんでペアやグループになるのは、それにしたがわないと社会的なサンクション(制裁)を受けるからという理由だけではないはずだ。そんな単純な話になっているはずがない。私の読みが悪いのかもしれませんが、かなり不用意な文章になってるんではないかと思うのです。

     

    「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

    まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

    これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

    「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

    だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

    「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

    鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

    この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

    なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

    っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

     

     

     

    パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である

     

    まえのエントリに続いて、瀬川先生の「人格」に関する論文はもう一本「人格であることと自律的人格であることを区別することの意義」というのがあり、これも気になるところがあるので最初の方だけコメントしておきたいと思います。

    問題設定

    というのも胎児がすでに人格と見なされるのであれば、胎児には私たち成人と同等の道徳的地位が認められ、それゆえ中絶は定言的に容認不可能となるからである。あるいは反対に、胎児がまだ人格と見なされないのであれば、胎児にはいかなる道徳的地位も認められないがゆえに、中絶は定言的に容認可能となる。(p.33)

    これは不用意な書き方だと思う。胎児がすでに人格だとして、そこから成人と同等の道徳的地位が認められるとは限らないし、また中絶が「定言的に容認不可能」になるともかぎらない。死刑囚は人格(人)であるが我々と同じ法的地位が認められないように、胎児が人格だとしてもそこから直接に成人と同じ道徳的地位を持つとはいえない。また、胎児が人であるとしても、母体の生命が危険にさらされているなら中絶が容認されることもありえる。とにかく、こうした論理的関係はどういう前提にもとづいているのかはっきり書いてもらう必要がある。

    本稿ではこうした議論を背景に、人格であることは同時に自律的人格を意味するのかという問いに取り組む。もしこの時点ですでに本稿の問いに違和感を覚える人がいれば、その人は場合によっては「人格とは自律的である」ということを出発点に据えているのかもしれない。

    「人格とは自律的である」という表現には、日本語としてかなり違和感がある。「ある存在者が人格であるということは、その存在者は自律的であるということを意味する」ということだろうか。

    しかしながらこうした人格概念理解は、二つの点で問題がある。第一に、この理解では人格の下したあらゆる決定が自律的と見なされることになり、こうした帰結はとりわけ終末期における死のあり方をめぐる議論を念頭に置いた場合、受け入れ難い。というのも、医師による自殺幇助や要求に基づいて殺すことの容認派の論拠である自律の尊重原理に従えば、もし私が人格であるだけではなく、同時につねに自律的人格であるならば、私が不自然なほど唐突に要求に基づいて殺すことという死のあり方を望んだとしても、その決定は道徳的に容認されることになってしまうからである。

    「人格(人)は自律的である」ということがどういうことなのか説明されていないので理解できない。人間の成人は多くの場合自律的であるとみされるが、これはその人が、(いろんなことがらについて)あるていど十分な判断能力があり、また自分の判断にしたがって行為できる、ということを指しているはずだ。

    しかし、こういう意味で人間あるいは人が自律的だからといって、「あらゆる決定が自律的である」とみなさねばならないわけではない。私が寝ぼけてるとき、あるいは酒に酔っ払ってるとき、あるいはなんか嫌なことがあってイライラしているときに下した判断は必ずしも十分理性的でもなければ自律的でもない場合がある。「常に自律的」であるような人物など現実には存在しないだろう。それなのに、「人格を自律的だと考えると、常に当人が望む死や自殺幇助を受け入れるべきだ」と考えるのはあまりにも馬鹿げている。

    シンガーの議論

    認められるのかである。第一の問いに対してシンガーは、ある存在が生物学的に人間という種に属するという理由から、その存在の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできないと断言する。そうした人間的存在とは、例えば胎児などが該当する。

    非常にこまかい話だけど、この表現はすこしよくない。できれば「ある存在者が生物学的にホモサピエンスという種に属するという理由だけでは、その存在者の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできない」の方がよい。(1) こういう文脈では、「存在」よりは「存在者」の方がはっきりしている。「生命個体」みたいなのでもいいかもしれない。(2) 「人間」huma beingsがホモサピエンスという種のメンバーだけを指すのか、そうでないのかが明白でない。(3) 「Aという理由からBできない」というタイプの表現は(慣れない読者には)誤読の可能性がある。「AだからBできないのだな」と呼んでしまう人がいる。「「AだからB」というわけにはいきませんよ」というのをはっきり示したい。

    シンガーから見ると、人間という生物学的事実に依拠して人間に高い価値を与えるのは、種差別主義にほかならないのである。

    これもOKではあるが、誤解を招きやすい。人間であるという生物学的事実が、なんらかの種類の規範的な判断にむすびつくならば、人間に高い道徳的地位を与えることには問題がない。たとえば、人間は高度な判断力をもっているという事実と、高度な判断力をもつ存在者はそうでない存在者とは違った特別な道徳的地位をもつという規範的判断が存在すれば、「人間であるという生物学的事実に依拠して」人間に特別な道徳的地位を与えることは問題がない。誤解のないように表現するとすれば、「その存在者がホモサピエンス個体であるという単なる生物学的事実だけに依拠して特別な道徳的地位を与えるのは〜」のような形になる。

    シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。

    まあこれはこれでOK。人間の多くは(まずまず)自律的であり、その意味で人格であると呼ばれる。

    シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。しかしここでの問題は、「人格は自律的である」という言明から、すべての人格が自律的であるという命題を導き出すことができないということである。なぜなら、特殊から普遍を導くのは誤謬推理だからである。

    これはそのとおり。しかし表現がわるい。「ある人格(人)が自律的である」から「すべての人格が自律的である」はいえない、と表現してほしい。

    「自律」が意味するのは、選択し自分で決断をなし、それにしがたって行為する能力である。理性的で自己意識を持った存在〔人格〕は、 おそらく (presumably) この能力を持っている。
    〔〕ならびに傍点は引用者による。

    (江口が傍点を下線にした。原文は ‘Autonomy’ here refers to the capacity to choose and to act on one’s own decisions. Rational and self-aware beings presumably have this capacity,……. (Singer. Practical Ethics (p.84))

    ……注目すべきは、引用にある「おそらく」という副詞である。特定の人間が人格であり、自律的であるという見解は、広く共有されている。例えばそうした人間的存在者としては、シンガー自身が該当するだろう。シンガーがこうした明白な事例を念頭においていたならば、彼は「おそらく」という副詞を用いなかったはずである。しかしよく知られているように、シンガーはチンパンジーをも人格と理解している。そうであるからこそ、彼は「おそらく」という副詞を使用せざるを得ないのである。なぜなら、チンパンジーを人格と見なすという見解が受け入れ可能であったとしても、同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。

    いきなりチンパンジーがでてきたので驚いた。このpresumablyがなぜ必要なのかというのは別の説明がある。

    presumeというのは、はっきりと真であるとはまだわかっていないけど、だいたい真であると推定する、ぐらいの意味。presumptionとかっていうのは推定、想定ですわね。十分な証拠はないかもしれないけど、とりあえずそうだということにしておこう、ぐらい。たとえば、結婚しているときに子どもができたら、それは結婚している男性の子どもだと推定しておこう、ぐらい。合理的で自己意識をもっている存在者は、必ずそうだとはいえないかもしれないし、場合によってはそうない場合もあるかもしれないけど、だいたい自分で決定し、その決定にしたがって行為する能力をもっていると想定しましょう、ということだ。チンパンジーは必要ない。

    まあもちろんチンパンジーも、少なくとも3歳児程度には、十分合理的で自己意識をもち、自分で決定しそれにもとづいて行為する能力をもっているかもしれないけど、それはここでは関係ない。

    同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。引用文にある人格という用語から特定の人格(チンパンジー)を除外させることなく、かつ日常的直観との乖離を無視することもできなかったがゆえに、シンガーは「おそらく」という副詞を付加したと考えられる。すなわち、シンガーは自律的であり、チンパンジーもおそらく自律的なのである。このことから帰結するのは、シンガーがあらゆる人格を自律的人格と理解しているということである。

    瀬川先生は「シンガーはチンパンジーをひいきしたいがために「おそらく」といれたのだ、みたいな読みをしたいのかもしれないけど、優秀な哲学の議論はそういうふうにはなってない。へんな意図や陰謀みたいなものを想定しそうになってしまったら、まずはまわりの人と議論してみるのがよいだろうと思うのです。

    そして最後のシンガーが「あらゆる人格を自律的人格と理解している」も理解できない、おそらくまちがっている。我々は人格と呼ばれるけど、一時的に合理的でなかったり自己意識をもっていなかったり、まともな判断ができなかったり自律的でなかったりする場合はよくある。そんな当たり前のことをふつうの哲学者がわからないはずがないじゃないですか。もっとふつうに議論しましょうよ。

    あと、この論文も翻訳あるものはちゃんと文献リストにあげてほしい。シンガーの『実践の倫理』の第3版は翻訳ないけど、第2版のならあるし、該当箇所は同じなので一応言及してあげてほしい。剽窃とかそういう問題ではなく、読者へのサービスとして。もちろんそういうのは手間かかることだからいつもいつもできるわけじゃないけど、もっと翻訳してくれた人に感謝示すような文化つくりましょうよ。

     

    「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

    んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

    ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

    まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

    生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

    ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

    ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

    上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

    もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

    ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

    なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

    なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

    社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

    まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

     

    読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

    途中で引用したのは下の。

    日本ポピュラー音楽学会で発表しました

    そういや、12月には日本ポピュラー音楽学会で発表させてもらったのでした。タイトルは「大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用」。

    私は実は「自発的に学会で個人発表するオヤジの会」会員なので、毎年なんらかの形で自発的に発表しなければならないんですわ。偉い先生たちはシンポジウムに招待されたり、研究会でも強くお願いされたりしてやむなく話をするのが普通なのですが、我々自発的オヤジの会会員は、そうした要請とかないので自分で出張るのです。

    私は会員歴も長いので、「ぜんぜん自分の本来の専門と関係ない学会に自発的に新規入会して、さらに発表する」という非常に難度の高い課題に挑戦しました。50歳を超えてこういうのするの、学会としては迷惑なんでしょうけどそういうの無視する、会費払ってるんだから発表させろ、そういう強い態度が望ましいとされています。

    まあこの学会とても楽しかったですね。倫理学とか生命倫理学とかジェンダー論とかって、どうも暗い。人々の苦しみを想像して辛い。でも音楽は基本はもう美しく楽しいばっかりっすからね。懇親会も、学会当局がちんどん屋さん呼んでくれて、ちんどん屋にひかれて会場に移動、会場でも演奏を聞くってんでとてもよかったです。

    チンドン屋さん

    学会員を懇親会に誘導するチンドン屋さん

    というわけで、まあいちおう発表につかったスライドのPDFあげときますね。そのうちまともな文章にしたいとおもっていますが、だいぶ先になるでしょう。

     

    大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用

     

     

    関係した翻訳がいちおう出版されましたので買ってください

    2019年度、関係していた翻訳が2冊出版されたんですよね。

    どっちも予定や締切を大幅に遅れに遅れて、関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。ウィリアムズの方はどろどろの文章で訳すどころか言いたいことを読み取るにも苦労しました。ミルの方は知識が足りなくてうまく訳せない。

    なにより訳語の不統一や誤字誤植が最後まで残ってしまって、私そういう作業がほんとうに苦手で何度もヘソを噛み切って死なねばならないとつらい思いをしました。もうこういう経験はしたくない。特にミルの方は途中で投げ出してしまい、「もう私なにもできないのでそちらで適当におねがいします、名前出さなくてもかまいません、むしろ出さないほうがいい」ぐらいの話にまで至ってたのですが、いろんな事情から名前がでてしまった。いろいろ忸怩たるものがあります。

    でもまあ可能なら買ってください。ウィリアムズの方はいちおう20世紀の後半、80年代ぐらいの倫理学の方向性を決めたような重要な本だし(私はそういうの納得してないのですが)、ミルの方は誤謬推理(詭弁)の研究で、とてもおもしろいはずです。誤訳や誤植残っていると思いますので教えて下さい(他力本願)。岡本先生や佐々木先生の解説もよいです。誤謬推理の話はおもしろいから、時間があったら少しずつ紹介したい。っていうか、前の「宇崎ちゃん」の話はそれやるつもりだったのですが、なんかへんな方向に進んでしまった。ははは。

    まあ正直、このふたつの仕事がずっと残っていて、自分がやるべき仕事ができなかった、みたいな感じもあるのです。これが終わってさあやりたいことをやろう、とか思ったのですが、もう浦島太郎でおじいさんすぎてなにもできませんわね。まあ失敗した勉強人生な感じ。とにかく私は下手な翻訳関係で時間つぶしすぎましたね。

    個人的な思いとしては、この2つはどちらも共同作業なので自分の好きなようにはできなかったのですが、これもよくなかった。私は協調性が足りないので、とにかくなんでも自分の好きなように、自分がすみからすみまでコントロールできないと意欲がわかない男だったようでもあります。これからは全部自分が決定できることしかしない。(そしてそんなことはこの世には存在しないのでなにもしない。ははは。)

    私から若い人々にアドバイスするとすれば、翻訳の仕事はとても勉強になるので声がかかったら1、2回やってみるのはよいと思うのですが、人によってはかけた労力ほどの実りがないと思うことも多いだろうし、現代ではとにかく出版が大事なのでやっぱりそっち優先するべきじゃないかと思いますね。

     

     

    パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ

    長年苦しんでいた分担翻訳がとにもかくにも出版されて、やっと、ずっとどうにもならなかった締切から解放された感じで、これからは好きなことをしていきたい。しかし浦島太郎状態。生物学的にお陀仏になる前に、いくつかやっておきたいことがあるんですが、その一つは生命倫理、特にパーソン論まわりよね、ってなわけで最近の国内論文ちょっと見てたんですが、色々困惑してしまう。

    たとえば日本生命倫理学会の雑誌『生命倫理』第28巻の瀬川真吾先生の「生命医療倫理学における人格概念の限界とその有用性」、混乱してしまって2、3日ずっと、自分がなぜ理解できないのか考えてしまってました。

    論文お作法の問題

    まず一般的なお作法として、次のような注文がある。

    • ジープ、ビルンバッハー、クヴァンテといった論者の著作が参照されているが、 翻訳のあるものはそれにも言及してほしい 。もちろん翻訳は一切見なかったというのであれば言及の必要はないし、また言及困難だろうからその必要はない。
    • 参照文献の指示をいわゆるauthor-yearでおこなうならば、 文献リストはアルファベット順にしてほしい 。そうでないとauthor-yearの意味がない。
    • また、後注にまわさずとも文中ですませてもよいのではないか。後注は煩雑になる。

    これは著者というよりは、査読方針と査読者の問題ですね。雑誌の編集方針もあるんで微妙なんですが、私日本の生命倫理業界がお作法できてないのとても気になるのです。

    マイケル・トゥーリーの主張の理解

    ……マイケル・トゥーリーは、異なった時点と地点において自己自身を自己自身として把握するというロックの人格概念に立ち返ることで、生後12週目までの新生児は人格ではないというテーゼを立て、あらゆる中絶を道徳的に容認可能なものと見なす (p.23)

    上はOKだとしても、

      「特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(トゥーリー)」 (p.23)

    は言いすぎではないだろうか。トゥーリーは、ヒト胚や脳死者には生命に対する重大な権利をみとめなくても問題はないと考えているかもしれないが、いかなる道徳的地位も認めないかどうかはよくわからない。また「人間的存在」ということで何を意味しているのか読者にはわからない。「人間の遺伝子をもった個体」ぐらいだと思うが、説明が必要。

    ちなみに、このトゥーリーに対する注(4)はTooley 1983とされているだけで、ページがついていない(他はついていることがおおい)。300ページもある本から典拠確認するのはとても大変というか無理なので、ページとはいかないまでも(最近は電子書籍も多いし)章ぐらいは指示してほしい

    「カントやロックの人格概念は、生物学的な意味で人間であることと認知的な意味で人格であることを明確に区別し」(p.23)

    「認知的な意味で人格」はよくわからない。生命倫理学で人格(パーソン)についての議論がなされる場合は、生物学的な意味のパーソンと、規範的/道徳的/法的な意味のパーソンを区別するのだが、認知的な意味とはなんだろうか。この「認知的」は「感情的」「意思的/欲求的」などと対立される意味ではないだろう。「認知能力の意味での人格」も奇妙だと思う。

    ふつうの解釈をすれば、生物学的な「人間(ヒト)」と、道徳的・法的な意味での「人格」を区別し、道徳的・法的な意味での人格を、主として認知的な能力によって特徴づける、ぐらい。

    。しかし定言的にあらゆる人間的存在に同等の道徳的地位を認める(……)、あるいは特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(……)というのは、生命の初期段階にある人間的存在に対する日常理解と両立しないだけではなく、そうした存在の道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げているという意味で不適切なのである。(p.23)

    細かいが、この文章はわかりにくい。胚に成人と同様の道徳的地位を認めるのも、あるいは認めないのも、それは論者の立場によるだろう。瀬川先生はそれが(われわれの)「日常的な理解」と両立しないと指摘するわけだけど、これも「だからどうした」といわれる可能性がある。まあ日常的な理解がそのまま使えるならば最初から中絶やヒト胚の実験利用などの倫理的問題は存在しないかもしれないし。さらに、「道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げている」というのもよくわからない。もっとぶちゃけて書けば、「ヒト胚に成人と同様の道徳的地位を認めたり、あるいはまったく道徳的地位を認めなかったりすると、議論しにくい」ということになるんだろうけど、これは論点先取の誤謬推理になっていると思う。最初から「ヒト胚や脳死者には微妙な道徳的地位を割り当てたい」という前提があるとしか思えない。

    現代倫理学にとっておそらくもっとも根本的な問いとは、「当事者」の主観的な感覚ないし欲求だけが正しい行為のために重要なものなのかどうかである(p.24)

    これはジープの文章なので瀬川先生に責任はないが、「正しい行為」が誰の正しい行為であるか、また誰にとって正しい行為であるかが不明。まあたとえば、「行為者や被行為者の感覚、欲求、主観的経験だけによって、ある行為の正しさが判断されるのか、それ以外の要素も重要なのか」とかそういう問いだと思う。しかしこうして書いてしまうと、行為者や被行為者の感覚や欲求などの主観 だけ が重要だなんて主張する倫理学者がいるとは思えませんよね。

    第1節と第2節のあらまし

    第1節ではジープ先生が人格(人)であるかどうかを、有か無か、ゼロかイチかの観念としてとらえないで、発展的段階・衰退的段階をもつものとして扱おうとしたという話だと思う。まあ人かそれ以外(物)か、みたいな発想にはどっかおかしいところがあるかもしれないので、これはこれでありの立場だと思う。

    第2節ではビルンバッハー先生が「人格」(人)という概念使うのはもうやめてしまおうって主張している(らしい)ことの紹介で、まあこれもありの立場だと思う。ジープ先生のもビルンバッハー先生のも、80年代〜90年代前半くらいの英語圏の生命倫理学の議論ならごくふつうの立場ですね。

    第2節の細かいところ

    第2節の方の議論はちょっと問題があるので、詳しく見る。

    中絶をめぐる議論における人格概念の争点は、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格であるのかという問いにおいて先鋭化する。ビルンバッハーは、この問いを肯定する立場を「同等説」、それを否定する立場を「非同等説」と呼ぶ。

    ここまではOK。

    同等説によれば、人間と人格の概念は外延的に一致し、あらゆる道徳的権利を有する人格だけが道徳的な保護対象であるとされる。そこでのジレンマは、胎児のみならず、もっとも初期段階における受精卵にも成人と同等の道徳的権利が認められねばならず、例えばそれらの存在と母親の生命との比較考慮といった可能性が例外なく閉ざされることである(同等説のジレンマ)。

    「ジレンマ」の意味がおかしいと思う。ジレンマというのは、AかBかの選択肢があり、そのどちらをとっても受け入れがたい帰結がある選択や論法を言うと思う。「受け入れがたい帰結」はジレンマそのものじゃないので、普通は「受け入れがたい帰結の一つは〜」とか、「ジレンマの一方のツノ(horn)は〜」とか表現するものだと思う。

    んで、人間と人格(人)の外延は同じである、人間はすべて人格であり、人格はすべて人間である、と考えると受け入れがたい帰結が存在するだろうか?瀬川先生はそう考えると、妊娠中絶が全部禁止されるから困る、と言いたいようだけど、妊娠中絶反対派はまさにそう考えているのでなにも困らない。

    非同等説は、人間と人格という概念を外延的に異なるとものと見なす。ここでのジレンマは、人格性を満たしていないであろう胎児や新生児に、いかなる道徳的権利も認められないという事態である( 非同等説のジレンマ)。

    こっちのジレンマの角については、上の角の説明より、さらに問題が大きい。ある存在者が人格(人)でないからといって、「いかなる」道徳的権利も認められないということにはならない。たとえば私は(トゥーリーと同じように)、子猫は人間の単なる楽しみのために痛めつけられない権利があると考える(つまり、私は人間は単なる楽しみのために子猫を痛めつけるべきではないと考えている)。ある存在者が人格でないならば、人格と同じような道徳的権利はもたないかもしれないが、もつかもしれない。これはそれぞれの道徳的権利の根拠がどのようなものであるかに依存するのであり、人格かそうでないかによって自動的に決まるようなものではない。

    同等説と非同等説

    ビルンバッハーは、同等説と非同等説のジレンマを回避する上で人格概念が寄与しないことを論じることで、自らのテーゼを基礎付けようとする。

    もうすこしおつきあいして細かく見ていく。

    ビルンバッハーにしたがえば、ジレンマを解消するために同等説は、認知能力の基準からすれば現時点では人格とは見なされない人間を、すでに人格性を満たした人間が人格として知覚し承認することで物としてではなく、人格として扱われるのであるという戦略を展開した(「再構成主義的戦略」)。

    まあこれは昔からエンゲルハート先生とかやってるやつですね。しかし、これ「同等説が〜という戦略を展開した」ってのは非常に奇妙で、なんでそんな「説」が戦略を展開したりできるんでしょうか。戦略を展開できるのはあくまで論者なのではないか。

    それゆえ同等説の枠組みでは、胎児のような人間的存在が実際に人格であるのかという存在論的な事実をめぐる論争はもはや生じない。しかしビルンバッハーが指摘するように、再構成主義的戦略はジレンマを回避する上で三つの点で不十分である。

    「存在論的事実」みたいな語句の説明がそれ以前には行われてないと思う。

    第一にこの戦略は、いわゆる限界事例[に?]おける人間が存在論的にも人格であるという同等説のもっとも基礎的な主張と矛盾する。

    「存在論的にも人格である」に目をつぶるとして、この論点は、上の「説」と「論者」を混同することから来ている問題 だと思う。たしかにあるタイプのヒト(人間的存在)を人格(人)だとみなさないのであれば、それはもう「同等説」ではない。しかしそんなことを言ってどうなるのだ。

    第二に、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格として知覚され承認されるという想定は、例えば現象的に私たちとは似ているとは言いがたい受精卵といった限界事例にも妥当するのかは疑わしい。

    「知覚され承認される」の「承認する」の方はともかく、「知覚」の方は必要なのだろうか。「それが人に見える」ということから、「人として承認する」という形になっているのだろうか。「現象的」もわかりにくいが、とりあえず胚や胎児は人間には似ていないので人格(人)ではないとすることができるのだろうか。タコのような姿だが知的で友好的な火星人がいたら、彼らも現象的には人間に似ていないので人格ではないということになるだろうか。どういう姿をしているか知らないが、天使というものが存在するとしたら、彼らは人格はないのだろうか。

    第三にこの戦略は、その戦略の支持者同士で広く共有されている前提を、それを支持しない者に適用することができない。同等説が人格だけを道徳的権利の担い手とし、人間と人格の外延の一致という枠組みを維持する限り、同等説はジレンマを回避することができない。ビルンバッハーは、まさに人格概念こそが、ジレンマの回避を妨げる原因であると診断する。

    一般に、議論上のどういう戦略であれ、議論の前提をそれを支持しない人々に対して認めされるのは難しい。なぜこれが問題なのだろうか。ここらへん、ビルンバッハーと瀬川先生がなにを議論しているのか私にはわからない。

    非同等説は、自らの抱えるジレンマを回避する上で人格概念が不要であるという見解を明確に打ち出す。

    わからん。ビルンバッハーはそういうふうに解釈しているということか。

    特定の認知能力が人格性にとって不可欠であり、人格だけが道徳的権利の保有者であるならば、人格概念は道徳的権利を認めるための閾値概念とならざるをえないがゆえに、非同等説はこの概念を放棄するのである。

    わからん。「人格だけが道徳的権利の保有者」という前提はどこから来たのだろうか。「閾値概念」も内実不明。なぜ非同等説が人格という概念を捨てることになるのかまったくわからない。

    したがってビルンバッハーのテーゼを見れば明らかなように、彼は非同等説の支持者の一人である。人格概念の放棄によって非同等説は、道徳的権利が人格にのみ認められるという想定から解放され、非人格を特定の道徳的権利を有する存在と捉えることが可能となる。

    そもそも人格概念を放棄するというのはどういうことかわからない。「人格」という言葉をもう使わないということなのか、存在者を道徳的に地位づけるときに「人格」であるかどうかをさほど重視しないということか。おそらく後者だと思うが、それならそうとはっきり述べるべきだと思う。

    しかしこうした立場からは、道徳的権利の基礎付けに関する原理的な問いが生じる。非同等説は道徳的権利の根拠を、ある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出している。それによれば、ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むからである。

    そもそもこの非同等説なるものは、誰の説なのか。トゥーリー? トゥーリーの説は、道徳的権利の根拠をある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出しているのか?どこでそういうことがいわれているのか?「ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むから」といったことは一体誰が述べているのか?でたらめではないのか?

    トゥーリーが(1972年の論文で)述べているのは、ある存在者が道徳的権利Xをもつ必要条件として、その存在者がXをもちたいと望むことができることが要求される、ということであり、XをもちたいからXをもつ権利が認められることになるわけではない。私はいま1億円ほしいが、1億円もっている権利をもっているわけではない(がんばって働いて1億円稼いで手に入れる権利はもっているだろうが)。多くの死刑囚はまだ生きていたいだろうが、もはやふつうの意味では生命に対する権利を持っていないと思う。

    非同等説は、道徳的権利を基礎付ける上で権利とその権利に対応した能力の一致関係を前提とする。それゆえ、例えば苦痛を回避する権利は、感受能力に立ち返ることで痛みを感じる段階にまで発達した胎児や新生児にも帰属させることができる。こうした方法で生命初期における人間的存在を道徳的な保護対象と見なせるのであれば、人格概念は非同等説の陥るジレンマを回避する上でいかなる役割も果たさないということになる。

    わからない。まあ人格かどうかという区別にさほど重要性を認めないでも倫理学理論はうまくいくと思われるが、それが「人格概念を放棄する」ということなのだろうか。別に放棄しなくてもいいのではないか。

    第3節

    私が読みとれたあらすじは次のようになる。ビルンバッハーのように、生命倫理学の規範的な議論において「人格かそうではないか」をさほど重視しない立場があり、ビルンバッハー実際に「放棄する」と言っているが、「人格」という言葉や概念がまだ重要な生命倫理学の領域がある。それが「臨死介助」の問題だということらしい。臨死介助というのは、国内では一般に消極的/積極的な「安楽死」とかそういうふうに呼ばれてる分野で、まあ本人が望んでいるときに、延命治療を控えたり、薬剤によって死ぬのを早めたりするのをさす。そうした臨死介助なるものが常に不正だとかってことにはならないし、場合よっては許されるべきだと多くの人思うと思うんだけど、本人が望んでさえいれば医療関係者がその人をさっさと死なせたりするのはやっぱりやばいわけだ。ではどういう場合に許されるか。瀬川先生によれば、ここでパーソナリティというものが大事で、パーソナリティにはある程度の一貫性が必要で、本人が望んでいても、それが過去のその人のパーソナリティにそぐわないものだったら本人のじゃないと考えていいとかそういうことを言いたいらしい。でもよくわからない。

    だって、これってパーソナリティの一貫性とか、当人の意思が真正なものかとか、どういう意思を尊重するべきかとかそういう問題ではあるけど、第1節や第2節であつかっていた、ある存在者が人格であるかどうかが重要かどうかという話とはまったく関係がないですからね。

    この論文も、けっきょく「人格」という多義的な語を避けて、「人」とか「パーソナリティ」という語だけをもちいればこんな変な議論にはならなかったと思うのです。

    昔書いた論文でも指摘しましたが、この、「ある存在者が人格(人)であるかどうか、人格は他の存在者よりも重要な道徳的地位をもつか」という道徳的地位に関する問題と、「人格の同一性とパーソナリティはどういう関係にあるか」という問題は、まったく無関係とはいえないまでもあんまり関係がないんだけど、ものすごく混同されやすいと思います。これはとてもよくない。

    『生命倫理』は日本では権威ある雑誌で、私は載せたことないけど査読も厳しいはずなのです。どういう基準かはっきりしないけど、投稿された論文は「原著論文」と「報告論文」に分けられていて、この論文が乗った29号だと原著論文が3本、報告論文が9本、落とされてる論文もけっこうあるはず。投稿は23本だったようだ。そういうキビシイ査読くぐり抜けても、トゥーリーみたいなごく基本的な議論がちゃんと理解されていなかったり、人格(人)とパーソナリティが混同されているように見えるのは私には本当に厳しい事態に思えるのです。

    とかダラダラ書いてたけど、途中でいやになってしまった。また真面目に論文書き直す必要があるのだろうか。しかし、他人の議論のあら捜しなんてのになんか学問的な意義があるとは思えない。でもいつまでも同じような誤謬っぽい議論が権威ある雑誌にのっているのも困る。どうしたらいいかわからない。

     

     

    名前(姓名)に空白入れられるのに抵抗する同盟会員募集

    すでに何度も書いていることなのですが、日本人の名前の姓と名の間に空白を入れるのはよくない習慣だと思うのです。

    私の本名は江口某というのですが、書類で(必要があるので)姓名を分けて書けと言われれれば、「江口」と「某」にわけていいし、「読み」や「カタカナ」欄に「えぐち なにがし」とか「エグチ ボウ」などと書くのも抵抗ないのですが、地の文や論文集の目次などで「江口 某」と書くのはおかしい気がするのです。「豊臣 秀吉」「徳川☆家康」おかしいのですから、「江口某」にしましょうよ。つのだ☆ひろ先生じゃないんだから。

    大学の学生様のレポートとかに対しても断固として戦いたいですね。同盟員を募集しています。


    上のやつ、なんで空白入れるのがだめなのかわからないという意味のコメントを何個かもらったので、適当に箇条書きにすると以下のような感じです。

    • 日本人や中国人の名前の姓名のあいだには空白いれないのが普通。「織田 信長」。「曹 操」。「諸葛 孔明」。
    • どういうわけかなにかのタイトルや目次では空白入れないとならないと思っている人々がいる。それはそれで許さないわけではないんだけど、実は単に漢字4文字の名前が標準で、4文字の人と漢字3文字分の人を並べるとかっこ悪いと思ってる人がいるので空白いれてるのが実情だと思う。
    • しかし、夏目漱石と「森 鷗外」をそろえても、上田敏と芥川龍之介はどうすんじゃいね。こうですか。

    夏目漱石
    森 鷗外
    上田 敏
    芥川龍之介?