「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

 

 

 

パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である

 

まえのエントリに続いて、瀬川先生の「人格」に関する論文はもう一本「人格であることと自律的人格であることを区別することの意義」というのがあり、これも気になるところがあるので最初の方だけコメントしておきたいと思います。

問題設定

というのも胎児がすでに人格と見なされるのであれば、胎児には私たち成人と同等の道徳的地位が認められ、それゆえ中絶は定言的に容認不可能となるからである。あるいは反対に、胎児がまだ人格と見なされないのであれば、胎児にはいかなる道徳的地位も認められないがゆえに、中絶は定言的に容認可能となる。(p.33)

これは不用意な書き方だと思う。胎児がすでに人格だとして、そこから成人と同等の道徳的地位が認められるとは限らないし、また中絶が「定言的に容認不可能」になるともかぎらない。死刑囚は人格(人)であるが我々と同じ法的地位が認められないように、胎児が人格だとしてもそこから直接に成人と同じ道徳的地位を持つとはいえない。また、胎児が人であるとしても、母体の生命が危険にさらされているなら中絶が容認されることもありえる。とにかく、こうした論理的関係はどういう前提にもとづいているのかはっきり書いてもらう必要がある。

本稿ではこうした議論を背景に、人格であることは同時に自律的人格を意味するのかという問いに取り組む。もしこの時点ですでに本稿の問いに違和感を覚える人がいれば、その人は場合によっては「人格とは自律的である」ということを出発点に据えているのかもしれない。

「人格とは自律的である」という表現には、日本語としてかなり違和感がある。「ある存在者が人格であるということは、その存在者は自律的であるということを意味する」ということだろうか。

しかしながらこうした人格概念理解は、二つの点で問題がある。第一に、この理解では人格の下したあらゆる決定が自律的と見なされることになり、こうした帰結はとりわけ終末期における死のあり方をめぐる議論を念頭に置いた場合、受け入れ難い。というのも、医師による自殺幇助や要求に基づいて殺すことの容認派の論拠である自律の尊重原理に従えば、もし私が人格であるだけではなく、同時につねに自律的人格であるならば、私が不自然なほど唐突に要求に基づいて殺すことという死のあり方を望んだとしても、その決定は道徳的に容認されることになってしまうからである。

「人格(人)は自律的である」ということがどういうことなのか説明されていないので理解できない。人間の成人は多くの場合自律的であるとみされるが、これはその人が、(いろんなことがらについて)あるていど十分な判断能力があり、また自分の判断にしたがって行為できる、ということを指しているはずだ。

しかし、こういう意味で人間あるいは人が自律的だからといって、「あらゆる決定が自律的である」とみなさねばならないわけではない。私が寝ぼけてるとき、あるいは酒に酔っ払ってるとき、あるいはなんか嫌なことがあってイライラしているときに下した判断は必ずしも十分理性的でもなければ自律的でもない場合がある。「常に自律的」であるような人物など現実には存在しないだろう。それなのに、「人格を自律的だと考えると、常に当人が望む死や自殺幇助を受け入れるべきだ」と考えるのはあまりにも馬鹿げている。

シンガーの議論

認められるのかである。第一の問いに対してシンガーは、ある存在が生物学的に人間という種に属するという理由から、その存在の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできないと断言する。そうした人間的存在とは、例えば胎児などが該当する。

非常にこまかい話だけど、この表現はすこしよくない。できれば「ある存在者が生物学的にホモサピエンスという種に属するという理由だけでは、その存在者の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできない」の方がよい。(1) こういう文脈では、「存在」よりは「存在者」の方がはっきりしている。「生命個体」みたいなのでもいいかもしれない。(2) 「人間」huma beingsがホモサピエンスという種のメンバーだけを指すのか、そうでないのかが明白でない。(3) 「Aという理由からBできない」というタイプの表現は(慣れない読者には)誤読の可能性がある。「AだからBできないのだな」と呼んでしまう人がいる。「「AだからB」というわけにはいきませんよ」というのをはっきり示したい。

シンガーから見ると、人間という生物学的事実に依拠して人間に高い価値を与えるのは、種差別主義にほかならないのである。

これもOKではあるが、誤解を招きやすい。人間であるという生物学的事実が、なんらかの種類の規範的な判断にむすびつくならば、人間に高い道徳的地位を与えることには問題がない。たとえば、人間は高度な判断力をもっているという事実と、高度な判断力をもつ存在者はそうでない存在者とは違った特別な道徳的地位をもつという規範的判断が存在すれば、「人間であるという生物学的事実に依拠して」人間に特別な道徳的地位を与えることは問題がない。誤解のないように表現するとすれば、「その存在者がホモサピエンス個体であるという単なる生物学的事実だけに依拠して特別な道徳的地位を与えるのは〜」のような形になる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。

まあこれはこれでOK。人間の多くは(まずまず)自律的であり、その意味で人格であると呼ばれる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。しかしここでの問題は、「人格は自律的である」という言明から、すべての人格が自律的であるという命題を導き出すことができないということである。なぜなら、特殊から普遍を導くのは誤謬推理だからである。

これはそのとおり。しかし表現がわるい。「ある人格(人)が自律的である」から「すべての人格が自律的である」はいえない、と表現してほしい。

「自律」が意味するのは、選択し自分で決断をなし、それにしがたって行為する能力である。理性的で自己意識を持った存在〔人格〕は、 おそらく (presumably) この能力を持っている。
〔〕ならびに傍点は引用者による。

(江口が傍点を下線にした。原文は ‘Autonomy’ here refers to the capacity to choose and to act on one’s own decisions. Rational and self-aware beings presumably have this capacity,……. (Singer. Practical Ethics (p.84))

……注目すべきは、引用にある「おそらく」という副詞である。特定の人間が人格であり、自律的であるという見解は、広く共有されている。例えばそうした人間的存在者としては、シンガー自身が該当するだろう。シンガーがこうした明白な事例を念頭においていたならば、彼は「おそらく」という副詞を用いなかったはずである。しかしよく知られているように、シンガーはチンパンジーをも人格と理解している。そうであるからこそ、彼は「おそらく」という副詞を使用せざるを得ないのである。なぜなら、チンパンジーを人格と見なすという見解が受け入れ可能であったとしても、同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。

いきなりチンパンジーがでてきたので驚いた。このpresumablyがなぜ必要なのかというのは別の説明がある。

presumeというのは、はっきりと真であるとはまだわかっていないけど、だいたい真であると推定する、ぐらいの意味。presumptionとかっていうのは推定、想定ですわね。十分な証拠はないかもしれないけど、とりあえずそうだということにしておこう、ぐらい。たとえば、結婚しているときに子どもができたら、それは結婚している男性の子どもだと推定しておこう、ぐらい。合理的で自己意識をもっている存在者は、必ずそうだとはいえないかもしれないし、場合によってはそうない場合もあるかもしれないけど、だいたい自分で決定し、その決定にしたがって行為する能力をもっていると想定しましょう、ということだ。チンパンジーは必要ない。

まあもちろんチンパンジーも、少なくとも3歳児程度には、十分合理的で自己意識をもち、自分で決定しそれにもとづいて行為する能力をもっているかもしれないけど、それはここでは関係ない。

同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。引用文にある人格という用語から特定の人格(チンパンジー)を除外させることなく、かつ日常的直観との乖離を無視することもできなかったがゆえに、シンガーは「おそらく」という副詞を付加したと考えられる。すなわち、シンガーは自律的であり、チンパンジーもおそらく自律的なのである。このことから帰結するのは、シンガーがあらゆる人格を自律的人格と理解しているということである。

瀬川先生は「シンガーはチンパンジーをひいきしたいがために「おそらく」といれたのだ、みたいな読みをしたいのかもしれないけど、優秀な哲学の議論はそういうふうにはなってない。へんな意図や陰謀みたいなものを想定しそうになってしまったら、まずはまわりの人と議論してみるのがよいだろうと思うのです。

そして最後のシンガーが「あらゆる人格を自律的人格と理解している」も理解できない、おそらくまちがっている。我々は人格と呼ばれるけど、一時的に合理的でなかったり自己意識をもっていなかったり、まともな判断ができなかったり自律的でなかったりする場合はよくある。そんな当たり前のことをふつうの哲学者がわからないはずがないじゃないですか。もっとふつうに議論しましょうよ。

あと、この論文も翻訳あるものはちゃんと文献リストにあげてほしい。シンガーの『実践の倫理』の第3版は翻訳ないけど、第2版のならあるし、該当箇所は同じなので一応言及してあげてほしい。剽窃とかそういう問題ではなく、読者へのサービスとして。もちろんそういうのは手間かかることだからいつもいつもできるわけじゃないけど、もっと翻訳してくれた人に感謝示すような文化つくりましょうよ。

 

「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

 

読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

途中で引用したのは下の。

日本ポピュラー音楽学会で発表しました

そういや、12月には日本ポピュラー音楽学会で発表させてもらったのでした。タイトルは「大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用」。

私は実は「自発的に学会で個人発表するオヤジの会」会員なので、毎年なんらかの形で自発的に発表しなければならないんですわ。偉い先生たちはシンポジウムに招待されたり、研究会でも強くお願いされたりしてやむなく話をするのが普通なのですが、我々自発的オヤジの会会員は、そうした要請とかないので自分で出張るのです。

私は会員歴も長いので、「ぜんぜん自分の本来の専門と関係ない学会に自発的に新規入会して、さらに発表する」という非常に難度の高い課題に挑戦しました。50歳を超えてこういうのするの、学会としては迷惑なんでしょうけどそういうの無視する、会費払ってるんだから発表させろ、そういう強い態度が望ましいとされています。

まあこの学会とても楽しかったですね。倫理学とか生命倫理学とかジェンダー論とかって、どうも暗い。人々の苦しみを想像して辛い。でも音楽は基本はもう美しく楽しいばっかりっすからね。懇親会も、学会当局がちんどん屋さん呼んでくれて、ちんどん屋にひかれて会場に移動、会場でも演奏を聞くってんでとてもよかったです。

チンドン屋さん
学会員を懇親会に誘導するチンドン屋さん

というわけで、まあいちおう発表につかったスライドのPDFあげときますね。そのうちまともな文章にしたいとおもっていますが、だいぶ先になるでしょう。

 

大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用

 

 

関係した翻訳がいちおう出版されましたので買ってください

2019年度、関係していた翻訳が2冊出版されたんですよね。

どっちも予定や締切を大幅に遅れに遅れて、関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。ウィリアムズの方はどろどろの文章で訳すどころか言いたいことを読み取るにも苦労しました。ミルの方は知識が足りなくてうまく訳せない。

なにより訳語の不統一や誤字誤植が最後まで残ってしまって、私そういう作業がほんとうに苦手で何度もヘソを噛み切って死なねばならないとつらい思いをしました。もうこういう経験はしたくない。特にミルの方は途中で投げ出してしまい、「もう私なにもできないのでそちらで適当におねがいします、名前出さなくてもかまいません、むしろ出さないほうがいい」ぐらいの話にまで至ってたのですが、いろんな事情から名前がでてしまった。いろいろ忸怩たるものがあります。

でもまあ可能なら買ってください。ウィリアムズの方はいちおう20世紀の後半、80年代ぐらいの倫理学の方向性を決めたような重要な本だし(私はそういうの納得してないのですが)、ミルの方は誤謬推理(詭弁)の研究で、とてもおもしろいはずです。誤訳や誤植残っていると思いますので教えて下さい(他力本願)。岡本先生や佐々木先生の解説もよいです。誤謬推理の話はおもしろいから、時間があったら少しずつ紹介したい。っていうか、前の「宇崎ちゃん」の話はそれやるつもりだったのですが、なんかへんな方向に進んでしまった。ははは。

まあ正直、このふたつの仕事がずっと残っていて、自分がやるべき仕事ができなかった、みたいな感じもあるのです。これが終わってさあやりたいことをやろう、とか思ったのですが、もう浦島太郎でおじいさんすぎてなにもできませんわね。まあ失敗した勉強人生な感じ。とにかく私は下手な翻訳関係で時間つぶしすぎましたね。

個人的な思いとしては、この2つはどちらも共同作業なので自分の好きなようにはできなかったのですが、これもよくなかった。私は協調性が足りないので、とにかくなんでも自分の好きなように、自分がすみからすみまでコントロールできないと意欲がわかない男だったようでもあります。これからは全部自分が決定できることしかしない。(そしてそんなことはこの世には存在しないのでなにもしない。ははは。)

私から若い人々にアドバイスするとすれば、翻訳の仕事はとても勉強になるので声がかかったら1、2回やってみるのはよいと思うのですが、人によってはかけた労力ほどの実りがないと思うことも多いだろうし、現代ではとにかく出版が大事なのでやっぱりそっち優先するべきじゃないかと思いますね。

 

 

パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ

長年苦しんでいた分担翻訳がとにもかくにも出版されて、やっと、ずっとどうにもならなかった締切から解放された感じで、これからは好きなことをしていきたい。しかし浦島太郎状態。生物学的にお陀仏になる前に、いくつかやっておきたいことがあるんですが、その一つは生命倫理、特にパーソン論まわりよね、ってなわけで最近の国内論文ちょっと見てたんですが、色々困惑してしまう。

たとえば日本生命倫理学会の雑誌『生命倫理』第28巻の瀬川真吾先生の「生命医療倫理学における人格概念の限界とその有用性」、混乱してしまって2、3日ずっと、自分がなぜ理解できないのか考えてしまってました。

論文お作法の問題

まず一般的なお作法として、次のような注文がある。

  • ジープ、ビルンバッハー、クヴァンテといった論者の著作が参照されているが、 翻訳のあるものはそれにも言及してほしい 。もちろん翻訳は一切見なかったというのであれば言及の必要はないし、また言及困難だろうからその必要はない。
  • 参照文献の指示をいわゆるauthor-yearでおこなうならば、 文献リストはアルファベット順にしてほしい 。そうでないとauthor-yearの意味がない。
  • また、後注にまわさずとも文中ですませてもよいのではないか。後注は煩雑になる。

これは著者というよりは、査読方針と査読者の問題ですね。雑誌の編集方針もあるんで微妙なんですが、私日本の生命倫理業界がお作法できてないのとても気になるのです。

マイケル・トゥーリーの主張の理解

……マイケル・トゥーリーは、異なった時点と地点において自己自身を自己自身として把握するというロックの人格概念に立ち返ることで、生後12週目までの新生児は人格ではないというテーゼを立て、あらゆる中絶を道徳的に容認可能なものと見なす (p.23)

上はOKだとしても、

  「特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(トゥーリー)」 (p.23)

は言いすぎではないだろうか。トゥーリーは、ヒト胚や脳死者には生命に対する重大な権利をみとめなくても問題はないと考えているかもしれないが、いかなる道徳的地位も認めないかどうかはよくわからない。また「人間的存在」ということで何を意味しているのか読者にはわからない。「人間の遺伝子をもった個体」ぐらいだと思うが、説明が必要。

ちなみに、このトゥーリーに対する注(4)はTooley 1983とされているだけで、ページがついていない(他はついていることがおおい)。300ページもある本から典拠確認するのはとても大変というか無理なので、ページとはいかないまでも(最近は電子書籍も多いし)章ぐらいは指示してほしい

「カントやロックの人格概念は、生物学的な意味で人間であることと認知的な意味で人格であることを明確に区別し」(p.23)

「認知的な意味で人格」はよくわからない。生命倫理学で人格(パーソン)についての議論がなされる場合は、生物学的な意味のパーソンと、規範的/道徳的/法的な意味のパーソンを区別するのだが、認知的な意味とはなんだろうか。この「認知的」は「感情的」「意思的/欲求的」などと対立される意味ではないだろう。「認知能力の意味での人格」も奇妙だと思う。

ふつうの解釈をすれば、生物学的な「人間(ヒト)」と、道徳的・法的な意味での「人格」を区別し、道徳的・法的な意味での人格を、主として認知的な能力によって特徴づける、ぐらい。

。しかし定言的にあらゆる人間的存在に同等の道徳的地位を認める(……)、あるいは特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(……)というのは、生命の初期段階にある人間的存在に対する日常理解と両立しないだけではなく、そうした存在の道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げているという意味で不適切なのである。(p.23)

細かいが、この文章はわかりにくい。胚に成人と同様の道徳的地位を認めるのも、あるいは認めないのも、それは論者の立場によるだろう。瀬川先生はそれが(われわれの)「日常的な理解」と両立しないと指摘するわけだけど、これも「だからどうした」といわれる可能性がある。まあ日常的な理解がそのまま使えるならば最初から中絶やヒト胚の実験利用などの倫理的問題は存在しないかもしれないし。さらに、「道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げている」というのもよくわからない。もっとぶちゃけて書けば、「ヒト胚に成人と同様の道徳的地位を認めたり、あるいはまったく道徳的地位を認めなかったりすると、議論しにくい」ということになるんだろうけど、これは論点先取の誤謬推理になっていると思う。最初から「ヒト胚や脳死者には微妙な道徳的地位を割り当てたい」という前提があるとしか思えない。

現代倫理学にとっておそらくもっとも根本的な問いとは、「当事者」の主観的な感覚ないし欲求だけが正しい行為のために重要なものなのかどうかである(p.24)

これはジープの文章なので瀬川先生に責任はないが、「正しい行為」が誰の正しい行為であるか、また誰にとって正しい行為であるかが不明。まあたとえば、「行為者や被行為者の感覚、欲求、主観的経験だけによって、ある行為の正しさが判断されるのか、それ以外の要素も重要なのか」とかそういう問いだと思う。しかしこうして書いてしまうと、行為者や被行為者の感覚や欲求などの主観 だけ が重要だなんて主張する倫理学者がいるとは思えませんよね。

第1節と第2節のあらまし

第1節ではジープ先生が人格(人)であるかどうかを、有か無か、ゼロかイチかの観念としてとらえないで、発展的段階・衰退的段階をもつものとして扱おうとしたという話だと思う。まあ人かそれ以外(物)か、みたいな発想にはどっかおかしいところがあるかもしれないので、これはこれでありの立場だと思う。

第2節ではビルンバッハー先生が「人格」(人)という概念使うのはもうやめてしまおうって主張している(らしい)ことの紹介で、まあこれもありの立場だと思う。ジープ先生のもビルンバッハー先生のも、80年代〜90年代前半くらいの英語圏の生命倫理学の議論ならごくふつうの立場ですね。

第2節の細かいところ

第2節の方の議論はちょっと問題があるので、詳しく見る。

中絶をめぐる議論における人格概念の争点は、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格であるのかという問いにおいて先鋭化する。ビルンバッハーは、この問いを肯定する立場を「同等説」、それを否定する立場を「非同等説」と呼ぶ。

ここまではOK。

同等説によれば、人間と人格の概念は外延的に一致し、あらゆる道徳的権利を有する人格だけが道徳的な保護対象であるとされる。そこでのジレンマは、胎児のみならず、もっとも初期段階における受精卵にも成人と同等の道徳的権利が認められねばならず、例えばそれらの存在と母親の生命との比較考慮といった可能性が例外なく閉ざされることである(同等説のジレンマ)。

「ジレンマ」の意味がおかしいと思う。ジレンマというのは、AかBかの選択肢があり、そのどちらをとっても受け入れがたい帰結がある選択や論法を言うと思う。「受け入れがたい帰結」はジレンマそのものじゃないので、普通は「受け入れがたい帰結の一つは〜」とか、「ジレンマの一方のツノ(horn)は〜」とか表現するものだと思う。

んで、人間と人格(人)の外延は同じである、人間はすべて人格であり、人格はすべて人間である、と考えると受け入れがたい帰結が存在するだろうか?瀬川先生はそう考えると、妊娠中絶が全部禁止されるから困る、と言いたいようだけど、妊娠中絶反対派はまさにそう考えているのでなにも困らない。

非同等説は、人間と人格という概念を外延的に異なるとものと見なす。ここでのジレンマは、人格性を満たしていないであろう胎児や新生児に、いかなる道徳的権利も認められないという事態である( 非同等説のジレンマ)。

こっちのジレンマの角については、上の角の説明より、さらに問題が大きい。ある存在者が人格(人)でないからといって、「いかなる」道徳的権利も認められないということにはならない。たとえば私は(トゥーリーと同じように)、子猫は人間の単なる楽しみのために痛めつけられない権利があると考える(つまり、私は人間は単なる楽しみのために子猫を痛めつけるべきではないと考えている)。ある存在者が人格でないならば、人格と同じような道徳的権利はもたないかもしれないが、もつかもしれない。これはそれぞれの道徳的権利の根拠がどのようなものであるかに依存するのであり、人格かそうでないかによって自動的に決まるようなものではない。

同等説と非同等説

ビルンバッハーは、同等説と非同等説のジレンマを回避する上で人格概念が寄与しないことを論じることで、自らのテーゼを基礎付けようとする。

もうすこしおつきあいして細かく見ていく。

ビルンバッハーにしたがえば、ジレンマを解消するために同等説は、認知能力の基準からすれば現時点では人格とは見なされない人間を、すでに人格性を満たした人間が人格として知覚し承認することで物としてではなく、人格として扱われるのであるという戦略を展開した(「再構成主義的戦略」)。

まあこれは昔からエンゲルハート先生とかやってるやつですね。しかし、これ「同等説が〜という戦略を展開した」ってのは非常に奇妙で、なんでそんな「説」が戦略を展開したりできるんでしょうか。戦略を展開できるのはあくまで論者なのではないか。

それゆえ同等説の枠組みでは、胎児のような人間的存在が実際に人格であるのかという存在論的な事実をめぐる論争はもはや生じない。しかしビルンバッハーが指摘するように、再構成主義的戦略はジレンマを回避する上で三つの点で不十分である。

「存在論的事実」みたいな語句の説明がそれ以前には行われてないと思う。

第一にこの戦略は、いわゆる限界事例[に?]おける人間が存在論的にも人格であるという同等説のもっとも基礎的な主張と矛盾する。

「存在論的にも人格である」に目をつぶるとして、この論点は、上の「説」と「論者」を混同することから来ている問題 だと思う。たしかにあるタイプのヒト(人間的存在)を人格(人)だとみなさないのであれば、それはもう「同等説」ではない。しかしそんなことを言ってどうなるのだ。

第二に、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格として知覚され承認されるという想定は、例えば現象的に私たちとは似ているとは言いがたい受精卵といった限界事例にも妥当するのかは疑わしい。

「知覚され承認される」の「承認する」の方はともかく、「知覚」の方は必要なのだろうか。「それが人に見える」ということから、「人として承認する」という形になっているのだろうか。「現象的」もわかりにくいが、とりあえず胚や胎児は人間には似ていないので人格(人)ではないとすることができるのだろうか。タコのような姿だが知的で友好的な火星人がいたら、彼らも現象的には人間に似ていないので人格ではないということになるだろうか。どういう姿をしているか知らないが、天使というものが存在するとしたら、彼らは人格はないのだろうか。

第三にこの戦略は、その戦略の支持者同士で広く共有されている前提を、それを支持しない者に適用することができない。同等説が人格だけを道徳的権利の担い手とし、人間と人格の外延の一致という枠組みを維持する限り、同等説はジレンマを回避することができない。ビルンバッハーは、まさに人格概念こそが、ジレンマの回避を妨げる原因であると診断する。

一般に、議論上のどういう戦略であれ、議論の前提をそれを支持しない人々に対して認めされるのは難しい。なぜこれが問題なのだろうか。ここらへん、ビルンバッハーと瀬川先生がなにを議論しているのか私にはわからない。

非同等説は、自らの抱えるジレンマを回避する上で人格概念が不要であるという見解を明確に打ち出す。

わからん。ビルンバッハーはそういうふうに解釈しているということか。

特定の認知能力が人格性にとって不可欠であり、人格だけが道徳的権利の保有者であるならば、人格概念は道徳的権利を認めるための閾値概念とならざるをえないがゆえに、非同等説はこの概念を放棄するのである。

わからん。「人格だけが道徳的権利の保有者」という前提はどこから来たのだろうか。「閾値概念」も内実不明。なぜ非同等説が人格という概念を捨てることになるのかまったくわからない。

したがってビルンバッハーのテーゼを見れば明らかなように、彼は非同等説の支持者の一人である。人格概念の放棄によって非同等説は、道徳的権利が人格にのみ認められるという想定から解放され、非人格を特定の道徳的権利を有する存在と捉えることが可能となる。

そもそも人格概念を放棄するというのはどういうことかわからない。「人格」という言葉をもう使わないということなのか、存在者を道徳的に地位づけるときに「人格」であるかどうかをさほど重視しないということか。おそらく後者だと思うが、それならそうとはっきり述べるべきだと思う。

しかしこうした立場からは、道徳的権利の基礎付けに関する原理的な問いが生じる。非同等説は道徳的権利の根拠を、ある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出している。それによれば、ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むからである。

そもそもこの非同等説なるものは、誰の説なのか。トゥーリー? トゥーリーの説は、道徳的権利の根拠をある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出しているのか?どこでそういうことがいわれているのか?「ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むから」といったことは一体誰が述べているのか?でたらめではないのか?

トゥーリーが(1972年の論文で)述べているのは、ある存在者が道徳的権利Xをもつ必要条件として、その存在者がXをもちたいと望むことができることが要求される、ということであり、XをもちたいからXをもつ権利が認められることになるわけではない。私はいま1億円ほしいが、1億円もっている権利をもっているわけではない(がんばって働いて1億円稼いで手に入れる権利はもっているだろうが)。多くの死刑囚はまだ生きていたいだろうが、もはやふつうの意味では生命に対する権利を持っていないと思う。

非同等説は、道徳的権利を基礎付ける上で権利とその権利に対応した能力の一致関係を前提とする。それゆえ、例えば苦痛を回避する権利は、感受能力に立ち返ることで痛みを感じる段階にまで発達した胎児や新生児にも帰属させることができる。こうした方法で生命初期における人間的存在を道徳的な保護対象と見なせるのであれば、人格概念は非同等説の陥るジレンマを回避する上でいかなる役割も果たさないということになる。

わからない。まあ人格かどうかという区別にさほど重要性を認めないでも倫理学理論はうまくいくと思われるが、それが「人格概念を放棄する」ということなのだろうか。別に放棄しなくてもいいのではないか。

第3節

私が読みとれたあらすじは次のようになる。ビルンバッハーのように、生命倫理学の規範的な議論において「人格かそうではないか」をさほど重視しない立場があり、ビルンバッハー実際に「放棄する」と言っているが、「人格」という言葉や概念がまだ重要な生命倫理学の領域がある。それが「臨死介助」の問題だということらしい。臨死介助というのは、国内では一般に消極的/積極的な「安楽死」とかそういうふうに呼ばれてる分野で、まあ本人が望んでいるときに、延命治療を控えたり、薬剤によって死ぬのを早めたりするのをさす。そうした臨死介助なるものが常に不正だとかってことにはならないし、場合よっては許されるべきだと多くの人思うと思うんだけど、本人が望んでさえいれば医療関係者がその人をさっさと死なせたりするのはやっぱりやばいわけだ。ではどういう場合に許されるか。瀬川先生によれば、ここでパーソナリティというものが大事で、パーソナリティにはある程度の一貫性が必要で、本人が望んでいても、それが過去のその人のパーソナリティにそぐわないものだったら本人のじゃないと考えていいとかそういうことを言いたいらしい。でもよくわからない。

だって、これってパーソナリティの一貫性とか、当人の意思が真正なものかとか、どういう意思を尊重するべきかとかそういう問題ではあるけど、第1節や第2節であつかっていた、ある存在者が人格であるかどうかが重要かどうかという話とはまったく関係がないですからね。

この論文も、けっきょく「人格」という多義的な語を避けて、「人」とか「パーソナリティ」という語だけをもちいればこんな変な議論にはならなかったと思うのです。

昔書いた論文でも指摘しましたが、この、「ある存在者が人格(人)であるかどうか、人格は他の存在者よりも重要な道徳的地位をもつか」という道徳的地位に関する問題と、「人格の同一性とパーソナリティはどういう関係にあるか」という問題は、まったく無関係とはいえないまでもあんまり関係がないんだけど、ものすごく混同されやすいと思います。これはとてもよくない。

『生命倫理』は日本では権威ある雑誌で、私は載せたことないけど査読も厳しいはずなのです。どういう基準かはっきりしないけど、投稿された論文は「原著論文」と「報告論文」に分けられていて、この論文が乗った29号だと原著論文が3本、報告論文が9本、落とされてる論文もけっこうあるはず。投稿は23本だったようだ。そういうキビシイ査読くぐり抜けても、トゥーリーみたいなごく基本的な議論がちゃんと理解されていなかったり、人格(人)とパーソナリティが混同されているように見えるのは私には本当に厳しい事態に思えるのです。

とかダラダラ書いてたけど、途中でいやになってしまった。また真面目に論文書き直す必要があるのだろうか。しかし、他人の議論のあら捜しなんてのになんか学問的な意義があるとは思えない。でもいつまでも同じような誤謬っぽい議論が権威ある雑誌にのっているのも困る。どうしたらいいかわからない。

 

 

名前(姓名)に空白入れられるのに抵抗する同盟会員募集

すでに何度も書いていることなのですが、日本人の名前の姓と名の間に空白を入れるのはよくない習慣だと思うのです。

私の本名は江口某というのですが、書類で(必要があるので)姓名を分けて書けと言われれれば、「江口」と「某」にわけていいし、「読み」や「カタカナ」欄に「えぐち なにがし」とか「エグチ ボウ」などと書くのも抵抗ないのですが、地の文や論文集の目次などで「江口 某」と書くのはおかしい気がするのです。「豊臣 秀吉」「徳川☆家康」おかしいのですから、「江口某」にしましょうよ。つのだ☆ひろ先生じゃないんだから。

大学の学生様のレポートとかに対しても断固として戦いたいですね。同盟員を募集しています。


上のやつ、なんで空白入れるのがだめなのかわからないという意味のコメントを何個かもらったので、適当に箇条書きにすると以下のような感じです。

  • 日本人や中国人の名前の姓名のあいだには空白いれないのが普通。「織田 信長」。「曹 操」。「諸葛 孔明」。
  • どういうわけかなにかのタイトルや目次では空白入れないとならないと思っている人々がいる。それはそれで許さないわけではないんだけど、実は単に漢字4文字の名前が標準で、4文字の人と漢字3文字分の人を並べるとかっこ悪いと思ってる人がいるので空白いれてるのが実情だと思う。
  • しかし、夏目漱石と「森 鷗外」をそろえても、上田敏と芥川龍之介はどうすんじゃいね。こうですか。

夏目漱石
森 鷗外
上田 敏
芥川龍之介?

加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

(特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff

ビショフ先生

p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

「フェミニスト認識論」については話がよれている

p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

(続く)

日本学術会議でのシンポの様子は下の本でわかるはず。

海外の論争の様子は下。

 

2019年に読んだ本ベスト10

老眼も進んだし、時間もないし、気力もないし、もう読書生活も人生もおわりにさしかかっています。さらに読まない人になりつつある。

マンガも読まなくなったんだけど、この3つは印象が強い。

音楽書は今年は豊作だったのではないか。

これはすごくて、ジャズジャイアンツの音源のDTMソフトの波形で見て「ノリ」を分析するってやつ。おそらく世界的にも重要。音楽のプロはもちろんそういうことはしないわけで、先生が統計をよく知っている医者でありセミプロミュージシャンである、というそういう特殊性のたまもの。えらい!まあこれ読んで演奏できるようになるわけでも、音楽がよくわかるようになるわけでもないのだが、それでもえらい!これぞマニア!

数年前から注目しているスージー先生、今年も快調、というよりその活動の頂点にいると思う。ほんとにすばらしい音楽愛・歌謡曲愛を感じる。

これはインテリ向け。でも知らない情報や事情説明や解釈がありとてもよい。こういうの読めるジジイになって、いちおう子どものころからの目標を達成しているよな、とか思います。

プリンス本は多いわけだけど(他にも数冊読んだ)、尊敬するモリスデイ先生のがやはりすばらしい。仮想のプリンスとの対話の形でモリスデイ自身の人生とプリンスが語られていく。もう涙涙。

これはとても勉強になった。ポップ文化/作品研究のなかでも映画は突出して発展していて、映画学もちゃんとした分野になっている。これはアメリカの教育のありかたが反映されているからだろう。映画と直接関係なくても、カルチャー関係の卒論書いてもらわなければならない教員は一回目を通しておくと役に立つと思う。

「グーグル様が世界だけでなくイスラム信仰も変えてます」な話。まあ煽りぎみなんだろうけど、ポイントを突いているのだと思う。読んでると我々とはまったく違った発想があることに気づいてなんか頭がぐらぐらする。

風呂で宇宙論や科学史の本をわからないなりに読むのは人生の楽しみ。これは物理学の哲学の本よね。これじゃなかった気もするけどまあこの種の本の代表ってことで。

他はBooklogの5つ星4つ星を見てください。

宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう」からの続き。
その後、ポロック先生たちの「記号」やら、ゴフマン先生の「コード」やら、ちょっとだけ原文めくってみたんですが、よくわかりませんでした。

「記号」と「スザンナと長老たち」

まずポロック先生たちの「記号」はsignですね。codeではない。

一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

「文化的、社会的記号について熟知している」は familiarity with the signs of the culture or societyなので、まあ翻訳どおり「熟知してる」でもいいけど、学者みたいに熟知しているってことではないとおもう。むしろそれに慣れ親しんでいる、ぐらい。マンガ読むひとはフキダシやいわゆる漫符の意味について慣れ親しんでいるのですぐにその意味がわかるわけです。コマ割りや視点の移動その他の技法についてはあんまり意識してない可能性もある。

とりあえず(西洋)絵画というのは、構図や人物の描きかたにくわえて、画面に登場するいろんな物品や動植物がなにかのシンボルである場合が多いので、そういうのの知識まで含めて鑑賞しないとならない。

正体不明自称プログラマのuncorrelated先生が、小宮先生の論説に一連の批評を加えているのですが、そのなかでティントレットの「スザンナと長老たち」がとりあげられてます。これ、それのとてもよい題材になってますよね。wikipedia記事に、登場するカササギや鹿や鏡その他について簡単な解説がある。これ詳しくなると図像学っていう学問になってしまいます。

ジョン・バージャーの『イメージ:視覚とメディア』って本めくってみたら、このティントレットの絵について解説があって、それもおもしろかった。ティントレットは「スザンナと長老」のタイトルの絵を数点描いてるんですね(そもそも私がティントレット知らなかったのは秘密にしておいてください)。

絵画がしだいに世俗的になっていくと、他のテーマもヌードを取り入れるようになる。そしてそのほとんどが主題(つまり女性)が鑑賞者に見られていることを意識しているという雰囲気を絵のなかに暗示した。……「スザンナと長老」が好む主題のように(ママ)、多くの場合、このことが絵の実際のテーマなのだ。我々は入浴中のスザンナを盗み見ている長老と一緒になる。そして彼女はふりむきながら彼女を見ている我々を見る。

 

ティントレットの別の「スザンナと長老」では、スザンナは自分を鏡のなかに見ている。そしてこれによって彼女自身も、彼女の鑑賞者の仲間入りを果たす。

まあこういうの、スケベイハゲじゃなくて薄毛の長老さんの描き方とかも含め、ものすごい批評性があっておもしろいですよねえ。さすが名画!って感じです。私は、これくらいのレベルになると、単純な女性のモノ化とか客体化とかそういうんではないと思う。

鏡は女性の虚栄心のシンボルとしてしばしば用いられてきた。しかしそうした道徳的観点はほとんど偽善的なものだった。(下のメムリンクのやつが「虚栄」3枚組。バージャー先生は真ん中の女性像(女性「表象」!)について書いてる)

メムリンクの「虚栄」(中央)

 

画家が裸の女性を描くのは、画家が彼女の裸を見るのが好きだからである。しかし、画家は彼女の手に鏡を握らせ、その絵を「虚栄」と名づける。このようにして画家が自らの快楽のために描いた裸の女性を道徳的に非難するのである。しかし実は鏡の本当の役割は別のところにある。それは鏡の存在により女性に彼女自身を光景として扱うことを黙認させるということなのである。

まあ名画というのはいろいろ工夫に工夫が重ねられていて、小宮先生が参照しているポロック先生たちやイートン先生みたいなフェミニスト的な読みももちろんあるんですが、もっといろいろ批評の道はあるかもしれない。美術おもしろいですね。私、「美術も勉強しよう」とか「エッチな絵からギリシア神話を学ぼう」とか書いてるけど、ぬるすぎ。人生をエッチに豊かにするためにこれから勉強します。

ゴフマンの「コード」

一方、ゴフマン先生のGender Advertisementもめくってみたんですが1)入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。、こっちでは「ふるまいのコード」っていう語はほとんど見つかりませんでした。けっこう難しい文章で読みにくくて、見つけにくい。”encoded”ならある。私の下手な訳だとこんな感じ。

まちがいなく、(広告が)表示するもの(ディスプレイ)は、表示されているもののなかで、複数の社会的情報が記号化されているという意味で、多声的で多義的でありうる。

とかそういう感じ。これは社会的関係(優位/劣位とか支配/従属とか、親密さとか、愛情とか)そういうのが広告ポスターとかのなかでわかりやすく表示されてるってことですね。これは小宮先生の説明がほぼ正しいと思う。

しかしそうなると、「ふるまいのコード」っていうのは、「ふるまいの規則」だっていう私の解釈はなんかあやしくなってしまう。でも記号っていう意味のコードと、規則っていう意味のコードは別のものだと思うんですけどね。ここらへん曖昧なのはあんまりよくないと思う。これがゴフマン先生に由来するのか、その解釈者に由来するのかはまだよくわからない。いずれにしても、私が考えるべきことではない気がします。専門に近いひとがんばってください。

副産物として、是永論先生の論文でのゴフマンの引用が微妙に問題あるんではないかということにも気づいた。先生はこういう感じで訳してるんだけど、

 

このnegative statementは「否定的な意味合いをもったコメント」ではないような……よくわらんけど。私が訳すとこうなる。

端的に言って、ここで示されている写真たちは、現実生活でのジェンダー的ふるまいを代表しているものではないし、また特に広告一般や、個々の広告出版を代表するものでもないが、おそらくこれらの写真について否定形の言明を提出することは可能であるだろう、すなわちすなわち、*写真としては*特にかわったところも不自然なところもない、ということだ。

まあそれはさておいて、ゴフマン先生の指摘が、こういうふうに、広告では、現実ではそうでないものがいかにも自然であるかのように受けとられる、みたいな話だとすると、アニメやマンガを使った広告というのは、非常にデフォルメが効いているし、あきらかに現実では成立しないようなセリフや状況が多いですよね。たとえば最近の問題の日赤の献血ポスターとか、カイジとかが「倍プッシュだ!」とかいってるのはあきらかに現実からかけはなれてるし、『働く細胞』とかもあれだし、宇崎ちゃんもなんか少なくともステロタイプはない。

とか考えると私ぜんぜんわからなくなってきました。まあここらへんの非実在人物をつかった広告の美的・倫理的問題ってやっぱりおもしろいと思う。

まあ前のエントリで、小宮先生の論説は哲学的な思考を刺激してくれるって書いたんですが、実際に美学・美術史の問題とか、ゴフマンの解釈とか、そういうかなりアカデミックな興味をそそらせてくれるっていうのでとてもよかったっすね。ゴフマン自身の文章を読むと、とても繊細でありながら、「そんな簡単には規範的な主張は提出しませんよ!」みたいな意思も感じられてとてもよい。公共広告の道徳性みたいな話も、いきなり規範的な話に突入しないで、とりあえずみんなで勉強しながらいろんな意見交換してみたらいいと思うのです。

まとまりがなにもないけど、こういうの適当に書いていきたい。

References   [ + ]

1. 入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。