不如意ブログ

レポートの書き方文章編、というか細かくてわかりにくい話

昆虫亀先生が「2018年度レポートに関するコメント、諸注意」ってブログ記事を書いていて、私もこのタイプのお説教まとめておきたいと思ってるんだけど、なんかごちゃごちゃしてうまく書けない。

とりあえず講義やゼミでいつもお説教していることを書いておきます。何回も同じことくりかえしているのでそろそろつらいし飽きたし。おおざっぱなものは古い「レポートの書き方」を、コピペ・剽窃については「剽窃を避ける」を読んでください。

原則

まず、一番の原則を確認すること。大原則は「読者に親切にする」。レポートや論文でのあらゆる約束事は、想定される読者が読み理解しやすいように、また最小限の苦労で読み理解できるように定められていると思ってください。

さて、レポートは、レポートが学内に落ちてたら、それを拾った人が誰が書いたなんの授業のどういう課題か理解できるように書いてください。当然書くべき科目名とか自分の所属とかだけでなく、どういう課題であるか、どういうテーマであるかを、自分の文章で冒頭で確認してください。すると読者(教員)は、「なるほど、私はこういう課題を出したんだった。わすれておったわい」と思い出せるわけです(実は忘れてることがある)。読者に親切にするっていうのはそういうことです。レポート拾った人も、「なるほど、あの講義ではこういう課題が出されており、社会にはこういう問題があり、そしてこのレポート筆者はこういう勉強をしてこういうことを書いているわけだ……ここで参照されている本は……なるほど、〜先生の『〜』か、この引用されている文章は……なるほど〜頁か!いますぐ見よう」というように、そのレポートから多くの情報を引き出せるわけです。これが読者に親切。

まあそうでなくても、レポートというのは他の仲間の学生(ピア)とかに向けて、情報を与えるつもり書くもので、大学教員のために書くものではない。

課題を確認するには、疑問文を使うとよい。たとえば課題が「日本のフェミニストの不倫に対する態度を検討せよ」であったら、「日本のフェミニストは、不倫関係についてどのような見解をもっているだろうか。ここでは社会学者の〜を例にとって検討してみる」のように書きはじめるとよい。

体裁

  1. 見た目は非常にだいじ。そもそも学生様のレポートの文章は読みにくいもので、教員などの読者はそれをがんばって読むわけですが、体裁とかでさらに読みにくくされてはかなわん。勘弁してください許してください。許してください、読みやすくしてください、苦しめないでください、なんとかおねがいします……許してくれないのですかどうしてもその体裁で私を苦しめるのですか、それならそれでかまいません、こちらにも考えがあります!という感じになってしまうのでおたがいによくない。
  2. 様式・体裁はワープロソフトまかせにしないこと。自分でプリントアウトしたものを見て、読みやすいかどうか確認せよ。
  3. 紙で提出の場合、本文はふつう明朝体にせよ。 Pagesがゴシック体を初期設定にしてたら変更する。
  4. 一般にWordやPagesのデフォルト(初期設定)の体裁は読みにくい。自分で調整すること。文字間や行間はそれで適切か自分で判断すること。とにかくパソコンの言うなりになるのは人類として恥ずかしいことであると思うこと。
  5. 必ずページ番号つけよ。Wordの場合はメニューの「挿入」→「ページ番号」などでフッター中央とかに入れておけばよい。
  6. ヘッダーの部分に自分の名前その他ごちゃごちゃいれる必要はない。1行程度ならともかく、ごちゃごちゃしていると読みにくい。あれは冊子などをつくるときのものだと思うこと。
  7. 段落の最初はちゃんと1文字文字下げすること! ネット記事やブログで最初1文字落としせず、かわりに1行文の空行を入れている文書を読みなれていると思うが、それはディスプレイでの視認性とデザインを優先しているから。大学でのレポートは紙に最初が1文字文だけへこんでいる全体に黒っぽい紙が求められている。現状での大学レポートは、ディスプレイのデザインより、紙での読みやすさを優先することになっている。(逆にいえば、全体に海苔を貼ったようなだいたい黒い紙を出せばそれだけで単位をもらいやすい)

  8. これを参考に。 レポートの体裁(PDF)

文字・表記

  1. 英数文字はいわゆる「半角」でABCabc123と書く。なんでかっていうと、日本語文字は等幅で1文字は1マスにはいって同じ幅なんだけど、英数文字はそれではかっこわるいのでABCabcMi123とその文字ごとに幅を変えて美しくしてるんね。いわゆる「全角」はそうならないのでかっこ悪い。ABCDabc123。まのびしてるっしょ。(他にも単語の折り返しやハイフネーションで問題が起きる)
  2. ○のなかに数字が入ってる文字はかっこわるいと思う人々がいる(私)。見た目もかっこわるいし、そもそも1〜9ぐらいならいいけど、(101)とか(102)とか数が増えたらどうするつもりなんだろうと思ったり。
  3. 「?」のうしろは空白を空けるという約束があるらしいんだけど、よくわからない。
  4. <>は数学記号であって文章でつかう括弧ではない。〈山括弧〉を使う。
  5. 半角の「,」(カンマ、コンマ)と「.」(ピリオド、ドット)の後ろには必ず半角空白を入れる。ちなみに記号の名前と、それぞれの用法を知らないと大卒としては恥ずかしいので http://www.type-labo.jp/Mojinonamae.html を見ておぼえておくこと。

タイトル・見出しまわり

  1. 文書には必ずタイトルがあります。タイトルそのものには「」は必要ない。 タイトル指定されている場合はそれを、指定されていない場合は文書の内容を示すタイトルをつけてください。「応用倫理学第2回課題」とかつまらんので、内容を表すやつに。気のきいたタイトルを勝手につけて減点されることはないでしょう。
  2. タイトルや見出しに説明を頼らない。タイトルや見出しは本文ではない。 見出しとタイトルを消した本文だけですべて理解できるようにすること。(これ説明しにくいんだけど、見出しは目印であって、リストや箇条書きではないっていうのを理解してもらう必要がある。)
  3. 「読んだ本を紹介せよ」という課題であって、あなたが芳賀茂『あなたのその「忘れもの」コレで防げます』をタイトルに入れたとしても、「この本は」から書き始めてはいかん。
  4. タイトルに書名があっても、「忘れ物と言うのは困りものだ。芳賀繁は『あなたのその「忘れもの」コレで防げます』で次のように述べている。」のような形にする。本文でも書名などを必ず明記する。
  5. 「序論」「本論」「結論」という見出しは勘弁してください。もちろんレポートは序論本論結論という順番になっていなければならないが、それは「見出し」ではない。特に「本論」だけは許さん(絶許!)。中身に対応した見出しにする。
  6. 何度も書くが、見出しは目印にすぎない。見出し(目印)が多すぎるのも読みにくい。1ページに1個あれば十分。

文献リスト

  1. 出版物は基本的に出版年だけでOK。月日はいらない。 (新聞やオンライン情報は年月日必要。)
  2. 株式会社岩波書店→岩波書店。「株式会社」はいりません。
  3. 参照文献リストでは、参照した箇所(pp. 74-95)のようなページ表記は基本的にいらない。参照したページは本文中か、脚注で示す。リストは単なるリスト。 参考文献リストにページ表記が必要なのは、雑誌に掲載されている論文。
  4. 見よう見まねでは正しく書けない。必ず手引きを参照すること。どの手引きにしたがえばいいかわからない場合は教員に確認すること。(指定しない教員も悪い)
  5. 「第〜版」(はん)は初版(第1版)以外は必ず必要。第2版、第3版と版が変わるにつれて内容はかなり変化する。
  6. 「第〜刷」(すり)は不要! 「刷」というのは、出版社がその「版」で何回刷ったかをあらわしてるもの。同じ「版」で印刷するので、原則として誤植などの微修正があるだけ。ちなみに「刷」が多い本を出してる著者の人はもうかっていることがわかる。たとえば戸田山和久先生の『論文の教室』は20刷とか軽く越えてて、先生はおそらく出版長者であることが推測できる。

人の呼び方・文献の参照

  1. レポートのなかには数多くの情報や他人の意見が入るので、それらが自明なものでないかぎり、いちいち情報源をつけること。また本文でもその情報源に言及する。「生命倫理学者の霜田求によれば、〜である」のような表現になる。
  2. 文献を参照するときは、その文献の著者がいったい誰で専門はなんなのかはいつも意識しておくこと。カントや安倍首相などの有名人でないかぎり、名前だけ出されても読者はそれが誰であるかわからないので、ごくごく簡単な紹介をつける。
  3. 人の名前は一回目はフルネームで読んでおく。 「尾木直樹は」でもいいのですが、「教育学者の尾木直樹」とか「教育評論家の」ぐらいの説明つけるとさらにグッド。2度めからは「尾木によれば」でOK。ちなみに最近どういうわけか、「作家である百田」「倫理学者である霜田」とか「である」使う文章がめだつが、「の」でいいです。「作家の」「倫理学者の」でいいじゃん。ちなみに、肩書のようなものは「鳥辺野女子大学教授の〜は」より「心理学者の〜は」の方がグッドな場合が多い。大学教員の所属は頻繁に変わるし、所属より専門の方が大事。新聞などでは肩書の方が大事なので鳥辺野女子大教授の〜になることがある。もちろん、「鳥辺野大学教授の倫理学者霜田求は」でいいけど、大学の所属はあんまり重要ではない。
  4. 文献(論文や書籍)は「作り物」ではないので、それを書いた人は「作者」ではなく著者。しかし「著者」と読んでも誰だからわかにくいので、原則的にぜんぶ名前で呼ぶこと。
  5. 著者は〜と述べている」はやめて、「芳賀は〜と言う(出典表記)」「芳賀によれば〜である」にするレポートでは学者が1人だけでなく3人とか10人とか出てくるので、「著者」では誰のことかわからないし、わかるとしても不親切。
  6. 「授業で聞いた」は典拠にならない。その講義で教員が使ったテキスト、資料、論文などを確認する。典拠は教員が授業で提示しているはずだが、曖昧だったら質問する。典拠なしに大学教員がしゃべってることはすべてヨタ話なので、そんなものはなにをするときも根拠にしてはいかん。

引用まわり

  1. 日本語の引用は「」(鍵括弧)でおこなう。”引用”は日本語では使いません(そもそも“ ”と向きを合わせないとならんし。)。二重括弧『』を使うのは本のタイトルだけ、と思ってよい。括弧のなかの括弧も最近は鍵括弧「」でよいことがおおいのでそっち推奨。引用符は引用符で奥が深いのでwikipediaを見よ
  2. 長い引用(おおむね4行以上)は、「」でくくるのではなく字下げして引用だとわかるようにする形で書く。
  3. 学問の世界では、文献(本)のタイトルより、その情報をもたらした人が誰であるかの方が重要な情報なので、名前を優先する。「『日本国記』によれば〜」ではなく、「作家の百田直樹によれば〜」がベター。もちろん「作家の百田直樹の『日本国記』によれば〜である」でもOK。
  4. 誰かがなんか言ってるのを参照したら、基本的にページ番号もつける。読者がその資料・文献のどのページを見たらいいのかすぐにわかるように。基本的に読者のことを考えて読者に親切にする、という原則。
  5. 私はいわゆるAuthor Yearを推奨しているので、(百田 2008, p. 16)のように。
  6. ページ表記に「p」記号を使う場合、pのうしろには必ず.をつけること。p12も12pも12PもP12もどれもだめ。複数ページはp. ではなくpp. 。pp. 5-8 のようになる1)(百田 2008:16)のような書き方もあって、これだとピリオドのことを考える必要なくなるからいずれこれ指定するかな。
  7. なんでも直接引用(「」などでそのまま転載する引用方法)すればよいというものではない。基本的にはレポートでは、他人の主張もパラフレーズ(自分の言葉で書き直す)して出典つけた方がいいと思う。
    1.直接引用(「」でくくってそのまま書く)が必要なのは、(1) 批判する場合(「ほんとにこんなこと言ってるのだ!」の意)あるいは意外な内容の場合、(2) 表現が特殊・印象的な場合(うまい表現だ!)だと考えておくとよい。
  8. (1)の批判する場合は、批判の対象なのでまちがいなくその対象がそう述べていることを明示する必要があるから。勘違いしやすいものだし。「ほんとにこいつはこんなこと言ってるんですよー、信じられないっしょ」ってやる。 (2) 表現が印象的・オリジナルな場合は、その表現がその人のものだと明示するため。 (3) 意外な内容の場合もほんとにその人はそう言ってるんだと明示するため。
  9. ふつうに参考にするだけなら、自分が理解したところを自分の言葉で述べて参照ページを書くのでOK。
  10. 「〜には〜と書いてある」「〜には〜とある」は大学では禁じ手だとおもってもよい。 書いてあるんじゃなくて誰かが書いたのです。 それを書いたのが誰か、っていうのが大事なのです。
  11. 辞書や法文や中高での教科書や資料集などは、誰が書いているかは重要ではないので「〜には〜とある」は許されるが、大学で使う文献は誰が書いているかがまさに重要。
  12. 高橋祥吾先生の「引用の作法について」も見てください。

注について

  1. わざわざ手で「※」記号などを使って注をつけるひとがいるけど、WordやPagesのアプリの脚注・後注機能使ってください。便利なものですわ。Wordの場合は、メニューバーの「挿入 → 脚注」とか。
  2. 掲載媒体にもよるところもあるけど、基本的には文献参照や注は、「。」の前に記号をつける。「。」のうしろだとどこについているかわからない。
  3. 語句に対する注は必ずその直後。どういうわけか低学年だと前につける人がいるけどぜったいに許さない(いわゆる「絶許」)。
  4. 語句の説明を注でやってはいかん。本文で説明するべし。

箇条書き

  1. 箇条書きは便利だが、地の文(箇条書きでも引用でもない、自分の文章)での説明なしに使ってはいかん。「〜。この点について要約すると、次のようになる」など、「箇条書きにするぞ!」と宣言してから使う。
  2. ワープロソフトが適当にやってくれるかもしれんが、「インデント(字下げ)」や「ぶら下げ」という概念を理解しておくこと。

文章

  1. 自分自身のことも「筆者は」とか書かないで「私は」。「筆者」は自分自身を指しているのか、言及している文献の筆者(著者)を指しているかわかりにくいことがある。
  2. 体言止めは徹底的に避けよ。 体言止めつかうのは文章書くのに慣れてから。
  3. 前の文章にある語句でも、「これ」「それ」はわかりにくいことがあるので注意する。「その体験」「この主張」のように名詞を加えるとわかりやすくなることがある。
  4. 「〜と書いてある」「〜とある」はかっこわるいので避ける。「〜は〜と主張している」の形にすべし。
  5. 接続詞は積極的に使う。というより、原則的にはすべての文章の先頭には接続詞がついている、ぐらいのつもりで書いてよい。もちろんそれではかっこわるいが、その文が、それ以前の文章や段落とどうつながっているのかを明示する。主語は省いてかまわないとか接続詞はない方が軽快な文章になるとかそういう文章指南もあるが、ああいうのはエッセイや文学作品や軽い雑誌記事などを書くときの作法。
  6. 文章は短く。ふつうの大学生は4行以上になる文章を書くと文がねじれる。そうなってしまったら切って接続詞でつなぐ。
  7. 「冬、雪が多く日照量が少ない山形県で育った私は」のような名詞や代名詞の前にごちゃごちゃ形容句がついてる文章は読みにくいしねじれた文章の原因になる。「私は山形県で育った。山形県は冬には雪が多く晴れの日が少ない。だから私は〜」と「形容句 + 名詞」を名詞を主語にした文にするとよい。
  8. 「私は〜思った」「私は〜と考える」はあってもいいのではなるべく削りたい。「私が一番興味深いと思ったのは」もNGではないが、「もっとも興味深い点は〜だ」でOK。こっちの方が大人っぽい。「私は〜は思う」→「〜だろう」「〜かもしれない」「〜のようだ」とかいろいろ、「私は〜思う」以外の表現はある。特に、「私は〜と考えた」「〜と思った」「〜と感じた」と過去形にすると、大学レポートとしては非常に子どもっぽい印象を受けることがあるので特に注意。

References   [ + ]

1. (百田 2008:16)のような書き方もあって、これだとピリオドのことを考える必要なくなるからいずれこれ指定するかな。

レポート課題を課す時期について

講義とかの最終レポートは、講義最終回終ってからゆっくり書いてほしい、などと思っていたものですが、いまそういうのはあきらめました。

フィードバックしないレポートは出すべきじゃないと思うようになって、最終回以降に出して採点して返却するってことにしてどっか置いといても、それ取りに来ない学生様が多くてつらいし。

今期やってる講義A(3回生、中規模)では、(1) 講義数回やったところで、主に体裁(段落の最初は1文字下げろ!へんな空行入れるな!)とかやるごく短くてあんまり調査必要ない課題、(2)正月あけ提出で、ある程度調査してほしい長めの課題、ということにして、それ急いで採点して最終回で返す予定。体裁や文献とかちゃんとできない学生様には (3) 同じ課題での再提出を命じる予定。とにかく体裁ができてないと読もうとするとストレスがかかるので、それができるまでがたいへん。体裁がちゃんとすれば添削してみようという気にもなる。3回生なので情報ソースの示し方とかきちっと教えたい。

講義B(全学部・全回生、大規模)は同じように(1) 体裁の確認のショートレポート、(2) それなりの長さのを年末に出させて正月空けに返却。さらにできてない学生とボーナス加点が欲しいひとのために (3) 1月末締切で電子的に提出。これはわりと自由にやってもらうつもりで「〜という条件のエッセーを書け」みたいな感じですね。エッセーって何かとかそういうのも授業内でモンテーニュ先生までさかのぼってやってる。

講義Cは複数教員によるオムニバス授業(全回生、全学部、大規模)で、これは3回短い講義ノートみたいなの出してもらって体裁とかちゃんとできるようになったところで、レポートの書き方について時間かけてお説教してから、全講義終ってから長めのレポートを電子的に提出、と。これはあんまり厳しく採点しないけどどれも授業用ポータルサイトなるもので電子的にフィードバックって形にしてます。

まあできてない学生はできるまでやってもらう、っていうのが必要ですよね。いきなり単位落とすっていうのも問題になりそうな今の時代、これくらいなら文句はつかないだろうと思うのです。でもこれってやりすぎで、すごく時間かかってしまってどうしたもんですかね。

 

 

若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

そのわかってた人、メアリ・ウルストンクラフト先生についてはこのブログでほとんど何も書いてないみたいで驚きました。関連する授業ではけっこう大きく扱ってるし。っていうか女性思想家が表舞台に出てくるのはこの先生からぐらいですよね。

ルソーは次のように言明する。女性は、瞬時といえども、自分は独立していると感じてはならないと。そして、女性は、生まれつき持っているずるさを発揮するためには恐怖によって支配されるべきであり、自分を欲望の一層魅惑的な対象にするために、すなわち、男性がくつろぎたいと思う時にはいつでも彼のもっとも優しいお相手になれるように、コケティッシュな奴隷にならねばならないと。彼は更に議論を進め──自然の命ずるところに従ったふりをして──次のことをほのめかす。誠実と不屈の精神は、すべての人間的美徳の基礎であるが、女性の性格については、服従を厳しく叩きこむことが大事な教育なのだから、誠実や不屈の精神はほどほどに教えるべきだと。

これに対応するルソー先生の著作はもちろん『エミール』。

女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ。(『エミール』)

かっこいいっすね。ウルストン先生はこれを思いっきり張り倒します。

何と馬鹿げたこと! 男性の高慢と好色のために、この問題の上には、こんなにもひどく煙が立ち込めてしまった。これを吹き払うに足りる程の知力を持った偉大な男性が、いつの日にか出現するであろうか! たとえ、女性には生まれつき男性には及ばない点があるとしても、彼女たちの美徳は、程度においてはともあれ、質においては男性と同じでなければならないのだ。(pp. 55-56)

この「男性の高慢と好色のために」がいいっすね。ウルストンクラフト先生『高慢と好色』ってフェミニスト小説書けたかもしれませんね。原文はどうなってるんだろう。

What nonsense! When will a great man arise with sufficient strength of mind to puff away the fumes which pride and sensuality have thus spread over the subject!

いかにもエッチな感じ

こうですか。「ナンセンス!」。まあルソー先生の好色と高慢を見抜いているのはさすがです。

このあと、とにかく人間の「美徳」っていうのは強弱の違いはあってもどの美徳も男女ともに求められるものなのだから、男女同じように教育するべきだ、というまったく正しい主張を先生はなさっておられます。

でもこの時代、「でもやっぱり女の子って恋愛に興味あるっしょ?サインコサインより目の大きさ、アインシュタインよりディアナアグロン」っていう人はいたわけですわね。それに対して先生はこう言うわけです。

恋愛に重きを置かずに論を進めるのは、情操や繊細な感情に対して大逆罪を犯すものであることは承知している。だが私は、真理の持っている単純な言葉を語りたいし、心よりもむしろ、理性に話しかけたい。この世から恋愛をなくそうと説得に務めることは、セルヴァンテスのドン・キホーテを追い出すことであり、ドン・キホーテと同じように常識に背くことを行うことになろう。しかし乱れ騒ぐ情欲(パッション)を抑えようとする努力は、そしてまた、次元の高い能力を下位に置いてはならぬことを証明しようとする努力は、あるいは、知性が常に冷静に保持すべき大権を奪い取ることは許されないことを証明しようとする努力は、それ程暴論とは思えない。

そりゃ恋愛とか性欲とかは強いもので、そういう感情や欲求を抑えるってのはむずかしいけど、パッションばっかじゃだめですよ、と。ここらへん啓蒙時代を感じますね。恋心やエッチな好奇心にふりまわされてはいけません。

青春は、男性にとっても女性にとっても、恋愛の季節である。けれども、思慮に欠けるこうした享楽の時代においても、人生のもっと重要な時代——その時には、熟慮が興奮に代って登場する——のために、準備がなされなければならないのだ。それなのに、ルソーや彼を見習った大抵の男性著述家たちは、女子教育の趣旨はひたすら一つの点——男性を喜ばせる女になること——に向けられるべきである、と熱心に説いてきた。

人生って、現代の女性にとっては80年以上あるけど、恋愛とかに頭いかれてる時期っていうのはそれほど長くないはずだ、青春とかってのよりもっと大事な時期、もっと大きなことをなしとげる時期があるので、教育っていうのは若いときの恋愛とか就活を目指したものではなく、もっと先の(仕事も仕事以外のも)キャリアを考えた教育をしなければならない、というわけですな。まったくお説もっとも。

このような意見の支持者で、人間性について何らかの知識を持っているような人と議論しよう。彼らは、結婚は生活習慣を根こそぎ変えうるものである、と想像するのであろうか?ただ男性を喜ばせることだけを教えられてきた女性は、彼女の魅力が落日の夕日の如く沈むことを、いずれ知るであろう。夫と毎日鼻を突き合わせてばかりいる時には、また女盛りが過ぎ去った時には、自分の魅力が夫の心をあまりつかむことができなくなるということを、やがて知るだろう。その時になって女性は、他人に頼らず自分で楽しみを見出していくために十分な、また自分の潜在能力を磨くためにも十分な、本来のエネルギーを持てるであろうか?持てないとなると、別の男性を喜ばせようと試みると考える方が、もっと合理的ではないであろうか?そして新しい愛を獲得する期待から生まれた感情の中で、彼女の愛や自尊心が受けた屈辱を忘れようと考える方が、もっと合理的ではないであろうか? 夫が自分を愛してくれる人ではなくなった時——その時は必ずや来るであろう——には、彼を喜ばせたいという彼女の願いは暗礁に乗り上げるか、あるいは、悲嘆の源となるであろう。そして恋愛、恐らく、あらゆる情熱(パッション)のうちで最も移ろいやすい愛は、嫉妬や空しさに席を譲るのである。

ここがいいんですよね。誰かを喜ばせることだけを教えられた人は、その誰かあんまり喜ばなくなってしまったら、しょうがないから別の誰かを喜ばせようとするだろう。これは行動分析学とかで言う「強化」の原理ですね。誰かに喜んでもらのはよいことであり楽しいことであり満足いくことですから、喜ばせましょう。ただ、美貌やエッチな能力だけで他人を喜ばせつづけるのはかなり難しいので、いろいろ工夫も必要でしょうな1)ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。。それに次々に相手を変えて喜ばせていく、というのもありかもしれんし。少し前にうしじまいい肉先生が、「私はいつも上の世代と遊んでいるから、50才になったら老人ホームの70才の男性を喜ばすつもりだ」(大意)というのを書いていて、これはこれですばらしいと思いました。ただちょっと出典見つからんな。

私は今、何かの信念、もしくは偏見によって抑制された女性について語る。このような女性は不義密通というようなことは大嫌いであろうが、それにもかかわらず、彼女たちだって夫からひどく冷淡にあしらわれているのがはっきりした時には、他の男性からちやほやされることを望むのだ。そうでなければ、夫と意気投合した魂が享受した過ぎし日の幸福を夢見ながら、毎日、毎週を過ごし、ついには、彼女たちの健康は蝕まれ、精神は不満のために傷つくのだ。そうだとすると、男性を喜ばせるという大変な技術を学ぶことは、そんなに必要な学習でありえようか?それは、ただ情婦にとって役に立つだけである。清純な妻や、真面目な母は、人を喜ばせる能力は彼女の美徳を磨くことによってのみ生まれる、と考えるべきであり、夫の愛情を、彼女の仕事を容易にし彼女の人生をより幸福なものにするための励ましの一つとしてだけ考えるべきである。——しかも、愛されていようが無視されていようが、彼女の第一の望みは、自分自身を尊敬に値するものに成長させることであって、幸福のすべてを、彼女と同じように弱さを持っている人に賭けてはならない。(pp.58-60)

てな感じですばらしいっす。

まあこの時代、女性向け小説とかすごく流行ってたんですわ。ルソー先生だって『新エロイーズ』っていう当時のベストセラーもってたし。これは身分の差恋愛ありの不倫よろめきかけありの小説ですね。(岩波の古い訳がありますが普通の人は読んでもおもしろくないと思う)

ウルストンクラフト先生は、小説とかエッチなことや人間の感情みたいなのしか書いてないから読書としてはあんまりよくない(だめだとは言わないが)、だから哲学書(ここでの哲学は学問全部、物理学とかも含む)と歴史書を読め、みたいなことを言ってます。

ていうわけで、ディアナアグロンじゃなくてアインシュタインしますか2)でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html 。まあそうもいかんですかねえ。


これ書いてみたいのは、最近中公新書の『マリー・アントワネット』を読んで、ウルストンクラフト先生が指摘している女子教育の問題というというのはまさにマリアンさんたちの問題だったのだな、と気づいたから。人を喜ばせることを学び、それが自分にできるなら、人を喜ばせたいっていうのは当然の欲求な気がします。そしてそれしかできなかったら、なんとかして喜ぶ人を見つけたい。世界で一番喜ばせがいがあるはずの王様が喜んでくれなかったら、貴族仲間喜ばせたいだろうし、国民も喜ばせたいだろう。もし自分がいるだけで喜んでくれるなら、フェルセンも喜ばせたいですよね。ウル先生はマリアンさんのこととかある程度知ってたろうしね。それはまわりにある問題だった。まあウル先生はそうとうキレてる人だったのであれだったですが。そういうの考えつつ読むとおもしろいです。


 

References   [ + ]

1. ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。
2. でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html

2018年に読んだ本ベスト10

今年も印象に残った本10冊。もうなんか読書人生も終りに近くなってる感じがあって、マンガとかも含めていわゆる「積ん読」になってしまうことが多くなってます。

一番はやっぱりこれかなあ。昨年末にいただいて楽しく読ませていただきました。買い物は適応度ディスプレイだ、そしてディスプレイしているのは富や社会的地位だけでなく、中核六項目(知性+ビックファイブ性格特性)だって主張で、これ読んでからツイッタとかで人々がいろいろやってるのを見る目が変わりましたね。みんながんばってディスプレイして社会的地位や適応度を上げましょう。

これ、単なるよくあるインタビューじゃなくて、コニッツ先生とそのまわりの人々の音楽性と活動とかまでつっこんだ話を聞きだしてすばらしい。2000年代はアカデミックな先生たちがこうした本を作ってる。

これは年末近くなってから読んだけどプリンスのスタジオ風景で、これ読んで、「あー、もうプリンスはいないのね」とか実感した。スタジオではとても扱いやすい人だったようだ。どの関係者も、なによりプリンスのドラマーとしての能力を高さに言及しているのが印象敵。そして一番驚いたのは、ストリングスとかの斬新なアレンジしてもらっていたクレアフィッシャー先生(ジャズでもそこそこ有名)と会わずに仕事してたこと、「会うか?」って聞かれても「いや会わない方がいい」とか答えたとかって話。へー、特にParadeのあの音がそんなふうに作られたとは。

他にも音楽関係のは印象に残る本が多かった。

『洋楽マン列伝 1 (ミュージック・マガジンの本)』『あなたの聴き方を変えるジャズ史』『イントロの法則80’s 沢田研二から大滝詠一まで』など。

マンガはなんかストーリーの強いこってりしたものは読みにくくなってて、むしろ絵を楽しむ鶴田謙二先生いいなあ、みたいな。5、6冊読んだかな。

あと上野先生には笑わされた。すばらしい。ぜんぶ買いなさい。

将棋界カンニング疑惑事件とかの発生やいろいろからのうつ病の罹患とその回復の過程。先崎九段はまだ本調子じゃないみたいだけど、内的な経験の記述がリアルだし人々との関係とかが青春小説のようだ。青春じゃなくて中年小説か。

これ、大昔に読んでるんですが読みなおしていろいろ確認できて印象に残ってる。「〜とは何か」とかって問いはやめましょう。

われわれはぜんぜん知ってないのに知ってると思ってるし、なにか教えてもらっても後知恵で知ってたつもりになってしまう。

ひろゆき先生のひさしぶりに。笑える。まあこういうのが正しいとか性格がよいとかそういうのではないけど。

私そんなアスペでもADHDでもないとは思うけど、同じような悩みはある。このシリーズはよい。『ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本』と『ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本』

MediaMarkerがサービス終了ということで、ブクログ https://booklog.jp/users/yonosuke1965 に難民したのですが、使い勝手にずいぶん差があるわねえ。どうにかしてほしい。

 

 

学術論文における言及とクレジット (2) 河野有理先生のエントリーへの疑問

んで、このクレジットの問題を考える上でのとっかかりになった笹倉秀夫先生の書評と、それに対するネット民(ネット人士?)、そして専門家の河野有理先生の「初期消火」論説についてやっぱりどうしても触れないとならない。このシリーズの予定では、この問題に直接関係はない、って書いたんですが、やっぱりどうしても触れないわけにはいかないですよね。正直、私は河野先生の文章がよくわからない。

(本エントリーのみ公開仕様にします。拡散していただけますと幸いです)下記のような論文が一部で話題のようです。業界の評判に関わることですので簡単に一言します。結論から言うと、この論文での著者の主張(苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』と…

河野 有理さんの投稿 2018年12月4日火曜日

この件につき公開エントリーはこれで最後にします。(※12月15日に二つの追記をしました)前エントリーでは、早急な初期消火の必要を感じていたため、笹倉氏の書評を真に受ける必要がない旨のみお伝えしました。また、手元には笹倉氏の『丸山眞男論ノ…

河野 有理さんの投稿 2018年12月7日金曜日

疑問やコメントを順不動の箇条書きで残しておきます。

  • まず、二つ目のエントリーの方、「笹倉書評の主張は、「苅部本(2006年)の記述は、笹倉本(1988年)と「通常考えられないほど重なっている」というものです」は、正しくは「笹倉本 (2003)」だと思います。書評で笹倉本と呼ばれているのは1988年の『丸山眞男論ノート』ではなく、それを増補改訂した2003年の『丸山眞男の思想世界』です。苅部先生のが2006年ですので、執筆直前に出たような感じでしょうか。これずいぶん印象違いますよね。実はこれ、もとの笹倉先生の文章も全体に読みにくいといころがあって、私のようにそそっかしい読者は把握してない可能性がある。私1988年の方は見てないのでわからないのですが、2003の『思想世界』は『丸山眞男論ノート』を第二部にしていて、さらに『方法としての丸山眞男』(1998)を第一部に、「複合的な思考」(1996)を第三部に加えてるようで、まあぜんぜん違う本と見てもいいんではないでしょうか。
  • 苅部先生が独創性を主張していると笹部先生は執拗に指摘してる、って話。当然の確認だと思います。これはふつうの著作は独創性を主張しているわけですが、教科書、事典などはそうではない。新書は判断がむずかしいときがあるが、岩波新書はあきらかに著者を前面に出したオリジナルな研究のはずで、苅部先生だって自分の独創性がないなんてまったく主張しないように思います。笹倉先生はそれ(「単なる教科書的な概説じゃないんだな?」)を確認しているんだと思う。
  • 笹倉先生の主張する「重なり」が「字面レベルではほとんどまったく似ていない」、ということですが、字面が似ていればこれは笹倉先生の主張するアイディアの無断借用などではなく、まったくの著作権侵害で話は別。「アイディアの無断借用」や「剽窃」plagiarismと、著作権侵害 copyright infringement とはまったく別の概念だと思います。ちなみに私は剽窃はわれわれが非常に犯しやすい行為で、かつ、必ずしもとても重大な悪と呼ばれるべき行為とも言えない場合がある、と主張したいのですが、それはまたあとで。
  • 学術的なクレジットは必ずしも「第一発見者」につけるものではない。また「専売特許」のようなものではない。基本的には情報の流通の依存関係をあらわすものだと思います。「アイディア使われたかもしれない」というような訴えを「専売特許を主張するのか!」みたいなのはあまりよくない反応だと思います。(ちなみに著作権と特許、そして専売制度もまたぜんぜんちがったものです)
  • 「「たった一行なぜ俺の名前を書けないのか」的なことなのではないかとも邪推」ということですが、これはどうでしょうか。わたしはたった一行でいいから笹倉先生の書いてあげるべきだという考え方は十分なりたつと思います(このケースで実際にどうかという判断はしませんが、そうした要求をすることは悪いことではないし、正当な場合も多いと思う)。苅部本では文献リストは8ページもあるし、丸山の文献については本当に必要なのかか門外漢には判断できない情報も載せているのだから、1行笹倉2003を載せるのは何の苦もないはずだと思います。一般読者にも、丸山研究のまとまった書籍の代表的なものの存在をいくつか示すことは有益だろうと思いますし。
  • 「松澤、石田、飯田諸氏による丸山論の方が使いやすい」ということですが、使いやすさの問題ではないように思います。実際にそれらを使ったかどうかが問題のはずです。その文献を参考にしたかどうかは執筆者本人しかわからないように思います。
  • 笹倉先生が主張する「重なり」の1の「あい矛盾する二つの要求」はたしかに陳腐かもしれません(だいたい思想家は葛藤する要求やアイディアをもっているものです)。しかし2の「型」の強調はわりと印象的で(これは笹倉1988ではなく2003のものです)、3、4、5、7などでの使用文献の重なりが偶然的なものなのか私には判断できません。そうした論の進めかた、文献使用の選択などそれ自体が「アイディア」であるように思います。
  • 河野先生のエントリーについてもっとも大きな違和感は、「優れた先行研究だけが参照され、言及され、文献リストに載せられるべきだ」というような考え方をもっておられるのではないかという点にあります。研究史において重視されている文献だろうがそうでなかろうが、参照しアイディアを借りたり批判したりするときには言及する、というのがふつう要求されている態度であって、もちろん参照しなかったのなら言及する必要はない、というそれだけのことに私には思えます。
  • また、優れた書籍、優れた論文はもちろん大事ですが、昔の文献に仮に誤りが含まれていたり情報不足の面があるとしても、部分的に、情報として有益なもの、オリジナリティを認めるべきものは存在するはずです。そうしたものを参照したのならそうはっきり書くべきだと思います。
  • 「先行研究は誘惑するものである」といった文学的な表現は魅力的ではありますが、そうした考え方は必要なく、見たものは見たと書き、参照しなかったのなら「参照しなかった」あるいは「見たけどぜんぜん参考にならなかったので省いた」でOKであるように思います。ただしこれは本人が答えねばならない。もっとも、そうした「アイディアを無断借用したのではないか」という(特に本人からの)疑義にさらされないためには、前のエントリに書いたように「迷ったら言及しておく」ぐらいしか手段がないように思います。
  • 「この12年間、笹倉氏以外の専門研究者コミュニティから疑義の声(「苅部本が笹倉本を参考文献表に加えないのはおかしい!」)が出ていないのはそういうことです、としか言いようがないのでは」ということですが、これはだからこそ問題で笹倉先生自身がああした書評を書かざるをえなかった理由なのだと思います。文献表やアイディアの流通のようもののチェックは、一般読者・門外漢には不可能です。文献リストを眺めて「欠けている」ものを見つけるができる非専門家はいません。したがってそうしたことは専門的な研究者に期待される役目なわけですが、そうした専門家が皆、河野先生のような考え方をしているのであれば、12年間疑義の声が出ないのは当然ではないかと思います。
  • またそうしたことを指摘するのは非常に難しく、さらには笹倉先生本人が指摘したのをネット人士が「あれ?」と思い話題にする程度のことさえ専門家によって非難にされるのであれば、そうした指摘が出ないのはまずます当然ではないのかと思います。「無断借用」、剽窃だの盗用だのという指摘は非常に重大なものだと考えられているので(私はそうでもないケースもあると思うのですが)、よほどはっきりしたケースでなければふつうの人間にはできませんし、そもそも専門家であっても気づかないものです。また気づいたとしても、そういうことをはっきり指摘できる人はめったにいない。だから通常はそういしたものは本人以外が指摘するしかない。
  • 河野先生のこのエントリの最初の「1988」がまちがっていることさえ、他の人々によって指摘されず「プロの仕事」として大量にリツイートされているのだから、アイディアの借用などのようなもっと微妙で危険な問題について誰もなにも言えないのは当然ではないかと思うわけです。だから門外漢の「あれ?」ぐらいのは許してほしいし、そういうの簡単に非難するのはやめてほしい。私は、弟子とかいないし関係者も少ないしいちおうテニュアもってることになってるからこういしたことが書けるわけですが、それでもものすごく怖い。それでも私みたいな人間が書かないとならない、っていってがんばってるわけです。勘弁してください。
  • 現状では笹倉先生がうったえるようなことは「研究不正」とはされておらず、その点は笹倉先生自身もよく理解していると思います。そしてどれくらいそうした参照や言及が必要なのかということは、国・個人・読書界・学術業界や出版形態に依存して相対的なものであり、また我々がいま現在つくり作りあげている規範であって、だからこそ私は笹倉書評に注目しました。

 

 

↑これの最後の法に「著作者とあれる人々の保護」というおもしろい論文がはいっています。以降はこれと、前回エントリに書いた↓のをちょっとずつ紹介したいです。

 

学術論文における言及とクレジット (1) 迷ったら参照せよ

ちょっとだけクレジットの問題ついて書いておきたいことがあるのです。最近ツイッタでちょっと怒られが発生したようようなんで1)ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。、その件と関係してはいるけど、その件自体には直接は関係しない2)もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。。学問の世界での引用や参照、クレジットや「剽窃」の問題には前から興味があるので、ちょっと思うところだらだら書いてみたいと思っています。

学生様にレポートや卒論を書いてもらうとき、やっぱりコピペや剽窃といったクレジットの問題については頭を悩まさざるをえない。自分で論文やブログ記事を書くときはさすがにコピペはしないものの、やっぱりクレジットについてはずいぶん悩むものです。そういうのは大学で授業してレポート書いてもらいはじめてすぐに悩みはじめたことだし、20年以上ずーっと悩んでることですわね。これは大学教員はみんな同じだと思う。

10年以上前に昔なつかしの「ホームページ」に「レポートの書き方」とか「剽窃を避ける」みたいな文章書いて、ずいぶんリンクしてもらったりして、まあ最初はネットもそういう話を直接にあつかったページは少なかったように思う。いまではたくさんあるのでよい時代になった。私のページとかもう価値なくなってる。「レポートの書き方」系のよい本もたくさんあるし。

私自身は「コピペ問題」とかはもうあんまり悩んでないわけですが、難しいと思ってるのは学生様にクレジットのつけかたをどう教えるか、みたいなことで、基本的には「迷ったときはなんでもクレジットつけろ、ページまで」みたいな指導になってるのです。それだといわゆるコモンノレッジ、共有知、あたりまえのものまでクレジットつけるようになって、まあ安全ではあるけどうざいというか。

「剽窃を避ける」https://yonosuke.net/eguchi/archives/2878 を書いたときも、「多くの人が共通に知ってること」を説明するのにずいぶん苦労して、まあ「5冊以上の本で出典なしに挙げられてるのは共有知」みたいな説明になってるけど、これでいいのかどうかわかららない。

マクミランの学生向けのページだとこんなになってる 。https://www.macmillanihe.com/studentstudyskills/page/Referencing-and-Avoiding-Plagiarism/

「特定の分野の人が(当然)知ってることが期待されるような知識」みたいな感じっすか。でもこれじゃ学生はわからんわけですわね。

このマクミランのページでは「授業に参加する前にその情報知ってましたか」「自分の脳味噌から出てきましたか」とかたずねてみて、どちらも「ノー」なら、少なくともあなたにとっては共有知ではない、だったらリファレンスつけましょう、みたいな感じになってますね。

ちなみに引用・参照しなければならないのは、(1) 独特distinctiveなアイディア。これはまあ当然か。これおそらく、他のソースと違う、ってことよね。国内ではわりと軽視されているのが、(2) 特徴的な構成あるいは構成手法。ある問題にとりくむにあたっての問いの立てかた、問題を検討するにあたっての文献や論者の選択、こうしたものも広い意味でアイディアなので、これにもクレジットつけないとならんと考えるのだと思います。(3) 特定のソースからの情報、データ、(4) 逐語的フレーズ、パッセージ、(5) 共有知でない情報とか。

(3)や(4)は当然で、特に(4)の逐語的フレーズ/パッセージはクレジットなしに他人の文章を使ったら著作権法違反ってことになる。ただし著作権で保護されているのはアイディア(思想・発想)ではなく「表現」でしかないので、特定のアイディアを他人から借りてもなにも著作権法に反することはない、と私は理解しています。(5)はさっきの「共有知」問題にかかわるやつ。

まあどれもいろいろ面倒で、だからこのページでは、実践的な指針として、(6)「 迷ったら、言及せよ!」というのが主張されている。このページでは、そうしていちいち引用・参照して言及する一番の利点はトラブルを避けることだとはっきり言われていると思う。 “good referencing is essential to avoid any possible accusation of plagiarism.” ちゃんとした参照は、剽窃の疑いをかけられるのを避けるために重要です、とのこと。おそらく、あるアイディアの使用が盗用だとか剽窃だとかという疑いはあまりにも簡単にかけられてしまうので、疑いをかけたりかけられたり、弁明したり、証明したり、他の人々が検討したりしなければなかったりするトラブルとコストを避けるためにはやはり参考にしたものはいちいち言及しておきましょう、という話だと思います。これはたしかにうざい。

まあそういうのは、場合によっては、あるいは手法によっては書くのも読むのも非常に煩雑になるので時に有害でもあるかもしれないけど、でもトラブル避けるためには多めに言及しとくっていうのは英語圏の流れだと思う。だから自己啓発本みたいなのもリファレンスだらけになる。

ワシントン大のだとこんな感じ。 https://depts.washington.edu/psych/files/writing_center/howtocite.pdf

Even if you arrived at the same judgment on your own, you need to acknowledge that the writer you consulted also came up the idea.

先行研究と同じようなやりかたや結論になったとしても、他の人の研究にコンサルトしたら、つまり論文読んで参考にしたのなら、ちゃんと名前あげなさいよ、みたいな指導がされている。

しかしこのレベルを実践しようとすると、新書のような日本の主流の出版形態が維持できない、っていう問題があるのだと思う。そういうのをどう考えるか、っていうのが私が関心があることなのです。

どういうわけか私年配の先生はわりと苦手なのに、なぜか話あいてになることは多くて(なぜだろう?)、名なり功を遂げた先生たちでもそうしたこまかいことを気にしているのはよく耳にしている。「偉くなったんだからそれくらいいのではないか」とか言いたくなったりもするんだけど、そうして偉くなる先生はむしろそうした功名心が背景にあってこそ偉くなれたのだ、みたいなのを感じることもある。

我々が勉強したり研究したり論文書いたりする一番大きな動機はおそらく功名心あるいはクレジットなので、「たった一行でも私の名前を入れてくれ」みたいなのは非常によくわかる欲求だからわたしはそっちがわに立ちたい。これはそんな簡単に却下できる望みではないと思う。

んじゃ具体的にどうするか、っていうのはまあみんなで話あうのがよいのではないかと思うわけです。というわけで続きます。

 

 

References   [ + ]

1. ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。
2. もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。

MeToo本家の「はじまり」と「歴史とヴィジョン」を訳してみました

MeToo運動が一部で話題になっていて、まあ話題になるべきだと思うのですが、その運動の創始者たちがどういうことを考えているのか日本語で読めるものが少なかったので、おそらく元祖・本家であるところの https://metoomvmt.orgの文章を訳してみました。著作権とかクリアしていませんが、運動の宣言文なのであんまり文句は出ないだろうと判断しています。もちろん私はなんのクレジットも主張しませんので、誰か手を加えてまずいところ修正するなりして彼女たちに送ってもらえれば、日本語ページを作るときに役に立つかもしれませんし、立たないかもしれません。

まず創始者ダラナ・バーク先生による「そのはじまり」。力がある文章で正直感動しました。やはりかざりのない実感のこもった言葉には力があると思います。ぜひ読んでほしい。 https://metoomvmt.org/the-inception/

MeToo、そのはじまり

「Me Too運動」™1)TMついてるんですね。は、私の魂のもっとも深く暗いところからはじまりました。

ユースワーカーとして、おもに黒人と非白人(of color)の子供たちを世話をするなかで、私は胸が引き裂かれるような物語を私なりに見聞きしてきました──崩壊家庭から、子供を虐待的する、あるいはネグレクトする親まで──そういうなかで、私は少女ヘブンに出会ったのです。

ユースキャンプでの女子だけのセッションのあいだ、クラスに参加した少女たちが、自分の人生についてごく内密な話をわかちあいました。その一部はごくふつうのティーンの不安についての話でしたが、なかにはとてもつらいものもありました。それ以前に何度もやっていたのと同じように、私は座ってその物語に耳を傾けました。そして、必要とするように少女たちをなだめました。そのセッションがおわったあと、大人たちが若い女子たちに、もし話すことが必要だったら、あるいはもし他のことが必要だったら連絡するように、とアドバイスしました──そして私たちはまた別々のことをしはじめたのです。

次の日、ヘブンは──ヘブンは前夜のセッションに参加していました──私にプライベートに話したいと言ってきました。ヘブンはかわいい顔をした少女で、キャンプのあいだ中私にまとわりついていました。しかし、ハイパーアクティブで時々怒りに満ちた彼女の振る舞いは、彼女の名前にも軽くてハイピッチの彼女の声にもふさわしくないもので、私はある種の場面ではよく彼女をふりはらってしまっていました。

その日彼女が私に話をしようとしたとき、彼女の目から、その会話はいつもとはちがったものになることがわかりました。彼女は深い悲しみをかかえていて告白したいと思っていて、私はそれをすぐによみとれたので、かかわりあいになりたくないと思いました。

しまいには、その日遅くに彼女は私をつかまえて、聞いてほしいとほとんど懇願するかのようでした。私はしぶしぶそれを認めました。そのあと数分間、このこども、ヘブンは、なんとかして私に「ステップダディ(義理のパパ)」──正確にいえば母親のボーイフレンド──が彼女の発育途中の体にあらゆるひどいことをしている、と伝えようとしたのです。私は彼女の言葉がこわくなり、私のなかの感情はあれくるいました。

私はもう聞くことができなくなるまで耳を傾けました/それは5分にも足りていませんでした。そして、彼女のそばで痛みをわかちあっているとき、私は彼女をつきはなしてしまい、すぐに、「もっとうまく助けることのできる」女性カウンセラーのところに行くように言ったのです。


私は彼女の表情を忘れることはぜったいにできないでしょう。

私は彼女の顔の表情を忘れることができないでしょう、それはずっと私につきまとっているのですから。私は彼女のことをいつも考えています。拒絶されたことのショック、傷を開いても突然むりやりそれをまた閉じられることの痛み──それが彼女の顔に表われていました。私は子どもたちをとても愛していて、子どもだちをとても気づかっているのですが、私は彼女がもっていた勇気をもつことができなかったのです。

私が彼女を愛していたのですが、私は、私が理解していること、私は彼女とつながっていること、私も彼女の痛みを感じることを使えるエネルギーをふるい起こすことができなかったのです。私は彼女の恥の感覚を解放することもできず、起こったことはなにも彼女のせいではないことを彼女に納得させることもできなかったのです。私は自分の頭のなかで何回も何回も鳴りひびいている言葉を声に出して言う強さをもっていなかったのです。彼女は自分が耐えていることを私に伝えようとしたのに。

私は彼女が私から歩き去るのをみました。彼女は自分の秘密を拾いなおして、またそれを隠れた場所にもどそうとしました。私は彼女がまた仮面を被りなおし、ひとりぼっちの世界に戻るのを見ました。そして私は一人でつぶやくことさえできなかったのです。「私もなのよ」と。

– Tarana Burke
Founder, The ‘me too.’ Movement

歴史とヴィジョン。https://metoomvmt.org/about/#history

歴史と展望

「MeToo」運動は、2006年に性暴力の被害者(サバイバー)、特に黒人女性と少女たち、そして他の恵まれないコミュウニティの非白人の若い女性たちが、回復への道を見つけるのを支援するためにはじめられました。そもそもののはじまりから、私たちのヴィジョンが向けられているのは、性暴力の被害者のためのリソース不足と、被害者自身たちによって主導される支援者のコミュニティを建設することでした。支援者たちは、いずれ自分たちのコミュニティでの性暴力を阻止する解決策を作りあげる最前衛で働くようになるでしょう。

6ヶ月にも満たないうちに、ウィルスのように広がった #metoo ハッシュタグのおかげで、性暴力についての活発な談論が、国をあげての対話へ入り込んでいきました。地元の草の根作業としてはじめられたこおが、被害者たちのあらゆる界隈でのグローバルなコミュニティへと届くまでに広がり、世界中でおこなわれている性的暴力の広範さと衝撃を表に出すことで、性暴力被害をサバイブするという行為のスティグマをとりはらう助けとなりました。

私たちの課題は、それを必要とする人々に、個人個人の回復のための入口を見つけること、そして、性暴力の世界的な増殖を生みだしているシステムを打破するために、サバイバーのための大規模基地にエネルギーを供給することに向けられています。

私たちのゴールは、幅広いスペクトラムのサバイバーたちの必要に答えるために、性暴力にまつわるグローバルな会話を再編成しつつ拡大することです。少年少女、クィア、トランス、障害者、黒人女性・少女、そしてすべての非白人(of color)コミュニティ。私たちは、加害者の責任が問われることを求めており、長期的な体系的な変化を維持できるような戦略を求めています。

「MeToo」運動は、性暴力の被害者とその連帯者を支援します。それは、被害者をリソースに結びつけ、コミュニティに組織化のためのリソースを提供し、「MeToo」政策のプラットフォーム建設に従事し、性暴力の研究者およびその研究を集積します。「MeToo」運動の作業は、性暴力を阻止する草の根の組織化と、被害者をリソースに結びつけるデジタルコミュニティーをブレンドしたものになります。

「MeToo」運動は、共感とコミュニティベースの行動を肯定するものであり、その作業は被害者主導によるもであり、各種のコミュニティの必要に応じて特定されたものになります。

タラナ・バークは「MeToo」運動を、貧困コミュニティー出身の黒人女性・少女とともにはじめました。彼女は、黒人コミュニティおよび広い範囲の社会のなかで性暴力についてディスカッションするため、その文化をふまえたカリキュラムを開発しました。同じように「MeToo」運動はそれぞれのコミュニティーで、そのコミュニティの特定の必要を満たそうと運動している人々を支援しようとします。たとえば、非白人で障害をもつトランスのサバイバーが、他の障害をもつトランスのサバイバーとのイベントをもったり、ツールキットを作ったり、そうしたことをするのを支援します。いっしょになれば、私たちは性暴力を阻止するグローバルな運動を強化するため、おたがいを励ましサポートすることができるのです。


こうして読んでみると、もちろんよく読めばコメントしたいことも出てくるのですが、がんばってほしいとも思います。また、現在日本のネットで流通している#MeTooの発想とのあるていどの距離も感じてしまうわけですが、それは専門家の人々がいろいろ検討しているところでしょうから、私がここでコメントするのはさしひかえたいと思います。

References   [ + ]

1. TMついてるんですね。

学会司会学が必要だ

秋から年末は学会シーズンで、あんまりそういうの出席せずさぼってる私も行かざるをえないのですが、司会、特にシンポジウムなど大人数が参加するディスカッションの司会は難しいですね。私経験が浅いので、いまだにどうしたらいいのかわからない。

まあ学会シンポジウムでおもしろいのはめったに見たことないし、むしろストレスを感じる方が多いというかほとんどで、けっこうダメージ受けたりしますし、終了後にどっかに不満を書かざるをえない感じなったりもします。

私はディスカッションというのは短い問いと答えの一発勝負、あるいはその連続によるソクラテス的対話であると思っているので、「質問が二つあります、一つは〜長々〜。え、二つ目は、なんだったかな、そうそう、〜長々長々、長〜〜〜〜〜〜」とかやられるとそれだけでイライラする。答えるほうも「えーと、なんでしたっけ?」みたいになって馬鹿みたいだ。

今年つらかった1件目は、パネラーの一人の年長の先生が長々しゃべる方で、要点もつかめずすごいストレスになったやつ。質問にも長々答えるのでもうなにがなにやらわからなくてつらい。あれを黙って聞いてる人々もえらい!

もう一件も近いもので、パネラーの発表がおわったあとの質疑の時間の半分を5人いるパネラーの1人が一人で質問紙読んで答える、っていうので使ってしまった。このケースでは、パネラーどうしのディスカッションもなく、けっきょく発表者と質問紙しかなく、ライブな刺激がまるでないもので、相当こたえました。

「マンスプレイニング」とかそういうので男性がわかりきったことを説明したりしてとにかく長々しゃべる、っていうのが問題視されたりされなかったりしているようですが、本当に一人で長々しゃべる人はいますね。シンポジウムだけでなく個別の学会発表とかでも延々時間をつかう特定の人々がいて、もっと若い人々、勢いのある人々に時間ゆずってあげたらいいのに、とか思うのに、やはり年嵩の人は優先権がある感じでそうもならんですね。司会者っていうのはそういう長々話す人を抑えこむ義務があると思います。後者の学会は特にジェンダーとか家父長制的権力とかに敏感なはずの学会だったので、けっこうショックでした。

シンポジウムでときどき使われる質問紙っていうのもあんまりよくないように思います。あれ使って成功しているシンポ聞いたことがない。たいてい、休憩時間に会場から質問紙があつめられ、それが発表者に渡され、それを発表者が読みあげてだらだら答える、だけどこれはやっぱりよくない。せめて司会の人がライブな感じで読みあげて、ライブ感を出してほしい。

まあ司会はほんとうにむずかしい。どれくらい質問でるか、議論がもりあがるか事前にはわからんですからね。私が考えるよい司会のために気をつけるべきことは

  1. えらい先生に(不必要に)長話させない
  2. 問いと答は短くなるように促す
  3. なるべく多くの人にわりふる
  4. 若い人々に積極的に時間をわりふって支援する
  5. 対立を恐れない

とかでしょうか。とにかく長話は避けてほしい。まあ話の進行の上で、司会や会場がその人の長話を聞く必要がある、むしろぜひ聞きたい、みたいな判断したときにはそのかぎりではないですが。でも基本的には問いと答はどちらも短い方がいいですよね。その方がわかりやすい。ソクラテス先生がわれわれに教えてくれた一番大事なことはそれなわけだし。あとまあ多様性は大事なのでいろんな人に発言をうながしたいし、特に若い人々に名をあげるチャンスはまわしてあげてほしい。

対立を恐れないというのは、やはりシンポジウムというのは対立をもとめて聴衆があつまるわけでね。だいたい企画の段階で対立している問題をあつかうわけだし、聴衆は血に飢えている。昔の日記見てたら、「シンポはサーカスにしなきゃならん。学会は年に一度の祝祭であり、シンポはサーカスである。そして時に血が流れなければサーカスではない」とか書いてて、まあこのころの私は血に飢えてたような。でもシンポに人呼ぶってそういうことよね。下手すりゃ学問的に殺されるぐらいでやってほしい。質問紙を発表者が読む、とかだと面倒な質問、答えにくい質問、答えたくない質問をを軽くあつかったりできてだめだと思う。そもそも選択を発表者にまかせるみたいなのも当然だめ。司会が選ぶべきだ。

時に乱入とか、具合の悪い質問とかコメントとか、あるいは怒り出す人とかもあるんだけど、まあこれは司会者の判断かなと思う。プラトンの『饗宴』がシンポジウムの起源だとすれば、あれにならって、ディスカッサントは前の人の話をあるていど引き継いで話すのがよかろうし、ディスカッサントどうしの問答はどうしても必要だし、最後にアルキビアデスが乱入してきて語ったことによってディスカッサントとテーマについて理解が深まる、というのもありだと思う。これはまあ司会と会場の腕よね。まあそんなこと考えたりしちゃいますね。

「司会上手だな」とおもった時もまああって、その人は「それではこれからディスカッションします、質問は手短かに一つずつおねがいします、まずどれらいご質問があるか確認したいと思います、この段階でご質問があるかたは挙手おねがいします」みたいなので挙手させて、「それでは〜人ぐらいですので手短に、そこの方」みたいな感じ。あとでまた「さらに質問されたい方は何人おられますか?〜人ぐらいですか、〜分ぐらいありますのでまた手短かに」とかでこの先生はうまかったですね。

質問紙ももし使うのであれば、そのまま読まれるように書いてもらうのもたいへんだし、発表者にまわすのもあれなので、質問用紙には「なにをご質問されたいですか」ぐらいのおおざっぱなことを書いてもらって、それで名前確認しておいて、「それじゃまず〜についてご質問がありますが、同じような質問が多いようですので、代表して〜所属の〜さんおねがいします」ぐらいでやるのがいいんじゃないですかね。

これはやってみたい。わりとさばきやすくなるんじゃないだろうかという期待があって、実は来年小さな学会のシンポ司会しなきゃならんみたいなので試してみたい。

『犯罪学ハンドブック』を読もう!

やっぱり知らん分野はハンドブックとかから勉強する、っていうのが、私のような素人が他の分野の研究とかを鑑賞する(勉強するんじゃなくて鑑賞ですなあ)ときの王道だと思うのです。

最近『犯罪学ハンドブック』っての出てて、これアメリカのその分野の大学テキストの翻訳ですね。この翻訳は第2版をもとにしたものだけど、英語では第3版まで出てて、おそらく定評あるテキストなんだと思います。

修復的司法とかについてどういうふうに扱われているかというと、そうした話は第8章の「批判理論とフェミニズム理論」というところで扱われてます。あんまり好意的じゃないですね。

おそらく世界中で社会主義社会が崩壊したことが影響したと思われるが、Lilly, Cullen, & Ball (2011)は、至る所で葛藤理論が頓挫し、それが「仲裁犯罪学という形式に変化した」と述べている。仲裁犯罪学とは、近年急増する多数の犯罪学理論のなかでごく最近の理論であり、衰退したマルクス主義が包摂されている。まさにポストモダン様式であると断言できる。(pp.226-227、ちょっと語句いじってる)

とかそんな。

仲裁犯罪学の基本理念とは、1960年代のヒッピーの金言、Make Love, Not Warに共通しているが、性的含意はない。現況の「犯罪との戦争」という表現は考えただけでもぞっとするので、「犯罪における平和」を目指そうとしている。(p.227)

 

犯罪者を監禁するかわりに、平和構築犯罪学者らは修復的司法を提唱している。これは基本的に調停と紛争解決のシステムである。修復的司法とは主に犯罪によって生じた損害を修復することを目指し、そして基本的に関係する当事者が一堂に会し、被害者と加害者が、犯罪が起こる前の状態に「修復する」ために、双方にとって合意妥当な解決案に到達することである(Champion, 2005) (p.227)

みたいな紹介になる。

Lainier & Hennry (1998)は次のように指摘している。「ポストモダニズムは、次のような理由から主流派の犯罪学者に厳しく批判されてきた。(1)言語の問題ではなく、非常に理解が困難でであり、(2)虚無主義的かつ相対主義的で、善悪を判断する基準がなく、(3)被支配者層から見ると、非現実的で危険でさえある。(p.285) 平和構築犯罪学は、我々に犯罪における平和を構築するよう迫るが、一体これに何の意味があるのだろうか? 多数の評論家が指摘しているように、犯罪者に対して「紳士的である」ことが犯罪を止めさせることに十分効果的とはいえない。人間苦を低減させることや、犯罪を減少させる公正な社会を実現することは明らかに正しい。この立場に立つ主唱者はそこを目指して闘っている。しかしながら彼らは、「他罰的でなく、犯罪者の視点を理解すべきだ」という提言に一歩踏みこんで、どうやってそのような社会を実現できるかについては何の具体策も提供していない。(pp.229-230)

ずいぶん厳しいけど、主流派から見るとこうなのだな、ってところをふまえて、「それでもなお」って感じで話がはじまるのだと思う。だから研究者には実際の実践とか、その結果のデータとかが重要になるわけだし、私のような鑑賞者は、そういうのをどうやってくれるかに注目して鑑賞することになる。

フェミニスト犯罪学についてもおもしろいんですが、こっちはもうすこし好意的ですね。

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(おわります)

もうしわけありませんが、途中だけどもう終ります。デイリー/カズンズ論争の紹介をしたかったのと、全体の構成その他についてちょっと書きたいことがあったのですが、どのページをひらいてもいやなものを見つけてしまって、もう私は心理的に耐えられないです。ずっとあれやこれや重箱の隅をつついているような感じになってしまう。でも本当に重要な箇所もそういうのが起こっていると思います。

たとえば、第5章第1節、p.165。

例えば、性暴力被害者のジョアンナ・ノディングはRJを通して「対話」に参加した。その中で、ノディングは加害者に「あなたを赦す」と宣言した。そして、「対話」の中で次のように語っている。

私は彼がしたことを許容することも、矮小化することも言いませんでした。なぜなら、私は自分自身を恨みの重荷から解放したかったし、彼にとって大事なことは、彼が自分自身について学び、行動し、赦すことを望むことだからです。(p.165, 下線江口)

下線部、なんかおかしいでしょ。この文献が https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story  これのことならば、原文は

“As the meeting was finishing I was asked if there was anything else I wanted to say, and I gave him what I’ve later come to think of as a ‘gift’. I said to him, ‘What I am about to say to you a lot of people would find hard to understand, but I forgive you for what you did to me. Hatred just eats you up and I want you to go on and have a successful life. If you haven’t already forgiven yourself, then I hope in the future you will.’

“I didn’t say it to excuse what he did, or to minimise it, but because I wanted myself to be free of that burden of grievance, and as importantly for me, I hoped Darren could learn, move on, and forgive himself.”

この部分だと思う。「私が「赦す」と言ったのは、彼がしたことについて免責するためでもないし、それを矮小化するためでもない。そうではなく、私自身を恨みの重荷から解放したかったからです。そして私にとって同じくらい重要だったのですが、私は、ダレン〔加害者か〕が学び、先に進み、そして彼自身を赦すことができるようになることを望んでいたのです。」

細かいように見えるけど、そうではないです。これも被害者が加害者に対して「赦します」と言い、それをあとでそれが「ギフト」であったのだ、と理解するという感動的な話ではあります。でもそれがわからん話にされちゃってる。私こういうの見つけるたびに「うっ」となってもう不快になってつらい。大事なことですが、これは英語能力の問題ではないと思う。

最後の章にデリダ先生が大々的に登場するのは象徴的で、ああしたむずかしくてなにを言ってるのかはっきりわからないこと言われてしまえばもう何も言えなくなるし。著者のまわりの人々にもそういうことは起こっていなかったろうか。

あとは専門に近い人や、性暴力やその対策に興味ある人が検討してほしい。でも本気で検討してほしい。特にジェンダー法学会関係者の人は本気で検討して、評価を教えてほしいです。あなたたちは本当にこの本を読みましたか?

 


(追記)このシリーズでは部分をかなりしぼって、一般読者にもわかりやすいと思われる誤訳の問題を中心にとりあげましたが、この本は事実確認、資料の扱い、そして全体の議論の構成など問題は多く、問題が性暴力とその被害に対する対処という重大な問題であるだけにいろいろ危惧しています。しかしそれらを検討することは私の仕事ではないとも思います。性暴力や性犯罪、その対策などは、各分野の人が協力してオープンな議論することによって改善されることを本当に願っています。(2018/11/12)