男らしさへの旅 (2) 「男らしさ」と「男性性」

「男らしさ」と「男性性」

小手川先生や彼が参照する男性学の系統の先生たちでは、「男らしさ」は「家父長制」と強く結びつけられて考えられていて、そこでは、男性は「支配者、稼ぎ手、威厳ある父」(小手川 2020 p.62)である、ってことになっているみたい。なんかずいぶん違和感ありますね。ここらへんはいろいろむずかしい。

まず「男らしさ」っていう言葉が誤解をまねきやすい。我々が日常的に「男らしい」という言葉を使う場合は、宮下あきら先生の『魁!!男塾』みたいないかにも男男していて、強く乱暴で義侠心がある漢!侠!みたいなのか、あるいは生物学男性がとりがちな不合理で馬鹿げた振舞をすることを指してると思う。まあそれほど馬鹿らしくなくても、正義感とか忍耐とか、そうした優れた(?)性質に対する誉め言葉や、それを逆手にとった皮肉でユーモラスなけなし言葉だと思うんですわ。とにかくなんらかの評価語だ。

私が「男らしさ」っていう言葉で連想するのは、身体的な強さや筋骨に加え、なんといっても「勇気」と「公正さ(正義)」と「忍耐」とかの精神的な美徳なんですわ。他にもチームワーク、なんかに習熟していること、各種テクノロジー使えること(ITに限らない!たとえばロープ結びや火起こし)、冒険心、そしてなによりタフさ、かなあ。

こういう「男らしさ」って、我々男性の大半が手に入れてないものですよね。「男らしい」筋骨隆々のボディなんてほとんどの男性はもってない。たいていの腹ぼて洋梨体型でしょ。勇気も正義も忍耐も技術も冒険心もタフネスももってない。我々は卑劣でえこひいきしてすぐに投げだし、不器用で臆病で弱虫だ。いつも泣き言ばっかり。男らしさはそれは単なる理想としてだけある。そして、我々の大半は、まあ自分がすでに手に入れた男らしさを、なにかの機会に発揮できたときに、満足して確認することはあるかもしれないけど、他のたいていの男らしさ(美徳)を努力して手に入れようとさえしないことも多いように思います。 男らしさ、男性性がそういう能力の獲得と発揮にあるなのなら、我々はほとんど男性失格だと思いますね。

でもどうも男性学とかその手の人々のあいだではちがうものを見てるみたいなんですよね。小手川先生も日本の男性学の影響を強く受けてるのは感じられる。

社会学は基本的に価値中立が望ましいってことになっていて、いろんな言葉を、ほめたり推奨したりけなしたり非難したりする価値的・規範的な使い方ではなく、なるべく記述的に使う、ってことになってる。つまり、「男らしい」 masculine っていうのはほめ言葉でもけなし言葉でもなく、単に「男であること」女性と比較した場合にもっているある性質、みたいに使うことになっています。そうすると、評価的に使われる「男らしさ」っていう日本語はあんまり適切じゃなくて、masculineは「男性的」、masculinityは「男性性」とか訳した方がいい、って立場もある。社会学者の多賀太先生なんかはそういう立場で、「男らしさ」ではなく「男性性」を使うようになっているようです。この一群の記事では面倒なので使いわけません。

覇権的な男らしさ/男性性

小手川先生も使ってるけど、主流の男性学では、「覇権的な/ヘゲモニックな男らしさ/男性性」っていうのがキーワードなんですわ。これまたやっかいな概念です。「支配的な男らしさ」っていう表現も見ますね。

「男っぽい」っていっても、いろんな「男っぽさ」があるわけですわね。豪放磊落、豪傑っぽいのだけが男じゃない。ブラッドピットみたいなのも男っぽいし、ホーキング博士みたいな科学者も男な感じ。そういうわけで、「男らしい」「男性性」っていってもいろんなイメージがあるわけですわ。だからレイウィン・コンネル先生という有名な人は、男性性 masculinity はいろいろあるから複数形でも使えるはずだ、複数形で使うべきだ、ってんで Masculinities っていう本を書いて男性性の概念をそうしたものとして扱った。まあ実際男性っていろいろいるから、なかなか「これが男だ!」ってのはやりにくいですわね。

んでコンネル先生は、そうした複数の男性性には、特別に偉いと思われてるやつがある、っていうんですわ。それが覇権的な(ヘゲモニックな)男性性。覇権って、国とかまあいろいろあるなかで、他の同種のものに対して支配権・支配力をもってるような存在ですね。男性のなかでも特にあるグループの人々は他の男性グループに対して優越し、支配権をもつ。

コンネル先生は現代社会では、ホワイトカラー、正規雇用、異性愛者、既婚者であることが覇権的な男性性である、っていうわけです。まあ結婚している上級サラリーマンみたいなのがそれだっていうんですかね。この人々のなかの個人が実際他の男性を支配しているか、というのはよくわからない。実際のサラリーマンは簡単には他人を支配することなんかできないだろうと思う。むしろ、いまの日本を動かしてる自民党とか経団連とかそういう人々を思いうかべるんですかね。

男性学の主流では、この「覇権的男性性」から解放されようとか、そういう話をするわけですわね。あれ、さっき社会学の主流は価値中立的とかって書いたのに、とかなるかもしれませんが、まあ基本は分析だけど、もし「生きづらさから解放されたいならば」みたいな条件があるわけですわ。おそらく。

男性よる女性の支配

んでくりかえしますが、小田川先生のなかでは、従来の男性というのは、なによりも家計を稼いで 支配 することを目指すものってことになってるんですよね。

男性たちは、家事や育児や介護を女性たちに丸投げすることで、仕事に専念し収入や公的な信頼を獲得したてきただけでなく、彼らの扶養者である妻や子どもを自分に依存させ、従わせることができた。しかし、そのために彼らは、妻との対等の関係や子どもとの愛情ある関係を犠牲にしてきたとも言える。フェミニズムとは、こうしたあり方の歪みを問い直し、支配者・稼ぎ手・威厳ある父であり続けなければならないという家父長制の束縛から男性を解き放つことを目指すものである。(小手川 2019, p.174)

しかし本当にこうなってるんですかね。同種の発想は平山先生にもある。

事実、日本では、離別や死別によって貧困に陥る女性が非常に多い。夫婦という単位において、男性が稼得者としての役割の固執することがどのような意味をもつかは明らかである。その固執は、何よりもまず妻を自身に従属させ、その生活に係る資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味するのである。(平山 2017, p.234)

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

ここらへんで、「男らしさ」がけっきょく家族を養うお金を稼ぐことと、女性(妻)を支配することに煮つめられているのが私にはとても意外なのですが、まあ一般に「男の生きづらさ」と言われるのは、「仕事したくないでござる」と思いながらつらい職場で仕事しなければならないことや、性的におつきあいしてくれる女性がいないことに集中している感じがあるのでしょうがないですかね。でも「男らしさ」の話として、貧弱すぎる気はするのです。

まあそれはおいといて、現代日本での覇権的な「男らしさ」なり男性性なりに、「お金をもっていて家族を養うことができる」というのが入っていると認めるとしましょう。それでも、「女性を支配する」っていったいどういうことでしょうか。女性を支配している男性とかいま日本にどれくらいいるんでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所が出してる第6回家庭動向調査 (2020)だと、「主たる意思決定者」はこういう感じなんですよね。

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まあ高額品の購入、家計の管理、親戚づきあい、子どもの教育について、夫婦のどちらが意思決定しているかってだけなので、妻が家庭を支配しているというよりも、夫の方がそうした家庭のことにさして興味をもたず、妻に丸投げしている、という小手川先生や平山先生が指摘していることを示しているのかもしれませんが、んじゃ実際のところ、男性が女性を支配している、夫が妻を支配しているというのはどういうことなのだろう?ほんとに支配なんかできてるんでしょうか?

男らしさへの旅 (1) ジェンダー論や男性学も勉強しないと

セックスのことばっかり考えてないで、ジェンダー論や男性学も勉強しないと

子供のころから、注意散漫でわがままで泣き虫で人とうまくやってけなくて、自分の「男らしさ」に不安や疑問や不満をかかえつづけている高齢者男性としては、ジェンダー論とか男性学というやつは気にはなりますねえ。1月末ぐらいから少し余裕があって、数冊本や論文めくってみて論じられている「男らしさ」というものについて少し考えてみたので、読んだ順番で紹介してみたいですね。

最初に目にしたのは、哲学者の小手川正二郎先生の一連の論文・書籍。

どれもとてもおもしろいので、ジェンダー論や「男らしさ」に関心がある人はぜひ一読をおすすめしますね。つい読んでみて気なったのは2019のやつで、2020の2冊でも、「男性学」や男性の発想について、だいたい同じ論旨の批判と主張をおこなっておられる1。でも私ずいぶん違和感あったんですよね。

小手川先生は「親フェミニスト」っていう感じで、ちょと違和感はあるけどフェミニズムに賛成して性差別をなくしたい、そのためにもまず自分の悪しき男性性を反省したい、みたい感じで、文章読んでるとても誠実でいいひとっぽいのが伝わってきますね。

小手川先生の「男性学」や「男らしさ」に関する主張を簡単に紹介するのはむずかしいのですが、2019のやつだと次のようになる。

  1. 現代でも性差別は大きな問題である
  2. 性差別をなくすためには、男性は自分たちの「男らしさ」についての考えかたを反省するべきだ
  3. 一般に現代日本で「男らしさ」(覇権的男らしさ)として考えられているのは、家父長的な男らしさであり、稼ぎ、支配、威厳、独立、自律などの特徴が中心的である
  4. しかし実際には男性は女性に依存しており、女性のサポートによって有利な立場にありつづけている。男性は男性的特権をもっており、それを十分自覚しておらず、自己欺瞞的である
  5. 男性が家父長的な「男らしさ」を求めるのは、他人、とくに女性の支配のためであり、「つらさ」はそのコストにすぎない
  6. 日本の男性学では、「男の生きづらさ」が強調され、それの対策として「男らしさから降りる/男らしさを捨てる」のようなことが提唱されているが、「男らしさ」はそんなに簡単に降りたり捨てたりできるものではなく、それできるとかすでにおこなったとかって主張をするのは自己欺瞞的である。
  7. 男性はそうした自己欺瞞をやめ、次のような方針に賛成するべきだ。そしてそれが「フェミニズム的男らしさ」である。(1)自分たちの力の限界を認識し、アファーマティブアクション等の制度の改善に貢献するべきだ (2) 自分たちの男性的特権に気づき、他人(特に女性)の言いぶんをよく聞くべきだ

私の違和感は、家父長的な威厳をもって「支配」してたりしようとしている男性というのはいまどきそんなにいるものだろうかとか、男性学で言われている「生きづらさ」がそんなに欺瞞的なものだろうかとか、アファーマティブアクションみたいなものをそんなに簡単に肯定して大丈夫なのかとか、「違和感があってもとにかく女性の話を聞け」みたいなのがかえっておかしな「男らしさ」ちゃうんかとか、まあいろいろあるわけです。

んで、「男性学」や、ネットのアンチフェミニストを激しく批判していて気なっていた澁谷先生のを読む。伊藤公雄先生2や田中俊之先生や多賀太先生という方々が「男はつらいよ型男性学」みたいなレッテルで批判されてますね。澁谷先生は平山亮先生という方の多賀太先生批判にかなり頷くところがあったみたいなのでそれも読む。

最後に問題の「つらいよ」型の代表として多賀先生の読んで(順番が逆だ!)、ここらへん、どういう議論がおこなわれているのか少しわかったような気がする。どれもおもしろいので、ぜひ読んでください。でもいろいろ違和感あるんですよね。少しメモ書いておきたいと思います。

脚注:

1

時系列的には『現実を解きほぐすための哲学』は出たあとすぐにめくってはいたのですが、あんまり細かく読んでなかった。

2

伊藤先生は実はこのブログで何回か言及しているんですが、まあ今回はパス。

性的モノ化とセクシー化 (6) ちょっと書籍紹介

ちょっとだけ書籍紹介。いまリスト作っているのでとりあえず。文献リストはある程度取捨選択しないと意味ないから面倒なんすよね。だんだん整理します。

「スカンク娘たち」。セクシー化はエンパワではなく搾取派。ファッション、セックス活動、ポルノ、ストリッパー、美容整形、ミスコン、行儀、音楽、雑誌、テレビ、映画、ネット、スポーツ、ファンタジと分けて、話題になったものとそれに対する人々の意見をならべました、みたいな。

とにかく若い女子がなにをするかというのは非常に興味をもたれる。

論文集っすね。アトウッド先生はメディア学でかなりいけてる先生なので信頼できます。

まあここらへんが基本。セクシー化というよりもうこれは「ポルノ化」だ!許せん!っていう先生たちも活発です。

ここらへんの人は保守フェミニスト、みたいな感じの人々ですね。

女の子が脱いだりエッチなダンスしてあばれたりするのは低俗文化(Raunch Culture)だ!っていう議論もあります。下のFemale Chauvinist Pigs (すごいタイトルだ)が有名ですね。Girls Gone Wildっていう有名な素人エッチDVDとかをいろいろ批判している。

おまけ

性的モノ化とセクシー化 (5) 「セクシー化」の方が使いやすいのはなぜ?

「性的モノ化/客体化/物象化」より「セクシー化」の方が議論に使いやすい、というか有用だってな意味のことを書いたんですが、私がなぜそう考えるのかちゃんと理由書いてませんでした。

「性的モノ化」が使いにくい概念であることは、このシリーズの(1)で書きました。

  • 自発的なモノ化(たとえば、自撮り女神様、ポルノ出演等)は不正ではない
  • アニメやイラストは誰もモノ化していない
  • 表現物が、男性を介して生身の女性のモノ化をひきおこすという因果関係を立証するのは困難

とかそういう感じですね。

実在の女性 → 集団としての女性のイメージ → 作者の頭のなかに結実した像(ビルド) → 作品 → それを見る鑑賞者 → 鑑賞者の頭のなかの女性に対するイメージや偏見 → 実在女性の被害、不快

上のような図式で考えようとすると、いろいろ論点が多過ぎるように思います。

一方、フレドリクソン先生の心理学における「モノ化」や「セクシー化」の議論は、表現物の影響によって男性の考えが歪み、それが男性の性暴力など女性に対する悪しき扱いを引き起こす、という形にはなってないのですわ。

作家の頭のなかで生まれた表現物 → それを見る女性が内面化する → 女性の不快、鬱、摂食障害、活動低下、交渉力不足など

っていう形になっています。 メディアで女性のセクシーなボディや女性的ステレオタイプが頻繁に描かれることが、女性の心理的負担になるという形で、女性に対する「抑圧」と呼ばれるものが(男性を経由せずに)直接引き起こされるというモデルなので、実証的な立証も「男性による女性の性的モノ化」よりも単純ですわ。

そしてこれは、作家が男性であろうが女性であろうが関係ないですしね。へんな言い方をすれば、ここの作家や出演者や自己モノ化する人々が何を考えいようが、その自由な行動と表現の裏に、苦しむ人々が発生するリスクがある(のでコントロールするべきだ)、みたいな議論をすることが可能かもしれないのです(私は簡単には同意しませんがね)。

文化的に女性はなによりセクシーなものだ、セクシーな方が高く評価される、セクシー最高!っていうあつかいを受けることが、(少なからぬ)女性にとって被害である、と示せればよいわけです。どうですか、魅力的でしょう?

(まだまだ続く)

性的モノ化とセクシー化 (4) セクシー化/セクシー文化の実例

ちょっと息ぬきに、セクシー化ってどんなものが想定されているかっていうのは確認する必要がありますよね。ポルノだのなんだの話をしているときに、多くの論者は、そのポルノ自体を名指しすることがないことが多くて、「どういうポルノ考えてるの?」とか言いたくなる場合があります。

「セクシー化文化」 sexualized culture みたいなのもどれくらいセクシーだとセクシー化されていると言えるのか、みたいなのはそれぞれ具体的に考えてみるべきだ。

たとえば古いけど、こんなんですかね。

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「私とカルバンクラインジーンズのあいだに何があるの?なにもないわ(ノーパンです!)」

私の好きな音楽から少し例を。ちょっと今誰の論文からもってきたかわらなくなってるのですが(あとで訂正します)、以前に読んでた論文で言及されているセクシー化された文化における主流の音楽PVってこの3本でした。

Nicki Minaj – Anaconda

Ariana Grande – 7 rings (Official Video)

Lizzo – Tempo (feat. Missy Elliott) [Official Video]


まあエッチですね。セクシー化があんまりはげしいからこういうのはポルノ化 Pornify, Pornificationって呼ばれたりする。かっこいいと思った若い女子はマネしますかね。(どうだろう?)

こういうんだったら私好きなのいくらでも出せます!現在最強はこれ!

Robin Thicke – Blurred Lines ft. T.I., Pharrell (Official Music Video)


「パティーして酒飲んでワイルドに行こう」みたいな感じで、2010年代のアメリカのフックアップカルチャー(人によってはレイプカルチャー)を代表する曲ですね。

こういうのは昔からたくさんあって、私が好きなプリンス様なんかはそれの専門家よね。

Appollonia 6 Sex Shooter HQ

まあこういうものに影響されて、女子は苦しくなるのだ、と。(ほんとかな?)

性的モノ化とセクシー化 (3) 女子の「セクシー化」の方が広い概念で使いやすいかもしれない

女子のセクシー化という問題

その後、2000年ぐらいを境にして、「モノ化」とか「自己モノ化」っていうのはかならずしもセクシーな含意がないので、男性や社会が女性にセクシーであることを求めたり、女子自身がセクシーであろうとするのが問題なのだ、という立場の人々は、「自己モノ化」じゃなくて「セクシー化」sexualizationという概念を使うようになります。「性的モノ化」の「モノ化」よりは「セクシャル」の方を重視するわけですね。

まあ前にも指摘したように、我々はモノでもあるわけだし、グラビアやテレビでは、女性も男性も鑑賞の「対象」の「モノ」ではあるわけですから、性的モノ化が問題だと考える人は実際にはそれが「セクシーな」モノ、セックスや性欲の「対象」であることを気にしているのですから、こっちの方が適切な場合も多い。日本の皆さんも、セックスにかかわっていることが気になるのならこっちの概念・言葉を使ったほうが問題がはっきりすると思う。

アメリカ心理学会の「少女のセクシー化」対策部会

こうしたなかで、アメリカ心理学会が2007年に「少女のセクシー化」が女性にもたらす悪影響についての心理学的研究の報告書を出すわけです。これはけっこうな分量(70頁ぐらい)と内容のものなんですわ。

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APAは学術研究者に加え、臨床心理学者というかカウンセラーや精神科医なども含む巨大組織で、単に研究するだけでなく社会的な政策みたいなのにも心理学の立場からコミットするのが任務だと思ってるわけです。んで、公衆メンタル衛生みたいなもおにも積極的にとりくんで、政策提言みたいなのに近いこともしようとしている。

そこではひとのセクシー化っていうのは四つぐらいの下位区分がある。

(1). ひとの価値が、セックスアピールや性的なふるまいによって決定され、他の特質が排除される

(2) ひとの身体的魅了が、セクシーさによってのみ評価される

(3) ひとが、自立した行動や意思決定ができる人間としてではなく、性的にモノ化される、つまり他人の性的使用のためのためモノとされる

(4) 人にセクシュアリティが不適切に投影(impose)される。

(3)はおなじみに「性的に使用するための道具にする」という意味での「性的モノ化」ですが、他の三つは性的モノ化っていうのとは関係するけどちょっとちがうもので、まあ「セクシー化」というのはその意味で性的モノ化より広い概念ですね。

んで、このAPAの対策部会(タスクフォース)によれば、テレビ、広告、ネットその他のメディアでの少女のセクシー化について、次のような懸念が表明されているわけです。

現代社会では、(1)セクシー化と呼ばれる現象が増加していて、(2)それは弱者グループ(ふつうは少女や若い女性だけどそれ以外も含む)に害(harm)を及ぼしている、という(3)懸念・不安が増加している。それゆえ、有害なイメージに対するコントロールが必要だ、みたいな形ですね。

あとで検討するかもしれませんが、この報告書には私はちょっと問題がるかもしれないと思っています。メディアが実際に女性を中心にした弱者グループに害を及ぼしているかを証明するのはたいへんなので、前のエントリーとかで紹介したフレドリクソン先生やその他の部分的な心理学実証・文献研究から、害を及ぼしている かもしれない ということを伸べて、コントロールが必要だろう、って話にもっていってるわけです。

まあでもこの報告書は、おそらく世界でもっとも影響力のあるアメリカ心理学会の名前とともに出ているのですから影響力があります。このシリーズの間接的な出発点となった牟田和恵先生の「現代ビジネスオンライン」の記事でいろんなガイドラインが参照されていましたが、ああしたガイドラインの背景には、このAPAの報告書の影響があるのかもしれません。

同種の報告書は他の国の政府や公共団体からも出ています。イギリスでも、心理学者のパパドプロス先生というひとが主導した内務省の「若者のセクシー化」という報告書(2010)が出ています。

イギリス教育省も子供のセクシー化・商品化に対する懸念を報告書にしている。イギリスは厳しいですね。

オーストラリアでも、APAより先に進歩派系シンクタンクのオーストラリア研究所が「ペドフィリア企業:オーストラリアにおける子供のセクシー化」とかってどぎつい報告書出してます。

こういう流れで、女性の「性的モノ化」という問題意識は、若い女性や少女、そして子供を性的に見る文化的な態度の問題としとらえられるようになってるんですわね。いま国内でやっている「性的消費」「性的モノ化」「性的客体化」などといった議論は、むしろ、こうして女性を性的な道具や鑑賞物として見たり、そうした文化的な雰囲気に対応して少女や女性たちが手間暇かけて自分を性的に魅力的なモノとして提示したり、あるいは商品化したりする、そうした「女子のセクシー化」「文化のセクシー化」「セクシー文化」の問題として見た方が、有益な議論ができるかもしれませんので、そっち方面の立場でがんばりたいひとはいろいろ調べてみてください。

ちなみに、「セクシー化」の方が議論にはよいだろうっていうのは、uncorrelated先生というよくわからない方が以前からツイッタ炎上のたびに指摘しているので、そっち先に見た方が事情がわかりやすいかもしれません。

(続くかもしれないけど少し先になります。)

性的モノ化とセクシー化 (2) 心理学分野での「性的モノ化」と「自己モノ化」

心理学分野での「性的モノ化」と「自己モノ化」

80年代か90年代にかけて、アメリカでは(日本でも)思春期から若い成人女性の摂食障害がものすごい増えて、社会問題になり、その原因はなんじゃいな、ということが議論された。現在、精神科医たちは、摂食障害は、おそらく心理学的な要因に加え、生物学的な要因の問題もあるようだ、って考えてるようですが、この時期はやはりテレビや雑誌などのメディアで、痩せた女性が登場してその体を自慢し、それを見た少女たちがファッションモデルや芸能人のようなボディーシェイプを目指してダイエットするために摂食障害を発症するのだろう、と考えられたわけです。まあそういうのはいまだに問題になっていますね。実際に、そうしたメディアの影響がなにもない、というのは考えにくいし。

90年代の心理学業界では、こうしたメディアの影響についてやはり「モノ化」という観点でとらえていて、とくにここらへんの論文が非常に有名ですね。発表されたのはマッキノンやヌスバウムたちよりちょっと遅れて1997。まあ心理学でもああいうタイプのフェミニスト問題意識が十分蓄積したということだろうと思います。

  • Fredrickson, Barbara L., and Tomi-Ann Roberts. “Objectification Theory: Toward Understanding Women’s Lived Experiences and Mental Health Risks.” Psychology of Women Quarterly, vol. 21, no. 2, SAGE Publications Inc, June 1997, pp. 173–206.

1997年のこれがエポックメイキングだったらしい。ここでのモノ化は女性を人柄から切りはなしてセクシーなボディに還元して、それを商品化したり、女性の典型としたりする、みたいな。まあマッキノン〜ヌスバウムのラインそのままですね。

性的モノ化を許容する文化 → 女性のモノ化の内面化(オブジェクトとしての自分の身体を監視する) → 女性の身体羞恥、恥意識、interoceptive deficits1など → メンヘルリスク(摂食障害、鬱病、性的機能障害など)

上のようなモデルが組まれたわけです。まあメディアとかでセクシーな女性を見たり、あるいは社会生活のなかでセクシーボディの女性が規範とされることで、女性が自分をセクシーなモノであるべき存在として見るようになり、その基準に到達してない人はもちろん、到達している人々でさえずっと自分のボディに注意し監視することになる、と。

ここで重要なのが、心理学者にとって、女性の問題は、他人から直接にモノ化されるという経験(性暴力とか盗撮とか面と向かっての性的評価)もまあ重大ではあるんですが、自分をモノと見る自己モノ化も重大な経験であるっていうのに気づかれたところなわけです。(それゆえフレドリクソン先生たちのは時々「モノ化理論」というよりは「自己モノ化理論」として参照されることがある)。

こっちも特に有名なやつで、「水着を着て鏡の前でテスト受けると女子学生は数学の成績が落ちる」みたいな実験して、自分を女性だと意識したり、モノとして見ることが女性にさまざまな心理的負荷をかけていることを実証した、とされるやつです。読んでみたけどちょっと微妙なところありそうですが、フレドリクソン先生はこういうので偉くなります2

脚注:

1

まだどういうのかよくわかってないです。

2

フレドリクソン先生は2000年代以降はポジティブ心理学の方で業績残すことになって、私はそれで意識しました。先生がモノ化に反対してたとなると、私も考えなおさねば。

性的モノ化とセクシー化 (1) 「性的モノ化」の議論のむずかしさ

「性的モノ化」は自発性や同意があればそんな悪くない

ポルノやソフトな表現での「性的モノ化」(客体化、物象化)の問題については、ごく簡単な論文もどきも書いたし、もう飽きてる感じではあるんですが、時々ツイッター検索とかをかけると、いまだに時々この概念が使われてるようですね。

何度も書いているように、ポルノとかの「モノ化」の問題の一つは、単なるモノや動物ではない価値をもっていると考えられる人(パーソン)や女性を、単なるモノ(オブジェクト)として扱うこと、勝手に鑑賞したりよしあしを品評したり本人の意思に反して操作したりする対象・客体(オジェクト)として扱うことは、他人や自分に対してもつべき尊敬・尊重の念に反するので道徳的に問題がある、というものです。特に女性は男性から性的なモノ、セックスや痴漢や盗撮という行為の対象となりやすく、それよって被害を受けたり、他人がそうされているのを知って少なくとも不快になったりする。いくないですね。(ちなみにここでのモノも客体も対象もぜんぶ「オブジェクト」で、英語話者の論者でも鈍い人はあんまり区別つかない感じですね。)

でも、我々人間は単なるモノではないのですが、しかし実際に身体をもったモノでもあるわけです。そしてその身体を鑑賞してもらったり、愛玩してもらったり、欲望やセックスの対象としてほしいこともあるわけです。ヌスバウム先生の言葉を使えば、「ワンダフルなモノ化」があるかもしれないし、モノ化が許される場合はもっと多いだろう。「あんたの道徳的な人柄は好きだけど、体はぜんぜん興味ないのよね、むしろなくなってほしい」とか言われたらそれはそれでいやじゃないっすか。若い女性たちが毎日自撮りしてツイッタやインスタやチクトクにアップロードするんだって、他人にモノでもある存在として見てもらったり、場合によっては性的な欲望の対象になりたいと思うからだと思う。私もできることならそんなことしてみたいけど、まあ需要がないだろうし逮捕されるとやばいからやめとかないとならんですね。ははは。

イラスト等には使いにくい概念

もう一つ、この「性的モノ化」っていう概念をインターネットで見るような表現に使おうとするときの問題は、よく問題になるイラストやアニメは、盗撮のように生身の人をモノとして扱ってるわけじゃないことですわ。モノにされている人がそもそもいない。まあ絵描きの頭のなかにしかいない想像上の人物が自発的にエロな格好しているとも、同意しているともいいがたいところはあるにしても、なぜそうしたイラストに道徳的に問題があるかというのを示すのはけっこう難。

実在の女性 → 集団としての女性のイメージ → 作者の頭のなかに結実した像(ビルド) → 作品 → それを見る鑑賞者 → 鑑賞者の頭のなかの女性に対するイメージや偏見 → 実在女性の被害、不快

とかっていう経路を考えないとならない。まあ、最大単純にして、エッチなイラストを見て痴漢したくなり、実際にそれをする、みたいな単純な影響や因果関係を示すことができればましですが、それ自体むずかしいし、さらには一部の人がそんな経路をたどって痴漢とか性暴力とかに至るということが言えてさえ、そうした表現が不正である、と主張するのはむずかしい。マルクス読んで暴力革命するんだってんでテロ起こしたからといって、マルクス禁書になんかしたくないっしょ?

実は、英語圏でも「モノ化」の議論はまだまだやられてるんですが、2000年代後半ぐらいから、広告やテレビなどの表現物については、むしろ「女性のセクシー化」みたいな枠組みで考えることが増えてるんですわ。ちょっとだけ紹介しようかと思ったのですが、いつものように前口上だけで長くなってしまった……続くと思います。

『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか?

現代ビジネスオンライン https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733 に載せたものをorg2blogのテストとしてこっそり転載しとこう。1年以上経過したし、転載してもかまわんだろう。(お金くれるって言われた気がするけどもらってないし)


『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか? 「性的対象物」という問いを考える

『宇崎ちゃん』論争のその後

日本赤十字社が献血を呼びかけるポスターをめぐってSNSで激しい議論が生じた。この「現代ビジネス」上でも、大阪大学教授の牟田和恵氏が論説を発表している。

赤十字社のコラボ相手となった丈(たけ)氏作『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、累計で60万部以上を売り上げている人気マンガだ。

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主人公の一人の桜井先輩は、高身長のイケメンだが奥手で堅物の男子大学生である。もう一人の主人公宇崎ちゃんは、女性的で豊満な身体つきだが、実は非常に活発で食い意地がはった「ウザくてカワイイ」女子大学生である。

この作品は、二人がおりなす「くっつきそうでくっつかない」ほのぼのとした日常生活を描いたラブコメであり、部分的にエロチックな要素も含んではいるものの、一部の人々がポスターから連想したような「お色気」や「エロ」中心の物語ではない。

牟田氏は、「宇崎ちゃんのポスターが抱える問題点がわからない人々は、女性差別の問題がわかっていない」と指摘したのだが、議論の中心になっている「性的対象物」という用語が何を意味し、どのような問題を含んでいるのかについては、詳しい解説がなされていない。

本稿ではこの言葉と概念を明確化することを通して、「宇崎ちゃん問題」をもう一度考えてみたい。

問題のありかを明確にする

「ポスターで『宇崎ちゃん』というキャラクターが『性的対象物』として描かれている」と指摘する人は、そのとき、「女性が(男性から)性的な関心の対象とされている」ということを指摘しているのだろう。しかし、そうした「性的な対象化」がなぜ女性「差別」なのか、なぜ悪いことであるのか、ということは、実はそれほど自明ではない。

人物をポスターにすることはたしかに「対象化」の一種であるし、一般的に、そうした対象とされた人物が、性的な魅力をもっていることも少なくない。ポスターに登場するキャラクターだけでなく、芸能人やスポーツ選手の多くも、多かれ少なかれそれぞれ性的な魅力を持っており、それゆえに人気を集めている側面があるように思われる。

ではこうしたことの、何が問題なのだろうか。

「性的モノ化」とはなにか?

女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。

この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。

2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。

「モノ化」一般、すなわち「人をモノとして扱う」という表現で意味されている主要なものの一つは、(1) 他人を道具・手段として使用するということだ。

たとえば、奴隷制度は人を単なる道具として使うことであり、それゆえに不正だということは直感的にわかりやすい。だが、私たちが生活の中で、他人を「手段として」使うこと自体は避けられない。私たちはいたるところで他の人を商品やサービスを手に入れるための手段として使っており、また他人に使われてもいる。

当人が給料や待遇や人間関係などの点で納得して、自発的に使用されるのならば問題がない。不正なのは、他人を「単なる」手段として使うこと、つまり当人の意思を無視して、手段として使うことだ。

さて、ヌスバウム氏によれば、この「他人を単なる手段として使う」という発想から、他のさまざまな「モノ化」の問題点が生じる。

それには、対象となる人の(2) 自己決定を尊重しない、(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす、(4) 他と置き換え可能なものと見る、(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす、(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える、(7) 当人の感情などを尊重しない、といったさまざまな面が見られる。

女性の「モノ化」で起きること

過去も現代も、女性は特に「性的な」モノとされやすい。セクハラ・痴漢・性暴力などの被害者となるとき、女性は男性の性的欲望や快楽のための単なる道具であり、操作される客体・対象とされてしまう。

そうした時に女性は、自己決定を無視され、受動的な存在とみなされ、女性であるなら誰でもよいという置き換え可能な形で被害者になる。また夫婦・恋人関係でも、女性は男性から「オレのもの」とみなされて自由を制限され、さらにはその意思や感情が無視されてしまうことがある。

さらに近年は、あらたに(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまうという問題も重視されている。女性は胸や腰などに身体的特徴をもった、性的に魅惑的なものとみなされ、その性的な特徴だけが鑑賞されたり評価されたりする。そしてしばしば、その女性の人格や人柄が無視されてしまう。

たとえば超一流の女性スポーツ選手でさえ、報道では腰や胸などを強調した写真などが用いられ、本人の望む望まないにかかわらず、ルックスのよしあしが話題にされてしまう。

また、(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞されることもある。こうしたことはおおむね女性の意志に反することであり、モノ化であり、そして不正なものを含む、とされる。

モノ化・道具化されるのは必ずしも女性だけではないが、女性は特にこうした性的なモノ化の対象となりやすいため、それは女性に対する不当な扱い、すなわち性差別とされるわけである。

『宇崎ちゃん』は「モノ化」か?

さて、問題の『宇崎ちゃん』ポスターを見るとき、上のような批判は当てはまるだろうか。

当のマンガ作品そのものを見てみると、宇崎ちゃんというキャラクターは、(1)先輩の単なる手段や道具とされてはおらず、強引に遊びに誘ってくる後輩として扱われており、(2)彼女の意志は尊重され、彼女の意志に反するセクハラなどははっきり拒否されており、 (3)格別に主体的・能動的な女性として描かれている(むしろ常に先輩が遊びに誘われる形で受け身になっている)。

彼女はさらに(4) 他の女性と置き換えできないかけがえのない存在であり、(5)勝手に触ったりできる存在ではなく、(6) 誰の所有物でもなく、(7)彼女自身の性格、発想、感じ方が作品のテーマとなっている。また女性をステレオタイプ的(典型的・画一的)に描いているとも言いがたい。

つまり、マンガ作品としての『宇崎ちゃんは遊びたい』を読む限り、この作品が女性を性的にモノ化しているという批判はあてはまらないように思われる。それどころか、宇崎ちゃんが他の登場人物のセクハラ的発言に対して強く対決しているシーンもあり、宇崎ちゃんは自覚的・自立的・能動的で魅力的な女性として描かれている。

一方、日本赤十字社はかなり以前から多種多様な人気アニメ・マンガとの「コラボ」によって、若者に対するキャンペーンをおこなっている。

『宇崎ちゃん』はその一連の企画のひとつであり、またポスターが掲示されたのは献血ルームなどに限られていたことを考慮すると、すでに人気のあった『宇崎ちゃん』とのコラボを選択することに特に問題があるようには思えない。主人公のルックスと性格を表した単行本表紙の絵柄を選択することにも、さほど問題があるわけではないだろう。

このように、「モノ化」を非難するべき理由まで分け入って考えれば、今回のポスターそのものが「性的なモノ化」にあたるという非難は、説得力があるとは言えない。

なぜ「不快」と非難されたのか

では、なぜ『宇崎ちゃん』のポスターはこれほどの非難を浴びたのだろうか? 問題のありかを知るには、ポスターに反発する人々の考え方や、そうした人々の置かれている状況を理解する努力も必要だろう。

第一に、実在する人物でない宇崎ちゃんをポスターに起用しても、直接に「人をモノとして扱う」ことにはならないとはいえ、彼女は、人目をひく女性キャラクターとしてアイキャッチに使われている。その意味で、宇崎ちゃんは献血参加を促す「道具」とされているとは言える。

宇崎ちゃんは架空の人物なので、彼女のポスターがその意思に「反している」とは言えないが、同時に彼女の「自発的な行動である」とも言えない。

芸能人やスポーツ選手をポスターに登場させる場合にはその意思が尊重されているわけだが、宇崎ちゃん自身の意思はそもそも存在しない。したがって、作家・ポスター制作者は宇崎ちゃん自身だけでなく、女性一般の性的なイメージを勝手にデフォルメし、アピールの手段として利用している、ということは指摘できる。

一部の人々が、女性芸能人のポスターには感じない不快さをマンガ・アニメの女性キャラクターの使用に感じるとすれば、その理由はこうしたことかもしれない。

第二に、女性の胸を強調した構図をポスターとして使うのは、女性の身体の一部にだけ注目するという形の性的モノ化ではないか、という声があるだろう。

このポスターの画像は、マンガ単行本最新刊の表紙イラストの流用であり、また「バストショット」は人物を描く際にごく一般的な構図である。しかし、女性的な身体の部分を強調したイラストは、女性を単なるモノとして見る性差別的な見方を反映しているから、そうしたポスターが公共性の高い団体の広報に使われるのは不適切だ、という意見はありえる。

この場合はむしろ、ポスターにあらわれるような発想(アイディア)や女性に対する観点が、公共性の高い団体のポスターにおいて表現されることで、女性一般をモノ化する発想を維持・拡大することに通じる可能性がある、ということが問題にされているのだろう。

『宇崎ちゃん』ポスターを見る人が、その構図や姿勢、身体の描かれ方に違和感をもつかどうかは、おそらく、現代のアニメ・マンガで使われる構図や絵柄や彩色方法などにどれくらい慣れているかにも関係するだろう。

私が担当する授業などで女子大学生たちに聞いてみたところでは、「ふつうの絵だ」という意見の方がかなり多かったが、「胸を強調しすぎていて不快だ」という声も少数ある、といったところだった。

ポスターそのものよりも…

第三に、現在私たちがWebを見たり、スマートフォンのアプリを使用したりするときには、明らかに性的なコンテンツやゲームの広告が、時には頻繁に表示されることがある。そうしたしつこい性的な広告を不快に思う人は多いはずだし、私自身も不快である。

そうした性的コンテンツの広告には、『宇崎ちゃん』と同じタイプの色彩や描画方法をとったものも多く、『宇崎ちゃん』という作品を知らずにポスターを見た人々が、そうした性的コンテンツの不快や脅威を連想してしまうのも無理はない。

ネット上では、女性を利用した性的な図画を目にする機会は多いし、また露骨で女性差別的な発言やそれに関連した攻撃的な発言もいやおうなく流れてくる。こうしたもの全体が、特に女性にとって脅威と感じられるのももっともであろう。

そうした女性の不快や脅威の感覚にまったく配慮しないことは、まさに女性たちのものの見方や感情を無視するという点で「モノ化」であり性差別である、ということがありえる。

こうして考えると、「女性差別がわかっていない」として牟田氏が指摘したかったのは、おそらく、『宇崎ちゃん』ポスターそのものが単体で性差別的であるというよりも、むしろポスターに不快を感じる(主に)女性たちの観点や感情が軽視・無視されてしまうことについての、社会的な無理解や無関心こそが問題である、ということのように思われる。

一般に、女性が子供のころからさまざまな形で外見を評価されたり、意志に反した性的な扱いをされたりする危険にさられていることは言うまでもない。こうしたフラストレーションや不快な経験が積み重なった結果として、一部の人々にとっては愉快で魅力的に映る『宇崎ちゃん』ポスターが、女性の間では不快なものとして映ったのだと言えるだろう。

対立と無理解を乗り越えるために

私自身は今回の一件について、ポスター自体に問題があるというよりは、本来はこれほど目立たなかったであろう話題がSNSで拡散され、意見の対立が先鋭化しクローズアップされた事例だったと考えている。

日本赤十字社が献血参加者の拡大に努めていることを考慮すれば、コラボ作品の魅力を損ってまで無難な表現を選択するべきだとも言えない。また、私たちはこれほど豊かなマンガ・アニメ文化をもっているのだから、単なる絵柄の印象だけから即断してポスターを非難したり擁護したりするよりは、作品の内容に関心をもち、鑑賞するチャンスと考えてみる態度も必要だろう。

一方で、このポスターをめぐる論争をもっと広い視野で捉えたとき、人によっては不快に感じる表現もネット上ではなかば強制的に見せられてしまうことや、SNSにおいては「表現の自由擁護派」と「表現規制推進派」のような派閥対立と相互の無理解が激化しているかのように感じられ、議論が先鋭化してゆくことは、むしろあらたな問題であると感じられる。

私たちがSNSを利用しはじめてから、まだ10年ほどしかたっておらず、これからも各種の表現に関して細かい議論を積み重ねていく必要があるだろう。マンガ・アニメコンテンツと広告・広報の問題については、すでに一定の事例と議論が蓄積されつつある。

いずれにしても、異なる立場の人々がそれぞれの意見を発信し、他の人々にも見える形で議論が進むことは、全体として社会にとって有益であると信じたい。

Rathus先生たちの「ジェンダーアイデンティティ」解説

2005年の教科書記述で、すでにちょっと古くなってしまっているのですが、Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。新しい版はずいぶん変わってる。


ジェンダーアイデンティティ

Q: ジェンダーアイデンティティとは何でしょうか? 私たちのジェンダーアイデンティティは、男性であるとか女性であるとかといった意識や感覚であり、私たちの自己概念の最も明白で重要な側面です。あとで見るように、ジェンダーアイデンティティはふつうの人の解剖学的な性と一致しますが、必ずしもそうではない場合があります。性割り当て(ジェンダー割り当てとも呼ばれます)は子どもの解剖学的な性を反映しており、通常は誕生時におこなわれます。子どもの性別は両親にとって重要なので、手や足の指を数える前にまず「男の子?それとも女の子?」と知りたがるものです。

ほとんどの子どもは生後18ヶ月ぐらいのときに自分の解剖学的な性別を意識するようになります。生後36ヶ月までには、ほとんどの子どもはジェンダーアイデンティティについてしっかりした感覚を獲得します(Rathus, 2003)。

ジェンダーアイデンティティにおける生まれと育ち

Q: なにがジェンダーアイデンティティを決定するのでしょうか?生物学的に胎児期の性ホルモンによって、私たちの脳は男性的になるか女性的になるか生物学的にプログラムされているのでしょうか? 出生後の学習経験などの環境が私たちが男性であるとか女性であるといった自己概念を形成するのでしょうか? あるいは、ジェンダーアイデンティティは生物学的影響と環境影響を混ぜあわせたものを反映しているのでしょうか?

ジェンダーアイデンティティはほとんど常に染色体の性別と一致します。しかし、そうした整合性はジェンダーアイデンティティが生物学的に決定されていることを確証するものではありません。私たちは解剖学的な性別にしたがって男性あるいは女性として育てられる傾向もあります。それでは、生まれと育ち、生物学と環境の役割を洗い出すことができるでしょうか?

研究者たちは、手掛かりをインターセクシュアルという稀な人々の経験に見つけだしました。インターセクシュアルの人は、一方の生殖腺をもってはいるものの、外性器が曖昧であったり、反対の性の外性器である人々です(Zucker, 1999)。インターセクシュアルはときどき反対の性(染色体の性とは別の性)として育てられることがあります。研究者が不思議に思ったのは、こうした子供たちのジェンダーアイデンティティは、染色体や生殖腺の性を反映するのか、それとも誕生の際に割り当てられ、それにしたがって育てられた性を反映するのか、という点でした。先に進む前に、真のハーマフロダイト(両性具有)とインターセクシュアルを区別しておくことにしましょう。

遺伝学的な性にかかわりなく、ハーマフロダイトの人は、誕生の際に割り当てられたジェンダーアイデンティティとジェンダー役割を引き受けることがしばしばです。図6.3は、右の精巣と左の卵巣をもった遺伝学的女性(XX)です。この人はしっかりした男性のアイデンティティをもちながら結婚して義理の父親になりました。しかしながら、生物学と環境の役割はもつれあっています。というのは、真のハーマフロダイトの人は、両性の生殖腺をもっているからです。

真のハーマルフォダイトは非常にまれです。もっと普通なのはインターセクシュアルで、新生児1000人に1人ほど存在します。インターセクシュアルの存在は、科学者にジェンダーアイデンティティの形成にあたって生まれ(生物学)と育ち(環境)が果たす役割を確かめる機会をもたらしました。インターセクシュアルの人は睾丸あるいは卵巣のどちらかをもっていますが、両方はもっていません。ハーマフロダイトとはちがい、インターセクシュアルの生殖腺(精巣あるいは卵巣)は、染色体の性に合致しています。しかし、出生前のホルモンのエラーによって、身体内部の生殖器が曖昧であったり、異性のものに似ていたりするのです。

女性のインターセクシュアルで一番よく見られるものは、congenital adrenal hyperplasia (CAH)で、遺伝学的女性(XX)が女性の身体内性的構造(卵巣)をもっており、しかし男性化した外性器をもっている、というものです(Barenbaum & Hines, 1992; Migeon & Donohue, 1991; Zucker, 1999)。クリトリスが肥大して、小さなペニスのようになります。この症状は、男性ホルモンが過剰に分泌されたことによります。一部の例では、胎児自身のアドレナリン腺が過剰な男性ホルモンを作りだすことがあります(アドレナリン腺は通常は男性ホルモンは低いレベルしか作りません)。また別の一部では、妊娠中に母親が合成男性ホルモンを摂取したという場合もあります。副作用が知られる前の1950〜60年代には、流産を繰り返す女性に対して、流産を防ぐために合成男性ホルモンが投与されたことがあります。

スウェーデンの研究者Anna Sevinとその共同研究者たち(2003)は、CAHの2才から10才の26人の少女およびそれと同年齢のCAHをもたない26人の少女を比較して、ジェンダー的行動と関心を調べました。CAHの少女はよりも、自動車などの男の子らしいオモチャを好み、人形のような女の子らしいオモチャを好みませんでした。CAHの少女はまた、男の子を遊び仲間にし、男の子っぽい職業を望んでいました。CAHの娘をもつ親は、そうでない娘をもつ親よりも、娘の行動を「男の子っぽい」と評価しましたた。研究者は、少女の親が子供の遊びに影響を与えた証拠を見いだせませんでした。Servinと共同研究者たちはこの結果を、ホルモンがCAHのある少女とそうでない少女の間の違いに寄与していることを支持するものだと解釈しました。

インターセクシュアルのもう一つのタイプであるアンドロゲン不応症 androgen-insensitivity syndrome にはさまざまなものがあります。一つは、遺伝学的に男性(XY)である人が、遺伝子変異により、胎児期に通常より低い男性ホルモンへの反応性しか示さないことがあります(Adachi et al., 2000; Hughes, 2000)。その結果、性器は正常に男性化しません。こうした人の外性器は出生の時点では女性化されており、小さな膣をもっていたり、精巣が下降していなかったりします。男性ホルモンに反応しないので、こうした男性の輸送管システム(精巣上体、精管、精嚢、排出管★)は発達しません。しかしながら、胎児の精巣はMullerian inhibiting substance (MIS)を作り出し、子宮や輸卵管の形成を阻害します。男性ホルモン不反応症候群の男性は、陰毛や腋毛が薄いか発毛しません。これらの部位の発毛は男性ホルモンに左右されるからです。

不全型アンドロゲン不応症の少女もまたインターセクシュアルとなります。不全型アンドロゲン不応症(PAIS)や完全型アンドロゲン不応症(CAIS)は、女児2000〜5000人に対して1人の割合です。この症状は、X染色体が1本しかないか、あるいはXX染色体構造はもっているがその染色体の一部を失なってしまった女児にあらわれます。CAISの女児は典型的な女性の外性器を発達させますが、内性器は発達しないか、正常に機能しません。対照的に、PAISの女子は男性化した外性器をもち、男の子として、そして時に女の子として育てられます。Melissa Hineと共同研究者による研究では、CAISでX染色体を1本しかもってない22人の女性を、同数の正常なXX染色体構造の女性と比較しました。CAIS症状の人とそうでない人の間には、自己評価、一般的な心理学的幸福感、ジェンダーアイデンティティ、性的指向、ジェンダー的行動パターン、結婚状態、パーソナリティ特性、利き手などについて差はありませんでした。Hinesたちは、X染色体2本と卵巣をもつことは、人間において女性的な行動を発達させるには本質的ではないと結論しました。

ドミニカ症候群 Dominican Republic syndromeがはじめて記録されたのは、ドミニカ共和国の2つの村で18人の少年についてです(Imperato-McGinley et al., 1974)。ドミニカ症候群は、遺伝的な酵素異常で、テストステロンが外性器を男性化するのを阻害します。男児たちは正常な精巣と内性器をもって生まれますが、外性器は正常に形成されません。ペニスは成長せずクリトリスに似ています。陰嚢は完全に形成されず、女性の大陰唇に似ています。男児らは部分的に形成された膣ももっています。男児たちは出生時には女児に似ているため、女性として育てられます。しかし思春期には、精巣が正常にテストステロンを分泌し、驚くような変化が生じます。彼らの睾丸は下り、声変りし、筋肉組織は盛り上がり、「クリトリス」はペニスの大きさになります。女児として育てられた18人の男児のうち、17人は男性としてのジェンダーアイデンティティをもつようにりました。18人のうち16人はステロタイプな男性的性役割を受けいれました。残りの2人のうち、1人は男性としてのジェンダーアイデンティティを採用しましたが、ドレスを着るといった女性的な性役割を維持しつづけました。もう1人は女性としてのジェンダーアイデンティティを維持して、のちに思春期の男性化を「修正する」ために性割り当て手術を求めました。女の子として育てられたのにもかかわらず、これらの人のほとんどすべては男性的な役割に問題なく移行しました。これはジェンダーアイデンティティにおける生物学的要因の本質的な重要性を示唆しています(Bailey, 2003b)。

多くの科学者の結論では、ジェンダーアイデンティティは生物学的要因と心理社会的要因の複雑な相互作用によって影響されていいます。しかし、「複雑な相互作用」アプローチは、生まれ(生物学的要因)と育ち(心理社会的要因)のどちらがより重要か、という難問を避けることができたのでしょうか?生まれに力点をおけば、個人の選択の役割を減らすことになり、多大な政治的含意をもつことになります。心理社会的要因に相対的に大きな比重を置く人もいますが(Bradley et al., 1998; Money, 1994)、生物学的要因の役割を強調する人々もいます(Collaer & Hines, 1995; Diamond, 1996; Legato, 2000; Servin et al., 2003)。しかしながら、「女児として育てられた男児たち」についての「もっとよく見てみよう」コラムにあるように、新生児は心理性科学的に中立であり、ジェンダーアイデンティティは主に環境要因に依存するという理論は、近年「厳しい道」を歩んでいます。

読者が人間の性とジェンダーアイデンティティの起源にまつわる複雑な諸問題を十分学んでしまったと思ったら、クロコダイルのことを考えてみましょう。クロコダイルの卵は性染色体をもっていません。子供の性は、卵が発育する温度によって決定されます(Ackerman, 1991)。オスは暑いのを好み(少なくとも華氏90度)、メスは寒いのを好むわけではないですが、華氏80度以下を好みます。

トランスセクシュアル

1953年に、「性転換手術」を受けるためにデンマークに行った元下士官が新聞記事を飾りました。彼女はクリスティン(もとはジョージ)・ヨーゲンセンとして知られるようになりました。それ以来、何千人ものトランスセクシャル(トランスジェンダーとも呼ばれます)の人が性再割り当て手術を受ています。Q: トランスセクシャルとはなんでしょうか?

トランセクシャル(transsexualism)とは、ある人は異性の解剖学的な特徴をもち、異性として生活したいと願うことです。多くのトランスセクシャルがホルモン治療や、異性の典型的な外性器の見掛けにする手術を受けています。こうした手術は、より性格にいうと、女性から男性のトランスセクシャルよりは男性から女性へのトランスセクシャルでおこなわれることが多くなっています。手術のあとには、性的活動に参加してオーガスムさえ得ることができます。ある研究によると、「ニューウーマン」の2/3のが性的活動の間にオーガスムを得ています(Schroder & Carroll, 1999)。しかし、彼女たちは妊娠したり子供を生んだりすることはできません。

トランスセクシャルの人はなぜ異性として生活したいのでしょうか? John Money (1994)によれば、トランスセクシャルはジェンダー違和感(gender dysphoria)を経験しています。つまり、そうした人たちは、性器の解剖学的特徴と、自分のジェンダーアイデンティティやジェンダー役割の不一致を経験しています。トランスセクシャルの人々は、一方の解剖学的性をもっていますが、異性の一員だと感じるのです。この食い違いから、この人々は自分のもともとも性的特徴(外性器や内性器)を取り除き、異性の一人として生活したいと感じるのです。男性から男性のトランスセクシャルは自分をなんからの運命のいたずらによって、まちがった性器をつけられた女性だと思います。女性から男性のトランスセクシャルは、自分を女性の体に捕われている男性だと感じます。

Ray Blanchard (1988, 1989)とJ. Michael Bailey (2003a, 2003b)は別の見方をしています。トランスセクシャルの人への広範な調査に基づいて、女性になることを求める人々は、さらに別のカテゴリーに分類されると主張しています。つまり、極端に女性的な男性と、女性になるというアイディアによって性的に興奮する人々です。第一のカテゴリーにはBlanchardが「同性愛的トランスセクシャル」と名づける人々——極端に女性的なゲイであり、他の男性との性的活動によっては完全には満足できない人々——も含まれます。第二のカテゴリーは、「オートジネフィリックautogynephilic自分が女であることを好む」、つまり、自分の身体が女性であるという空想によって性的に刺激される人々を指します。

トランスセクシャルがどの程度一般的であるのかは不明のままですが、かなり稀であると考えられています。米国のトランスセクシャルの数は5万人以下と見つもられています。性再割り当て手術を受けた人は2万人未満です(Jones & Hill)。

同性愛的トランスセクシャルは通常、幼い子供のころから遊びや衣服についてジェンダーをクロスした好みを見せます。記憶に残っているかぎり、自分は異性に属していると感じていたと報告する人もいます。男性から女性のトランスセクシャルの人々が回想するところによると、子供のころ、人形で遊ぶのが好きで、フリルのついたドレスを着るのを楽しみ、荒っぽく転がりまわるような遊びを嫌っていました。こうした人々は仲間からしばしば「おんなおとこ sissy boy」とみなされていました。女性から男性へのトランスセクシャルの人々によれば、子供のころはドレスが嫌いで「おてんばtomboy」としてふるまっていたということです。こういう人々は「男の子の遊び」が好きで、男の子といっしょに遊びました。女性のトランスセクシュアルは男性のトランスセクシュアルより適応するのに苦労しないようです(Selvin, 1993)。「おてんば」は「女男」より仲間に受けいれやすいと感じています。大人になってからも、女性のトランスセクシュアルは男性の衣服を着て、ほっそりとした男性だとして「パス」する方が、筋骨たくましい男性が体格のよい女性として「パス」するより簡単かもしれません。

性再割り当て

外科手術は性再割り当ての一要素です。手術は不可逆なので、医療関係者は、再割り当てを求める人がそうした決断をする能力があり、その帰結を徹底的に考えたのかを細心の注意をもって検討します。医療関係者は通常、トランスセクシュアルの人が手術の前に、オープンに異性として生活できないか、さらにしばらくの間試験的に生活することを要求します。

いったん決定に到達したら、生涯にわたるホルモン治療が始まります。男性から女性へのトランスセクシュアルの人は女性ホルモンを受け、それが女性の第二次性徴を発現させます。胸と臀部に脂肪を堆積し、肌を柔らかくし、ヒゲの育毛を抑制します。女性から男性のトランスセクシュアルは男性ホルモンを受け、それが男性の第二次性徴を発現させます。声が低くなり、体毛が男性のパターンにしたがって発毛し、筋肉が増大し、胸と臀部hhhnnnnの脂肪が少なくなります。クリトリスももっと大きくなります。男性から女性へのトランスセクシュアルの場合、声のピッチを上げるために「音声手術」をおこなう場合もあります。

性再割り当て手術は大分美容的(cosmetic)なものです。医学では内性器や生殖腺を構築することはできません。男性から女性への手術は一般に女性から男性への手術よりもうまくいきます。まずペニスと睾丸が除去されます。ペニスからの組織が人工ヴァギナの場所におかれ、感覚神経末端が性的感覚を与えるようにします。治療の間、ペニスの形をしたプラスチックかバルサ材でヴァギナの形を維持するように使われます。

女性から男性への場合、内性器(卵巣、輸卵管、子宮)と胸部の脂肪組織が除去されます。FtMトランスセクシャルのなかには、人工的なペニスを構築するペニス形成術 phalloplasyを受ける人もいます。しかしこのペニスはあまりよく機能せず、手術には高額の費用がかかります。それゆえ、ほとんどのFtMトランスセクシャルは子宮摘出、乳房切除、テストステロン療法で満足します(Bailey, 2003b)。

将来の極端な医療的介入のことを考えて、手術を受けることをためらうトランスセクシャルの人がいます。また、ハイステータスな職業経歴や家族関係を危うくしないために手術を控える人もいます。こういう人々も、手術をしないとしても、自分は異性の一員だと考えつづけます。

トランスジェンダーについての基礎知識

めくってみているDavid C. Geary (2021) Male, Female: The Evolution of Human Sex Difference, 3rd ed.っていうのにトランスジェンダーの人々についての基礎知識があったので、Emacsのorg2blogってのでwordpressを書くテストをかねてメモあげてみます。

  • ジェンダーアイデンティティ = 自分のジェンダーについての当人の心理的感覚。99%以上は誕生時の性別に一致。
  • トランスジェンダーの人は生まれつきの性別がジェンダーアイデンティティと合ってない人。(ただし男女以外の場合もある。ノンバイナリー、ジェンダー流動的、ジェンダークィアなど)。
  • さまざまな文化で性別に典型的でないふるまいをする人々を記述する言葉がある。
  • ジェンダー違和(gender dysphoria 性別違和)、異性として見られ受けいれられたいという強い欲求をもつ人々がいる。
  • 性別に応じた典型とちがうふるまいをする子供は多い(男児の3%、女児の5%程度)が、これは生まれの性別に対する違和感とはまたちがったもの。
  • 1〜2%の子供が異性になりたいと語ることがあるが、これもトランスジェンダーとはちがう。このなかの85%程度は、思春期から青年期には異性になりたいと望むことがなくなる。一部は生まれの性別にとどまりつつホモセクシュアル・バイセクシュアルと自認するようになる。
  • 子供時代から性別違和を感じている人々は「早期型」性別違和者。子供時代から性別に非典型的な振舞をし、ホモセクシュアルになる傾向がある。
  • 成長してから性別違和を訴える「後期型」は圧倒的に生まれは男性。子供時代にはさほど強い性別違和はなく、しばしばヘテロセクシュアルであり、人生のけっこうな部分をヘテロセクシュアルとして生活した経過をもつ。この種の人々の一部は自分自身が女性であると想像することに関して性的興奮をおぼえることがあり、Blanchardという研究者は自己女性化嗜癖autogynephiliaと名づけたが、これはけっこうな論争になる。
  • 成人期の性別違和は子供時代よりずっと少ない。あるメタアナリシスでは、14,705人に1人がトランス女性。トランス男性はもっと少なく、38,461人に1人。ただしこれは医療機関に相談した人々の数なので、かなり過小評価になっているかもしれない。
  • 近年、性別違和を訴える青少年が増えているが、一般的な認知が普及したから周りの人々ににそうしたことを告げやすくなったためか、あるいはマスコミ等の影響でそう感じる人が増えているのかは不明。

これくらい。あっさりしてますが、まあこの手の情報さえあんまり流れてなかったりするから。

英語圏ではトランスジェンダーの人々や、そうした人々に対する差別みたいなのについての論争がかなり長く続いていて、国内のネットでもここ数ヶ月けっこう激しいやりとりが続いているようですが、セックスなんかについての話は、ネットにあるブログ記事とかあさる前に、まずはちゃんとした教科書やハンドブックみたいなものを見て基本を確認しておきたいように思います。

関連記事はこっち。

2020年に読んだ本ベスト10

恒例の読んだ本ベストなんですが、今年は量も質も低くて10選べそうにない感じ。肉体的だけじゃなく読書的にももう晩年な感じ。音楽もほとんど聞いてないし。

このバウマイスター先生の男性論がいちばんおもしろかったかな?とても笑える。一部紹介したいけど、そういうの得意な人がやってくれるのではないか。

これとても楽しかった。でも去年読んだんだっけ?

音楽関係はこれもよかった。岡田先生はえらい。一般にこの「作曲家 人と作品」シリーズは優秀ですわね。ラヴェルやシベリウスのもよかった。

もう1冊音楽関係。アカデミックなジャズ研究なんかもここ10年ぐらいで一気にレベルがあがってるみたい。

どういうわけか11〜12月、これと『シドニアの騎士』を何周も読みなおしてました。独特のラブコメ的エロティシズムがある。

とても意外だったのがこれで、独自の表現方法でカミュの世界を描きなおしている。今年古典作品を読み直すきっかけになったかもしれない。

まあめったに読まないこの手のも読むようになった。

業務で読む必要があったんだけど、45年ぶりぐらいにムーミン読みなおしてとても感心した。古典はよい。他にも有名古典文学そこそこ読んで、残りの人生はそういうの読んで暮らしたい。

勉強関係はもう読めない。倫理学の本とかもうほとんど読んでないんだけど、ここらへんの新しい感じのセックス関係の本はおもしろいのがいくつかあった。

1冊足りないけど、まあそれくらい今年の読書は貧弱だったということですわ。

あー、一冊忘れてた。

文学作品と作家生活の考証っていうのはほんとうにすばらしいっすね!

「レポートの表紙」最新版2020年版

試行錯誤をくりかえしている「レポートの表紙」、どういうわけか古いファイル(WordだったかPagesだったか)が見つからず、作りなおしました。低学年向け。判子なんか利用しているひともいますね。

レポート表紙202011.pages (PDF)

レポート表紙2020 (Pages)

メモ:太田啓子先生の『これからの男の子たちへ』で参照されている文献

ツイッタなどで有名なフェミニストであり弁護士の太田啓子先生の『これからの男の子たちへ』を興味深く読みました。

ネットではいろいろ話題を集めている先生ですが、本を読むとわりと現在の国内フェミニストの(いわゆる)「最大公約数」というか、ネットで見る多くのフェミニスト先生たちが同意するような、さほど過激とはいえない穏かな立場のように見えます。

参照されている文献も、いま日本語でフェミニズム、とくにネットで話題にされるような具体的な問題や、自分の子どもの男子を育てる、って関心をもっているとこうなるだろうな、っていう文献群でそれも興味ふかかった。専門の人文・社会学とかの学者系の人々とはちょっとちがう感じになるんですよね。

抜けがあると思いますが、面倒だから見直しません。ギーザ先生の『ボーイズ』が最後に出てきたけど、この本読んで男子の育て方とかまじめに考えているのだと思います。実際、女子は被害者にならないように、男子はとにかくは加害者にならないように、て考えざるをえず、たいへんだろうと思います。ギーザ先生の話も、息子さんが思春期進むとけっこう微妙なところあったし、たいへんよねえ。

オンライン授業でのレポート評価のためのシステムを誰か作ってほしい

前期のオンライン授業、なんとか成績表提出しておわりましたが、レポート採点にもけっこう苦労しました。

いつもは紙で提出してもらっているので、ここでも何回か記事を書いてる「レポートの表紙」つけてもらって項目を赤ペンで適当にマルでくくったりコメント書いたりして返却してたんですが、今回はオンラインということでMicrosoft Teamsの「課題」にPDFで提出してもらいました。でもこれ、こういう感じでしかフィードバックできないんですよね。

Teamsの評価画面

Teamsの評価画面

ルーブリックをつけることができるんですが、それがちょっと使いにくい。

MS Teamsのルーブリック

MS Teamsのルーブリック

わかりにくいですが、ルーブリックの列ごとにドロップダウンメニューを操作しなきゃならなくてつかいにくい。

かといって、いちいキーボードでタイプしていくのもけっこうな手間で、前回の採点ではデスクトップのスティッキーズにテンプレみたいなのつくっておいて、コピペしてフィードバックしていたのですがけっこう神経つかってつかれる。

今回もコピペすることにしたんですが、定型のやつはもうすこし入力しやすくしたいと思ってjavascriptでスクリプト書いて、ブラウザであるていどの文面を生成できるようにしました。項目とか恥かしいけどまあこんな感じ。

テキストを自動生成する

少しは楽だったかなあ。次も使わないとならないようだったら、文言や内容はもうすこし修正したいと思います。今回は時間もなかったしあんまりやる気ももりあがらなかった……

こういうシステムはすでにできあいのものがあるんじゃないかと探したんですが、そのまますぐに使えるのものは見つからなかったので、このページ https://www.okigaru-migaru.net/entry/javascript-auto-sentence をまねして作らせてもらいました。同じような課題をかかえている人はけっこういそうだから、汎用のシステム誰か作ってくれないかなあ。ていうか、教員一人一人にカスタマイズしたものは1件5000〜10000円ぐらいで売れるんじゃないかという気がするんですが、誰かやりませんか。いや、むしろ私が小遣いかせぎにやろうかな、とか。ははは。でも仕組みを知りたい人はといあわせてくれれば対応します(私はビール6缶分ぐらいで受けおいます)。

でも車輪を再発明するのいやだから、近いシステムや使えるシステムがあったら教えてくださいー。

KANEBOの「生きるために化粧をする」CMを見てみました

少し前に、KANEBOの新しいCMがごく一部で話題になってました。KANEBOはいまリブランディングとかやってて、会社のイメージとか変えるつもりだったんすね。「I Hope.」だそうな。

なんかおちつきの悪い英語ですね。まあそれの第2弾が「なんのために化粧をする?」「私は生きるために化粧をする」だそうで、ツイッタでも違和感があるとされ (https://togetter.com/li/1561913)、国内でもけっこう有名なフェミニストの千田有紀先生も論評書いてました

私も見てみたんですが、私は美的にもメッセージ的にも圧倒されましたね。KANEBOは本気だ!みたいな。CMの傑作だと思います。これはかなり複雑な作品で、よくわからないっすね。でもなんかツイッタや千田先生の反応はちょっとちがうようにも思う。

メディアリテラシーや映画学だと、映画とか映像とかを評価するときは、とりあえず「ショット分析チャート」を作れってことになってるみたいです。ショット(シーン)にばらばらにして、気づいたことをメモしていくんすね。まあそういうふうにじっくり分析的に何度も見ることによって、解釈のための素材を作るわけですわ。

んで作ってみて、わからんのでツイッタでわかる人に教えてもらったのがこちらのスプレッドシート。

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1Iai0uAaW5GjtEhNQENrHLJNqUGjh008QOs4y3sZdrWI/edit#gid=0

こういうの作ってみて「私はこう見たんだけどどうよ」ってやって、他の人の見え方とすりあわせてみると、自分がなにも見えてなかったのがわかってくるものです。教えてくれた人ありがとうございますありがとうございます。あの怪人みたいなのがコソボの結婚式だとか、中東みたいなのがインドのジプシーだとか、そういうの見つけだしてくる人たちはすごいなあ。

まあそうした分析チャートをもとに、私がなにか書けるかというと、けっきょくたいしたものは書けそうにないのですが、気づいたことだけ箇条書きにしておきます。

  • そもそもこの動画に生物学的男性が何人登場しているかはなかなかむずかしいけど、このCMがもっぱら女性の化粧をあつかっていると見るのはあんまりよくない見方だろうと思いました。2人目の人は男性だと思うし、男性が男性として登場して化粧しているショットもあり、またおそらくドラッグクィーンや有名トランスジェンダーや女装の人もいるようです。男性の儀礼的な化粧もある。登場人物は半分ちかくは生物学的な男性かもしれない。千田先生は「男性(の身体を持って生まれた)」っていう書き方しているけど、そうした多様性な生活のありかたと化粧がこのCMのテーマで、これを「女性が化粧をするのは〜」ってな話にもっていくのはちょっと先走ってる感じ。
  • 同一人物が複数回登場することがあるので、注意しないとわからない。
  • 最初のシーンは私奇妙だと思ったのです。最初は、少女がこっそり化粧して失敗している図かな、とか見てた。なぜわざわざ暗いところで口紅ぬるのかわからない。ふつう明るいところで塗るだろうと思ってたし。でも、「化粧をすることで光がさしてくる、そういうのを描こうとしているのかもしれない」という解釈をみて、なるほどと思いました。解釈は多様でありうるけど、ほかのひとの解釈を読んだり聞いたりするのはほんとうに楽しいですよね。私が「歌詞の分析」みたいなのでやろうとしていたのはまさにそれです。
  • 白無垢花嫁さんのところはフェルメールの「真珠の首飾りの少女」を連想しました。他にも有名映像を意識している様子がうかがえます。あと表情や流し目みたいな目の動きなんかがとても印象的なシーンが多い。学生様に意見を聞くと、最初は鏡見て化粧しているシーンが多いけど、後半は他のひととかかわってる感じがある、みたいなことを教えてくれました。
  • かなりのお姉さんが口紅塗って上向いたりするのとか、私はほんとにいいとおもいました。冒頭2人目のおそらく男性が、最後方で上向いて叫んでる風のもよい。そして中東かとおもったけどインドのジプシーの少女たちもよい。前半はおちついていて、後半アッパー系。
  • KANEBOがyoutubeのすでに存在していた動画をコラージュしてCM作ってるようだ、っていうのもおもしろかった。まあ海外に撮影旅行とか出られないコロナ事情のもとで、どうやって説得力あるCMをつくるか考えたんでしょうな。こういう作り方はそれはそれでこの時代らしくておもしろいと思う。
  • 鏡の使用は、伝統的絵画だと女性の虚栄を表現する小道具ってことになってるんですが、この動画ではそうではなく、内省、反省、そうしたものになっているように思います。鏡が好きなのは虚栄ではなく、自己との対話なのだなあ、みたいな。中間のナレーションが入る前の内省的なお姉さん女性が、後半で鏡見てるのとかそういう意味がありそう。
  • 鏡をみながら真剣に化粧しているのもあれば、もうすこし微妙な表情をしているのもあり、またなにより、(おそらくそれぞれにとて)大事な人々に対して化粧をしてあげる、というのが描かれているのもよかったです。われわれは自分で化粧したり他人を化粧したりされたりする動物なのだ、というそういうのが主張されているのだと思う。
  • 「美しさのため?」「誰かのため?」ってところで、この聞き方だと「ノー」っていう含意がありそうです。学生様もそういう解釈をしめしてくれました。実際、これを見て、「生きるために化粧」=「就職や社会的プレッシャーのため」=「美しさや他人のために化粧をするのだ」と解釈するのはむりですよね。ただし、「美しさのため」のところでは美しくしておそらく舞台に出る人、「誰かのため」のところでは日本とコソボの花嫁さんみたいなのがでていて、それはそれで否定はされていない。しかし、その他のいろんな習俗や個人的な活動なんかも描かれていて、化粧をする理由なんてのはほんとうにいろいろあるのだ、というのが訴えられているように思います。それはまさに「生きるため」としか表現しようがない。まあ質問だけでぶんなげたり、あるいは「楽しく生きる/自分らしくあるために化粧をする」、ぐらいだったらそりゃ批判は受けなかったでしょうが、このCMの鋭さ、化粧とわれわれの生活のもっと深い関係みたいなのが失なわれてしまうかもしれません。

てな感じで、このCMを100回ぐらい見ていろいろ思うところや連想するところがあったのですが、けっきょく私は人の顔をよくおぼえられず、また化粧についてもなにもしらないのでくどくど述べる資格はないみたいです。化粧や映像に詳しい人が分析してみてほしいです。

しかしとりあえず、こういう高度に複雑な映像というのは、最後の「生きるために化粧をする」では言いきれないさまざまなものを表現しているので、テロップから勝手な解釈をせず、じっくり見てみるべきだと思います。こういうのはやっぱりリテラシーよね。大学はそういうのも教えられる場にしたい気がしています。(私はできない)

ショット分析チャート、の話はこれとかこれとか。

それにしても、渡辺真知子先生すばらしいっすね。1980年当時のもいいけど、もっとお姉さんになってからのもよい。

私のオンライン授業その後

5月からはじまったオンライン授業とかも10回目ぐらいを数える時期になりました。あと少し、というかまだけっこうあるというか微妙なところ。その後、機材などがどうなったのか書いときます。

大人数講義(150人のと250人の)はYouTube Liveで。Macでもできるんだけど、ちょっと音声に不安があって解消できなかったので、今年配給されたWindowsノートPC(今年から学生様に配布されるのと同一)にOBSという配信ソフト入れてやってます。OBSの設定とかはネットにいろいろ情報あるので書きません。

マイクは数本試したんですが、けっきょくTASCAMのポータブル録音機DR-07Xというのがよいというので入手してそれで満足してます。デジタル録音機なんですが、USB接続してマイクとしても使える。これは基本的に録音機なので、会議とかで使うためのマイクの自動音量調節機能があって、大きな音も小さな音も適当に調整してくれるので非常に便利。ZoomやOBSにも音量調整の機能はあるんですが、あれ調整するよりずっと楽。あと、この録音機はマイクにかなり強い指向性があるモードにすることができて(無指向性にもできる)、それ使うと部屋内外の雑音やPC自体の音とかを拾いにくくするので聞きやすくなる。13000円ぐらいするし、それに加えて三脚みたいなのも買わないとならんけど、おすすめ。Youtubeにレビューがいくつかあがってます

教材(スライド)の提示はiPadとApple Pencilの組み合わせが、直接ホワイトボードに文字や図を書くようにできるので便利。Windows + OBSには直接つながらないみたいなので(探せばプラグインはあるかもしれない)、7000〜8000円ぐらいのHDMI-USBビデオキャプチャボード買ってつなぎました。顔のカメラはどうでもいいのでPC内蔵のもので。

iPadでのスライドの提示は、KeynoteでもApple Pencilつかって書き込みできるんだけど、PDFでApple PencilつかえるPDFビュワー使った方が軽いし操作ミスが少ないと思う。私はGoodNotesっての使ってる。PDF Expertもいけるかもしれない。

Youtube Liveはそのまま動画が残るのでなにもする必要がない。リアルタイムで見ることができなかった学生はあとで見てるみたい。1.5倍速や2倍速で見たいひとは、そうしてあとで見てくださいと伝えてあります。でもリアルタイムにはそれなりの価値がありますわね。

ちょっと余計なことを書くと、他の先生の動画みたいなのも見ることも時々あるんですが、やっぱり顔出しは大事だと思います。顔なしでスライドと音声だけで進んでく、みたいなのは10分ならともかく、20分30分ぐらいで聞いててけっこうしんどい。

あと音声入れた巨大パワポやPDFファイルを直接配布したり、クラウドの使いにくいビュワーで見せたりするのもよくないと思う。あれは学生としては扱いにくいと思う。せめてYoutubeあたりに限定公開アップロードしてあげてほしいと思います。Youtubeなら軽いし、途中まで見て他のことしてもどってきてももとの位置から見られるし。

一人でやってるのでどうしてもトラブルが多いので、Youtubeは30分以上前に配信開始してます。適当にプレイリスト流したり、『ドンジョヴァンニ』動画を流したり。ちゃんと配信できてるかチェック用ね。特に音声がおかしくなってるときがあるから、自分で別のマシンで再生してみる必要がある。この前学生様から「なんで最初に映画流してるのですか、必要ですか、授業に関係あるのですか、長くて集中力が続きません」とかってコメントされちゃったり。あとから動画見てる人なんでしょうが、まさかあんなもんマジメに見てる人がいるとは思ってなかった。ははは。すみませんすみません。そのコメントもらってから、録画はあとでYoutubeのオンライン編集機能で無駄な頭とケツを切っておくことにしました。

授業開始前には出囃子入れてる。やっぱりテーマソングがないとね。倫理学とか社会思想史ぽいのとか、しけた内容の授業だから、せめて陽気にいこうってんでSoul Bossa Novaにしてます。今日は『オースティン・パワーズ』も紹介した。ははは。

授業前には同時にGoogle Formsで簡単なアンケートとったり。元気ですか?とか「課題どれくらいやってますか」とか。まあリアルタイムでやる意義は、あるていどインタラクティブにしたいっていうところにあるわけで、それがないとリアルタイムライブでやる意味ないし。授業中も「なんでも質問」フォームに好きなこと書いてもらうようにして、時々見て読みあげてる。質問された内容は学生様にも見えるようにGoogle Spreadsheetにまわして、その公開URLもあらかじめ知らせてあります。こういうふうにして質問が他の学生にも見えるようにしないと、課題とかについて同じ質問が何回もくりかえされちゃう。

授業は1時間20分から30分フルにやってしまいますが、途中で必ず1回、多いときは2回休憩入れるようにしてます。自分自身がすわったままだと精神的にもたないし。たいたい50分ぐらいで。できれば30分で2回入れるべきだと思う。

授業おわりにも感想をFormsに入れてもらってます。(1)学生証番号(メールアドレス)、(2)音声と(3)画像がOKだったか、(4)授業時間は耐えられる長さだったか、(5)印象にのこったところはどこか、(6)全体の感想なんでも、ぐらい。あとから見る学生様もいるので、1週間まって次の授業開始前に別のシートにコピーして、メールアドレスなどを消して(4)と(5)のところだけPDFで出力してTeamsで学生様に公開してます。

この授業後の感想は出席確認がわりでもあるので、該当日分を集計用のスプレッドシートにコピーして、vlookup関数とか使って1枚の出欠表にしてます。もっと手間のかからない方法もありそうだけど、それ考えたり仕掛けたりするのも面倒だから今期はこんなんでいいや。後期は考えるかもしれない。出席で評価はしなんですが、出てきてない学生様の面倒見とかもしなきゃならないご時世なのです。

ゼミ4個はZoomでやってる。こっちはMacで大丈夫なので楽。基本的に全員顔出しだけど、時々切ったりしていいし、画面は見つめてなくていいし離れてもいい、横向いててもかまわん、みたいなことを言ってます。最初に30秒〜1分ぐらいの挨拶と簡単なスピーチしてもらうのは対面授業といっしょ。何回か「ブレイクアウトルーム」とか使って勝手におしゃべりしてもらったりもしましたが、なかなかそういう時間がとれないところがある。KP法(紙芝居プレゼン)使ってプレゼンしてもらうこともあるし、レジュメをPDFでもらって私のiPadで写して赤ペンで添削しながら話をしてもらうこともおおい。ここでもApple Pencil大活躍。とにかく画面出す場合はポインタがないとつらい学生様に画面共有してもらうのはやめた方がいいと思う。学生様が操作するのはむりだから、教員がなんとかしたい。

最近気づいたんですが、やっぱり学生様どうしで教員ぬきで勝手なおしゃべりする時間が必要なわけですよね。授業は早めにおわって、「私はオーディオ退出するので音聞きませんからみんな勝手にしゃべっていいです」とかやると、勝手にしゃべったりしてくれてるようです。火曜日は1、2、4回生が連続の授業で十分話をしてもらうことができないので、個人で(2000円)Zoomと契約して、部屋A→部屋B→部屋Aという感じで使って、授業おわったら部屋解放しておしゃべりしてもらってから解散してもらう実験をしています。大学が2個用意してくれればいいんだけど(1個は用意してもらってる)。

Zoomの授業も感想みたいなのはGoogle Formsでとってます。これも出席確認をかねて。まああんまり管理する必要はない。

しかし、2ヶ月やってみての印象としては、1人でオンライン授業をするのはとても大変だ、ってことですね。1人DJ、1人放送局は、1人で飛行機を飛ばすようなもんです。せめて相棒というかアシスタントがいれば操作やいろんなチェックをまかせることができるんだけど、一人でやるのは無理だわ。

こんな感じかなあ。まともに誰かの役に立つことはないでしょうが、少しヒントみたいなのになればさいわいです。

Google Formsで出席をとろう

オンライン授業とかで出席管理にこまってる先生たちがいるみたいなので、情報提供というのでまたGoogle Formsの話を書きます。

ここらへんで書いたように、私は大人数の授業の出席と私へのフィードバック(授業感想・コメント・批判・非難)はGoogle Formsでとってます。もちろん代返は可能なのでたいした意味はないんですが。

  1. Googleのアカウントはみんなもってると想定して。
  2. https://www.google.com/intl/ja_jp/forms/about/ にアクセスして、Formsの利用を開始します。
  3. プラスのボタンなど押して質問紙を作成します。適当にタイトルなどを入れる。
  4. 右上の歯車ボタンを押して「全般」をこんな感じにします。「メールアドレスを収集」して、答えてくれた人にメールで返答内容を送った方が本人たちは安心するみたい。
  5. 「感想」だけでもいいんだけど、それだとちょっと単純すぎるから、こんな感じにしている。
  6. 右上の「送信」ボタンを押すと、送信方法がメール(メールのアイコン)、リンク(八の字アイコン)、埋め込みフォーム(<>)が見えるので、八の字・鎖マークのリンクを選びます。このURLをコピーして、学生が見えるところに貼ります。動画配信のURLを伝えるときに、同時にこのURLも見せたらいい。QRコードにして携帯などで読んでもらう方法は古い記事をどうぞ。

ここまでは前回説明したところ。

さて、出欠・感想はとったものの、それをどう整理したらいいかわからない人がいると思います。私は次のようにしています。

  1. 回答」タブに、緑色のアイコンがあります。これを押すと、Formの回答をGoogle Spreadsheetに同期できるんですね。「新しいスプレッドシートを作成」する。
  2. このスプレッドシートに、回答が一覧ではりつけられます。
  3. 必要ならそれをコピーして、別のGoogleスプレッドシートなりExcelなりに貼ってソートをかければだいたいのところはOKでしょう。
  4. 私自身は、別の集計用のシートに手作業でコピーして、vlookupというスプレッドシート関数をつかって出席の一覧表を作っています。
  5. でもvlookup関数をつかいこなすのは重要だけど面倒なので、出席回数だけ数えれればいいや、ってんなら、まあいろいろコピペすりゃいいと思います。

付録:エクセルのvlookup()はおぼえよう

vlookupはエクセルを使う人々が中級になるためにのりこえる道。youtubeあたりにいろいろ解説があるので勉強してください。

https://www.youtube.com/results?search_query=vlookup&page=&utm_source=opensearch

  1. 縦(行)に学生証番号(メールアドレス)、横に出席の日付というシートを作ります。
  2. 別のシートをつくって、各講義日の感想シート全体(学生証番号と感想)をコピペします。
  3. 学生証番号(メールアドレス)をキーにして、対象の日の学生証番号を探して、感想などをvlookupで拾うようにします。あ、簡単に説明できないわ。感想がいらないなら学生証番号だけでもいい。
  4. 無事一覧表ができます。
  5. ははは、これでわかりませんでしたね。まあvlookupを理解するかどうかにすべてがかかっています。がんばってください。

Dropboxサポートは誠実で親切でした

というわけで、私の軽率なクリックにより事故ってから1週間、親切なDropboxサポートのおかげで、Paperも無事とりもどすことができました。250ファイル弱、一発でエキスポートするっていうのはちょっと難しそうだったので、まだ必要なもの150ファイルぐらいを手作業でコピーして消す、っていう作業をしました。やっぱりこれなくしてしまわないでよかった。レスキューしてくれたDropboxのサポート係その他には感謝していています。たいへん満足のいくサポートでした。わかりやすい!

弊社の卒業生様も、SEとかこうしたIT企業とかで働くことになる人がけっこういると思うのですが、こういう親切でわかりやすいサポートできる人材に育ってほしいなと思いました。

メーカーやサービスのサポートや問い合わせ窓口っていうのは、だいたいあんまりよくないっていう印象で、そういうところに問い合わせすること自体を嫌悪してしまう人もいるとおもうんですが、やっぱり困ったときには人間に相手してもらいたいものですよね。今後そういう種類の仕事の重要性っていうのは高まる一方だろうなとは思います。(でもまあ一般の利用者というのは、私のようにあれな人間が多いのでたいへんな商売だろうとも思います。)

あとコピーのためにPaperさわって思ったのですが、このDropbox Paperというのはほんとに優秀なサービスだっんですね。軽くて書き味が抜群で、へたすると手元のPCのエディターとかより気持ちがよい。画像も簡単に貼れるし共有や共同作業なんかも簡単だし。このPaperのためだけにやっぱりアカウント一つはもっておこうかなとか思っています。

でもそれだけに、ビジネスプランの不用意さっていうのは残念。改善してくれることを望みます。

Dropbox Businessは危険かもしれないことをさらに検証しています

Dropbox Businessは非常に危険です
Dropboxは馬鹿が使うと非常に危険なことを検証しました
の続き。

私の馬鹿みが呼びよせたDropboxの事故の対策はまだ続いています。担当してくれているDropbox社のサポートの方々はとても優秀で親切で誠実で、すばらしい対応をしてもらっています。技術力も高いのがわかる。Paperも返ってくるかもしれません。それなら私が馬鹿なのがおもな原因なのだから、それ以上要求することはありません。

しかし、私の馬鹿み以外の原因についても問題を考えているのですが、(私が見ていない)管理者画面を確かめてくれている方がいました(ことりちゅんさん)。ありがたい。

その画像をお借りすると、こうなっていたようです。

なるほど、こうなっていたのか。私(ともう一人)は、自分のアカウントがチームに飲みこまれたことを察知して、管理者A氏に「削除してくれ」と頼んでしまいました。独立に同じリクエストしてしまったので、あわてたときに我々はそうしたことをするのだと思います。

A氏が辿りついたこの画面、私はいろいろ問題があると思うのです。

注:このメンバーはXXX(チーム名か)に個人用アカウント「XXXXX」(メールアドレスか個人アカウント名だろう)のDropboxアカウントをリンクしました。リンク前に個人用のファイルをそのアカウントに保存していた可能性があります。代わりに個人用のDropbox Basicアカウントに変更できます。

たしかにこの警告は重要なのですが、私が(DropboxとDropbox Business自体を知らない)管理者の立場に立つと、さほど有効ではないように思います。

まず最初の「このメンバーは〜アカウントをリンクしました」ですが、これは実は「もとから所有していた個人用アカウントをそのままチームに統合しました(したがって現在もまだ個人ファイルが含まれているかもしれません、その一部はプライバシーや財産にかかわる重大なものかもしれません)」ということですよね。リンクというとたんに紐づけたような印象ですが、そうではなく、チームから見れば、このメンバーのデータとアカウントを自分たちに飲み込んでしまっている。それが理解できたかどうか。

「リンク前に個人用のファイルをそのアカウントに保存していた可能性があります」。統合前だろうがあとだろうが、このアカウントに個人用のファイルが存在する可能性が高い。したがって、この文章に次には、「もしこのアカウントを削除する場合は、このアカウントに個人用のファイルを保有していないかメンバー自身に確認してください」の一文が絶対必要に思えます。この大事な一文がない。これ、もし社員とかをクビにする場合でも個人のデータを勝手に消しちゃって大丈夫なのか心配になります。ビットコインとか(しらんけど)のヘソクリ隠してたらどうなるんだろ。

「代わりに個人用のDropbox Basicアカウントに変更できます」は私がゼミやレポート採点などで学生様に口をすっぱくしてお説教しているやつで、大事な目的語がない(主語もないけど)。それに、「このチームメンバーのアカウントを削除するかわりに統合する前の個人用のDropbox Basicアカウントに戻すことができます」であるべきだと思う。これならまちがいようがない。BasicなのかProfessionalなのかわからないけど、とにかく「個人用に戻す」という選択肢があれば、A氏はそれを選んだはずなのす。

また、「変更前に概要を確認」はリンクっぽいので、おそらくDropboxのヘルプに跳ぶのでしょうが、あれは専門家向けでなにもわからない素人がおそらくあれ見てもわからないですよね。

まあ上のが最大の問題。次の「別のチームメンバーに移行しますか?」は企業チームなら当然必要な措置だと思います。ただ、この移行の措置をとると、うっかり消してしまったアカウントを一週間のあいだは復活できる、という選択肢を失なうのですわ。だからできれば「移行した場合は以後アカウントの復活は不可能になります。移行しない場合は、週間にかぎり復活させることが可能になります」にして、「後で移行する」をデフォルトの選択肢にするものだと思います。

「このメンバーがオンラインになったときに、このメンバーのデバイスからコンテンツを削除しますか?」は、企業が機密情報を保護するためにどうしても必要なオプションだと思うのですが、「デバイス」あたりは素人には何を意味しているのかわからないかもしれない。まあそれはOKとして、「あなたのチームの情報を保護するために、このメンバーのデバイスから、このチームのすべてのファイル・コンテンツを強制的に削除しますか?」ぐらい強くして、さらに「いいえ」をデフォルトにしておけば、事故もすこしは軽くなるでしょう。

やはり素人・非専門家にもわかりやすく説明する、安全なオプションをデフォルトにする、のような配慮というのは、プログラムを組んだりするのと同様の大事な基本技術で、どんな優れたサービスもそうした「わかりやすい案内・ガイド文を書く」という技術の裏付けなしには危険なものになってしまうと思います。正直私はDropboxは技術的には競合するサービスより優れていると思っていました。特にPaperが好きだった。

というわけで、今回の事件は私にとってとても残念だったのです。サポートの方々の指示はとてもわかりやすいもので、それがなぐさめです。

素人の人々、問題をまだよく知らない人々に対してわかりやすい文章を書く、という技術は、私の勤務先の学生様にも習得してほしいと思う。人を不幸にしない文章を書いてほしい。そし、そうした教育と訓練をするのが私たち大学教員の責務なのだという思いを強くしたのです。私にとって、そういう技術は「人文知」とかそんな偉いものよりずっと重要なものだという思いもますます強くなりました。