伊藤昌亮先生の「「表現の自由戦士」たちの戦い、その背景とイデオロギー」というのもめくってみて、これは示唆的な論文でおもしろいと思いました。「ツイフェミ対オタク」の対立の背景には、右派的な権力による表現規制に対抗するリベラル派による反権力としての「表現の自由A」と、反差別が逆差別につながっていることからそれに対抗するための「表現の自由B」があって、最近の「表現の自由戦士」とかのは表現の自由Bの運動だ、とかそういう話。まあこれの成否は今回は置いときます。
興味深いのは、表現の自由戦士≒萌え絵オタク男性たちの背景には、「萌え絵のイデオロギー」がある、っていう指摘ですね。
ツイッタフェミニストvs表現の自由戦士の戦いは主に「萌え絵」をめぐる論争であるわけですが、そこで問題になっているのは「女性が「性的」に描かれているかとどうかという点」だと。フェミニスト側にとっては「萌え絵は女性を過度に性的に描いており、「性的消費」や「性的搾取」の対象にしている」と。
しかし萌え絵を好む人々にとっては、たとえば巨乳は性的というよりは母性の表現だとかうんぬん。少女(ロリータ)とかも本来はセックスの対象にしてはならんものである、巨乳美少女とかはロリコンの願望(性欲?)を満足させるものではない。そこで、 「萌え絵」に描かれているのは、「性交の不在、もしくはその不可能性というモチーフ」だっていうわけです。萌え絵の世界は、「性欲は存在するが、性交は存在しない」ところだというわけです。
この指摘はおもしろいっちゃーおもしろい、というか、まあラブコメや少年向けエロコメ(?)とかっていうのは登場人物たちは基本的にセックスはしないわけです。これは少年向けだから裸などは描いてもセックスそのものは描かない約束になってるんだと思いますが[1]だから週刊マガジンで永井豪先生が『凄ノ王』でセックス(レイプ)を描いたときにものすごく話題になった記憶。、それだけじゃなくて性的関係を宙吊りにしたままでエロいほのめかしだけで話を進行させたい、連載したい、みたいなところはあると思うんですわ。少女マンガ・女性マンガの場合だと、「つきあう」のかつきあわないのかよくわからない、そういうのを継続したい。『宇崎ちゃん』も少なくとも最初の数巻は直接に性的な関係はもってないし、そういうマンガは多いですね。
そういうわけで、伊藤先生は次のように言うわけです。
だとすればそれら(萌え絵)を単純に「性的」だと決め付けてしまうことはやはりできないだろう。というのも、そこで目指されているのは、むしろ逆に「性的」ではない世界、性交が存在しない世界だからだ。
おもしろいですね。まあこの指摘の成否も保留しておきます。ただこれ、やっぱり「性的」っていう言葉にも問題があると思うんですわ。「性的」って非常に意味が広い言葉で、セックスのことを指すときもあれば(「性的関係」は、セックス関係やそれに類した関係)、男女のどちらかに特化した特徴を指すときもあれば(「性的部位」とか「性的アイデンティティ」とか)、生殖に関するっていうときもあれば、性欲に関するときもあるし、もっとあるでしょう。
「〜は性的か」とか「過度に性的な」とかっていうときの「性的」ってぼんやりしてるんですよね。上の伊藤先生の最後の部分では「性的」は「身体的行為としてのセックスに関連した」ぐらいの意味だろうと思うんですが、「萌え絵の一部は過度に性的だ」っていうのは「(たとえば)女性の性的部位が過度に強調されている」ぐらいの意味だと思うんですよ。 ぶっちゃけ、「性的」という言葉は広すぎて、女性や男性が描いてあるだけでなんらかの意味では「性的」になっちゃう。イケメンナイスバディやら、美人ナイスバディを描いただけで、性的には魅力的になってしまうかそいれない(「性的に魅力がない」という意味で性的な画像もあるかも)。だから、「性的」にはもっと限定が必要だと思うんですわ。
だから、最初から「性的」というぼんやりした言葉ではなく、「性的に魅力的」とか「性的欲望を刺激する」とか「セックスを暗示している」「セックスを描いている」とかそういう表現を使っていたら、そもそも議論が混乱することは(今よりは)少なくなるんじゃないかと思うんです。どうですか?
昔、牟田先生が宇崎ちゃんについて「過度に性的」っていうのがどういうことか説明してくれてない、という意味の文章を書きましたが( https://yonosuke.net/eguchi/2019/11/07/10980 )、まああの問題はそういうふうにして分解していったらどうにかなったかもしれないな、みたいなのは思います。
(蛇足)あ、そんでこの論文にもう一個コメントがあったんですが、こういう文章があるんですよね。
「成人女性」は一般に性交の対象になりうる存在だが、一方で、「少女」と「母」はなりえない存在だ。(改行)もちろんそうなりえない存在を無理やりそうしてしまおうとする性向も存在する。たとえば彼らについても言われることだが、「ロリコン志向」などだ。しかし彼らはロリコンではない。なぜなら白川によれば、「ロリコン志向がある場合、胸は小さく描かれることが多いだろう」からだ。つまり巨乳の美少女というイメージは、ロリコン志向を満足させるものではない。(改行)だとすればそこに描かれているのは、やはり性交の対象にはなりえない存在だということになる。
まあ私はこの論証には穴があると思うんですが、気になるのは論証の穴ではなく、「性交の対象になりえない」のような表現です。昔、北田暁大先生が「学生は(男性教員の)性的な対象になりえない」とかっていう趣旨の発言をされていたのにコメントしてしまって怒られてしまったことがあるんですが、「セックス/性欲の相手・対象になりえる」とか「なりえない」とかっていうのをこういうふうに使うのはおかしいと思う。ロリコンやペドフィリアとかでまだ幼ない少女を性欲の対象にする人はいるでしょう。「なりえない」っていうのは「合法の相手にはなりえない」とか「法的/道徳的に許されない」とか「二次元表現物なので現実のセックスの相手にはならない」とかそういう意味のはずで、そういう意味だったらそういうふうに表現してほしいのです。まあ細かい話ではあるんだけど、こういうのは気になるのよねえ。
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References
↑1 | だから週刊マガジンで永井豪先生が『凄ノ王』でセックス(レイプ)を描いたときにものすごく話題になった記憶。 |
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