田中東子先生の表現の自由論 (1)

『現代思想』2025年5月号の「表現の自由」特集のなかで、
田中東子先生の「謳歌の後に来るものは?:「自由すぎる表現」の爆発的増加とその始末」という論文を読んで、少しコメントしたいことがあったので書いておきます。

この論文はオンラインでのさまざまな悪質な表現を扱ったもので、特にヘイトスピーチと性表現/ポルノを並列的に扱っているところに特徴があります。SNSでの女性に対する「ヘイトスピーチ」や女性バッシングを念頭においたものですね。田中先生自身がさまざまないやがらせにあっているらしく、そうした立場からの切実さが感じられるものです。

ただし、ヘイトスピーチのようなものとポルノを似たようなものだと考えるのは、一部のフェミニズムの主張に時々見かけるものなのですが、それがどうなのかっていうのは微妙なところです。ただ、今回のコメントでは必要なとき以外はこの問題には触れません。またヘイトスピーチそのものの問題についても触れることができません。

さて、田中先生の問題意識はネットは憎悪コンテンツが増えてしまって、今日起きているのは「表現環境の汚染だ」とかそういう感じ。特にジェンダーにもとづく差別と、ポルノが問題だ。さらに広告での若年女性のイメージ[1]「表象」じゃなくて「イメージ」を使ってもらえると読みやすくていいですね。や「萌え絵」の使用も問題になってますし、さらにはAIの利用によるフェイクポルノみたいなのも問題になりつつある。

さて、田中先生は、こういう「ミソジニー表現」が「表現の自由」の問題としてのみ論じられていいのか、ということらしいです。もっといろいろ考えてみるべきだ、と。これはその通りですね。少し議論を見てみます。

コンテンツ規制をめぐるパラドクス?

「コンテンツ規制をめぐるパラドクス」というところでは、次のようなことが言われています。

今日では、自由の行使者であるプロバイダーやプラットフォーム提供者そのものが、表現を可能にさせ、流通させ、永続化させる権力を手中に収めている。したがって、政府や国家権力による介入や規制はある意味でプロバイダーやプラットフォーム企業などの強大な「権力」を抑制しようとしているにもかかわらず、そのこと自体がむしろ「表現の自由」への強力な抑圧であるかのように見えてしまうというパラドクスが生じてしまう

私はこれどこがパラドクスなのかよくわかりませんでした。FacebookやXなどのプラットフォーム企業はたしかに「権力」をもっているといってよいと思うのですが、政府がそれを抑制しようとしたらそれは「表現の自由」の抑圧ですよね。なにもパラドクスはないように見えます。「表現の自由」っていうのを「政府vs市民」という形で考えるのはちょっと古いよ、ということを言いたいと思うのですが(実際にプラットフォーム企業の表現の抑圧も問題です)、政府が企業に「表現を抑圧しろ」って指示したらそれはやはり表現の抑圧である。もちろん、表現を抑圧しようとしている企業(たとえばFacebook)に対して、政府が「表現の抑圧をやめろ!」と指示するのだったらパラドクス的なところがあるかもしれないけど、田中先生が考えているのは本当にそれだろうか?

混乱と錯綜の増幅

この節では、「混乱と錯綜」の原因として、まず「ポルノ(ポルノグラフィ)」の定義の話がとりあげられます。田中先生によれば、

SNSでは、「ポルノとは何であるのか」という定義がずれたまま議論が交わされている

ということです。まあこれはもっともな話ではあるんです。SNSではちゃんと定義してくれないし、論文でも定義してくれない学者先生たちが多いですからね。でも私が見るところでは、この先に問題がある。

キャロライン・ウェストはその一般的な定義を「見る者に性的興奮をもたらすようにデザインされた、性的に露骨な素材(絵や言葉)」(West 2021, 480)であると説明している。

これちょっとよろしくなくて、ウェスト先生の原文はこうです[2]なんか私がもってる版とページが1枚ずれてるんですが、版の違いだろうと思います。p.479。

On one common definition, pornography is sexually explicit material (pictures or words) which is primarily designed to produce sexual arousal in viewers.

まあよく使われる定義で私もだいたいこの意味で使うんですが、ウェスト先生がこれをあげているのは、単に「よくつかわれる定義だよ」っていう選択肢の一つに過ぎなくて、他にもよく使われている定義は存在してますよ(たとえばラジフェミの定義)、って言ってます。

I will not attempt here to develop or defend any particular way of defining ‘pornography’ — in part because I believe that what conception is most useful depends upon one’s immediate interests or aims, and these may vary from occasion to occasion.However, when it matters, I will take care to specify which of the many senses of ‘pornography’ is in play.

ここでは「ポルノグラフィ」の定義について、特定の立場を打ち立てたり擁護したりするつもりはない。というのも、どの概念規定が最も有用であるかは、その時々の関心や目的に依存するものだと私は考えているからだ。そして、その関心や目的は場面ごとに異なりうる。しかし、必要な場合には、「ポルノグラフィ」という語が用いられている多様な意味のうち、どの意味が問題となっているのかを明示することに注意を払う。

これはこれでありの立場ですね。ウェスト先生はちゃんとした人なのでこういうのちゃんとしている。論文も標準的な説明 + 現在フェミニスト哲学で問題になっている「サイレンシング」の内容をつめた良質のものです。では田中先生はどうか。

田中先生はウェスト先生を紹介したのちに、保守派のポルノと「わいせつ」を関係づける定義と、フェミニストの「女性の虐待、貶め、非人間化〜」をつかった定義(有名なので省きます)の定義の二つに言及している。ここはOK。

ところが、その次の段落で、田中先生がどういう定義を採用するかをはっきりさせないまま、「ポルノ表現については、米国では「合衆国憲法修正第一条」の言論の自由条項によって法的保護を受けている」って書いちゃうわけです。これはよろしくない。複数の定義を示すのはよいことですが、田中先生がどういう意味で「ポルノグラフィ」という言葉を使うのかはっきりしてくれなければ定義の話をした意味がないじゃないですか。それどころか、SNSその他で議論がすれちがっているとか混乱しているって指摘している意味がない。たいへんよろしくないと思います。複数の定義を紹介したら、必ず自分がどの定義を採用するのか宣言してください

ちなみに、「ポルノ表現については、米国では「合衆国憲法修正第一条」の言論の自由条項によって法的保護を受けている」も実はよろしくなくて、ポルノが言論の自由の保護の対象であるかどうかはいまだに議論されていることですし、また、「わいせつ」や児童ポルノは言論の自由の保護対象ではありません(のはずです)。こういうのは正確にやらないと意味がありません。たしかにウェスト先生は論文の最初で

ポルノグラフィは、しばしば言論または表現の自由を根拠として擁護されている。たとえ一部のポルノグラフィが単に不快であるだけでなく、積極的に有害であったとしても、それは「言論」である。そういうもの(スピーチ)として、リベラルな社会ではポルノグラフィは一般的に言論に与えられる特別な保護を受けている。アメリカ合衆国においては、ポルノグラフィは合衆国憲法修正第一条の「言論の自由」条項のもとで、法的な保護すら受けている。

とおっしゃっておられますが、すべての性的に露骨なマテリアルが保護されているということではなく、そうしたポルノなどの言論の自由を抑制するには、他の行為を抑制するよりも厳密な審査が必要ということになっている、という意味のはずです。たとえばアメリカでもいまだに「わいせつ」な表現は規制されてますし、規制可能です。ちなみに名誉毀損その他の表現も規制可能です。

続きます。

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References

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1 「表象」じゃなくて「イメージ」を使ってもらえると読みやすくていいですね。
2 なんか私がもってる版とページが1枚ずれてるんですが、版の違いだろうと思います。p.479。

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