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カント先生から未婚化・非婚化の原因を学ぼう

性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)

カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。

他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。

まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題1)実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。

前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。

これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。

 

んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。

ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。

前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。

この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。

カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。

まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。

どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)

まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。

 

 

References   [ + ]

1. 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。

カント先生に女性のルックスの鑑賞法を教えてもらおう

前のエントリの続き。

紹介したいと思ったのは、第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」の後半にある、女性のルックスの美についてカント先生が語っているところです。こんな感じにはじまる。

美しい性〔女性〕の姿と顔立ちが男性に与える多様な印象を、できるかぎり概念化して捉えることは快適でなくもないかもしれない。この魔力の全体は、根本的には性的衝動の上にひろがっている。(p.358)

カント先生らしい面倒な言い回しですが、男性の女性のルックスの好みは様々なので、それがどうなってるか把握してみましょう、ってわけですね。そして女性のルックスは(男性に対して)魔力的な力をもつことがあり、それは(男性の)性的衝動に根拠がある、というわけです1。なんか現代の進化心理学みたいですが、カント先生の時代だと「種の保存」みたいなのはいってくるのでまだ特に進化的な話ははいってない。おもしろいのは次です。

つねにこの衝動のごく知覚に身をおいている健全で粗野(derb)な趣味は、婦人における外見や顔立ちや眼の魅力等々にはほとんど悩まされることはなく、本来ただ性だけをめざすことによって、たいていの場合、他人の繊細さを空虚なおふざけとみなすのである。

これは、性的衝動を感じたらすぐセックスするような男性は、女性のルックスとかあんまり頓着しない、女性の顔についてああだこうだいって悩んでるのは馬鹿にする、ってな話ですね。カント先生は女性の美について関心がある方だったんでしょうなあ。まあこの、そうした粗野な人々について一連のおもしろい皮肉がある。さて。

高雅な趣味のためには、婦人の外面的な魅力の間に差異を設けることが必要となるが、それに関して言えば、この趣味は姿と形における 道徳的なもの か、あるいは* 道徳的でないもの* にかかわっている。(p.358)

「もっと繊細な趣味をもつためには、女性のルックスのよしあしをみわけられなければなりません」というわけです。先生、ポリティカルに正しくありません!

「道徳的なもの」「道徳的でないもの」っていわれているのは moralisch / unmoralisch なんですが、このモラルってまあ「道徳的」って訳しちゃうとうまくつたわらないかもしれない。精神的なってな意味の英語のmoralと同じやつだと思います。カント先生がいいたいのは、「女性の(外面的な)ルックスについてよい趣味をもつには、外面だけじゃなくて、そこに精神的なもの、内面的なものを見分けることができる必要があるんだよ、ってことです。顔がかわいいだけじゃなくて、なにかそこに優れた性格みたいなものがみえてないとならん、ということなわけですね。

後者の種類の快適さにかんして、婦人は可愛い(hübsch)と呼ばれる。均整のとれた体つき、規則正しい顔つき、眼の色、優雅に際立つ顔は、花束においても気にいるような、冷ややかな賛同しか得られない単なる美にすぎない。

「均整のとれた体つき」は ein proportionierlicher Bau, プロポーションいい体。「規則正しい顔つき」はregelmäßige Züge、まあ左右対象だとかそういう感じですか。「きれいな顔はたしかに美schönなんだけど、それって花みたいな物体としての美とあんまり変わりないのである、そんなものは男性の熱狂的な愛を受けたりするものではないのだ」というわけです。hübschはやっぱり「可愛い」てしか訳せないと思うんですが、可愛いというより顔が整ってる、って感じですね。

顔は可愛くても、それ自体はなにも語らず、心に語りかけない。

まあただきれいなだけじゃやっぱり恋愛の対象とかにはならんわけですよね。忌野清志郎先生のこの歌みたいな感じっすか。

顔立ち、眼差し、顔つきの道徳的である表情にかんして言えば、それは崇高の感情か美の感情かのどちらかにかかわる。彼女の性にふさわしい快適さが、主に崇高の道徳的表現を際立たせている婦人は、本来の意味で美しい(schön)と呼ばれ、また顔つきや、顔の特徴認められる限りでの道徳的な印が、美の諸性質を告げている女性は快適(annehmlich)であり、その度合が高い場合は彼女は魅力的(reizend)である。

訳語の選択は難しいですね。私が訳すならどうするかなあ。いいたいことはわかりますよね。おじさんになってきたりして女性をたくさん見てくると、単に顔が整ってる、ってだけでは魅力を感じないことがある。魅力を感じるのは、なにか内面的なものが表情にあらわれているような女性だ、とそういいたいわけです。んで、その表情に表れる内面的なものが、カント先生がこの本で注目している「崇高」と呼びたくなるようなものをもっているひともいれば、同じく「美」と呼ばれるべきものをもっている人もいる、とそういいたいわけです。

前者〔崇高型〕は、落ち着きを示す顔つきと高貴な外見のもとで、慎み深い眼差しから美しい悟性のきらめきを輝かせ、彼女の顔にやさしい感情と善意の心が描き出されることによって、男性の心の傾向性も尊敬の念を我がものとするのである。

こっちは知性や教養をもっていて、おちついた感じの内面を見せてくれるような人。レディー。マリアテレジア女帝とかですかね。

後者〔魅力型〕は笑った眼のうちに陽気と機知を、またいくらかの繊細な茶目っ気、あだな諧謔、おどけたつれなさを示す。

こっちは明るくて楽しいおちゃめさん、マリーアントワネット様?

前者が感動させるとすれば、後者は魅惑し、みずからのよくするものであり他人に吹き込む愛の感情は、うわついているが美しい。(p.359)

こう、威厳のある美人と陽気でコケティッシュな美人、みたいな区分けをしているわけです。

さて、性欲との関係ですが、

この衝動がまだ新しく、発達しかけた時期に、最初の印象を与えた姿が原像として残り、そして将来、空想的なあこがれを刺激することができ、またこのあこがれによって、かなり粗雑な傾向性が、性のさまざまな諸対象から選ぶようにしいられるあらゆる女性の形態は、多かれ少なかれその原像に適合しなければならない……。(p.360)

性の目覚めの対象になった人のタイプが、その後の人生の性欲生活でも重要な役割を果たす、みたいな感じですね。もうカント先生の時代からそういうこと言ってたんだ。

いくぶん高雅な趣味にかんしていえば、われわれが可愛いと呼んだ種類の美は、あらゆる男によって、かなり一様な仕方で判定され、これについては通常考えられているほど意見の違いないと、私は主張する。(p.360)

単純に顔立ちがととのっているという意味での美人っていうのは、判断はだいたい皆同じ、世界各国共通だ、とかってことですね。

しかし、繊細な姿の判断に顔つきにおける道徳的なものが混合するときには、さまざまな男子において、趣味はつねに非常に異なってくる。彼らの人倫的感情自体に従っても、また顔の表情が、各人の妄想におおいてもつかもしれない様々な意味に従っても異なってくる。

おもしろいっすね。単なる「ととのった顔」については男性あんまり意見の相違はないが、内面的なものを含めると性の目覚めとかその後の妄想の積み重ねとかで好みがいろいろ分かれるようになりますよ、ってな話です。これ、ラブライブとかアイドルマスターとかガルパンとか、最近のアニメは大量の女子が登場しますが、あれは男子の多様な好みに対応するものなのですねえ。それぞれ違う性の目覚めをしたから。ははは。

決定的に可愛くないがゆえに、初め見たときには、とりわけて作用を及ぼさない形態が、よりよく知るにつれて気に入りはじめるや、通例、はるかに多くの心をひきつけ、たえず美しくなっていくように思われるということが見られる。可愛いが外見は一挙に知られるが、ときの経過に従ってますます大きな冷淡さでもって知覚される。道徳的な魅力は、それが目に見えるようになったときには、より強く心を捉える。これに対して、可愛い外見は一挙にさいられるが、時の経過に従ってますますおおきな冷淡さでもって知覚される。

「決定的に可愛くない」っていのはひどい言い方だとおもいましたが、weil sie nicht auf eine entschiedene Art hübsch sind」なので、まあ「すごく可愛いってわけではないので、最初はたいして印象をいだかなかったクラスの女子が、隣の席になってだんだん中身がわかってくるとだんだん可愛くみえてくる」ってそういう話ですね。カントくんも可愛いじゃないっすか。一方、美人なのはすぐにわかるけど、だんだん興味なくなるってやつですね(ルソーが妻について言ってる例のやつのうけうりっすかね)。まあ女性が美人なのはいいことだし、鏡やお化粧その他に気をつかうのもわかるけど、やっぱり内面が大事ですよ、知性と教養をはぐくみ、またポジティブな性格を身に着けましょうね、みたいなそういう話。男性のがわも、女だからなんでもいいってのは粗野だし、美人がいいとかってのも外見だけの話だったら馬鹿らしい、やっぱりその内面の崇高と美を見抜けるようにならないとなりません。まあごく普通の常識的でお説教っぽいものだけど、それはそれで楽しい。

まあこんな感じでおもしろい。見ての通り、「美と崇高」で趣味を二つに切っていくっていうのはけっきょくたいしてうまく行かず、矛盾しているっぽいところもあるんですが、まあそうういうの気にしないで軽く楽しい文章を書く、っていうのも、実はカント先生好きだったんでしょうな。カント先生軽さの美に挑戦する、ぐらいっすか。

女性のルックスの話となると、桂枝雀師匠の「仔猫」って話のおなべさんのことを思い浮かべるんですわ。まあルックスに恵まれない女性にたいする評価みたいなの、昭和な感じで、いまとなってはちょっとつらいところもありますが、枝雀先生すごいですよね。

この枝雀先生の芸は、すごく機知に飛んでて楽しくて美であると同時に、それを実現するための苦しい修行や、彼の(おそらく)鬱っぽい気質なんかも見せてくれて、見るたびに圧倒される「崇高」なものでもある。まあ「美と崇高」はどっちかだ、両立しない、みたいな考え方しちゃだめなんだとは思います。男女の特性や美徳悪徳についても同様。そういう単純な話っておもしろいけど、けっきょくはだめなんですよね。これはカント先生も認めてる。

 

 


  1. これ、中島義道先生と解釈ちがうかもしれない。 

カント先生の『美と崇高』はおもしろいなあ

去年と今年、過去の大哲学者たちが、男と女、そしてその関係について、いかにろくでもないことを言っていたかというのを紹介する一般向け講座みたいなのをやっているのですが、読み直してやっぱり軽い哲学っていうのはおもしろいなと思いますね。昨日は大哲学者のヒューム先生とカント先生を取り上げたのですが(先週はルソーとウルストンクラフト)、その一部を紹介してみたいです。

カント先生は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』『啓蒙とかなにか』『永遠平和のために』とかギザギザした難しいタイトルのとても難しい本を書いていて有名なのですが、若いときはわりと軽い文章も書いてるんですよね。ドイツの大学の「私講師」というポジションで、一般受けしそうなネタを扱って受講生集めないとお金もらえなかったり、サロンや食事会とかでうまいこと言ってウケたいとかそういうそこそこ人間らしい事情があったのだとはおもいます。カント先生はふつう思われてるほどガチガチの融通きかない人ではなく、そこそこ助平心もあったのかもしれない。

『美と崇高の感情に関する観察』っていう1763〜4年ごろの作品(カント先生40歳ぐらい)のは徳に軽くて陽気で冗談とか入りまくって楽しい。これはカントっていう名前から想像される、ガチガチ体系哲学じゃなくて、「観察」というタイトルに表れているように、先生が自分や他の人々の社交などを観察しておもしろおかしく書いたエッセイですわね。

中心的なテーマは、我々がそれを見聞きしたり体験したり交際したりすると快や満足を感じる人や対象があるわけですが、特に「趣味」にかかわる話です。趣味は、プラモ作成とかキャンプとかのホビーじゃなくて、あの人は趣味がいいとか悪いとかっていうときの好みの方です。特に、「美」と、「崇高」のふたつに注目して、この二つで我々が好むものを分けていっておもしろい話をしましょう、というわけです。

「美」はもちろんふつうの「美しい、きれい、優美だ〜」っていうやつ、崇高の方は難しくて面倒なんですが、基本的には「すごい!えらい!」「ごつい!」「強えー!」とかそういうのにかかわるやつですね。カント先生の文章引用するとこうなる。

雪をいただく頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かに花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群におおわれた谷間の眺望、エーリシュウム〔ギリシア神話での死者たちの至福の世界、桃源郷ですか〕の叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。

この文章はまあ面倒ですが、「崇高は感動させ、美は魅惑する」ということらしいです。すごいのでこっちを圧倒してきて感動させるけど、ちょっと遠くから眺めていたいのが崇高で、きれいだったりかわいかったりしてうっとりさせてくれるのが美、と。まあわかりやすいですね。カントはいろんな優れたものをこの二つに分けていくわけです。

自然物とかだと上のよう感じですが、人間の性質でいうと、こんな感じ。

悟性は崇高で、機知は美しい。大胆は崇高であり、手管は卑小だが、美しい。……真実と誠実は単純で高貴であり、諧謔と快い媚〔こび〕は繊細で美しい。……崇高な諸性質は尊敬の念を、しかし美しい諸性質は愛をつぎ込む〔呼びよせる〕。 (p.328)

崇高なものは努力や堅さや重さや力と関係があり、美しいものは才気ややわらかさや軽さなんかと関係がある、まあそう言われると、我々が好きないろんなものが、この二つによって特徴づけられるような気がしますね。まあだからどうだってことはなくて、単なるおもしろい「お話」ではあるけど、こういう二分法とかやると、酒の席とかだといくらでも話が続けられる。太宰治の『人間失格』のなかで、主人公が友達といろんなものを喜劇(コメ)と悲劇(トラ)に分けて遊ぶ印象的なシーンがありますが、あれと似てる。ふたつに分類する、っておもしろいんですよね。まあカント先生にいわせればトラは崇高でありコメは美である、とかになると思う。

んでまあ美と崇高の話、どうしたって人間の話になるわけです、っていうかそれが目的で、自然物とか建築物とかそういうのは導入。私が興味あるのは当然男女の話。せっくすせっくす、せっくすの話しろー。ていうか私もここまで前置きが長すぎるわ。

第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」で、この章をいろいろ紹介したいのですが、今日は女性の顔の話だけ。あれ、前置きだけでかなり長くなってしまったから次のエントリに。


テキストは久保光志訳『美と崇高の感情にかんする観察』

実はカント先生とはずいぶん前に同じネタでお話させてもらっている。→ カント先生とおはなししてみよう

 

 

 

カント先生とセックス (6) 結婚が唯一の道徳的なセックスの条件です

セフレもカジュアルセックスも売買春もオナニーもだめ。ではどうしたらいいですか? 結婚だけが唯一の道です。

全人格を意のままにするという権利、それゆえ性的傾向性を満足させるために性器をも使用する権利を私はもつのだが、いかにして私は人格全体に対するここのような権利を獲得するのだろうか。──それは私が他の人格に私の全人格に対するまさにそのような権利を与えることによって、すなわちただ結婚においてのみ生じる。結婚は二人格の契約を意味する。この契約において、双方が相互に同等の権利を回復する。つまり各人が自分の全人格を他方に完全に委託するという条件に同意することで、各人は他人の全人格に対する完全な権利を手に入れる。もはや、いかにして性的交渉が人間性を低劣にしたり道徳性を毀損したりすることなしに可能であるかを、理性によって洞察できる。つまり、結婚がその人の性的傾向性を使用するための唯一の条件なのである。

自分のすべてを相手にあたえ、相手のすべてを自分が得る、という形での関係のなかでだったらセックス許されます。しかしここでカント先生がどういうことを考えているのかっていうのはなかなか難しい。ふつうのセックスは相手を性欲の対象のモノにすることだからだめだ、でも結婚セックスは相手をモノにして自分のものにするけど、自分も相手の所有するモノにするからいいのだ、みたいな感じですかね。でも、これと結婚してない恋愛関係・愛人関係とかの違いがよくわからない。

どうもカント先生が注目しているのは、恋愛や愛人関係では必ずしもお互いがお互いの「所有物」になるわけではないし、時には不平等なときがある。二股とか三股とか。一方だけがぜんぶを捧げて、片方は「いや私は私のもので、あんたのものじゃない、一発やったからって彼氏ヅラするな」とか言うこともありえる。それに対して、結婚してしまえば、「私が自分の全人格を他の人格に渡し、それによって他方の人格をそのかわりにえる」ってことになって、「それによって双方の人格は意志の統一を形成する」ってことらしい。これも難しいんですが、結婚してしまえば幸福も不幸も、満足も不満も二人一緒に味わうことになるのだ、とにかく夫婦は一体なのだ、みたいなことらしいですね。すげーロマンチックな結婚観ですね。これはおそらく結婚しなかった人にしか考えられない。永遠の中二病という感じですねえ。

まあ「相手を所有する」ってのはやっぱり相手をモノ、所有物として考えてるわけで、これがなぜ人間性の定式に反しないのか謎。

カント先生が結婚という条件をどう考えていたのかっていうのはいろいろ解釈の歴史があってちょっといまは追いきれない。一つ目立つのは、カント先生がルソー(なぜかルソーには「先生」つけたくない)から受け継いだ社会契約っぽい考え方をつかってるんだろう、って感じですね。ルソーの問題というのは、国家の成立や正当化を考える場合に、平和に協力して暮すために人びとは政府に従って、自分の自由を放棄しなきゃならないように見えるけど、それじゃ自由が失なわれてしまう。自分の自由を保持しながら、みんなとうまくやっていくにはどうしたらいいか?っという問題ですわね。「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従しない」ことはどうすれば可能か、みたいな感じで問われる。ルソーの答は、民主主義。勝手にふるまう自由をみんなが同じように放棄しながら、みんなが政治に参加し法と定め政治をおこなうことで、人民として一つの意志をつくりあげるとき、人びとは自分たちの意志にしたがっているという意味で自由である。選挙に行くと人間は自由になるのです。まあ法律とかも自分たちで決めていると思えば従う気になれるものですよね。選挙はぜひ行きましょう。

カント先生はこの発想を結婚にもちこんでいるんですかね。おたがいに他の人とセックスする自由を放棄し、二人で一体として合議制で(?)性生活を営むことによって、相手の自由を奪ったり人間性を貶めたりせずに楽しいセックスをすることができる、それはお互いに自由なセックスである、みたいな。「イエス/ノー枕」を両者が使用し毎夜投票をおこなうことによって、人間は自由になるのです。

まあよくわからないけどこのラインの解釈するのが主流っぽい。こういう解釈が可能なら、お互いの性的魅力以外の人間性に対する尊敬と、一対一での排他的な関係、あたりが重要だってことになるでしょうか。

まあ本当によくわからないんですが、こういうカント先生のセックス観は、男女の間の平等ってのもを重視している点ではなかなり近代的なんですわ。カント先生が愛人関係とか内縁関係を攻撃するのは、そこになんか不平等が入りこむ余地があるからみたいなんですよね。まあたしかに「私はあなたとかセックスしません」みたいな約束みたいなのが存在しなければ、モテる女性はたくさんの人とセックスできるだろうし、モテない男性はそれにバッグとか貢ぐだけ、みたいな不平等な関係になっちゃいますからね。もちろんその逆もある。

ふつうの若者が「つきあう」って言う場合には、「(場合によって)セックスする」という意味と「他の人とつきあわない、他の人とはセックスしない約束を結んでいる」「お互いの幸福を真剣に考える約束をしている」ぐらいの意味が含まれている気がしますね。これ、カント先生意味だったらある種の「結婚」をしていることになるのかもしれない。

まあそういうことで戸籍とかに載る意味での「結婚」が大事なんじゃなくて、二人の間の尊敬と排他性とケアみたいなのが大事なんだろう、とかって解釈するくらいでいいんかなとも思います。となれば一対一でちゃんとおたがいをよく知っておつきあいしてセックスするのはカント先生から責められずにすむかもしれませんので、みなさんもそれくらいを目指したらどうでしょうか。

カント先生とセックス (5) オナニーも禁止です

カント先生によれば、売買春やセフレがだめなだけではありません。オナニーもいかんです。いいですか、オナニーもいけません。

性的傾向性(性欲)の濫用が「情欲の罪」です。んで、売買春とか姦通とかは「自然にしたがった」罪で理性に反しているのですが、自涜(オナニー)は自然に反した罪です。

自然に反した情欲の罪には、自然本能や動物性に対立するような性的傾向性の使用が属する。自涜はこれの一つとして数えられる。これはまったく対象を欠いた性的能力の濫用である。すなわち、われわれの性的傾向性の対象はすっかりなくなっているが、それでもわれわれの性的能力の使用がまったくなくなっていずむしろ現存する場合のことである。これは明らかに人間性の目的に反しており、しかもその上動物性にも対立する。これによって人間は自分の人格を投げ捨てて、自分を動物以下に置く。……自然に反した情欲の罪はすべて人間性を動物性以下に低め、人間を人間性に値しないものにする。このとき人間は、人格であるに値しない。だから、それは、人間が自己自身に対する義務に関して行うことのできる最も卑しく最も低劣なことである。自殺も確かに人間が自分に関して冒す可能性のある最も身の毛のよだつことではあるが、あそれでも自然に反した情欲の罪ほどには卑しくも低劣でもない。こちらは人間の犯す可能性のある最も軽蔑すべきことである。まさにそれゆえ、自然に反した情欲の罪は口にできないものでもある。というのは、この罪を口にすることによってでさえ、吐き気が催されるからである。

えらい言われようですね。みなさんは動物以下です。人格であるに値しません。

カント先生のころは「自然の目的」とか生物の「合目的性」とかってのがもてはやされた時代で、まあ人間、広くは生物はみんな生きるとか繁殖するとかって「目的」にあった体の構造をしていると考えられてました。

自然において性欲というのは子どもをつくる「ため」にあるものだろうから、子どもができないような性的活動というのはすべて性欲をまちがった方向につかっているよ、ってことですね。同性愛や獣姦も子どもを生むという「自然の目的」に反しているから同罪。

この自然の目的とか合目的性とかを使って、カント先生はけっこう重要な議論をしてるんですよね。たとえば、先生に言わせれば、人間の生存の目的は、快楽や満足という意味での「幸福」ではない。なぜなら、快を味わったり満足したりすることは人間以下の動物でもできる。むしろ人間は理性があるからいろいろ考えちゃって快楽や満足を味わうことができなかったりするし、セックスとかも動物の方がうまくやってる。理性は幸福の邪魔をしているじゃないか。ってことは、人間が理性をもっているのは快や満足のためではないはずだ。だから人間が生きる目的は快や満足のためではないはずだ。そんな議論を『道徳の形而上学のための基礎づけ』の最初の方でやったりしてます。たしか西田幾多郎先生もパクってたような。

まあこういう生物に「目的」があるはずだ、みたいなのは19世紀なかばのダーウィン先生以降だんだん弱くなってるんですが、こういう「本来の目的」とか「自然」とかってのはいまだに人びとの思考のなかでは意義があるみたいですね。「人間は自然にしたがって生きるのが一番だ」みたいな。人間が「自然」に生きたら、まあ殺人とか強姦とかいろいろやるだろうし、女性は10人ぐらい子ども産んでぼろぼろになるだろうし、あんまりいいことじゃないと思うんですけどね。

人間の指はなにかものをつかむ「ため」にこういう構造になってるんでしょう。もとはサルと同じように木登りとかするためでしょうね。でもこれが指の本来の目的だ、とかっていわれたら、鼻をほじくったりするのが自然に反した使用法なのか。少なくともキーボードを叩くのは自然に反してますよねえ。困ります。数学とか論理学とかやるのでさえ、なんか人間の能力を自然に反した使用しているのではないか、みたいなことさえ言えなくもないかもしれない。

カント先生の議論でもうひとつ気になるのは、オナニーでは性的傾向性の対象は存在しない、みたいなやつなんですが、これどうなんですかね。まったく対象が存在しないで意識が自分だけを向いているオナニーとかありえるのかどうか。私はAVとかポルノとかBLとか見たり、あるいはクラスメートとか思いうかべたりして、なんか意識の対象が自分以外に向かってるのが普通じゃないかと思うのですが、どうでしょうか。ここらへんは現象学者とかに研究してもらいたい。そういう話を以前そういうのに詳しい偉い先生としたときには「いや、オートエロティシズム(自己性愛)というのはもっと複雑なものだ」みたいなことを言われました。ここらへんはおもしろい。

まあオナニーの他、同性愛と獣姦がこの種の「自然に反する」行為に含まれます。獣姦はともかく同性愛の方はそういうこと言われても困りますね。まあ西洋人がこういうカント先生的な偏見から人びとが脱出するまで150年かかります。っていうかまあいまでもあれですね。

オナニーに対する社会の態度まわりはいろいろおもしろい研究がありますね。この前読んでたのはこれ。

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コルバン先生はエロ本とか、教会の「告白の受けつけマニュアル」みたいなのとか狩猟してインテリ向けエロ本みたいなのを作ってる人。ぶ厚くて読んでも読んでも終りません。

国内でも明治〜大正〜昭和中期のオナニー禁止教育のことを書いてた本があったと思うんですがどれだったかな。赤川学先生だったか、他の先生だったか。

あと映画だと『キンゼイ』がおもしろかったです。キンゼー先生は初期の性科学者で、それまでやってなかった大規模な聞き取り調査とかして人びとの性行動を明らかにして『キンゼイ・レポート』出版して、人びとは実はオナニーや同性愛、不倫、その他ばんばんいろんなことをしているのだ、ってやって世界を変革した偉人です。どうも子どものころの教育のせいでオナニーに対する罪悪感に苦しんでたみたいで、そこらへんもこの映画で描かれてます。性の巨人。

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書いてはみたものの、「オナニー」じゃなくて「マスターベーション」を使うべきだったかな、とか。

カント先生とセックス (4) 恋人関係でもセックスしてはいけません

前エントリで「利害関心にもとづいて」と訳されているのは主に金銭的利益とかを考えてって、ことです。まあ「売買春はいかんです」というカント先生のご意見に「我が意を得たり」みたいな人は少なくないかもしれませんが、カント先生が偉いのは、売買春だけじゃなくて、お互いに性的に求めあってる関係でさえセックスはいかん、と主張するところですね。前エントリでは「金銭とかの利益のために体をまかせる」のが問題だったように見えるけど、実は「性欲のためにお互いに身をまかせる」のも同じ。カント先生は結婚してないでセックスするのを「内縁関係」と呼ぶのですが、こんな感じ。

では、自分の傾向性を第二の仕方すなわち内縁関係によって満足させることは許されないのだろうか。──この場合、それぞれの人格は相互に自分の傾向性を満足させるのであり、意図として何ら利害関係をもたず、一方の人格が他方の人格の傾向性を満足させるために奉仕しているのだろうか。──この場合はなんら目的に反するものは存しないように見える。しかし、ひとつの条件がこの場合をも許されないものにする。内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねるが、自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく場合である。しかし、自分を他の人格に対してただたんに傾向性の満足のために差し出す人は、やはり依然として自分の人格を物件として使用させている。傾向性はやはり依然としてたんに性へと向かうのであり人間らしさには向かわない。とにもかくにも、人間は、自分の一部分を他人に任せるときに、自分の全体を任せているのだということは明らかである。人間の一部分を意のままに処理することはできない。なぜなら、人間の一部分はその人間全体に属しているから。

ここはおそらくかなり解釈が必要なところなんですね。「内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねる〜」ってのはどういうことか。まあ結婚してない短期的〜中期的な性的なおつきあいっていうのは、まあお互いにセックスしたいからセックスする関係なわけですが、それもやっぱりお互いをお互いの性欲の対象にすることだ、と。「自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく」。「人格」はあんまり深読みする必要はないです。単に自分。つまり、自分の幸せとか将来とかについては自分が決める。どこで就職するかとか、誰とつきあうかとかっていうのは自分で決めますよ、他の人の命令にはしたがいませんよ、っていうのを保持したままで(あたりまえですね)、相手とセックスする状態なわけです。まあふつうですよね。でもこうした態度はカント先生には問題があるらしい。

これは内縁関係と対になる結婚関係をどう考えているかを理解しないとわかりにくいですね。カント先生の考えでは、男女が結婚すると、自分の幸せとか将来について自分だけでは決められないようになるのです。キリスト教的な、結婚によって男女は「一体になる」みたいな考え方。もう身も心も性的能力もぜんぶあなたのものよ、あなたのものはぜんぶ私のもの、だからあなた自身のことでも私の許可がなければ勝手に処分できませんよ、みたいな関係が結婚関係なんですね。セックスはするけど自分のことは自分で決めます、みたいな関係は、自分と相手の性欲を満たすために下半身だけの関係をもつことで、それによって自分をモノにすることだからいかん、それは自分も相手も単なる性欲の満足のための手段とすることだ、と。セフレ禁止。

しかしカント先生、なんだって恋人・内縁・セフレ関係を「性に向かって人間性に向かうものではない」とかって考えちゃうんですかね。モテない雰囲気がただよってます。おたがい納得づくで、自分と相手を性欲を満すためのモノにし獣にする、みたいなのむしろよさそうですけどね。「んじゃ今夜も獣なっちゃう? エブリバディ獣なっちゃう?チェケラ!」「やだーもうエッチなんだから……なる……」みたいな。でもチェケラってはいかんです。

カント先生とセックス (2) 性欲は直接に他人の身体を味わおうとする欲望

カントのセックスについての話は、『人間学』、『コリンズ道徳哲学』(死後出版。カント先生の講義ノートをまとめたもの)、『美と崇高の感情性に関する考察』、『人倫の形而上学』、『人類の歴史の憶測的起源』あたりにばらまかれてます。けっこういろんなこと語ってますわ。『コリンズ道徳哲学』の有名なセックス論はこんな感じ。

……もしその人が相手を単に性的傾向性に基づいて愛しているのだとすると、これは愛ではありえず、むしろ欲である。……そのような人々が、相手を性的傾向性に基づいて愛する場合には、相手を自分の欲の対象にしているのである。さて、そうした人たちは、相手を手に入れ、自分の欲を沈めてしなったなら直ちにその相手を投げ出してしまう。それはちょうど、レモンから汁を絞ってしまえば、ひとがそれを投げ捨てるのと同様である。確かに、性的傾向性は、人間愛と結び付きううるし、人間愛のもつさまざまな意図を伴なってもいる。しかし、性的傾向性はただそれだけをとりだしてみれば、欲に他ならない。そうしてみれば、やはりそのような傾向性には人間を低劣にするものが存している。なぜなら、人間が他人の欲望の対象になるやいなや、関係を道徳的にする動機がすべて脱落してしまうからである。すなわち、人間は、他人の欲望の対象としては、他人の欲望がそれによって鎮められる物件なのであり、誰によってもそのような物件として濫用されうる物件なのである。(御子柴訳)

性的な局面では、性欲の相手は享楽の対象ってことになる。食欲が料理を味わい咀嚼しおなかに飲み込むことに向かうように、性欲というのは直接に人間の体に向って、それを触覚とか味わうことを目指す。まあ手で触ったり口で味わったり粘膜をすりつけたりね。

性的傾向性が根拠になっている場合を除いて、人間が他人の享楽の対象となるようすでに本性上決定されているなどという場合は存在しない。

これはあれですね。他人を直接に享楽の対象としようとする場合、っていうのは、日常生活ではほとんどない。たしかに犯罪とかってのは他人からお金を盗んだり殴ったりするわけですが、泥棒はお金が目標だし、殴るのは殴りたいから殴るというよりは、殴って言うことを聞かせようとか、痛めつけて恐れさせようとか、そういうのが目的であって、相手を味わおうと思ってるわけじゃない。『人倫の形而上学』では「肉欲の享楽は、原則的に、カニバリズム的である。……お互いは、お互いにとって実際に享楽されるモノである」って言ってます。まあカニバリズムとかと並べられると困ってしまうわけですが、性欲にはたしかにそういうところがあるかもしれませんね。カニバリズムに独特の恐しさがあるのは、泥棒や強盗とは違って、それが他の人間の肉体を直接に欲望しているからですね。これは恐い。解剖して楽しむために解剖されるのとかも恐い。他人をそういう目で見る人がいると考えると、すごく異常な感じがする。でもセックスの場合はそれが普通なわけです。「へへへ、いい体だ、パイオツがたまんねーぜ」みたいな。他に他人の肉体を味わうっていう時は、たしかに私にはあんまり想像つかないなあ。

マッサージや整体みたいなサービスがあるわけですが(私苦手です)、あれも体つかうから同じようなものか、っていうとそうでもない。あれは筋肉をもみほぐしてもらったりするのが目的で、相手が能動的に動作することを必要とする。マッサージ師さんの体を味わっているんではなく、もみほぐされることを楽しんでいるわけですが、性欲はそうではない。

まあ男性や女性を「食う」「食われる」「味見する」みたいな表現を使うひとがいるみたいですが、そういう表現がふさわしいこともあるかもしれない。性欲は他人の体を味わおうとする欲望なのです。セックスでは人間はいじくりまわされ使用される物体にされる。それに、相手にそうした操作や使用を許すことで、セックスにおいて人は自分自身もそういうモノにする。性欲とセックスはおたがいをモノとして扱い、それによって自分も他人も動物的存在にしてしまうおそろしい欲望であり行為である、ってな感じ。我々が性的な目で他人を見るとき、肉体として、味わうべきモノとして見ているわけです。まあたしかにそう言われるといやな感じがしますね。

私あんまり性的な目で他人から見られたことないような気がしますが(コンパとかで財布として見られたことはあるような気がする)、ナイスバディな女性とか毎日そうやって見られてるんでしょうなあ。「せまられる」「触られる」「味わわれる」「食われる」とかいつも「〜される」な感じでちょっとあれかもしれないですね。

『コリンズ道徳哲学』は下のに入ってます。これはひじょうにいろんなネタをあつかったおもしろい本なので図書館で読んでみるといいです。他に『人間学』もおもしろい。カント先生っていうとなんか猛烈に難しいことを書いた人というイメージをもっている人が多いと思いますが、あの『〜批判』とか以外はけっこうたのしめます。

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カント先生とセックス (1) いちおう「人間性の定式」の確認

哲学者・倫理学者といえばカント先生。しかしそのカント先生を専門的に勉強していた人が犯罪で逮捕されたというので話題になっているようです。まあ正直なところまったく同世代なのでいろいろ考えちゃいます。でもまあ別に倫理学勉強したから犯罪しなくなるってわけじゃないですからね。物理学勉強したってビルから飛んだら落ちるし、医学や生物学勉強したって100年ぐらい生きたら死んでしまう。私には因果関係とかよくわからんですし、限られた報道からは容疑者の人がどういうことを考えていたのかは想像もつかない。

しかしまあカント先生は本当に影響力のある先生で、道徳の一番基本的な形は「あなたは、あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず、常に同時に目的として扱いなさい」っていうものだっていうのは(もうちょっと別の訳の仕方もありますが)、倫理学者の言葉で一番有名な文句になってます。「定言命法の人間性の定式」とか呼ばれてる。おそらく一番有名なんじゃないですかね。これより有名なのはイエス様の「あなたがしてほしいように他の人にしなさい」とか孔子様の「汝の欲せざることを人に為すことなかれ」ぐらいになっちゃって預言者聖人はては神様の領域になってしまう。

しかしこの「単なる手段としてではなく〜」ってやつはけっこう解釈が難しくて、これがどういう意味かってことと、カント先生はなぜそうしなきゃならないって考えたのか、ってことをすっきり説明できれば哲学の修士論文としては十分すぎるくらいになってしまう。博士論文でもいけるだろう。実はわたしはうまく説明できません。

でもまあぱっと見たらわかることもある。とりあえず人を手段・道具として使ったらいかんのだな、と。性犯罪とかってのは(上の犯罪は誘拐や監禁でしょうから性犯罪なのかどうかよくわかりませんが)、他人を自分の性的な目的、性的な快楽のための単なる道具とすることだ。もう相手の気持ちとかどうでもいいから、あれをあれしてあれしてしまいたい、とそういうことでしょうからね。性犯罪だけじゃなく、多くの不道徳な行動ってのがけっきょくは他人をなんらかの利己的な目的のための道具とすることなのだ、というのはまあわかる気がします。

「常に同時に目的として」の方はちょっとわかりにくい。授業していても一番難しいのはここですね。私はまあ標準的な解釈として、「その人の自由、自律、自己決定を尊重するということなのだ」ぐらいでお茶を濁しています。実はそんなうまくいかないんですが。他人を道具として使わないってことは、自分の目的の手段として使わないということで、その人の自由な意思を尊重することだ、ぐらいに読むんですね。私らは社会のなかでいろいろ他人を手段として使わないと生きていけない。床屋さんにいったら床屋さんを自分の髪の毛を短くするという目的のための手段として使うことになる。でも床屋さんは自由意思で床屋さんになることを選び、そういうサービスを提供することで私から4000円もらいたいと思っていて、サービスを提供してくれる。床屋さんのそういう意思を尊重して髪切ってもらって4000円払うことによって、私は床屋さんを単なる手段としてではなく同時に目的として扱うことになるのです、ぐらい。

まあそんで、この「人間性の定式」っていうのは非常に影響力があって、それ以降のふつうの人びとの道徳的な思考に巨大な影響を与えてるんじゃないかと思いますね。「人を道具として扱うな!」ってのはまさにフランス革命から19世紀〜20世紀にかけての奴隷解放とか女性解放とかそういうのの原動力になっている信念です。カント先生のころはまだ身分とか奴隷とかあった時代ですからね。

セックスの哲学にもこの「道具として扱うな!」てのはすごい大きな影響を与えてます。たとえば、痴漢強姦はもちろん、売春とかってのが批判されるのは、お金で女性を性的快楽のための道具とするからだ、っていう考え方ですね。あるいは専業主婦とかってのも家事とセックスのための道具として妻を見ているのだ、とか。グラビアアイドルも女性をモノとして見ていて許せん、ミスコンも女を商品として扱ってる!現代的な感じではこれは「モノ化」「物象化」objectificationの問題と呼ばれていてすごくおもしろいネタです。

カント先生のセックス哲学がおもしろいのは、強姦とか誘拐監禁だけじゃなくて、実は結婚してない人びとがするセックスはぜんぶだめ、それにマスターベーションとかも許せん、って主張していることなんですが、今日はこれくらいで。続きます。

「モノ化」については昔1本論文書いて、最初の方でカント先生の文章紹介しているので、だめな論文ですがよかったら読んでみてください。ここらへんからセックスの哲学・倫理学やりたいと思ってたんですが、なかなかうまいこといかないんですよね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/380/1/0130_009_008.pdf

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ゲーテとカントその後

のコメントで PePeODさんから情報と定言命法をいただいたので、私の身近な図書館*1で調べてみた。

カッシーラなんて読むことがあるとは。
たしかに『カントの生涯と学説』の訳注に白水社の『ゲーテ対話録』p. 293を見ろという指示あり。

ところがこのビーダーマン編高橋義孝他訳『ゲーテ対話録』は5巻本でどの
p. 293やら。それにしてもこれ古本屋でたかっ!

第1巻はシラーからフンボルトあての手紙。違う。
第2巻。これだ。ショーペンハウアーの証言。

一五七七 A・ショーペンハウアー

ゲーテはあるとき、私にこう語ったことがある。カントを一ページ読むと、
あたかも明るい部屋にはいったような気になる、と。

これだけ。1577は整理番号かなんかだろう。
うーむ。でも訳注つけてくれたカッシーラの訳者先生たちは偉い。

なかなかこの発言は謎めいてるよなあ。
『美と崇高』はそこそこ読みやすかったけど、
『純粋理性批判』なんか落とし穴だらけの暗い部屋にも
思えるのだが。だいたい1ページに1文がおさまってないときも少なくないんではないか。
ゲーテ流の韜晦?いや、まあ長いこと読んでるとなんかだんだん明るくなってく感じはするんだけどね。

『ゲーテ対話録』は厖大な量の資料の集成のようだが、訳編者(大野俊一・
菊地栄一・国松孝二・高橋義孝)の先生たちによる立派な索引がつけられてい
るので、ヒマなときぼちぼち見ていけば求めるものが見つかりそうだ。でもい
ますぐやる余裕はなし。そのためには、あらゆる傾向性から離れた
純粋粘着能力が必要になる。

まあこのカッシーラの本の第3章の最初はカントの文体の変遷の問題を
あつかっていて、野田又夫先生の文章の元ネタのひとつである可能性は高そうにみえるな。
PepeODさん情報ありがとうございました。またひきつづき情報募集しております。

*1:辺鄙なところに住んでいるので図書館まで1日半かかる。西アマゾン州立図書館か、ザンビア共和国国立図書館かは秘密。

ゲーテはカントの文体を褒めたか

の続き。

charis先生に教えてもらったエッカーマンの『ゲーテとの対話』だが、どうにもへんな感じ。ゲーテ先生がカントの文章を褒めているところは見当らないような。かろうじてかすっているようなのが、

私はゲーテに、近代の哲学者のうち、誰がもっともすぐれていると思うか、と尋ねてみた。

「カントが」と彼はいった、「最もすぐれている、間違いなくね。(中略)もし君がいつの日か、彼のものを読みたくなるようだったら、私は君に彼の『判断力批判』をおすすめしたい。そこでの彼のテーマの扱いぶりは、修辞学がすばらしく、文学もかなりよい。ただ造形美術が不十分だが」(ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1) p. 316)

“Kant”, sagte er, “ist der vorzüglichste, ohne allen Zweifel. Er ist auch derjenige, dessen Lehre sich fortwirkend erwiesen hat, und die in unsere deutsche Kultur am tiefsten eingedrungen ist. Er hat auch auf Sie gewirkt, ohne daß Sie ihn gelesen haben. Jetzt brauchen Sie ihn nicht mehr, denn was er Ihnen geben konnte, besitzen Sie schon. Wenn Sie einmal später etwas von ihm lesen wollen, so empfehle ich Ihnen seine Kritik der Urteilskraft, worin er die Rhetorik vortrefflich, die Poesie leidlich, die bildende Kunst aber unzulänglich behandelt hat.”

 http://gutenberg.spiegel.de/eckerman/gesprche/gsp1079.htm

これかな。でもこれは文章を褒めてるんじゃなくて論考の対象としてレトリックをうまく扱っているという指摘で、カントのレトリックが達者だという意味ではないような・・・ほんとにゲーテはカントの文章を褒めたんだろうか。情報求む。野田又夫先生に降霊してもらわないとならんのだろうか。いかん変な癖がついてきた。文献考証癖なんてなかったのに。これはまちがいなく人間をダメにするね。

まあしかし、こういうゲーテの言葉なんかが「カントは一番偉い哲学者」っていう通念を促進したんだろうなあ。そりゃゲーテが一番だって褒めてたらやっぱり信用しちゃうよな。旧制高校生とか「ギヨエテはカントが一番の哲学者だと褒めているらしい」「よしそれでは我輩はカントを」「では拙は対抗してシヨウペンハルエルを」とかだったんだろうなあ。なんかいいなあ。そしてストーム。ゲーテが「ヒュームが一番」と言ってたら世の中ぜんぜん違っていただろう。まあルソーが一番と言われるよりはずっとよかったか。

 

カント先生とおはなしを続けてみる

カント先生おはようございます。

婦人の徳は、美しい徳である。男性の徳は、高貴な徳たるべきである。女性は悪を避けるであろうが、その理由は、それが不正だからではなく、醜いからである。そして有徳な行為が、彼らにあっては、道徳的に美しい行為を意味する。当為もなく、しなければならぬということもなく、負い目もない。婦人は、一切の命令、一切の口やかましい強制に堪えられない。彼らが何かを為すのは、ただそれらが彼らに気に入っているからである。・・・私は、美しい性が原則をよくし得るとはほとんど信じない。私はそれによって、女性を侮辱することにならぬように望む。なぜなら、原則は男性にあっても極度に稀だからである。その代わりに摂理は、女性の胸中に親切で好意的な感覚、礼儀正しさに対する繊細な感情、好ましい魂を与えた。 (p.41)

ちょっと書き方が極端な気がしますが、言っていることは実は「女性は原理原則よりも感情やケアを重視する」で、差異派やケア派のフェミニストとあんまり変わらんような。ギリガンやノディングズを読んでいるのかと思いました。先生のこの論文は非常に有名なので(私は恥ずかしながら初読なのですが)、ギリガンもノディングズも(コールバーグでさえ)アイディアの源として読んでいるんでしょうなあ。

まあ書き方が(優秀な)男性と比べてこうだって形になってるので「劣等観」と呼ばれてもしょうがないのか。上のように読めるとすれば、ギリギリで許せそうな気もします。

続けてカント先生は、女性と男性に求められるさまざまな道徳的徳目が美とか崇高とかとどう関係しているのかをいろいろ観察。手法としては、ルソーよりヒュームの影響を感じる。おもしろかったのは次。

われわれの意図は、感覚について判断することであるから、女性の姿と容貌とが男性に与える印象の差異を、できれば理解することは不愉快ではないだろう。この魅惑全体は、結局、性衝動に上に広がっている。自然はその偉大な意図を追求する、そして、それに仲間入りするすべての優雅さは、それらがどんなに遠くそれらから離れているように見えようと、縁飾にすぎず、それらの魅力を結局はまさに同一の源泉から借りて来ているのである。

ふうむ、男性が女性に感じる美はすべて性欲にもとづいているというわけですか。 カミーユ・パーリア?が喜びそうな文章ですね1)そういやパーリアは哲学ってのはドイツの理屈っぽいマッチョなものが一番、はあはあ、とかってこと書いてたな。女子にいる「メガネフェチ」とかもそういう傾向があるような。もし仮に女子が哲学や幾何学を好まなくても、哲学青年や哲学者くずれ中年や老成哲人やハードサイエンティストや剛腕外科医を好む女子はけっこういそうだ。 。でもこれだと女性が女性に対して感じる美とかどうなるのかな?ラファエル前派の女性画を見て感じる美の内容が男性と女性で違うとかそういうことってあるのかな。

上品な書き方をしていますが、この「女性の姿と容貌とが男性に与える印象の差異」は美人かそうでないか、ナイスバディーかそうでないか、表情がどうか、とかいうことですよね。女の品定めの基準を議論してらっしゃいますね。そういうのが「カントはセクシストだ」と言われちゃう理由なわけですねえ。まあ実際そうだからしょうがないかもしれませんね。でも劣等観・劣等視ってのとはちょっと違うような。

というのはカント先生は品定めの基準を考察しながらも、感情とか道徳性とかが女性の美に及ぼす影響について延々と議論していらっしゃるからなわけで、たんに「ナオンはオメンとパイオツがよくねーとな」「いやオレはツーケの方が重要だと思うね」「アシだよアシ」というわけではない。

断然かわいいというのではないから、はじめて見たときは特別な効果を及ぼさないような姿が、よりよく識り合って気に入りはじめるや否や、普通には、遥かに心をひきつけ、かつ耐えず美しくなりまさるように見える、ということがある。これに反して、一度に現われるかわいい外観は、後にだんだん冷淡に見られるようになる。これはどうしてかと言うと、恐らく道徳的魅力は、それが眼に見えるようになる場合により多く心を奪うものであり・・・それとは反対に、全く隠すところのないすべての好ましさは、そのそもの初めにその全効果を及ぼし尽した後、それ以後には、惚れこんだ思い過ぎを冷まし、それを次第に無関心にまでもって行く以上に、何もなし得ないのである。(p. 49)

「美人は三日で飽きる」とか、「女は気立て」とかそういうやつですか。なんかこういうモラリストとしてのカント先生は、わかりやすいけど通俗っちゃー通俗、陳腐っちゃー陳腐かもしれませんね。カント先生がこういうこと言ったからその後陳腐になった、ってわけではないですよね。でもまあ江戸時代(宝暦十四年)の文章だからしょうがないんでしょうか。吉宗死んだあとか。みんな『女大学』とか読まされてた時代だろうし。むしろこうして女の特性を褒めたたえて社交しようっていう時代なわけですなあ。マリー・アントワネットが10歳かそこら。ヨーロッパでは「女性的なもの」がその特性によってむしろ褒め称えられた時代でもあるんだろう。とかいう理解でよろしいですか、先生?

まあ現代日本の大学教員のなかにも、「女性を称賛・賛美」しているつもりで女性から非難されちゃったり嫌われちゃったり軽蔑されちゃったりしている人はけっこういるようですからね。でもそういう奴もどういうわけか一部からはかえってモテたりするんだ。許さん。女好きは女嫌いで、女嫌いは女好きだというかなんというか。むずかしいものです。

慎しやかにまた親密に社交に加わり、快活で理性的な仕方で歓談し、自分は参加しない若い人たちの楽しみを上品に引き立て、またすべてに心を配りながら、自分の周りの歓喜に満足と適意をあらわす老婦人は、相変わらず同年輩の男子よりも上品な人であり、また恐らく、別の意味においてではあるが、乙女よりもっと愛すべきであろう。ある老哲学者が、彼の恋情の対象について、優美が彼女の皺の中に宿り、そして私が彼女の萎びた口に接吻するとき、私の心は私の唇の上に浮かんでいるように思える、と言ったとき、彼がかこつけたプラトニック・ラヴは、たしかにいくらか神秘的すぎるであろう。しかしそのような自負は捨てられなくてはならない。

後の方はちょっと理解しにくいのですが2)どういうことなんかね。その老哲学者が言いたいのは、裏を返すと、「若い女に接吻するときは心は唇の上じゃなくてヘソの下に下っているような気がするけどね」とかそういうことかな。下品?それに対してカント先生は、「見栄はんのやめろよ、皺があってもチューしてるとき心はヘソ下だろうが。」ってつっこんでる?やっぱり下品?、まあ当時の(貴族・有産階級の)女性の理想像がわかりますね。『高慢と偏見』のベネット夫人も、彼女の人間的な限界のなかで、とりあえずそういう理想の夫人を目指してはいるわけですね。女性蔑視や劣等視かなあ。こういう理想の問題点を多くの人が理解できるようになるには、よくしらないけどウルストンクラフト先生やよくしらないけどメアリ・シェリー先生やよくしらないけどジェーン・オースティン先生あたりの登場が必要になるわけで、それはカント先生の活躍よりあとの話になるわけですね。私の直観では、ヨーロッパ人と現代人が本当につながるのは19世紀になってからなんですよね。19世紀人はわれわれと見分けがつかないのですが、18世紀の人はずいぶん遠い。

まあカント先生も交霊術で呼びだされてお疲れでしょうから、この件これでおしまい。カント先生ありがとうございました。

女性を戯画化しているといえばしてるような気もする。いまとなっては紋切り型。通俗。 陳腐3)というか、あまりに陳腐すぎるのが奇妙に思えるほど陳腐だ。ここまで読んで、なにも新しい発見がない。おかしすぎる。朝までは影響力がある文章だから、それによって陳腐になってしまったのかと思っていたのだが、よく考えれば、ふつう、こんな文章を読めば、カント先生の女性に対する性欲のありかたについてなんかの観念を持つことができるはずだ。どういうタイプが好きだとか、こういう経験をしたとか、そういう破片のようなものが。どうもキルケゴールとかと同じ陳腐さを感じる。表面的で奥行きがない。つまり、カントは現実の女性を見ず、通念や社交の対象としての女性の伝聞を広めているだけに感じる。これは「哲学」の伝統の問題じゃなくてカントの問題だろう。いや、問題じゃないかもしれないけど。。でも第4章の「国民的性格について」では各国人がそれぞれ同じようにステロタイプとして処理され戯画化されているからして、まあこの論文はそういう論文なのだということも理解しておいてほしいとか、『啓蒙とは何か』も読めとかいうようなことをカント先生が霊界への帰り際に述べていったような気がするけどそれは妄想。まあ哲学研究女子も「いやなこと書いてるから読まない」とか言わずに(言わないと思うけど)、一回読んでみるとおもしろいんじゃないだろうか。おそらくぜんぜんいやじゃないだろう。ていうかみんなふつうすでに読んでるのか。勉強不足でした。カント先生ごめんなさい。

 

 

References   [ + ]

1. そういやパーリアは哲学ってのはドイツの理屈っぽいマッチョなものが一番、はあはあ、とかってこと書いてたな。女子にいる「メガネフェチ」とかもそういう傾向があるような。もし仮に女子が哲学や幾何学を好まなくても、哲学青年や哲学者くずれ中年や老成哲人やハードサイエンティストや剛腕外科医を好む女子はけっこういそうだ。
2. どういうことなんかね。その老哲学者が言いたいのは、裏を返すと、「若い女に接吻するときは心は唇の上じゃなくてヘソの下に下っているような気がするけどね」とかそういうことかな。下品?それに対してカント先生は、「見栄はんのやめろよ、皺があってもチューしてるとき心はヘソ下だろうが。」ってつっこんでる?やっぱり下品?
3. というか、あまりに陳腐すぎるのが奇妙に思えるほど陳腐だ。ここまで読んで、なにも新しい発見がない。おかしすぎる。朝までは影響力がある文章だから、それによって陳腐になってしまったのかと思っていたのだが、よく考えれば、ふつう、こんな文章を読めば、カント先生の女性に対する性欲のありかたについてなんかの観念を持つことができるはずだ。どういうタイプが好きだとか、こういう経験をしたとか、そういう破片のようなものが。どうもキルケゴールとかと同じ陳腐さを感じる。表面的で奥行きがない。つまり、カントは現実の女性を見ず、通念や社交の対象としての女性の伝聞を広めているだけに感じる。これは「哲学」の伝統の問題じゃなくてカントの問題だろう。いや、問題じゃないかもしれないけど。

カント先生とおはなししてみよう

「『思想』2007年4月号に、水田珠枝さんによる論文「平塚らいてうの神秘主義(上)」が掲載されている。」 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070524/1179982514読んでしばらくの間なんかおかしいと思ってたら、そういうのは哲学だけでなく文学作品だってそうだということに気がついた。

『高慢と偏見』の性差別的偏見に満ち満ちた冒頭の文章を打倒せよ!

財産を持った独身の男は必ず妻を求めるものだということは普遍的に承認された真理である。

IT is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune must be in want of a wife.

in want ofは「必要だ」と訳すべきなのかな。「広く認められている真理によれば、独り者の男がそこそこの財産を手に入れたら次には妻を求めるものだ。」とか訳してもOKなのだろうか。

もちろんオースチンの観察力は上の一行をはるかに越えるものだし、オースチンをフェミニズム的観点から読むのが一時期はやったのは知ってるつもり。

まあしかし、フロベールだろうがモーパッサンだろうがトルストイだろうが紫式部だろうが、文学作品のほとんどは性差についての固定観念と人物評価のダブルスタンダードに満ちているわけだが、女性はそれを読むのが苦痛だとか、だから女性研究者は文学作品を研究しないということにはならん。ではなにが問題か。

上で話題にされている水田珠枝先生の力作(ほんとに力作)で使われているカント先生の『美と崇高の感情に関する考察』(1764)をちょっと読んでみよう。翻訳は水田先生もつかっている理想社のカント全集第3巻。翻訳は川戸好武先生。あれ、水田先生は川戸先生の名前を出してないぞ。あれ?っていうか他のカントの著作はしっかり引用して出典明示示しているのに、この『美と崇高』だけあいまいだ。理想社の第3巻であることさえ指示してない。本文中の『美と崇高』につけられている注は

(37) ここでカントが述べている女性観は、バークの『崇高と美の観念の起源』(1758年)とルソーの『エミール』(1762年)を援用している。後年、メアリ・ウルストンクラフトが(略)

あと、なんかカントの説明がアナクロニズムなんだよな。『純粋理性批判』や『実践理性批判』(それに『啓蒙とは何か』)の立場はずいぶんカント先生がずいぶん御年を召して哲学者として完成されたころの著作だけど、水田先生がカントが「女性に対する厳しい劣等観」をしめしていると指摘している中心である と思われる『美と崇高』は中年期のものだ 1)引用してる『理性と実践に関する俗言』と『人間学』も晩年のものだが、この引用されている文章の文脈の解釈については今回は扱えない。

うーん、まあいいか。

カント先生は1724年生まれだから40才ぐらいか。血気盛んなお年頃だな。ふつうモテたい盛り、運がよければモテ盛り。ルソー読んで感動したって有名な話は2年ぐらい前。その影響下で書かれたってことでいいんだろう。

一見した感じは特に狭い意味での哲学的省察が行なわれているってよりは、人間学的な観察をしているように思える。分析するってよりは列挙し対比するって方法。人間学者(人間通)としてのカントってのもけっこう魅力あるんだよな。『モラリストとしてのカント〈1〉』って本もあったような。

哲学者としてよりも一人の観察者としての眼で眺めたい。(p. 11)

ははあ、カント先生自身もそこは自覚的なのですな。

崇高なものは感動させ、美しいものは興奮させる。充溢した崇高の感情の内にある人の気分は厳粛で、ときに呆然としており、また驚愕している。それに反して、活発な美の感情は、眼のうちに輝くような快活さによって、微笑の顔つきによって、そしてしばしば、あらわな陽気さに現われる。(p.13)

先生は美と崇高っていう当時注目されていた人間的な感動について なんかやろう 2)もっとはっきり言うと「すかしたこと言ってウケよう」 としていらっしゃるわけですな。

悟性は崇高であり、機智は美である。豪胆は崇高で偉大であり、詭計は卑小であるが美的である。・・・真実と正直は簡素で高貴、諧謔と好ましいお世辞は洗練されていて美しい。・・・(p.16)

「詭計」の原語調べなきゃ。

問題の箇所は「第三章 両性の相互関係における崇高と美の区別について」。上のような崇高と美をそれぞれ男性的・女性的なものの特徴だとかそういうふうに話をもっていきたいのだろう。

さて、この箇所でカント先生が、水田先生が紹介しているように

女性の性格は劣等であり、しかも女性はその状態から脱却してはならないという。彼は、女性が学問をすることに反対し、女性の哲学は理屈をこねることではなく感じることであるといい、当時の女学者を取り上げて、骨の折れる勉学は女性固有の長所を根絶させてしまうと非難する。(水田, p. 16-17)

てなことを主張しているかどうか。まあ近いことは言ってる、ってのが正しい読みだろう。

婦人を美しい性という名のもとに理解した人は、・・・恐らく彼自身が信じた以上にうまく言いあてたのである。・・・女性の心の性格の中には、女性を男性からはっきり区別し、また彼らを美的なものの徴表によって見分けをつけることに、主として帰着する固有の特色がある。(p. 37)

先生、先生は、男性と女性の間には容姿や表情の他にも気質として差があると言おうとしているわけですね。

他方、われわれ男性は、尊称をしりぞけ、それを受けるよりはむしろ分かち与えることが、もし高貴な性情からも要求されないとしたら、高貴な性という命名を要求できるだろう。

先生、仮定の部分の意味わかりません。難しいです。誤訳かなにかでしょうか?

しかしこのように言うのは、婦人が高貴な特性を欠いているとか、男性が美を全く欠如していなくてはならぬ、という意味ではなく、

先生、原文見てないのでわかりませんが、それはSollenかMüssenなのでしょうか。義務を表しているのか様相を表してるのか。川戸先生は義務と解釈してますね。いや、原文見ます。

むしろ、おのおのの生が両者を合わせもっているが、婦人については
他のすべての長所が、本来の関係点である美の正確を高めるために
のみ統合されるべきであり、それに反して、男性的特性の中では、崇高が男性という種の標識としてはっきり目立つことが期待される。

先生、「関係点」がよくわからんです。でもまあかなり性別固定的ですなあ。「女は美のため、男は崇高のために生きろ」、ってことだと解釈してよろしいでしょうか。

先生、http://www.ikp.uni-bonn.de/kant/aa02/205.html を発見しました! 第三章は あたりからです。便利な時代になったものです。でも私はドイツ語読めないの忘れてました! これはたいへんそうです。ゆっくり読みます!

これら二つの類についてのすべての判断は、称賛も非難も、この点に関係づけられねばならず、すべての教育と指導とは、このことを念頭におかなくてはならない。自然が人間の二つの類につけようとした魅力ある区別を、見分け難くしようとしないかぎり、一方または他方の道徳的完全性を促進しようとする努力も同様である。

原文ではこれで一文ですか。たいへんすぎます。教育とかも男女の性差をよく考えておこなえ、男と女では目指すところも違うぞ、ってことでしょうか。

なぜなら、ここでは、眼前に人間をおいていることを思い浮べるだけでは十分ではなく、同時に、これらの人間が同一種類ではないこを、看過してはならないからである。(p.38)

男と女は別種のものだ、ってことですかね。

その次の一段落は男女が子どものころの発達においてすでに違いがあるってことの観察。たとえば女子はお化粧したりするのを子どものころから好むけど、男の子は粗野とか。全体として女性は繊細な感受性や共感の能力をもっていて素敵だ、とかそういう感じ。まあここはあんまり問題なさそう。次あたりからかなりやばい表現が出てくる。

美しい性は、男性と同様に悟性を有しているが、ただそれは美しい悟性である。われわれ男性の悟性は、深い悟性であるべきで、それは崇高と同じことを意味する表現である。

先生、やっぱりこの「べし sollen」がどっから来ているのかよくわからんですよ。さっきちょっと書いたんですが、それは「もし汝がモテることを望むのであれば」という 条件のついた、仮言命法の一種、いわゆる「怜悧の命法」 3)うーん、「合理性」についての規範ぐらいか。 の一例なのではないでしょうか。このころそういう区別ついてましたか?

すべての行為の美には、それらが軽快さをそれ自身に示し、骨の折れる努力なしに行なわれるように見えることが必要である。

先生、これはわかります。努力のあとをみせないのが「すてき」ってことですよね。

それに反して、努力と克服された困難とは、賛嘆を呼び起こして、崇高に属する。

ふむ、もたもたじっくり着実にってのは、かんまりかっこよくないけど、「すげーなー」と思われる。

骨の折れる勉学おもしくは苦しい思索は、たとえそれがその点で婦人を高めはしても、女性に特有な長所を根絶し、またそれらのことが、稀少性のゆえに冷静な賛嘆の対象となることはあるが、それらは同時に女性がそれによって男性に対し大威力を振るう魅力を弱めるであろう。

「女性に特有な長所を根絶」は vertilgen die Vorzüge, die ihrem Geschlechte eigentümlich sind ですか。うーん、まあ女性が男性に比較してもっている優越性ってな感じか。「男と違うことで魅力をもっているのに、男と同じことをするとそれをなくしてしまう」とかですか。うーん。どうかな。

女は「すてき」なレディーであるべきで、男は「すげー」やつであるべきなんですね。だからあんまり女が努力しているところを見せてはいかん、ということかな。カント先生、先生の御姉妹はあんまり教養を身につけることができなかった労働者だったという話を聞いたことがあります。先生の考えているレディー(Frauenzimmer)は、なんというか、女性一般というよりは、先生のサロンに出入りしている上流の方々を指しているような気がします。もちろん根拠ないですけど。

女が勉学に励むと、うまくいけば大学研究室で希少価値があってもてるけど、へたするとチヤホヤしてもらえなくなる、ってことですか。うーん。

先生、なんだかこの本は「男と女のためのモテるための手引書」のような気がしてきました。いやそんなはずはないですね。

ダシェ夫人のように、ギリシア語で一杯の頭をもっている婦人や、シャートレ候爵夫人のように、力学に関して根本的な論争を行なう婦人は、その上に、口髭を貯えるとよい。なぜなら、口髭は、彼女らが獲ようと勤めている深遠の顔つきを、恐らくもっと見分け易く現わすだろうから。

先生!これはちょっとどうでしょうか。まあ軽口なのはわかるんですけどね。現代日本で大学教授がこれやったら、まちがいなくセクハラ委員会にかけられます。口髭は一部の女性に非常に魅力となるという話を聞きましたが、ほんとですか? ダーウィン先生はあのアゴヒゲがなんか深い知性を表しているような気がすよね。カント先生も口髭生やしたらいいのに。なぜ生やさなかったんでしょう?なんかこの一文、先生のサロンの女性を相手に書かれてるような気がするんですが、どうですか?

美しい悟性は、高尚な感情と親近関係にある一切をその対象に選び、有益ではあるが無味乾燥な抽象的思弁や知識を、勤勉であり、徹底的で深い悟性にまかせる。したがって、婦人は幾何学を学ばないだろう。

これは「べし」がはいってきてないのでまだ受け入れやすいかもしれませんね。いっぱんに女性(研究者)はあんまり幾何学や物理学や一部の哲学のように抽象度の高い学問は好まず、さまざまな文学や心理学などの具体的で人間の感情を対象とした学問を選ぶだろう、ぐらいですか。うーん。まあ幾何学や哲学を学んじゃダメ、ってことを言おうとしているんではないですね?

女性は歴史においては戦争で、地誌においては要塞で、頭を一杯にすることはないであろう。なぜなら、麝香の香りをさせようとするのが男子に似つかわしくないのと同様に、火薬の匂いをさせようとすることは女性にふさわしくないからである。

女性は一般に戦争を好まない平和な人びとだってことですね。男の子は子どものころから刀や鉄砲が好きなのにね。これは貶しているのかどうかわかんですな。褒めたり貶したりしてとにかく女性に関心があり理解があるところを見せようとしてますね。そういやさっき飛ばしましたが、

読者が、願わくば女性の特性に平行するかぎりでの、男性の特性の枚挙を私に免じて下さって、両者をただ対照させて考察するだけで満足していただきたい。(p.38)

って書いてましたね。これなんかあやしいんです。つまり、女性の特徴の方に興味があるってことですよね。

美しい性をこの誤った趣味へ誘惑しようとしたのは、男子の陰険な狡智であるように思われる。

「この」が「どの」かわからんのですが、数学や物理学や一部の哲学ですよね。こっから俄然おもしろくなります。

なぜなら、女性の自然的魅力に関する自分たちの弱さをよく自覚し、また女性の茶目な一瞥が、最もむずかしい学校の問題より以上に、自分らを混乱させることを意識している男子は、婦人がこの趣味に陥るや否や、自分が断然有利にあるのを知り、かつまた、寛大な思いやりで、女性の虚栄心の弱点を助けてやるという、そうでなければ多分もたないであろう有利な立場にあるからである。

「カントくーん、物理のこの問題わかんないのー、得意でしょ、教えてー」とかそういう状況がカント先生にも起こった、ということでしょうか。定期試験前だけ突然もてるカント君。「(顔を赤くして)え、えと、え、もちろんお、教えるよ」とか。物理教えているうちになんだか自信がついてくるカント君。がんばれカント君。

婦人の偉大な学問の内容はむしろ人間であり、人間の中でも男である。婦人の哲学は、理屈をこねることではなくて感ずることである。

さっきの水田先生の紹介にあったところですね。重要なところなので原文も見ると、

Der Inhalt der großen Wissenschaft des Frauenzimmers ist vielmehr der Mensch und unter den Menschen der Mann. Ihre Weltweisheit ist nicht Vernünfteln, sondern Empfinden.

「哲学」と訳されているのは、学問としての哲学Philosophieではなくて、Weltweisheit 世界知、世間知、世界観ですね。これは水田先生の論文を最初に読んだときから違和感があったのですが、これで納得しました。「理屈をこねる」はVernünftelnかあ。これたしかに「理屈をこねる」だけど、「理性を使う」「推論の能力を使う」と訳してもOKなのかな。Mann (男)も「夫」という意味があるがどうなのか。カント先生ごめんなさい。その意図するところを十全に捉えていないかもしれません。定冠詞つきder Mannなので「(自分の)相手の男」という意味のような気もする。とにかく特定の一人なんじゃないだろうか。ドイツ語もっと勉強しておくべきでした。もっともこの一文だけ見れば、現代日本の女流作家なんかも同じようなことを書きそうな気もします。でもやっぱり原文は確かめてみるものですね。こういう小さな発見が私の心を豊かにします。ついでになんかもっと邪悪な喜びも与えてくれるような気がします。そういう目的のための単なる手段として使用してしまってカント先生ごめんなさい。でも時々は目的でもあるのです。

婦人の美的本性を発達させる機会を婦人に与えようとする際には、いつでもこの関係を念頭におかなくてはならない。

つかれてきました。またそのうち。カント先生ありがとうございました。

 

References   [ + ]

1. 引用してる『理性と実践に関する俗言』と『人間学』も晩年のものだが、この引用されている文章の文脈の解釈については今回は扱えない。
2. もっとはっきり言うと「すかしたこと言ってウケよう」
3. うーん、「合理性」についての規範ぐらいか。