不如意ブログ

チラシの裏:小宮青識論争観戦記

  • 他でけっこう長めの文章書いてしまったけど、要点だけ。
  • この論争がどういう文脈で生じているのかというのは難しい。問題のやりとりの前に、男女の性的行動の評価についての性差別についていろんな人がかなり長い間つぶやきをしていて、今となってはなにが文脈なのか判断できない。それぞれのツイッタラーが見ているツイートもそれぞれだろうし。だから文脈はそれぞれ。ただし、直接の問題になった瀬戸内快男児先生とjiji先生のやりとりのさらに直接のおおもとのsaebou先生の主張は王道セックスリバタリアンフェミニズムで問題がない。
  • それに対する瀬戸内快男児先生のツイートは「この人どうせ海外行ってなくて開き直りで反論してるだけでしょうが、日本男児として外国人の友人から「日本女はなぜに簡単にやらしてくれるのか?」と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。/ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
  • 一方、jiji先生のは「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。」「「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの」なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで「貞操観念をしっかり持ちましょう~」とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
  • 快男児先生のツイートの「日本人女は」がjiji先生のツイートでは「あなたの国の女性は」になっている。ここでちょっと引用のずれがあるのはアカデミックな人間は気づくべきだと思う。青識先生も小宮先生も平気でその語「あなたの国〜」や「貞操観念」という、友人の発言にはない言葉を使っていて、ここらへんは感心しない。「友人」の発言の意味みたいなものと、快男児先生のツイート全体の意図みたいなものは区別するべきだ。jiji先生と小宮先生は友人の発言が快男児先生に対する侮辱になっていると指摘するが、それは本当だろうか。
  • そもそも快男児先生の友人の外国人が本当に存在しているのか、本当にそういった会話があったのかは判断しがたい。「もし友人〜とたずねられたら困る」ぐらいの例かもしれない。その場合には、「侮辱されているのだ」と指摘するのは微妙な発言になる。もし〜と真顔で、つまり真剣にたずねられたらそれだけで当人に対する侮辱になるとすれば、人、あるいは男性は、関係者女性の性的行動の傾向について質問されただけで侮辱になると解釈せざるをえない。「真顔で」と付け加えることによって、快男児先生は冗談や侮辱であることを排除しているわけよね。それくらいは気をつかっている
  • 一方、仮にそうした会話が実際にあったとすれば、それは実際には外国語でおこなわれたものであるだろうし、その場合には訳語や表現の選択に快男児先生の(性差別的な?)解釈が入るのは当然。外国語でなくとも、会話のなかで他人の発言を引用するというのは本人の解釈がはいるものだ。
  • だからその快男児先生の友人がどういうことを言ったのか、どういう意図で言ったのか、(社会学者風にいえば)この質問行為の「意味」をどう理解するべきか、ということを判断するのはむずかしく、それだけで解釈するのはほとんど無理、というかあんまり意味がないと見るのがまともな判断だと思う。1)【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
  • そういうのは社会学や会話分析やエスノメソドロジーの専門家だけでなく、なにかの研究者ならまっさきに意識することだろうと思う。それを意図的に指摘しないのなら専門家として誠実ではないと判断されてもしょうがないかもしれず、またそれを意識しなかったのなら専門家としての資格に問題があるかもしれない。このままだと社会学者信頼ポイントがマイナスされてなってしまうし、そして大学関係の人間が誰も指摘しないのなら大学系ツッタラー全員の信頼ポイントがマイナスされてしまうくらい。だから私これ書かないとならない。
  • それはさておき、「なぜ日本の女性は性的に活発なのか」程度のことを「真顔で」質問するという状況は、性差別と関係なくあるかもしれず、それが性差別的な発言かどうかは判断が難しいと思われる。
  • さて、jiji先生の、快男児先生の「海外には貞操観念をしっかりもって行きましょう」という発言がポイントをはずしているという指摘はおそらく的確だろうが、友人の発言は快男児先生に対する侮辱であるという解釈は、そういう次第でかなり一方的な推論であるように見える。
  • 先にも指摘したように、これが侮辱であるためには、人は(あるいは「男性は」)その人に関係する女性が性的に活発だという含みのことを言われたらすべて侮辱されていると解釈するべきだ、ぐらいの判断が裏にないと正当化されないが、これを正当化するのはむずかしい。少なくともセックスリバタリアン的な傾向のフェミニズムとは相性が悪いのは意識するべきだろう。
  • 誰かを尻軽(slutty)であると指摘することはふつう悪口であり、これはフェミニズムとは関係なく悪口である。王道フェミニズムの立場からは、誰かが誰かを尻軽だと判断しても、それはなんら悪口とならないと主張しなければならないだろうと思う(もちろんここはいろいろ議論がありえるところ)。でもとりあえず誰かを尻軽であるとする悪口は、フェミニズムの観点を抜いても悪口でありえるし、そっちの悪口である場合の方が可能性濃厚だと思う2)ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。
  • さらに、一般に男性となんらかの関係のある女性の性的な活動が活発であると指摘することは、女性の名誉を傷つけることであり、また、同時に彼女と関係する男性の名誉も傷つける、という考え方は保守的な「名誉の文化」では非常に重要な発想だろうと思うけど、これはフェミニズムとはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 男性は女性のナイトやボディーガードであるべきであり、女性が(性的な)名誉を傷つけられたと感じたら戦うべきだ、という考え方は現在も非常につよく、よく北米の映画とかで出てくるシーンであるように思うが、これてどうなのよ。「君、私のレイディーに対する侮辱は私自身に対する侮辱とみなしますよ」「まだ侮辱するか!ならば決闘だ!」みたいな。高度に洗練されたナイトは男フェミニストと区別がつかない、みたいなわけではないと思うしその逆もないと思う。
  • エマワトソン先生のHeForShe演説では、フェミニズムは女性だけでなく男性をもその性役割規範から解放する、ってなことが主張されていたわけなので、男は女性のナイトであるべきだという発想とはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 小宮先生が多重質問の詭弁だと指摘したツイートは、匿名化されていて事実に対応しているかどうかわからず、詭弁かどうか判断しにくい。「もしAがBしたとしたら、Pですか」のようなタイプのものは必ずしも多重質問ではない。
  • 詭弁や誤謬推理を見抜けるようになるのは大学教育で最も重要な課題で、それに敏感になることはとてもよいことなのだが、一般に、日常的な議論ではすべての前提が明示されたり言葉が明示的に定義されるわけではないので、ある主張が(非形式論理的な)詭弁・誤謬推理かどうかというのは見た目の形式だけでは判断がつかない場合が多い。したがって他人の発言を詭弁呼ばわりするのはかなり慎重になるべきだと思う。
  • というわけで私は青識先生のほとんどの主張に説得力を感じ、小宮先生の指摘には疑問を感じることが多かった。小宮先生は明示的に自分の社会学者としての権威を使っているのでちょっと厳しめに採点せざるをえない。これはしょうがないと思う。「小宮先生はすばらしく論理的で」のような評価も目についたけど、問題は多かったと思う。
  • しかし、小宮先生が最後の方でまとめの長文を書いて、論点(と難点)をわかりやすくしてくれたのは偉い。こういうのはリスペクトせざるをえない。
  • 一方、論戦の最後の方で、青識先生が話をネットフェミに関係する事件一般に広げて、そうしたネットフェミはオタクに代表される人がやってることを好意的に解釈していないのだから小宮先生の言ってることはおかしい、みたいな議論にしてしまったのはちょっとがっかり。これはロジックというよりはレトリックというか、オルグ学の世界。他のフェミニストの活動そのものに小宮先生が責任負ってるわけじゃないかならねえ。まあそこらへんは残念だったけど、青識先生は啓蒙政治運動家フィロゾーフだからいいのかな。

(おまけ) https://paper.dropbox.com/doc/–AMoWoz6PteveiUCxRccp0s_RAQ-VL1qQgTsubomPhKbvbjXz

References[ + ]

1. 【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
2. ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。

最近アリストパネス先生を見直しました

もう一つ、『饗宴』で一番有名なアリストパネス先生の人間球体論も久しぶりに読んだんですが、これ私ちょっと読みそこねてた部分があったのです。

さて、諸君は、はじめに、人間の本性と、かつて人間にかかわりのあった事件とを学ばなければならない。そのむかし人間の本然の姿は、こんにち見られるものとは同じからぬ、それとは異なったものなのであった。第一に、人間は三種類あった。すなわち、こんにちの男女二種類のみではなくて、第三の者がその上の存在していたのだ。それは男女両性を合わせもつ者で、名前だけは現在も残っているが、その者自体はすでに消滅してしまっている。つまり「アンドロギュノス(男女)」というのが一種をなしていて、容姿、名前とも男女を合わせもっていた。……

まあここらへんの出だしは有名ですね。

第二に、この三種類の人間の容姿は、すべて全体として球形で、まわりをぐるりと背中と横腹がとり巻いていた。また手は四本、足も手と同じ数だけをもち、顔は二つ、円筒形の首の上にのっかっていたが、両方ともすべての点で同じようにできていた。さらに、頭を一つ、たがいに反対に向いている二つの顔の上にいただき、耳は四つ、隠所は二つ、その他すべて、いま伸べたことから想像されるようなぐあいになっていた。

そして動くときは、こんにちと同じように、直立した姿勢で、望みどおりの方向に進んだが、突っ走ろうとするときには、とんぼ返りの踊り手たちが車輪のように足を回転させながら、ぐるっ、ぐるっと、とんぼ返りをうって行くように、かつては八本あった手足を支えに使って、ぐるっ、ぐるっと急速度に回転しながら進んだのである。

かっこいい、かなあ。まあ滑稽でおかしい。

……強さや腕力にかけても彼らは剛の者で、その心もまた、驕慢であった。そして神々に刃向かうことになった。……そこでゼウスをはじめ、ほかの神々は、彼らをどう処置したものか、寄り寄り相談したが、結論がでない。かつて巨人族になしたように、雷光の一撃で人間の種族を殲滅してしまったら、人間からの敬神の実も神々のための神殿もなくなってしまうだろうから、これはできぬ相談である。そうかと言って、このまま傍若無人のふるまいをさせておくことも許されぬことだ。そこでゼウスは、さんざん頭をしぼって考えたあげく、こう言われた、「わしはどうやら、一つの思案を得たようだよ。それによって人間どもは、このまま存続しながらいまよりも弱体化して、わがままな所業はしなくなるだろうね。その思案とは、こうだ。このたびの処置としては、彼ら一人一人を二つに切り離そうと思う。そうすれば、いまよりも弱くなるだろうし、それに数もますことであるから、われわれにとって、いまよりも有益なものになりもしよう。そして彼らは、二本足でまっすぐ立って歩くことになるだろう。……」

こういってゼウスは、人間どもを二つに切っていった。……そして切るはしから、アポロンに命じて、その顔を半分になった首とを切り口のほうに向け換えさせた。それは、人間が自分の切り口を見ることによって、もっとおとなしくなるように望まれたからである。しかし他のところは、治療するようにとの命令であった。

某描く

ちょっと省略して。

かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。彼らは、たがいに相手をかき抱き、からみあって、一心同体になることを熱望し、たがいに離れては何一つする気がしない。だから飢えのために、いや、総じて無為のうちに明け暮れるために、つぎつぎと死んでいった。

うん、まあ哀れなものです。

そして、一方の半身が死に、その相手が残されてしまうと、残された者はさらに別の者を探して、からみついた。そのさい、あのゼウスの処罰よりもまえから女性であった者の半身──つまり、ぼくらがいま女性と呼んでいる者であれ、あるいはかつての男性の半身であれ、相手を選ぶことはなかった。このようにして彼らは、滅んでいった。

私がちゃんと読めてなかったのはこの「相手を選ぶことがなかった」の部分なのです。半分に切られた球体たちは、自分の半身を探してだきついたんですよ、ていうのはまではこっけいだけどロマンチックで、そこまでがよく使われる部分なんですよね。でも人間は神様とちがって死ななければならないから、いずれは半身も死んじゃう。そのあと半身はどうしたか?

どうしたって半分じゃ寂しいから、みさかいなく誰かにからみつかざるをえないのです。本当の半身じゃなくても、それにすこしは似たところもあるから。それ以前のパウサニアス先生の演説では、世俗的なエロス、下賎なエロスは心じゃなくて体だけを求めるのだ、とか言われてるわけですが、アリストパネス先生は「しょうがねーじゃん、半身はもう見つからんのだし」ってな話をしているわけですよね。相手選ぶのはたしかに高級なことだろうけど、もう我々にはそれは望むことができないのだ、みたいなパウサニアスに対する反駁がアリストパネス先生の演説には含まれているわけです。

そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考えだし、彼らの隠所を前に移した。それまでは後ろ側にあったので、彼らは子を生むにも、相互の結合の力によらず、蝉のように地中に生みつけていただからだ。さればゼウスは人間どもの隠所をこんにちのごとく前に移し、それによって、たがいの相手の体内で、つまり、男性によって女性の体内で生殖をおこなわせたのだ。このばあいのゼウスの狙いは、つぎのようなしだいである。つまり、彼らがからみあうさい、それが男性と女性の出会いであったら、男性と女性は子どもを生み、かくして、人間の種族はつぎつぎにつくりだされていくだろう。また、たとえ男性同士の出会いであっても、いっしょになったために充足感だけは生じ、その結果、彼らの気持ちはひとまずおさまって、ほかのいろいろな仕事に向かい、広く生活のことに気を配るようになる、というわけである。

これは最初はおかしく、もの悲しい話なわけですわ。

かようなわけで、相互に対する恋(エロス)は、このような太古から、人々のうちに植え付けられているのである。それは、人間をかつての本然の姿へと結合する者であり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとする者なのである。

でも、われわれの多くは、よくわからない半身にさかいなくからみつかねばならないわけです。それが下品だったらい本来的じゃなかったら、んじゃ本然の姿に戻るにはどうしたらいいですかね、っていうふうに話が進むわけよね。プラトン先生は天才ですわ。哲学者としてはイデア論とかわけわからん話したり、超統制二国家を夢見たりして二流なんだから、詩人・劇作家になればよかったのに。そっちだったら超一流だわ。

『饗宴』とかなんかお上品な解説ばっかりで、それが扱ってる肉欲とかどうしよもなさみたいなのは、少なくとも国内ではあんまり解説されないんですが、私が読むともっとバレ話だし、もっと切実な実感に裏づけられている感じがあるんですよね。上のアリストパネス先生の話は、本文を隠してごくごくロマンチックな話にされたり、あるいは滑稽一方の話にされたりするけど、そうじゃなくておもしろ悲しい話だし、そして『饗宴』全体の有機的なつながりのなかでやはり重要な地位を占めている。あの登場人物たちは別々の話をしているわけじゃなく、前の人の話をひきついで本物の弁証法的な発展をみんなで試みているんですわ。最高。みんなもぜひ読んでほしい。

そして、私の解釈では、『饗宴』全体が、さっきのパウサニアス先生や、このアリストパネス先生の話にあらわれる、性欲のみさかいのなさ、尻軽さ、相手かまわずという一面を考えているんですね。実はソクラテスの演説さえそれを扱っていて、それを推奨さえしているわけですが、それは自分で読んでください。あそこ(ディオティマ先生のお説教)は読みにくいんですわ。

パウサニアス先生は男は尻軽にならないようにいましめています

プラトン先生の『饗宴』の話はどうもこのブログではあんまりしてなかったみたいなんですが、数日前に市民の方向けの「生涯学習講座」みたいなので話をしたので、そのときに思いついたことなど。人前で話をするとそのたびに発見があるものです。ついでに、最近「おまえの国(日本)の女の子はなぜすぐにセックスさせてくれるのだ」とかって言われたとか言われないとかの話を切っかけにツイッタがもりあがってるようで、そこらへんもおもしろいなあ、とか。

前にも書いたように、古代ギリシア人にとって性愛というのは危険なものでした。情念というのはおそろしいものです。

でも、恋愛やセックスにはよいとろもあるはずで、そこらへんをどう説明するか、っていうのが『饗宴』や『パイドロス』のポイントですわ。『饗宴』ではいろんな人が入れかわりたちかわり話をするわけですが、そのなかでパウサニアス先生というひとが話をしている部分。(下の『饗宴』の訳は、事情により2、3種類まじっちゃってて、この部分が誰の訳かわからなくなってしまててすみませんすみません。そのうち直します。)

美とセックスの神アプロディーテーが愛の神エロースと切り離しがたいことは、僕たちの皆知っていることだ。だから、かりにアプロディーテーが一人ならば、エロースも一人となるであろうが、しかし、じっさいはアプロディーテーは二人である。したがって当然エロースも二人となるわけだ。……というのも、少なくとも一方のアプロディーテーは、齢も高く、母はなく、天(ウラノス)を父とする娘、したがって、その方たちを僕たちは天の娘(ウーラニアー)という名で呼んでいる。これに対し、より若いほうのアプロディーテーは、ゼウスの神とディーオーネーの間の娘で、したがってこの方を僕らは、地上的な(パンデーモス)女神と呼ぶ。そこで当然、エロースについても、一方地上的なアプロディーテーとともに事をなすエロースは、これを地上的なエロースと呼び、他方を天上的な愛の神と呼べば正しいわけだ。……

よい恋愛と悪い恋愛がある、ということを示すために、その原因のアプロディテさんやエロース君は実は二人ずついるのだ、っていうことにして話をするわけですね。アプロディテは美とセックスの行為そのもの、エロースは性欲に対応すると考えていっしょ。

さて、地上的なアプロディーテーより発するエロースは、文字どおり、至るところに転がっているもので、風の吹くまま気の向くまま、事も選ばずにやってのける。この愛は、とるに足らぬ人々の欲するものなのさ。つまり、この種のくだらぬ人びとは、第一に少年を愛すると同じように女性をも愛する。次に、その愛する者の魂より肉体を愛する。さらに、できるかぎり、知恵なき愚者を愛する。──以上のようにするというのも、彼らは、ただ愛の想いを遂げることだけに目をそそぎ、その行い方が美しいかどうかを、気にかけないからなのだ。したがって当然、彼らは、何ごとによらず手あたり次第に──善いこと、善くないことの見境もなく──行うということになるのだ。

低俗な方のエロースくんは低俗な人々の友達であって、その低俗なエロースは我々から見れば単なる肉欲であるわけっす。若い女でもショタでもよい。っていうか少年の方は完全にペドフィリアですね。とにかく白くてやわらくて毛が生えてないようなのがよいとかそういう感じなんでしょう。怒られが発生します。相手の頭も悪くてもかまわない。んでエッチなことをして満足することだけを求めるのです。これひどいっすよね。絶対怒られる。市民講座っていうか生涯学習講座でこんな女性差別的な話をしていいいのか!ってくらいで、「いやーこれ私の意見ちがいますよ、プラトンさんでもソクラテスさんでもないですよ、プラトンさんのお話の登場人物のパウサニアスさんていうおっさんの言うことですからね!」みたいにかなりお断りを入れないとやばい。

これに対し、今一方の愛は、天上的なアプロディーテーに発するものだが、このアプロディーテーは、まず第一に女性には関係せず、ただ男性だけに関係している。──次にそのアプロディーテーは、より齢も高く、激情の放縦からは遠い。かかるアプロディーテーの性質のゆえに、このアプロディーテーにつながる愛の息吹をうけたものは、生れつきより強きもの、より知性ゆたかなる者を愛して、男性に愛を向けるのである。けだし彼らは、少年たちが、すでにものの道理をわきまえはじめる頃、──すなわち、まずは髭も生えだす頃になって、初めて少年たちに愛をそそぐ。……

偉いアプロディテさんとそのおつきのエロース君はもっと高潔だというのです。低俗エロスが弱いもの、やわらかいもの、頭悪いもの、意志が弱いものが好きなのに対し、高潔エロスは強いもの、ガチムチ、知的なもの、勇敢なものが好きなのです。女ではなく男だ!そしてきれいな男ではなくガチ男だ!

三島由紀夫先生の仮面の告白をあれしますね。先生によれば、男同性愛な人は、最初はなよっとした少年とかが好きなものだが(これ「ウールニング」とか)、やはり大の男同士は、お互い知的にも肉体的にもガチっとしたのがいい、って主張するようになったとか。老作家と美少年の恋愛とかていうのはケレンであって、そういうのはもう「卒業した」とかって話は有名のようです。

んでパウサニアス先生の話に戻ると、まあ理想的なアプロディテとエロースはそういうわけで、心身ともに強壮な男と若い少年の関係なわけですが、ここで、当時のアテナイのその界隈では、一定の約束事があったわけです。当時の男性同性愛は、対等・対称的ではなく、やはり上下があり非対称だったわけです。はやいはなしが「攻め」(というか「愛する者」エラステース)と「受け」(「愛される者」エローメノイ)という役割があった。当然年上が攻めで年下が受けです。(関心ある人のために書いておくと、いわゆるBL的なアナルセックスとかしてたのかどうかは議論があって、してなかったろうってのが主流のようです)
さて、なにをするにも美しい方法、よい方法と、醜い方法、まずい方法がある。

ところで「醜く」とは、つたない者の恋心をつたなく受け入れることであり、「美しく」というのは、有為な人材に対して立派な仕方でそうすることである。ここに「つたない者」とは、あの、低俗な恋をいだく連中、いってみれば、魂よりも肉体を恋する連中のことである。そしてこの連中は、永続性のないものを恋の対象にしているから、本人のほうも永続性に欠けるのである。つまり彼らは、恋の目当てとする相手の肉体の花が凋むやいなや、それまでの数々の言葉や約束ごとを踏みにじって「飛びさって行く」。

これがだめな恋愛、だめなセックスですね。肉欲が主だとこういうことになる。

それに反して、相手の人柄に──もちろん、それが立派なときのことであるが、それに恋をする者は、永続的なものと融合するわけであるから、一生を通じて変わらないのである。したがって、わが国のならわしは、これら恋を寄せる人々を十二分に吟味しようというのであって、相手よってはその想いを受け入れても、別の者からさし出された手は拒むという態度を、その恋人たちに求めているのである。

ここでパウサニアス先生がなにを言ってるのかというと、相手はちゃんとたしかめてからセックスしましょう、ということですわな。それに誰とでもセックスするのは低俗なことである。上品な人はあんまりたくさんの人とセックスしません!

こうした次第であるから、われわれの習わしとしては、恋をしている人々にはその恋人を追うようにすすめ、逆にその恋人たちには彼らから逃げることをすすめるのであって、こうすることによって当事者をたがいに競わせ、自分を恋する者は、いったい、いまの分類ではどちらに入るのか、また、恋されるほうはどうかということを、それぞれ吟味するわけである。

さらに、プロポーズされたりしてもかんたんにはなびきません。ナンパされて「ついてっちゃう」とかっていうのは下品です。

こうしたことが原因となって、まず第一に、「恋人が簡単に相手の手中におちいることは恥ずべきことである」というふうに定められている。これは時日のゆとりを生みだす意図から出たことであるが、けだし、時日こそは多くのものに対する立派な試金石からである。つぎに、金銭や政治力に動かされて相手の手中におちいることも恥ずべきこととされている。……どのみち、かかるものから高貴な愛情が生じたためしがないのは言うまでもなく、だいいち、それらはどれ一つとして、堅固永続的なものではないではないか。

てな話。さらに、プラトン先生の原文やいろんな解説からすると、当時のウケの方はセックスを自分から求めはならず、さらに快感を得えることも控えねばならず、それがうれしいとかそういうのを口に出したり態度でしめしたりするのもよくないことである、と。そういうのは性欲や快楽におぼれる人々のやることであって、まともな男がやることではないのだ!ってことらしいです。

まあ一番最初にもどって、けっきょく男性であれ女性であれ、簡単にセックスするのは性欲とか快楽とかに動かされていることだから恥ずかしいことであって、とくに簡単に「やらせて」しまうのは男であれ女であれまあ低俗である、という考え方は古来から非常に強力ですわね。男でナンパして毎日違う女性とセックスしてます、みたいなのは一部ではあこがれかもしれませんが、やっぱり上品な人からしたらどうだろうって話になりそうだし、また男性同性愛の人々の間でもカジュアルなセックスをどう考えるかっていうのはなかなかおもしろいネタです。カジュアルでプロミスキュアスにいろんな人とセックスしまくるのも楽しそうなんですが、でもそれってなんかおかしなところがあるような感じから逃れるのは難しいですね。いまハルワニ先生の「カジュアルセックス」の話を翻訳してもらいながらいろ考えてるところ。

70年ごろの国内のウーマンリブの「公衆便所からの脱出」とかて有名な文章あるんですが、今手元にないのでコメントできませんが、やはり公衆便所となったり、そう呼ばれたりするのはあれなことで、性の解放と、みさかいがないと見られてしまう恐れとのあいだの問題というのはまあいろいろい難しいところです。

ルース・マクリン「尊厳は役に立たない概念だ」


有名論説(論文というほどのものかどうか……)。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC300789/
まあたいした内容はないんだけど、日本の「尊厳」関係の論文でもけっこうよく名前は触れられているので訳出してみました。そんなに苦労して読むもんでもないけど、国内論文で見るとなんかすごい重要で難しいもののように思われてるふうがあるから、ネットに追いておく価値あるかもしれないと思ってのこと。著作権はもちろんクリアしてなくて、こういうのって苦しいです。


尊厳は役に立たない概念

尊厳の概念なんて、人々の尊重や自律の尊重でしかない。

人間の尊厳への訴えは、医療倫理の景色を染めている。医療研究や医療実践のなんらかの特徴が人間の尊厳を毀損するとか脅かすといった主張はあちこちで見られ、特に遺伝子技術や生殖技術の発展と結びつけられることが多い。しかしそうした論難は筋の通ったものだろうか? 医療活動の倫理学的分析にとって、尊厳は役に立つ概念だろうか? 主要な事例をよく調べてみると、尊厳への訴えは他のもっと正確な観念のあいまいな言いなおしであるか、あるいは、そのトピックを理解する上でなにもつけくわえることのなり単なるスローガンである。

おそらく、尊厳に言及したものでもっとも目立つものは、国際的な人権規約のたぐいだろう。たとえば国連の世界人権宣言である。ほんの少しの例外をのぞいて、こうした国際協定は、医療措置や研究に対して向けられたものではない。主要な例外は欧州協議会の「生物学と医学のヒトへの応用における人権と人間の尊厳の保護のための協約」である。これや他の「尊厳」文書では、医療倫理学の原則である「人々の対する敬意」によって含意されるものを越える意味は含まれてしないように見える。それは、自発的で情報を与えられた上での同意を取得することの必要、機密を保護することの要求、差別的・虐待的な実践を避ける必要、などである。

尊厳への言及が現われたのは1970年代の死のプロセスについての議論のなかで、特に負担の多い生命維持医療を避けたいという欲求を巡っての議論のなかでだった。しばしば、「尊厳とともに死ぬ権利」という言葉で表現されて、この議論の進展は米国では事前指示を与える患者の権利を公的に承認する法令へとつながった。そうした法令の最初のものは、カリフォルニア州自然死法1976であり、次のような文句ではじまる。「〔カリフォルニア州〕議会は、尊厳とプライバシーを患者が期待する権利を承認し、ここに宣言する。カリフォルニア州法は、成人が書面で、終末期において、医師が生命維持措置の使用を差し控え、また撤回することをあらかじめ書面で指示する権利を承認する。」この文脈では、尊厳は自律の尊重以上のなにものでもないように思われる。

終末期医療に関連してこうした曖昧な用法が現われることへのコメントとして、米国大統領委員会は次のように言う。「「尊厳をもった死」のようなフレーズは、非常に矛盾したしかたで用いられているため、もしその意味がクリアにされたとしても、絶望的なほどぼんやりしたものになってしまっている」。

死と関連した「尊厳」のまたまったく別の用法は、医学生が新しい遺体を使って処置(ふつうは挿管技術)をおこなう練習をするときにもちだされている。医療倫理学者は、こうした教育的努力が死者の尊厳を侵害していると非難する。しかし、このシチュエーションは自律の尊重とはまったくなんの関係もない。なぜならその対象はもはや人ではなく遺体だからである。遺体がこのような仕方で試用されていると知ったら死者の親類縁者がどのように感じるかということを懸念することはもっともなことかもしれない。しかし、そうした懸念は遺体の尊厳とは何の関係もないし、関係があるのは、生きている人々の願いの尊重だけである。

ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命された米国大統領生命倫理委員会、2002年7月に最初の報告書を提出した。そのタイトル『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員会の論議のなかで尊厳の概念が占める重要な地位をあらわしている。「尊厳」に対する多くの言及のうちの一つで、報告者は次のように述べている。「生まれる子どもはその親がかつてそうだったのとまったく同じようにこの世界を訪れる。それゆえ、尊厳と人間性の点で、親たちと同等なのだ」。このレポートは尊厳の分析を含まず、それが人々の尊重といった倫理的諸原則とどういう関係にあるのかについては触れていない。どういう場合に尊厳が侵害されているのかを知らせてくれる基準がなにもないので、この尊厳の概念は絶望的に曖昧である。ヒトの生殖的クローニングに反対する説得的な議論は多くあるにしても、尊厳の概念をその意味を明確にすることなしにもちだしても、それは単なるスローガンにすぎない。

スティーブン・ピンカー「「尊厳」の馬鹿らしさ」の抄訳

最近、事情でまた道徳的地位の問題いろいろ考えてます。まあ昔からことだし、なんとかしないと。「(人間の)尊厳」まわりはちょっとどうかっていう議論が多くて、毎日ものすごく苦しんでます。

ピンカー先生が2008年の大統領生命倫理委員会の「尊厳」報告書を痛烈に批判した一文は国内でも有名なんだけど、翻訳ないみたいだから、ネットのみんなで訳したんですわ。ちなみにDropbox Papersっていうのは複数人で文書いじるにに快適でおもしろいのでみんなも使ってみてください。

ピンカー先生の原文はこれ。https://newrepublic.com/article/64674/the-stupidity-dignit

大統領委員会の報告書本文はこれ。  https://bioethicsarchive.georgetown.edu/pcbe/reports/human_dignity/

ちなみにもっと有名なThe Moral Imperative for Bioethicsすでに翻訳がある

全部訳出したけど、それおおっぴらにブログに貼るわけにもいかんので、先生が「尊厳」dignityの概念を分析している部分だけね。

そこまでは生命倫理の大統領委員会がレオン・カス先生という悪によって運営されていて、そこではカトリックが〜みたいな陰謀論みたいな話をしている。まあそれもおもしろいところがあるんだけど、私はそこまでコミットできないから省略。

あらかじめ注意しておくと、尊厳っていう語は日本だけじゃなく米国でもヨーロッパでも議論されたり批判されたりしていて、さらに英語のdignityっていう言葉と、ドイツ語あたりで のWürdeって言葉は印象がちがうかもしれない。下でのピンカー先生のdignity概念批判と分析みたいなのは、英語のdignityの語感にもとづいたもので、これは王様の「威厳」みたいな「偉い」感じに近い。ドイツ語のWürdeとかはカント先生とかの影響もあって、「偉い」っていう意味とさらに人間はみんなすばらしいものだ、みたいなのがはいっているようです。だからこのピンカー先生の分析を読んで「人間の尊厳」って、おしりの方が割れる緑色の妊婦服みたいなの着せられて、お尻からファイバー入れられたりしたって別に毀損されるもんじゃないっしょ、みたいな印象をもつかもしれないけど、それはそういう事情による。ピンカー先生の「尊厳」論はちょっと狭いので日本国内ではすぐには使えないと思う。

でも尊厳は人間の知覚現象だ、みたいなのはさすが認知科学者って感じでおもしろいですわね。

このピンカー先生の論説を含む英語圏での「尊厳」をめぐるあれやこれやは、石田安実先生という方の「「 尊厳 」 概念は役に立たないか」っていう論文がよく書けてるので参照してみてください。


ピンカー「尊厳の馬鹿らしさ」抄訳

(前略)

公平のためにいっておけば、『尊厳』報告書の各論考の大部分はカトリックの教義に直接訴えるものではないし、当たり前だが議論の妥当性はその擁護者の動機や背後関係からは判断できない。 では、議論の中身だけで判断したとき、著者たちは尊厳の概念をどれくらいうまくわかりやすくしているだろうか?

彼ら自身が認める通り、それほどうまくいってはいない。 ほとんどすべての論考は、尊厳の概念が取り扱いにくく、あいまいであることを認めている。 じっさい、ほとんどすべての箇所ではっきりした矛盾が生じているのだ。 奴隷制度や退廃は道徳的に間違っている、なぜならそれらは誰かの尊厳を奪うからだと書いてある。 しかしまた、奴隷化や退廃を含む、およそ他人にできることはなんであれ当人の尊厳を奪うことができないとも書いてある。 尊厳は卓越性、努力、そして良心を反映しており、ほんの一握りのひとだけが努力と性格によって尊厳を獲得すると書いてある。それと同時に、どのような怠け者でも、邪悪なひとでも、精神的な疾患を抱えていても、誰もが完全に尊厳を持っているとも書いてある。 何人かの著者は「ジェノサイド」のカードを切って、20世紀に起きた恐怖は、ひとが尊厳を神聖不可侵なものとして保持するのをやめたときに起きたものだと主張する。 しかし、600万人のユダヤ人をガスで殺したり、ロシアの反体制派を収容所に送ったりするのがなぜ悪いのかをいうのに、「尊厳」という概念はまったく必要ない。

そうしたわけで、寄稿者の最善の努力にもかかわらず、尊厳の概念は混乱したままだ。 私の思うに、その理由は尊厳にはそれを生命倫理の基礎として用いる可能性を損なう三つの特徴を備えているからだ。

第一に、尊厳は相対的である。 尊厳の帰結が時間、場所、そして見る人によって根本的に異なっていると気づくために別に科学的または道徳的な相対主義者である必要はない。 昔はストッキングがチラッと見えるのはなにかショッキングなことだと見なされていた。 蒸し暑いに日に森の中をハイキングするのに格式ばった襟とウールの服を着ているビクトリア朝時代のひとたちの写真や、皿を持ち上げたり、子供と遊ぶのは尊厳にもとることだと考えるている数多くの社会のバラモンや家長たちを私たちは滑稽に感じる。 ヴェブレン[『有閑階級の理論』]は自らの王座を暖炉のそばから動かすのは王の尊厳にもとることだと考えていたフランス王について書いている。ある夜、家臣が姿を見せなかったせいで、その王は焼け死んでしまった。 カスはアイスクリームのコーンを舐めることが尊厳を損なう恥ずべきことだと思っている。 しかし私はそれは問題はないと思っている。

第二に、尊厳は代替可能である。 委員会とバチカンは、尊厳を神聖な価値として扱い、決して妥協しない姿勢をとっている。 じっさいには、私たちはみな、自発的に、そして繰り返し、人生のなかの他の善いことのために尊厳を放棄している。 小さな車から降りるのはみっともない undignified。 セックスをするのも尊厳を失うことだ。 警備員があなたのズボンの股に腕を突っ込むことができるようにベルトを外して両腕を広げるポーズをとるのは尊厳を失うことだ。 最も大事なのは、現代医学は侮蔑の試練の場だということだ。 この記事の読者の大半は、骨盤または直腸の検査を受けたことがあり、多くのひとはその上、大腸内視鏡検査の「喜び」も知っている。 私たちは、尊厳は人生、健康、および安全とトレードオフの関係にある些細な価値であると、自らの足(と身体の他の部分)を使って〔病院に行くことで〕何度も賛成投票をしている。

第三に、尊厳は有害でありうる。 『尊厳』の報告書に関するコメントで、Jean Bethke Elshtainは修辞的に、「人間の尊厳を否定したり、制限することでなにか良いことがあったためしはあっただろうか」と尋ねている。 この答えははっきりと「イエス」だ。 高いところから軍隊を閲兵する、肩章と勲章をつけた独裁者はみな、尊厳を誇張的に表すことを通じて尊敬を集めようとしている。 政治的、宗教的抑圧は、しばしば国家、指導者、信条の尊厳を守るために合理化されるのだ。サルマン・ラシュディへのファトワー[死刑宣告]、デンマークの風刺漫画に対する暴動、受け持ちのクラスがテディベアにムハンマドと名付けたことを理由に厳しい批判と私刑を求める群衆にさらされたスーダンの英国人教師のことを思い出してみればいい。そう、毛沢東主義下の中国の統一された国民服やタリバンのブルカのように、全体主義はしばしば尊厳について指導者が抱いている考え方を、人々に対して課すのである。

自由な社会では、国家が市民に対して尊厳について一つの考え方を押し付けることを禁じている。 民主主義の政府は、風刺家が指導者、制度、社会的な慣習を物笑いの種にすることを許している。 そして、そうした政府は「「よい人生」についてのなんらかの見解」や「自由をうまく使うことの尊厳」(どちらも委員会の報告書からの引用)を定義しようとするどんな権限も破棄するのである。 自由の代償は、私たち自身の見方では尊厳が失われているかもしれないような他人の行動に寛容であることである。私はブリトニー・スピアーズと「アメリカン・アイドル」がどこかに消えたら嬉しいが、アイスクリーム警察に逮捕されることを心配しなくて済むのであれば我慢する。 このトレードオフは、アメリカのDNAに非常にたくさんあって、文明に対するアメリカの大きな貢献の一つである。「我が国、其は汝のもの、麗しき自由の土地」[“My Country, ’Tis of Thee” の歌いだし]というわけだ。


それでは尊厳は役立たずの概念なのだろうか? 九分通りはそうだ。〔しかし〕この言葉は、限定的ではあっても、我々が道徳的に考慮すべき事柄に関するある要求を与えるような意味をひとつだけもっている。

尊厳は人間の知覚の現象である。世界からのある種のシグナルは、知覚する人の心のなかで、ある特質の帰属のトリガーとなる。図面での集中線が奥行きの知覚のてがかりになり、また二つの耳のあいだでの音の大きさの違いが音源の位置についてのてがかりになるのとちょうど同じように、別の人間のある種の特徴は、重要性(worth)を帰属させることのトリガーになるのだ。こうした特徴に含まれるのは、落ち着き、清潔さ、成熟、魅力、身体のコントロールなどだ。逆に、尊厳の知覚は知覚する人のなかにある反応をひきおこす。パンを焼く匂いがそれを食べたいおという欲求のトリガーになるように、また赤ちゃんの顔を見ることがそれを守りたいという欲求をひきおこすように、尊厳のある見かけは、尊厳を身につけた人物に対する評価と尊敬の欲求のトリガーとなる。

ここからなぜ尊厳が道徳的に意義があるのか理解できる。ある人物に、他の人物の権利と利益に対する敬意をひきおこす現象を我々は無視するべきではない、ということだ。しかしここからまた、なぜ尊厳が相対的で、代替可能で、しばしば有害であるのかも理解できる。尊厳は上辺だけのものなのだ。それはステーキではなく、それを焼く音なのだ。本そのものではなくカバーなのだ。大事なのは究極的には人物に対する尊敬であり、それを典型的にひきおこすような知覚上のシグナルではない。実際のところ、知覚と現実のあいだのギャップが、我々を尊厳原則に対して脆弱にしている。我々はもとになってはずの真価(merit)を知らずに尊厳のサインに圧倒されることがある。たとえばインチキな独裁者の尊厳のサインに。また、尊厳のサインを剥ぎとられてしまったた人の真価を認めそこなうことがある。たとえば難民生活で物乞いせざるをえない人の場合だ。

我々は、正確には尊厳のどの側面に敬意を払うべきなのだろうか? 一つには、人は一般に尊厳あるものと見られたいと思うものだということがある。したがって尊厳は人の利益の一つであり、身体的統合性や個人所有権とならぶものであり、他の人々はそれに敬意を払う必要がある。我々が他人に爪先を踏まれたくない。他人にホイールキャップを盗まれたくない。また便器に座ているときにトイレのドアを開けられたくない。この正確な意味での尊厳の価値は、生命医学にたしかにひとつの適用すべき点がある。つまり、医療措置とあいいれない場合には患者の尊厳にもっと大きな注意を払うべきだ、という点である。報告書には、現代の患者がしばしば耐えることを強制されているような回避できるはずの恥ずかしめ(たとえばおしりから開くようになっている病院のひどいスモック)についての素敵な論説がある。ペレグリノによるのものとレベッカ・レッサーによるよるもののだ。誰もこのような意味での尊厳を価値あるものとみなすことに反対などしない。そしてそれがポイントなのである。尊厳の概念が正確に特定されれば、それは論争のもとになる道徳的な難問ではなく、冷淡さや事務的な怠惰さに対抗するための世俗的な思慮の問題ということになる。そして、これはけっきょくはそう扱って欲しいと人々が願うようにその人々を扱うということになるのだから、究極的には自律の原則をまた別の仕方で応用しているにすぎないことになる。

「尊厳」に、一定の注意深い敬意を払わねばならないもう一つの理由がある。尊厳が減じらてしまうと、それは知覚する人の心を冷やかにし、人を虐待することをに対する禁止の念を緩めてしまうかもしれない。ナチスドイツでのユダヤ人たちが黄色の腕章をつけさせられたり、文化大革命のときに反体制派がグロテスクな髪型と服装をさせられたように、人々が格下げされ辱められると、その傍観者たちはさげすまれた人々を軽蔑しやすくなる。同じように、難民や囚人や他の浮浪者たちなどが、不潔な状態で生活させられるとき、それは非人間化と虐待のスパイラルのはじまりになりうる。これは有名なスタンフォードの刑務所実験で証明されたことだ。この実験では、「囚人」にわりあてられたボランティアはスモックと足枷を着用させられ、名前ではなく番号で呼ばれることになった。「刑務官」にわりあてられたボランティアは、自発的に囚人たちを痛めつけはじめた。ただしここで注意しておきたいのは、これらのケースはすべて強制を含んでいるのだが、これらもまた自律と人々に対する敬意によって排除されるものだということだ。したがって、尊厳の侵害がはっきりそれとわかる危害につながるとき、究極的にはそれを非難する根拠を与えてくれるのは、自律と人々に対する敬意なのだ。

自発的に尊厳を手放すことが、傍観者の冷淡さと第三者への危害につながる──経済学者がネガティブな外部性と呼ぶもの──ということはありえるだろうか?理論的にはイエスだ。おそらく、もし人々が自分の遺体が公の面前で冒涜されることを許すならば、それは生きている人々の身体に対する暴力を推奨することにつながるかもしれない。ひょっとすると、小人投げ(dwarf-tossing)という娯楽は、小人症の人々に対する虐待を促進するかもしれない。ひょっとすると暴力的ポルノは女性に対する暴力を促進するかもしれない。しかし、そうした仮定の話が制限的な法律を正当化するには、経験的なサポートが必要である。人間の想像力のなかでは、なんでもがあらゆるものにつながうる。教会通いをさぼることは怠惰につながる、女性に車を運転させることは性的放蕩につながる、などと。自由な社会では、不快にされた側がなにもないところから仮想的な将来の危害をおもいつくようになったというだけでは、誰かを不快にするような行為を政府が法で禁止するような権力を認めることはできない。毛沢東もサヴォナローラコットン・マザーも、人々が望むことをするように許すことが社会の崩壊につながる理由を山ほどあげることができただろう。

(後略)


aiko先生の「カブトムシ」は女子的にエッチな曲かもしれない

https://youtu.be/WMPO5qgm39E

https://youtu.be/9m7gCFarbqs

aiko先生の「初恋」は歌詞の解釈について考えるようになったきっかけの曲で、まあこの先生おもしろいですね。最近「カブトムシ」についても考えるきっかけがあって、これまたなかなかすごい曲だな、みたいな。

いつものこのリストをちらっと見たり。http://yonosuke.net/eguchi/archives/7465

ジャンルは典型的J-POP、楽器編成はふつうのバンド構成ですね。冒頭のピアノと、薄いシンセストリングがまあ典型的ポップスですか。ドラムの音いいっすね。

テンポは75BPMぐらいのバラード。リズム・パターンはごくふうつのエイトビート、ドラムはちょっとだけハネてる気がする。メロディーラインはふつうの譜割なんだけど、バックがシンコペしてるところが多いのがちょっと特徴。

シンガーは発表時20代なかば〜後半ぐらい?ライフスタイルはティーシャツ・ジーパンな感じ、想定リスナーはごくふつうの女子だと思う。そんなオシャレでもなく、都会派でもなく、イケイケやヤンキーでもなく。ファンの男子もなんかそういう感じなんちゃうかな。

  1. 語り手のアイデンティティ/どういう人物か/年代性別等: まあシンガーそのまんま、20代女子。
  2. 語りかけられている聞き手のアイデンティティ、年代性別等、ライフスタイル等:「あなた」に向かってる。

これくらいおさえたところで、いきましょう。

悩んでる体が熱くて 指先は凍える程冷たい
“どうしたはやく言ってしまえ” そう言われてもあたしは弱い

これ、私いきなりおかしいと思うんですわ。聞いてるひとはあんまりいきなりなんで、「はてなー」ってなるはず。なにで悩んでるのかわからない。

この「カブトムシ」は4枚目のシングルらしいですね。「初恋」が7枚目で2001年、カブトムシはそれより前の1999年ですか。

この2枚共通して「悩んでる体が熱くて」とか「悩んでるあたしはだらしない」とか「悩んでる自分」はaiko先生のキーワードなんですね。これリスナーをひきつけるなにかだとおもう。この曲では「体が熱い」っていってるけど、「初恋」でも「小さなあたしの体は熱くなる」っていうフレーズがあって、この2曲、かなり密接な関係あるように思いますね。ていうか同じ事件なり体験なりを歌ってるのかもしれない。(制作・発表順番はおそらく逆)

「初恋」の場合はまだつきあってない男子を見つめて悩んでる。「カブトムシ」の場合はどうなのだろうか。

「「どうしたはやく言ってしまえ」 そう言われてもあたしは弱い」っていうのが誰から言われてるかわからんですね。「初恋」の流れだと、「相手に告白してしまえ」と友達から言われてるぐらいか、もうすこし読んで「自分の頭のなかの声がそう言っている」ぐらいなんかね。でもそうすると次とつながりにくい。一番すなおな読みは「あなた」からそう言われてる、なんだけどそれもよくわからないですね。このAメロには謎があるわけです。

あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて
想像つかないくらいよ そう 今が何よりも大切で

いきなり相手殺すんですかね。わからんですね。「今が何よりも大切」っていうのは、まに「NIPPON」で書いたように、林檎先生なんかもそういう一瞬で完全燃焼!他のことは考えません!みたいなのがあって私好きなんですが、aiko先生の場合は「今がだいじ」といいつついつも時間的な長さ、時の流れを考えてるようなところがあって、林檎先生とはわりと対照的であるように思います。

スピード落としたメリーゴーランド 白馬のたてがみが揺れる

これもなぜメリーゴーランドなのか、なぜスピードを落とすのか、白馬ってなんでありたてがみがなんであるのかよくわからんですね。このかなり謎が多い曲だと思う。しかしこの部分は楽曲として非常に印象的なところです。Gm7-C7とかになって転調してんですかね。

白馬のたてがみがゆーれるーのあとに、サビに入る前に、非常に印象的な2拍の間があるんですね。この2拍はそれまでのふつうの4拍子のリズムには異常な部分で、つまりタメてるわけです 1)「エイリアンズ」でも最後の方に似たタメがあって、あそこで何かが起こってることは指摘しました。 。これがものすごく効いてると思います。この曲が成功したのはまさにこの2拍にあると思う。スピード落して、ためて、ためて、どばーっていく感じ。

サビ

少し背の高いあなたの耳に寄せたおでこ
甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし

初恋と同じようにこのサビもどんどん上に高揚していく感じです。この女子は匂いフェチっていうか、相手の匂いが好きなのね。なんか耳の後ろあたりから匂うあれがものすごく好きなんですな。この女子の匂いのなにかは生物学的な背景ありそうとかって話は、進化生物学・心理学の定番ネタっすね。

んで問題のカブトムシです。カブトムシっていうとあのオスの角とかあるあの種を連想するんだけど、この曲でもそうなんかなあ。とりあえずメスカブトムシだろうから角ないですね。あと、音楽やってると、「ビートルズ」はもとはbeetleだけどあれは日本のカブトムシではなくコガネムシやカナブンみたいなのもbeetleなのだ、って必ず一回は話してるんじゃないかと思うんですが、どうですかね。

まあこれの上のメスみたいなやつってことでいいや。さて、ここで一番の問題なんですけど、「私はカブトムシ(メス)である」というときに、その体勢はどうなっているのか、ですわ。

このメスカブトムシは相手の耳の後ろのにおでこくっつけたりして匂いかいだりしているのですが、それって「背の高い」(とりあえず)男子にならできるだろうか?しかしそれなら背伸びしている感じになり、上のカブトムシらしい、腕をひろげて抱きついてるポーズにはらないのではないだろうか。

わかってきましたか。「ああ、私はメスカブトムシでございます」と思うとき、それは直立しているわけではないのです。むしろ体の軸は水平方向にある。背伸びして耳の後ろにおでこをあててるわけではないのです。

さらにですね、カブトムシは匂いにひきよせられてなにをするのでしょうか。そう、匂いをかぐだけではなくて樹液かなんかをペロペロとあれするのですね。驚きましたか。匂いにひきよせられるだけでなく、そういうあれの上で「あたしはカブトムシである」と言ってるのだと思います。

流れ星流れる 苦し うれし 胸の痛み
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

ビタースイートな感じ。「生涯〜」くりかえしてるのがしつこいですね。

間奏はやっぱり歪んだギターがキュー。

鼻先をくすぐる春 リンと立つのは空の青い夏
袖を風が過ぎる秋中 そう 気が付けば真横を通る冬

ここはすばらしくいいですね。Roxy MusicにTo Turn You Onって曲があって、Spring, Summer, Winter through Fall、みたいな歌詞があるんですが、こういう春夏秋冬通しておつきあいします、みたいなのはうったえかけるところがある。

なんかwikipedia情報によれば、aiko先生はカブトムシが冬のものだと思ってたらしくて(冬に時々でてくる冬眠中のコガネムシとかのこと考えてたんちゃうかって思うんだけど)、春夏秋ときて冬が今なんですかね。けっこう長いことつきあってきたって話じゃないのかなあ。1年ぐらいいろいろあったあげくにやっと今そうなってる、っていう話かもしれないけど。

上の部分、主語はそれぞれ春、空の青い夏、秋中、冬なんですかね。どれも微妙に空気や風と関係していて、「あなたの匂い」が本当の主語のような気がしますね。匂いフェチです。さすが昆虫。

強い悲しいこと全部 心に残ってしまうとしたら
それもあなたと過ごしたしるし そう 幸せに思えるだろう

ここはまあいいです。作詞的にはつなぎにすぎないと思う。肝心なのはやはり、さっきのメリーゴーランウンドと対応する次です。

息を止めて見つめる先には長いまつげが揺れてる

なぜ息を止めているのだろう。そして睫毛がゆれるのがはっきり見えるほど近い。そしてあの2拍のタメ。ここやっぱりいいと思う。

少し癖のあるあなたの声 耳を傾け
深い安らぎ酔いしれるあたしはかぶとむし

もうなんかおわってます。

琥珀の弓張月 息切れすら覚える鼓動
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

弓張り月は、ふつうは半月です。琥珀色(透明な赤茶)になるのは地平線に近くないとならないから夜中ですね 2)この月がどういう形のときにどこにあるのか、っていうのはけっこう重要ですわ。。そして「息切れすら覚える鼓動」はなぜそんなハアハア言っているのか。

とかって考えると、まあこれってそれの歌ですわ。それもかなり直接な。カブトムシみたいになって大木みたいなのにしがみついている感じ。そうなると、「悩む」っていうのも告白を悩んでいるんではなく、もっと身体的ななにかを指しているのではないかとか、一番最初の「言ってしまえ」もなんかちがう表記をするのが正しいのではないかとか、そういうの考えちゃいますね。速度をゆるめたメリーゴーランドとかもまあなんかの暗喩だ。まあかなり肉感的で露骨な歌で、主人公女子がかなり強いなにかを経験した、とそういう歌ですね。

まあ男子が視覚的にあれするのに、女子は匂いとかそういうのであれする、みたいな感じもあれであれですね。

ちょっと下品な解釈だったけど、aiko先生はそういうのをああいうかたちにする先生だと思う。もちろんこうしか聴けないわけではないけど、わかるひとにはわかると思う。

さっきのRoxy Music。関係ないけど名盤だわー。

References[ + ]

1. 「エイリアンズ」でも最後の方に似たタメがあって、あそこで何かが起こってることは指摘しました。
2. この月がどういう形のときにどこにあるのか、っていうのはけっこう重要ですわ。

ファインバーグは重要だった (3)

前のエントリなんですが、ちょっと解説しておきます。

「パーソン論は新生児や障害者殺してもかまわんとする邪悪な思想だ」みたいな批判があるわけですわ。ちょっと古いけど、さっき見てた菅野盾樹先生の「胎児の道徳的身分について」(1998)って論文ではこんな感じになってる。(たまたま見てただけで、国内の多くの生命倫理の論文はこんな感じになってる。)

何回も書いてるけどこれは誤解というかひどい言い掛かりというか、まあこういうふうに理解してはいかんのです。

理由はまさに、パーソン論というのは基本的に「生命に対する重大な権利」についての議論ではあるのですが、我々の生活では権利っていうのは道徳的生活の一部にすぎず、他にも社会的効用とか善意とか愛とかケアとか幸福とか自由とか平等とか、権利以外にもさまざまな考慮すべき事柄があるからです。権利の侵害はもちろん不正ですが、権利の侵害ではないけれども不正なこと、正当な権利の行使ではああっても望ましくないこと、などいろいろあるわです。この点は実は、国内で初めてパーソン論をとりあげた飯田亘之先生も「可能なことと望ましいこと」(『理想』第631号、1985)っていう、記念碑的論文で論じているのです。

権利っていうのは法的概念、あるいは疑似法的概念であって、われわれの道徳生活のすべてではない。ファインバーグはそこらへんよくわかっていて(っていうかファインバーグ先生ほどわかってる人はいないわけですが)、仮に胎児や新生児が生命に対する重大な権利をもっていないとしても、もっと考えるべきことはありますよ、と主張しているわけです。そしてそれは主に社会的効用だ。赤ちゃんや弱者を簡単に死なせるような社会は、その赤ちゃんや弱者たちにとっても望ましくないし、パーソンである我々自身にとっても望ましくない。だから権利もってない存在者だからといって菅野先生がいうようになんでもしてよいなんてことにはならんのです。だいたい犬猫だって好きに殺してもかまわんとかそういうことにはならんでしょ。何を言ってるのですか。

問題は非常に重篤な障害を送ることになりそうな新生児などで、これは障害や病状によっては、ひょっとすると本人が非常に苦しむ将来が予想されることがあって、こういうときに新生児の安楽死とかの問題が生じてくるわけです。ここではそうした非常に大きな苦しみをかかえた人を生みだすことが「不正」であるかどうかというファインバーグが気にしている問いをつめて考えることはできませんが、かなり重い障害を負った新生児であっても、そんな簡単に治療を差し控えようとか安楽死させようとか言えるものではない、っていうのがファインバーグ先生の結論だと思います。

このあと、もうちょっと続くんですわ。この新生児などについての議論が、中絶の議論にどういう影響があるか、という部分。

—-

人工妊娠中絶問題への含意

現実所有基準説が胎児の道徳的パーソンとしての身分の問題に対して持つ含意は単純である。胎児は、我々がさきほど生存権を所有するための必要十分条件として列挙したうちの特徴(C)を現実に持っていないため、胎児はその権利を所有していない。したがって、この基準を考えるなら、人工妊娠中絶は決して胎児の生存権に対する侵害を伴わない。そして、胎児に生まれることを許容することは、我々が*しなければならない*ことでは決してない。*そうであってしかるべき*何かではありえないのだ。

しかしだからとって、中絶は不正ではありえないということにはならない。先に見たように、新生児は現実所有基準を満してはおらず、したがって道徳的な意味でのパーソンではないとはいえ、少なくともそれがひどい異常をもっていないかぎりは、それを殺すことが不正であるという功利主義的な理由が与えられるるのである。それゆえ、胎児が生まれたときにひどい異常をもってない見込みがあれば、これと同じ理由がその発達後期の段階で胎児を中絶することに反対するものとして与えられうる。

これまで考察してきた功利主義的な理由は非常に重要であって、ことによると、こうした理由は、非パーソンであるとしても本物のパーソンに非常に類似した存在者であればいかなるものでも、それに対して暴力的・破壊的な取り扱いを禁じるに十分であるかもしれない。そうした存在者には、たとえばすでに物故した元パーソンや小さな赤ん坊だけでなく、オトナの類人猿や妊娠の最終トリセメスターのヒト胎児も含まれるかもしれない。そうした考慮事項が、ブラックマン判事がRoe v. Wade判決で多数派意見を述べたときに彼の念頭にあったのかもしれない。多数派意見によれば、胎児は殺人に関する方によって保護される法的な意味でのパーソンではないが、それでも最終トリセメスターのあいだは「国は人間の生命の潜在性における利益を促進することにおいて、中絶を規制または法によって禁止することを選択できる」とされている。「人間の生命の潜在性」に国がどのような利益をもっているにせよ、それは*現実の*人間の生命に対する敬意を維持し促進することについてもつ利益から派生したものにちがいない。我々の派生的な敬意から利益を受けるのは、潜在的なパーソンたちだけではなく、高等動物、死者、新生児、かなり発達した胎児など、本物のパーソンによく類似していて、「本物」の聖なるシンボルを与えてくれるような、すべての近似的パーソン (near-person)なのである。

こうした考慮事項に照らしてみると、先に論じたような漸進主義的アプローチの方が、道徳的な意味でのパーソン性の基準をさぐるという狭い問題設定よりも、中絶の道徳的正当化という一般的問題への回答としてはもっともらしいように思われる。もし胎児は単なる潜在的なパーソンであり今現在の生命権はもっていないとしても、また、それゆえ胎児を殺すことは殺人(ホミサイド)ではないとしても、それに潜在的パーソン性があることはそれを殺すことに反対するひとつの理由になるのであって、それはさらに、中絶が正当化されるとすれば、反対の側にもっと強い理由を要求するということになる。もしこれが正しければ、パーソン性の潜在力がより先に進めばそれだけ、それを殺すにことに対する反対意見はより厳格なものになる。すでに見たように、「権利」の他にも我々の道徳的決定に重要な考慮事項は多々存在するために、誰の権利も侵害しないとしても道徳的に不正であると判断されうる行為がありえる。そうすると、胎児を殺すことは、それが胎児の権利を侵害せず、胎児が道徳的な意味でパーソンでもなく、またけっして殺人(マーダー)ではないしても、一定の状況下では不正となりうるかもしれない。

—-

どうでしょう。権利とその担い手としてのパーソンの基準の話は重要ではあるのですが、そっからすぐに中絶はいつでもOKとか障害者は抹殺しろとかそういう話にはならんのです。生命倫理学者はもっとまじめに勉強するべきだ。

え、功利主義者のシンガーは障害新生児は安楽死させろって言ってるんじゃないの?それとこのファインバーグという人のはどういう関係なの?という人に向けてはまたそのうち書きます。

ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

References[ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。

たいして新しいアイディアがあるわけではないので、サーベーぐらいはそこそこ徹底的にやっておきたいと思っていろいろめくっているわけです。生命倫理学の大家であり、恩師ともいえる加藤尚武先生が著作集を出していて、それもチェックしなければならない。っていうか、この問題における加藤先生の貢献は非常に大きいんですよね。

「方法としての「人格」」っていう書籍には収録してなかった論文がおさめられているので、とりあえずこれを。初出は『看護セレクト』1989ですか。見たことなかったわー。

内容はいわゆるパーソン論を紹介してその重要性を指摘するとともに批判する、というよくある形で、まあ国内テンプレ様式。でも1989年なのでテンプレにしたがったのではなく、加藤先生自身がテンプレを作ったわけです。ものすごく偉い。

この論文では主にファインバーグとエンゲルハートが紹介され論じられてるんですわ。この組み合わせはわりとめずらしくて、普通はトゥーリーとエンゲルハートなんですが、ファインバーグ先生はほんとに賢い偉い先生なんすよね。法哲学・倫理学の巨人。

んでこういうページがある。

注目してほしいのは、うしろの方の「人格・生存権という概念をもちいることなく幼児殺しを避妊する理由が何であるかをファインバーグは語らない」のところ。これ読んだとき、「ファインバーグ先生ほどの人がそんなことするかな、なんでも明晰に書く人だから」って直観的に思いました。んで当然確認。手間かかるんすよね。

このファインバーグの “Abortion” (または”The Problem of Abortion”)は、加藤先生たちの『バイオエシックスの基礎』(1988)に抄訳が収録されているんですが、あくまで抄訳で、全体の1/4もないのね。収録されているのはT. L. ReganのMatters of Life and Deathって本で、これ10年ぐらい前の例のパーソン論論文書くために入手しておいたし、抄訳がどれくらい抄訳になってるかはチェックしていたんですが、実は全体は読んでなかった。恥ずかしい。

んで発見したことはかなりショッキングだったんですわ。

ファインバーグ先生が「幼児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出したので(っていうかちょっとやって明日やろうと思って寝てたら、夜中に妖精さんがやってくれてました。ありがとう妖精さん)

前置きなのに長くなってしまったので続きます。

牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

一番最初はどうでもいいので飛ばす。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

 1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

>

 この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

 これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

 でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

 実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

 このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
でもだいじょうぶ、そうではないのです。

フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

 こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

これ読める人はすくないわよねえ。

問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。