セックスの哲学史: 狂気としての恋・性欲(1)

西洋人はどういうわけか古代ギリシア文明を自分たちの文化の源流だと思ってるらしいです。なんかあるとソクラテスやプラトン、あるいはホメロスまでさかのぼっちゃったりして。なんかそれって日本人が孔子様や老子様たちを自分たちの先祖だって言ってるみたいでなんかあやしいんですけどね。

プラトン先生
私は苦手です。

古代ギリシア人もおそらくセックスは大好きだったし、とくに元祖哲学者みたいなプラトン先生のまわりの人々がセックス(特に少年愛、パイデラスティア)が好きだったみたいでいろいろ議論がのこってます。

基本的には古代ギリシア人にとってもセックスや恋愛ってのはやっかいなものだったんじゃないですかね。世界最古の叙事詩の一つであるホメロスの『イーリアス』で歌われているトロイア戦争なんかでも、パリスというトロイの王子がヘレネーという絶世の美女を略奪か駆け落ちしてしまったのが戦争の発端だし。

セックス哲学史はまあやっぱりプラトン先生あたりからはじめないとならんわけですが、プラトン先生はセックスについて異常に多くのことを書いている(『饗宴』はぜんぶ愛欲エロースの話)なんでちょっとずついきましょう。正直私はプラトン先生はよくわからんのです。古典ギリシア語読めればよかったなあ。でも日本では古典研究さかんで優れた翻訳がたくさんあってうれしいです。

まあプラトン以前から、基本的にはセックスや性欲は荒々しい暴君で我々にとんでもないことをさせちゃったりする、って理解だったと思っていいんじゃないですかね。

「どうですか、ソポクレス」とその男は言った、「愛欲の楽しみの方は?あなたはまだ女と交わることができますか?」(年老いた)ソポクレスは答えた、「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」(プラトン『国家』)

とか。ソクラテス先生もソポクレス先生に同意しているみたい。でも本気かなあ。ふつう年寄りってのはそういうことできなくなっちゃってぐじぐじ悩んでいる印象ありますよね。この引用の直前では実際そういう話になってます。

『国家』の別の文脈ではこんなこと言ってる。

〔ソクラテス〕「ところで、性愛の快楽よりも大きくてはげしい快楽を、君は何かあげることができるかね?
「できません」と彼〔グラウコン〕は言った、「またそれ以上に気違いじみた快楽もね」

とか。セックスの快楽は最強。

『パイドロス』でも恋は人を狂わすみたいなことが言われているです。

〔恋する者は〕母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れる。財産をかえりみずにこれを失なっても、少しも意に介さない。それまで自分が誇りにしていた、規則にはまったことも、体裁のよいことも、すべてこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、人が許してくれさえすればどのようなところにでも横になって、恋いこがれているその人のできるだけ近くで、夜を過そうとする。(252A)

とか。毎日新聞で学校の先生とか警察官とか公務員とか性犯罪やセクハラで捕まったりしてますよね。人殺しとかも色恋関係が多いしねえ。まあこんなふうに人を狂わせるもの、それがセックス。セックスと恋とか愛とかそういうのの関係はどうなってんだゴルァってのはぼちぼち。

プラトン先生の翻訳は岩波文庫ので安心です。国家もパイドロスも長くて読むのはしんどい。実は哲学とか専門に教えてる先生たちだってそんなまじめに最初から最後まで読んでいるわけではない(はずです、おそらく)。

プラトン読むんだったまずは『弁明/クリトン』で足ならししてから、『ゴルギアス』を読むのがよいと思います。これは猛烈におもしろいよ。私のヒーローの一人カリクレス先生が、「よく生きるというのは欲望を最大限に大きくして快楽を貪ることだ!」って宣言しててかっこいい。カリクレス先生はおそらくセックスもしまくり。

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