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「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。

……人間に特有の現象として措定されたジェンダーという対象について,生物学は何も言うべきことがなくなるのではないか,という疑念をもつ読者がいるかもしれない.それは半分は正しく,半分は間違っている.

うしろ読むとわかるけど、実際には生物学はなにも言うべきでない、と言っているっぽいのよね。でもとにかくお話を聞きましょう。

正しい面とはこういうことだ.人間における女と男の分類について考えてみよう。男とは, あるいは女とは誰のことだろうか.それはわれわれが女として,男として名指す対象者のことである.この循環的な規定がすべての,そして唯一の出発点である.

はい、出発点なのはよいです。しかし、それがなぜ 循環的 だといわれるのかよくわからない。机、イス、ペンギンとはなにかといえば、我々が机と呼ぶもの、イスと呼ぶもの、ペンギンと呼ぶものだ。イスや机は我々が座るために、あるいは物置にするために作られたものであり、ペンギンは南極とかにいる飛べない鳥だ。なにも循環していない。なぜ「男」と「女」が循環的な規定と言われる必要があるのだろうか。

これまでのところ,それは「卵を作る個体が雌,精子を作る個体が雄」といった生物学における定義と概ね整合的である.生物学の方が自然言語における「性別」概念に依存しながら実践されてきたのだから,これは当然のことではある.だが現在においてすら,両者は完全に一致しているわけではない.われわれの自然言語は,無精子症の男性も「男」と呼ぶし,卵巣をもたない女性も「女」に分類するからである.(pp.161-162)

これは例が悪い。この意味でのオスやメスは、生物学においては、典型的には大きな配偶子をつくったり小さな配偶子をつくったりする性というにすぎない。環境や発達の過程によって配偶子をつくらない個体もいるが、それは生物学者にはなんの問題もない。そして、それぞれの個体がどういう配偶子を作るように成長するかは、大部分遺伝子が定めていることもわかっている。無精子症の男性や卵巣を持たない女性がいてもなんの問題もない。したがって、加藤先生が言いたいのはそういうことではないのだろう。

さらに近年では,諸々の社会制度における性別の取り扱いを,生殖機能にもとづいて各個に割り当てられた性別ではなく,当人の性自認(ジェンダー・アイデンテイティ)にもとづかせるべきだという主張が影響力を増している.今後,この趨勢が続くかどうかは分からない.(p.162)

生物学的な性ではなく、社会的な性の話をしているわけよね。無精子症の男性がいる話はまったく関係がない。

だが,性別の基準がどのように変化しようと,その基準にもとづく「女」「男」という人間の分類が社会的に有効であるかぎりにおいて,それがわれわれにとっての「女」「男」の,すなわち性別という概念の意味である.(p.162)

この「分類が社会的に有効であるかぎりにおいて」と「性別という概念の意味」がわかりにくい。でも我々が社会生活において「男/女」と呼んでいるものと、生物学的な「オス/メス」が同一でないというのは認めたい。

このとき,どのような基準が採用されているか,そこに生物学の知見がどのように関わっているかといった事態を明らかにすることは社会科学の固有の課題であって,生物学の関わりは二次的なものでしかない.(p.162)

これはOKではあるんだけど、我々が性別をどう判別するかとかっていうことには、心理学や認知科学や脳科学や生物学がからんでくることもあるだろう。「社会科学固有の課題」といわれてるときのポイントが私にはわかりにくい。我々の日常生活における男女の区分けがもっぱら社会や文化による恣意的な区分けである、と言いたいのだろうか。

他方,生物学の方にも,もちろん固有の課題がある.生物学の体系内で定義されたヒトの性的二型にかんする研究の意義は,ヒトが有性生殖によって繁殖する生物種である限り,なくなるはずはない.また,たとえば「性自認」といった現象が遺伝子や生育環境とどのような因果関係をもつのかといったことも興味深い問題である.あるいはさらに,「自由」という概念をヒトがもつに至る自然史的プロセス/メカニズムさえも,将来の進化生物学は解明するかもしれない.だが同時に忘れてはならないのは,これらの課題はすべて,「性別」「性自認」「自由」といった民間概念の理解に立脚し,それを媒介として,初めて可能になるということである.そして,われわれがこれら諸概念を運用するやり方を解明することは社会学の,また,それらの規範的な正当性を問うことは倫理学,法哲学,政治理論といったディシプリンに固有の課題であって,そこに生物学の権限は及ばないという,ただそれだけのことだ.(p.162)

日常的な男女の問題を考えるときには、日常的な男女の概念をよく考えねばなりません、自由の問題を考えるときは、まずは日常的な意味での自由というものを考えねばなりません、というのはもちろんまっとうな主張だと思う。文句はない。でも「生物学の権限が及ぶ」という表現の意味がわからない。「生物学的にオスである」とか「SRY遺伝子を含む染色体を含んだ細胞によって構成され身体をもっている」ということが、社会的に男性として扱われることを正当化するわけではないということかな?それなら当然認める。しかし、そんなことを考えている生物学者がいるとは思えない。

進化生物学者や進化心理学者がやろうとしているのは、進化という発想を背景にして、我々がどのような傾向性をもっているのか、環境にたいしてどのように反応する傾向があるのか、我々の生活や社会がどのようにして成立しているのか、などを解明しようとすることだと思う。まともな科学者は、簡単には社会的な規範の正当化などはおこなわないものだ。ハエやタコやカッコウや犬やネコの生態や繁殖や性生活がどのようなものであれ、そこから人間の生活についてすぐに規範的な判断や価値判断を行おうとする人々はただのインチキ科学者である。そんなの誰でも認めることではないか。それでは「権限が及ぶ」というのはどういうことなのだろうか。

一方で、生物学者が提供してくれる、進化や性淘汰といった発想や、他の動物と人間の社会や生態の比較は、我々人間とその社会についていろんなことを教えてくれる可能性がある。社会的な性差と呼ばれているものは、我々人類が、長年にわたってかわりゆく環境におうじて試行錯誤してきた結果かもしれない。それは直接には我々の社会の規範を指示するものではないけど、規範的な判断をするときの参考にはなる。我々は、生物学や進化心理学の知見を取り入れることで、性犯罪やポルノグラフィー、結婚制度、家庭内の男女分業などの問題を、もっとうまく処理できるようになるかもしれない。

つまるところ、私は加藤先生が「生物学」としてなんか批判したい見解がどのようなものかよくわかららないのよね。まともな生物学者で、加藤先生が危惧しているようなことを考えている人がいるのだろうか?私はよくわからない。そして、2019年から2020年にこういう論文を読んでよくわからないと思って苦しんでいる自分にうんざりしているのです。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました1)実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

 

 

References   [ + ]

1. 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

「ジェンダー論と生物学」 (6) 理由と原因は切り離せないとはどういう意味だろう?

さて、次の文章がおそらく重要なんだけど、読みにくいんですよね。

……ここで注意すべきは,性的二型という自然史的事実が性役割・性差別という規範的制度と関係する回路は二重であるということだ.一つは性的二型の現象それ自体が性差別をもたらす原因(cause) となる一一逆に性役割・性差別は性的二型を生じさせることもある―という〈因果関係の回路〉であり,もう一つは,性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉である.人間においても前者の水準と無縁であるわけではない.人間は自らを記述し規範性によって自らの行動を律するという性能を有する特殊な生物ではあるが,それでも生物の一種なのだ.しかし,〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである.(p.156)

前で指摘したように、「性的二型」だの「性差別」だのが具体的に何を指すのかが明確になってないのに加えて、「回路」だの「水準」だの見慣れない言葉が出てきて、社会学者以外の人々にはかなり困難な文章だと思う。がんばって読む。

一つ言われているのは、(1) 「性的二型(男女の身体的・行動的な違い)が、性差別の因果的な原因となる」ということだと思う。具体例一つぐらい出してくれればいいのにね。それに、「性差別」というのが、個別の人物がやってしまう性差別なのか、社会規範としての性差別なのかわからない。まあおそらく社会規範なんだろうけど、性差別、というのでどういうものを指しているかもわからない。たとえば、性的二型(たとえば女性におっぱいがあること)が、過去に女性が参政権をもっていなかったことの因果的な原因となっているだろうか?なってませんわね。だから、「性的二型が性差別の原因になる」とか抽象的なことを言うときには、少なくともいくつか例を示してほしいものだと思う。たとえば、「女性は男性より体力がないことが多いので、力仕事は男性にまかせて体力の必要ない作業をする傾向を持つ」とかですわね。社会学者には性的二型が性差別の原因になっている例はあまりにも多すぎて自明なのかもしれないけど、いちおう確認してほしい。でもまあがんばってそういうことがあると認めることにする。

もうひとつ言われているのは、(2) 「性役割・性差別が性的二型を生じさせることもある」。ここで混乱するのは、まえに指摘したように「性的二型」が何をさしているのかはっきりしてないからよね。おそらく体の大きさや生殖器の構造・機能とかではなく、行動の違いまで指しているはずだ。おそらく、「人々の社会的な通念や思い込みが、人々の性に応じた振る舞いや他人の扱いに影響を与える」ぐらいなんだと思う。「男は仕事、女は家事」っていう思い込みがあるので、人々はそういうふうに振る舞うようになる、ぐらいの話だと思う。まあOK。

「性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉」はものすごく理解しにくい。この文章、「性差」じゃなくて「性的二型」じゃだめなんかな。それに「意味づけ」が社会学者以外にはわかりにくい。ふつうの人々の言葉づかいなら「解釈」ぐらいのはず。つまり、言われているのは、(3) 「性的二型をどう解釈するかということが、社会や個人の性差別を正当化する(当人たちにとっての)理由になる」ぐらいだと思う。

ここまで読むのでぜいぜいっていう感じですね。そしてやっと問題の「〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである」が来る。

あれほどがんばっても、私はこの文章を理解することができない。加藤先生の言いたいことをふつうの書き方でいけば次のようになるはずだ。

人間の男女の 性差(性的二型)が存在することから、因果的に、社会での性役割分業や性差別が生じることがある。また、社会にすでに存在している性役割分業や性差別から、因果的に、男女の行動の差が生じることもある。さらには、そうした性差/性的二型が、性役割分業や性差別の正当化の理由とされることもある。

ここまではOK。しかし、続きがわからない。因果関係の話と、正当化の話が切り離せないのはなぜだろう?どういう意味で切り離せないのだろう?なぜ切り離せないのだろう? それはなにか概念的に必然的な話なのか、人間の心理的で偶然的な話なのか、どちらなのだろう?因果関係の話は正当化の話に「包摂される」とはどういうことだろう?因果関係の話が正当化の話を構成する一つの水準としてしか把握することができない、というのはどういいうことだろう?「把握する」のはいったいだれだろう?学者?

こういうの私わからんのですよね。私だけが読めないわけではないと思う。社会学者の先生どうしもよくわからず読み書きしてるんじゃないかと疑ってるんですが、どうですか。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。

ごく初期の論文(Thornhill 1980)を批判するなかでゴワティやハーディングは、「この論文中では進化的機能を含めて“レイプ”を定義しているが、そうした定義は、この用語が人間についての出来事に関して一般的に用いられるのとは、異なるものである」といったことを述べている。しかしながら、定義に進化的要素を含めているからといって、その著者が、レイプは進化によってもたらされた自然なものであることを根拠にそれを正当化しようとする隠れた意図を持っていると考えるべき合理的な理由は、どこにもない。(p.224)

なにを指しているのかはっきりしていて、またそれを単純に人間の行動の道徳的な価値判断とかに利用しないならば問題はない。

自然主義の誤謬があくまでも誤謬であることを理解している人にとっては不合理きわまりなく思えることだが、レイプを“正当化”することへの恐れから、進化的説明に反対する多くの批判者が、レイプは人間だけのものだと考えようとする。これまで数多くのひはんしゃたちが、レイプは人間だけにしかないという意味をこめて、「どのような状況下においても、人間以外の生き物については“レイプ”という言葉を使うべきではない」と強硬に主張してきた。しかし現実には、この言葉を聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのが人間についての例であるせよ、それを人間以外に当てはめていけない理由はない。たとえば“セックス”という言葉にしても、それを聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは人間のことだろうが、それとともに他の生き物についても、この言葉はごく日常的に用いられている。(p. 226)

これおもしろいですね。ハエのセックスとかタコのセックスとか、人間のとはずいぶんちがうかもしれませんが、まあそれなりにどういうことかわかるし混乱もしない。タコやイカが触手つかってセックスするからといって、そうしない人間が道徳的に不正だということにはなりませんしね。

 

……レイプは人間独自のものだと定義してしまうと、人間のレイプの要因について参考になるかもしれない、それ以外の生き物たちの行動を、最初から除外して考えることになってしまう。実際、要因を理解する上で生物学の基本的な手段となっている比較分析の重要性を、そうした限定的な定義は否定することになってしまうのだ。(pp. 226-227)

レイプを、かならずしも物理的に暴力的であるとはかぎらないなんらかの意味で強制的な(あるいは強制的に見える)交尾と定義してみると、いろんな生物でそういうのは見られて、そういう行動がどういう条件下で起こるかそれぞれの動物の特性や環境や条件など考え合わせるとおもしろいことがわかってくる。人間もそういう研究の対象になりうるわけです。「浮気」も同じですね。

 

     

    「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

    なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。

    これは加藤先生の文章を読んでも私にはピンとこない。というわけでズック先生のを見なければならないのだけど、ズック先生が言いたいことも実はよくわからんのですわ。

    鳥たちは、「浮気している」のではなく、ただするべきことをしているにすぎない。(ズック p.120)

    これ読むと、「鳥は浮気をするべきなのか!」と読んでしまう人がいるかもしれないけど、原文は ‘The birds aren’t “cheating”, they are just what they do’ なので、鳥というのはそういうことをするものだということですわね。べつにしなきゃならんとか、しないと道徳的に非難されるとかそういうことではない。

    まあよく読むと、ズック先生が言いたいのは、加藤先生が引用していない次の箇所。

    もし鳥たちの行動を、私たち自身の行動のためのモデルや正当化の手段として使用しようとするなら、私たちは自分たちのモラルについてきわめて不確実な根拠に基づいて決定を下す危険を冒すことになる……(p.120)

    これはまったく正しい主張ですね。つまり、鳥が「浮気」と呼べる行動をする、そしてそれは我々人間の行動とよく似ているとしても、だからといって我々人間が鳥と同じように「浮気」することが道徳的に正当化されるとか、当然のことだとか、許容されるべきだということにはならない。当たり前のことです。しかし、「浮気」という言葉を鳥の行動に適用してしまうと、鳥では許されるのだから人間でもゆるされるべきだ、と考えるやつが出てくるということだろうか。まあそういうことを考える人はいるかもしれないけど、それは生物学の専門用語や比喩としての「浮気」を批判するよりは、鳥と人間の区別がつかないような人々の考え方を非難した方がいいのではないか。

    まあでも、言葉づかいによるバイアスが、生物学研究や、人間社会研究に影響を及ぼすということは十分ありえるので、どんなに注意しても注意しすぎることはない、ぐらいは認めてもよい。

    しかし加藤先生の続く箇所はまた別の意味でわかりにくい。

    同じ理由から,ズックは『ネイチャー』誌に掲載された論文の一つが鳴禽類のヒナたちを「婚外子」(“illegitimate”)と呼んだことについて,「鳥の親たちが鳥用の小さな結婚証明証でも持っていて,誓いの言葉でもさえずったかのよう」だと批判している(Zuk 2002: 71=2008: 121) .言うまでもないことだが,鳥ーーだけでなく人間以外のすべての生物—は「結婚」などしない.かれらは自らの行動を「結婚」という規範的制度に結びつけて意味づけたりはしないからである.鳥類の一部が「一夫一妻」風のつがいを形成するのは,進化の結果としてそのような行動上の傾向性を獲得した結果であり,そしてそれがすべてであって,人間のように,それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているからではない.

    たしかに、結婚証明書を作る、という意味では鳥は「結婚」なんかしない。しかし、同じように結婚証明書を作らないでカップルになったりセックスしたり子供をつくったりした人々は世界中にたくさんいたし、いまもたくさんいる。というか結婚証明書を作るという意味で結婚した人々など、人類の歴史のなかではほんのわずかにすぎないだろう。では、結婚証明書を作らなかった人々は結婚しなかったのか?

    そうではない。加藤先生が言いたいのは、自分たちの行動を「結婚」という規範的制度なるものに結びつけて意味づけている人々だけが結婚したといえる、ということだろう。これは社会学者らしいものの見方だと思う。社会学者にとっての関心事は、こうした再帰性というか自己意識的というか、そうした性質をもつ社会制度が現在の社会でどのように機能しているかとか、歴史的にどのようにして成立してきたかとか、今度どうなっていくかとか、そういうことであるというのはよくわかる。

    しかし、人間社会の結婚制度を考えるときに、生物として、哺乳類としての人間がもっているさまざまな生活や繁殖の上での条件制約を考慮に入れることは当然必要であるように思われる。人間の生殖に関しても、他の動物、他の哺乳類や、特に鳥のようにつがいになって繁殖する傾向のある動物との類似や対比から学ぶことことは多いはずであり、鳥のつがい行動を、それは結婚証明書を作ってないので、あるいは自分たちが結婚しているとは理解していないので、「結婚」ではないのだ、と一蹴してしまう必要があるだろうか。また、人間が性的なペアや集団になる傾向をもっているのは、単に「それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているから」と考えて十分だろうか。もちろん、人間は現在どの文化においても「結婚」という排他的制度をもっているわけだけど、そうした制度をもっているのは単なる偶然ではないはずだ。そして、結婚関係をむすんでペアやグループになるのは、それにしたがわないと社会的なサンクション(制裁)を受けるからという理由だけではないはずだ。そんな単純な話になっているはずがない。私の読みが悪いのかもしれませんが、かなり不用意な文章になってるんではないかと思うのです。

     

    「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

    まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

    これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

    「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

    だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

    「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

    鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

    この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

    なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

    っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

     

     

     

    「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

    んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

    ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

    まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

    生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

    ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

    ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

    上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

    もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

    ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

    なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

    なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

    社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

    まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

     

    読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

    途中で引用したのは下の。

    加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

    年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

    まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

    (特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff

    ビショフ先生

    p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

    このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

    あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

    遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

    メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

    そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

    「フェミニスト認識論」については話がよれている

    p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

    日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

    ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

    まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

    少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

    バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

    せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

    加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

    先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

    (続く)

    日本学術会議でのシンポの様子は下の本でわかるはず。

    海外の論争の様子は下。