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学術論文における言及とクレジット (2) 河野有理先生のエントリーへの疑問

んで、このクレジットの問題を考える上でのとっかかりになった笹倉秀夫先生の書評と、それに対するネット民(ネット人士?)、そして専門家の河野有理先生の「初期消火」論説についてやっぱりどうしても触れないとならない。このシリーズの予定では、この問題に直接関係はない、って書いたんですが、やっぱりどうしても触れないわけにはいかないですよね。正直、私は河野先生の文章がよくわからない。

(本エントリーのみ公開仕様にします。拡散していただけますと幸いです)下記のような論文が一部で話題のようです。業界の評判に関わることですので簡単に一言します。結論から言うと、この論文での著者の主張(苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』と…

河野 有理さんの投稿 2018年12月4日火曜日

この件につき公開エントリーはこれで最後にします。(※12月15日に二つの追記をしました)前エントリーでは、早急な初期消火の必要を感じていたため、笹倉氏の書評を真に受ける必要がない旨のみお伝えしました。また、手元には笹倉氏の『丸山眞男論ノ…

河野 有理さんの投稿 2018年12月7日金曜日

疑問やコメントを順不動の箇条書きで残しておきます。

  • まず、二つ目のエントリーの方、「笹倉書評の主張は、「苅部本(2006年)の記述は、笹倉本(1988年)と「通常考えられないほど重なっている」というものです」は、正しくは「笹倉本 (2003)」だと思います。書評で笹倉本と呼ばれているのは1988年の『丸山眞男論ノート』ではなく、それを増補改訂した2003年の『丸山眞男の思想世界』です。苅部先生のが2006年ですので、執筆直前に出たような感じでしょうか。これずいぶん印象違いますよね。実はこれ、もとの笹倉先生の文章も全体に読みにくいといころがあって、私のようにそそっかしい読者は把握してない可能性がある。私1988年の方は見てないのでわからないのですが、2003の『思想世界』は『丸山眞男論ノート』を第二部にしていて、さらに『方法としての丸山眞男』(1998)を第一部に、「複合的な思考」(1996)を第三部に加えてるようで、まあぜんぜん違う本と見てもいいんではないでしょうか。
  • 苅部先生が独創性を主張していると笹部先生は執拗に指摘してる、って話。当然の確認だと思います。これはふつうの著作は独創性を主張しているわけですが、教科書、事典などはそうではない。新書は判断がむずかしいときがあるが、岩波新書はあきらかに著者を前面に出したオリジナルな研究のはずで、苅部先生だって自分の独創性がないなんてまったく主張しないように思います。笹倉先生はそれ(「単なる教科書的な概説じゃないんだな?」)を確認しているんだと思う。
  • 笹倉先生の主張する「重なり」が「字面レベルではほとんどまったく似ていない」、ということですが、字面が似ていればこれは笹倉先生の主張するアイディアの無断借用などではなく、まったくの著作権侵害で話は別。「アイディアの無断借用」や「剽窃」plagiarismと、著作権侵害 copyright infringement とはまったく別の概念だと思います。ちなみに私は剽窃はわれわれが非常に犯しやすい行為で、かつ、必ずしもとても重大な悪と呼ばれるべき行為とも言えない場合がある、と主張したいのですが、それはまたあとで。
  • 学術的なクレジットは必ずしも「第一発見者」につけるものではない。また「専売特許」のようなものではない。基本的には情報の流通の依存関係をあらわすものだと思います。「アイディア使われたかもしれない」というような訴えを「専売特許を主張するのか!」みたいなのはあまりよくない反応だと思います。(ちなみに著作権と特許、そして専売制度もまたぜんぜんちがったものです)
  • 「「たった一行なぜ俺の名前を書けないのか」的なことなのではないかとも邪推」ということですが、これはどうでしょうか。わたしはたった一行でいいから笹倉先生の書いてあげるべきだという考え方は十分なりたつと思います(このケースで実際にどうかという判断はしませんが、そうした要求をすることは悪いことではないし、正当な場合も多いと思う)。苅部本では文献リストは8ページもあるし、丸山の文献については本当に必要なのかか門外漢には判断できない情報も載せているのだから、1行笹倉2003を載せるのは何の苦もないはずだと思います。一般読者にも、丸山研究のまとまった書籍の代表的なものの存在をいくつか示すことは有益だろうと思いますし。
  • 「松澤、石田、飯田諸氏による丸山論の方が使いやすい」ということですが、使いやすさの問題ではないように思います。実際にそれらを使ったかどうかが問題のはずです。その文献を参考にしたかどうかは執筆者本人しかわからないように思います。
  • 笹倉先生が主張する「重なり」の1の「あい矛盾する二つの要求」はたしかに陳腐かもしれません(だいたい思想家は葛藤する要求やアイディアをもっているものです)。しかし2の「型」の強調はわりと印象的で(これは笹倉1988ではなく2003のものです)、3、4、5、7などでの使用文献の重なりが偶然的なものなのか私には判断できません。そうした論の進めかた、文献使用の選択などそれ自体が「アイディア」であるように思います。
  • 河野先生のエントリーについてもっとも大きな違和感は、「優れた先行研究だけが参照され、言及され、文献リストに載せられるべきだ」というような考え方をもっておられるのではないかという点にあります。研究史において重視されている文献だろうがそうでなかろうが、参照しアイディアを借りたり批判したりするときには言及する、というのがふつう要求されている態度であって、もちろん参照しなかったのなら言及する必要はない、というそれだけのことに私には思えます。
  • また、優れた書籍、優れた論文はもちろん大事ですが、昔の文献に仮に誤りが含まれていたり情報不足の面があるとしても、部分的に、情報として有益なもの、オリジナリティを認めるべきものは存在するはずです。そうしたものを参照したのならそうはっきり書くべきだと思います。
  • 「先行研究は誘惑するものである」といった文学的な表現は魅力的ではありますが、そうした考え方は必要なく、見たものは見たと書き、参照しなかったのなら「参照しなかった」あるいは「見たけどぜんぜん参考にならなかったので省いた」でOKであるように思います。ただしこれは本人が答えねばならない。もっとも、そうした「アイディアを無断借用したのではないか」という(特に本人からの)疑義にさらされないためには、前のエントリに書いたように「迷ったら言及しておく」ぐらいしか手段がないように思います。
  • 「この12年間、笹倉氏以外の専門研究者コミュニティから疑義の声(「苅部本が笹倉本を参考文献表に加えないのはおかしい!」)が出ていないのはそういうことです、としか言いようがないのでは」ということですが、これはだからこそ問題で笹倉先生自身がああした書評を書かざるをえなかった理由なのだと思います。文献表やアイディアの流通のようもののチェックは、一般読者・門外漢には不可能です。文献リストを眺めて「欠けている」ものを見つけるができる非専門家はいません。したがってそうしたことは専門的な研究者に期待される役目なわけですが、そうした専門家が皆、河野先生のような考え方をしているのであれば、12年間疑義の声が出ないのは当然ではないかと思います。
  • またそうしたことを指摘するのは非常に難しく、さらには笹倉先生本人が指摘したのをネット人士が「あれ?」と思い話題にする程度のことさえ専門家によって非難にされるのであれば、そうした指摘が出ないのはまずます当然ではないのかと思います。「無断借用」、剽窃だの盗用だのという指摘は非常に重大なものだと考えられているので(私はそうでもないケースもあると思うのですが)、よほどはっきりしたケースでなければふつうの人間にはできませんし、そもそも専門家であっても気づかないものです。また気づいたとしても、そういうことをはっきり指摘できる人はめったにいない。だから通常はそういしたものは本人以外が指摘するしかない。
  • 河野先生のこのエントリの最初の「1988」がまちがっていることさえ、他の人々によって指摘されず「プロの仕事」として大量にリツイートされているのだから、アイディアの借用などのようなもっと微妙で危険な問題について誰もなにも言えないのは当然ではないかと思うわけです。だから門外漢の「あれ?」ぐらいのは許してほしいし、そういうの簡単に非難するのはやめてほしい。私は、弟子とかいないし関係者も少ないしいちおうテニュアもってることになってるからこういしたことが書けるわけですが、それでもものすごく怖い。それでも私みたいな人間が書かないとならない、っていってがんばってるわけです。勘弁してください。
  • 現状では笹倉先生がうったえるようなことは「研究不正」とはされておらず、その点は笹倉先生自身もよく理解していると思います。そしてどれくらいそうした参照や言及が必要なのかということは、国・個人・読書界・学術業界や出版形態に依存して相対的なものであり、また我々がいま現在つくり作りあげている規範であって、だからこそ私は笹倉書評に注目しました。

 

 

↑これの最後の法に「著作者とあれる人々の保護」というおもしろい論文がはいっています。以降はこれと、前回エントリに書いた↓のをちょっとずつ紹介したいです。

 

学術論文における言及とクレジット (1) 迷ったら参照せよ

ちょっとだけクレジットの問題ついて書いておきたいことがあるのです。最近ツイッタでちょっと怒られが発生したようようなんで1)ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。、その件と関係してはいるけど、その件自体には直接は関係しない2)もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。。学問の世界での引用や参照、クレジットや「剽窃」の問題には前から興味があるので、ちょっと思うところだらだら書いてみたいと思っています。

学生様にレポートや卒論を書いてもらうとき、やっぱりコピペや剽窃といったクレジットの問題については頭を悩まさざるをえない。自分で論文やブログ記事を書くときはさすがにコピペはしないものの、やっぱりクレジットについてはずいぶん悩むものです。そういうのは大学で授業してレポート書いてもらいはじめてすぐに悩みはじめたことだし、20年以上ずーっと悩んでることですわね。これは大学教員はみんな同じだと思う。

10年以上前に昔なつかしの「ホームページ」に「レポートの書き方」とか「剽窃を避ける」みたいな文章書いて、ずいぶんリンクしてもらったりして、まあ最初はネットもそういう話を直接にあつかったページは少なかったように思う。いまではたくさんあるのでよい時代になった。私のページとかもう価値なくなってる。「レポートの書き方」系のよい本もたくさんあるし。

私自身は「コピペ問題」とかはもうあんまり悩んでないわけですが、難しいと思ってるのは学生様にクレジットのつけかたをどう教えるか、みたいなことで、基本的には「迷ったときはなんでもクレジットつけろ、ページまで」みたいな指導になってるのです。それだといわゆるコモンノレッジ、共有知、あたりまえのものまでクレジットつけるようになって、まあ安全ではあるけどうざいというか。

「剽窃を避ける」https://yonosuke.net/eguchi/archives/2878 を書いたときも、「多くの人が共通に知ってること」を説明するのにずいぶん苦労して、まあ「5冊以上の本で出典なしに挙げられてるのは共有知」みたいな説明になってるけど、これでいいのかどうかわかららない。

マクミランの学生向けのページだとこんなになってる 。https://www.macmillanihe.com/studentstudyskills/page/Referencing-and-Avoiding-Plagiarism/

「特定の分野の人が(当然)知ってることが期待されるような知識」みたいな感じっすか。でもこれじゃ学生はわからんわけですわね。

このマクミランのページでは「授業に参加する前にその情報知ってましたか」「自分の脳味噌から出てきましたか」とかたずねてみて、どちらも「ノー」なら、少なくともあなたにとっては共有知ではない、だったらリファレンスつけましょう、みたいな感じになってますね。

ちなみに引用・参照しなければならないのは、(1) 独特distinctiveなアイディア。これはまあ当然か。これおそらく、他のソースと違う、ってことよね。国内ではわりと軽視されているのが、(2) 特徴的な構成あるいは構成手法。ある問題にとりくむにあたっての問いの立てかた、問題を検討するにあたっての文献や論者の選択、こうしたものも広い意味でアイディアなので、これにもクレジットつけないとならんと考えるのだと思います。(3) 特定のソースからの情報、データ、(4) 逐語的フレーズ、パッセージ、(5) 共有知でない情報とか。

(3)や(4)は当然で、特に(4)の逐語的フレーズ/パッセージはクレジットなしに他人の文章を使ったら著作権法違反ってことになる。ただし著作権で保護されているのはアイディア(思想・発想)ではなく「表現」でしかないので、特定のアイディアを他人から借りてもなにも著作権法に反することはない、と私は理解しています。(5)はさっきの「共有知」問題にかかわるやつ。

まあどれもいろいろ面倒で、だからこのページでは、実践的な指針として、(6)「 迷ったら、言及せよ!」というのが主張されている。このページでは、そうしていちいち引用・参照して言及する一番の利点はトラブルを避けることだとはっきり言われていると思う。 “good referencing is essential to avoid any possible accusation of plagiarism.” ちゃんとした参照は、剽窃の疑いをかけられるのを避けるために重要です、とのこと。おそらく、あるアイディアの使用が盗用だとか剽窃だとかという疑いはあまりにも簡単にかけられてしまうので、疑いをかけたりかけられたり、弁明したり、証明したり、他の人々が検討したりしなければなかったりするトラブルとコストを避けるためにはやはり参考にしたものはいちいち言及しておきましょう、という話だと思います。これはたしかにうざい。

まあそういうのは、場合によっては、あるいは手法によっては書くのも読むのも非常に煩雑になるので時に有害でもあるかもしれないけど、でもトラブル避けるためには多めに言及しとくっていうのは英語圏の流れだと思う。だから自己啓発本みたいなのもリファレンスだらけになる。

ワシントン大のだとこんな感じ。 https://depts.washington.edu/psych/files/writing_center/howtocite.pdf

Even if you arrived at the same judgment on your own, you need to acknowledge that the writer you consulted also came up the idea.

先行研究と同じようなやりかたや結論になったとしても、他の人の研究にコンサルトしたら、つまり論文読んで参考にしたのなら、ちゃんと名前あげなさいよ、みたいな指導がされている。

しかしこのレベルを実践しようとすると、新書のような日本の主流の出版形態が維持できない、っていう問題があるのだと思う。そういうのをどう考えるか、っていうのが私が関心があることなのです。

どういうわけか私年配の先生はわりと苦手なのに、なぜか話あいてになることは多くて(なぜだろう?)、名なり功を遂げた先生たちでもそうしたこまかいことを気にしているのはよく耳にしている。「偉くなったんだからそれくらいいのではないか」とか言いたくなったりもするんだけど、そうして偉くなる先生はむしろそうした功名心が背景にあってこそ偉くなれたのだ、みたいなのを感じることもある。

我々が勉強したり研究したり論文書いたりする一番大きな動機はおそらく功名心あるいはクレジットなので、「たった一行でも私の名前を入れてくれ」みたいなのは非常によくわかる欲求だからわたしはそっちがわに立ちたい。これはそんな簡単に却下できる望みではないと思う。

んじゃ具体的にどうするか、っていうのはまあみんなで話あうのがよいのではないかと思うわけです。というわけで続きます。

 

 

References   [ + ]

1. ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。
2. もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。

剽窃を避ける

剽窃とは

剽窃・盗用 (plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です。大学生はすでにアカデミックな世界の一員であって剽窃は絶対に行なってはなりません。「なぜ剽窃をしてはいけないのか」については「なんで丸写しじゃだめですか?」ってページを書いてみました。

このページの冒頭にあげているインディアナ大学の Plagiarism: What It Is and How to Rocognize and Avoid It というすばらしいガイドでは「剽窃」を「情報源を明示することなく、他人のアイディアや言葉を利用すること」として、剽窃を避けるため次のことに注意しなければならないと言っています。

次のものを利用するときはいつでもクレジットをつけ
なければなりません。

  • 他人のアイディア、意見、理論
  • 他人が発言したことや他人が書いた文章のパラフレーズ
  • 多くの人が共通に知っていること(common knowlege)でないような事実、統計、グラフ、図など

この「多くの人が共通に知っていること」はなかなか微妙です。なにが「みんなが知っていること」でなにが「オリジナルな主張・発見」かは、その分野をよく知らないとわからないですからね。別の大学のサイトで、「5冊以上の本などで出典なしに挙げられている」ということを目安として提案されているのを見たことがあります。

パラフレーズ

なかでも「パラフレーズ」はなかなか難しい問題です。パラフレーズとは、ある表現を他の表現で置きかえることなのですが、どの程度違う文章にしなければならないのかをはっきりと示している文章を、国内ではほとんど見かけたことがありません。私は、それが大学におけるレポートの剽窃の横行につながっているのではないかと思います。

つい最近、この件をよく考えてみなければならない出来事がありました。それを利用して、上のインディアナ大学ガイドのような形で問題を指摘してみたいと思います。

次の文章はソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998、p. 129-130)の一部です。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。したがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣──あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の規範体系のなかでも、きわめて重要な特徴──が生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている出生率の低さは、同様に、顕示的消費にもとづいた生活水準をみたす、という必要性に起因している。子どもの標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。

非常に示唆的な洞察ですが、こういう硬い文章に慣れない人にはちょっと歯応えがあるかもしれませんね。翻訳調だし。何を言っているかわからない、と思うひともいるかもしれません。

これをある学生さんがレポートで次のように書いていました。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果、他者から見られる生活の公開部分に比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということが言える。また、派生的な結果として、人々は自らの個人的な生活を他人の目に晒されることから守る、と言う習慣を身につける。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになるのである。そして、間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣も生じることになった。顕示的消費に基づいた生活水準を満たすことを考えた際に、子どもの養育に要する支出の増加は極めて大きく、面目を保つための支出に追われているような階級での出生率の低下も考えられる。現代日本の出生率の低下に関しても、原因の一つとして当てはまるのではないだろうか。

この文章を書いた学生さんは、たしかに、レポートの冒頭で一応、

本稿はヴェブレンの『有閑階級の理論』(1998年、ちくま書房、ソースティン.ヴェヴレン1:著、高哲男:訳)をもとに、この顕示的消費と、顕示的消費における(略)

と書いているのですが、それでもこれは剽窃になります。

一つには、 ヴェブレンの『有閑階級の理論』のどのページにあるのか明記していない からですが、もっと重要な問題もあります。ヴェブレンの文章とレポートの文章を比べてみましょう。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる他者から見られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということであるということが言える同じ差別のまた、派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目他者の目に晒されることから守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになるのであるしたがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣──あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の規範体系のなかでも、きわめて重要な特徴──がも生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている出生率の低さは、同様に、顕示的消費にもとづいた生活水準をみたすことを考えた場合、という必要性に起因している。子どもの標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。面目を保つための支出に追われているような階級での出生率の低下も考えられる。現代日本の出生率の低下に関しても、原因の一つとして当てはまるのではないだろうか。

ほとんどヴェブレンの記述の順番そのまま、細かいところを自分で入れかえただけです。語順さえも直っていません。このように、このレポートを書いた人は、ヴェブレンの文章の重要な語句のまわりにある細かい語句を変えているだけなのです。 これも剽窃とみなされます。

インディアナ大学のガイドは次のようなパラフレーズは剽窃であるとしています。

  • オリジナルの文章の一部の語句を変更しただけか、あるいは語順を変更しただけである
  • アイディアや事実の出典を示していない

ふつうの大学生なら、「出典を示せ」は耳にタコができるくらい聞かされていると思いますが、パラフレーズの件についてはあんまり指導されていないんではないでしょうか。しかし私も上のヴェブレンの件は剽窃だと考えます。

それではどう書けばいいのか

んじゃどう書けばいいのか、ってのはなかなか難しい問題です。インディアナ大学のガイドでは次に注意したパラフレーズは正当だと述べています。

  • オリジナルの情報に正確に依拠する
  • 自分自身の言葉を使う
  • 読者が情報源を理解できるようにする
  • オリジナルの文章を正確に記録する
  • 文章におけるアイディアにクレジットをつける
  • 引用記号をつけることで、どの部分がオリジナルのテキストからとられたもので、どの部分が自分で書いたものか判別できるようにする

インディアナ大のガイドは、剽窃を避けるためもっと具体的に次のような方な方策を次のように述べています。

  • テキストから直接に書き写したものには常に引用記号(「」)を付ける。
  • パラフレーズする。しかし、いくつかの単語を書きかえただけではだめ。次のようにします。
  1. まずパラフレーズしたい文章をよく読む。
  2. 手でその部分を隠したり、本を閉じたりしてテキストが見えないようにする(テキストをガイドにしちゃだめ)。
  3. 覗き見せずに自分の言葉でそのアイディアを書いてみる。
  • 最後に、オリジナルの文章と自分の文章をつきあわせてみて、まちがった情報を書いてしまってないか、同じ言葉を使ってしまってないかの二点をチェックする。
  • (インディアナ大のには書いてないけど)忘れないうちに出典をつける。

さっきのヴェブレンの文章の前半を、実際に上の方法1と2にしたがってやってみました。

ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、プライバシーという規範は顕示的消費と関係がある。ひとびとが他の人々に見せつけるために消費するのであれば、他人に見えない部分ではそれほど消費する必要がない。むしろ、顕示的消費を行なうため、見えない部分に費す費用はより少なくなる。そのため、生活の他人に見えない部分は相対的に貧弱でみすぼらしいものになる。そういう貧弱な部分を他人に見せないために、プライバシーを守るという習慣が発生するのである。(ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳、ちくま学芸文庫、p. 129)

あんまりうまくないですね。あはは。まあ平凡な大学教員の読解力、記憶力、文章力なんてこんなもんです(私ヴェブレンほとんど勉強したことないしとか言い訳したくなる)。でもここまで来れば、まあ「自分の文章だ」ってな感じでもあります。

さらに教員の側から

まあ私自身が拙いパラフレーズの腕を見せたのは、それが ほんとうに難しい ということを示すためでもあります。私の考えでは、学者の腕のよしあしの大きな部分はパラフレーズの巧拙によって決まります。まあそればっかりやっている業界もあるわけで。

ちゃんと内容を理解しないと適切にパラフレーズすることはできません。逆に言えば、パラフレーズを見ればその人がどの程度内容を正しく理解しているのかがわかる。学生にレポートを書いてもらうのは、授業内容を理解してもらうためなわけで、つまり「適切にパラフレーズ」させることによって内容を把握させたいと思っているわけです。だからそれは一所懸命やってほしいのね。

パラフレーズだけでなく、剽窃一般についてもちょっと書いておきます。レポートを書かせようとするときに一番頭が痛いのが剽窃です。正直、採点するのがいやでいやでしかたがないくらい教員にとって頭痛のタネなのね。

教員の側からすれば、どの大学の何回生がどの程度の文章を書くことができるのかははっきりわかっています。文章がうまい、難しい言葉を平気で使う、斬新な発想がある、なんてのはたいてい剽窃なのね。そんなのに点数出したくない。さっきのレポートでは、一目見たときはどっかのwebからのコピペに違いないと思いこんでしまいました。その発想の豊かさと、奇妙な翻訳調が、勉強不足の大学院生あるいはかなりあやしい大学教員の文章に見えたのです。

べつにうまい文章、きれいな文章、すごい発想なんていらないから、とにかく自分で書いてみてください。

もっとプラクティカル

日本の大学生レベルでは、インディアナ大のような注意をする前の段階の学生が多いと思います。私はもっとプラクティカルなノウハウが必要ではないかと思います。やってみましょう。

さっきのヴェブレンです。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。

たいていの学生はこれだけの文章もけっこう歯応えがあると思います。どうすりゃいいんだろう?そこでまず、次のように書きはじめてみます。

市民社会でのプライバシーの問題について、ヴェブレンはどう考えているのだろうか。

まず自分で疑問文を書く。次に、ヴェブレン本人の文章を引用する。さらに疑問文をつける。

彼は「産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる」(p. 119)と述べる。しかしなぜ産業的に発達することと、家庭生活が排他的なものになることが関係しているのだろうか。

ここまで来ると、ずいぶん書きやすくなってくる。これなら答えられるかもしれないと思ったら次のようにすればよい。

ここで重要なのがヴェブレンが注目した「顕示的消費」である。顕示的消費とは〜

「顕示的消費」とかってのを一応説明するわけね。

ヴェブレンの指摘によれば、近代的な共同社会では、顕示的消費のために他人に見えないところに費す費用を抑えるという動機がはたらく。したがって、家庭の内部での生活はみすぼらしい。

さらに、自分の体験から例を加えられればよりベター。読者は、「この人実感でわかってるな」と思います。

たとえば、驚くほど華美な服を着ている女子大生が、アパートに帰るとケバだったジャージ姿でカップラーメンをすすっている、などという光景はいまでも見られるだろう。しかしそういう格好は他人には見られたくない。だからプライバシーが重視されるようになるのである。

もちろんこうして自分の頭で書いていくと、結果的にできるのはヴェブレンの高尚な文章から遠く離れたしょぼいものになる。しかしそれでいいんです。それが文章を書くということなのです。それがなにかを学び理解するってことなのだと思います。