小宮友根」タグアーカイブ

宇崎ちゃん問題 (10) 小宮先生の論説についてはおしまい

というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。

「性的」

これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。

小宮論説全体について

小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。

先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと思うのです。私がその難解な文章表現にタックルして理解したいくつか(すべてではない)をあげてみます。

先生の主張の一つは、(1) 「フェミニストやポスター等を批判する人々にも一理あるのだから、ちゃんと言うことを聞きましょう」。賛成ですね。異議なし。

(2) 「表現物からはいろんなことが読みとれます」。賛成ですね。ただ、「表現物には(一つの)正しい読みがある」、とか、「みんな〜と読むべきだ」って言われたらノーです。でもそうは言ってませんね。あと「表象(表現)の意味」みたいな書き方には注意してほしい。それは作品というよりは、我々がなにを読みとるか、の問題だと思う。

(3) 「表現物が、差別その他の問題を含む場合がある」。これも強く同意します。そして、その読み方はさまざまありえるので、おおやけの評論や議論が必要だ。これも同意。

小宮先生の「現実の(たとえば統計的な)人々への影響とは別に、表現自体の道徳的評価ができるはずだ」という発想は私も同意するところです。街中で「XX人は殺せ!」とか叫んでいる人がいると仮定して、それに現実には誰も従うことがなくても(そして賛同する人が増えるということもないとしても)、やっぱりそうした発言は悪しきものであり邪悪なものである。そうしたものの道徳的悪さ、邪悪さ、思慮のなさ、というのは、現実的な影響がほとんどないとしても考慮されるべきだと思う。

ただし、前にも書いたけど小宮先生が「悪さ」という言葉を選択したのはやっぱりあんまりよくなかった。私だったら、そんなに差別などの不正さがはっきりしないものは「道徳的に悪い」ではなく、「(道徳的に)問題がある」「問題含み」problematicぐらいにしておくんじゃないかと思います。

(4) 「性的な関心をより満足させるためのさまざまな表現方法がある」。これはOKなんですが、ただ、そうした表現方法を使っているからといって、性的な関心をより満足させるためにその表現方法を使っているとはいえない。

小宮先生とふくろ先生は、どういうわけか例にあげた手法を「これは〜のための表現だ」って強く主張しているように見えますが、それは主にふくろ先生とかがそういうふうに「理解」している=考えてるっていうだけの話かもしれません。ポルノ作者もマンガ作者も、つねにさまざまな手法を学び、開発し、より満足のいく作品をつくろうとしているわけであって、クリエイターに共通のできあいの「記号」みたいなのがあり、それを組合せて作品をつくり、その記号そのものに鑑賞者が反応している、なんてことになっているとは思えない(そうしたことを主張しているのかどうかはむずかしいのでよくわからない)。

たしかにポロック先生たちやイートン先生は、絵画表現におけるさまざまな技法をもちいていますが、そうした技法を使うことはすなわち性的なモノ化であるとか、それ自体に問題があるとか、そうしたことは主張していないと思う。

(5) 「これからいろいろ議論しましょう」。そうですね、みんな好きなことを言って批評すればいいと思います。でも、簡単に電凸とか不買運動の呼び掛けとかするのはやめてほしい。みんなでよく考えて議論してからにしましょう。

(6) あ、目玉の「累積的経験」の話ももちろんOK。えらい。ただし、もっとわかりやすいふつうの表現にはできそうだと思う。個人的な経験のなかで、Aにいやな思いをさせられたら、Aに関連するいろんなものに対して嫌悪感や反発や問題意識を抱くことになりやすい、っていうことよね。累積的経験なるものによって一部の表現物に対する感受性が変化するのだとか、それはふつうは連想と呼ばれるものだ、ってところまではっきりさせてほしかった感じはある。

もうひとつ、こうした累積的経験というか個人的な経験からさまざまな問題意識をもつこと(そして嫌悪感や反発の傾向を身につけること)自体は悪いことではないかもしれないが、そうした経験から偏見を育てあげてしまったり、過剰に攻撃的になったりすることはよくないことかもしれない、っていうことにも触れてほしい。(累積的なネガティブな経験はフェミニストだけがもつものではない)

さらには、一部の表現に対するフェミニスト的反発が累積的経験なるものから説明できるからといって、そうしたフェミニスト的反発や問題意識が正当化されることにはならない(他の人々についても同様)。小宮先生が、累積的経験の話から、どのような規範的な判断を導こうとしているのかよくわからない。「だからフェミニストの言うことをそのまま聞け」ではないだろうと思う。それとも、単にどのようなメカニズムで論争が起こるのかを記述的に分析しているだけなのだろうか。

小宮先生の主張は弱すぎる

むしろ小宮先生の論説の問題は、おそらく、その主張が弱すぎることなんですわ。上のような先生の主張は、私だけでなく、一連の論争みたいなのになにかコメントしている人々は皆同意すると思う。論争みたいなのはむしろ個別の作品(ポスターや雑誌表紙等)が、そうした問題含みのものになっているか、という点でおこなわれていて、それが長く続いているので、小宮先生の論説が出た時点では、「問題含みの「可能性がある」」というだけでは満足しない雰囲気が形成されていたと思う。そこに「問題がある可能性がある、道徳的に悪いものである可能性がある」っていう主張をもってきても、「んじゃ悪いっていうんだな!なんで悪いんだ!」っていうふうに読まれちゃったのだと思う。よく読むと先生はそうしたことはなにも言ってないんですよね。ふくろ先生の模範作品しか言及されないし。

せめていくつかの作品について、それが実際に小宮先生が指摘するような「悪さがある」って主張するようなものなのかどうか判断してみてもらえればよかったんではないかと思います。でもそれは先生のような立場(どういう立場かわからないけど)の人が書くことではないのかもしれない。でもそれでいいのかなあ。

でも、やっぱり我々が関心をもっていることに、学者として(あんまり人気がないかもいしれない立場から)コメントするっていうのはやっぱり偉いし、この件についてはずいぶん議論が深まったと思います。えらい!特に、マンガやアニメなどの非実在人物のあつかいみたいな話は、もっと若い世代の人々もいろいろ勉強しておもしろいことを言ってくれそうな気がします。そうした議論をすすめていくのはやっぱり対立とかないとならないので、矢面に立ったのはほんとうにえらい。私も書くべきだと思ったことを、ブログていどでもいろいろ書いていこうと思います。

てなわけでおしまい。

後記:この一連の記事、「誤謬推理と詭弁に気をつけよう」というタイトルのシリーズにしてたのですが、実際にはそういう話にはならなかったし、そもそも小宮先生のやつが詭弁だとか誤謬推理だとか言いたいわけでもなかったので(実は牟田先生のやつも)、タイトルあらためました。(1)だけはそのままにしておきます。いずれ誤謬推理についての(2)も書くと思う

宇崎ちゃん問題 (9) 「意味づける」を意味づけることに疲れました

もう疲れてきたので途中でおわってしまいたいのですが、まあはじめてしまったものはしょうがない。「意味づけ」です。小宮先生のこの言葉の典型的な使いかたはこんな感じ。もちろんこれまで同様「意味づける」ということがどういうことかはほとんど説明がなく、手掛かりもありません。

「表象の中で女性がどのように意味づけられているのか」
「女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。」
「「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっている」
「「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけ」
「女性に対する抑圧的な意味づけ」
「女性のみを一方的に性的客体として意味づける」
「「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」
「相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをする」

「意味」も曖昧だけど「意味「づけ」」てなんでしょうね。英語にするとどうなるんかな、とか思いましたがあんまり思いうかばない。「attribute A(性質) to B(対象)」かなあ。「意味」を「つける」って日本語の語感だと、レッテルみたいな「意味」を対象(ここではおもに女性)にくっつける感じなわけですが、私が宇崎ちゃんという実在の女性が魅力的だと考え、その意味で宇崎ちゃんに「魅力的」っていうレッテルをペタっと貼ったとしても、そのレッテルは私にしか見えないし、私が関心を失なったり、死んじゃえば剥がれちゃいますよね。なんてメタファーでお話をすすめたりして。ははは。

でもまあとにかくこの「意味づける」は「〜と考える」で十分なんじゃないっすか。「意味づける」っていう難しい表現をつかってなにを得するんだろうか。

私が宇崎ちゃんを魅力的だと考えてそう意味づけしたからといって、私には権威も権限も超能力もないので、他の人が宇崎ちゃんを魅力的だと考えるようになるとは思えない。でもまあ有力な作家が、宇崎ちゃんというこんどは創作キャラクターをつくりだし、性的に魅力的な格好やポーズをさせたら、「宇崎ちゃんに性的に魅力的な意味づけをした」、ということになるかもしれない。これはさっきの単なる私がある人物を魅力的だと考えるのとはちがいますね。こっちの方がおそらく小宮先生の本意に近い。

しかし、これは宇崎ちゃんに性的に魅力的だという意味づけをしたのであり、まだ「女性」に意味づけしたわけではない。なぜ宇崎ちゃんを性的に魅力的に描き性的に魅力的だという意味づけをすることが、「女性」に意味づけすることになるのだろうか。

答は、宇崎ちゃんが(仮定により)女性だから。宇崎ちゃんは女性だから、宇崎ちゃんに意味づけすることは、女性に意味づけるすることになる。

しかし、これは宇崎ちゃん「という」特定の女性(あるいは女性キャラクター)に意味づけしただけで、女性全部に意味づけしたわけではない。女性一部に意味づけしたとは言えるが、女性一人(宇崎ちゃん)だけだ。

そこで、解釈としては、クリエイターが魅力的な女性を描くことは、女性の一部/多く/全部に魅力的というレッテルを張るということだ、ってことになるけど、これはダウトだ。いくら魅力的な女性を描いても、さほど魅力的でない女性はいるだろう。

したがって、もうひとつの解釈、「クリエイターが一人の魅力的な女性を描くことは、女性はみな魅力的であるべきだという主張をすることだ」っていうのになる。これが「意味づけする」ってのの小宮先生の言いたいことだろうと思う。しかしこれはかなりあやしい主張ですよね。私は簡単には認めないです。

 

宇崎ちゃん問題 (8) しかし、「理解を生む」だけは許さん!

まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。

でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない!1)「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」

理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」

「こうしたメタファー」が「理解を生む」の?誰が生むの?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。」

「エロティックなものとして描くことは」「理解を生む」の?主語はいったいなんなの?

こんなのおかしいっしょ。誰のものでもない「理解」とかって抽象名詞つかってるからこういうわけわからん文章になる。「Aさんは〜と理解するようになる」ってふつうの文章で書けばこんなわけわからんこと言う必要がない。こんな文章を「明晰」「わかりやすい」とかって評価している人はいったい何を見てるのですか!

こんなふうになるのは、「理解する」っていうことがどういうことかよく考えないままに、抽象的な「理解」っていう言葉をひとりあるきさせ、それが誰の理解や思考であり、何が誰の思考にどういう影響を与えるかも考えたことがないからじゃないんですか。あるいは、もしこういうのが意識的で意図的なものであるならば、はっきりふつうの言葉で書くと、奇妙なことを主張しているのがはっきりしてしまうから、抽象的で曖昧な書き方しているんではないですか。これでいいんですか。これは小宮先生ではなく、あの文章読んで、なにがしかのコメントができると思ったひとびと全員に聞きたい。

好意的に、好意的に、最善の相で

泣きべそかきながら好意的に読むと、最初の一文は、「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えます。同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、こうした技法は、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いていると私たちに理解させるようになるでしょう」かな?でも技法が主語になってるの気になるから「技法を使う人々は」とか「技法を使うことは」ぐらいにしてほしい。

そして、こうしてはっきりしてみるとここで、そうした技法や、その意味に気づかない人は、「そうした技法が女性を単に装飾のために使っていると理解するようになる」ということはないはず。おかしいじゃないですか。おかしいっしょ?

 

ふたつめは、「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いています。そして、あからさまではないがゆえに、こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされていると私たちに理解させてくれるでしょう」かな。これでも正確ではなく、できれば、「メタファーを利用する作家は女性を性的な鑑賞のためにもちいています」あるいは「メタファーの利用は、〜」と表現してほしい。これもさっきと同じようにおかしい。メタファーに気づかないひとはそういうものだと理解できないはずだから。

だから「こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているといえるでしょう」ぐらいなわけだ(先のも同様)。んじゃ、キーワードの「理解」はどこいくのよ。

 

三つめは「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているといえるでしょう」か?

技法やメタファーが理解を生む、っていうのはほんとうにわかりにくい。「それらを使うことが〜という理解を生む」ぐらいだったらまだましかもしれないけど、けっきょく抽象名詞を主語にした無生物主語みたいなのをたくさんつかうと文章はどんどんわかりにくくなっていき、なにを主張しようとしているのかわからず、したがってなにを確かめたり反駁したりしたらいいのかもわからなくなる。

とにかく、ここのところの「理解を生む」はほんとうに混乱させられてものすごく不愉快でした。私がおかしいのでしょうか。

はあ、メタファーが、理解を、生みましたか、はあ、そらおめでたい、いや近所の猫もね、猫を生んで、まあその、それと似たものですか。


追記(12/21)

しばらくして、小宮先生の「理解」が可算名詞のunderstandingに対応するということに思いあたりました。Cobuildだとこう

 

 

 

 

 

この意味だと、同義語に出てる「信念」とかの方が日本語では適切ですね。誰の信念であるかという問題はまだ解決されないけど。

 

References   [ + ]

1. 「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

宇崎ちゃん問題 (7) 「理解」を理解するのはむずかしい

んで一番面倒なのが、「理解」とか「意味づける」って言葉で、この二つにはほんとうに苦しみました。

「理解」

まず「理解」から。小宮先生の典型的な表現を抽出してみるとこんな感じです。

 「表象に対する理解の齟齬」
「「悪さ」の理解」
「表象の理解」
「表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解される」
「女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくる」
「女性の描き方の中で「女性は性的な客体……である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだ」
「具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか」
「「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現」

表象つまり表現物・作品を「理解する」っていうのはどういうことなのか、「ある絵画がどういうメッセージを伝えているかを解釈する」ぐらいだと、まあ絵画がメッセージを伝達するものとして解釈を必要とする、というのはわかります。でもこれも難しいですよね。

ふつうに「理解する」とは

まず、ふつうの意味で理解するってどういうことなのか。

  • 「太郎は地球が丸いと理解した」

これはOKです。地球は(おそらく)事実として丸いので、それを把握するということです。地球上を一方向にまっすぐに歩いていくと、いずれもとの場所に戻るであろう、ということもわかります(あれ、どっちに行っても戻ってくるよね)。

  • 「太郎は地球が平らだと理解した」

これはなんか微妙。「太郎は地球は平らだと誤解していて、そのため皆からフラットアーサーと呼ばれている」ならわかる。「古代人は地球は平らだと理解していた」は微妙だけどOK。

まあこういうふうに「理解」や「誤解」を使えるのは、「地球が丸い」という事実があるからですわね。それがわかってれば理解しているし、わかってなければ誤解している。

単純な文章の場合は、理解とか誤解とかっていうのはわかるわけですわ。

「意図を理解する」のようなものになるともうすこし複雑になる。

  • 「花子が「あなたのことは人間としては好きよ」と言ったのを、太郎は交際の拒絶として理解した」

まあ花子さんは太郎さんに人間的な魅力を感じてはいるものの、性的な魅力は感じないので、交際やセックスをおことわりする意味で「人間としては好き」と発言し、太郎はそれを正しくセックスの拒絶として理解した。こういうのはよくわかる。

 

表現物(表象)を理解するというのはどういうことか

でも、こうした発言や文ではない表現(表象)を理解するっていうのはどういうことだろうか。だって、絵や写真がなにか文あるいは命題に相当するようなものを表現しているかどうかっていうのは、かなり難しい問題ですもんね。

前エントリで例にあげた、フラゴナールの「ぶらんこ」が、助平な若い貴族男子と若くて陽気な既婚女子の浮気やセックスを描いていて、陰になっている貧相な年老いた旦那らしき人物も公認、みたいなフランス貴族社会を描いている、ぐらいは私にもわかる。しかしどういうメッセージなのか、とかいわれると難しい。フラゴナールは「どんどん浮気してセックスしましょう」っていってるのか「若い嫁さんもらったらブランコぐらいこいであげないといけません」と言ってるのか、「助平な貴族が偉そうにして人妻に手をつけているいるこの貴族社会を打倒せよ」って言ってるのかよくわからない。なにを理解したときに理解したと言えるのだろうか。フラゴナールの絵の寓意を理解することが「理解する」なのか、たんにその美や技巧を味わうだけでも十分なのか。

ある絵画や写真が何を伝えているかを「正しく」理解する正しい方法というのはあるのだろうか、とかそういう疑問が浮かびます。小宮先生は「表象の理解」とかって簡単に書くわけですが、図像表現をそんな簡単に理解できるものなのか。なにをすれば理解したことになるのか。「着衣のマハ」やベートーヴェンの第五交響曲(ジャジャジャジャーン!)理解するというのはどういうことなのか、わたりにはよくわからないのです。

ピカソの「草上の昼食」の意味を理解するとは?

「理解」じゃなくて「解釈」ならわかる。「ぶらんこ」を解釈するというのは、あの絵から、いろんなメッセージや諧謔や皮肉や美や快楽を読みとることだろうと思う。それらそれぞれはかならずしも命題(平叙文)の形にはならないかもしれず、単に「経験する」という表現しかできないかもしれない。

まあ、「「ジャジャジャジャーン」は運命が扉を叩く音である」とかって通俗的な解釈を知り、それに納得することが、あの曲を「理解する」ことだなんて立場には立てないし、また「ぶらんこ」は貴族社会での浮気の肯定を意味している、なんて解釈もくだらないと思う。んじゃ「表象を理解する」ってなんなのよ。

「裸のマハ」や「ウルビーノのヴィーナス」はいったいなにを「意味」してるんですか。絵にそんな「意味」なんてあるんですか?私がどういう状態になったら「理解した」ことになるのか、そういうのさっぱりわからず、そうした疑問を抱くことなく「表象を理解する」みたいな文章を書く、っていうのには反発をおぼえます。(似てるのは「人生の意味を理解する」みたいなやつですね。こういうのはけっきょくなんらかの比喩的な表現にすぎないのではないかと思う。人生の意味ぐらい私が教えてあげます。それはタンパク質です。理解しましたか?ははは。)

好意的に読むようにがんばりましょう

でもがんばって好意的に解釈しましょう。社会学者の先生たちは、「理解」っていう言葉をかなり独特に使う傾向があるみたいなんですよね。私はよくわからないんですが。

どうもunderstandというよりは、ドイツ語のVerstehen、みたいな印象。単に知的に文を理解するというよりは、「了解する」とか「十分な意味で理解する」とかそういう言葉をあてないとならんような。

たとえばまだ地球が丸いという事実を知らない部族が存在していて、その部族のメンバーは「大地は平らであり、ずっと行くと滝のようなところがあって落ちてしまう」と信じていて、旅をするのを恐れているとする。これを「彼らは地球は平らだと誤解している」のように表現するのはなんか、我々地球が丸いことを知ってる人々の特権的な判断であって傲慢だ、みたいな発想はあるわけですわ。彼らにとっては大地はまさに平らなものであり、そうした世界観とともに彼らの大地は平らだという信念を「理解」しないとならない、みたいな形になるんですかね。

つまるところ、われわれが「事実」と(個々の人々、あるいは社会全体での)「解釈」、みたいに分けちゃうのはあんまりよくない、みたいな発想。我々の知識や信念のすべては「解釈」なのだから、そうしたものはすべて「理解」と呼んでかまわんのだ、みたいな感じの発想はあるかもしれない。

実は、ミル先生の『論理学体系』第5篇第4章におもしろい個所があるのです。

(訳文は久木田水生)

漢方薬屋は病気や症状を漢方の理論にあわせて記述し理解し治療しようとする。ふつうわれわれは見たものをそのまま信じているのではなく、感覚に与えられたものを、自分がすでにもっている理論のようなもののレンズを通して経験する。見たままではなく、すでに推論(思考)が入ってるわけです。

 

この画家の訓練の話とかも、いま扱ってる話題と関係していておもしろいですね。

まあ小宮先生の「理解」って言葉の使いかたから離れてきてしまってますが、そんな簡単に、制限つけないで「理解理解」ってくりかえしたり、「理解可能性」っていう聞きなれず、それだけでは門外漢にはどういう意味かわからない言葉や概念をふりまわされるととても困りが発生するわけです。

 

 

追記。次のエントリに書きましたが、小宮先生の「理解」は可算名詞のunderstandingかもしれない。つまり「信念」とか「意見」とか「解釈」とか、そういうの類義語。「誤解」と対になる「理解」ではない。とすると、日常的な「理解する」っていう動詞と、こうした特別な「理解」=信念、解釈をいっしょに使われると混乱しますよね。

宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう

小宮先生の岩波『世界』の方の論説では「コード」が出てきます。これもわたしわからん。

ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。

この文章はとても読みにくい。「私たちは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを瞬時に読みとる。ゴフマンはそのために用いられるある種のふるまいのコードをここから読みとっている」かな?悪文です。

まあそれはおいといて、この「コード」わかりにくいと思うんです。わかりにくくないですか?「コード」はふつうは(1) 規則、慣例、法典、(2) 記号・暗号、(3) 符号体系の三つぐらいの意味があると思うんです。ゴフマンの『ジェンダー広告』のcodeは、はっきり(1)のふるまいの「規則」のはずです。「記号」ではない。(『ジェンダー広告』も原書Gender Advertisementも入手しにくいので、ちゃんとした論拠はちょっとまってね1)たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。。)

ツイッタでのジェンダー関係の話になると「〜コード」とか言う人々がいるんですが、そういうの見たら「それって規則?それとも記号?」って聞いてみてください。

小宮先生の『世界』の文章に戻ると、「コード」の前にポロック&パーカー先生の「記号」の話が出てきててさらに混乱しやすいんじゃないかと思います。先生はポロック先生とゴフマン先生の話が同じようなことを言ってる、って主張しているように見えるから。でもそんなに同じだろうか。

小宮先生が引用しているポロック先生のを再引用すると、

ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち、かつ文化的・社会的記号について熟知している、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

でもこれ、実はこうです。わかりやすいように、前後もちょっと拡大しますね。

芸術作品のなかに描かれた女性のイメージには、現実社会の女性が、よし悪しは別としてそのまま反映されていると見るのは、われわれが陥りやすい罠である。ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものになるには、読解力をもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない意味のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。(翻訳 p.184)

ポロック先生たちの「記号」が、英語でなんであるのかまだわからないのですが(手配中)、「象徴的レベルの含意」を含むような描かれている物、人物、服装、持ち物(アトリビュート)、背景、構図、その他ですかね。

たとえばフラゴナールの「ぶらんこ」2)実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。ではいろんなものが描きこまれていて、たとえばスリッパ(左上)、たとえばイルカとキューピット像(中央下)、それらの物がどれもエロティックな含意を伝える「記号」になってるわけですわね。こういうのを解読できるようになると楽しい(中野京子先生の『怖い絵』とかどうぞ)。しかし、これって、ゴフマン先生の「ふるまいの規則」としての「コード」とはずいぶんちがうもんなんちゃうんかなあ。これ、最初から「コード」じゃなくて「ふるまいの規則」って書いてたら、読者は「あれ、それって同じ話なの?広告とかに描かれるふるまいの規則と、絵に描かれる記号って、たしかに近い話みたいだけどちょっとちがうもんじゃないかな?」って思うと思うんです。どう思います?ていうか、せめて「ふるまいのコード、すなわちふるまいの規則が」とか書いてくれてもいいと思うんです。

(この話は続きがあります→ 宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

 

 

 

References   [ + ]

1. たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。
2. 実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。

宇崎ちゃん問題 (5) 「表象の「悪さ」」の「悪さ」がわかりにくい

小宮先生の文章(『世界』のと『現代ビジネス』のの両方)では、「表象の「悪さ」」とかそういう表現が頻繁に出てくるのですが、この「悪さ」っていう表現にも私はひっかかってしまう。これはかなり面倒な事情があって、ちょっとここでは簡単には説明できないのですが、いくつか私の「困り」を説明しておきたいと思います。

どういう種類の「悪さ」か:それは「道徳的な悪さ」か?

「表象の悪さ」っていわれたときに、ある表象(つらいので、以後表現とか表現物とか書くことにします)が悪いことがある、ってことを言ってるのはもちろんわかる。問題は、その悪さというのはどういう種類の悪さかということです。人を殴るのは悪い。これは道徳的に悪い。道徳的に悪いというのがどういうことかというのもこれまたむずかしいのですが、人を殴るのは悪いので、殴るのをやめるべきだというのは当然として、さらに、人を殴るのは避けるべきだ、人を殴った人は罰されるべきだとか、非難されるべきだとか、被害者にあやまるべきだ、場合によっては賠償するべきだ、反省するべきだ(自責の念に苦しむべきだ)、とかまあそういうことを意味しているとここでは解釈することにします。道徳的に悪いというのは、単に「悪さ」という性質がその対象の物や行為に付随している、といっているだけでなく、それが上のような指示・指図・命令や、非難や罰と結びついている、と私は理解しています。

でも「悪い」からといって、そうした命令や非難や罰と(それほど強くは)結びついていないタイプの「悪い」という意味もあります。

たとえば、「このワインは悪くなってる」ってときは、ワインがすっぱくなっていることを意味しているかもしれない。「これは悪いワインだ」ってときは値段のわりにおいしくないのかもしれない。 “I am a bad pianist.”って私が言うとき、私はピアノを弾くけど下手だということを意味していて、それを非難されたりピアノ弾いたら非難されたり罰されたりしなければならないっていうことを言おうとしているわけではない。「悪い絵」っていうのも、まあ下手な絵にすぎないかもしれない。罰を与えたり、非難しないであげてください。「あたなって、悪い人……いじわる……」「ワルい子だーっwww」っていうのはむしろモテてる。機能的に悪いっていうのもある。コンピュータのマウスの効きが悪いっていうのは別に罰を与えられたり非難されたりするって話ではないし、もちろんマウスに向かって「お前は悪い奴だ!罰を与えてやるっ!」って言う人はあんまりいない。ブレーキの効きが悪い車運転して人ハネてしまったら当然非難されますが、それはまた別の話。

っていうわけで、「悪い」っていう言葉を使う場合は、「道徳的に悪い」とか「宗教的に悪い」とか「美的に悪い」「道具として悪い」とかそういう限定をつけてほしいわけですわ。小宮先生の文章はまったくそういうのがないので(実は小宮先生だけでなく、社会学系統の人々の文章にはそういうよく見かけるのですが)、非常に困りが発生しつらみが増加するわけです。

とりあえず「表象の道徳的な悪さ」とかそういう表現の省略形だと読むことにします。だって道徳的な評価をしようとしているように見えるから(あとで議論するかもしれません)。「政治的な都合の悪さ」「フェミニストにとっての都合の悪さ」の可能性があるけど、おいておきます。

「悪さ」と「不正」

悪い、ていうと英語だとbadだろうと思うんですが、英語ではbad(悪い)とwrong(不正な)っていうのはちとちがった概念・観念なんですよね(概念とか観念ってなんであるかは尋ねないでくださいすみませんすみませんよくわかってません)。「よい」 goodはgood – better- best って中学校で習ったように比較できる。bad – worse -worstです。badderとかbaddestとかだめですからね!

一方、正しい right や 不正な/(道徳的に)まちがっているっていう意味のwrongは、right – righter -rightestとか、wrong – wronger- wrongestとかならない。「よい/悪い」と「正しい/不正な」はちがうのです。(morally) rightや (morally) wrongは、ある(道徳的な)基準を適合しているか否かについての判断なんですね。

小宮先生が参照しているイートン先生の論文のタイトルは、 What is wrong with (female) nude? で、ヌード絵画の不正さについて考えているのであり、その単なるよしあしではない。

でもまあこの「よい/悪い」と「正/不正」のちがいっていうのはかなりむずかしいもので、先年おなくなりになった高名な倫理学者の大庭健先生の『善と悪』っていう岩波新書とかでもちゃんと区別されてなかったですね。。でも倫理学者にとってはけっこう大きな区別なので、そういうのないのにはがっかりしました。だからまあ、倫理学者以外の人にはなおさらしょうがないのかもしれない

悪さはどれくらい悪いのか

よしあし、善悪っていうのはさらになかなか面倒なんですわ。機能的なよさ悪さ、美的なよさ悪さ、道徳的なよさ悪さ、宗教的〜っていろんな種類があるのと同時に、よし悪し、善悪には程度の問題もあります。さっき「悪い(下手な)ピアニスト」bad pianistの例を出したけど、このbadは道徳的なバッドではなく芸術的あるいは技術的なバッドで、誰かと比較するための形容詞ですわね。下手なピアニストでも弾くのを禁止するべきだってなことにはならないし、上手いピアニストがいなければ下手なピアニストで我慢しなければならないときもある。そういうときは「しょうがないからお前が弾いて」って頼まなきゃならないときもあるでしょう。

これ、単に比較の問題っていうのでもないのです。問題は、「悪い」が、我慢できる/あるいは中立の水準(仮にレベル0とする)よりも上での高低の問題なのか(+10と+3の比較)、あるいは中立の水準以下(-20)を指すのか、っていうのが曖昧であることですわね。「この表現物は悪い」というとき、それはその表現物が存在しない方がよいということなのか(-20)、それとも期待されるものほどには到達していないということなのか(期待が+20だとしたら+5しかない)、ってことですわ。

小宮先生の「表象の悪さ」っていう書き方からすると、なんかマイナス表現があると言ってるように見えるんだけど、それでいいのかどうか。道徳的にマイナスの表象ってのがあるとすれば、そういうものは存在しないほうがよく、ポスターが貼ってあったときに(可能なら/他の条件が同じなら)はがした方がいいし、場合によっては焼いた方がいいかもしれない。

「一応悪い」と「いろいろ考えた上で悪い」

仮に、小宮先生たちが主張しているのが「ある表象が道徳的に悪い」「道徳的な悪さ」であるとすると、またちがった解釈の問題もあります。それは、「一応悪い」(prima facie bad)(「とりあえず悪い」「他に特段の事情がないならば悪い」)のか「いろいろ考えた上で悪い」(bad all things considered)なのか、ってな区別です。悪い行為があるとします。たとえば、ふつうは人を縄でしばりつけることは悪い。こういうのを倫理学者は、「一応のところ悪い prima faicie bad 」と表現します。prima facieはラテン語で、「表面的には」って意味ですね。

でも、夜に暴れてベッドから落ちそうな老人が言うことを聞いてくれないときに、ケガを防ぐために拘束することがやむをえないときもあるかもしれません。「一応悪い」ことも、状況によっては許されることがある。この場合、上の話とからめると、縛りつけないでベッドから落ちないのは+20で、縛りつけてベッドから落ちないのは+2ぐらい、ってこともある。しばりつけるのは一応悪いえけどしょうがない、ってこともあるわけです。

一方、いろいろ考えたうえでやっぱり悪い、ってこともありえます。息子が犯罪を犯すかもしれないから殺す、とかっていうのは、いろんな状況を考えにいれても悪い。実際には殺さないかもしれないし、ちゃんとケアしたり、施設に入れたり、最善のことをすれば、殺す必要はないだろう。こういうふうに言えるなら、すべてのことを考えたうえで、総合的に悪い all things considered、って言えるわけです。

小宮先生がとりあげているポスターとかの話に関しては、これはわりとはっきりしてますね。仮に、女性をモノ化することが悪いことであるとしても、それはとりあえずは「一応悪い」にすぎない。他に考えるべきことがあるかもしれない。すべてを考えにいれるというのは、たとえばポスターの目的とか、それの社会的な効果や影響とか、ネットの騒動やら、もろもろを考えに入れた上で「悪い」ということなわけですが、小宮先生たちがそこまで考えているとは思えないから1)つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。、以後は「悪さ」は「一応の悪さ」であると解釈することにします。

引用符に囲まれているのは意味があるか

小宮先生の文章で「悪さ」「悪い」を検索すると、ほとんど引用符(「」)に囲まれているわけです。この引用符には意味があるのかどうか。

上で書いたように、ふつうは「悪い」という言葉には禁止、非難、不承認、非推奨(おすすめできない)とかの意味があると広く信じられているわけです。もちろんその程度はさまざまだけど。素の「よい」「わるい」という言葉には、人の行動を指図しようとする力があるというか、まあ広いいみで推奨や命令を含んでいるわけです。

これは「よい」「わるい」だけでなく、価値や規範を含んでいる他の言葉についてもいえます。たとえば「下品」とか「野蛮」とかって言葉は、そういう形容されるふるまいとか行動とか表現はやめなさい、もっとちゃんとしなさい、っていう含意がある。

でも、人の言葉というのはおもしろいもので、ののしり言葉みたいな言葉でさえほめ言葉に使えたりする。「あいつはバッドな奴だ!」っていうのは道徳的に悪いやつだ、つきあうな、って意味なく、かっこいい、すごい奴だ、友達になりたい、ってことだろう。

それに単に「他のやつらはそう言ってる」っていう意味で「」にくくることもある。「あいつは「ヤクザな奴」だ」っていうのも、「」にくくってしまえば、ヤクザの特徴をもってはいるけどかっこいい、すてきな奴だという意味になるかもしれないし、他のやつはあいつを「ヤクザ」と呼ぶけど俺はよくあいつのいいところをわかっている、ってな意味になるかもしれない。

こういう「他人はそういうふうに言う」とか、あるいは特別な意味をこめて「」にいれるやつを倫理学者は「引用符用法」って呼んだりします。もともとの価値的な意味を失なってるんですね。まあ現代思想とかでも「」つけて特別な意味につかってて混乱するわけですが、あれですわ。

小宮先生がある種の表象とか表現の「悪さ」、表現が「悪い」ということについて、多くの場合「」をつけているのを見ると、私は小宮先生はその表象を本気で悪いと思っているのか、悪さがあると思っているのか混乱するわけです。なんで「」をつける必要があるのか。それはフェミニストが「悪い」って言ってるだけなのか、小宮先生もそれが悪いと思っているのか、そしてわれわれにそれが悪いものであることを説得しようとしているのかよくわからないのです。

さらに

さらに、小宮先生のように「Aは悪い」という表現でなく、「Aには悪さがある」みたいな表現を使うと、「悪さ」という独特の性質があるように感じられるわけですが、これはかなりあやしくて、われわれの思考を混乱させます。

プラトン先生なんかは、この世にあるものごとやおこないの「よさ」を説明するのに、それはイデア界という奇っ怪な世界に「よさそのもの」が存在していて、この世にあるよいものやよいおこないは、そのイデア的な「よさそのもの」を分有している/あずかっているのだ、みたいなことを言うわけですが、これは奇っ怪な発想だと思います(議論はしないけど)。

「A(たとえばある表象)の悪さを考えよう」っていわれると、「Aには悪さという特別な性質があるのだなあ」とか思ちゃうけど、実はたんに、我々が「Aは悪い」って思ってるだけかもしれない。そうなるとPさんとQさんがAについて悪さがあるとかないとか、そういう争いになるのかもしれない。

まあここまで来ると本当に面倒なメタ倫理学っていう面倒でテクニカルな分野の話になってしまい、たとえば佐藤岳詩先生の『メタ倫理学入門』とか読んでもらわないとならなくなるわけですが、そんな面倒なことをしなくても、とりあえず「Aの悪さを考えよう」とかっていう混乱しやすい表現をやめて、「なぜ我々はAを悪いと考えるか考えましょう」って表現してくれたら回避できるはずです。

すると「悪さ」について私はどう表現してほしかったのか

けっきょく、小宮先生の「悪さ」とかっていう表現について、そのまわりで「読みにくみ」みたいなのが存在していて、私のまわりで困りが発生しているわけなので、いっそのこと「読みにくみ」「困り」というもの(実在?)や性質が存在しているかのような表現はやめて、「私は小宮先生の文章が読みにくいと感じる」「私は小宮先生の文章が読みにくくてこまっています」とかそういうふうに表現すればいいわけですね。

同じように、「ある表現が道徳的に悪いと考えられるべきなのはなぜでしょうか」とか「ある表現が道徳的に不正だと我々が判断すべきなのはどのような場合でしょうか」と表現してくれればいいわけです。でもこういうのは私の読者としての好みだからそんな強くは要求できない。できればそういうふうに表現してほしかったなあ、ぐらいです。

でも、もし私と同じようにつらみや困りが大量に発生してしまった人々がいるなら、それはこうしたなにかを名詞の形であらわす表現自体に問題がある、ってことを理解してもらえれば、このエントリは成功が成立しているという理解が存在することになり、私にもうれしみが発生します。

長くてつかれました。ここまで読んだ人はごくろうさま。すぐさま忘れてください。

References   [ + ]

1. つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。

宇崎ちゃん問題 (4) 「モノ化」は「客体化」でもやむをえない

ちなみにここで小宮先生にはあんまり責任がない「客体化」もむずかしいって話もしとかないとならんかな。

牟田先生が「客体化」って使ってんのに私は「モノ化」にして、小宮先生も「客体化」にしてて、まあどうせ専門用語だからobjectificationっていう英語に対応する訳語だってわかってりゃそれでいいでんですが、私「モノ化じゃなくて客体化だろ!」「モノ化という訳語はだめではないか」って言われちゃってるので、ちょっとだけいいわけ。

これ実際カタカナ使っていいんだったらオブジェクト化でもよかったし、あるいはさらにさかのぼって「物象化」「物件化」とかそういう訳語も可能だったかもしれないわけです。十数年前に論文モドキ書いたときはかなり悩んだ末に「モノ化」にしたんですが、今思えばもう「モノ扱い」でもよかったくらいだと思ってます。その方がわかりやすいでしょ。日常的だし。

あの論文ではとにかくヌスバウム先生の分析・解釈にしたがうつもりで、ヌスバウム先生やそれ以前のフェミニスト学者の先生たちは、objectificationというのは人をモノ(thing)として扱うことだ、reify (ラテン語のres「モノ」にする1)reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。)でありthingify(そんな言葉は辞書にはないけどマッキノン先生が使ってる)、って言ってるはずなんで、モノ化にしたわけです。

実際、ヌスバウム先生は「道具化」「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」ってのをあげるんだけど、これらは全部、自発的・能動的・自律的etc.な「人」と対比される上での「モノ」の特徴なのよね。モノだから、道具にするし、自律しないし、自分では動かないし、同じように作られてたらどれでも同じだし、壊してもいいし、自分のものにできるし、感情とか考えなくていい。

これを「客体化」って訳してしまうと、客体と対になるのは「人」ではなく「主体」になるんだけど、客体であるってことだけからは「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」も出てこない。

そしてそれだけじゃない。太郎は花子を愛する、っていう文では太郎が主体で花子は客体ですが、だからといって太郎が意識不明の花子さんとセックスしてよいわけではない。太郎は花子にキスしたってとき、やっぱり花子はキスする客体(対象)だけど、花子の感情を無視していいわけじゃないし、「キスされる」からといって主体性がなにもない、ってわけでもない。実は花子さんがキスされることを期待していることもあるだろう。そしてキス「する」んじゃなくてキス「されたい」って思うことさえあるだろう。愛されたりキスされたりする対象・客体になりたい、っていう欲求は、男女ともにときどきあるんじゃないっすかね。そういう人を愛したりキスしたりする対象にするのはまったく問題がないどころか、ピューピュー、モテるねー、やけるねー、おしあわせに、ってなものではないですか。

だから「モノ化」の方が適切だと私は判断したわけです。

まあもともとのマッキノン先生以下さまざまなフェミニスト学者の先生たちは、オブジェクトという言葉を多義的につかってるので「客体化」でもまあしょうがないのではあるのですが(実はmen fuck womenという文での目的語の意味もある)、以上のような次第で私は「モノ化」の方が適切であると判断したわけでありまーす。

 

 

References   [ + ]

1. reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。

宇崎ちゃん問題 (3) 「表象」はわかりにくい

正直小宮先生の書くものはある種の魅力があって、それが多くの人を惹きつけるんだと思うんですわ。私の文章とかぜんぜんだめよね。なんか華がないというか、もってまわってわかりにくいし。あはは。

さて、私はそもそも「表象」がよくわかりません。いきなりタイトルで「性的な女性表象」ってガツーンとやられて、「あ、難しい文章だ!」って思って身構えてしまう。だって「表象」なんて私らめったに使わないじゃないですか。ショーペンハウアー先生に『意志と表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung っていう有名な本があるんだけど、あれの「表象」っていったいなんだか私いまだにわかってないです。あの本の前半はとてもむずかしい。カントわかってないと読めないんすよね。(ちなみになかば以降は楽しい)

「表象」Vorstellungとか英語でrepresentationとかっていうのは、哲学で使われるときには、非常に単純にいえば、外界にあるものを我々が感覚器官(典型的には目、でも感覚器官は他もありますね)を通して認識だかなんだかして、頭のなかに浮べたあれです。頭の外にある(かもしれない)外的な事物、それの印象とかイメージとか対応する観念(アイディア idea)、そういう頭のなかにあるのが表象。でも小宮先生のはこの意味ではない。

2000年ごろから文学とか美学とか映画学とかマスメディア文化論とか、そっちの大学関係の方面で「表象」っていうのがよく使われるようになってるみたいで「表象文化学会」とかそういうのもありますね。こういうのでいわれる「表象」っていうのは、もっとふつうの言葉でいえば「表現」とかなんだと思う。「文学」っていうと文字で書いてる小説とか戯曲とかになるけど、アニメとかマンガとかだと「文学」ってのとはちょっと違うし。絵画とか映画とか、まあそういう人間が作り出したイメージとか作品とかを「表象」って呼ぶんだと思う。しかしこの意味では、まだ辞書にもなかなか載ってない感じですよね。

それにそもそも、この「表象」っていう言葉をどう使うのかっていうのは、そっち方面の学者先生たちのあいだでもさほど合意がないんじゃないかと思う。たとえば私のbooklogから「表象」ていう言葉をタイトルに使ってる本をあげてみると、「特集=ジェンダー 表象と暴力」「視覚表象と音楽」「 “悪女”と“良女”の身体表象」「無垢の力—「少年」表象文学論」「少女マンガジェンダー表象論」「セクシュアリティの表象と身体」「オトメの行方—近代女性の表象と闘い」「イーストウッドの男たち—マスキュリニティの表象分析」「欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象」「ひとはなぜ乳房を求めるのか: 危機の時代のジェンダー表象」とかになってしまう。

どれも難しそうでかっこよさげなのは置いといて、「表現」におきかえられるようなものだけではないですね。「イメージ」ぐらいが妥当なんだろうか。

小宮先生の「女性表象」は「女性のイメージ」(頭のなかにあるもの)なのか、「女性を描いた作品」(頭の外にあるもの)なのかあんまりはっきりしない。がんばって読むと、おそらく後者の、作品、表現されたもの、だと思います。「表象は必ず「誰かが作る」ものだ」って言ってますからね。我々の頭のなかにある女性のイメージは、必ずしも誰かが作るものだとはいえないように思う。私の目の前にあるウィスキーの瓶の私の頭のなかにあるイメージが、「私が作ったもの」かというとちょっと自信がないし。

でもこんな難しい言葉、学者先生なら一言ぐらい説明してくれたっていいじゃないかと私は思うわけです。マンガやポスターの「描かれたもの」「表現物」を「表象」って呼びますよ、ぐらいなんで説明してくれないんですか、ぐらいのこと思ってしまうわけです。んな、最初っから「表象」って言われたら、われわれ一般読者は腰がひけちゃうじゃないですか。すごく高度っぽいからもう話聞くしかなくなっちゃうし。でもそんなにはっきりした言葉じゃないと思うのです。「表象」で苦しんだみなさん、そういうの要求してかまわんのです。

 

宇崎ちゃん問題 (2) 単なるいいわけ

前の「宇崎ちゃん」に関するエントリ書いたあと、すぐに続きを書くつもりだったのですが、当の『現代ビジネス』からそれについての原稿書いてみないかというお誘い受けてしまって、考えてることを書いたりして、時間がたってしまいました。ちなみにタイトルとか見出しとかは編集者の方につけてもらい、細かい表現なんかも草稿見てもらった数人の先生と編集者先生に直してもらいました。名前は出しませんが感謝感謝あめあられ。

前のエントリについて言い訳を追加しておくと、牟田先生のあの文章が詭弁だとか誤謬推理だとかっていうことを書こうとしてのではなかったのです。むしろ、他人の文章を読んでそれが詭弁だとか誤謬推理だとか判断するのがとても難しい、ってことを書きたかった。省略三段論法みたいなやつは日常生活では非常に頻繁につかわれる論証の形で、三段論法みたいに前提を明示した論証なんてめったに見ることがない。そして、どういう前提が隠されているかっていうのは、読者がいろいろ考えてみないとならんわけで、それは対象となっている論者が考えている前提とはまったくちがったものかもしれない。最終的には「どういう前提なんですか」って聞いてみないとわからんと思う。そして、そんなふうに前提を明示してしまえば、形式論理的な誤謬推理をすることはめったにないし、詭弁の余地もものすごく狭くなる。まあ、結果的にそもそもの基本的な前提について同意できないってことがはっきりするということになるかもしれません。たとえば「ポスターに大きな胸を描くことは女性差別だ」っていう前提について、AさんとBさんが同意しないってことは十分にありえるわけです。

まあそんなことを考えているうちに、知らん学会で知りもしないことを発表したり、私生活でもちょっと忙しくなったりして時間過ぎてるうちに、これまた同じメディアに小宮友根先生の「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」っていう論説が発表されてけっこうもりあがってたみたいですね。忙しくてキャッチアップするのけっこうたいへんでした。なんかみんな飽きてるのはわかってるけど、ちょっとだけコメントしないとならんかな、とか。

実は小宮先生がそれ以前に『世界』に書いた「女性表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」っていうのはずいぶん前に紙で読んでて、私が『現代ビジネス』に書いた文章でも言及してコメントしようと思ってたんだけど、一般向けの文章としては煩雑になるかもしれないし、オンラインのものでもないからカットしたんですわ。特に、私は「累積的経験」という表現自体は使ってないけど、同じような内容になったところには先生のクレジットつけたかった。原稿書きあげて数日してからオンラインになって「あらー」って思ったり。ははは。

小宮先生の文章を読んでいると、勉強にはなるんだけど「言葉」について考えこまされることが多くて、そうしたつらつらを書いてみたいと思います。詭弁だとか誤謬推理だと言いたいのではなく、また批判というのでもなく、むしろ文章を読むというのが私にとってどれくらい難しいことか、っていうのを説明してみたいのです。私は本当に文章を読むのが下手なのよね。そして、そういう悩みをもっている人は私の他にもいるんじゃないかと思う。そうした人々、特に学生様とかに、私も読めないので(それほど)心配しなくていい、みたいなことを示して、悩みを共有したいというわけです。

あら、言いわけと前置きだけで長くなってしまった。