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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。
  • 第1章、55頁からのイデア論の話なんですが、これねえ、どう解釈していいのかよくわからない。
  • 「イデア論は、欧米の文化の中に深く入りこんでいて、西洋の考え方の一つの基礎になっています」(p.55)ぐらいだとまあ微妙なんだけど、「日本語というシステムの中では、このイデア論は非常にわかりにくい」(同)とか言われちゃうと、「いや、西洋人にもわかりにくいだろう」と言いたくなりますわよね。さらに(イデア論とは)「神の見ている世界のことです」という説明されちゃうと、「論が世界なの?それってカテゴリーちゃうんちゃう?」とか言いたくなる。「イデアというのは具体的に、正しい考え、善い行い、美しいオブジェや人のことではなく、正しさそのもの、善さそのもの、美しさそのものだ」っていう説明も、まあわかったようなわからないような。これ、おそらくとりあえず猫のタマと猫のイデアの話して、タマは猫のイデアが具体的になった一例です、みたいな話しないとならんと思う。しかし新書、それも哲学じゃなくて恋愛論の新書では無理か。
  • 鈴木先生はイデア論説明するのに『パイドロス』もってくるんですが、読者にはなぜ突然『パイドロス』もってこられるのかわからないと思う。私だったらむしろ『饗宴』のソクラテスの演説のなかのディオティマ先生のあたり使うと思う、っていうかまあそこ使ってますわ。これは好みかな。
  • 「ちなみに概念という言葉は、英語ではidea、フランス語ではidéeと、イデアと同じ単語を使います。……こんな言葉の使い方を見ているだけで、ヨーロッパにいかにイデア論が心頭しているのかわかる」(pp. 57-58)とかっていうのも苦しい。そういう問題ではないと思う。
  • 「少年の美しさに対する肉体的愛はレベルが低い」(p.59)って言われてて、まあ『饗宴』でも『パイドロス』でもそうなんだと思うけど、『饗宴』のディオティマさんのお説教で次のようになっている。

……恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちかに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。

しかしそれに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。

しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みださなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるいという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。

……つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つぎになにかの美を目標としつつ、上昇してくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るに至るのです。(鈴木照夫訳)

  • 解釈はものすごくむずかしいですが、とりあえずふつうに読めば、エロの道を極めようとする男(哲学者)は、まず目の前の美少年の体を賞味して、次に美少年ならなんでもOKになり、次に肉体から精神の美へ向かい、最後に美そのもの(美のイデア)に向かうのです、ってことなので、最初は美少年と肉体的にイチャイチャすることからはじめないとならないっぽい。ソクラテス先生はその道を通りぬけて達人になったからもうあんまりイチャイチャしないかもしれないけど、最初はやはりイチャイチャで。私そういう才能なかったから哲学者なれなかったんですよね。でもとりあえず哲学者めざす若者は恋もがんばってください。
  • まあイデア論にそれほど深入りする必要ないなら、このディオティマ先生の理屈を使って、A君の美しい身体と、B君の美しい身体と、C君の〜は、どれも、「美しい」という性質を共有しているのだ、ふつうのわれわれは美しい身体を見ることしかできないが、達人は複数の美しい身体に共通の「美しさそのもの」、すなわち「美のイデア」を見ることができるようなるはずだ、みたいな話はできないでもないと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (2) プラトン『饗宴』まわり

全体的にゆっくり考えたいところはいくつかあるんだけど、しばらく目についたとこだけ順にコメントしていきます。

  • 最初、古代ギリシアからはじまっているのはよいと思うんだけど、その前に国内標準的なジェンダー論・クィア論のお説教ついているのがなんだかイヤん。鈴木先生がこの本でやりたいことの一つは、「我々が標準的な恋愛のあるべき姿と思っているのは、単なる歴史的に構築されたものであって、なにもその根拠はない」みたいな形の主張なんじゃないかと思う。ただし、鈴木先生は直接にはこういう表現はしてない。まあいろいろ言いたいことはあるけど飛ばす。
  • 古代ギリシアの恋愛観として大々的に紹介されるのがプラトン先生なんだけど、これ大丈夫なんかと思います。そりゃ我々にとってプラトン先生はとても大事な先生なんだけど、当時の人々にとってのプラトン先生っていうのはやっぱりかなり特殊な人で、彼が言ってることをみんなまにうけたわけではないと思う。プラトン先生の恋愛論を古代ギリシアの恋愛論、みたいに書かれるとリンダ困ってしまう。
  • でもとりあえずアリストファネス先生の人間球体論は基本。こういうの載ってるやつで学生様が読みやすいやつが欲しかったのでとてもえらい。しかし、その前にやっぱり『饗宴』がどういう枠組みの話か、っていう話はいちおうしてほしいものだと思います。アリストファネス先生の話はおもしろいし、『饗宴』といえばこの話、ってくらい重要なわけだけど、いちおう『饗宴』は6人だか7人だかの話が対話を含めて有機的に発展していくところがおもしろいわけだし。まあそこまで求めるのは求めすぎか。
  • 「古代ギリシアでは一時期、もっとも価値があり「正常」であったのは男性同士の愛でした」(p.45)とかそういうのはおそらく書きすぎだと思う。ドーヴァー先生あたりもそういうことは言ってないと思う。単にアテネを中心とした古代ギリシア社会では、一時期そういう慣行があった、ぐらいじゃないんかね。まあプラトン先生なんかはガチで同性愛好きだったと思うけど。
  • プラトンと同時期の快楽主義者アリスティッポス先生なんかは女性っていうか美人ヘタイラの方が好きだったみたいな感じだし。一般に同性愛の方が偉いとかそっちの方が楽しいとかっていうのは、やっぱり一部の人々の話ちゃうかな。ドーヴァー先生もう一回読んでみないとならんですね。でもとにかく、男同士の愛の方が正常で高級だ、っていうのはプラトン先生のまわりではそうだったかもしれないけど、一般にそうだったろうとはそんな簡単には言えないと思う。
  • むしろ指摘しておくべきなのは、当時の(男女の)結婚というのはふつうは親が経済的・政治的な配慮の上でとりきめるものであって、当人たちの恋愛感情なんてのはあんまり重視されていなかった、ってことだろうと思う。ふつうの家の女性に惚れても、それと結婚できるとは限らない、というかまあだいたい男性は、嫁入り前の中上流階級の女性とは会うことができなかったから我々が考える恋愛とかはできなかった、ということだと思う。ヘタイラ(高級娼婦)のお姉さんたちとの恋愛というのはあったかもしれないけど、まあヘタイラさんはいろいろあれで、そうした恋愛が私たちの思う恋愛(どんな?)とはちょっとちがったものであったかもしれない。奴隷もってる男性市民は女性家内奴隷とかともセックスしてたかもしれません(っていうかしてたと思う)が、それもなんか恋愛っていうのとはちょっとちがうかもしれませんね。
  • まあこういうのは専門家にまかせないとならんですが、なんにしても当時の男性にとっては(今考えるような意味で)「女性を口説く」ということはあんまりなかったわけです。「女性を口説く」ということの前提には「女性に決定権がある」ということが必要で、そうでなければお金で買ってきたり、戦争で捕まえてきてしまえばよいわけです。つまり、恋愛というのは苦労せずセックスできるのならさほど問題にならない、のかもしれない。
  • 一方、プラトン『饗宴』などで問題になっている「パイデラステア」(この語は出してほしかった)での男性カップルは、お金で買ってきたり戦争でつかまえてきたりする関係ではない。おつきあいするにはイケメンの方がいいだろうし、頭もいい方がいいだろうから、特定の若者はおじさんからモテるし、若者の方もなるべく自分の成長と出世の役に立つおじさんとつきあいたいだろう。その関係は支配従属関係ではなく、お互いの自発的な好意にもとづいたものである必要があるので、互いにいろいろ誘惑したり口説いたりする余地があるわけです。
  • 長くなったので途中で切ります。
  • 私が書いたプラトン先生まわりのは下。

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わたせせいぞう先生の人間球体論

プラトン先生の『饗宴』でのアリストパネス先生の酒席の馬鹿話は、マンガ家のわたせせいぞう先生によってロマンチックなお話に書き換えられているのは記憶していたのですが、『ハートカクテル』や『菜』といった名作のどこにあるのかわからず2〜3週間ネットで情報を探していました。

そしてついに今日それを発見してKindleでそれが掲載されているやつを買うことができたのです!さすがに古本で1冊ずつ集めるのも手間だし、まとまってると高いし、Kindleで順番に読んでくってのもお金がかかっちゃう。そんなお金はありません。

「半球体のセーター」という話があるということを http://www003.upp.so-net.ne.jp/ki-ki/watase/index.htm このページの方に教えてもらい、その話自体は見つからなかったのですが『ハートカクテルSweet』に「うねりを待つ半球体」載ってるはずだということを確認し、ゲット。いやー、たいへんでした。

わたせせいぞう『ハートカクテルSweet』より

いやー、バブルな感じがかっこいいですね。先生はこの話がお気にいりで、何回も使ってるはず。もちろん「プラトン先生の原典に即してない」とか文句つける気はないです。

最近アリストパネス先生を見直しました

もう一つ、『饗宴』で一番有名なアリストパネス先生の人間球体論も久しぶりに読んだんですが、これ私ちょっと読みそこねてた部分があったのです。

さて、諸君は、はじめに、人間の本性と、かつて人間にかかわりのあった事件とを学ばなければならない。そのむかし人間の本然の姿は、こんにち見られるものとは同じからぬ、それとは異なったものなのであった。第一に、人間は三種類あった。すなわち、こんにちの男女二種類のみではなくて、第三の者がその上の存在していたのだ。それは男女両性を合わせもつ者で、名前だけは現在も残っているが、その者自体はすでに消滅してしまっている。つまり「アンドロギュノス(男女)」というのが一種をなしていて、容姿、名前とも男女を合わせもっていた。……

まあここらへんの出だしは有名ですね。

第二に、この三種類の人間の容姿は、すべて全体として球形で、まわりをぐるりと背中と横腹がとり巻いていた。また手は四本、足も手と同じ数だけをもち、顔は二つ、円筒形の首の上にのっかっていたが、両方ともすべての点で同じようにできていた。さらに、頭を一つ、たがいに反対に向いている二つの顔の上にいただき、耳は四つ、隠所は二つ、その他すべて、いま伸べたことから想像されるようなぐあいになっていた。

そして動くときは、こんにちと同じように、直立した姿勢で、望みどおりの方向に進んだが、突っ走ろうとするときには、とんぼ返りの踊り手たちが車輪のように足を回転させながら、ぐるっ、ぐるっと、とんぼ返りをうって行くように、かつては八本あった手足を支えに使って、ぐるっ、ぐるっと急速度に回転しながら進んだのである。

かっこいい、かなあ。まあ滑稽でおかしい。

……強さや腕力にかけても彼らは剛の者で、その心もまた、驕慢であった。そして神々に刃向かうことになった。……そこでゼウスをはじめ、ほかの神々は、彼らをどう処置したものか、寄り寄り相談したが、結論がでない。かつて巨人族になしたように、雷光の一撃で人間の種族を殲滅してしまったら、人間からの敬神の実も神々のための神殿もなくなってしまうだろうから、これはできぬ相談である。そうかと言って、このまま傍若無人のふるまいをさせておくことも許されぬことだ。そこでゼウスは、さんざん頭をしぼって考えたあげく、こう言われた、「わしはどうやら、一つの思案を得たようだよ。それによって人間どもは、このまま存続しながらいまよりも弱体化して、わがままな所業はしなくなるだろうね。その思案とは、こうだ。このたびの処置としては、彼ら一人一人を二つに切り離そうと思う。そうすれば、いまよりも弱くなるだろうし、それに数もますことであるから、われわれにとって、いまよりも有益なものになりもしよう。そして彼らは、二本足でまっすぐ立って歩くことになるだろう。……」

こういってゼウスは、人間どもを二つに切っていった。……そして切るはしから、アポロンに命じて、その顔を半分になった首とを切り口のほうに向け換えさせた。それは、人間が自分の切り口を見ることによって、もっとおとなしくなるように望まれたからである。しかし他のところは、治療するようにとの命令であった。

某描く

ちょっと省略して。

かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。彼らは、たがいに相手をかき抱き、からみあって、一心同体になることを熱望し、たがいに離れては何一つする気がしない。だから飢えのために、いや、総じて無為のうちに明け暮れるために、つぎつぎと死んでいった。

うん、まあ哀れなものです。

そして、一方の半身が死に、その相手が残されてしまうと、残された者はさらに別の者を探して、からみついた。そのさい、あのゼウスの処罰よりもまえから女性であった者の半身──つまり、ぼくらがいま女性と呼んでいる者であれ、あるいはかつての男性の半身であれ、相手を選ぶことはなかった。このようにして彼らは、滅んでいった。

私がちゃんと読めてなかったのはこの「相手を選ぶことがなかった」の部分なのです。半分に切られた球体たちは、自分の半身を探してだきついたんですよ、ていうのはまではこっけいだけどロマンチックで、そこまでがよく使われる部分なんですよね。でも人間は神様とちがって死ななければならないから、いずれは半身も死んじゃう。そのあと半身はどうしたか?

どうしたって半分じゃ寂しいから、みさかいなく誰かにからみつかざるをえないのです。本当の半身じゃなくても、それにすこしは似たところもあるから。それ以前のパウサニアス先生の演説では、世俗的なエロス、下賎なエロスは心じゃなくて体だけを求めるのだ、とか言われてるわけですが、アリストパネス先生は「しょうがねーじゃん、半身はもう見つからんのだし」ってな話をしているわけですよね。相手選ぶのはたしかに高級なことだろうけど、もう我々にはそれは望むことができないのだ、みたいなパウサニアスに対する反駁がアリストパネス先生の演説には含まれているわけです。

そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考えだし、彼らの隠所を前に移した。それまでは後ろ側にあったので、彼らは子を生むにも、相互の結合の力によらず、蝉のように地中に生みつけていただからだ。さればゼウスは人間どもの隠所をこんにちのごとく前に移し、それによって、たがいの相手の体内で、つまり、男性によって女性の体内で生殖をおこなわせたのだ。このばあいのゼウスの狙いは、つぎのようなしだいである。つまり、彼らがからみあうさい、それが男性と女性の出会いであったら、男性と女性は子どもを生み、かくして、人間の種族はつぎつぎにつくりだされていくだろう。また、たとえ男性同士の出会いであっても、いっしょになったために充足感だけは生じ、その結果、彼らの気持ちはひとまずおさまって、ほかのいろいろな仕事に向かい、広く生活のことに気を配るようになる、というわけである。

これは最初はおかしく、もの悲しい話なわけですわ。

かようなわけで、相互に対する恋(エロス)は、このような太古から、人々のうちに植え付けられているのである。それは、人間をかつての本然の姿へと結合する者であり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとする者なのである。

でも、われわれの多くは、よくわからない半身にさかいなくからみつかねばならないわけです。それが下品だったらい本来的じゃなかったら、んじゃ本然の姿に戻るにはどうしたらいいですかね、っていうふうに話が進むわけよね。プラトン先生は天才ですわ。哲学者としてはイデア論とかわけわからん話したり、超統制二国家を夢見たりして二流なんだから、詩人・劇作家になればよかったのに。そっちだったら超一流だわ。

『饗宴』とかなんかお上品な解説ばっかりで、それが扱ってる肉欲とかどうしよもなさみたいなのは、少なくとも国内ではあんまり解説されないんですが、私が読むともっとバレ話だし、もっと切実な実感に裏づけられている感じがあるんですよね。上のアリストパネス先生の話は、本文を隠してごくごくロマンチックな話にされたり、あるいは滑稽一方の話にされたりするけど、そうじゃなくておもしろ悲しい話だし、そして『饗宴』全体の有機的なつながりのなかでやはり重要な地位を占めている。あの登場人物たちは別々の話をしているわけじゃなく、前の人の話をひきついで本物の弁証法的な発展をみんなで試みているんですわ。最高。みんなもぜひ読んでほしい。

そして、私の解釈では、『饗宴』全体が、さっきのパウサニアス先生や、このアリストパネス先生の話にあらわれる、性欲のみさかいのなさ、尻軽さ、相手かまわずという一面を考えているんですね。実はソクラテスの演説さえそれを扱っていて、それを推奨さえしているわけですが、それは自分で読んでください。あそこ(ディオティマ先生のお説教)は読みにくいんですわ。

パウサニアス先生は男は尻軽にならないようにいましめています

プラトン先生の『饗宴』の話はどうもこのブログではあんまりしてなかったみたいなんですが、数日前に市民の方向けの「生涯学習講座」みたいなので話をしたので、そのときに思いついたことなど。人前で話をするとそのたびに発見があるものです。ついでに、最近「おまえの国(日本)の女の子はなぜすぐにセックスさせてくれるのだ」とかって言われたとか言われないとかの話を切っかけにツイッタがもりあがってるようで、そこらへんもおもしろいなあ、とか。

前にも書いたように、古代ギリシア人にとって性愛というのは危険なものでした。情念というのはおそろしいものです。

でも、恋愛やセックスにはよいとろもあるはずで、そこらへんをどう説明するか、っていうのが『饗宴』や『パイドロス』のポイントですわ。『饗宴』ではいろんな人が入れかわりたちかわり話をするわけですが、そのなかでパウサニアス先生というひとが話をしている部分。(下の『饗宴』の訳は、事情により2、3種類まじっちゃってて、この部分が誰の訳かわからなくなってしまててすみませんすみません。そのうち直します。)

美とセックスの神アプロディーテーが愛の神エロースと切り離しがたいことは、僕たちの皆知っていることだ。だから、かりにアプロディーテーが一人ならば、エロースも一人となるであろうが、しかし、じっさいはアプロディーテーは二人である。したがって当然エロースも二人となるわけだ。……というのも、少なくとも一方のアプロディーテーは、齢も高く、母はなく、天(ウラノス)を父とする娘、したがって、その方たちを僕たちは天の娘(ウーラニアー)という名で呼んでいる。これに対し、より若いほうのアプロディーテーは、ゼウスの神とディーオーネーの間の娘で、したがってこの方を僕らは、地上的な(パンデーモス)女神と呼ぶ。そこで当然、エロースについても、一方地上的なアプロディーテーとともに事をなすエロースは、これを地上的なエロースと呼び、他方を天上的な愛の神と呼べば正しいわけだ。……

よい恋愛と悪い恋愛がある、ということを示すために、その原因のアプロディテさんやエロース君は実は二人ずついるのだ、っていうことにして話をするわけですね。アプロディテは美とセックスの行為そのもの、エロースは性欲に対応すると考えていっしょ。

さて、地上的なアプロディーテーより発するエロースは、文字どおり、至るところに転がっているもので、風の吹くまま気の向くまま、事も選ばずにやってのける。この愛は、とるに足らぬ人々の欲するものなのさ。つまり、この種のくだらぬ人びとは、第一に少年を愛すると同じように女性をも愛する。次に、その愛する者の魂より肉体を愛する。さらに、できるかぎり、知恵なき愚者を愛する。──以上のようにするというのも、彼らは、ただ愛の想いを遂げることだけに目をそそぎ、その行い方が美しいかどうかを、気にかけないからなのだ。したがって当然、彼らは、何ごとによらず手あたり次第に──善いこと、善くないことの見境もなく──行うということになるのだ。

低俗な方のエロースくんは低俗な人々の友達であって、その低俗なエロースは我々から見れば単なる肉欲であるわけっす。若い女でもショタでもよい。っていうか少年の方は完全にペドフィリアですね。とにかく白くてやわらくて毛が生えてないようなのがよいとかそういう感じなんでしょう。怒られが発生します。相手の頭も悪くてもかまわない。んでエッチなことをして満足することだけを求めるのです。これひどいっすよね。絶対怒られる。市民講座っていうか生涯学習講座でこんな女性差別的な話をしていいいのか!ってくらいで、「いやーこれ私の意見ちがいますよ、プラトンさんでもソクラテスさんでもないですよ、プラトンさんのお話の登場人物のパウサニアスさんていうおっさんの言うことですからね!」みたいにかなりお断りを入れないとやばい。

これに対し、今一方の愛は、天上的なアプロディーテーに発するものだが、このアプロディーテーは、まず第一に女性には関係せず、ただ男性だけに関係している。──次にそのアプロディーテーは、より齢も高く、激情の放縦からは遠い。かかるアプロディーテーの性質のゆえに、このアプロディーテーにつながる愛の息吹をうけたものは、生れつきより強きもの、より知性ゆたかなる者を愛して、男性に愛を向けるのである。けだし彼らは、少年たちが、すでにものの道理をわきまえはじめる頃、──すなわち、まずは髭も生えだす頃になって、初めて少年たちに愛をそそぐ。……

偉いアプロディテさんとそのおつきのエロース君はもっと高潔だというのです。低俗エロスが弱いもの、やわらかいもの、頭悪いもの、意志が弱いものが好きなのに対し、高潔エロスは強いもの、ガチムチ、知的なもの、勇敢なものが好きなのです。女ではなく男だ!そしてきれいな男ではなくガチ男だ!

三島由紀夫先生の仮面の告白をあれしますね。先生によれば、男同性愛な人は、最初はなよっとした少年とかが好きなものだが(これ「ウールニング」とか)、やはり大の男同士は、お互い知的にも肉体的にもガチっとしたのがいい、って主張するようになったとか。老作家と美少年の恋愛とかていうのはケレンであって、そういうのはもう「卒業した」とかって話は有名のようです。

んでパウサニアス先生の話に戻ると、まあ理想的なアプロディテとエロースはそういうわけで、心身ともに強壮な男と若い少年の関係なわけですが、ここで、当時のアテナイのその界隈では、一定の約束事があったわけです。当時の男性同性愛は、対等・対称的ではなく、やはり上下があり非対称だったわけです。はやいはなしが「攻め」(というか「愛する者」エラステース)と「受け」(「愛される者」エローメノイ)という役割があった。当然年上が攻めで年下が受けです。(関心ある人のために書いておくと、いわゆるBL的なアナルセックスとかしてたのかどうかは議論があって、してなかったろうってのが主流のようです)
さて、なにをするにも美しい方法、よい方法と、醜い方法、まずい方法がある。

ところで「醜く」とは、つたない者の恋心をつたなく受け入れることであり、「美しく」というのは、有為な人材に対して立派な仕方でそうすることである。ここに「つたない者」とは、あの、低俗な恋をいだく連中、いってみれば、魂よりも肉体を恋する連中のことである。そしてこの連中は、永続性のないものを恋の対象にしているから、本人のほうも永続性に欠けるのである。つまり彼らは、恋の目当てとする相手の肉体の花が凋むやいなや、それまでの数々の言葉や約束ごとを踏みにじって「飛びさって行く」。

これがだめな恋愛、だめなセックスですね。肉欲が主だとこういうことになる。

それに反して、相手の人柄に──もちろん、それが立派なときのことであるが、それに恋をする者は、永続的なものと融合するわけであるから、一生を通じて変わらないのである。したがって、わが国のならわしは、これら恋を寄せる人々を十二分に吟味しようというのであって、相手よってはその想いを受け入れても、別の者からさし出された手は拒むという態度を、その恋人たちに求めているのである。

ここでパウサニアス先生がなにを言ってるのかというと、相手はちゃんとたしかめてからセックスしましょう、ということですわな。それに誰とでもセックスするのは低俗なことである。上品な人はあんまりたくさんの人とセックスしません!

こうした次第であるから、われわれの習わしとしては、恋をしている人々にはその恋人を追うようにすすめ、逆にその恋人たちには彼らから逃げることをすすめるのであって、こうすることによって当事者をたがいに競わせ、自分を恋する者は、いったい、いまの分類ではどちらに入るのか、また、恋されるほうはどうかということを、それぞれ吟味するわけである。

さらに、プロポーズされたりしてもかんたんにはなびきません。ナンパされて「ついてっちゃう」とかっていうのは下品です。

こうしたことが原因となって、まず第一に、「恋人が簡単に相手の手中におちいることは恥ずべきことである」というふうに定められている。これは時日のゆとりを生みだす意図から出たことであるが、けだし、時日こそは多くのものに対する立派な試金石からである。つぎに、金銭や政治力に動かされて相手の手中におちいることも恥ずべきこととされている。……どのみち、かかるものから高貴な愛情が生じたためしがないのは言うまでもなく、だいいち、それらはどれ一つとして、堅固永続的なものではないではないか。

てな話。さらに、プラトン先生の原文やいろんな解説からすると、当時のウケの方はセックスを自分から求めはならず、さらに快感を得えることも控えねばならず、それがうれしいとかそういうのを口に出したり態度でしめしたりするのもよくないことである、と。そういうのは性欲や快楽におぼれる人々のやることであって、まともな男がやることではないのだ!ってことらしいです。

まあ一番最初にもどって、けっきょく男性であれ女性であれ、簡単にセックスするのは性欲とか快楽とかに動かされていることだから恥ずかしいことであって、とくに簡単に「やらせて」しまうのは男であれ女であれまあ低俗である、という考え方は古来から非常に強力ですわね。男でナンパして毎日違う女性とセックスしてます、みたいなのは一部ではあこがれかもしれませんが、やっぱり上品な人からしたらどうだろうって話になりそうだし、また男性同性愛の人々の間でもカジュアルなセックスをどう考えるかっていうのはなかなかおもしろいネタです。カジュアルでプロミスキュアスにいろんな人とセックスしまくるのも楽しそうなんですが、でもそれってなんかおかしなところがあるような感じから逃れるのは難しいですね。いまハルワニ先生の「カジュアルセックス」の話を翻訳してもらいながらいろ考えてるところ。

70年ごろの国内のウーマンリブの「公衆便所からの脱出」とかて有名な文章あるんですが、今手元にないのでコメントできませんが、やはり公衆便所となったり、そう呼ばれたりするのはあれなことで、性の解放と、みさかいがないと見られてしまう恐れとのあいだの問題というのはまあいろいろい難しいところです。

秋の夜にプラトン先生で眠れない

セックスの哲学史、みたいなのやってるわけですが、プラトンの哲学をテーマにした場合はなにを論じるべきか、とか考えるわけです。テキストはもちろん『饗宴』と『パイドロス』あたりですね。

この二つの作品についての日本の哲学者の先生たちの解説なんかだと、プラトンと愛&セックスの問題を扱う態度は二つあって、ひとつは、セックスや性欲の面をわりと軽めに扱って、「知への愛」とか真・善・美への愛の話なのだ、みたいにやる方法がある。田中美知太郎先生や納富先生なんかそういうお上品な感じかな。もう一つは、同性愛(とそれに対する近現代の社会的偏見)とか生殖とかそっちの話に焦点をあわせてやる方法で、これはたとえば前に紹介した近藤智彦先生とかがやってる感じ。

でもなんか私はもっと俗な読み方、俗な語り方があるような気がしていて、授業ではそれでやらせてもらってます。具体的には前に2本ぐらい記事書いた感じでやるわけです。

いまぼーっと考えていることでは、プラトンから汲み出せるのは、今も昔もかわらぬいくつかのテーマや通念、人間知みたいなものなんじゃないかと。まあ愛やセックスについて素手の「哲学」でなにかすごいものが発見できるというわけではなく、プラトン先生だってまわりの人々や自分の内的な感情を観察して語っているわけで、それが我々とぜんぜん違う、ってのもないだろうとか思ってます。

私が学生様に「プラトン先生はこんなこと考えてたみたいよ」って講義するときのポイントを列挙すると、下のような感じになる。

(1) プラトンにとってエロス/性欲/恋愛は凶悪な暴君で、これをどう評価しどうコントロールするかというのは正しい節制的な生活を送る上で最大の問題のひとつだった。

まあこれは我々のなかのそれが強い人にとってもそうかもしれませんね。

(2) エロスは悪しき困ったものでもありが、またなにか我々にとって有益なものでもある。

エロスは我々を気違いじみた行動に駆り立てることもあれば、よりよいもの、よりよい生活への原動力にもなる。そこで、プラトン先生はよいものとわるいものを分別しようとする。この「よいエロスとだめなエロスがありますよ」ってのはプラトン先生にとって中心的な感じがします。

(3) よいエロス、本来的なエロスはよいもの(善)への欲求である。

まあふつうに考えて、恋心にしても性欲にして、美人イケメンナイスバディといった容姿のよい人々、あるいはやさしいとか勇敢だとかっていう性格的な美徳をもった人々、あるいは頭が良いとか足が速いといった知的・肉体的な美点をもった人々に向かうもので、なにも長所やよいところがない人を好きになるのは難しいですね。ただ、プラトン先生は、おかしな考え方をするひとなので、美人のA子さんを好きなのは、A子さんの「美」を好きなのだ、って考えをすすめてしまう。「美」はA子さんと同じく美人のB子さんももってるので、ちゃんと理性を働かせれば、A子さんとB子さんを同じように愛せるようになるはずだ、そして修行をつめばA子さんとB子さんが共通にもっている「美」そのものを求めるようになるはずだ、みたいに考えちゃう。さらには、身体の美より魂の美の方がえらいのだから、魂の美を求めるはずだ、最後には美そのものをもとめるようになるのだ、みたいになっちゃう。哲学者とは思えないほどひどい論理だけど、まあそうなっちゃう理由もわからんではない。

(4) プラトン先生が気にしていて、批判したかたのは、「美と快楽」と「有用さ」を交換するふつうの人々の付き合い方だった。

これはかなり私のオリジナルな読みだと思うんだけど(そしてそう思うのは私が勉強たりないからなんけど)、古代ギリシアのパイデラステアってのは、スタンバーグ先生がいうところの非対称的な関係なわけですよね。年上の地位やお金や知恵を手に入れたおじさんと、まだなにももってないけど若くてきれいな少年の関係。一方は美少年からサービスされることによって快楽を得て、一方はサービスの対価としてお世話してもらってお金や知恵その他を得る。これってまあ現代でもおじさんと若い女性の間に成立しているというあんまり清くないかもしれない形の交際のパターンですね。でもこれって、あきらかになんか不純なところがある。プラトン先生はそういう欲と損得勘定の人間関係ってのがいやだったんだろなとか。

まあ夜中に目が覚めちゃって、半端なことを書いてしまった。あと

(5) もっもプラトン先生は身体の美の価値は否定できない、というよりやっぱり好きで、特になよなよよりガチムチの方が強くてたくましくてえらいので、男女のあれより男どうしの方がえらいと考えていた。
みたいな話もあるけど、これはまた。
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プラトン先生の『パイドロス』の話については、最初にあらわれる弁論家リュシアスの「少年は自分に恋していない人間に身をまかせるべきである」(= セックスは自分の利益になるような相手とするべきだ→だから君に恋していない僕とおつきあいしてセックスしましょう)という議論について、けっこう昔に一部だけ書いたんですが、この本おもしろいけど全体にかなり難しいんですよね。まあプラトン先生は詩人っぽくてでよくわからん。情熱がからまわりしているようなところがあるっていうか。アリストテレス先生なんか落ちついてて大人だなって思いますけどね。

まあそもそもプラトン先生はエロスにとりつかれた人で、かつ先生に言わせればエロス(恋愛)は狂気なんすわ。

〔恋する者は〕母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れる。財産をかえりみずにこれを失なっても、少しも意に介さない。それまで自分が誇りにしていた、規則にはまったことも、体裁のよいことも、すべてこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、人が許してくれさえすればどのようなところにでも横になって、恋いこがれているその人のできるだけ近くで、夜を過そうとする。(252A)

まあおそらくそういうタイプの恋愛をみんながするわけじゃないけど、なんか延々恋バナはじめちゃったり、瞳孔開いちゃったりする人はいるように思いますね。うしじまいい肉先生というひとが「恋愛では気が狂わないように注意しましょう」みたいなことを言ってるんですが、まあ狂っちゃう人っている。

前に紹介したリュシアス先生の言い分はエロス(恋)はそういうふうに危険だから、冷静に自分の利益になる人と愛人契約とか結んでおつきあいした方がいいですよ、ってな話だったわけです。

そのあとどう進むかっていうとうまく説明できない。とりあえずそのあとソクラテスが恋愛の話を二回やるんですわ。私の素人読みだと、一回目は悪いタイプの恋愛、二回目は良いタイプの恋愛についてなんか言ってる。

非常におおざっぱにいって、恋(エロス)ってのは欲望ですよ、と。しかし人間のもってる欲望には、生まれつきの快楽への欲望と、後天的な善への欲望の二種類があるのです、てことらしい。

この快楽や身体的な美への欲望ってのはよくなくて、そういう欲望にしたがうことは有害だ、ということらしいです。そういう快楽への欲望に動かされていると、まず当然、快楽をもたらしてくれる相手にエロスを感じることになるわけですわね。んで、自分に逆らうような人ってのは不愉快だから、自分の言うことを聞くような相手が望ましい。自分より相手の方が優れてるってことになると自分のだめさを思いしらされたりするから、相手はダメな方がいい。なんかそういうのあるかもしれませんね。「お前はだめな女だから俺が守ってやる」とか「だめな人で私がいないともっとだめになっちゃうから」とかそういう感じですか。

さらに悪いことに、相手が精進して立派に偉くなると自分に快楽を与えなくなってしまうから、相手が立派になるのを妨げようとする。人間というのは、いろんな人々、特に立派な人々と交流しているとだんだん考え方とか向上するわけですが、それを好ましく思えない。「あんな奴らとはつきあうな」ですわね。さらに、自分だけを見ていたいから他の人間とは会うな、とかになるわけです。相手が孤独であれば自分を頼りにするしかないわけだし。肉体的にも快楽を求める人っていうのは、相手が柔和で色白で人工的な装いをしているのを好む。逞しい体はだめだ、みたいになっちゃう。

さらには、そういう快楽ってのはあんまり長続きしなくて、けっきょくそのうち慣れちゃってあんまりおもしろくなくなる。快楽のためにおつきあいしているんだから、快楽があんまりなくなっちゃったら捨てちゃおうってなことになる。

まあそういう話をソクラテスはまずするわけです。これ、一部は前に紹介したリュシアス先生の弁論と共通する部分がありますね。リュシアスは「恋(エロス)」より利益のある冷静なおつきあいがいいのだ、って言うわけだけど、ソクラテス先生はエロスにも二種類あって、悪いエロスの方はこんなだめな関係になりますよ、っていうわけです。

でもソクラテス先生はこの話途中でやめちゃうんですよね。なんか自分が考えてるのと違うぞ、ってことらしい。エロスにはもっとよい面があるよ、善いものを求めるエロスの方がいいものだよ、って話をするわけです。こっから先がものすごく面倒な話していて、私のような素人にはちょっと歯が立たない感じですね。

まあしょうがないので非常に簡単にいってしまうと、エロスはたしかに狂気なんだけど、よいエロスはよい狂気ですよ、と。人間の魂は二頭立ての馬車で、資質も血筋もよい白馬(欲望)とその反対の黒い馬(気概)、そしてその二匹を操る馭者(知性)で成立していて [1]『国家』でも出てくるいわゆるプラトンの魂の三分説。 、馭者が馬たちをうまくコントロールした場合、恋愛は当人と相手を高めるのです、みたいな。でもよくわからん。プラトン先生らしくなんか夢かうわごとみたいなことを言ってるようにも思えたり。

まあこれ読んでる人はこういうところまで興味あるかどうかわからないし、専門家の書いたもの読んでもらった方がいいかもしれません。確認してないけど、納冨先生のとかに書いてるような気がする。

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まあむしろ、恋愛にはこういうお互いにダメになっちゃうやつと、お互いが向上するやつがありますよ、っていうのはプラトン以来ずーっと日本の文科省教科書まで続く伝統があるわけですわ。まあ恋愛するなとは言えないから、お互いを高めあいましょう、みたいな。どうやってなにを高めるのかよくわからんですが。『相手と自分を高めるエロス』とかあったら読んでみるべきですかね。叶恭子先生あたりが書いてそうだ。amazonで売ってるだろうか。

数年前、こういうイラストがツイッターとかで流れてたんですが、これおもしろいですよね。

「見ていたい女の子」はかっこよくて強くて優れてる。見てたい。でも彼女にするには強すぎる。彼女にしたい女の子っていうのはそれほど優れてはいないし弱いしそれほど美人でもなくあんまりモテないかもしれない感じ。これって、上のプラトン先生の観察によく合ってますよね、ってな話。

References

1 『国家』でも出てくるいわゆるプラトンの魂の三分説。

プラトン先生の『パイドロス』からオヤジらしい口説き方を学ぼう

最近「倍以上男子」という言葉を流行らせようとしている雰囲気があるようですね [1]2017年だと「パパ活」か。 。私はこういうのはなんかバブル時期のことを思いだしてあれなんですが、まあそういうのもあるでしょうなあ。 http://howcollect.jp/article/7240 まあ流行らないと思いますが、こういう記事を書いている人がなにかソースをもっているってことは十分にありそうだとは思います。

しかしまあこういうので言われている女子とか年少者にとって有利な恋愛の形というのは当然昔からあって、あの偉大なるプラトン先生も検討しておられます。プラトン先生は恋愛とセックスの哲学の元祖でもあるのです。おそらくソクラテス先生もね。

プラトン先生が考えている恋愛っていうのは、『饗宴』でもそうですが、男同士、年長の男(30代とか [2]40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。 )と年少(10代)とかの関係ですわね。少年愛。パイデラステア。どうも当時のアテネの一部の階層ではそういうのが一般的だったんですね。美少年が勢いのある中年に性的な奉仕をして、中年男の方は金銭面とか人脈とか各種の知識や技術を教えたりする関係。まさに倍以上男子です。

プラトンが恋愛について書いたものというと、例の「人間はもともと2人で一つの球体だった、それがゼウスに怒られて二つに分けられちゃった、それ以来人間は自分の半身を求めて恋をするのだ」というアリストファネスの演説が入っている『饗宴』が有名ですが、『パイドロス』も同じくらいおもしろくて重要な本ですわね。その最初に、「君は自分に恋していない人とつきあうべきだ」っていうリュシアスという人の演説が紹介されているのです。話はそこから始まる。

まず、「ぼくに関する事柄については、君は承知しているし、また、このことが実現したならば、それはぼくたちの身のためになることだという、ぼくの考えも君に話した」って感じで話をはじめます。まあ自己紹介みたいなのして、自分がどれくらいお金もってるかとか、どれくらい地位が高いかとか仕事ができるかとかまずは説明するわけですね。んで「このこと」っていうのはまあお付き合いですわ。それは両方のためになるよ、ともちかかけるわけです。

口説きは、「ぼくは君を恋している者ではないが、しかし、ぼくの願いがそのためにしりぞけられるということはあってはならぬとぼくは思う」と意外な展開を見せます。君のことを愛しているわけじゃないけどお付き合いしよう、まあセクロスセクロス。

若い人は、自分を愛している人より愛してない人とつきあうべきなのです。なぜか。リュシアス先生は理路整然と説明します。おたがいそうする理由がたくさんある。

(1) 恋愛というのはアツくなっているときはいいけど、それが冷めると親切にしたことを後悔したり腹たてたりする。恋人がストーカーになっちゃった、とかっていうのは今でもよく聞きますよね。でも恋してない人はそういう欲望によって動かされれてるわけじゃなくて冷静な判断から相手に得なことをするから後悔したりあとでトラブルになったりしない。

(2) 恋しているからおつきあいをする、っていうことだったら、新しい恋人候補があらわれたらさっさとそっちに行ってします。「誰より君を大事にするよ」とかいってたって、他に新しい恋人ができたらそっちの恋人を「誰より大事」にするだろうから、古い恋人はひどいめにあうってこともしょっちゅうだ。実際「恋」とかってのは熱病みたいなもので自分ではコントロールすることができないものなのだから、そんなものに人生かけるのは危険だ。

(3)  おつきあいをする相手を自分に恋している人から選ぼうとすると数が少ない。ふつうの人はそんな何十人も候補があるわけじゃないっすからね。でも冷静におつきあいを望んでいるオヤジは多い。よりどりみどりになる。

(4) 恋している男というのは、有頂天になって自慢話におつきあいのことをペラペラと周りにしゃべるものだが、冷静な愛人はそういうことはちゃんと秘密にしてくれる。

(5) 恋している男は嫉妬ぶかい。今どこにいるだの誰とメールしているかとかいちいち詮索してうざい。

(6) 別れるときも恋している男はいろいろうざい。恋してない奴はさっさと納得して別れてくれる。

(7) 恋している男は、相手がどういう人かを知るまえにセックスしようとするが、恋をしてない理性的な人はちゃんと相手を見てからおつきあいする。

(8) 恋をしている人は相手の機嫌をそこねないようにってことばっかり考えて、本当にタメになることは教えてくれない。それに対して恋してない奴はいろいろ有益なアドバイスをくれる。今の快楽だけでなく、長い目で見たら将来のためにこうするべきだ、みたいなことを教えてくれるだろう。

とかまあ面倒になったからやめるけど、こういう感じ。これは今でもオヤジの口説きに使えそうな部分もあるわけですな。まあいつの時代も人は同じようなことを考えるものです。このリュシアスさんの演説に対して、ソクラテス先生が「おれはもっとうまい話ができるぞ」とか言いつついろいろ検討くわえて「恋愛やおつきあいというものはそういうものではないぞ、もっとええもんなんや」とやっつけていきつつ、その実、実は美少年パイドロス君をナンパしてたらしこんでいく、というのが筋です。そういうのが好きな人は読んでみてください。名作です。

『パイドロス』は岩波文庫のでいいと思います。『饗宴』はいろいろあるけど、光文社の新しいやつ読みやすかった。『パイドロス』訳している藤沢先生は授業受けたことありますが、モテそうな先生でした。

→ プラトン先生の『パイドロス』でのよいエロスと悪いエロス、または見ていたい女の子と彼女にしたい女の子に続く。

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アテネとかの同性愛がどういう感じだったかというのは、まあまずはドーヴァー先生の本を読みましょう。まちがってもいきなりフーコー先生の『性の歴史』とか読んじゃだめです。

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ハルプリン先生のはゲイ・スタディーズとかの成果をふまえたものでもっとドーヴァー先生のより現代的なものだけど、ちょっと難しいし評価もそれほど定まってない。

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アテネで女性がどういう暮しをしていたかっていうのは、これかな。

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References

1 2017年だと「パパ活」か。
2 40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。