最近『饗宴』のアリストパネス先生を見直しました

もう一つ、『饗宴』で一番有名なアリストパネス先生の人間球体論も久しぶりに読んだんですが、これ私ちょっと読みそこねてた部分があったのです。 
さて、諸君は、はじめに、人間の本性と、かつて人間にかかわりのあった事件とを学ばなければならない。そのむかし人間の本然の姿は、こんにち見られるものとは同じからぬ、それとは異なったものなのであった。第一に、人間は三種類あった。すなわち、こんにちの男女二種類のみではなくて、第三の者がその上の存在していたのだ。それは男女両性を合わせもつ者で、名前だけは現在も残っているが、その者自体はすでに消滅してしまっている。つまり「アンドロギュノス(男女)」というのが一種をなしていて、容姿、名前とも男女を合わせもっていた。……
まあここらへんの出だしは有名ですね。
第二に、この三種類の人間の容姿は、すべて全体として球形で、まわりをぐるりと背中と横腹がとり巻いていた。また手は四本、足も手と同じ数だけをもち、顔は二つ、円筒形の首の上にのっかっていたが、両方ともすべての点で同じようにできていた。さらに、頭を一つ、たがいに反対に向いている二つの顔の上にいただき、耳は四つ、隠所は二つ、その他すべて、いま伸べたことから想像されるようなぐあいになっていた。 そして動くときは、こんにちと同じように、直立した姿勢で、望みどおりの方向に進んだが、突っ走ろうとするときには、とんぼ返りの踊り手たちが車輪のように足を回転させながら、ぐるっ、ぐるっと、とんぼ返りをうって行くように、かつては八本あった手足を支えに使って、ぐるっ、ぐるっと急速度に回転しながら進んだのである。
かっこいい、かなあ。まあ滑稽でおかしい。
……強さや腕力にかけても彼らは剛の者で、その心もまた、驕慢であった。そして神々に刃向かうことになった。……そこでゼウスをはじめ、ほかの神々は、彼らをどう処置したものか、寄り寄り相談したが、結論がでない。かつて巨人族になしたように、雷光の一撃で人間の種族を殲滅してしまったら、人間からの敬神の実も神々のための神殿もなくなってしまうだろうから、これはできぬ相談である。そうかと言って、このまま傍若無人のふるまいをさせておくことも許されぬことだ。そこでゼウスは、さんざん頭をしぼって考えたあげく、こう言われた、「わしはどうやら、一つの思案を得たようだよ。それによって人間どもは、このまま存続しながらいまよりも弱体化して、わがままな所業はしなくなるだろうね。その思案とは、こうだ。このたびの処置としては、彼ら一人一人を二つに切り離そうと思う。そうすれば、いまよりも弱くなるだろうし、それに数もますことであるから、われわれにとって、いまよりも有益なものになりもしよう。そして彼らは、二本足でまっすぐ立って歩くことになるだろう。……」 こういってゼウスは、人間どもを二つに切っていった。……そして切るはしから、アポロンに命じて、その顔を半分になった首とを切り口のほうに向け換えさせた。それは、人間が自分の切り口を見ることによって、もっとおとなしくなるように望まれたからである。しかし他のところは、治療するようにとの命令であった。
某描く
ちょっと省略して。
かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。彼らは、たがいに相手をかき抱き、からみあって、一心同体になることを熱望し、たがいに離れては何一つする気がしない。だから飢えのために、いや、総じて無為のうちに明け暮れるために、つぎつぎと死んでいった。
うん、まあ哀れなものです。
そして、一方の半身が死に、その相手が残されてしまうと、残された者はさらに別の者を探して、からみついた。そのさい、あのゼウスの処罰よりもまえから女性であった者の半身──つまり、ぼくらがいま女性と呼んでいる者であれ、あるいはかつての男性の半身であれ、相手を選ぶことはなかった。このようにして彼らは、滅んでいった。
私がちゃんと読めてなかったのはこの「相手を選ぶことがなかった」の部分なのです。半分に切られた球体たちは、自分の半身を探してだきついたんですよ、ていうのはまではこっけいだけどロマンチックで、そこまでがよく使われる部分なんですよね。でも人間は神様とちがって死ななければならないから、いずれは半身も死んじゃう。そのあと半身はどうしたか?どうしたって半分じゃ寂しいから、みさかいなく誰かにからみつかざるをえないのです。本当の半身じゃなくても、それにすこしは似たところもあるから。それ以前のパウサニアス先生の演説では、世俗的なエロス、下賎なエロスは心じゃなくて体だけを求めるのだ、とか言われてるわけですが、アリストパネス先生は「しょうがねーじゃん、半身はもう見つからんのだし」ってな話をしているわけですよね。相手選ぶのはたしかに高級なことだろうけど、もう我々にはそれは望むことができないのだ、みたいなパウサニアスに対する反駁がアリストパネス先生の演説には含まれているわけです。
そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考えだし、彼らの隠所を前に移した。それまでは後ろ側にあったので、彼らは子を生むにも、相互の結合の力によらず、蝉のように地中に生みつけていただからだ。さればゼウスは人間どもの隠所をこんにちのごとく前に移し、それによって、たがいの相手の体内で、つまり、男性によって女性の体内で生殖をおこなわせたのだ。このばあいのゼウスの狙いは、つぎのようなしだいである。つまり、彼らがからみあうさい、それが男性と女性の出会いであったら、男性と女性は子どもを生み、かくして、人間の種族はつぎつぎにつくりだされていくだろう。また、たとえ男性同士の出会いであっても、いっしょになったために充足感だけは生じ、その結果、彼らの気持ちはひとまずおさまって、ほかのいろいろな仕事に向かい、広く生活のことに気を配るようになる、というわけである。
これは最初はおかしく、もの悲しい話なわけですわ。
かようなわけで、相互に対する恋(エロス)は、このような太古から、人々のうちに植え付けられているのである。それは、人間をかつての本然の姿へと結合する者であり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとする者なのである。
でも、われわれの多くは、よくわからない半身にさかいなくからみつかねばならないわけです。それが下品だったらい本来的じゃなかったら、んじゃ本然の姿に戻るにはどうしたらいいですかね、っていうふうに話が進むわけよね。プラトン先生は天才ですわ。哲学者としてはイデア論とかわけわからん話したり、超統制二国家を夢見たりして二流なんだから、詩人・劇作家になればよかったのに。そっちだったら超一流だわ。『饗宴』とかなんかお上品な解説ばっかりで、それが扱ってる肉欲とかどうしよもなさみたいなのは、少なくとも国内ではあんまり解説されないんですが、私が読むともっとバレ話だし、もっと切実な実感に裏づけられている感じがあるんですよね。上のアリストパネス先生の話は、本文を隠してごくごくロマンチックな話にされたり、あるいは滑稽一方の話にされたりするけど、そうじゃなくておもしろ悲しい話だし、そして『饗宴』全体の有機的なつながりのなかでやはり重要な地位を占めている。あの登場人物たちは別々の話をしているわけじゃなく、前の人の話をひきついで本物の弁証法的な発展をみんなで試みているんですわ。最高。みんなもぜひ読んでほしい。そして、私の解釈では、『饗宴』全体が、さっきのパウサニアス先生や、このアリストパネス先生の話にあらわれる、性欲のみさかいのなさ、尻軽さ、相手かまわずという一面を考えているんですね。実はソクラテスの演説さえそれを扱っていて、それを推奨さえしているわけですが、それは自分で読んでください。あそこ(ディオティマ先生のお説教)は読みにくいんですわ。

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