『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。


– 第1章、55頁からのイデア論の話なんですが、これねえ、どう解釈していいのかよくわからない。
– 「イデア論は、欧米の文化の中に深く入りこんでいて、西洋の考え方の一つの基礎になっています」(p.55)ぐらいだとまあ微妙なんだけど、「日本語というシステムの中では、このイデア論は非常にわかりにくい」(同)とか言われちゃうと、「いや、西洋人にもわかりにくいだろう」と言いたくなりますわよね。さらに(イデア論とは)「神の見ている世界のことです」という説明されちゃうと、「論が世界なの?それってカテゴリーちゃうんちゃう?」とか言いたくなる。「イデアというのは具体的に、正しい考え、善い行い、美しいオブジェや人のことではなく、正しさそのもの、善さそのもの、美しさそのものだ」っていう説明も、まあわかったようなわからないような。これ、おそらくとりあえず猫のタマと猫のイデアの話して、タマは猫のイデアが具体的になった一例です、みたいな話しないとならんと思う。しかし新書、それも哲学じゃなくて恋愛論の新書では無理か。
– 鈴木先生はイデア論説明するのに『パイドロス』もってくるんですが、読者にはなぜ突然『パイドロス』もってこられるのかわからないと思う。私だったらむしろ『饗宴』のソクラテスの演説のなかのディオティマ先生のあたり使うと思う、っていうかまあそこ使ってますわ。これは好みかな。
– 「ちなみに概念という言葉は、英語ではidea、フランス語ではidéeと、イデアと同じ単語を使います。……こんな言葉の使い方を見ているだけで、ヨーロッパにいかにイデア論が心頭しているのかわかる」(pp. 57-58)とかっていうのも苦しい。そういう問題ではないと思う。
– 「少年の美しさに対する肉体的愛はレベルが低い」(p.59)って言われてて、まあ『饗宴』でも『パイドロス』でもそうなんだと思うけど、『饗宴』のディオティマさんのお説教で次のようになっている。

……恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちかに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。

しかしそれに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。

しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みださなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるいという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。

……つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つぎになにかの美を目標としつつ、上昇してくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るに至るのです。(鈴木照夫訳)

  • 解釈はものすごくむずかしいですが、とりあえずふつうに読めば、エロの道を極めようとする男(哲学者)は、まず目の前の美少年の体を賞味して、次に美少年ならなんでもOKになり、次に肉体から精神の美へ向かい、最後に美そのもの(美のイデア)に向かうのです、ってことなので、最初は美少年と肉体的にイチャイチャすることからはじめないとならないっぽい。ソクラテス先生はその道を通りぬけて達人になったからもうあんまりイチャイチャしないかもしれないけど、最初はやはりイチャイチャで。私そういう才能なかったから哲学者なれなかったんですよね。でもとりあえず哲学者めざす若者は恋もがんばってください。
  • まあイデア論にそれほど深入りする必要ないなら、このディオティマ先生の理屈を使って、A君の美しい身体と、B君の美しい身体と、C君の〜は、どれも、「美しい」という性質を共有しているのだ、ふつうのわれわれは美しい身体を見ることしかできないが、達人は複数の美しい身体に共通の「美しさそのもの」、すなわち「美のイデア」を見ることができるようなるはずだ、みたいな話はできないでもないと思う。

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