田中東子先生の表現の自由論 (3)

さて、本論文の核心部分、本論の部分です。

私たちがいま早急に対応しなくてはならないのは、ポルノ表現は「表現の自由」であるかどうかという問題以上に、その「有害さ」である。

ポルノを定義してないのにポルノがどれくらい有害か論じられるのは困るんですが、とりあえず定義は宙吊りにしておきますね。どれくらい有害でしょうか。

このポルノの有害さの問題はここ50年ぐらい相当論じられているのですが、先生はそうした文献は見ないで(さっき言及されてたウェスト先生の論文でも相当論じられているのに!)、ヘイトスピーチと比較してみよう、という。んで Jubany and Rohia 2016という文献では、ヘイトスピーチ的なコンテンツの特徴として次のようなことが指摘されているといいます。

  1. 永続性(permanence)、オンラインに残りつづける
  2. 回遊性(itinerancy:)、消してもまた現れる
  3. 匿名性/偽名性(anonimity/pseudonymity)、これは自明ですね
  4. 越境性(transnationality)、国境を越える

これはまあネットでのヘイトスピーチとかが特に気になる特徴としては悪くないですね。

んで、先生はこういう特徴はポルノ表現のどこが有害なのかについて、重要な視点を与えてくれるという。ここは重要なところなのでちょっと長いけど引用しますね。

これら四つの特徴は「憎悪コンテンツ」について述べられたものであり、「ポルノ表現」の議論にそのまま適応することはできない。しかし、デジタル空間の中で生成された表現に限って言うなら、特に「永続性」「回遊性」「越境性」は、ポルノ表現のどこが有害なのか、という議論を展開する際に、重要な視点を与えてくれる。つまり、表現そのものの評価を超えた、デジタル空間が構造的に持ちうる「有害さ」というものが、今日、問われなくてはならないのである。これら四つに加えて、ポルノ表現の場合にはさらに、「可視性」(インターネットでは、誰もが表現できるだけでなく、多くの場合、誰もがほぼ無料でそれらを見ることが可能である)と、「夥しいほどの大量のコンテンツ生成」(AIによるディープフェイクポルノの生成という状況を思い起こしてみればよい)という特徴を追加して論じていく必要があるかもしれない。

つまり、今日のデジタル空間のなかでのポルノ表現との出会いの問題点は、「出会い」そのものにあるのではなく、出会いの「文脈」と出会いの「量」がもたらす「有害さ」にあることは間違いないだろう

ここの議論は私にはわからない。ネットの表現の永続性、回遊性などが、有害なものがユーザーの触れる機会を増やし、その結果危害を増幅させている、という可能性があることはわかる。もっともな話です。しかし、その「危害」そのものはなんなのか。それはユーザーが「不快」に感じるということなのか。それならば、不快が危害であるということを先に論証しなければならないはずです(あるいは「危害」をそういう形に定義しなければならない)。それが抜けている。そして、単なる不快は危害であるのか、ということは、まさに言及されているウェスト先生が論文で(消極的に)論じていることなのです。

このあとで、こういう文章が続きます。

「エロい/わいせつ」な表現と出会うことが問題なのではない。そうではなく、「エロい/わいせつ」だとされる表現に常時晒され、大量に遭遇し続けてしまうこと、もしくはわいせつさが特段必要とされない商品の広告などの文脈で出会ってしまうこと、女性の身体の過度なモノ化を通じた女性的価値の毀損や、女性的な身体とそのイメージにもたらされる名誉の毀損が、深刻な問題をもたらしているのである。(強調江口)

ここの議論は、「ポルノ」の普通の定義を越えています。フェミニストの定義(ウェストがあげている例では「女性に特定のかたちで害を及ぼす性的に露骨な素材」)にさえひっかからない。私が見るところでは、田中先生はむしろ、「ポルノ」ではなく、「差別的エロ表現」、すなわち、(たとえば)「女性の身体をモノ化している表現」や「女性の身体をモノ化し、女性的価値を毀損し、または女性的な身体のイメージを名誉毀損する表現」とでもするべきだった。「わいせつ」がここにある必要は(保守派でなければ)ないように見えます(米国の基準でいえばわいせつなものは言論の自由の保護外です)。おそらく先生は「性的な魅力」と書くべきだった。、それに「女性的価値の毀損」もわからない。「女性の社会的地位/尊厳の貶め」とかだろうか。「身体とそのイメージにもたらされる名誉毀損」もわかりにくい。名誉毀損は個人の人格(人)としての名誉を傷つけるものであって、身体だけ、あるいは女性全体の名誉毀損というのは考えにくい(納得しにくいだけで、1980年代からポルのは女性全体の名誉毀損だという立場はけっこうあります)。

ここで「有害さ」として想定されるのは、差別的、攻撃的、対象となる人や子供たちをモノ化しているかどうか、必然的な文脈のもとで表現されているのか、どのくらい制限なく容易に人々の目に触れてしまう場所で掲示されているのか、といったことがらである。
こうした「有害さ」という概念を想定してみると、広告表現において若い女性に関する特定の表現が批判されるのは、「必然性のない文脈」で女性を「モノ化」する表現を、「ほとんど制限なく目に触れてしまう場所」で提示している、といった部分でそうした表現が「有害」であると考えられてしまうからである。

そしてここが最大の論点であるわけなんですよね。しかしここもわかりにくい。つまりある表現が、「差別である」「攻撃である」「モノ化している」ということが有害である、ってことなんだと思うんですが、今度はそれぞれどういう表現がそれに当たるのかわからないし、表現にわかりやすい実害がない場合にもそれらは危害であり規制されるべきなのかどうかもわからない。しかしまさにこれらがポルノをめぐる長い論争の焦点であり、広くは言論の自由をめぐる激しい論争のポイントであるわけです。そこをこの数行ですまされると困ってしまう(危害があるとすればネットがそれを増幅しているであろうという点には文句はないです)。

ヘイトスピーチの話とかいらないから、なぜそこらへんにある広告表現(たとえば宇崎ちゃんの献血ポスター)が、エロだとかわいせつだとかモノ化しているとか、必然的でないとか言われてしまうのか、それがいまSNSでみんながやってることじゃないでしょうか。さらに、それは他の広告やアイドル産業、映画産業、その他とどうちがう問題を含んでいるのか。すでにポルノの危害や、広告での微妙に女性の魅力を利用した表現なんかについては数多くの議論があるのですから、ぜひそういうのを紹介しながら、よりよいSNS、よりよいネットについて議論してほしいと思います。

そういうときに、

大切なことなので繰り返しておくが、このような過激な主張〔メディア全般を捨て去れ、コンテンツをすべて検閲せよ〕をしているフェミニストはほぼ実在してはいない。存在しているとするならば、その場所は、SNSに蔓延り「ツイフェミ」とやらと戦っている「表現の自由戦士」と揶揄されている人たちの脳内の妄想世界の中だけである。こうした人たちの妄想こそが、デジタル時代のポルノ表現が生み出しているその「有害さ」を取り除き、ポルノを表現し続ける可能性を根こそぎ奪い去ろうとしているのである。

根拠もあげずにこういう侮蔑的な書き方をするのはあまりよろしくないと思います(現在SNSでフェミニストの立場をとっていると、いろいろへんな人々が寄ってきてたいへんなのは理解します)。でも、そりゃ「メディア全部禁止しろとか全部検閲せよ」って言ってる人はいないでしょうが、フェミニストのなかにそういうことを主張している人々がいると主張している「表現の自由戦士」も私は見たことがありません。藁人形じゃないでしょうか。せめて、「表現の自由戦士」が具体的に誰なのかを明示するべきだと思います。たとえば青識亜論さんでいいんじゃないでしょうか。

(いったん終り)

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