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2019年に読んだ本ベスト10

老眼も進んだし、時間もないし、気力もないし、もう読書生活も人生もおわりにさしかかっています。さらに読まない人になりつつある。

マンガも読まなくなったんだけど、この3つは印象が強い。

音楽書は今年は豊作だったのではないか。

これはすごくて、ジャズジャイアンツの音源のDTMソフトの波形で見て「ノリ」を分析するってやつ。おそらく世界的にも重要。音楽のプロはもちろんそういうことはしないわけで、先生が統計をよく知っている医者でありセミプロミュージシャンである、というそういう特殊性のたまもの。えらい!まあこれ読んで演奏できるようになるわけでも、音楽がよくわかるようになるわけでもないのだが、それでもえらい!これぞマニア!

数年前から注目しているスージー先生、今年も快調、というよりその活動の頂点にいると思う。ほんとにすばらしい音楽愛・歌謡曲愛を感じる。

これはインテリ向け。でも知らない情報や事情説明や解釈がありとてもよい。こういうの読めるジジイになって、いちおう子どものころからの目標を達成しているよな、とか思います。

プリンス本は多いわけだけど(他にも数冊読んだ)、尊敬するモリスデイ先生のがやはりすばらしい。仮想のプリンスとの対話の形でモリスデイ自身の人生とプリンスが語られていく。もう涙涙。

これはとても勉強になった。ポップ文化/作品研究のなかでも映画は突出して発展していて、映画学もちゃんとした分野になっている。これはアメリカの教育のありかたが反映されているからだろう。映画と直接関係なくても、カルチャー関係の卒論書いてもらわなければならない教員は一回目を通しておくと役に立つと思う。

「グーグル様が世界だけでなくイスラム信仰も変えてます」な話。まあ煽りぎみなんだろうけど、ポイントを突いているのだと思う。読んでると我々とはまったく違った発想があることに気づいてなんか頭がぐらぐらする。

風呂で宇宙論や科学史の本をわからないなりに読むのは人生の楽しみ。これは物理学の哲学の本よね。これじゃなかった気もするけどまあこの種の本の代表ってことで。

他はBooklogの5つ星4つ星を見てください。

2018年に読んだ本ベスト10

今年も印象に残った本10冊。もうなんか読書人生も終りに近くなってる感じがあって、マンガとかも含めていわゆる「積ん読」になってしまうことが多くなってます。

一番はやっぱりこれかなあ。昨年末にいただいて楽しく読ませていただきました。買い物は適応度ディスプレイだ、そしてディスプレイしているのは富や社会的地位だけでなく、中核六項目(知性+ビックファイブ性格特性)だって主張で、これ読んでからツイッタとかで人々がいろいろやってるのを見る目が変わりましたね。みんながんばってディスプレイして社会的地位や適応度を上げましょう。

これ、単なるよくあるインタビューじゃなくて、コニッツ先生とそのまわりの人々の音楽性と活動とかまでつっこんだ話を聞きだしてすばらしい。2000年代はアカデミックな先生たちがこうした本を作ってる。

これは年末近くなってから読んだけどプリンスのスタジオ風景で、これ読んで、「あー、もうプリンスはいないのね」とか実感した。スタジオではとても扱いやすい人だったようだ。どの関係者も、なによりプリンスのドラマーとしての能力を高さに言及しているのが印象敵。そして一番驚いたのは、ストリングスとかの斬新なアレンジしてもらっていたクレアフィッシャー先生(ジャズでもそこそこ有名)と会わずに仕事してたこと、「会うか?」って聞かれても「いや会わない方がいい」とか答えたとかって話。へー、特にParadeのあの音がそんなふうに作られたとは。

他にも音楽関係のは印象に残る本が多かった。

『洋楽マン列伝 1 (ミュージック・マガジンの本)』『あなたの聴き方を変えるジャズ史』『イントロの法則80’s 沢田研二から大滝詠一まで』など。

マンガはなんかストーリーの強いこってりしたものは読みにくくなってて、むしろ絵を楽しむ鶴田謙二先生いいなあ、みたいな。5、6冊読んだかな。

あと上野先生には笑わされた。すばらしい。ぜんぶ買いなさい。

将棋界カンニング疑惑事件とかの発生やいろいろからのうつ病の罹患とその回復の過程。先崎九段はまだ本調子じゃないみたいだけど、内的な経験の記述がリアルだし人々との関係とかが青春小説のようだ。青春じゃなくて中年小説か。

これ、大昔に読んでるんですが読みなおしていろいろ確認できて印象に残ってる。「〜とは何か」とかって問いはやめましょう。

われわれはぜんぜん知ってないのに知ってると思ってるし、なにか教えてもらっても後知恵で知ってたつもりになってしまう。

ひろゆき先生のひさしぶりに。笑える。まあこういうのが正しいとか性格がよいとかそういうのではないけど。

私そんなアスペでもADHDでもないとは思うけど、同じような悩みはある。このシリーズはよい。『ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本』と『ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本』

MediaMarkerがサービス終了ということで、ブクログ https://booklog.jp/users/yonosuke1965 に難民したのですが、使い勝手にずいぶん差があるわねえ。どうにかしてほしい。

 

 

山口裕之「生命科学の非倫理性」

・・・倫理的問題とは、結局のところ価値意識の問題であり、感情の問題である。われわれの倫理的価値意識は、〈特定の〉他者を思いやる善意と、その善意を正しいものだと感じる感情によって支えられている。倫理的問題がえてして水掛け論になり、感情的なののしり合いに発展することの理由はこの辺りにある。そうしたののしり合いのなかで、人は、倫理的な動機ないし感情に従うまさにそのことによって、非常に非倫理的に振る舞うことになる。論争がののしり合いになるのは、自分の正しさ(実は自分の感情にすぎないもの)のもとに相手を屈服させようという感情に突き動かされるからである。そして、相手を思いやることが倫理の根本だとすると、相手を屈服させようとすることは、論争相手のことを思いやっていないがゆえに、非倫理的である。(山口裕之「生命科学の非倫理性」、石田三千雄他『科学技術と倫理』ナカニシヤ出版、2007、 pp. 97-8。強調は原文傍点。)

うーん。わりとナイーブな主観主義・相対主義。どうして他では優秀な人も、道徳判断の話になるとこういうナイーブな立場になってしまうのだろう。もちろん、生身の人間が倫理的な問題を議論するとしばしばののしりあいになり、その背景には倫理的判断に不可欠の感情があることはよい指摘だ。しかし、道徳判断は単なる感情だという主張は、大昔からたいていの哲学者によって反駁されている。感情に加えて少なくともなんか首尾一貫性が必要だとされているはず。また、「〈特定の〉他者を思いやる」善意とそれに付随する感情が倫理的価値意識だとすれば、特定の論争相手を思いやらないことは特に非倫理的であるとは思えない。あと少なくとも「相手を思いやることが倫理の根本だとすると」という条件節に対して筆者が肯定するのか否定するのか単なる仮定なのかぐらいははっきりさせないと、最後の「非倫理的である」がたんなる感情の表明なのか、なんらかの一般的な主張なのかがわからん。ここらへん推敲が不足しているだけかもしれん。

ちなみに、この文章の前では

・・・「自分の考えが正しい、それは相手も従うべき普遍的な正しさなのだ」とやみくもに信じて、相手の「善意」には思いいたさずに、相手が間違っていると一方的に決めつける者がいたとすると、私の言いたいことはやはり同じである。「勝手に決めるなよ!」。(p. 96)

私はこの方の善意にはまったく疑問をいだかないが、「勝手に決めるなよ!」はたんなる感情の記述か表出のどちらかだと考えざるをえない。これがたんなる「感情の表明」と解釈されていいのだろうか。

ドーキンスのタイプの「社会生物学」について(ドーキンス自身は「社会生物学者」を自称しているのかな?まあいいか。)。

例えば私が純粋な親切心からしている行動について、はなから私自身の意図を質問する気もなく、「それは血縁者を多く残すための行動である」などと説明するならば、私の言いたいことはやはり、「勝手に決めるなよ!」である。(同書「科学的認識の倫理性」、p.108)

これは至近因と究極因を混同している。っていうか、その手の学問を完全に誤解していると思う。社会生物学者や進化心理学者はそんなまちがいはしない(もしそういう混同をするようであれば、学界から追いだされるだろう)。まあでも、この二本の論文全体を通して主張されている「地獄への道は善意によって舗装されている」はまったく同意。

 

『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。