クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (4)

4-1 ネットや書籍には「制度的反証」がはたらきません

知識の探求や物事についての適切な理解を得るためには言論の自由が保障されなければならない、という道具的議論に基づいた「思想と討論の自由」の擁護を、だれもが自由に意見を発信できる……インターネットや、書籍や情報を「商品」として取り扱うマスメディアや書籍出版にそのまま適用することは難しい。

なぜなら、「アカデミア」とクリッツァーさんが呼ぶ世界では「制度的反証」があるけど、出版やネットにはないからだ、と。

まず「アカデミア」っていうのが具体的になんなのか、っていうのが私にはわかりにくいです。それは、「学会」のことを指してるのか(学会雑誌は査読があるとか)、「大学」なのか(大学で教員になるには審査がある)、「大学関係者たちの学問的交流」なのか(大学関係者は人数多いっすよ)。

んで、まあとりあえず広く「大学関係者たちの世界」って考えたときには、別にそこに「制度的反証」があるわけではない。ツイッタで好き勝手言ってる大学の先生なんて(私を含めて)たくさんいるじゃないですか。

んじゃ狭く「学会」として見たとき、そこの判断や知見はまともかというと、前にジェンダー法学会で賞をもらた作品の英語がめちゃくちゃだという話は書きました。他にも、このブログでは大学の先生たちがいろいろわけわかんことを書いていることを指摘しています。いったい日本のどこに「信頼できるアカデミア」なんてものが存在しているのですか。それはクリッツァーさんの頭のなかにしかないんじゃないでしょうか。プリンスのペイズリーパークは私たちの心のなかにありますが、信頼できるアカデミアなんてのは私たちの心のなかにもない。

クリッツァーさんは、自分の立場が権威主義だと言われる可能性があることを意識しているけど、「アカデミアの権威の根拠は「人」ではなく「制度」にある」っておっしゃる。しかし、アカデミアなるものの制度なんてそんなしっかりしたものじゃないのです。この点については別に記事書くと思いますが、とりあえず先に進みましょう。

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