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ショーペンハウアー先生に本当のミソジニーを学ぼう

大学の公開講座で、「生涯学習」としていろんな年代層の人にお前らが勉強していることをわかりやすくしゃべって、教養や楽しみにしてもらえ、という業務があり、私も参加しています。んじゃまあ哲学・思想や人生なんかについて考えてもらいたいなあ、みたいなので学生様相手にやってる「愛と性」の年長者バージョンみたいな感じで。去年はやはりオリジナル哲学者たちへの敬意から、プラトンとアリストテレス。エロースやらフィリアやら。今年は近代がいいだろうってんで、18〜19世紀でルソー、ヒューム、ウルストンクラフト、カント、ショーペンハウアー、J. S. ミルみたいな感じ。キェルケゴールも予告してたんだけど時間の都合で結局できなかった。無念です。

予告には、「本年度は、18世紀から19世紀の有名哲学者を中心にとりあげる予定です。彼らの以外な一面を知ることができるでしょう」とか書いたけど、実際の受講生の方々には、「男性中心の哲学者たちがどんだけろくでもない話をしていたのかを紹介します、哲学者のろくでもなさを味わってください」みたいな感じで始めました。

私が考えているろくでもない哲学者ナンバーワンはやはりショーペンハウアー先生で、先生はこのブログでももとりあげる価値がありますね。ろくでもなさがすばらしすぎる。

ショーペンハウアーがろくでなし哲学者ナンバーワンなのは、もちろん有名な「女について」の著者だから。主著はもちろん30歳すぎぐらいで書いた『意志と表象としての世界』ですが、よく読まれているのは60すぎで出版した『余録と補遺』に収められているエッセイみたいなやつらですわね。文庫本なんかでは編集されて切り出されている。「女について」もそういう形で有名ですね。

とにかくこの「女について」は女性にたいする無根拠の悪口を書きまくっていてろくでなさ最高なので、ちょっと紹介します。私が書いてるんじゃないですからね。全部ショーペンハウアー先生です。それでもたくさん紹介するとやばいので、ほんの一部だけ。

「女がいなければ、われわれの生涯は、その始めには助けを欠き、その中期にはよろこびを、その終わりには慰めを欠くことになろう」(362節)

これはルソー先生が「男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ」って言ったのとまったく同じ発想ですね。バブバブー。グヘヘ。そして最後は「わかってくれるのはお前だけだ」。ほんとにそんなひとたちがいれば男子としては言うことないですなあ。ははは。

しかし、ショーペン先生は若い女が好きです。

娘ざかりの女にたいして自然がたくらむことは、芝居用語で言う、きわめつきの見せ場である。つまりその少女の残りの一生涯がどうなろうとかまわず、自然はそのほんのわずかな年月のあいだに限って、彼女らに美と魅力と豊満をふんだんに与えるのだ。それというのも、この数年間に、男の空想力を完全にとらえようという算段だからだ。男はそのため夢中になって、なんらかの形で、その女の面倒を一生まともに引き受けようとする。

若い女は美しい!なぜならそれは生物としてその美によってオスを引き寄せて出産と養育の面倒をみさせるためだ!現代の進化心理学までつながる発想です。ショーペン先生はカント的な「自然」と「目的」を使ってますが、現代の進化的な発想なら「目的じゃなくて、そういう形質(美とか豊満とかでオスを引き寄せ世話させる)をもった個体が子孫を残したので、結果としてそういうのが遺伝的に生き残ってる、とかになるのだと思います。でも生物学者とかでも面倒だから、「オスを引き寄せ世話させるために美しくなってるのです」みたいな省略形の説明したりしますね。バラシュ先生たちの本を参照

……こうして自然は、他の被造物のすべてにたいするのとまったく同様に、女にも、その生存を確保するために必要な武器と道具を付与するわけだが、その与えられる期間は、自然がいつも使う節約のやりくちに従って、必要な期間に限られるのだ。

ダーウィン以前の考え方では、こういう「自然の節約の原理」みたいなのを想定しなければならなかったわけですね。そしてそれは「自然というのは倹約家だから」とか勝手にそういう想定を置いていた。進化的な発想からすると、「美によって生殖と子育てがうまくいけば、生殖と子育て移行はそれは関係ないので」みたいになる。ほんとうにそうなのかというのはもっと研究しないとわかりませんね。でもたとえばバラシュ先生たちは、女性のおっぱいが若い時は上の方にパツンパツンで、齢をとると下がってくるのは、上むいたおっぱいが若さの印になるのだ、みたいな話はする。おっぱいの位置を上げるのは相当コストかかるんでしょうな。

そういうわけで若い娘たちは、家事や事務的な仕事などは、内心どうでもいい片手間のこと、それどころかただの戯れと考えている。彼女たちがただひとつ真剣な仕事とみなしているのは、恋愛や男心を征服すること、およびそれに関連すること、たとえば化粧やダンスといったことどもだ。

なんてことを言うんですか!許しません!弊社の学生様はそうではありません!

それにしても男性哲学者のダンス好きっていうのはおもしろくて、ヒエロニムス先生が苦行して死にそうになってもダンスするアイドルグループを夢に見て怒ったり、ルソーが女子にはピアノとダンスを習わせてほしいとか、ホントに好きなんですね。現代社会でアイドルがあんなに人気がある理由がわかる。男子はみんな哲学者だからですね!

女が腹の中で考えていることはこうだ。金を稼ぐのは男の仕事、それを使い果たすのは自分たちのつとめで、できれば夫の生きている間に使い切るのがよく、少なくともその死後にはこれを浪費するのが自分たちの役目だ。

ショーペン先生はアイドルみたいに歌うまくてダンスがうまくて明るい女子が好きなのですが、金づかいが荒いのがいやなんですね。ケチ!なんでそうなったんですか、っていうとまあ個人史的な理由があるんかもしれないですね。

ショーペンハウアー先生のパパはお金持ちの商人名家だったんですが、先生がティーンエイジャーの頃に逝去なさり、その遺産を派手な才女のママと妹が食いつぶして破産したとかそういう話。明るくて派手なママは、いつも陰気でうじうじしているアルトゥール君が嫌いで会いたくもない、みたいに言われてたとか。かわいそすぎる。

そんな悪くないけど根暗そう

悪い人じゃないかもしれないけど、三つ子の魂百まで

 

左がママのヨハンナ、右がやっぱり才女の妹のアデーレ

妹さんはおとなになるとこういう感じ。才女な感じですな。

かっこいいと思う

若い時はさまざまな商売をされている女性とけっこうおつきあいして(おそらくお金の関係)、10歳以上上の女優・歌手のKaroline Jagemann (1777生)さんに片思いするけどふられる。

30すぎてから、やっぱり歌手のCaroline Medon (1802生、14歳下)さんと(なんとか?)おつきあいしたけど、カロリーネさんのおつきあいした動機に疑いをもって結婚しなかったとか。お金目当てだと思ったんでしょうか。老年になってからやっぱりお金むしられたようです。

40すぎてから15歳ぐらいのFlora Weißさんに惚れ上げた?このひとは肖像画とかみつからないなあ。まあ先生が派手なタイプの女性好きなのははっきりしてますよね。老年になってから隣近所のやっぱりカロリーネっていうお姉さんと暴力沙汰になって賠償金を年金で払ったりもしてますな。まさに女難の男。『うる星やつら』の錯乱坊(チェリー)やさくらさんに人相見てもらえばよかったのに。定めじゃ。まあ女性が好きなんだか嫌いなんだかわからない、頭のなかが女性しかない、あるいはせいぜい、哲学、女、唄、それが女嫌いである、ってことがわかります(ファイヤアーベント先生がそうだと言っているわけではないです)。

諸星はこの美人霊能者のさくらさんと関係をもったために、彼女にとりついていた物の怪すべてを引き受けるさらなる女難を味わう……

そういう個人的な経験から「女とは」とかやってはいかんですな。次のエントリも読んでください。 → ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

まだお金払いたくないけどもう少し読んでみたいって人は、ここらへんに誰かが写経した痕跡がのこってましたので買うかどうか考えてください(私ではないですが、読むと写経してみたくなる感じはわかる)。ショーペンハウアー先生は名文家だし、ものすごく明快な哲学者で、誰でも読めばすぐに言ってることがわかる。わかりすぎるぐらい。こういうの読むと、ごちゃごちゃ難しげな書き方したほうがよいときもあるのかもしれんな、みたいな。ははは。

 

 

これは(とりあえず)関係ないです。

カント先生から未婚化・非婚化の原因を学ぼう

性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)

カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。

他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。

まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題1)実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。

前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。

これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。

 

んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。

ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。

前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。

この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。

カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。

まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。

どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)

まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。

 

 

References   [ + ]

1. 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。

カント先生に女性のルックスの鑑賞法を教えてもらおう

前のエントリの続き。

紹介したいと思ったのは、第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」の後半にある、女性のルックスの美についてカント先生が語っているところです。こんな感じにはじまる。

美しい性〔女性〕の姿と顔立ちが男性に与える多様な印象を、できるかぎり概念化して捉えることは快適でなくもないかもしれない。この魔力の全体は、根本的には性的衝動の上にひろがっている。(p.358)

カント先生らしい面倒な言い回しですが、男性の女性のルックスの好みは様々なので、それがどうなってるか把握してみましょう、ってわけですね。そして女性のルックスは(男性に対して)魔力的な力をもつことがあり、それは(男性の)性的衝動に根拠がある、というわけです1。なんか現代の進化心理学みたいですが、カント先生の時代だと「種の保存」みたいなのはいってくるのでまだ特に進化的な話ははいってない。おもしろいのは次です。

つねにこの衝動のごく知覚に身をおいている健全で粗野(derb)な趣味は、婦人における外見や顔立ちや眼の魅力等々にはほとんど悩まされることはなく、本来ただ性だけをめざすことによって、たいていの場合、他人の繊細さを空虚なおふざけとみなすのである。

これは、性的衝動を感じたらすぐセックスするような男性は、女性のルックスとかあんまり頓着しない、女性の顔についてああだこうだいって悩んでるのは馬鹿にする、ってな話ですね。カント先生は女性の美について関心がある方だったんでしょうなあ。まあこの、そうした粗野な人々について一連のおもしろい皮肉がある。さて。

高雅な趣味のためには、婦人の外面的な魅力の間に差異を設けることが必要となるが、それに関して言えば、この趣味は姿と形における 道徳的なもの か、あるいは* 道徳的でないもの* にかかわっている。(p.358)

「もっと繊細な趣味をもつためには、女性のルックスのよしあしをみわけられなければなりません」というわけです。先生、ポリティカルに正しくありません!

「道徳的なもの」「道徳的でないもの」っていわれているのは moralisch / unmoralisch なんですが、このモラルってまあ「道徳的」って訳しちゃうとうまくつたわらないかもしれない。精神的なってな意味の英語のmoralと同じやつだと思います。カント先生がいいたいのは、「女性の(外面的な)ルックスについてよい趣味をもつには、外面だけじゃなくて、そこに精神的なもの、内面的なものを見分けることができる必要があるんだよ、ってことです。顔がかわいいだけじゃなくて、なにかそこに優れた性格みたいなものがみえてないとならん、ということなわけですね。

後者の種類の快適さにかんして、婦人は可愛い(hübsch)と呼ばれる。均整のとれた体つき、規則正しい顔つき、眼の色、優雅に際立つ顔は、花束においても気にいるような、冷ややかな賛同しか得られない単なる美にすぎない。

「均整のとれた体つき」は ein proportionierlicher Bau, プロポーションいい体。「規則正しい顔つき」はregelmäßige Züge、まあ左右対象だとかそういう感じですか。「きれいな顔はたしかに美schönなんだけど、それって花みたいな物体としての美とあんまり変わりないのである、そんなものは男性の熱狂的な愛を受けたりするものではないのだ」というわけです。hübschはやっぱり「可愛い」てしか訳せないと思うんですが、可愛いというより顔が整ってる、って感じですね。

顔は可愛くても、それ自体はなにも語らず、心に語りかけない。

まあただきれいなだけじゃやっぱり恋愛の対象とかにはならんわけですよね。忌野清志郎先生のこの歌みたいな感じっすか。

顔立ち、眼差し、顔つきの道徳的である表情にかんして言えば、それは崇高の感情か美の感情かのどちらかにかかわる。彼女の性にふさわしい快適さが、主に崇高の道徳的表現を際立たせている婦人は、本来の意味で美しい(schön)と呼ばれ、また顔つきや、顔の特徴認められる限りでの道徳的な印が、美の諸性質を告げている女性は快適(annehmlich)であり、その度合が高い場合は彼女は魅力的(reizend)である。

訳語の選択は難しいですね。私が訳すならどうするかなあ。いいたいことはわかりますよね。おじさんになってきたりして女性をたくさん見てくると、単に顔が整ってる、ってだけでは魅力を感じないことがある。魅力を感じるのは、なにか内面的なものが表情にあらわれているような女性だ、とそういいたいわけです。んで、その表情に表れる内面的なものが、カント先生がこの本で注目している「崇高」と呼びたくなるようなものをもっているひともいれば、同じく「美」と呼ばれるべきものをもっている人もいる、とそういいたいわけです。

前者〔崇高型〕は、落ち着きを示す顔つきと高貴な外見のもとで、慎み深い眼差しから美しい悟性のきらめきを輝かせ、彼女の顔にやさしい感情と善意の心が描き出されることによって、男性の心の傾向性も尊敬の念を我がものとするのである。

こっちは知性や教養をもっていて、おちついた感じの内面を見せてくれるような人。レディー。マリアテレジア女帝とかですかね。

後者〔魅力型〕は笑った眼のうちに陽気と機知を、またいくらかの繊細な茶目っ気、あだな諧謔、おどけたつれなさを示す。

こっちは明るくて楽しいおちゃめさん、マリーアントワネット様?

前者が感動させるとすれば、後者は魅惑し、みずからのよくするものであり他人に吹き込む愛の感情は、うわついているが美しい。(p.359)

こう、威厳のある美人と陽気でコケティッシュな美人、みたいな区分けをしているわけです。

さて、性欲との関係ですが、

この衝動がまだ新しく、発達しかけた時期に、最初の印象を与えた姿が原像として残り、そして将来、空想的なあこがれを刺激することができ、またこのあこがれによって、かなり粗雑な傾向性が、性のさまざまな諸対象から選ぶようにしいられるあらゆる女性の形態は、多かれ少なかれその原像に適合しなければならない……。(p.360)

性の目覚めの対象になった人のタイプが、その後の人生の性欲生活でも重要な役割を果たす、みたいな感じですね。もうカント先生の時代からそういうこと言ってたんだ。

いくぶん高雅な趣味にかんしていえば、われわれが可愛いと呼んだ種類の美は、あらゆる男によって、かなり一様な仕方で判定され、これについては通常考えられているほど意見の違いないと、私は主張する。(p.360)

単純に顔立ちがととのっているという意味での美人っていうのは、判断はだいたい皆同じ、世界各国共通だ、とかってことですね。

しかし、繊細な姿の判断に顔つきにおける道徳的なものが混合するときには、さまざまな男子において、趣味はつねに非常に異なってくる。彼らの人倫的感情自体に従っても、また顔の表情が、各人の妄想におおいてもつかもしれない様々な意味に従っても異なってくる。

おもしろいっすね。単なる「ととのった顔」については男性あんまり意見の相違はないが、内面的なものを含めると性の目覚めとかその後の妄想の積み重ねとかで好みがいろいろ分かれるようになりますよ、ってな話です。これ、ラブライブとかアイドルマスターとかガルパンとか、最近のアニメは大量の女子が登場しますが、あれは男子の多様な好みに対応するものなのですねえ。それぞれ違う性の目覚めをしたから。ははは。

決定的に可愛くないがゆえに、初め見たときには、とりわけて作用を及ぼさない形態が、よりよく知るにつれて気に入りはじめるや、通例、はるかに多くの心をひきつけ、たえず美しくなっていくように思われるということが見られる。可愛いが外見は一挙に知られるが、ときの経過に従ってますます大きな冷淡さでもって知覚される。道徳的な魅力は、それが目に見えるようになったときには、より強く心を捉える。これに対して、可愛い外見は一挙にさいられるが、時の経過に従ってますますおおきな冷淡さでもって知覚される。

「決定的に可愛くない」っていのはひどい言い方だとおもいましたが、weil sie nicht auf eine entschiedene Art hübsch sind」なので、まあ「すごく可愛いってわけではないので、最初はたいして印象をいだかなかったクラスの女子が、隣の席になってだんだん中身がわかってくるとだんだん可愛くみえてくる」ってそういう話ですね。カントくんも可愛いじゃないっすか。一方、美人なのはすぐにわかるけど、だんだん興味なくなるってやつですね(ルソーが妻について言ってる例のやつのうけうりっすかね)。まあ女性が美人なのはいいことだし、鏡やお化粧その他に気をつかうのもわかるけど、やっぱり内面が大事ですよ、知性と教養をはぐくみ、またポジティブな性格を身に着けましょうね、みたいなそういう話。男性のがわも、女だからなんでもいいってのは粗野だし、美人がいいとかってのも外見だけの話だったら馬鹿らしい、やっぱりその内面の崇高と美を見抜けるようにならないとなりません。まあごく普通の常識的でお説教っぽいものだけど、それはそれで楽しい。

まあこんな感じでおもしろい。見ての通り、「美と崇高」で趣味を二つに切っていくっていうのはけっきょくたいしてうまく行かず、矛盾しているっぽいところもあるんですが、まあそうういうの気にしないで軽く楽しい文章を書く、っていうのも、実はカント先生好きだったんでしょうな。カント先生軽さの美に挑戦する、ぐらいっすか。

女性のルックスの話となると、桂枝雀師匠の「仔猫」って話のおなべさんのことを思い浮かべるんですわ。まあルックスに恵まれない女性にたいする評価みたいなの、昭和な感じで、いまとなってはちょっとつらいところもありますが、枝雀先生すごいですよね。

この枝雀先生の芸は、すごく機知に飛んでて楽しくて美であると同時に、それを実現するための苦しい修行や、彼の(おそらく)鬱っぽい気質なんかも見せてくれて、見るたびに圧倒される「崇高」なものでもある。まあ「美と崇高」はどっちかだ、両立しない、みたいな考え方しちゃだめなんだとは思います。男女の特性や美徳悪徳についても同様。そういう単純な話っておもしろいけど、けっきょくはだめなんですよね。これはカント先生も認めてる。

 

 


  1. これ、中島義道先生と解釈ちがうかもしれない。 

カント先生の『美と崇高』はおもしろいなあ

去年と今年、過去の大哲学者たちが、男と女、そしてその関係について、いかにろくでもないことを言っていたかというのを紹介する一般向け講座みたいなのをやっているのですが、読み直してやっぱり軽い哲学っていうのはおもしろいなと思いますね。昨日は大哲学者のヒューム先生とカント先生を取り上げたのですが(先週はルソーとウルストンクラフト)、その一部を紹介してみたいです。

カント先生は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』『啓蒙とかなにか』『永遠平和のために』とかギザギザした難しいタイトルのとても難しい本を書いていて有名なのですが、若いときはわりと軽い文章も書いてるんですよね。ドイツの大学の「私講師」というポジションで、一般受けしそうなネタを扱って受講生集めないとお金もらえなかったり、サロンや食事会とかでうまいこと言ってウケたいとかそういうそこそこ人間らしい事情があったのだとはおもいます。カント先生はふつう思われてるほどガチガチの融通きかない人ではなく、そこそこ助平心もあったのかもしれない。

『美と崇高の感情に関する観察』っていう1763〜4年ごろの作品(カント先生40歳ぐらい)のは徳に軽くて陽気で冗談とか入りまくって楽しい。これはカントっていう名前から想像される、ガチガチ体系哲学じゃなくて、「観察」というタイトルに表れているように、先生が自分や他の人々の社交などを観察しておもしろおかしく書いたエッセイですわね。

中心的なテーマは、我々がそれを見聞きしたり体験したり交際したりすると快や満足を感じる人や対象があるわけですが、特に「趣味」にかかわる話です。趣味は、プラモ作成とかキャンプとかのホビーじゃなくて、あの人は趣味がいいとか悪いとかっていうときの好みの方です。特に、「美」と、「崇高」のふたつに注目して、この二つで我々が好むものを分けていっておもしろい話をしましょう、というわけです。

「美」はもちろんふつうの「美しい、きれい、優美だ〜」っていうやつ、崇高の方は難しくて面倒なんですが、基本的には「すごい!えらい!」「ごつい!」「強えー!」とかそういうのにかかわるやつですね。カント先生の文章引用するとこうなる。

雪をいただく頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かに花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群におおわれた谷間の眺望、エーリシュウム〔ギリシア神話での死者たちの至福の世界、桃源郷ですか〕の叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。

この文章はまあ面倒ですが、「崇高は感動させ、美は魅惑する」ということらしいです。すごいのでこっちを圧倒してきて感動させるけど、ちょっと遠くから眺めていたいのが崇高で、きれいだったりかわいかったりしてうっとりさせてくれるのが美、と。まあわかりやすいですね。カントはいろんな優れたものをこの二つに分けていくわけです。

自然物とかだと上のよう感じですが、人間の性質でいうと、こんな感じ。

悟性は崇高で、機知は美しい。大胆は崇高であり、手管は卑小だが、美しい。……真実と誠実は単純で高貴であり、諧謔と快い媚〔こび〕は繊細で美しい。……崇高な諸性質は尊敬の念を、しかし美しい諸性質は愛をつぎ込む〔呼びよせる〕。 (p.328)

崇高なものは努力や堅さや重さや力と関係があり、美しいものは才気ややわらかさや軽さなんかと関係がある、まあそう言われると、我々が好きないろんなものが、この二つによって特徴づけられるような気がしますね。まあだからどうだってことはなくて、単なるおもしろい「お話」ではあるけど、こういう二分法とかやると、酒の席とかだといくらでも話が続けられる。太宰治の『人間失格』のなかで、主人公が友達といろんなものを喜劇(コメ)と悲劇(トラ)に分けて遊ぶ印象的なシーンがありますが、あれと似てる。ふたつに分類する、っておもしろいんですよね。まあカント先生にいわせればトラは崇高でありコメは美である、とかになると思う。

んでまあ美と崇高の話、どうしたって人間の話になるわけです、っていうかそれが目的で、自然物とか建築物とかそういうのは導入。私が興味あるのは当然男女の話。せっくすせっくす、せっくすの話しろー。ていうか私もここまで前置きが長すぎるわ。

第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」で、この章をいろいろ紹介したいのですが、今日は女性の顔の話だけ。あれ、前置きだけでかなり長くなってしまったから次のエントリに。


テキストは久保光志訳『美と崇高の感情にかんする観察』

実はカント先生とはずいぶん前に同じネタでお話させてもらっている。→ カント先生とおはなししてみよう

 

 

 

セックス哲学史読書案内:古代ギリシアの奥深い純情

女子大の講義でセックス哲学史みたいなのやってるんですが、回ごとの学生様向け読書案内をなるべく掲載してみたい。実は前にも書いてるんだけど、時代別に分けてみましょう。


古代ギリシアの生活など

古い文物は文字だけではイメージがつかめないので、ぜひヴィジュアル本を読みたい。人の名前おぼえるにはとにかく顔を見るのがよい。とにかく歴史については、ヴィジュアルから攻める。もちろん映画とか見るのもよい。

他にも「ふくろうの本」「とんぼの本」シリーズなどのヴィジュアル本は見てておもしろいので、ヒマがあれば図書館でめくってみてもらいたいものです。文字だけの本とはぜんぜんおもしろさが違う。

ギリシア神話

いろんな本で紹介されている。「本当の」「正しい」ギリシア神話、というものがあるわけではなく、後代の人々が勝手にいろんな話を付け加えている形で広まっているので、適当に読めばよい。たとえばこういうのでいいだろう。

あらかた知ってる人は、シシン先生の本を読むと「そうなのかー」ってのがあるはず。

まあこういうの眺めるのがいいんすよ。神話勉強しつつ美術も勉強し、さらにエッチな好奇心もそこそこ満足させられる。

ホメロス作品

岩波文庫ので読めばいいと思うけど、若干読みにくいし長い。

むしろこういう少年少女向けに翻案されたもので楽しみながら概略を知ればよいと思う。

サッポー

サッフォーの恋愛詩は岩波文庫の呉茂一訳『ギリシア・ローマ抒情詩選』にはいってます。

沓掛良彦先生の解説がすばらしい。この先生はほんとうにすばらしい学者なので、文学に興味のある人は片っ端から読みたい。

サッポー先生の女子コーラス学校(宝塚みたいなものか)を舞台にしたマンガおもしろい。

パイデラステア(古代ギリシアの少年愛)

この本が定番。

上の『エーリンナ』でもちょっとだけ描かれてる。

難しい話をする人たちの間では、ハルプリンの『同性愛の百年間』というのがよくひきあいに出されるけど、江口はおすすめしない。それよりまず↓みたいなの読むべきだと思う。フラスリエール先生のは1960、レスキ先生のは1976で古いんだけど、それでも読むべき。

これは名著だった。ギリシア神話から叙事詩、抒情詩、悲劇・喜劇といろいろな形式でのエロスや「アプロディテの営み」を考察してくれる。