まあそういうわけで「セックス」っていう概念を分析するというか、とりあえずはっきりさせたいわけだけど、「セックス」が基本的な概念なのかどうかについては諸説がある。ふつうに我々が「セックス(すること)」と呼んでいるものはおそらく「性的な活動」なわけです。(「セックス」にはもちろん「性別」って意味もあるけど、ここではとりあえず関係ないように思える。)
手塚治虫『アポロの歌』。 手塚先生は性器がないと愛せないと 考えたのかもしれません。 |
もうちょっと反省すると、「セックス」と呼ばれる活動(性的活動)に含まれる「性的部位」や「性的快楽」や「性的欲望」に注目するべきかもしれないという話になる。そしてある部位を性的にしているのはなにかとか、ある感覚や快楽を性的快楽にしているものは何かとか、ある欲望を性的欲望にしているものはなにかとか、それらに共通な「性的」という性質があるのかどうかとかって話になるわけです。
「性的活動」を「なんらかの意味で性的部位にかかわる活動」みたいに考えるのは、一見すると魅力がある。人間の身体のなかで特に性的な部位ってのはある気がしますよね。典型的には股間がそうだし、おっぱいとか尻とかも特に性的な感じがする。そこらへん触ったりしはじめるとそれは性的活動なのだ、すでに性的活動をしている、みたいな。うっかりそういう場所を触っちゃうと「痴漢!」「セクハラ」って呼ばれてもしょうがない。
一方、赤ちゃんの手のひらを「やわらかいねー」って触ってもあんまり痴漢な気はしない。私がおじいさんの踵とかを触ったらセクハラではない気がする。でも私が女子大生のどの部分を触ってもなんかセクハラな気がする。うーん。どうも身体のある部分が性的になったり性的でなくなったりすることがあるみたい。けっきょく、「性的な部位」を性的活動から独立に規定するのはけっこう難しそうだってことになる。性的な部位って何だろう?
そこで、「性的な部位」を「性的な快楽に関係する部位」みたいに考えることも可能かもしれない。唇とか股間とか性的な快楽を与えてくれる傾向があるかもしれないし、腕の内側とか背中とか足の裏だって方法によっては性的な快楽を与えてくれるかもしれない。つまり、「性的な活動」や「性的な部位」より、「性的な快楽」の方が基本的な概念なのではないか、みたいな。性的な快楽を与えてくれる場合にそこは性的になるのです、誰かが性的な快楽を味わっている場合にそれは性的な活動になります、そしてそれは文脈に依存します、みたいになる。これはかなり魅力的な解決法になる。
問題は当然「んじゃ性的快楽ってのはどんなものよ」って話になる。まあ快楽は感覚だから、「これが/それが性的快楽だよ」って教えてもらうしかないかもしれない。ちょっと不満な感じもするけど、これくらいで我慢しておくべきなのか。
もっと問題なのは、「んじゃ誰も性的な快楽を味わってない場合にはそれは性的活動ではないのか」みたいなことを言われてしまいそうな気がする。ぜんぜんうまくいかないセックスとか、誰もぜんぜん快楽を感じてなかったらそれはセックスではなくなってしまうのはなんかへんな感じがする。失敗したセックスはセックスではありません、みたいな。ははは。
「性的快楽」を基本にする考え方と同じくらい(かそれ以上)に魅力的なのは、性的欲望を基本概念にする見方。性的欲望の対象となるのが性的部位であり、性的活動とは誰かの性的欲望にもとづいた活動です。私にはこれが一番有望に思えるっすね。性的欲望をかかえた活動はセックスだり、セクハラをセクハラにしているのはそれが性的欲望にもとづいているからだ。挨拶のキスは欲望にもとづいてないので性的じゃないけど、恋人どうしが夜中にするキスはセックスの一部。
私がこの性的欲望中心説みたいなのを気にいっているのは、セクハラとかってのについて被害者が感じる不快の説明にもなっている気がするからです。女子の多くが感じる不快感のバックには、加害者とされる人の性的欲望(性欲)を感じる不快さがあるんじゃないかって勝手に思っている。同じ「肩にタッチする」って行為でも、相手の性欲を感じると「セクハラ」って言いたくなることがあるんじゃないか、とか妄想。ははは。
まあそういう妄想はさておいて、性的欲望中心説みたいなのもやっぱり「んじゃ性的欲望って何よ」っていう問いを提出されることになるわけで、こっちも性的快楽と同じように「これが/それが性的欲望だ」って形で教えてもらたり、「これが性欲か!」って(自然に?)自覚するのを待つしかないかもしれない。
性的快楽にせよ性的欲望にせよ、独特の色彩というか質があるですよね。子供のころはあんまり感じない感覚を、性的に成熟するにつれて思春期ぐらいから強く独特のものとして感じるようになる。もちろん「私は小学1年生のころから快楽を感じてました」「パンツ見たくてしょうがなかった」って人も多いだろうけど、それが次第になんかやばい特別な種類の感覚や欲望であることを自覚するようになっていくんではないかという気がする。性的快楽や性的欲望として分化していくっていうかなんというか。まあここらへんの分析は、概念分析というよりは現象学とかの研究対象かもしれないですね。
あとここらへんいろいろおもしろいネタが多くて、性的欲望という欲望の対象は何か、みたいな話も興味深い。性欲ってのは快楽を目標としていると考えられることが多いけど、これって本当だろうか? 私のカンなんだけど、たとえば性的快楽がまったくないことがわかっているのにセックスを求める人っているかもしれないし、もしかしたら苦痛があることがわかっていてさえ、セックスを求める人がいるんじゃないかという気がしてます。ぶちゃけた話、人は気持ちよくなりたくてセックスするのではないのではないか。快楽より欲求の方が基本的な概念なんちゃうか、とか。おもしろいですね。機会があればここらへんもっとちゃんと議論してみたい。
性的快楽か、性的欲望かのどちらかを中心に考えていく他にも
、性的覚醒や性的興奮みたいなのを中心に考えいくのもありかもしれません。まあここらへんあんまり考えないので難しい。この手の概念についての論文は日本では魚住陽一先生が「性的欲望とは何か」ってのを書いています。日本のセックス哲学のはじまりとして記憶されることになるかもしれないですね。前半は性的欲望についてのいくつかの立場のうまい紹介になっています。 http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/view/23/12もっとも後半は私はあんまり理解してないです。
あとまあこういう言葉遊びみたいなのを椅子に座って延々やるよりは、人々が実際どうセックスという言葉を使っているかを調査してみるっていうのも興味深い研究方法ですわね。噂に聞くエスノメソドロジーとかって手法がすごい威力を発揮するかもしれない。たとえば人々がどこから「浮気」って考えているのかとかそういうこと調べてほしいものです。
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