田中重人先生につっこまれてしまった

「ポジティブアクション」についていいかげんなことを書いた( )のについて、田中重人先生 http://haseitai.cocolog-nifty.com/20/2006/07/_positive_actio_c836.html からつっこまれてしまった(というか、つっこんでいただいた。ありがとうございます)。非常に勉強になる。関心ある人は必読。いろいろ指導してもらっているので、お返事書いておこう。能力もなければ割けるエネルギーも限られているので、ほんとにこれまたメモだけ。ごめんなさい。この件については、いずれちゃんと勉強できるときが来るのかどうかもわからん。*1

まず、「ポジティブ・アクション」ということばの使いかた自体が、現在の日本での主な用法からかけはなれたところにいってしまっている。

もっともな御批判。ごめんなさい。反省します。

affirmative actionやpositive actionといえば、不利な立場のグループに対するpreferential treatmentを含むと勝手に思いこんでいたのだが、「ポジティブアクション」というのはなかなか広い概念なのだなあ。
によれば、
「このような差(機会や待遇の男女格差)の解消を目指して個々の企業が進める自主的かつ積極的な取組」らしい。ちょっと「言葉」の定義としては使いにくい感じがする。「積極的」の意味が若干曖昧に見える。また、「自主的」でない取組みは「ポジティブアクション」じゃないとかってのは受けいれにくいように見える。「自主的なポジティブアクション」「強制的なポジティブアクション」「社会全体が進めるポジティブアクション」は言葉としておかしいことになってしまうからね。極端な話、格差をなくすために「なにかをすること」はなんでもポジティブアクションなのだろう。私の好みからいえば、
「ポジティブアクションとは、「なにかをしない」だけでなく、「なにかをする」ことによって格差をなくすことです。この法律では個々の企業が自主的に「なにかをする」ことを求めています。」ぐらいに書いてもらえたらわかりやすいのにな、と思った。(もちろん定義ははっきしているかぎり自由にやってよろしい)

また、ポジティブアクションは「優遇措置」ではないことにはっきり理解しておく必要があるのだな。田中先生が指摘されているように、女性に対する優遇は雇用均等法の第9条で特例として許容されているだけで求められているわけではない。ここらへんはっきりと意識しないでへんなこと書いちゃだめだ。反省。

雇用機会均等法の第20条は、これらの措置をおこなう企業に対して国が「相談その他の援助を行うことができる」とさだめているのだが、実施の主体はあくまでも企業である。企業にとっては、労働力を効率よく使って利潤をあげることが究極の目標である。効率を低下させるような内容の措置はそもそも実施されるはずもない。ポジティブ・アクションのめざす「均等待遇」とは、労働力を効率よくつかうという企業の目標に抵触しない範囲内で実現されるものにすぎないのだ。

この一文の含むところがちょっとわかりにくい。

女性優遇は要求されているのではなく許容されているにすぎず、企業は効率と利潤のみを求めて政策を考えるのだから、もし女性優遇が効率に反するならば企業はそれを採用しないだろう、というわけだな。

もちろん、人類の半分を占めている女性の才能や能力を利用しないのは私企業にとっても社会全体にとっても損失だろう*2。賢い企業はちゃんと女性の労働力を使うはずだ。

しかし企業が究極的に目指そうとするものが(労働力を効率よく使って)利潤をあげること(だけ)だとすると(おそらくそうだろう)、雇用機会均等法のような法律が必要なのはなぜだろう。(1)賢くない企業が多くて女性の能力をちゃんと使ってないので企業自身の合理性のために啓発してあげたい、(2)企業が求める効率とは別に、男女の不平等はよくないことだから、(ちょっとぐらい企業の効率が下がっても社会的正義とかの実現のため)匡正したい、のどちらかに思える。(2)はすなおに理解できるが、(1)はおせっかいに見える。どうなんだろうか。

上でも述べたように、「ポジティブ・アクション」が導入されたのは、1997年の雇用機会均等法の改正のときだ。男女共同参画法成立の2年前の話である。その内容は、実際には以前の「女性活用」とほとんどかわらないものであり、しかも企業が主体となっておこなうものである、ということもすでに書いた。で、そのあたりの話は、「企業がやるんだから、効率に反したことはしないでしょ」っていうことで同意がとれてるのではないのだろうか。というか、この制度のミソは、個々の企業に知恵をしぼってもらって、できるかぎり合理的で効果的な均等策を考え出してもらう、という点にあるのだ、とだれかがどこかで書いていたのを読んだことがあるような気がする。すくなくとも国会で議論するようなものじゃないだろう。中央集権じゃうまくいかないというので、企業の自主性にまかせてるんだから。どうしても国会でのその種の論戦をみたいというなら、 障害者雇用促進法 の制定過程を追ったほうがいいのでは。

勉強になる。なるほど。

ただし、さっきと同じ疑問が残る。もちろん、「この制度のミソは、個々の企業に知恵をしぼってもらって、できるかぎり合理的で効果的な均等策を考え出してもらう、という点にある」は理解できるが、「企業がやるんだから、効率に反したことはしないでしょ」はどうなんだろうか。私はまだよくわかっていない。「とにかく男女均等を実現するよう努力しろ」と指導すれば、(制裁や圧力その他を恐れる)企業が(利己心から)最大に効率的な均等策を考えるということはありそうなことだ。しかし、完全に利潤の追求だけを目標とする企業にとって、自発的に男女均等を実現しようとする動機はあるんだろうか。さっき書いたように賢い企業は優秀な女性を優秀な男性と同じように最大限使おうとするだろう*3が、現に使っていない会社は単に賢くない会社なのか、それともなんらかの理由で使いにくいのか。もし(単なる偏見ではなく)なんらかの理由で女性を使いにくいと判断しているのだとしたら、その企業が「自主的に」女性を使うようになる動機や誘因はあるのだろうか。私には外部からの強制や圧力しか誘因はないように見える。

もうひとつ。私は国会での議論というよりは、世論の形成なり論壇での論戦なりそういうのを考えていた。総合雑誌とかほとんど(いや、ぜんぜん)読まないのでわからないのだが*4

なんだか、実在のポジティブ・アクションよりもはるかに急進的で暴力的なものを勝手に想定して勝手におびえてる人が一部にいるだけじゃないのか、という気がするのだが。

これは完全に同意。そうだと思う。っていうかそういうことを書きたかったのだが、筆力およばずすみません。ここまでは本当に勉強になった。以下の部分は(私が書いたエントリの中心部分であるにもかわらず)さらに筆力およばず、誤解されてしまっているらしいので補足しておく必要がある。

なんでこういうすれちがいがおこるのか、ながらく疑問に思っていたのだけれど、つぎの1文を見て、疑問が氷解した。

ある職種:-)の公募とか見ていて、注として「男女共同参画を~」と書かれているのを見ると、それに脅威を感じる男性オーバードクターなんてのはけっこういるんじゃないかと思う。
ああ、なるほど。「彼ら」は、あれが「アファーマティブアクション」だと思ってるのね。

残念ながら、その職種の公募において「男女共同参画を~」と書いてある場合、それが何を意味しているのかはさだかでない。私が聞いたことがあるだけでも3種類のぜんぜんちがう説がある。そして、多くの場合、求人側はそれを「アファーマティブアクション」とはよんでいないのではないか。よくわからないものについて、外国の事例まで持ち出して妄想をふくらませてもしかたなかろう。疑問があるなら、求人企業に「この「男女共同参画を~」ってどういう意味ですか」と問いあわせればいいだけだ。要するに、個別の企業の人事政策の問題なのだ。企業の答えが納得いかないなら、その企業に対して抗議すればよい。

まあああいうのをアファーマティブアクションやポジティブアクションと思いこんではいけないというのはその通りなのだが、まさに実態がわかりにくいのが困りの原因なのだと思う。それは個々の企業の考え方に依存するというポイントは理解したつもり。まだ実際にそういう人事にあたったことがないのだが、いずれチャンスがあれば問いあわせてみたい。

「そんなんじゃなくて業績だけで評価してくれ、「グループとしての男性」が女性に比べて有利な立場にいるからといって、なぜ「この俺」が社会的な差別是正のための犠牲にならなきゃならんのだ、グループとしての女性が差別されているとしても、なぜ俺じゃなくて業績の劣るあの女が就職できるのだ」っていう疑問はかなり根本的で消しにくいものだと思う。

「業績だけで評価してくれ」なんてのは、世間知らずのわがままである。そんなものを「根本的で消しにくい」とかいわれても。

だいたい、人事が業績だけで決まるはずがないのである。

(略)

まあ、「業績だけで評価してくれ」などといってること自体、企業で働くレディネスを欠いている証左である。そりゃ就職できんわな、と思う。理想的には、大学の「キャリア支援教育」とかでたたきなおしておくべきものなんだろうけどね。

これは誤解だなあ。「業績」って書き方わるかったかなあ。人事やるときに人柄だのなんだの、いろんなことを考えるのは当然。あれを書いたときのポイントは、「もしアファーマティブアクションの一つとして、性を基準として優遇措置をとるのは、「個々人は所属するグループではなく、その人の価値によって判断されるべきである」という平等の原則に反しないか」の一点。でもたしかになにか混乱しているかもしれん。

「とりあえずの形式的平等」というのがなにをさしているのかが問題である。まさか、日本国憲法の第14条と民法の第90条があればそれでいい、との趣旨ではないだろう。平等を実現するためのもっと高次の仕組みが必要ということには同意されると思うのだが、ではその具体的な内容はどういうものなのか。

うむ、もちろん憲法第十四条だけじゃだめっしょ。法によって女性に対して男性と均等な機会を与えることを保障するのは重要だと思う。あれ? 民法第90条って、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」ですよね。あんまり関係なさそうな・・・? (私なにか重大なことがわかってないのかもしれん。不安。)

まず、「形式的平等」と「ポジティブ・アクション」は、おなじレヴェルの概念ではない。「形式的平等」は、何を目指すべきかという目標である。それに対して、「ポジティブ・アクション」は、目標に近づくための方法をあらわしている。

雇用機会均等法の第20条をよむかぎり、「男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となっている事情を改善するに当たって必要となる措置」はすべて「ポジティブ・アクション」に入る。

なるほど。さっきも書いたが、これをはっきり理解していなかったのが痛恨。すみません。

もうひとつ。「形式的平等」とは、性別そのものが基準として使われない、というだけの意味なのだろうか。それとも、irrelevant な要素がまったく基準として使われない状態を指すのだろうか。それとも、さらに、relevant な要素がその relevance に応じて評価されることまで要求するのだろうか。

これは最後の一文がうまく理解できなかった。ふたつ目と三つめの差が私にはわからない。おそらく形式的平等ってのは、ふたつ目の「その件について関係のない要素を基準として使わない」なんだろうと思う。でもこれは三つめを含んでいるように見える。もちろん関係ある点についてはその重要性に応じて評価しなければならない。よくわからない。例を見よう。

たとえば、おなじ会社に雇われておなじ仕事をしている男性Aさんと女性Bさんがいるとしよう。 Aさんは、雇用保障があり、社宅が供給され、社会保険料が会社から支払われ、退職時には退職金が支払われるという雇用条件で雇われている。逆にBさんは、雇用保障がなく、社宅にはいる権利は与えられず、社会保険料を自腹で払い、退職しても退職金は出ない、という雇用条件で雇われている。仕事上の能力は、B さんのほうがAさんよりもはるかに高い。この状況で、AさんがBさんよりも高い賃金を受け取っていると仮定しよう。ただし、この会社がAさんに高い賃金を払っている理由は、Aさんが男性だからではなく、「正社員」だからというものである。この場合、「形式的平等」が実現されているといっていいのだろうか?

これは難しい。私は給料や保障は貢献に応じたものであるべきだと思うので(つまり、能力というか業績や実績が給料や保障についてrelevantだと考えるので*5 )、上の状況は実際不正に見える*6。しかし、正社員で雇用するかそうしないかが公正に開かれていれば形式的平等が実現されているとみてもいいんじゃないだろうか。上の例が不正に見えるのは、正社員としての雇用が公正ではないからではないだろうか。なんか誤解してる? (Bさんはそんな会社はやめてもっといい会社を見つけよう、とかではだめなんだろうな。)

このあたり、現実をきちんとみた議論をするべきである。机上の空論で「形式的平等」とか「実質的平等」とかいっているせいで、過度の単純化におちいっているような気がする。

この問題についてはその通り。でも時には単純化して原理だけを考えてみる価値があることもあるような気がする。affirmative action一般における優遇措置の正当化はそういう問題だと思う。もちろん、そういう抽象的な話からいきなり現実の話に降りてくるのは避けねばならん。

最後に、つぎの部分はあまりにも不可解だったので、ひとこといっておきたい。

「甲斐性なし!」とかって罵りは恐いものだ。これは単に文化や制度の問題なのかどうか。

文化や制度以外になにがあるというのだろうか。

もはやなんでわざわざこれ書いたのかはっきりしないんだが、「これは単に特定の(あるいは「我々の文化や制度独特の」)文化や制度の問題なのかどうか」と書くべきだったかな?男性が女性に比べて経済力が求められるのはほとんどの文化で共通だと思う。したがって単に(「恣意的に変更可能という含みでの)文化や制度の問題ではないかもしれない。たしかにある意味では人間がからむのはなんでも文化の問題ではあるのだが。

追記メモ

「形式的平等でどうか」というのはやっぱりダメ。「形式的平等も結果平等もだめ。「配慮の平等」あるいは「利益にたいする平等な配慮」」なんだろうな。ただし「配慮の平等」ってやつがどういう制度や政策につながるのかはっりしないよなあ。やっぱりあたりまえだけどある程度の優遇措置を認めることになるんだろうな。

さらに追記(7/21)

なんで「アファーマティブ・アクション」「ポジティブ・アクション」は優遇措置を含むと思いこんでいたのだろう*7とちょっと考え、ふと大沢真理先生の『男女共同参画社会をつくる (NHKブックス)』を読み直してみる。
(勉強不足でこれ以外にこの手の話題を扱った本に目を通していないし。)

あった。p.184。男女共同参画基本法を説明している個所。

基本法は、つぎの五点を基本理念として規定する。(中略)

ついで、国、地方公共団体および国民という各主体の責務が規定されている。
とくに、国と地方公共団体が策定・実施する責務をもつ
「男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」には、「積極的改善措置」が含まれることに
注意したい。積極的改善措置とは、社会のあらゆる分野の活動に参画する機会において
男女間に格差がある場合に、その格差を改善するため、必要な範囲内で、その機会を男女の一方に積極的に提供することを言う(第二条)。たとえば審議会について女性委員の登用を促進すること、
官公庁が女性職員の採用・登用を計画的に進めていくことなどが含まれる。
いわゆるポジティブ・アクションまたはアファーマティブ・アクションである。

ここを誤解してしまったようだ。索引がないからわからないが、
ざっと目を通して、積極的改善措置や
ポジティブ・アクションについてはこの個所ぐらいしか触れられていないし、正当化の議論は
まったくなされていないように見える。
ここらへんから「ちゃんと議論されてのだろうか」という私の印象が出てきてるのかもしれん。

*1:匿名ブログ(いちおう匿名)書くってたいへんだということを再確認。実名なら馬鹿なことを書いても笑いものになるから大丈夫だが、匿名だとお返事書かないわけにはいかんのだな。でもあんまりショボいことしか書けないときにお返事書くのはゴミ増やすだけのような気もする。実名の方が楽か。でもそれだと慎重になっちゃって筆が伸びないから、ブログ特有のおもしろさが味わえないよな。

*2:大昔にもJ. S. ミルが『女性の解放』で主張しているし、非常に説得力のある議論に見える。

*3:やっぱり「組織は人」だと思う。歳とるにつれて痛感するようになってきた。まともな企業は男だろうが女だろうが緑色してようが、優秀な人材を使わないわけにはいないだろう。

*4:だいたい私は勉強不足で国会で実質的な議論がなされているのを見たことがないような気がする。委員会レベルでもどうなのか。議事録をちらっと見てもよくわからん。

*5:厳密に言うと、報酬は「能力」に対してではなく「仕事」に対して払われるべきだと思う。

*6:そして私の職場(というか業界)の最大の問題点の一つだと思っている。正社員とそうでないひとの格差があまりにもでかすぎて目も当てられない状態。A、B両方の立場に立ったことがある。

*7:そもそもmacskaさんの元エンリでもそうじゃないとはっきり書いてあるのに

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