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後藤浩子先生のファンキーな引用法

でコメント書いた
後藤浩子『“フェミニン”の哲学』。ケラーの本が届いたので読みなおして
いるかな・・・と。その前に。

・・・ヒュームもまた、同様な問題に直面し、次のように言及している。

男性と女性は幼い者の教育のためには、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優美の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である(注8)。

(略)このヒュームによる男性が持つ不安の構造の指摘は注目に値する。まず、精子を生殖原理と見なし、生殖原理はそもそも男性である「この私」の内にあり、それが女性の体内で自動的に展開してゆくという認識がある。しかし他方で、その原理を男性は女性に手放さざるをえない、つまり譲渡(alienate)せざるをえないという認識がある。このような私の本質の疎外の構造が不安の根源なのである。ここには「遺伝子」という概念が男根中心的な意味合いを帯び始める枠組み、しかも現代に至るまで根強く存続している枠組が映し出されている。 (pp. 212-4、傍点は太字(strong)にした。)

ヒュームの文章につけられた出典注は、「David Hume, A Treatise of Human Nature, L. A. Selby-bigge*1 ed., Clarendon, 1978, p.570. (大槻春彦訳『人性論(四)』、岩波文庫*2、一七八~一七九頁)」

大槻先生の訳は次のよう。

男性と女性は幼い者の教育のために、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理〔ないし因子〕 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である。

めんどうなので旧字は新字のまま。大槻先生の文章には傍点はなし。後藤先生の文章との異同を[del]と[ins」で示したが、うまくレンダリングされるかな。該当の文を含むパラグラフ原文。
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/hume%20treatise%20ToC.htm

Whoever considers the length and feebleness of human infancy, with the concern which both sexes naturally have for their offspring, will easily perceive, that there must be an union of male and female for the education of the young, and that this union must be of considerable duration. But in order to induce the men to impose on themselves this restraint, and undergo chearfully all the fatigues and expences, to which it subjects them, they must believe, that the children are their own, and that their natural instinct is not directed to a wrong object, when they give a loose to love and tenderness. Now if we examine the structure of the human body, we shall find, that this security is very difficult to be attain’d on our part; and that since, in the copulation of the sexes, the principle of generation goes from the man to the woman, an error may easily take place on the side of the former, tho’ it be utterly impossible with regard to the latter. From this trivial and anatomical observation is deriv’d that vast difference betwixt the education and duties of the two sexes.

  • レポート・論文を書くときには、「引用は一字一句正確に!」訂正・修正した場合はその旨を断わらねばいけません。これは基本です。大学生はぜったいに後藤先生を見習わないように!
  • 大槻先生が抜かしたeducationを「教育」として入れてよいのかどうか。「養育・育成」の方の意味だろう。
  • the principle of generation。 principleを「原理」と訳すのはどうか。大槻先生はprincipleに「【8】根源,本源;動因,素因;(本能・才能・性癖などの精神的な)原動力,素因:」(ランダムハウス)の意味があるからわざわざ「〔ないし因子〕」とおぎなっているのに、そこを勝手に飛ばして引用するのはどうか。
  • ちなみにWikiPedia(en)によれば、精子(spermatozoon)の発見は1677年(顕微鏡つくられてすぐに見つかっている :-)おどろいたろう)、卵子(ovum)は・・・あれ、載ってないぞ。哺乳類の卵細胞が発見されたのはいつぐらいなんだろう。・・・どうも精子より先に1672年には卵胞が見つかっているようだが、哺乳類の卵子を発見したのは19世紀になってからか?まああとで調べよう。なんかに載ってるだろう*3
  • さて、HumeのTreatise本文にはどこみても「譲渡 “alienate”」なんて言葉は出てこないぞ。(少なくともBook IIIには)どからこんな言葉引きだしてきたんだ?なんかおかしんじゃね? こういうのが「ポストモダンは電波系」と呼ばれる理由なんじゃないでしょうか。っていうか、後藤先生はルソーやヒュームなど、フェミな人々があんまり読まないところを読んでいて偉いなあとか思っていたのだが、こういうのを見ると、なんか全体がネタ本のパクリなんじゃないかという疑念が出てきてしまうわけだが・・・まあ、いつもいちいち「~の指摘よれば」とか絶対に書かなきゃならんというわけじゃないけどね。
  • まあ「男根中心主義」がどういうものかわたしはよくわからんが、この父性の不確実性の話は現代の進化心理学とかでも非常に重要な話だよな。配偶者防衛の話*4とか、いろいろインプリケーションあり。ヒューム先生は偉いなあ。
  • ちなみにタイトルは大槻先生のでは「第一二節 貞操と謙譲について」になってる。”Of chastity and modesty”まあ内容から言えば「貞操とつつしみ〔という特に女性に要求される徳〕について」だろうなあ。
  • あら、大槻先生が〔かっこ〕にいれているのは大槻先生の解釈じゃないのかな?凡例を見たいが、第1巻が見つからん・・・。発見。大丈夫。「〔〕のうちは譯者の補足的挿入である」。それにしてもp.180とかずいぶん解釈入れてるなあ。
  • 後藤先生とは関係ないけど、この部分のヒュームが、性道徳のダブルスタンダードを正当化していると読むのは読みすぎだろう。むしろその起源を(「人為的徳」という観点から)説明しているんだと思う。いや、この読みだめかも。正当化もしてるわ。
  • ヒュームは難しいよ。とほほ。

(つづくかもつづかないかも)続きません。もう読むのやだし、ケラーの本はあまりおもしろくなかったし。

*1:Selby-Biggeだよね。誤植。

*2:発行年つけてあげたい

*3:セックスの発明―性差の観念史と解剖学のアポリアによれば、哺乳類の卵子が報告されたのは1828年、K.E.フォン・ベーア。1840年代までは交尾が排卵を引きおこすと思われていた模様。ヒトの未成熟の卵子が発見されるのは1930年。この本は「セックスは18世紀に発明された」っていう主張自体は非常にあやしいというかどういう意味がよくわからんのだが、そこらへんの科学・医学研究事情は詳しい。

*4:長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』とかが定番の入門書だろう。

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後藤浩子先生のファンキーなフェミニスト哲学

後藤浩子『“フェミニン”の哲学』とか。なんだこれ。エヴリン・フォックス・ケラーの『遺伝子の新世紀』という本によっかかってなんか変なことを書いているが、このケラーの本というのはまともな本なのだろうか。調査すること。なんで現代思想とかそういう人たちは勉強もせずに変な本をまるうつしして自然科学を知ってるような顏するのかね。

現代社会は医療技術から環境に至るまで、この生細胞(ママ)に新たなる実験の経験を強いているが、細胞の経験に配慮する者は多くはいない。それどころか、我々の意識とは独立して、それに先だって、生細胞それ自体の生の相があることを否認する動き(例えば脳死の認定)さえある。」(p.226)

意味わからん。そもそも「生細胞」ってのがなんだかわからんし。(おそらく「死細胞」と対になる意味ではないと思われる)。面倒だから書かないけど、前後の文脈と脳死がどう関係あるのかわからんし。まあこの本叩かれないのならフェミニズム哲学とかってのはどうしようもないと言われてもしょうがないと思う。

遺伝子技術も生殖技術も、セッティングや若干の修正ができるだけであって、その手前にはあくまでも「偶然と確率」に基づく「発生」がある。羊のドリーでさえドナー細胞と卵だけでは不十分なのだ。「電気ショック」、これが、いやこれこそが発生を始動させるのである。これについては、フランケンシュタイン博士=メアリ・シェリーも遥か昔に看破している。(中略)発生の説明におけるこのような「電気ショック」という言葉に私たちが感じる怪しさは、発生の手前にぽっかり空いた裂け目、つまりそれ以前の過程との非連続性を、この言葉が覆い隠せていないというところから来るといっていい。この個体発生の裂け目にドゥルーズは〈個体化〉という概念を置く。それは〈巻き込み〉という作用と、それによって形成される強度的な場、つまり質や延長を展開する元にある「あらゆる変身の劇場」を指し示すのである。

すげー。強い電波を感じる。こういう文章ひさしぶりに読んだな。こういうのがすべてのページにわたってくりひろげられている。もういっこぐらい。

わざわざ異種交配の賭けに出なくとも、フォン・ベーアが既に魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった脊椎動物は、その初期胚がみな形態的に類似していることを発見しているように、胚は既にキマイラなのである。(p.253)

この文脈で「キマイラ」はなにを意味するんだろうか。まあ憶測すれば、ドゥルーズがそういうことを書いていて、後藤先生はそれを引用だとわからないような形で書いているだけなんじゃないかと思うが。

女性の身体は〈宿主〉である。この〈宿主〉が家畜として進化を遂げていくのに必要なのは共棲者の多様性である。そして、この多様性の保持は我々の「想像力」に懸っている。この意味で、フェミニズムの真の闘争は、「想像域の自由」の法的確保より、むしろその手前、つまり幻想精算の実践にあるのだろう。つまり、簡単に言ってしまうと、「自由」や「アナーキー」ではなく、「ファンキーで行こう」ということだ。では、その実践例をひとつ挙げておこう。(Ciaran Carsonの詩省略) さて、あなたはこんなファンキーな〈宿主〉になれますか? (pp.258-9)

「ファンキー」ってのはどういうことかわかってるんだろうか。Ciaran Carson先生はアイルランド人男性のようだが、ファンキーなんだろうか。映画『コミットメンツ』で言われていたように、アイリッシュはイギリスの黒人だからファンキーで”I’m black and proud of it”とか主張してるんだろうか。自分がなにを書いているのかわかっていないようなひとってのはどうなんだろうか。誰かなにか言ってあげればよいのではないのか。全体を通して、まるでポストモダン論文自動生成器による文章のようだ。まじめに勉強して地味な論文を書いているオーバードクターがかわいそうだ。なんとかしてあげてください。

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