セックス経済論 (1)「男性による女性の支配」とは別の考え方はどうだろう
このブログ、ここ最近「文化のセクシャル化/セクシー化」の話と、「男らしさと支配」の話を平行してつぶやいてるのですが(もうブログもツイッタも同じようなもの)、「男性が女性を支配しているのだ」っていう信念は非常に一般的ですが、他の考え方ないっすかね。私どうもこの「支配」ってやつ信じられなくて。
まあこの「男が支配している」っていうのはフェミニズムの伝統的な考え方で、その発想はわかります。ある意味女性の実感なんだろうし、伝統的な社会・文化の多くが男の方が偉くて支配的な地位を占めてることが多い。お金も稼ぐのは男性で、女性はその経済力と社会的権力に支配されているのだ!
そしてこれって、ジェンダー問題について社会構築主義フェミニストたちと対立する立場に立つことが多い進化心理学とかの派閥の人もそう考えるんですよね。こっちの派閥は、主にいわゆる「父性の不確実性」を問題のキーポイントだと考える。女性は自分の子供の母親なのは(産院でとりちがえられたりしないかぎり)ほぼまちがいがないけど、父親の方は本当に遺伝的な父親かどうかよくわからない。人間の子供は養育に非常に大きなコストがかかり、現代はともかく、人間が進化してきた歴史のなかでは、父親の協力がないとうまく生存成長させるのが難しい。他の男の子供を自分の子供だと思って養育コストを支払うのは巨大な損失なので、進化的に男性は配偶者を他の男性から防衛するために、女性の貞操を重視し、活動を制限するなどして女性を支配するような心理的傾向を進化させてきたのだ、それが現在でも男性が女性に対して支配的にふるまう原因になっている、てことになってる。
まあどっちもそれなりに説得力がある。しかし現代の社会でもそんなかっちりした支配従属関係になってるかな?って思うわけです。むしろ、現代社会のありかたについて、女性の主体性とかそういうのをもっと重視する立場もありそうに思います。
一つは何度か紹介している、社会学者のキャサリン・ハキム先生の「選好論」と「エロティックキャピタル論」ですね。(あら、紹介していると思ったんだけどたいして言及してないわ)
この本はおもしろいので、ぜひ図書館で一回手にとってみてほしいですね。
ごく簡単にすれば、社会のなかで、人々は経済資本(お金)、人的資本(知的能力、学歴、職歴、教養など)、社会関係資本(人間関係、縁故、コネ)などを蓄積したり相続したりして、それを元手に自分の福利厚生を改善しようとしているわけですが、実は現代社会ではお金や学歴や縁故に加えて、容姿や他の魅力、特に性的な魅力が重要な資本になっている、っていう議論ですね。そして、性的な魅力は一般に女性の方が豊かにもっていてそれを自由に使える時代になっている。一方男性は慢性的な性的欲求不満状態(sexual deficit)になっているので、女性が自分たちの性的な魅力を磨きうまくつかうことができれば、男性を支配できるし、実際そうしている女性はけっこういる、みたいな話です。
ハキム先生によく似た議論を展開して今私が注目しているのが、ちょっと前のエントリに名前を出した社会心理学者のロイ・バウマイスター先生で、この人は日本では「意志力」の本で有名ですが、2000年代はジェンダーまわりでも仲間とともに論文やエッセイをいろいろ書いてるんですね。先生は自分の理論を「セックス経済論」Sexual Economics Theoryと名づけています。これはごくごくシンプルな議論で、ネットで「アンチフェミニスト」と呼ばれてる人々がときどき展開している議論とあんまり違いがない。基本的には、経済学とかでもちいられる「市場における需要と供給」を単純にセックス・ジェンダー問題に適用しているだけです。集団としての男女の間にはセックスに対する欲求に大きな差があり、女性がセックスの供給者・売り手であり、男性が消費者・買い手になっている、というそれだけの話です。ものすごいシンプルで、フェミニストの先生たちからかなり辛辣に批評されているようです。まあ社会心理学でものすごく偉くなった先生が、おじいさんになってから勝手な放談しているのかもしれないけど、そうでもないのかもしれない。
この本は2010年のエッセイですが、「セックス経済論」とか言いだしたのは2000年代前半で、2010年代にも続けて書いてますね。2012年のが読みやすいけど、2004年の方が包括的な感じ。どっちもネットで入手できるので興味あるひとはぜひ読んでみてください。(あら、論文の発行年勘違いしてました。すみませんすみません)
- Baumeister, R. F., & Vohs, K. D. (2004). Sexual Economics: Sex as Female Resource for Social Exchange in Heterosexual Interactions: Personality and Social Psychology Review: An Official Journal of the Society for Personality and Social Psychology, Inc, 8(4), 339–363.
- Baumeister, R. F., & Vohs, K. D. (2012). Sexual Economics, Culture, Men, and Modern Sexual Trends. Society, 49(6), 520–524.
- Baumeister, R. F., Reynolds, T., Winegard, B., & Vohs, K. D. (2017). Competing for love: Applying sexual economics theory to mating contests. Journal Of Economic Psychology, 63, 230–241.
時間があったら、もう一本、読書メモみたいなエントリ上げたいと思います。
この本も関係ある。
セックス経済論 (2) ごく当然のあらまし
ロイ・バウマイスターとキャスリーン・ヴォース先生のセックス経済説、前のエントリにも書いたように非常に単純な理論です。
女のセックスには価値がある(男にはない)
基本的な前提は、広い意味でのセックスは女性がもって価値ある資源で、男性が欲しがるものである。したがって女性は、十分なインセンティブないかぎりそれを男性に渡そうとはしない。男性は女性にセックスを与えてもらうために各種の資源を女性に渡す。たとえば、コミットメント(関係継続の意思)、愛情、配慮、時間、敬意、そして経済的資源(端的にはお金)とかですね。
我々は社会でいろんな交易・交換をしていて、スーパーでお金払って野菜を買ったりするわけですが、そうしたものとしてセックスを見る。こうした交易で、一方が有利な立場になることがあるわけですが、そういうときは値段を変えることで調整する。新鮮な野菜はみんなが欲しがるので値段があがり、新鮮じゃなくなった野菜とかはあんまり買いたがる人がいないので値段が下がる。
男女の性的な関係においては、男性の方がはるかにセックスを欲しがるので女性が優位な立場になり、女性はセックスのひきかえに男性にさまざまなものを要求できる。まあプレゼントとか素敵なディナーとかは男性の方がたくさん貢がないとならない。私は不公平だと思いますが、当然だと思うひともいるでしょうね。
ここで、男性の方がセックスしたがっている、という話に疑問をもつ人がいるかもしれませんが、まあ常識的にはそうですよね。これについては前にもエントリー書きました。→「性欲が強いってどういうことだろう?」
歴史上、だいたいどういう文化でもそういうことになっているのはまあ常識。欲求の強さがあまりにアンバランスなので、女性の体とセックスにはたいへん価値があり、男性のそれらにはほとんど価値がない。たとえば女性の処女性にはとても高い価値があり、女性はそれを理想的な局面で男性に与えようとするけど、男性の童貞とかっていうのはほとんどまったく価値がないどころか、ふつうは一定の年齢に到達すると恥ずべき状態である、みたいなことになちゃってる。
性暴力やDVの問題もまったくのところこの図式にあてはまります。性犯罪者は暴力で高い価値のある女性のセックスを奪おうとするのだし、暴力的な男性につかまってしまった女性は頻繁にセックスするのですが、これは暴力的なパートナーから危害を与えられるのを防ぐためにセックスを差し出している。
多くの文化で、妻の浮気・婚外セックスは離婚の理由と認められるし、不倫は男性よりはるかに厳しく非難され罰される。これは女性の貞操が結婚し男性の扶養されることの対価になっていると考えられているわけです。現代ではごく古い考え方なわけですが、芸能人の不倫なんかのテレビ番組やネット論説を見れば、いまだにそうしたことが常識というか人々の信念になっているわですよね。
あと心理学の実験でも、女性のセクシーな薄着の写真見たりすると男性はなんにでもお金払いやすくなる、みたいなのがあて、これはおかしい。こういうふうに、歴史的にも実験的にも、女性の体とセックスには価値があると思われていて、男性はそれに対価を払う用意があるっていうのはいろいろ証拠がある。(まあ常識でもある)
【シリーズ】
セックス経済論 (3) しかし値段は簡単には決まらない
モノやサービスの値段というのはどうやって決まるかというと、高校でも習う需要と供給のバランスによる。漠然とした話ではありますが、供給が少なく需要が多い(強い)と値段は上がるし、その逆だと値段が下がる。
女性はセックスを提供することでなるべくよい資源を入手したいし、男性はなるべく少ない資源で獲得したい。ところが、この個人間の交易の値段は、他のプレイヤーがどう行動するかに大きく影響されるわけですね。ここがおもしろいところです。
セックスというのは基本的に近くにいる会える人としかできないので、その市場はごくローカルで、その値段というか相場はローカルに決まります。高校生のクラスとか、大学生サークルとか、ヤングアダルト社会人コンパとか、おじさんお姉さんの習い事とか、まあ人々というのはだいたい集団になって生活しているので、そのローカルな範囲で、他の人がどういう行動をとるかによってセックスの値段は変わる。ある時代のある集団(たとえば1930年代のアメリカ)では、女性の大部分が高価な婚約指輪もらってからじゃないとセックスさせないとすれば、そこの女性は婚約指輪もらえる公算が高い。でも2000年代のアメリカの大学みたいに、他の女性が簡単にセックスさせるようになると、ちゃんと結婚申し込んで婚約指輪くれないとセックスさせません、みたいなことを言ってると、ときどきデートしたり、パーティーでエスコートしてくれたり、ボディーガード役してくれる男性もいなくなってしまう。
そういうわけで、セックスの売り手である女性も競争せざるをえないわけです。でもあんまり女性のセックスの値段が安くなってしまうと利得がなくなってしまうから、女性は安売りする女性に集団的にプレッシャーをかけて安売りを牽制しなければならない。これが女性たちが簡単にセックスを提供する女性たちを非難する理由である、と。
バウマイスター&ヴォース先生によれば、男性は安いセックスをもとめるので、気軽にセックスさせてくれる女性は「いい子」であるわけですが、それでも他の男性と女性を共有するのはたいていの場合さまざまな理由から望まないので、特定の女性をめぐって競争せざるをえない。となると、人気のある女性はより高い値段で売ることができる。
ここで重要なポイントとして、けっきょくこうした値段をめぐる交渉というのは、一対一で決まるわけではなく、他の人々がどういうふうに行動しているかの知識に依存するわけです。そのコミュニティでどんな人がどんな人とどれくらいの「値段」で交際したりセックスしたりしているのか、というのは、男性にとっても女性にとっても重要な情報なので、まあ噂話とか雑誌とかツイッターとかで相場とかを調査するわけですね。情報戦みたいなことも起こるわけで、男性は女性にたいして「他の女性はかんたんにセックスさせている」という情報を流そうとするし、女性は男性に対して「そんな簡単でない、むしろもっと高い」という情報を与えようとする。これはグループとしても個人としてもそうっしょね。
まあここらへん、当然そうだよな、ってな感じですね。あまりにも常識的すぎて、これ「理論」なの?っていう感じではあります。
まああらましはこんなもん。先生たちは「証拠は山ほどある!」と主張しておられますが、フェミニスト心理学者(たとえば Laurie Rudman先生)なんかはかなり厳しく批判しておられます。
今回書くのに参照したのは、これのVohs先生による”Sexual Economics”の項。なんでも最初は専門事典見るのがいいですね。(実は悪質なサイトがオンラインで丸パクしてるのを発見してしまいました……通報したい)
【シリーズ】
セックス経済論 (4) 証拠とされるものを見てみよう、まず売買春
というわけで、バウマイスター&ヴォース(フォースかも)先生たちのセックス経済理論は、女はセックスという資源を売り男がそれを買う、ていうだけのごく単純な理論なんですが、こういう「理論」っていうののおもしろさっていうのは、(少なくとも素人には)その理論が「ほう、そうですかー!」とかってもんじゃないんですよね。むしろ、どういう統計や実験的事実や観察を自分たちの理論を裏づける証拠としてもちだしているかとか、どういうふうにして他の理論をやっつけに行ってるかとか、そういうのがおもしろい。あと、理論に一見合致してないように見える事実をどう説明するかとか、その理論から予測を立てて、どういう実験や調査をやればいいだろう、みたいなのも興味深い。
私は心理学、特に進化心理学の一般向けの読み物とか好きなんですが、まあ進化心理学なんかほとんど一本道みたいなところがあって、誰が書いても同じ、みたいなところがある。でも、その説明や立証や他の理論の反証にあたって、けっこう意外な事実の指摘とか、言われてみれば知ってはいるけどあんまり意識してなかった事実とか、その著者自身の生活のなかでの経験や観察とか、そういうのの記述の方が興味深いわけです。正直いってこの点で、フェミニズムまわりはいつも同じような話でつまらない。この記事読んでる人だって、「日本はジェンダー格差指数が〜」とかもう何百回読んだかわからんでしょ。
そういうんでまずBaumeister & Vohs (2004)ってのから、興味深い指摘をメモしたい。この論文では後半が「経験的証拠のレビュー」Review of Empirical Evidenceになっていて、領域別に大量の証拠(他の人たちの論文から)が列挙されててます。見出しはこんな感じ。みんなセックスについて研究してますねー。2004年以前の論文からだから今となっては古いのですが、アップデートされた情報はまたあとで確認します。
- 売買春
- 売買春以外のセックスとお金
- 浮気と離婚
- 求愛活動
- レイプと強制
- 男性不足
- セックスに対する態度
- 恩恵としてのセックス
- 名誉・不名誉としてのセックス経験
- 女性間の攻撃
- 不均衡な社会的地位
- 女性セクシュアリティの文化的抑圧
- セックス革命
- セックスと暴力
売買春
売買春はまあたいていの場合(どの国でもどの時代でも)、圧倒的に男が金払って女が売る、っていう形になってるのはほぼ自明なので、セックス経済論の一番強い証拠ってな感じでしょうな。フェミニスト的思考では、男性による(経済力による)女性の支配の最たるものでもあります。
学生様とかときどき「女性向けの風俗がないのはなんでだろう」とかっていう疑問を提示してくれることがあるんですが、まあ男のセックスにはほとんど価値がないからですよね。若い女性ならその気になればほとんどいつでも手に入るし、若くなくたって相手選べばいいし、そもそもそんなに知らない人といきなりそんなことしたいとは思わないっぽい。ただ、日本にあるホストクラブみたいなのについてはバウ先生たちはなにも言ってません。あれは性的サービスを売ってるわけじゃないけど少なくとも性的魅力は売ってるような気がしますよね。
ホストクラブに近い話として、女性が海外の島(バハマとかタヒチとかああいうところ、日本だとタイとかバリとか?)に行ってそこの「ビーチボーイ」と遊ぶ話は検討されてるんですが、それもセックスにお金を払う形にはなってませんよ、とか説明してます。そういう関係っていうのはとにかく旅先で「(男がその女性に)恋に落ちる」っていう形になっていて、女性は飯代ぐらいは払うことがあるけど、女性がボーイにお金を直接払うことにはなってない。でも、しばらくつきあってるうちに、突然そのボーイの家族や親戚とかが病気になったり借金取り立てられたりして経済的にピンチになってしまって、それを裕福な女性が愛情に対する感謝の印として経済的に助ける、っていう筋書になってるらしいです。へえ。ホストとかもそうかもしれないですね。だいたいそこそこ高齢の女性と異人種の若い男とかだと、セックスには至らないことも多いです、みたいな話もあります。うーん。
もうひとつ興味深いのが、性的に非常に禁欲的だったヴィクトリア朝時代のたとえばロンドンあたりの世界というのは、中上流階級の女性が集団的にものすごくセックスの値段をつりあげていた時代なわけです。結婚しないとセックスしないし、結婚しててもセックスなんていやらしいことは子孫を作る義務としてでなければしません、ぐらいの世界。ほんとかなあ。でもバートランドラッセル先生がなんか言ってましたね1。んじゃそのころの男性の性欲はどこへ向かったのかというとやっぱり経済的に困っていた売春婦の人々で、ブロー&ブロー先生の『売春の社会史』だとロンドンの女性の5〜15%ぐらいが人生の一時期に売春を経験していたみたいだ、って話になっています。これはけっこうな数字なわけです。バウ先生たちは「現代の道徳観からすればショッキングなほど高い」って言ってますが、まあたしかに大きな数字だと思います。反買春フェミニストの先生たちだったら「なんと不正な時代だ!」ってなことになりそう。実際、不正な時代であったのだろうとも思いますし、一部の売買春に、反買春フェミニストの先生たちが指摘するような貧困による強制という面があるのは否定できないと思う。
バウ先生たちははっきり書けてないと思うのですが、この件がセックス経済論にとって特に理論的に問題なのは、この理論によれば「女性はセックスをできるかぎり高く売ろうとする」はずなのに、結婚その他に比べると比較的チープ(だと思われる)売春をしなければならないが、一方ではそれしか収入の手段がないなら、売春から最大限の利益を得るためにやっぱり高く売りたいはずだ、ということになるからちょっと理論的に微妙なところが出てくるわけですね。説明省いてますが、というか2004年の論文の時点ではバウ先生たちは十分に強調してないのですが、女性が売っているのはセックスそのものというより性的魅力を含めたセックスと、長期的な関係においては 貞操 (排他的性的アクセス)と 生殖 (子供)なわけで、売春みたいなのはもし他人に知られると貞操に疑問抱かれる可能性が高いので、その経験は女性にとっては非常に不利になるし、みんなが売春みたいなことをすると値崩れが起こってしまう。実際に起こってたかもしれません。その時代の奇書『我が秘密の生涯』とか見ると、ほんとうに安かったみたいですからね。
でもそうすると、上の大きな数字は、女性は一般にセックスの売り手で、比較的優位な立場にあるということを含意するセックス経済論にとっては若干不利な事実なわけです。そもそも危険だし(ロンドンだったら切り裂きジャックに殺される可能性もある)。なぜそんな大量に安く売春する女子がいたのだろうか?バウ先生たちの苦しいところで切り出す札は、「でもどうもブロー先生たちによると、そうした大量の売春婦たちは、実際には他の仕事もってたみたいよ」ってなことですね。これは以前ハブロック・エリス先生に関するエントリーでも書いた話ですね。大きな数字は、フルタイムのプロスティチュートではなく、そこそこいけてる女中(メイド)さんとかがそういうこともして副収入を得ていたのだろう(だから安くても我慢する)、とかそういう感じでしょう。あと、理論からすれば、実際の値段とか、ロンドンの当時の男女人口比とかも興味深いところだろうと思います。(売買春についてはあとの「社会的態度」のところでも議論される)
売買春以外のお金とセックスのやりとり
もちろん売買春以外にも男女のあいだでお金とセックスのやりとりは(偽装された形で)頻繁におこなわれている。そしてここは以前の「男らしさと支配」のシリーズであつかったところそのまんまですね。
Blumstein and Schwartz (1983) American Couples ってのによると、お金とカップルの力関係とセックスは密接にむすびついていて、専業主婦とかは夫がセックスしたいというときに断りにくい、とかそういう話。バウ先生たちの他の論文でも、一部の男性はパートナーをわざわざ経済的・社会的に無力で孤立させようとすることがあり、これはまさにセックスを断りにくくするためだろう、みたいなのがありました。あとセックス排他性(貞操)もコントロールしないとならんのだろう。
男性学周辺のみんなが気にしていたあの「稼ぎと支配」の話はつきつめるとこれなのかな、っていう感じですよね。
Loewenstein (1987)って研究では、大学生に、ファンの異性映画俳優にキスしてもらうなら現金いくら払う?っていう調査して、男性はけっこう払うけど女性はたいして払う気がない、みたいな話。しかしこれ、現代日本の男性俳優ファンとかけっこう払ってるんじゃないかという気がするけどどうだろう。アイドルと握手するのにいくら払いますか、みたいな調査してみたいですね。
浮気と離婚
ここらへんは有名な話が多いのではしょりたい。性的な「所有」の意識(つまり、夫婦やカップルは性的に排他的であるべきだ)や、嫉妬の観念がない文化はありません(浮気や不倫がない文化もない)。でも性差はあるのも確認されている。たいていの文化で女性の身体的な浮気の方がはるかに重大な裏切りだと考えられていて、離婚の理由になるけど、男性の浮気はそんなに強くとがめられないことが多い。
私が知らなかった話としては、エスキモーの人たちの間では客人に対して妻に接待させる習慣がある(過去にあった)みたいなのは驚くのでよく語られますが、それお客さんが「いいえ、けっこうです」とか断わるとホスト夫婦に対する侮辱になります、なぜなら奥さんのセックスは非常に価値あるものだとされているから、断わるとその価値を認めないことになります!とか(Flynn 1976)。ほんまかいな。
同性愛に関してもちょっとおもしろい研究が紹介されていて、ヘテロセクシャルの人(男女)に、あなたのパートナーが男と浮気した場合と女と浮気した場合、どっちが動揺しそうですか、みたいな質問をする。男性の場合は相手がレズビアン的セックス、女性の場合は相手がゲイ的セックスした場合のことも想像してもらうわけですね。この実験はヘテロとホモセクシャルに対する反応の男女差を検出しようとしてたんでしょうが、なんか予想どおりにはいかなかったらしくて、男女どちらも パートナーが男と浮気した方が嫌だ 、と答える傾向だったらしい。これは意外だったらしいんですが、バウ先生たちの推測は、一般に女が与え男が取るっていう形で理解されているので、パートナーが女と浮気してもカップルからなにかが奪われているわけではないが、男と浮気したらカップルからなにかが奪われている、と考えるからだろう、って言ってます。つまり、女との浮気はカップル全体としては(ひょっとしたら)利得だけど、男との浮気は(お金とかとれるところをタダでもってかれてるので)損失である。これおもしろいですね。あとで読んでみたい(Wiederman and LaMar 1998)。
浮気の誘いは、他人からパートナーを「略奪」する戦略であるわけですが、その略奪戦略も男女で違いがあり、女性はとにかく魅力的なセックスをエサにすればよい。男性が他の男から女性を奪うには資源を投資する必要がある。強い愛情やコミットメント、そして経済力。まあこれもそうでしょうな(Schmitt & Buss 2001)。まあ他にもいろいろ
求愛活動 courtship
まあおつきあいするにどうするかっていったら、女のセックスを男がいただくという形になっているので、基本的には男の方からアプローチしないとならないっていうのがこれまたどの文化でも共通の理解。プレゼントしたり御飯おごったり、熱烈な永遠の愛を誓ったりするっていうのはあたりまえ。ティーン女子とかの調査しても、「セックスは愛情が確認できないとさせません!」っていうのがふつうで、「とりあえずセックスしたい」という男子とはぜんぜんちがう。
おもしろい調査が、Cohen & Shotland 1996ってやつで、「いつ自分たちはセックスしはじめるべきだ/したいと思いましたか」みたいなのと「いつ実際にセックスするようになりましたか」っていうのとの相関をとってみた、っていうのがあります。これ知らなかった。答は、男性については「セックスするべきだと思ったとき」と「実際にした時」の間にはほぼ相関がない( r = 0.19)んだけど、女性についてはちゃんと相関している( r = 0.88)。セックスする時期はほぼ女性が決めているわけですね。「男性支配」はどこに行ったんだ!ははは。
ここの節では、ちょっと(アメリカみたいな国では)けっこう深刻な話もとりあげられています。女性が売り男性が買う、という形になっているわけですが、売り手の側の競争もそれなりに激しいわけですよね。女性は誰もが(いろんな意味で)優秀な男性を買い手としてゲットしたいので美容やその他の魅力やセックス提供などで競争しなければならない。ローカルな市場の相場が下る、つまり簡単にセックスを提供するようになると、そうしたくない女性もやむなくそうしなければならなくなる。先進国でそういうことが起きたのは1960年代のピル開発とその普及によって妊娠の心配が少なくなりいわゆる「セックス革命」が起きたときですね。それ以降は結婚の約束とかなしにセックスを提供せざるをえなくなった(これについてもファイアストーン先生とか以前に紹介したような気がする)。アメリカだと妊娠中絶の合法化みたいなのも大きい。
ところが、アメリカみたいな社会では、一部には宗教的な理由その他から、妊娠中絶はもちろん、避妊ピルなどの手段の利用もためらう女子・女性はけっこういるわけです。この人々は非常に難しい立場におかれてしまい、一方では他の女性に負けずに男性を獲得したいにもかかわらず、他の女性がピルなどを利用して以前に比べれば「安価」にセックスを提供するために競争上厳しい。けっきょくのところは、多くの女性がリクキーなセックスをおこなうことになり、婚前婚外妊娠出産が増える、という形になってるという話(Akerlof et al. 1997)。そういうのもセックス経済という観点から見るとよく理解できますよ、てな話です。技術の開発は規範の変化を生み、セックス経済の観点での新しい勝ち組・負け組のセットを作りだしてしまいます。
あとまあ処女性の提供は「ギフト」っていう形で考えられてるのもセックス経済理論によく合致します、とか。いろいろおもしろいっすね。
続けて読んでくれている読者はもうわかっていると思うのですが、この一連のエントリーは「文化/女子のセクシー化」と「男らしさ(稼ぎ)と支配」の両方の話の続編になっています。
性暴力
セックス経済論だと、セックスは財である、って考えかたなので、レイプとか痴漢とかっていうのは強盗やスリに似た犯罪ってことになってしまい、これはおそらく被害者の被害感情とかにそぐわないので不快に思う人はいると思いますね。
しかしこれは加害者の方を考える上では役に立つかもしれない。暴力的性犯罪の加害者は男性が圧倒的なわけで、そうしたものは標準フェミニズムみたいなのでは「男性の支配欲」みたいなのによって説明するわけですが、それでは具合が悪いことは前に一連のエントリーに書きました。基本的にはなんのために「支配」するのかわからんし、そうした男性たちが特に若く魅力的な女性を支配の対象にしようとするのかが説明しにくい。
むしろ、セックス経済論の観点からすると、そうした加害者になりやすい男性は、セックス交易のルールを無視・軽視して、男女の性的な関係一般を各種の手段によって搾取的にしようとするするような傾向の人々だ、と考えることができるわけです。ここでたとえばいわゆる恋愛工学系ナンパ師たちと、痴漢やレイプ犯との類似性、そして男性学の人々が気にしている「男性性と支配(欲)」の関係が見えてくるところがある2。(また、被害者の方としても、「強制された性交は暴力的な形で行なわれようと柔らかな物腰で言い寄られる形をとろうと強姦は強姦だ」(キャスリン・バリー)、「女性の意に反するセックスはぜんぶレイプ」とかのフェミニスト的意識も一部説明するじゃないか思う。)
こうした男性の傾向はいろんな調査研究から見えてくるわけです。デートレイプなどの加害者は、自分は被害者女性と一定期間デートしていろいろ投資したのだからセックスする権利がある、のような発想をすることが知られています。特にナルシスト傾向の男性は、自分は他人からの奉仕を受けるに値すると考えるので、強制的なセックスをしやすい。デートレイプなどが生じやすいのは、男性の性的な期待(「今日はできるだろう」みたいなやつ)が挫折させられたときだということもよく知られています。でもこういうやばい男性の思考にも、「〜に値する」deserveというかたちで、「交換」という発想がはいってるわけですわ。
ストーカーとかもおそらくそうですよね。お金や時間つかえばつかうほどやばい。学生様には「気のない男子にはお金は使わせない方がよい」ってなことは時々お説教したくなります。
あとレイプ発生率と社会での女性の地位みたいな話もあるんですが、これは証拠がまだ弱い。
戦争などで男性不足になるとどうなるか
セックス経済論はセックスの需要と供給で社会を見るので、需要が減ると値段が下がるとか、供給が減ると値段が上がる、というのは強い根拠になります。
古いですが、Goodentag & Secord (1983) Too many women? っていう研究があるんですね。これは女性が少ない(マイノリティ)である場合には女性のセックスの価値が高くなるので、セックス規範(相場)は女性の選好(欲求・好み)に沿うものになり、女性が多くて男性が少ない場合(女性がマジョリティ)の場合は男性の選好に沿うものになる、というけっこう意外というか、ある立場にとってはパラドックス的な発見です。
西部劇の時代のアメリカ西部や、現代の中国では女性が少なくなってるので、女性は敬意をもって扱われ地位が高くなり、婚前・婚外セックスは減る。コミュニティで女性が比率的に多くなると、女性はセックスの見返りに多くを求められなくなり、性的にはゆるい社会的雰囲気になり、カジュアルセックスや婚前・婚外セックスなどが増える。アメリカだと低所得者層コミュニティとか女性の方が多いみたいです。
バウマイスター&ヴォースの2012年の論文では Regnerus & Uecker (2011) Premarital Sex in America っていう研究をとりあげていて、これによれば、2000年代のアメリカの大学キャンパスなんかも女性の方が数的にマジョリティになってしまい、性的にはかなりルーズになってたみたいですね。Hook-up Cultureとしてけっこういろんな研究者が注目しています。男女で大酒飲んでセックス、みたいな男子が好むセックスパターンが広がって、いやな目にあったり、性的な被害に会う女子も増える。大学キャンパスでのRape Culture批判みたいな話はそのあとに来るわけです。
あと、国別に比較すると、男性が相対的に希少な国の方が十代女性の妊娠が多いというデータがある。男性の数が少ないんだから妊娠の数も減りそうなはずなんですが、増えちゃうのはなんでかっていうと、男性の意見が通りやすくなって男性が望むようなセックスをさせてしまうからですね。
ここらへん、「社会の(数的)マジョリティが規範を決定してますよ」みたいな発想だと説明できないし、「数じゃなくて支配者層が規範を決定してます」みたいなのもあやしい。そうじゃなく、市場原理で決まってるのだ!それをセックス経済論なら説明できますよ、っていうのがミソです。ここは他にもいろいろおもしろい話があります。
男女比が性的規範に与える影響については、次が日本語で読めます。
先進国のフックアップ文化についてはあんまり日本語の本はない気がする。
【シリーズ】
セックス経済論 (7) セックスに対する態度の性差、特にポルノと売買春
セックスに対する態度の性差
セックスを商品とした男女の交易、っていう観点からすると、男女の間にはセックスに対する態度の差があるはずだ。まあこれもほとんど自明というか常識なわけですが、バウ先生たちはあれやこれや態度の差をあげていきます。セックスの値段が安いと男性が得、高くなると女性が得なので、それぞれそういう態度をとっているだろう、っていうのが理論からの予測になります。んでそういう証拠はたくさんある。
- カジュアルセックス(すぐにセックスしてぱっと別れる、いわゆるワンチャン)は、圧倒的に男性の方が望むかたち。有名な実験はClark and Hatfield (1989)で、大学キャンパスで魅力的なルックスの男女が異性に対して「今日うちに来てセックスしませんか」って声かけるやつ。ものすごい有名ですね。ひっかかるのは男ばっかり。
- 男性器は直接にその名前を呼ばれるが、女性器は婉曲的にしか表現されない。おもしろいのは、女性器は、産婦人科学の授業でもあんまり直接には呼ばれないとか。男のは安くてそこらにころがってるけど、女性のは名前を呼べないほど貴重です、とかそういうのだろうか……3
さて、売買春とポルノ。前にも書いたようにヴィクトリア朝時代は女性たちがセックスの値段を非常に高くつりあげた時代なのですが、Cott (1979)によれば、売春とポルノを競争相手として意識して、強い反対運動を行なったわけです。ポルノや売買春が簡単に手に入り、とりあえず男性の性的な欲求が満たされやすくなれば、女性のセックス全体の値段が下がってしまう。そうしたわけで、19世紀後半は非常に強い反売春・反ポルノ運動があったし、それは日本にも輸入されましたね(矯風会とか)。
現代でもポルノに反対したり、禁止したりするべきだという態度は女性の方がかなり強い(もちろん男性にも一定数いますが)。いまだにネットでもよく見る光景です。映画でのヌードとかに反対するのも女性の方が多い。一般に、性的な表現に反対するのは女性の方がかなり多いわけです。
こうしたポルノや売買春といった「性の商品化」(あるいは「性的モノ化」「セクシー化」)に反対する思想的背景というのはなかなか込みいっています。ある種のフェミニストは、女性をポルノ的に描くのは女性に対する侮辱だとか女性を貶めるものだ(degrading)だっていうふうに主張します。でもこれ、なぜヌードやポルノが女性を貶め格下げするのか、というのは私自身けっこう悩まされた問題で、いまだによくわからない。それ以上の説明がない場合が多いから。そこで、バウ先生たちの解釈はこうです。
あるエロティックなフィルムが男女を平等なかたちでセックスしているのを描いているとしよう。なぜそれが女性を格下げするもので、男性についてはそうでない、ということになるだろうか? しかし、仮にセックスが女性の資源だということならばヘテロセックスの描写は、本質的に、男性が女性から何かを得ているという事態の描写ということになる。もし男性が女性におかえしになにかを与えていなければ、そのフィルムが描写しているのは、女性の性的な贈り物がとても低い価値しかないということであり、それはフェミニストの不満が示唆するように、実質的に女性を貶めることになるのだ。(p.354)
わあ、これはおもしろい!ポルノとか(特に現代のものは)セックスしている現場ばっかり(”Gonzo”、ハメ撮り)で、その前後に男性が求愛したり奉仕したりお返ししたりするところが描かれてないので、タダでセックスさせてもらっている形になってるから女性に対する敬意を表現していない!女性だけがあらわれるピンナップとかもタダで見られるので格下げだ!一方、長い恋愛映画とかだとその一部にセックスこみでもかまわん、むしろいい、なんといっても愛とコミットメントがあるから!
ポルノに比較して売買春はもっと強く反対され非難される傾向があるわけです。バウ先生たちがあげてる調査では女性の2/3以上、男性は半分以下。売買春はOKだっていう男性は女性の3倍。何度もいうように、売買春が許容されていることは、ローカルな相場での他の女性のセックスの値段を下げる。
一部の女性の利益ということでは、売買春は合法化した方がその女性たちの利益になる。非合法であるがゆえの大きな危険を減らし、また安全や集客のために世話にならねばならないポン引きたちにむしりとられる分け前を減らすことができるから。んじゃなぜ(当事者ではない)女性たちの多くが売買春の合法化に反対する傾向があるのか。当事者女性の利益を考えるなら、フェミニストたちは合法化に賛成するべきだと思われるけど、なかなかそうはならない。なぜか。
その理由を説明するには、バウ先生たちのセックス経済論がよいだろう、というわけです。女性のセックスの値段が全体に下ってしまうのは女性全体の不利益になるので、価格を下げる可能性のある売買春には賛成しにくいからだろう、と。まあこれはまだまだ研究途上なので、他の解釈もよく考えみる必要はあるけど、セックス経済論は有望でしょ、ってなことでした。おもしろいですね。
セックス経済論 (8) セフレ/名誉か汚名か/女性間攻撃/結婚勾配
セックスは(男性にとっては)利得
前の「セックスに対する態度」のところが私にはいちばんおもしろかったのですが、あとは駆け足で。
セックスは女の資源であり、男がそれを他の資源で買う形になっているので、男性があんまり手間かけずにセックスできるというのは利得(benefit)ってことになります。これは男性にとってはあまりにも自明なので言うまでもないことだと思うのですが、女性はそうは考えないわけですわ。(Sedikides, Oliver & Campbell 1994)
何回かツイッタあたりに書いてるんですが、大学で働きはじめたときに、ゼミかなんかでそういう系統の話になってるときに、(性体験の数が増える、特にワンチャンみたいなのをすると)「男は増えるけど女はなんかが減る!」という発言があり、非常に強く印象に残ったのですが、まあそういうことですよね。おもしろいのは、女性はセックスを利得だとは思ってないが、 コストだとも思ってない とか。バウ先生たちは、女性は特定の好ましい相手とならセックスは好きだけど、それは(望めば)比較的簡単に手に入るので利得だともコストだとも思ってないのだろう、とかそういう推測をしています。これはけっこうおもしろい指摘なので、いろんなことを考えるときに頭の片隅に置いとく必要があるかもしれない。「なんで男どもはそんなにセックスセックスって言ってるんだろう?」とか考えている可能性があり、これはもしかしたら将来書くかもしれないシリーズでふりかえることになるかもしれない(なんのシリーズかはまた)。
男性にとっては仲のよい友達とのセックス(いわゆるa friend with benefit、日本でいういわゆるセフレ)はたいへんありがたいものらしいですが、女性は友達とセックスするのは利得だとは思わない。理由はもう自明ですね。
片思いの話なんですが、片思いされてもつきあう気がない場合はそれをあんまりよいことだと思わないのがふつうですが、男性は「つきあう」気はなくとも告られたらとりあえずセックスする人がいるわけですね。女性はそういうのはない。男性は相手の片思いにつけこんで搾取することがあるけど、女性はないのです。それは単に、女性にとって男とセックスすることそのものにはほとんど価値がないからです。はははは。わかりましたか?
性的経験の多さは誇りか汚名か
まあこれはもういいっしょ。一般に男には名誉であり、女にとっては不名誉です。調査たくさんあります。
女性どうしの攻撃
女性どうしも、優秀な男性をお客として奪いあっている面があるので、競争があります。主に性的な魅力を競うことになり、美容その他努力して性的魅了を向上させて競うわけですが、ライバルを蹴落す努力も大事です。
女性のセックスに価値があるといっても、多くの男性は一般にコストをかけたパートナーが他ともセックスするのを好みません。そこで、ライバルになりそうな女性が性的にルーズであるとか、多くの人に安売りしているとか、そういう噂を流すことによって攻撃します。安売りするひとはローカル市場の相場を落とすのでその意味でも許せませんしね。
社会的地位
だいたいのところ、男女のカップルはなんらかの点でだいたいのところ「つりあっている」ことが広く知られています。学歴・知性・教養とかルックスとか、似たような感じの人々がカップルになります。月とスッポン、じゃなくて割れ鍋に綴じ蓋ってやつですね。
ただ、微妙に「結婚勾配」ってやつがあることが知られていて、これは結婚カップルの男性の方が年齢や社会的地位や学歴や収入その他でちょっと上にあるのが一般的で、これは社会において全体として男性の方が優位な立場にあるからそうなるのだという解釈もあるんですけど、これはあやしい。男女はだいたい同じくらいの数がいるので、もし社会的地位のジェンダー差が原因であるなら、「あぶれる」男女は理想的にはいなくなるのですが、そうなっていない。実際には高学歴高収入女性と低学歴低収入男性が余るというかたちになっています。まあネットではよく論じられてることですよね。
これは結婚だけじゃなくて、カジュアルセックスとかでも見られる現象で、ロックバンドのグルーピー(追っかけ)の人たちとは、自分よりはるかにお金もってるジミーペイジとかロバートプラントさんとかセックスして短期的におつきあいしたりするのですが、この逆のパターンはあんまり見られないみたいです。たしかにマドンナさんやガガさんにグルーピー♂(グルーパー?ブルーポー?)とかと遊んでるって思えないですね。
テニス選手のアンナ・クルニコワさんは追っかけがたくさんいたらしいですが「私はチョーおたかいレストランのメニューみたいなものなの!あんたたちは見てもいいけど、とても払えないでしょ?」(I’m like an expensive menu. You can look at it, but you can’t afford it!)って言ったってんで有名らしいです。ひどいですね。ロバートプラントやジミーペイジ先生はそんなこと言いませんでしたよ!残り読むのがつらくなりした。
あと省略。
セックス経済論 (9) 女性のセクシュアリティの抑制
女性のセクシュアリティの抑制
多くの文化で女性のセクシュアリティ4が抑制されているとされます。まあ女性の性的な活動は好ましくないとか、性的な魅力をみせびらかすような服装はつつましくないとか、極端なケースでは女性の性的な快楽を削減するために性器に外科手術を施す(FGM)とか。
ふつうの解釈は、そういうふうな女性のセクシュアリティの抑制は、まさに男性の女性支配のあらわれである、っていうふうに解釈される。男性が自分の彼女や妻とかが自分以外の相手を誘ったりセックスしたりするのがいやだから、男性は結託して女性の抑圧している。それはこれはこれでまあ一応筋が通っているように見える。フェミニズム理論でも、(2000年ぐらいまでの)一般的な進化心理学理論でもまあそういう感じ。
こういう発想の背後には、女性のセックスの抑制が 誰の得になるのか 、を考えるという姿勢があります。”cui bono?”ってやつで、犯罪を操作するときなどに、それが誰の利益になるのか考えれば犯人の推定ができる、みたいな発想ですね。女性のセックスの抑制は男性の利益になるのだから、おそらく男性(男性支配)が犯人にちがいない。
ところがバウ先生たちのセックス経済論では、いやいや、女性もお互いのセックスを抑制することで、全体としてけっこう利益を得ていますよ、むしろ女性の利益じゃないっすか、みたいなことを考えるわけです。これは、中東とかの原油産出国が、お互いの輸出量を制限することで原油の値段をつりあげるのに似ている。
証拠はどこにあるのか、っていうと、Baumeister & Twenge 2002ってやつですね。
- 思春期女子の性的抑制(セクシーな格好の非難とか)は、父親ではなく母親によるものであり、同級生とかの男子ではなく女性どうしによるものである
- いわゆるヤリマン女子に対する非難も男性より女性によるものが強い
- ボーイフレンドは自分のガールフレンドとのセックスを抑制せず、むしろ多く求める
- 婚前セックスを非難する傾向は女性の方が強い
- 婚外セックスのダブルスタンダード(男性は許されるが女性は許されない)的発想も女性の方が強い、先進国のダブルスタンダードを認めない現代女性も、自分以外の他の女性たちの方が男性よりダブルスタンダードを認める傾向にあると考えている
など。また、FGMの習慣があるような女性の性欲や性的活動を強く抑制する文化では、女性は男性よりはるかに社会的・経済的・政治的地位が低い。これのバウ先生的解釈として、女性は男性よりはるかに劣悪な環境で生活しているので、自分たちの性的能力から最大の利益を獲得しなければならず、そのために他の女性の性的活動を抑制して値段をつりあげる必要があるからだ、ってなことになる。うーん。
まあとにかくセックスを「安い」値段で男性に与える女性は女性から嫌われ制裁を受けちゃうわけですが、それはまさにセックスの価格維持のためだ、みたいな話になるわけですわ。でも個人としてはみんなが堅い行動をとっているときに、ルール破りして柔軟なセックス活動をおこなえば他より先に優秀なお客さんを確保できたりするわけで、ここに女性の性的活動の難しさがある。
まあ前に書いた心理学者たちの「セクシー化」批判みたいなのも、あんまり女性がセクシーなのは好ましくない、という判断が背景にあるのかもしれないですね。
セックス革命
まああとは1970年前後のセックス革命について。避妊技術が一般化して、婚前・婚外セックスが一般的になると、女性のセックスが値崩れおこしてしまい、女性は非常にむずかしい問題に直面することになった。当時のフェミニストの間でもこの革命の評価はさまざまですね。2000年前後でもテレビ Sex and the City でも、結婚を考えながら男性とどうセックスするのかっていう駆け引きやら取引やら戦略やら相談やらでたいへんで、2020年代もそれは変わらんでしょうな。
まあほかにもおもしろいネタはあるんですが、とりあえず「セックス経済論」一回おしまい。バウマイスター先生関係の細かいおもしろいネタは別にあつかうことがあると思います。
セックス経済論 (10) ちょっとだけコメント
しかし投げっぱなしだと誤解されそうなのでちょっとだけコメント。
バウマイスター & ヴォース先生たちの「セックス経済論」は、社会学でいう「社会的交換理論」の一バージョンですね。まあ経済学も含め、非常に一般的な理論というか考え方なので、名前なんかいらないくらい。バウ先生たちは、経済学者のゲイリー・ベッカー先生の The Economic Approach to Human Behavior (1976) 5 の四つの想定をひきあいに出してます。
- 個人は、比較的安定した選好にもとづいて、コスト・ベネフィットに応じた選択をする
- 希少資源は価格の調整によって配分される。
- 財やサービスの販売者は互いに競争する(購買者も競争することがある)
- 個人は結果を最大化しようとする。
まあこうしたシンプルな理論がどんだけ射程が長いか、っていうのがわかる話になってます。
2004年の段階で、バウ先生たちのが 理論として どれくらい新鮮だったかというのはよくわからない。このシリーズ読んでくれたひとの多くは「そんなんあたりまえやろ」ぐらいの印象の人が多いんじゃないかな。わざわざ「セックス経済学理論」みたいな名前つけてあざといですね。でも先生たちはその後ずっとこのラインで議論していて、そこそこいけてると思ってるみたいです。
2004年の時点で、ジェンダー問題については、社会構築主義的なフェミニズム理論(男性支配!)と急速に勃興中の進化心理学が、男女関係を考える主な「セオリー」だったわけですが、どっちも「男性が女性を支配する」っていう形で見る傾向があったわけです。2020年代の心理学はさすがにそんなに単純な形にはなってないですが、バウ先生たちの論文の新鮮さは、進化心理学と同様に男女のあいだの性的関心・性欲の生得的な性差、というのは前提にしながら、男性が単に「支配」を欲求するようなハードワイヤードな傾向をもってるんではなく(もちろん女性が支配されることを望むような欲求をもっているわけでもなく)、状況・環境に応じて戦略を変更するような存在として見るという点、そして男女の間にあるのは支配・従属ではなく、むしろ交易・交換・協力だ、ってなところでしょうな。もちろんその交易や協力が強制的・搾取的になってしまう場合もある。そんでも、男女関係におけるアクターとしての女性の有利さっていうのはまあ常識的(少なくとも私の常識)に合致しているところがあるように思います。
しかしまあ男女の間で交換しているのはもちろん、女からセックス、男から金、だけじゃないのはほぼ自明っすからね。実際には他にもいろんなものを交換し協力しているわけで、まああえてこんな単純にした「理論」というのはなんであるのか、みたいなのはよくわからない。でもまあセックスと性欲(そして生殖)を中心に考えると相当のところが説明できる、っていうのはまあ進化生物学的・経済学的な発想の強みではありますわね。
ちょっと時間があったので「セクシー化/セクシャル化」と「男性支配」についてだらだらメモ書きましたが、まあここらへんはおもしろいので、みんな(特に若い人は)勉強がんばってください。
実践的に、セックスや恋愛がんばってくださいというつもりはないです。がんばらないでください。でもセックスを中心に男女が交易しているという点にはなにほどかの真理があるでしょうから、モテたいと思う男子はちゃんと交易するための資源用意しといた方がいいだろうな、とは思いますね。素敵なテニス選手の方みたいな人から「私は高価料理メニューなので、あんたたちはそれ払えないでしょ!」とか言われるとつらいですからね。それは現ナマである必要はないはずなので、お金がないひとは海辺できれいな貝殻拾ってくるとか工夫してください。
注意として、進化心理学とかセックス経済論とか、そういうのを勉強すると、すぐに「 悪いのは 女性だ」みたいな発想する人がいるんですよね。こうした人間の「本性」や社会の仕組みみたいなのに関する「理論」や説明、解釈を、すぐに道徳的な善悪の判断や規範的判断(「よい/悪い/不正だ/罰を受けるべきだ/〜するべきだ」)に結びつけてはいかん。
実際のところ、学界でもセックス経済論をそういうふうに解釈して、「バウたちは女性たちに〜という現象の 責任 があるresponsible と主張しているが〜」のような人たちはけっこういます(Laurie Rudman先生とか)。バウ先生もヴォース先生も「女が悪い」とかそういう話はしていないし、道徳的な意味で「責任がある」みたいな話もしていない。まあ「このセックス中心の見方をすると、これこれの事象が他の理論(特にフェミニスト理論)よりはうまく説明できるっぽい」ていどの話で、誰が悪いかとか、よりよい社会(おそらく、公平で多くの人々が幸福に充実して生きられるような社会)をどう作ればいいかとういうのはまた別の話です。いろんな「理論」をすぐにまにうけて善悪の判断したり社会革命とか起こそうとするのは危険なので用心しましょう。それに「理論」っていったって、こういうのはぜんぶ 単なる仮説 だからね。他の理論より事実をうまく説明し、まだ見つけられない他の現象を予測できるかどうか、ぐらいの判断基準しかない。
(追記)
セックス経済論と「セクシー化」や「男性支配」との関係についてうまく書けてないですが、まああんまりよく考えないのでしょうがないです。
「セクシー化」は、セックス経済論が指摘し予想する女性どうしの競争となにか関係があるだろうとは思います。
「男性支配」に関してはヴォース&バウマイスター先生たちがはっきり述べてるとこがあるのでちょっと引用しておきますね。
セックス経済論(SET)は、進化的原理をもとづいた理論だが、この原理を市場という文脈の上においている。この市場という文脈は、定義によって、文化的に構築されたものである。……SETは、男性の相対的に強い性欲と、それを得るためにできるかぎり小さな代償を払おうとするという動機から、男性が女性を支配しようと試みることを説明するのだ。(Vohs & Baumeister 2015)
セックス経済論は、進化心理学的な理論とも、社会構築主義的なフェミニスト理論とも矛盾するものじゃないっすよ、と言いたいようです。ラッドマンさんなんかはセックス経済学を「家父長制的だ!」っていって非難してますが、現状とその原因の解釈としてはそれほど家父長的ではない、というかセックスと性欲という眼鏡で社会を見てみて、どう解決するか考える一歩にはなるかもしれないと私は思っているわけです。まあこの眼鏡はずいぶんとあらっぽいもので、不快に感じる人は多いかもしれませんがねえ。
婚姻関係のなかでのよく知られた衝突のパターンは、セックスの頻度をめぐるものだ。夫が妻より多くのセックスを求める、というものだ。配偶プロセスの結果として、夫と妻はこの衝突をたいへん違ったかたちで理解しているかもしれず、それが解決を非常に難しくしている(したがって問題は永続する)。……Arndt (2009)はこうした衝突を、詳細なカップルのサンプル研究で記録しており、また結婚セラピーについて研究も、男性の性欲が女性の性欲よりはるかに大きいことを確証している。ハキムは30ほどのセックス研究の証拠をレビューして、「男性のセックス不足」、は世界共通であり、もしかしたら現在増加中の問題かもしれないとしている。つまり男性は世界中どこでも求めるよりも少ないセックスしか手に入れていないのである。
(略)
ここで、男性の方が女性よりも性欲が強いというベースラインを想定してみよう。そして、特定のカップルにおいてはは、この差は情熱的な恋愛によって縮められるが、その時期が過ぎてコミットメント関係に落ちついたときに再浮上する、と想定してみよう。男性にとっては、彼が契約したものを手に入れられない、ということになる。彼は、彼女が毎日セックスを求めると考えて結婚しただのだが、実際には月に1、2回セックスするだけで満足していて、さらに求めると腹を立てるようになったということを発見する。彼は資源を提供しつづけることにコミットしていることを自覚しているが、彼女は(彼が見るかぎりでは)頻繁なセックスを彼に提供するというその契約の自分の責務を果たしていない。彼にとって最悪のシナリオでは、彼が資源を提供する責務は、離婚のあとにも続き、自分のお金の見返りになんのセックスも得られない、ということになる。
ここで、女性の側の視点から見てみよう。仮に彼女の観点は、結婚とはセックスの頻度ではなく、排他性に関するものだというものあるならば、
脚注:
「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(岩波『結婚論』p.85) 「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」(p.126)
セックス同意の論文も読んでください。 http://hdl.handle.net/11173/2419
あれ、この本自体は翻訳ないんすか。
Views: 79
コメント