『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか?

現代ビジネスオンライン https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733 に載せたものをorg2blogのテストとしてこっそり転載しとこう。1年以上経過したし、転載してもかまわんだろう。(お金くれるって言われた気がするけどもらってないし)


『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか? 「性的対象物」という問いを考える

『宇崎ちゃん』論争のその後

日本赤十字社が献血を呼びかけるポスターをめぐってSNSで激しい議論が生じた。この「現代ビジネス」上でも、大阪大学教授の牟田和恵氏が論説を発表している。

赤十字社のコラボ相手となった丈(たけ)氏作『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、累計で60万部以上を売り上げている人気マンガだ。

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主人公の一人の桜井先輩は、高身長のイケメンだが奥手で堅物の男子大学生である。もう一人の主人公宇崎ちゃんは、女性的で豊満な身体つきだが、実は非常に活発で食い意地がはった「ウザくてカワイイ」女子大学生である。

この作品は、二人がおりなす「くっつきそうでくっつかない」ほのぼのとした日常生活を描いたラブコメであり、部分的にエロチックな要素も含んではいるものの、一部の人々がポスターから連想したような「お色気」や「エロ」中心の物語ではない。

牟田氏は、「宇崎ちゃんのポスターが抱える問題点がわからない人々は、女性差別の問題がわかっていない」と指摘したのだが、議論の中心になっている「性的対象物」という用語が何を意味し、どのような問題を含んでいるのかについては、詳しい解説がなされていない。

本稿ではこの言葉と概念を明確化することを通して、「宇崎ちゃん問題」をもう一度考えてみたい。

問題のありかを明確にする

「ポスターで『宇崎ちゃん』というキャラクターが『性的対象物』として描かれている」と指摘する人は、そのとき、「女性が(男性から)性的な関心の対象とされている」ということを指摘しているのだろう。しかし、そうした「性的な対象化」がなぜ女性「差別」なのか、なぜ悪いことであるのか、ということは、実はそれほど自明ではない。

人物をポスターにすることはたしかに「対象化」の一種であるし、一般的に、そうした対象とされた人物が、性的な魅力をもっていることも少なくない。ポスターに登場するキャラクターだけでなく、芸能人やスポーツ選手の多くも、多かれ少なかれそれぞれ性的な魅力を持っており、それゆえに人気を集めている側面があるように思われる。

ではこうしたことの、何が問題なのだろうか。

「性的モノ化」とはなにか?

女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。

この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。

2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。

「モノ化」一般、すなわち「人をモノとして扱う」という表現で意味されている主要なものの一つは、(1) 他人を道具・手段として使用するということだ。

たとえば、奴隷制度は人を単なる道具として使うことであり、それゆえに不正だということは直感的にわかりやすい。だが、私たちが生活の中で、他人を「手段として」使うこと自体は避けられない。私たちはいたるところで他の人を商品やサービスを手に入れるための手段として使っており、また他人に使われてもいる。

当人が給料や待遇や人間関係などの点で納得して、自発的に使用されるのならば問題がない。不正なのは、他人を「単なる」手段として使うこと、つまり当人の意思を無視して、手段として使うことだ。

さて、ヌスバウム氏によれば、この「他人を単なる手段として使う」という発想から、他のさまざまな「モノ化」の問題点が生じる。

それには、対象となる人の(2) 自己決定を尊重しない、(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす、(4) 他と置き換え可能なものと見る、(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす、(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える、(7) 当人の感情などを尊重しない、といったさまざまな面が見られる。

女性の「モノ化」で起きること

過去も現代も、女性は特に「性的な」モノとされやすい。セクハラ・痴漢・性暴力などの被害者となるとき、女性は男性の性的欲望や快楽のための単なる道具であり、操作される客体・対象とされてしまう。

そうした時に女性は、自己決定を無視され、受動的な存在とみなされ、女性であるなら誰でもよいという置き換え可能な形で被害者になる。また夫婦・恋人関係でも、女性は男性から「オレのもの」とみなされて自由を制限され、さらにはその意思や感情が無視されてしまうことがある。

さらに近年は、あらたに(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまうという問題も重視されている。女性は胸や腰などに身体的特徴をもった、性的に魅惑的なものとみなされ、その性的な特徴だけが鑑賞されたり評価されたりする。そしてしばしば、その女性の人格や人柄が無視されてしまう。

たとえば超一流の女性スポーツ選手でさえ、報道では腰や胸などを強調した写真などが用いられ、本人の望む望まないにかかわらず、ルックスのよしあしが話題にされてしまう。

また、(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞されることもある。こうしたことはおおむね女性の意志に反することであり、モノ化であり、そして不正なものを含む、とされる。

モノ化・道具化されるのは必ずしも女性だけではないが、女性は特にこうした性的なモノ化の対象となりやすいため、それは女性に対する不当な扱い、すなわち性差別とされるわけである。

『宇崎ちゃん』は「モノ化」か?

さて、問題の『宇崎ちゃん』ポスターを見るとき、上のような批判は当てはまるだろうか。

当のマンガ作品そのものを見てみると、宇崎ちゃんというキャラクターは、(1)先輩の単なる手段や道具とされてはおらず、強引に遊びに誘ってくる後輩として扱われており、(2)彼女の意志は尊重され、彼女の意志に反するセクハラなどははっきり拒否されており、 (3)格別に主体的・能動的な女性として描かれている(むしろ常に先輩が遊びに誘われる形で受け身になっている)。

彼女はさらに(4) 他の女性と置き換えできないかけがえのない存在であり、(5)勝手に触ったりできる存在ではなく、(6) 誰の所有物でもなく、(7)彼女自身の性格、発想、感じ方が作品のテーマとなっている。また女性をステレオタイプ的(典型的・画一的)に描いているとも言いがたい。

つまり、マンガ作品としての『宇崎ちゃんは遊びたい』を読む限り、この作品が女性を性的にモノ化しているという批判はあてはまらないように思われる。それどころか、宇崎ちゃんが他の登場人物のセクハラ的発言に対して強く対決しているシーンもあり、宇崎ちゃんは自覚的・自立的・能動的で魅力的な女性として描かれている。

一方、日本赤十字社はかなり以前から多種多様な人気アニメ・マンガとの「コラボ」によって、若者に対するキャンペーンをおこなっている。

『宇崎ちゃん』はその一連の企画のひとつであり、またポスターが掲示されたのは献血ルームなどに限られていたことを考慮すると、すでに人気のあった『宇崎ちゃん』とのコラボを選択することに特に問題があるようには思えない。主人公のルックスと性格を表した単行本表紙の絵柄を選択することにも、さほど問題があるわけではないだろう。

このように、「モノ化」を非難するべき理由まで分け入って考えれば、今回のポスターそのものが「性的なモノ化」にあたるという非難は、説得力があるとは言えない。

なぜ「不快」と非難されたのか

では、なぜ『宇崎ちゃん』のポスターはこれほどの非難を浴びたのだろうか? 問題のありかを知るには、ポスターに反発する人々の考え方や、そうした人々の置かれている状況を理解する努力も必要だろう。

第一に、実在する人物でない宇崎ちゃんをポスターに起用しても、直接に「人をモノとして扱う」ことにはならないとはいえ、彼女は、人目をひく女性キャラクターとしてアイキャッチに使われている。その意味で、宇崎ちゃんは献血参加を促す「道具」とされているとは言える。

宇崎ちゃんは架空の人物なので、彼女のポスターがその意思に「反している」とは言えないが、同時に彼女の「自発的な行動である」とも言えない。

芸能人やスポーツ選手をポスターに登場させる場合にはその意思が尊重されているわけだが、宇崎ちゃん自身の意思はそもそも存在しない。したがって、作家・ポスター制作者は宇崎ちゃん自身だけでなく、女性一般の性的なイメージを勝手にデフォルメし、アピールの手段として利用している、ということは指摘できる。

一部の人々が、女性芸能人のポスターには感じない不快さをマンガ・アニメの女性キャラクターの使用に感じるとすれば、その理由はこうしたことかもしれない。

第二に、女性の胸を強調した構図をポスターとして使うのは、女性の身体の一部にだけ注目するという形の性的モノ化ではないか、という声があるだろう。

このポスターの画像は、マンガ単行本最新刊の表紙イラストの流用であり、また「バストショット」は人物を描く際にごく一般的な構図である。しかし、女性的な身体の部分を強調したイラストは、女性を単なるモノとして見る性差別的な見方を反映しているから、そうしたポスターが公共性の高い団体の広報に使われるのは不適切だ、という意見はありえる。

この場合はむしろ、ポスターにあらわれるような発想(アイディア)や女性に対する観点が、公共性の高い団体のポスターにおいて表現されることで、女性一般をモノ化する発想を維持・拡大することに通じる可能性がある、ということが問題にされているのだろう。

『宇崎ちゃん』ポスターを見る人が、その構図や姿勢、身体の描かれ方に違和感をもつかどうかは、おそらく、現代のアニメ・マンガで使われる構図や絵柄や彩色方法などにどれくらい慣れているかにも関係するだろう。

私が担当する授業などで女子大学生たちに聞いてみたところでは、「ふつうの絵だ」という意見の方がかなり多かったが、「胸を強調しすぎていて不快だ」という声も少数ある、といったところだった。

ポスターそのものよりも…

第三に、現在私たちがWebを見たり、スマートフォンのアプリを使用したりするときには、明らかに性的なコンテンツやゲームの広告が、時には頻繁に表示されることがある。そうしたしつこい性的な広告を不快に思う人は多いはずだし、私自身も不快である。

そうした性的コンテンツの広告には、『宇崎ちゃん』と同じタイプの色彩や描画方法をとったものも多く、『宇崎ちゃん』という作品を知らずにポスターを見た人々が、そうした性的コンテンツの不快や脅威を連想してしまうのも無理はない。

ネット上では、女性を利用した性的な図画を目にする機会は多いし、また露骨で女性差別的な発言やそれに関連した攻撃的な発言もいやおうなく流れてくる。こうしたもの全体が、特に女性にとって脅威と感じられるのももっともであろう。

そうした女性の不快や脅威の感覚にまったく配慮しないことは、まさに女性たちのものの見方や感情を無視するという点で「モノ化」であり性差別である、ということがありえる。

こうして考えると、「女性差別がわかっていない」として牟田氏が指摘したかったのは、おそらく、『宇崎ちゃん』ポスターそのものが単体で性差別的であるというよりも、むしろポスターに不快を感じる(主に)女性たちの観点や感情が軽視・無視されてしまうことについての、社会的な無理解や無関心こそが問題である、ということのように思われる。

一般に、女性が子供のころからさまざまな形で外見を評価されたり、意志に反した性的な扱いをされたりする危険にさられていることは言うまでもない。こうしたフラストレーションや不快な経験が積み重なった結果として、一部の人々にとっては愉快で魅力的に映る『宇崎ちゃん』ポスターが、女性の間では不快なものとして映ったのだと言えるだろう。

対立と無理解を乗り越えるために

私自身は今回の一件について、ポスター自体に問題があるというよりは、本来はこれほど目立たなかったであろう話題がSNSで拡散され、意見の対立が先鋭化しクローズアップされた事例だったと考えている。

日本赤十字社が献血参加者の拡大に努めていることを考慮すれば、コラボ作品の魅力を損ってまで無難な表現を選択するべきだとも言えない。また、私たちはこれほど豊かなマンガ・アニメ文化をもっているのだから、単なる絵柄の印象だけから即断してポスターを非難したり擁護したりするよりは、作品の内容に関心をもち、鑑賞するチャンスと考えてみる態度も必要だろう。

一方で、このポスターをめぐる論争をもっと広い視野で捉えたとき、人によっては不快に感じる表現もネット上ではなかば強制的に見せられてしまうことや、SNSにおいては「表現の自由擁護派」と「表現規制推進派」のような派閥対立と相互の無理解が激化しているかのように感じられ、議論が先鋭化してゆくことは、むしろあらたな問題であると感じられる。

私たちがSNSを利用しはじめてから、まだ10年ほどしかたっておらず、これからも各種の表現に関して細かい議論を積み重ねていく必要があるだろう。マンガ・アニメコンテンツと広告・広報の問題については、すでに一定の事例と議論が蓄積されつつある。

いずれにしても、異なる立場の人々がそれぞれの意見を発信し、他の人々にも見える形で議論が進むことは、全体として社会にとって有益であると信じたい。

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