柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。
ザプロフェッサーオブパロディ マーサ・ヌスバウム
この文章は、Nussbaum, M. C., 1999, “The Professor of Parody,” The New Republic, February 22.を柳下実が無許可で適当に翻訳したものである。著作権関係は処理していないので注意してほしい。本文はこちらで公開されている。途中で訳出してあるバトラーの文章の正誤はとてもあやしいので、識者のコメントを待ちます。問いあわせは江口 eguchi.satoshi@gmail.com まで。
この記事は、『ジェンダー・トラブル』、Bodies that matter、『触発する言葉』、『権力の心的な生』のレビューである。
I
長い間、アメリカの学問に携わるフェミニストは、女性のために正義と平等を達成する実践的な闘いと密接に連帯してきた。理論家たちはフェミニスト理論のことを,紙のうえにならぶ精妙な言葉なのだ、と理解してきたわけではない.フェミニスト理論は社会変革のための提案と結びつけられていた。それゆえフェミニストの学者たちはさまざまな具体的なプロジェクトに携わってきたのである。とえば、レイプに関する法律の改革、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントの問題へ人びとの関心を引き付け、法的な救済策を勝ち取ること、女性の経済的〔成功の〕機会、労働条件そして教育を改善すること、女性の労働者のための妊娠に関する福祉手当を勝ち取ること、売買春における女性と女児の人身売買に運動すること、そしてレズビアンやゲイ男性の社会的政治的平等のために取り組むことである。
それどころか、一部の理論家たちは学術からまったく離れてしまい、実践的な政治の世界にすっかり居着いている。そちらの方が,こうした喫緊の問題に直接とりくめるのだ。学界に残った人びともしばしば、実践的なことにかかわっている学者であることが、体面にかかわることだと思っている。実践的なことにかかわっている学者とは、現実の女性の具体的な状況に目を向け、いつも女性の現実の身体と葛藤を認めるような仕方で論文を書く学者だ。たとえば、法的制度的変革というほんものの問題を思うことなく、キャサリン・マッキノンの著作の1ページを読める人がいるだろうか。もし、ある人がキャサリン・マッキノンの提案に同意しないのだとしたら――多くのフェミニストはマッキノンの提案に同意しないが――、彼女の論文によって提示された課題は、彼女が鮮明に描き出した問題を他の方法でどう解くのかということを模索することだ。
フェミニストたちは何が悪いのか、そして物事を良くするために何が求められているかについて、いくつかの問題では一致しない。しかしながら、すべてのフェミニストたちが同意していることもある.それは,女性をとりまく状況は不正義であり、法律と政治的措置によってそれらをより公正にすることができるということだ。ヒエラルキーと従属をわたしたちの文化に根深くはびこっていると描いたマッキノンもまた、法――レイプとセクシュアル・ハラスメントに関する国内法と国際的な人権法――を通じた変革に取り組んでおり、法を通じた変革に慎重にではあるが楽観的である。ナンシー・チョドロウは『母親業の再生産』[1]で子育てにおける抑圧的なジェンダーカテゴリーの複製のゆううつな説明を示したが、彼女でさえその状況は変革しうると論じている。これらの習慣の不幸な帰結を理解することで、男性と女性は彼らがこれ以降物事をこれまでとは、違ったやり方でおこなう、と決心することができるのだ。そして法律や制度における変革が、そのような決心を手助けしてくれるだろう。
いまでもフェミニスト理論は世界の多くの地域でこのような状態である、たとえばインドでは、学問に携わるフェミニストは自らを実践による厳しい努力に投げ込み、そしてフェミニストによる理論化は実践的なコミットメントに密接につながっている。たとえば、女性の識字率、不公平な土地所有法の改革、レイプ法の変革(今日のインドのレイプ法には、アメリカのフェミニストの第一世代が攻撃した、多くの欠点がある)、セクシュアル・ハラスメントとドメスティック・バイオレンスの問題の社会的な認知を得るための努力というコミットメントだ。これらのフェミニストたちは、自分たちが激しく不正義な現実の真っただ中で生活していることを知っている。理論的な論文を書く際にも、セミナー室の外で活動する際にも、彼女達は毎日こうした問題に取り組まなければ自尊心を保つことができないのだ。しかしながら、アメリカにおいて事情は変わってきている。そこには、新しい気がかりな傾向が見受けられる。人は新しい、そして気がかりな傾向に気づくだろう。このことはフェミニスト理論がアメリカ外の女性の闘いへ注目していないということだけではない。(この嘆かわしい特徴は,もっと以前からつねづね,最良の業績の多くにすら見受けられた。)そして〔アメリカ中心的という〕偏狭さというよりは、より油断ならない狡猾なことがアメリカの学界で顕著になっているのだ。それは、生活の具体的な側面からの、現実の女性たちの現実の状況ともっとも薄っぺらくしか関係のない言葉と象徴の政治への、実質的に完全な転向なのだ。
新しい象徴的なタイプのフェミニストの思想家はフェミニスト的に政治をおこなう方法を、高慢なほど不明瞭で、軽蔑的に抽象的な学術的な出版物の中で、ことばを転覆的に用いることだと信じているように思われる。これらの象徴的なジェスチャーというのは、信じられているところでは、それ自体が政治的抵抗の一形態なのである。そして、立法や運動などの厄介なことにはかかわらずとも、人は大胆に行為できるのだ。さらに、新しいフェミニズムはそのメンバーに大規模な社会変革の余地はほとんどなく、そしておそらくまったくないと教授するのである。わたしたちは全員、およそわたしたちのアイデンティティを女性として規定している権力の構造の囚人である。わたしたちはこうした構造を大規模に変革することは決してできず、それらから決して逃れられない。わたしたちにできるのは、せいぜいそうした権力構造のなかでなんとか空き地を見つけ、そこで発話によってこれらの構造をパロディー化し、笑いものにし、境界を踏み越えることだけだ。それゆえ象徴的で言語的な政治が実際の政治の一類型として提示されることに加えて、それだけが現実に可能な政治として残されるのである。
こうした展開は近年のフランスポストモダン思想の卓越に多くを負っている。多数のわかいフェミニストは――彼らの具体的なあれやこれらのフランスの思想家との関係はなんであれ――知識人は政治を煽動的な発話によっておこない、これこそが政治的行為の意義深い型だというフランスの観念に極端に影響されてきた。その多くの人は(正しいか間違っているかはともかく)ミシェル・フーコーの論文から、わたしたちはすべてを包み込む権力の構造の囚人であり、そして実生活の改革運動はたいてい狡猾なそして新しいかたちで権力に役立つことに終わるのだ、という宿命論的な着想を取り出すのだ。それゆえそのようなフェミニストたちは転覆的な言語の使用がいまだフェミニストの知識人にとって利用可能だという観念に慰めを見出すのである。もっと大規模でより長続きする変革の望みを奪われても、わたしたちはそれでも言語的なカテゴリーを書きかえることによって抵抗することができ、そしてそれゆえ、かろうじて、それらによって構成されている自己を書きかえることによっても抵抗することができるのだ。
一人のアメリカのフェミニストがほかのだれよりもこれらの発達をかたちづけてきた。ジュディス・バトラーは多くのわかい学者にとって、現在のフェミニズムを定義する人物のようである。哲学者として訓練を積んでいるので、彼女はしばしば(哲学者というよりも文学研究者によって)ジェンダー、権力、そして身体についての主要な思想家と目されている。フェミニストのふるぼけた政治とそれが献身してきた物質的な現実というのがいったいどうなっているのかを、知りたいと思っているので、ジュディス・バトラーの業績と影響を査定し、そして無抵抗主義と退却そっくりにみえる立場を多くの人に採らせた〔彼女の〕主張を精査するのは必然的なことに思われる。
II
バトラーの着想を把握するのは難しい、なぜならそれが何であるのかを理解するのが難しいからだ。バトラーはひじょうに頭の切れる人である。人前での議論において、彼女は明確に話すことができ、そして自分に何を言われたかを俊敏に把握する力量があることを示している。しかしながら彼女の文体は長たらしく退屈でそして不明瞭である。文中では,陰に陽に他の理論家たちが次々と引き合いに出される。しかも,その理論家たちが属する理論的伝統は多岐にわたる。フーコーを筆頭に,最近ではとくにフロイトに強く関心を寄せているほか、バトラーの著作が多く依拠する理論家には次のような人たちがいる。ルイ・アルチュセール、フランスのレズビアンの理論家モニカ・ウィティッグ、アメリカの人類学者ゲイル・ルービン、J.L. オースティン、そしてアメリカの言語哲学者ソール・クリプキである。これらの人びとは、控えめにいっても互いに見解が一致するわけではない。だから、バトラーの文章を読み始めるとすぐに問題にいきあたって当惑してしまう。これほど多くの矛盾し合った概念と学説を自説の支えに持ち出しておきながら、そうしたあからさまな矛盾を解消する方法をたいてい説明なしですませているのだから。
さらなる問題は、バトラーの無頓着な略式な参照のやり方にある。これらの思想家の着想は、門外漢の読者にわかってもらえるほどじゅうぶん詳しく解説されることもなければ(もしあなたがアルチュセールの「呼びかけ interpellation」という概念に精通していなければ、何章もさまようだろう)、多少手ほどきを受けた人でも,こうした難解な考えがそこでどう理解されているのか正確なところを説明することもない。もちろん、多くの学術的な文章はなんらかのかたちで略式に参照してすますことはある。それは特定の学説と見解の事前の知識を前提にしているのである。しかし、大陸式と英米式,どちらの哲学伝統でも、専門的な読者へ学術的な文章を書く人は自分が言及している著者たちが込み入っており、さまざまに異なる解釈がなされていることを通常は承知している。それゆえ一般的に彼らは競っているものの中で決定的な解釈を提示する責任を引き受け、そして議論によってなぜ彼らがしたようにその人物を解釈したのか、そしてなぜ彼ら自身の解釈が他の解釈より優れているのかを示す責任を引き受ける。
バトラーの著作にはこれがまったく見当たらない。相違する解釈はたんに考慮されないのだ――フーコーやフロイトの場合のように、多くの研究者に受け入れられないきわめて異論含みの解釈も、バトラーはひたすら言い立てるのだ。だから、こうして略式な参照は通常のかたちでは説明しようがないのだという結論が導かれる。通例のように、なにか深遠そうな学問的見解があればその詳細を議論したがる専門家たちを対象読者に想定して説明できないのだ。バトラーの著作は貧弱すぎて、そうした読者の要求に応えられない。バトラーの文章は現実の不正義に取り組もうと躍起になっている非学術的な読者に向けられたものではないというのは明白である。そのような読者はたんにバトラーの散文のゴテゴテしたスープに、内輪でだけわかり合っているような雰囲気に、説明に対する人名の極端な高比率ぶりに、まごつかされてしまうだろう。
それではバトラーはだれに向けて語っているのだろうか?彼女は、アルチュセールとフロイトとクリプキが実際何を言ったかということを気にかける哲学徒ではなく、また彼らのプロジェクトの性質について知らされたい、彼らの価値について説得されたいと思っているアウトサイダーにでもなく、学界のわかいフェミニスト理論家の一群に語りかけているようにみえる。この暗黙の読者はとてつもなく御しやすいと甘く見られているのだ。バトラーの文章の予言者的な声に屈従し、そして広くアピールする要素を持つ抽象性の風格に惑わされ、想像上の読者はほとんど疑問を持たず、議論も求めず、用語の明確な定義も求めない。
さらにまだ奇妙なことに、想定される読者はさまざまな問題に関するバトラーじしんの最終的な結論について気にかけないようと想定されているのだ。バトラーによるすべての本では――とくに章の最後に近い部分の文は――文の大部分が問いなのである。時には問いの予期する答えが明白なものもある。しかしたいてい物事はより明瞭でないのだ。非疑問文の文の中で、多くの文は「~と考えてみよう」もしくは「~と示唆することもできるだろう」という文で始まっているのである。こうした方法でバトラーは描写された見方を彼女が承認しているかどうかを決して読者に完全に伝えようとはしない。神秘化はヒエラルキーと同様、彼女の実践の道具であり、神秘化はほとんど明確な主張をなさないため批判を逃れる。
ふたつの代表例を引いてみよう:
主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということはどういうことを意味するか?前提とする行為と復元する行為とは同じ行為なのだろうか、それとも前提とされる権力と復元される権力の間には不連続があるのか?主体がそれ自身の従属の状態を再生産するまさにその行為においてそのことを考えてみると、主体は一時的にそれらの状態に属しており、厳密に言うと、再生の要求に属している脆弱性に基盤を置いていることを例証している。(The Psychic Life of Power: Theories in Subjection p.12)
また:
そのような問いはここでは答えることができない、しかしそれらは良心の問いにおそらく先立つ思考への道のりを示唆してくれる。その問いとは、言いかえれば、スピノザ、ニーチェ、そして最近では、ジョルジオ・アガンベンの心を奪った問いである。どのようにわたしたちは欲望を構成的な欲望として理解するのだろうか?そのような説明の中に良心と呼びかけ interpellation を位置づけなおしながら、わたしたちは他の問いを付け加えることもできる。どのようにそのような欲望は単数の法によってだけでなく、たとえば社会的で「ある」という感覚を保持するために従属に屈するというさまざまな種類の法によって搾取されるのか?
なぜバトラーはこのように厄介な、癪に障る書き方を好むのだろうか?その様式はまったく前例がないわけではない。もちろんそれらのすべてではないが大陸哲学の伝統のある領域では、対等な者同士で議論する哲学者ではなく、不幸にもしばしば曖昧さによって人を魅了する哲学者をスターとみなす傾向がある。あるアイデアが明確に述べられた時、結局のところ、その思想は著者から切り離してもかまわないものになる。人はアイデアとそれを考え付いた人を引き離して、そのアイデア自体を論議することができる。アイデアが神秘的なままであり続ける時(実際は、それらがきちんと主張されていない時)、人はそのアイデアを考え出した権威に依存したままになる。彼もしくは彼女の膨れ上がったカリスマによって、思想家は留意されるのだ。不安な状態にいて、次の動きを切望するのだ。バトラーがその「考えるための方法」に従ったら、彼女はいったい何を言うだろう?教えてくださいよ、主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということってどういう意味なんですか?(今までわたしが見たところにいると、この質問への明確な答えはいまだ現れそうもない)。人は、たいへん深淵な思索をおこなっているため、なにごとについても軽々しい表現をつかわない知識人だという印象をうける。そのためその人はその深みの畏敬のためにそれが最後にそうするために、待つのだ。
こういったやり方で、曖昧さはいかにも重要だというアウラをつくりだすのだ。それはまた他の関連する目的のためにも役立つ。曖昧さは読者をいためつける。いったい何が起こっているのかわからないのだから、読者はなにか重大なことが起こっているのにちがいない、なにかとっても複雑な思考が進行しているのだろうと思いこまされる。しかし実際には、そこにあるのはたいていはよく知られた考え、あるいは古くさい考えでしかな い。そしてそれはわれわれの理解になにか付け加えるには、あまりにもシンプルであまりにもぞんざいに述べられている。バトラーの本の痛めつけられた読者が勇敢にもそのように考えることを会得したなら、彼らはこれらの本の中の着想は薄っぺらいものであることがわかるだろう。バトラーの考えが明確に簡潔に述べられたなら、さまざまな対比や議論がなければ、それらは役立つものでないことがわかり、そしてそれらがとくに新しいものでないこともわかるだろう。それゆえ曖昧さは思考と議論の現実の複雑さの不足によって残された空虚を埋めているのだ。
昨年バトラーは、『哲学と文学』誌が後援する「今年の悪文」賞の最初の受賞者となった。受賞作を下に引こう。
資本が社会関係を比較的均一な方法で構築すると理解する構造主義の説明から、権力関係は反復、一体化、再分節に影響を受けるとするヘゲモニーの観点への移行は、時間に関する疑問を構造の思考にもたらした、そしてそれは構造的な全体性を理論的対象として扱うアルチュセールの理論のひとつの形態から、構造の偶然の可能性の洞察によって、新たにされたヘゲモニーの構想が、権力の再結合の偶然の場と戦略と密接な関係のあるものとされつつ、創始されるべつの形態への転換を特徴づけた。
さて、バトラーはこう書いてもよかった。「マルクス主義者の説明、すなわち社会関係を構築する中心的な力として資本に着目するものは、そのような権力の作動をすべての場所で均一であるかのように描いている。それに対して、アルチュセールの説明は、権力に焦点を合わせ、権力の作動を時によって移行し、変化に富むものとして把握している」と。むしろ、彼女は饒舌を好み、その饒舌は彼女の散文を判読するために読者の多大な努力を払わせ、読者を主張の正しさを判定するためにほとんど気力が残らない状態にしてしまう。受賞発表の際、機関紙の編集者は、「おそらく不安を引き起こすようなこのような記述の曖昧さが、南オレゴン大学のウォレン・ヘッジズ教授をしてジュディス・バトラーを『おそらくは地球上でもっとも頭のいい十人のうちの一人』と評せしめたのだろう」と発言している。(このように偶然にもひどい作文というのは、決してジュディス・バトラーが関わっている「クィア・セオリー」の理論家たちによくあるというわけではない。たとえば、デイビッド・ハルペリンはフーコーとカントの関係と、ギリシャの同性愛について、哲学的な明確さと、正確な歴史的事実でもって、書いている。)
バトラーは哲学者であることによって、文学研究の世界で威厳を得ている。多くの崇拝者が彼女の文章の書き方を哲学的な深淵と結びつけている。しかし人は結局のところそれが、詭弁法や修辞法という近しいが敵対する伝統よりも、ほんとうに哲学的伝統に属しているのかどうかを問うべきである。ソクラテスが雄弁家やソフィストがやっていることから、哲学を区別して以来、それはいかなる反啓蒙主義的な手先の早業を抜きにした議論と反論をやりとりする等しい人びとの談話となってきたのだ。このやり方では、ソクラテスが断固として主張するには、哲学は魂への配慮を示すのであり、一方で他の人を巧みに操る手法は、無礼を示すだけである。ある午後、長い飛行機の旅の途上、バトラーに疲れ果てて、わたしはパーソナル・アイデンティティに対するヒュームの見地に関する学生の論文草稿を見始めた。わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。彼女は明確には書いていなかったが、わたしは考えた。楽しみつつ、ちょっと誇りもあった。そしてヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう。何と気立てのよく、読者の知性を配慮してくれていることだろう、みずからが確信のないことをさらすという代償さえ払っても。
III
バトラーの主要な着想は、ジェンダーは社会的な作りものであるというもので、それは1989年に『ジェンダートラブル』で最初に発表されてから彼女の本のいたるところで繰り返されている。なにが女性で、なにが男性かというわたしたちの認識は自然の中に永久に存在するなにかを反映しているということはまったくない。その代わりに、それらは権力の社会関係を埋め込んだ慣習に由来しているのだ。
もちろん、この考えには新しいことはなにもない。ジェンダーの脱自然化はとっくにプラトンにも見られ、そしてジョン・スチュアート・ミルの議論によって後押しされた。ミルは『女性の解放』(1861=1957訳)で「現在女性の本性と言われているものは、まったく人工的なものだ」と主張している。ミルは「女性の本性」に関する主張が権力のヒエラルキーに由来し、そして支えられていると考えた。女性を隷属させるのに役立つものはなんでも、女らしさとされているのだ。つまりは、ミルが言ったように、「女性の精神を隷属させる」ようになっているのだ。封建主義と同様、家族とともに、本性のレトリックは、それじたい隷属の原因として役立つ。「女性の男性への隷属は普遍的な慣習であり、それがどのような逸脱も当然のように不自然にするのだ。しかし、これまで支配力をもつ人々にとって自然に映らないような支配などといったものがあるだろうか?」
ミルは最初の社会構築主義者ではまったくないだろう。怒り、強欲、ねたみ、そして私たちの人生の他の目立った特徴についての同じような構想は、古代ギリシアからの哲学の歴史の中にありふれたものである。またミルの社会構築というよくある考えのジェンダーへの応用はさらなる豊かな発展を必要だし、いまだ必要としている。彼の示唆的な発言はジェンダーの理論にはなっていなかった。バトラーが姿を現すずっと前に、多くのフェミニストたちはこのような説明を明瞭にすることに貢献していたのだ。
1970年代から1980年代に発表した論文のなかで、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、性役割の伝統的な理解は公的領域における男性の支配に加えて、性的領域における支配をを続けることを確実にするやり方だと論じた。彼女たちはミルの洞察の核をヴィクトリア朝時代の哲学者がそれに関してほとんど言っていない生活の一領域に持ち込んだ。(もっとも何も言っていないというわけではない。1869年にミルはすでに婚姻内のレイプを刑事罰の対象にできないことは、女性を男性用のツールとし、また彼女の人間としての尊厳を否定することだと理解していた。)バトラー以前に、マッキノンとドウォーキンはフェミニストの幻想に立ち向かっており、それは女性の牧歌的な自然のセクシュアリティが「解放される」必要があるというものだった。彼らは社会的な力はとても深くいきわたっているために、わたしたちは「本性」という考えを利用できるなどと、想定してはならないと論じた。バトラー以前に、彼らは男性が支配している権力の構造は女性を周縁化し、隷属させているだけではなく、同性の関係を選びたいとしている人びとも周辺化し隷属させているのだということも強調した。マッキノンとドゥオーキンは、ゲイやレズビアンに対する差別は、よくあるヒエラルー的に秩序づけられた性役割を強制するものであることを理解していた。それゆえ彼らはゲイやレズビアンに対する差別も、性差別の一形態として把握していたのだ。
バトラー以前に、心理学者のチョドロウがどのようにジェンダー差が世代を超えて複製されているか、についての詳細で説得力のある説明をした。彼女は、こうした複製のメカニズムが遍在していることから、人工的なものなのがほぼ遍在しているのだということが理解できるようになる、と論じている。バトラー以前に、生物学者の、アン・ファウスト・スターリングは、慣習的なジェンダー差の自然さを擁護するとされている実験研究の綿密な批判を通して、社会的な権力関係が科学者の客観性を危うくしていることを示した。『ジェンダーの神話』は彼女が当時の生物学で発見したことへの適切なタイトルであった。(他の生物学者や霊長類研究者もこの企てに貢献している。)バトラー以前に、政治理論家のスーザン・モラー・オーキンは、家庭における女性のジェンダー化された宿命をつくりあげる上で、法と政治思想がどのような役割を果たしているかを探究した。そしてこのプロジェクトも、法と政治哲学で多数のフェミニストによってさらに推し進められている。バトラー以前に、ゲイル・ルービンの『女たちによる交通』での従属に関する重要な人類学的説明は、ジェンダーの社会組織と権力の非対称性の間の関係について有益な分析を提供した。
じゃあバトラーの研究はこの豊饒な論文群にいったいなにを付け足したのだろうか?『ジェンダー・トラブル』と『問題なのは身体だ』〔未邦訳〕は、生物学的な「自然な」性差の主張に対してもまったくなにも詳しい議論を含んでいないし、ジェンダー複製の機構の説明もなく、家族の法的な形成についての説明もなく、それどころか法改正の可能性については詳しくはまったくふれられていない。それでは、バトラーは、これまでのフェミニストの論文では十分になさていないような何かを提示したのだろうか?それは何だろうか?比較的独自の主張の一つは、わたしたちがジェンダー差の人工性を認識し、それらが独立した自然的な事実の表現であると考えるのを控える時、わたしたちは同時にジェンダータイプが、三つや五つやあるいは不定の多数ではよくなく、それが二つである(ふたつの生物学的な性と相関連して)ということに従わざるをえない理由など、どこにもないことを知る。バトラーはこう書いている。「構築されたジェンダーの身分が本質的に生物学的な性から根本的に独立に理論化されるのであれば、ジェンダーそれじたいは自由に浮遊するごまかしとなる」。
バトラーにとって、この主張からは、わたしたちは自由に好きなようにジェンダーをつくりかえられるのだという意味ではない。それどころか、わたしたちの自由にはきびしい制限があると彼女は考えるのだ。彼女の主張によれば、「社会の背後に手つかずの自己なるものがあって、社会をとりさってみれば、いつでも純粋無垢で解放された姿が現れるだろう」などとウブな想像をするべきではないのだ。「〔社会と〕一体化する前に自我があるわけでもなく,さまざまな力がぶつかり合うこの文化的な場に参入する前から「〔1人の人間としての〕一体性」を保持している人などいない。できるのはただ〔すでにある〕ツールをそこにある場で取り上げるしかないのだ、そして「とりあげる」その場はツールそのものによって可能にされているのだ」と。しかしながら、バトラーは、古いカテゴリーの上手なパロディーによって、わたしたちはある意味新しいカテゴリーをつくることができると主張する。それゆえ彼女のもっとも知られた着想は、パロディー的なパフォーマンスとしての政治という構想であり、それは、(きびしく制約された)自由という感覚から生じており、さらにこの感覚は、人のジェンダーについての考え方は生物学的というよりは社会的な力によって形づくられてきたのだ、ということを認めることから来ている。わたしたちは、わたしたちが生まれおちた権力の構造の反復をするよう運命づけられているが、しかし少なくともそれらを笑いものにすることはできるのだ。そして笑いものにすることのいくつかはもともとの規範への転覆的な攻撃となるのだ。
ジェンダーがパフォーマンスであるという着想はバトラーのもっとも有名な着想であり、そしてより詳しく精査するために、しばし立ち止まって、もっと詳しく検討してみる価値がある。彼女はその考えを直観的に『ジェンダー・トラブル』で導入しており、理論的にはなにも前例を引き合いに出していない。後に彼女は、彼女が演劇のようなパフォーマンスに言及していたということを否定し、そしてその代わりに彼女の考えを『言語と行為』におけるオースティンの言語行為の説明に関連づけている。オースティンが言う「遂行発話」の言語学的な範疇は、言葉の発話の一範疇で、それじたいが単独で主張ではなく行為として機能するものを指す。わたしが(適切な社会的状況で)「10ドル賭けるよ」か「ごめんなさい」か「誓います」(結婚式において)もしくは「この船に~と名づける」と発言する時、わたしは賭けること、謝罪すること、結婚すること、もしくは命名の儀式を報告しているのではなくて、それを行っているのだ。
ジェンダーについてのバトラーの同じような主張は自明のことではない、なぜなら問題となっている「遂行発話」は言語に加えてジェスチャー、服装、動き、そして行為を伴うからだ。オースティンの主張は、ある特定の種類の文のかなり専門的な分析に制限されているのだから、彼女の着想を発展させるのに実際べつだん役に立たないものだ。それどころか、彼女は彼女の見地を劇場と結び付ける読みを断固として拒絶しているとはいえ、けれどもオースティンについて考えることよりも、ジェンダーに関する「リヴィング・シアター」の転覆的な作品について考えることは、はるかに彼女の着想をはっきりさせているように見える。
またバトラーのオースティンの扱いもあまり信頼できるものではない。彼女は奇怪な主張をしている。オースティンの文章のなかで、結婚式が遂行発話の数多い例の一つとなっていることは、「社会的絆の異性愛化は、名付けるということそのものを生じさせるという言語行為の典型的形態なのである」というものである。まさか!結婚というのは、賭けること、船に名前を付けること、約束すること、謝ることと同程度にオースティンの典型例となっているにすぎない。彼はある種の発言の形式的特徴に興味を持ち、そして彼の主張にそれらの発言の内容が重要性を持つと仮定する理由はわたしたちにまったく与えられてない。哲学者のありふれた例の選択に地を揺るがすかのような重要性をみるというのはたいてい誤りなのだ。実践的三段論法の解説にアリストテレスがよく例の低脂肪食を使うからと言って、鶏肉がアリストテレスの考える美徳の中心をなしているのではないか、などと考えるべきだろうか?もしくは、ロールズが実践的推論を解説するのに旅程を持ち出しているからと言って、「これをみれば『正義論』の狙いが私たちみんなに休暇旅行を与えることにあるとわかる」などと言うべきだろうか?
これらの奇妙なことは置くとして、バトラーの主眼はおそらくこれであろう。すなわち、ジェンダー化された仕方で行為し話す時、わたしたちはたんに世界にすでに定着した物事を報告しているだけでなく、わたしたちはさかんにそれを構成し、複製し、強化しているのだ。まるで男性や女性の「本性」があるかのように振る舞うことで、わたしたちはともにこれらの本性が存在する社会的虚構をともにつくりあげているのだ。男性や女性の本性などといったものは、我らの行いを離れては存在しない。わたしたちは、つねにそれがそこに存在するようにしているのである。と同時に、少し異なるやり方でこれらのパフォーマンスを行うことによって、すなわちパロディーのやり方で行うことによって、わたしたちはおそらくほんのちょっと壊すことができるのだ。
それゆえ、ヒエラルキーによって拘束されている世界の中で、行為能力(agency)が発現できるのは、性役割が形作られる瞬間たびに、その性役割に反対する小さな機会の中だけなのだ。わたしが女性らしさを行っていると分かった時、それをひっくり返し、あざけって、ちょっと違った仕方でやることができるのだ。バトラーの見方では、そのような反応的な発されたパロディーのパフォーマンスというのは、より大きな規模なシステムを決して揺るがすことはない。彼女は抵抗のための大規模行動や政治改革のためのキャンペーンをもくろんでいない。良くわかっている、ほんの少しの演技者によって行われる個人的行為だけを見据えているのだ。まるで下手な脚本をあてられた役者が悪いセリフを奇妙に言うことによって、脚本を転覆することができるように、ジェンダーについても同じなのだ。脚本は悪いままであるが、役者にはほんの少しの自由があるのだ。それゆえ、バトラーが『触発する言葉』で言うところの「アイロニックな楽観」への基盤をもっているのだ。
ここまでのところ、バトラーの主張は、比較的ありふれたものであるのだが、もっともらしく興味深くさえある。もっとも読者は、変革の可能性についてのバトラーの狭い見方に不安になるだろうが。しかしながら、バトラーはこれらのジェンダーに関するもっともらしい主張に、二つのより強くそしてより論争的な主張を付け加える。第一は、自我をつくりだす社会的力に先だってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しないということだ。もしこのことが赤ちゃんはジェンダー化した世界に生まれおち、その世界では瞬時に男性と女性が複製され始めるものなのだとしたら、この主張はもっともらしい、しかし驚くべきものではない。ずいぶん前から実験によって、赤ちゃんが抱かれたり話しかけられる仕方や彼らの感情が説明される仕方が、大人が信じている赤ちゃんの生物学的性によって形作られている、示している。(同じ赤ちゃんが、男の子だと大人によって信じられた時は、弾むようにあやされ、女の子だと大人によって信じられた時は、抱きしめられる。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと考えられているときは、怖がっているのだと説明され、男の子だと考えられているときは、怒っているのだと説明される。)バトラーはこれらの経験的な事実にまったく興味を示さない、が経験的な事実は彼女の主張を擁護するのだが。
しかし、もし赤ちゃんが、まったく自力で活動できなず、ジェンダー化された社会での赤ちゃんの経験にある意味で先行する傾向も、能力もなにも持たばない状態で生まれて来るということを、彼女が意味しているのであれば、これはまったくもっともらしいことでなく、経験的に裏付けることは難しい。バトラーはそのような裏付けを与えず、形而上学的抽象の高みから降りてこようとはしないのだ。(それどころか、彼女は最近のフロイトに関する論文でこうした考えを否定さえしているようである。フロイトを用いて、最低限ある前社会的な衝動と傾向があるということがその文章によって示唆されているが、いつも通り、この思考方針は明確に発展されていない。)さらに、そのように誇張された前文化的な行為能力(agency)の否定は、チョドロウたちが、良い方向への文化的な変化を説明しようとした時、用いたリソースの幾分かを捨て去ってしまっている。
バトラーは結局、わたしたちは行為能力(agency)の一種を持っていて、その行為能力(agency)とは変革と抵抗を行う能力なのだと言いたいはずだ。しかしながら、もし、パーソナリティーのなかに、まったく権力の生産物ではない構造などないとしたら、いったいその能力とはどこから来たのか?バトラーにとってこの質問に答えるのは不可能ではないだろう。しかし、今までのところ、人間は最低限ある前文化的な欲望――食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求――を持っており、またパーソナリティにおけるこうした構造は道徳的政治的行為能力(agency)としてのわたしたちの発達の説明に極めて重大だと信じる人びとを納得させるようなやり方では、もちろん彼女は答えていない。読者はそのような見方のもっとも強力な形態にバトラーが取り組むのを見たいと思い、そして、明確に専門用語抜きで、彼女がそれらをなぜ、どのように拒絶するのか、何を言うのか聞きたいだろう。人は現実の幼児について彼女が語ることを聞きたいだろう。幼児はその誕生から、文化の型の反復に影響を与える、奮闘の構造を明示しているように見えるのだから。
バトラーの二つ目の強力な主張は、身体それ自体、そしてとくにふたつの生物学的な性の区別もまた社会的構築なのだ、というものだ。彼女は男性と女性がどうあるべきかという社会規範によってさまざまに身体が形作られているということだけを言っているのではない。彼女は生物学的な性のふたつに分割することが基礎的であって、社会を順序立てる鍵とされているという事実自体が、身体の現実によっては与えられない社会的な考えであるということをということも言っているのだ。ではこの主張はなにを意味し、そしてどのくらいもっともらしいのか?
フーコーの両性具有研究についてバトラーが簡単に触れているところでは、人がその箱にはまろうとはまるまいと、すべての人間をこれか、その箱に分類しようという社会の心配性のこだわりをわたしたちに示してくれる。しかし、もちろん、それは多くの確定できない例があることを示しはしない。さまざまな多くの身体類型をもっていてもよかったのではないか、必ずしも男女の二分法をもっとも目立ったものとして採用する必要はなかったのではないか、と彼女が主張するのは正しい。そしてだいたいにおいて、彼女が科学的研究に則ったとされる生物学的な身体的な性差の主張は文化的偏見の投影だと主張することも正しい。しかしながら、バトラーは、ファウスト・スターリングの綿密な生物学的分析と同じくらい説得力のあるものを示せていない。
しかし、権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる。わたしたちは鳥の、恐竜の、ライオンの身体を持っていてもよかったかもしれない、しかし現実にはそうではない。そしてそうではないということがわたしたちの選択を形づけているのだ。文化はわたしたちの身体存在のある側面を形作ったり、また再び形作ったりすることができる。しかし、すべての側面を形作るというわけではないのだ。「飢えと渇きで苦しんでいる人に、議論と信念によってその人がそれほど苦しんでいないと思わせるのは不可能だ」と昔セクストゥス・エンピリクスが述べている。このことはフェミニズムにとっても重要な事実である。なぜなら、女性の栄養に関する需要(そして妊娠時と授乳期の特別な需要)はフェミニストの重要なトピックであるからだ。性差が問題になっている時さえ、すべてを文化だと書き捨てるのはもちろん単純が過ぎている。またフェミニストはそのようなすべてを一気に掃きすてるような身ぶりをすべきではない。たとえば、走ったりバスケットボールをしたりする女性は、男性支配による想定の産物である女性の運動能力に関する神話の打破を喜んで迎えたのは正しかった。しかし彼女たちは女性の身体に特化した研究を要求したのも正しかった。そうした研究は女性のトレーニングに関する必要と故障に関するよりよい理解を醸成してきている。要するに、フェミニズムが求めそして時々に得てきたものは身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのだ。そしてバトラーのすべての問題から高くとまっている抽象的な見解は、わたしたちが求めていることを一つももたらさない。
IV
ここまで見てきたバトラーのいちばん興味深い主張を、仮に受け入れたとしよう。それは、ジェンダーの社会的構造が遍在しているが、転覆的なまたパロディー的な行為によってそれに抵抗できるというものだ。しかしふたつの重要な問いが残る。なにが抵抗されるべきなのか、そしてどういう根拠で抵抗されるべきなのか?抵抗の行為というのは、いったいどのようなものなのか、そしてそれらを達成したらなにが起こると期待してよいのだろうか?
バトラーは、悪いものであって、抵抗する価値があると彼女が考えているものについていくつかの単語を使っている。例えば、「抑圧的な」もの、「従属させること」、「圧迫的な」ものである。しかし彼女は、例えば、バリー・アダムの魅力的な社会学的研究に見られるような抵抗の経験的な議論をなにも提出しない。そう、アダムが『支配の存続』(1978)〔未邦訳〕において、黒人、ユダヤ人、女性そしてゲイやレズビアンの従属と彼らを圧迫する社会権力の諸形態態と格闘する方法を探究したような論は。そしてわたしたちの手助けとなる抵抗や圧迫の概念を全く説明しないため、わたしたちはまったくもってなにに抵抗すべきなのかわからなくなる。
この点について、バトラーは彼女以前の社会構築主義のフェミニストとは、たもとを分かつことになる。初期の社会構築主義のフェミニストは、非階層性、平等、尊厳、自律、といった概念を使い、現実の政治の目標を示すために、それらの概念を手段というよりも目標として扱ったのだ。彼女はいかなる積極的な規範的考えも練り上げようとしない。それどころか、フーコーと同様バトラーは、本質的に専制的だ、という理由で人間の尊厳のような規範的概念や、人間性を目標として扱うことに断固として反対するのだ。彼女の見方では、わたしたちは、政治的な尽力に参加する人たちに「こうするべき」と規範を示すよりも、そうした政治的な尽力からおのずともたらされるものを座して待てばいい、ということになる。彼女が言うには、普遍的なそして規範的な概念は、「同じものというしるしのもとに植民地化する」のだ。
結果を座して待つという考え方――言いかえれば、この道徳的無抵抗――はバトラーにおいては、もっともなように見える。なぜなら、彼女は暗黙のうちに、なにが悪いのか――ゲイとレズビアンに対する差別、そして女性の不公平でヒエラルキー的な扱い――について(いちおう)一致し、なぜそれらが悪いのか(というようなこと)についてさえ一致する、同じ考えを持つ読者を想定しているからだ(その悪いとされる考えとは、ある人を他の人びとに従属させ、そしてその人たちが持っているべき自由を享受させないということである)。しかしこの想定をとりさってみると、規範的側面の不在は重大な問題となる。
わたしがしているように、現代の法科大学院でフーコーを教えてみればよい。そうすればすぐに、転覆というのがさまざまな形態をとることが分かるだろう。転覆のすべての形態が、バトラーとその支持者に友好的というわけではない。察しの良いリバタリアンの生徒が言ったように、「わたしはなぜこれらの着想を税制に抵抗するために、あるいは反差別法に抵抗するために、またおそらく市民ミリシアに参加することにさえも用いられないのか?」そこまで自由を好まない人は、クラスでフェミニストの発言をばかにするという転覆的なパフォーマンスを行うことができるし、レズビアンとゲイの法学生組織のポスターを引きちぎるという転覆的なパフォーマンスを行うこともできる。これらのことは実際に起こっている。それらはパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、彼らは大胆不敵で良い、というわけではないのだろうか?
さて、バトラーやフーコーには見ることのできない、それらの問いへのすばらしい答がある。こうした問いにこたえるためには、人間が持つべき自由と機会に関する議論を要し、そして、手段としてではなく目的として人間を扱うというのは、社会制度にとってどういうことなのか、ということに関する議論も要する。手短に言えば、社会正義と人間の尊厳に関する規範的な理論が議論されるべき。わたしたちの普遍的な規範に謙虚であり、圧迫された人びとの経験から学ぶべきだと言うことと、わたしたちはいかなる規範もまったく必要としない、と言うのはとてつもなくかけ離れたことである。バトラーとは違ってフーコーは、すくなくとも後期の論文においてこの問題をつかんでいた兆候を示している。そして彼の論考は、社会的な圧迫の本質とそれが与える害についての熾烈な感覚によって駆り立てられている。
考えてみてほしい、人格的な徳として理解される正義は、バトラー的な分析においてぴったりジェンダーとおなじ構造を持っている。それは生まれながらのものでも、「自然な」ものでもない。それは反復されるパフォーマンスによってつくりだされ(またはアリストテレスが言ったように、わたしたちは徳を行うことによって、徳を修得するのである)、そしてそれはわたしたちの傾向性を形作り、また一部の傾向性の抑圧を強要するのだ。これらの儀式的なパフォーマンスとそれらに付随する抑圧は社会的権力の取り決めによって施行されるのだ。遊び場を一人占めしたい子どもがすぐわかることだ。それに、正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。わたしたちは覚えておくべきなのだが、フーコーはホメイニを応援した、なぜいけないことがあろうか?ホメイニの革命は、もちろん抵抗であり、そしてまったくのところそのような抵抗が、市民権と市民的自由への闘争より価値がないと、われわれに告げることは、フーコーのテクストのどこにもないのだ。
それゆえ、バトラーの政治の考えの中心は、空虚がある。この空虚さは人びとを解放してくれるもののようにみえる。なぜなら、読者が暗黙のうちに人間の平等や人間の尊厳の規範的な理論によって、その空虚さを埋めるからだ。しかし間違いは一つも残さないようにしておこう。フーコー同様、バトラーにとって、転覆は転覆なのであり、そしてそれは原則としてどの方向に行くこともできるのだ。それどころか、バトラーのあまりに単純で中身のない政治は彼女が奉じているまさにその大義ゆえに、とても危険なのである。バトラーのお友だちは、抑圧的な異性愛の性的規範を公然と非難する転覆的なパフォーマンスに従事したがるが、納税順守の規範から、反差別の規範から、仲間の学生のまともな扱いから逃避する転覆的なパフォーマンスに従事したいと思っている人はバトラーのお友だち以上にもっとたくさんいるのだ。そのような人びとへ向けて、わたしたちは何が悪いかを示す、公正さ、品位、尊厳という規範があるために、単純にあなたがしたいように抵抗することはできないのだと言うべきである。しかしそれゆえに、わたしたちはそれらの規範をはっきりと表現しなければならない。そしてこれがバトラーが拒否しているものなのだ。
V
バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのだなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。
もしバトラーがただ生物学的性がまったく重要な問題を生じさせない牧歌的な世界を空想する危険性を警告しているだけなのだとしたら、それは賢明なことだ。しかし頻繁に彼女はさらなる言及をする。彼女はわたしたちの社会において、レズビアンやゲイ男性の周縁化し、女性に対するいまだ途切れない不表どうを保障している制度的な構造が根本的に変化することは決してないと示唆するのである。ゆえに、わたしたちの最善の策は、それらをあざけり、そしてそれらの内部に個人的な自由を味わえるちょっとした場所を作りあげることだけなのだ。「侮辱的な名前で呼ばれて、わたしは社会的な存在になる、そしてわたしの存在にある種のさけえない愛着を抱いているがために、ある種のナルシシズムが、存在を与えてくれる言葉をすべて捉えてしまうので、わたしを社会的に構成してくれるがゆえに、わたしを傷つける用語を受け入れるようになる」と。言いかえてみよう:わたしは自分に屈辱を与える構造から逃れでるいことができない。そうしようとすれば、自分が存在しなくなってしまう。わたしができる最善のことは、からかうことであり、人を従属させようとする言葉を皮肉な仕方で使うことだ。バトラーにおいて、抵抗とはつねに個人のこと、およそ私的なことであり、皮肉などふくまない真面目な、法的、制度的変革への組織だった公的な活動はまったく含まないものとして想像されているのである。
これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。また女性の人生を形作る制度的な構造が変化してきているというのも事実である。いまだに欠陥はあるが、レイプに関する法は少なくとも改善してきている。セクシュアル・ハラスメントに関する法は、以前は存在しなかったが、今は存在している。婚姻は、女性の身体に対する専制君主的な支配を男性にもたらすとはもはやみなされなくなった。これらのことは自分たちの解決策としてパロディー的なパフォーマンスを取らないだろうフェミニストたちによって変革されてきた。変革を成し遂げたフェミニストたちは権力が悪しきものである場合に、それは権力は正義の前に屈するべきだし、屈するであろうと考えていたのだ。
バトラーはそのような望みを控えるだけでなく、彼女はその不可能性を好むのだ。彼女はいわゆる権力の不動性を夢想することに楽しみを見出し、そして彼女はそのような状態にあるべきだと説得された奴隷の儀式的な転覆を想像する。彼女はわたしたちにこういう。わたしたちは全員、わたしたちを抑圧する権力構造をエロチックにしており、そしてそれゆえわたしたちは権力構造の中でのみ性的快楽をえることができるのだと――これらは『権力の心的な生』の中心的な主張にあるものである。これらゆえに、彼女は持続的な具体的または制度的な変革よりも、パロディー的なセクシーな転覆的行為を好んでいるようにみえる。現実の変革は、性的な満足を不可能にしてしまうほど、わたしたちの精神の根っこを掘り起こしてしまうのだ。わたしたちのリビドーは悪く隷属させる力の産物であり、それゆえ必然的に構造においてサドマゾヒスト的なのである。
さて、転覆的なパフォーマンスはそれほど悪いものでないかもしれない。もしあなたがリベラルな大学で有力な終身雇用資格を得た学者ならの話だが。しかし象徴的なものの重視、すなわち、バトラーの尊大な生活の物質面の無視が、致命的な無知になるのがこの点である。腹をすかせ、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされている女性にとって、それがどれほどパロディー的であったとしても、飢え、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされるという状況を再現することは、魅力的なことでも、解放することでもない。そのような女性は、食料、学校、投票そして、自分の身体の一体性を選ぶ。彼女らが、サドマゾヒスト的に悪い状態に戻ることを切望していると信じる理由は一つもない。もし従属・非従属関係の性的魅力なしに生きることができない個人がいるとしても、哀しいことに思えるが、それはわたしたちの関与すべき問題ではない。しかし、絶望的な状態にある女性たちに向かって有名な理論家が、人生は彼らに束縛を与えるだけであると伝えたならば、彼女は無慈悲な嘘を伝えている。邪悪さにこびへつらう嘘を伝えているのであり、その邪悪さに実際以上の権力を与えてしまっているのだ。
〔本論が書かれた当時の〕バトラーのもっとも最近の著作である『触発する言葉』では、ポルノグラフィとヘイトスピーチを含む法的論争についての彼女の分析が提出されている。その本では、正確に彼女の無抵抗主義がどこまで拡張されたのかを正確に示してくれている。なぜなら彼女は法的変革が可能で、それがすでに実際におこなわれているときに、わたしたちは法的改革がなくなるのを祈念すべきであるとすすんで言おうとするのだ。それは抑圧された人々がサドマゾヒスティックなパロディーの儀式を演ずるための空間を保持しておくために。
言論の自由に関する論考として、『触発する言葉』は良心のかけらもなく、ひどい本である。バトラーは修正第一条に関する主要な理論的説明にまったく意識を払わないし、言論の自由に関する理論が考慮すべき幅広い判例についても同様である。彼女は法的に馬鹿げた主張をする。例えば、彼女は言論において保護されないとされている唯一の言論形態は、以前から言論というよりは行為として規定されている言論だと述べている。(実際のところ、さまざまな言論があるのだ。これらの言論形態とは、嘘や誤解を招きかねない広告から、名誉毀損、そして現在わいせつなものとして規定されている表現などである。これらはそれにもかかわらず、修正第一条の保護を認められていないのだ)。バトラーは、わいせつな表現は「けんか言葉」と同等のものとして判断されてきたとさえと誤った主張をする。バトラーは、修正第一条の対象とされるべき、現在保護されていないさまざまな言論についての新しい読みを提示するが、バトラーがそれらを裏付ける主張を持っているわけではないのだ。彼女は、様々な判例があること、もしくは彼女の見地が広く受容されている法的な見地ではないということに気が付いていないだけなのだ。法に興味のある人で彼女の議論をまともに受け取る人はいないだろう。
しかしとにかくヘイトスピーチとポルノグラフィに関する議論からバトラーの立場の核を取り出してみよう。それはこうである。ヘイトスピーチとポルノグラフィの法的な禁止は、問題がある(結局、彼女は明確にそれらに反対しているというわけではないのだが)。なぜなら、そのような言論によって傷つけられた人びとが、抵抗を行うことができるような場を狭めるからというものである。このことによって、バトラーは違反が法的なシステムによって対処されるであれば、非公式的な抗議のための機会がその分少なくなると訴えているように見える。そしておそらく、違反がその違法性のために珍しくなれば、わたしたちがその存在に抗議する機会が少なくなってしまうと訴えているのだ。
さて、それはそうだろう。たしかに法律は抵抗する場を狭めることになる。ヘイトスピーチとポルノグラフィは特に込み入った主題であり、フェミニストたちが意見を異にするのは無理もない(それでも、自らの主張と対立する見地について、人は正確に述べるべきである。バトラーによるマッキノンの説明は丁寧になされているとは言い難い。バトラーはマッキノンが「ポルノ・グラフィーを禁止する条例」を支持していると言い、そしてマッキノンがはっきりと否定しているにもかかわらず、それが検閲の一形態を含むと示唆している。バトラーはマッキノンが実際に支持していることは、ポルノグラフィによって傷つけられた特定の女性たちはその製作者と、それの配給業者を訴えることができるとする、被害に対する民事賠償措置であるとどこにも書いていない)。
バトラーの論はヘイトスピーチとポルノグラフィの事例をはるかに超えた含意を持っている。それはたんにこれらの領域において無抵抗主義を支持するのではなく、より一般的な法的無抵抗主義を――それどころか、ラディカルなリバタリアニズムを――支持しているようである。つまりこういうことなのだ。すべてのものを廃止しよう。建築基準法から、反差別法から、レイプ法まで。なぜってそれらは被害を受けた借家人や差別の被害者、そしてレイプされた女性が彼らの抵抗を行うことができる空間を狭めてしまうから。さて、これは、ラディカルなリバタリアンが建築基準法や、反差別法に反対するために使う議論と同じものではない。リバタリアンでさえ、レイプ法の一歩手前で線引きをしているのだ。しかし、〔バトラーとリバタリアンの〕結論は近づいている。
もし万が一バトラーが自らの議論は言論だけに関連しているのだと返答したら(そしてバトラーが有害な言論と行為を同じものとしていることを考えてみれば、そのような制限ができるという理由はバトラーのテクストには一つもない)、わたしたちは言論の分野で返答することができる。虚偽の広告と免許なしの医療に関する助言を禁じる法律を取り除いてみよう、なぜなら害された消費者と手足を切断された患者が抵抗を行うための空間を狭めてしまうから!さて、もしバトラーがこれらの拡張を承認しないのだとしたら、彼女はこれらの事例から彼女の事例を分かつ議論をする必要があり、そして彼女の立場が彼女にそのような区別を許すかどうかは定かではない。バトラーにとって転覆の行為はとてもうっとりするもので、とてもセクシーで、世界が実際によりよくなると考えるのは、悪夢なのである。なんと平等はつまらいのだろう!拘束がなければ、喜びなどない。このように、彼女の悲観的でエロティックな人間学は道徳観念のない無政府主義の政治を擁護するだけである。
VI
バトラーの論文に固有の無抵抗主義を考慮してみると、わたしたちはフェミニストの抵抗の模範例として、ドラァグと異性装にバトラーがなぜ魅了されているのかを理解するいくつかの手がかりを得る。バトラーの信奉者は彼女のドラァグについての説明が、そのようなパフォーマンスは女性が大胆にそして転覆的になるための方法であると示唆していると理解している。わたしはバトラーによってそのような読みが拒絶されたという試みを知らない。
しかしここではいったい何が起こっているのか?男性的に装った女性というのは新しい像ではない。それどころか、男装した女性が19世紀には比較的新しかったとしても、別の意味でずいぶん古くかった。なぜならば、そうした女性はたんにレズビアンの世界において現存する男性-女性社会のステレオタイプとヒエラルキーを複製していたからだ。こう尋ねてもいいだろう。いったいこうした領域でいったいなにがパロディー的転覆になっているのか、裕福な中産階級がそれを好んで受けいれているのはどういうことなのだろうか?ドラァグにおけるヒエラルキーとははやっぱりヒエラルキーではないのか?そして支配と従属は、女性がどのような領域でも果たさなければならない役割であり、そ従属してなければ、男性的に支配しているということになる、というのは実際のところ事実なのだろうか?
手短に述べれば、女性にとって異性装は使い古されてふるぼけた脚本――バトラー自身がわたしたちに述べるように――なのである。しかし、彼女はその脚本が、異性装者の抜け目ない象徴的な衣服に関する振るまいによって、転覆的で新しくされているということを、わたしたちにわからせてくれるかもしれない。しかしわたしたちは再びその新しさと、そして転覆性さえをも疑問に思わなければならない。安全でアカデミックな快適さ態度から発言する、アンドレア・ドウォーキンによる(彼女の小説『償い』における)バトラー的でパロディー的なフェミニストのパロディーを見てみよう。
悪いことが起きたという観念は教義のプロパガンダにすぎず、女の精神を萎縮させるものである。……女性の人生を理解するためには、快 楽や(時には)苦痛、選択や(時には)拘禁の中に隠された曖昧な要素があることを、絶対に見逃してはならない。私たちは、秘められた合図を見抜く目を養わ なければならないのだ。例えば洋服を見るとしても、洋服以上の意味、現代の対人関係の装飾とか、表面的な画一性の下に隠された反逆とかの意味を見抜かなけ ればならない。犠牲者なんてものは一切存在しないのだ。
バトラーの散文にほとんど似ていない散文の中で、この文章はバトラー風の文章のいくつかの想定上の筆者の両義性を捉えている。作者は、おなかをすかせ、文字も読めず、強姦され、打たれた女性の物質的な苦しみから、彼女の理論的な目を断固としてそむける一方で、冒涜的な実践に喜びを感じる。そこに犠牲者などはいない。ただ、合図が不足しているだけである。
バトラーは彼女の読者に、この現状の狡猾なものまねが人生が提示する抵抗のための唯一の脚本だと示唆する。それは残念ながらノーである。人生は、個人生活において人間らしくある多くの他の方法を提供しているし、そして伝統的な支配と屈従の規範を超えて、人生は多くの抵抗の脚本を提示する。そしてその抵抗は、個人の自己提示に自己陶酔的に焦点を合わせるわけではない。そのような脚本は、女性がじしんの身体をどう提示するか、そして女性の身体とジェンダー化された本性がどう提示されるかといったことをそれほど重視せずに、法律や制度を形成するフェミニストを(もちろん他の人も)含む。つまり、こうした脚本には、苦しんでいる人々のために働くということが含まれているのだ。
アメリカの新しいフェミニストの理論における最大の悲劇は、公的なコミットメントの感覚が失われたことだろう。この点では、バトラーの自己陶酔のフェミニズムはひじょうにアメリカ的であり、そしてバトラーがこの国でウケていることは、驚くことではない。アメリカは、成功した中産階級の人びとは、自己を陶冶することに焦点を置きたがり、他人の物質的状況を改善するようなかたちで思考することは好まれない。しかしながら、アメリカにおいてさえ、理論家たちが公共善に献身し、そしてその努力によって何かを成し遂げることは可能なのだ。
アメリカの多くのフェミニストはなお物質的な変革を援助する形で、またもっとも抑圧されている人びとの状況に答える形で理論化を行っている。しかしながら、だんだんと学界と文化的な傾向は、バトラーとその信奉者の理論化に代表される悲観的な浅薄さへ向かっている。バトラー的なフェミニズムは、さまざまな点で古いフェミニズムより手間いらずなものである。バトラー的なフェミニズムは大勢の若い才能のある女性たちに、彼女らは法律を改正すること、腹をすかせた人に食べさせること、物質的な政治に結び付けられた理論を通して権力を攻撃することに従事しなくていいと告げる。彼女らは大学内で安全に政治を行うことができるのだ。象徴的な水準にとどまりながら、言論とジェスチャーによって権力へ転覆的なジェスチャーをすることによって。これが、バトラー的な理論が言うには、政治的行動という手段によって、わたしたちに可能なまさにほとんどすべてなのであり、そして刺激的でセクシーではないか。ささやかだが、もちろん、これが望みのある政治なのだ。それはいますぐ自らの安全を犠牲にすることなく、なにか大胆なことができるのだと人びとに教授する。しかし、その大胆さというのは、すべてジェスチャーに関することなのだ。そしてこれらの象徴的なジェスチャーというのが、社会的な変革なのだと本当に示唆する限りにおいて、バトラーの理想はニセの望みを提示するだけだ。おなかをすかせた女性はこれによって満たされるわけではない、虐待された女性はこれによって保護されるわけではない、レイプされた女性はこれによって正義を実感するのではない、そしてゲイとレズビアンはこれによって法的な保護を達成するわけではない。
最終的に、朗らかなバトラー的な試みの中心には絶望がある。大きな望み、それは法や制度が平等とすべての市民の尊厳を守る、本物の正義が達成された世界への望みは、放逐され、おそらくは性的に退屈だとしてあざけられる。ジュディス・バトラーの瀟洒な無抵抗主義はアメリカで正義を実現する難しさへの反応としては理解できる。しかし、それは悪い反応である。それは邪悪さと協働している。フェミニズムはもっと多くのものを要求するのであり、女性はもっとよい扱いを受けるにに価するのだ。
[読書案内]
- Butler, Judith, [1990] 1999, Gender Trouble, Routledge。(=ジュディス・バトラー、1999、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社。)
- Butler, Judith, 1993, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of “Sex”: Routledge.
- Butler, Judith, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative: Routledge.=(ジュディス・バトラー著、2004、竹村和子訳、『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店。)
- Butler, Judith, 1997, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection: Stanford University Press.(=ジュディス・バトラー、2012、佐藤嘉幸・清水知子訳、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』月曜社。)
- Chodorow, Nancy, 1978, The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender: University of California Press.(=ナンシー・チョドロウ著、1981、大塚光子・大内菅子訳、『母親業の再生産』新曜社)
- Dworkin, Andrea, 1900, Mercy: Arrow.(=アンドレア・ドゥオーキン、1993、寺沢みづほ訳、『贖い』青土社。)
- Fausto-Sterling, Anne, [1985]1992, Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, New York: Basic Books.(=アン・ファウスト・スターリング、1990、池上千寿子・根岸悦子訳、『ジェンダーの神話―「性差の科学」の偏見とトリック』 工作舎 。)
- Mill, John Stuart, 1869, The Subjection of Women.(=ジョン・スチュアート・ミル、1957、大内兵衛・大内節子訳、『女性の解放』岩波書店。)
- Rawls, John, [1971]1999, A Theory of Justice Revised Edition: Harvard University Press.=(ジョン・ロールズ、2010、川本隆史・福間聡・神島裕子訳、『正義論』紀伊国屋書店。)
- Rubin, Gayle, 1975, The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex, in Rayna Reiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York: Monthly Review Press; also reprinted in Second Wave: A Feminist Reader and many other collections.=(ゲイル・ルービン、2000、長原豊訳、「女たちによる交通 性の 「政治経済学」 についてのノート」『現代思想 特集=ジェンダー 表象と暴力』青土社。)
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